ホテルのロビーで、私は十年前に別れた元彼女と偶然再会した。「あら、もしかしてエイジ君?」その声に振り返ると、彼女は隣の男に腕を絡めて、かつて私を支えてくれた面影など微塵もない冷たい笑みを浮かべていた。「相変わらずしょぼい顔してるからすぐにわかったわ。何そのスーツ?…

ホテルのロビーで、私は十年前に別れた元彼女と偶然再会した。「あら、もしかしてエイジ君?」その声に振り返ると、彼女は隣の男に腕を絡めて、かつて私を支えてくれた面影など微塵もない冷たい笑みを浮かべていた。「相変わらずしょぼい顔してるからすぐにわかったわ。何そのスーツ?...

ロビーに足を踏み入れた瞬間、あの高級ホテルの空気が肌に張り付くようだった。所用の相手との約束にはまだ少し時間がある。俺は腕時計で時刻を確認し、適当なソファに腰かけようとした。その時だった。

「あら、もしかしてエイジ君とか?」

聞き覚えのある声に俺は振り返る。そこには十年前に一方的に別れを告げた元彼女のリエが、薄い笑みを浮かべて立っていた。

「うわあ、やっぱりエイジ君だ。何年ぶり? こんなところで会うなんてすごい偶然なんだけど」

彼女はそう言って言葉を切り、それから思わせぶりにこちらをじろりと見ると、ふんと鼻を鳴らした。

「相変わらずしょぼい顔してるからすぐにわかったわ。何そのスーツ? 弁護士のくせにそんな安物着てるの?」

俺の心臓が嫌な音を立てた。違う。そう言おうとして、でも言葉が出てこない。彼女の視線が俺の顔からスーツへと降りて、それからまた顔に戻る。

「まさか、まだ私に未練があるわけ? 違うでしょ、今更そんな気持ち悪いこと言わないでよ」

そんな言葉とは裏腹に、彼女は周りを見回すと、これまた聞き覚えのある名前を呼んだ。

「ケイタさん、ねえ、こっちへ来てくれない?」

現れたのは、リクルートスーツに身を包んだ、いかにも意識の高そうな男だった。リエがそいつを見上げて、嬉しそうに笑う。

「あのね、今ね、昔の知り合いに会っちゃったの。ほら、前に話したでしょ、私が昔付き合ってた弁護士志望の男の人がいるって」

男が俺を見下ろすように一瞥する。

「ああ、彼か。で、弁護士にはなれたのかい?」

リエが勝ち誇ったように口を挟む。

「それがね、全然。受験からも逃げ出しちゃったんだって、この人」

男は興味なさそうに鼻で笑うと、リエの肩を抱き寄せた。

「はあ、そういう負け組なのか。まあ、俺みたいに弁護士になれる素質がないってことだろ。立ち話もなんだし、もう行こうぜ」

俺は何も言い返せずに、ただ二人の背中を見つめることしかできなかった。あのリエが、あんなに明るくて優しかったリエが。高校時代、俺の夢を真剣に応援してくれたあの頃のリエが、どうしてこんな風になってしまったのか。いや、違う。変わったのは俺の方なのか。

俺の名前は大西エイジ。子供の頃から弁護士に憧れていた。きっかけは当時流行っていたドラマで、その中に登場する弁護士が子供心にとてもかっこよく見えたのだ。弱気を助け強気をくじく。幼い頃に感動した正義に突き動かされ、俺はそのまま中学高校と進み、大学も難関の法学部を目指していた。勉強はそれほど苦ではなかったので成績はいつも高い水準で安定し、担任からも合格間違いなしと太鼓判を押されていた。

高校三年の夏。受験生にとっては大事な時期だったが、いい息抜きになると、友人に海へ誘われることになった。メンバーは友人と俺、そして友人の彼女とその友達。友人の彼女とは俺も顔見知りだった。そして、その彼女が連れてきていた女の子、川口リエ。清楚で明るい印象の彼女と、俺たちはダブルデートのような雰囲気の中で楽しい時間を過ごした。ただ、その時はまだ、俺の中でリエは友達の一人という意識しかなかった。

だが、その後も勉強会を兼ねて四人で会うことがあった。その際に俺はリエに、弁護士を目指していて法学部を受験する予定だということを伝えていた。するとリエは「すごい、頭いいのね」と大げさなほど褒めてくれ、「私にできることがあったら何でも言ってね」と、ちょっと驚くくらい真剣に応援してくれるようになった。そして俺も、いつしかそんなリエの清楚な笑顔と献身に魅かれ、二人は自然な流れで付き合うことになった。

ところが、年が明けて受験を目前に控えた冬のこと。俺に思わぬ事態が起きた。

なんと俺は、ある日の下校時に駅で通り魔に刺されてしまったのだ。本当に突然の出来事だった。買い物帰りの主婦や、仕事中のサラリーマンで賑わう駅前の広場に、突然男が飛び込んできて、そのまま持っていた刃物を振り回し始めた。昼下がりのいつもの光景が一瞬にして混沌となる中、男に追いかけられて刺されそうになっていた学生を、俺は咄嗟に庇った。代わりに傷を負ったのだ。幸い、刃は内臓からずれていたため命に別状はなかったが、それでも傷はかなり深く、俺は長期入院を余儀なくされてしまった。

「こんなことが現実に起こるなんて」

俺は自分の身に起きたことが夢であるかのような心地のまま、ひたすら病院のベッドの上で白い天井を見上げていた。全治三ヶ月。今は絶対安静を命じられているので、もちろん受験なんてできるわけもない。家族は「命があるだけでも良かった。受験はまた来年チャレンジしたらいい」と言ってくれているが、俺としては子供の頃からずっと憧れている弁護士への道が遠くなったことに、少なからずショックを受けていた。

そんな時に母親が持ってきてくれた俺の携帯電話が、メッセージの着信を知らせた。必死に動く腕で携帯を持ち上げると、立て続けにリエからのメッセージが入っていた。

ああ、そうだった。刺されて目を覚ました時にはもうこの状態で、今までリエに連絡することもできなかったのだ。あれだけ真剣に俺の夢を応援してくれていた彼女なら、急に連絡が途切れた俺のことを、さぞ心配していることだろう。そう思い、ずきずきと疼く痛みを堪えながらリエからのメッセージを開く。

そこには「受験はどうなったの?」「手応えはあった?」など、俺の受験の行方に関することばかりが並んでいた。リエは多分、俺がこんな状況に陥っていることをまだ知らないのだろう。それでもこのメッセージを読む限り、まるで彼女が俺の受験の一喜一憂だけにしか関心がないようにも見て取れた。そのことを不審に思いながらも、あの献身的なリエのことだ、もしかしたら気が急いでこんな書き方になったのかもしれないと、そう思い直すことにした。俺は一文字一文字、痛みを堪えて「受験は断念した」と返信する。

そうして続けて理由を送ろうとした矢先、リエからさらなるメッセージが飛んできた。開いたメッセージ画面には、あの明るく優しいリエとは思えないような素っ気ない文章で、こうだけが書かれていた。

「もう別れる」

さらに続けて着信があり、「弁護士の卵だと思って付き合ってたのに、法学部の試験からも逃げ出すようなバカには用がない」とひどい言葉が並ぶ。そして極めつけは、「弁護士になれないあんたに価値はない」という、取りつく島もない言葉だった。

「えっ……」

俺の口からは、思わず間抜けな声のようなものが漏れた。これは本当にリエが書いたものなのだろうか。何かの間違いではないのか。痛みに悶えながら、俺は彼女へさらにメッセージを打つ。だが、それは「宛先不明」とエラーで返ってきてしまった。何度繰り返しても結果は同じ。十回目にして、ようやく俺は自分が相手に着信拒否されていることに気付いた。そういうことか。正当な理由があったとはいえ、法学部を受験することすらできなかった俺は、こうして彼女にあっさりと振られてしまったのである。

それから、あっという間に十年が経った。家族に支えられながら必死でリハビリを頑張ったおかげで、後遺症もなく、今では再度の合格を目指して、それこそ命を燃やし尽くすような日々の中、学業を続け、無事弁護士としての道を歩んでいる。あの日、リエが言った「弁護士になれないあんたに価値はない」という言葉。その言葉が、どれだけ俺を傷つけたか。けれど、その一方で、今の俺があるのは、あの言葉があったからだという部分も、確かにあった。

その日、俺は所用でオフィスから近い場所に立つ高級ホテルのロビーを訪れていた。約束の時間にはまだ早い。ソファに腰かけようとした時、あの声が聞こえたのだ。

リエは、隣の男にすがりつくようにして、まだ言葉を続けている。

「ねえ、驚いたよ。昔は本当に気の合う仲だったんだけどさ、こういう風に実力の差を見せつけられると、昔の自分が恥ずかしくなるよね」

男がリエの肩を引き寄せ、俺を見下すようにして笑う。

「そうだな。俺もお前みたいな負け組の気持ちはわからなくもないけどな。でもまあ、努力が足りなかったってことだろ。俺みたいに才能があるやつには、お前の気持ちはわからなくてな」

男の言葉に、リエが満足そうに微笑む。その顔を見た時、俺の体は、十年前のあの日、病院のベッドで、リエからのメッセージを読んだ時のことを強く思い出していた。涙すら出なかった。ただ、ぽっかりと胸に穴が開いたような、そんな感覚。

「ねえ、エイジ君」

リエが俺に顔を近づけてくる。隣に立つ男には聞かせたくない本音を、わざわざ言い聞かせるように。

「今のあんたに、私の気持ちがわかる?」

彼女の目は、十年前までなら、きっと何かを言いかけてはっと口を塞いで、悲しそうに笑って、そんな彼女の態度を俺は黙って見つめることしかできなかった。

「リエ、そろそろ行こう。この人と話してても無駄だろ」

男がそう言って、リエの腕を引っ張る。振り返り様、リエはもう一度だけ、俺を見て、ふっと鼻を鳴らした。それは、完全に見下した視線だった。そして二人は、何も言わずにエレベーターの奥へと消えていった。

ロビーに静寂が戻る。ソファに深く座り込んだ俺は、目の前にあったローテーブルの上に、うつむき加減で置かれたビジネスマガジンの端を、意味もなく指でなぞりながら、昔を思い出そうとしていた。リエのあの笑顔も、あの声も、まるで昨日のことのように思い出せるのに、それなのに、目の前にいた彼女は、十年前の面影を全く感じさせなかった。

あの時、もしもリエがもう少しだけ俺の気持ちを考えてくれていたなら。あるいは、俺が刺されて入院していたことを知った上で、それでも尚、あんなことを言ったのなら。それとも、あれこそがリエの本心で、俺は最初から、その感情に気付けないほど鈍感だったのだろうか。

肘掛けに置いていたスマートフォンが、画面の明かりを灯す。取引先からのメッセージだ。俺は深く息を吐き、立ち上がった。そして、きちんとスーツの襟元を直すと、そのまま待ち合わせ場所へと足を向けた。もう、二度と彼女に、過去を引き摺る姿を見せるつもりはなかった。それに、彼女をむざむざと負け惜しみで終わらせるつもりもなかった。いつか、またどこかで会うことがあったなら、その時は、この十年間の努力の結果を見せてやればいい。何も、昔のままではないのだということだけは、わかってもらえるように。

約束の人物が、こちらに向かって手を挙げるのが見えた。俺も小さく手を挙げて応える。その時、自然と口元が緩んでいる自分に気付いた。もう、後悔はしていない。これから始まる一日が、きっとまた、いつかの未来の自分を作るのだから。

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