その日、商談の席で相手の男は俺の目の前で契約書を破り捨て、こう言い放った。「底辺企業がうちと契約するなんてありえない」。相手は輸入会社の社長の息子で、赤沼秀樹といった。俺は外食チェーンの社長をしている工藤正明、四十七歳。質の高いパスタを仕入れるために訪れただけだったのに、なぜかそこまで侮辱されなければならなかったのか、今でも理解できない。営業部の社員が必死に頭を下げる横で、俺は拳を握りしめ、…

その日、商談の席で相手の男は俺の目の前で契約書を破り捨て、こう言い放った。「底辺企業がうちと契約するなんてありえない」。相手は輸入会社の社長の息子で、赤沼秀樹といった。俺は外食チェーンの社長をしている工藤正明、四十七歳。質の高いパスタを仕入れるために訪れただけだったのに、なぜかそこまで侮辱されなければならなかったのか、今でも理解できない。営業部の社員が必死に頭を下げる横で、俺は拳を握りしめ、...

俺の名前は工藤正明、四十七歳。外食チェーンの社長を務めている。

あの日、俺はイタリアン強化のためのパスタ仕入れ先の商談に向かった。相手はパスタ専門の輸入会社で、先方からは社長の息子が出るという。エリート気質で癖のある性格だとは聞いていたが、まさかあそこまでとは思わなかった。

「御社のパスタが欲しいとか」

初対面のくせに、彼はこちらを見下すような目で資料をめくりながら言ってきた。赤沼秀樹。それが奴の名前だった。

俺が「質の高い製品を扱っていると伺ったので」と答えると、秀樹は鼻で笑った。

「ええ、うちのパスタは良いものしか扱っていませんよ。でも、そちらと取引するとしたら、うちにはどういったメリットがあるんですかね」

言っていることは理解できる。だが、その言い方はあまりにも失礼だった。それでも俺は心を落ち着けて応じた。

「うちは成長し続けていますし、これからも売上が見込めると考えております。御社のパスタも良い宣伝になるかと」

「そうですかね。いただいた資料を読ませてもらいましたけど、取引はちょっと難しいかな」

営業部の社員が焦って理由を尋ねると、秀樹は平然と言った。

「費用が納得いかないんですよ。これでは取引できません」

「しかし、わが社としましてもこれが限界なのですが」

「費用だけじゃない。他にも納得できない点が多い」

次の瞬間、奴は契約書を俺たちの目の前で破り、ゴミ箱に捨てたのだ。

「ちょっと待ってください。いくらなんでもそれはないでしょう」

俺がとっさに声を上げると、秀樹は虫ケラでも見るような目で言った。

「一応会ってやったが、こんな吐き気がするような契約なんて結べない」

営業部の社員が「資料を作成し直しますので」と必死に言うと、秀樹はさらに冷たい声を落とした。

「底辺企業がうちは無能とは契約しないぞ」

つまり、資料を作り直しても無駄だということらしい。

「いくらなんでも、そんな言い方はないのではないでしょうか」

「本当のことを言ったまでだ」

「なぜそんなことを言うんですか。わが社に恨みでもあるんですか」

「どうせうちの会社には叶わないだろうって話だよ」

俺はその言葉に怒りが込み上げた。わが社は奴の会社と競合しているわけでもない。何をされたわけでもないのに、なぜここまで侮辱されなければならないのか。

その時、秘書の朝倉が「どうしますか」と俺に問いかけた。

実は俺はこの会社の社長だ。元社長に可愛がられて五年前に専務に昇格し、二年前から社長職を任されている。イタリアン部門を強化するため、このパスタの仕入れを決めたのも俺だった。朝倉は歴代社長の秘書を務めてきた女性で、俺が社長になってからもずっと支えてくれている。美人で有能な、頼れる秘書だ。

俺は秀樹の顔を見ながら言い放った。

「こいつの会社、潰すよ」

「潰すだと? ちゃんちゃらおかしいな」

奴は笑った。俺は本気だ。

「冗談で潰すなんて言えるわけがない。わが社をコケにしたんだ。思い知ってもらうさ」

そう言い残して、俺は朝倉たちを連れて部屋を出た。

俺としては良質なパスタが手に入ればそれでいい。秀樹の会社にこだわる理由はなかった。だが、あんな侮辱をされて黙って引き下がるわけにはいかない。

会社に戻った俺は、すぐに朝倉に秀樹とその会社について調べさせた。弱点を探るためだ。

すると、意外な事実が判明した。秀樹が社員に「あの会社のファミレスに昔の彼女と行ったことがあるんだよ。そこで振られたんだ。俺にはいい思い出がない」と話していたらしい。それを聞いたのは、秀樹を良く思っていない社員だった。

それをいちいち社員に話すのもどうかと思うが、まさか昔振られたというだけの理由で、あんな暴挙に出たというのか。まったく幼稚極まりない。

秀樹は社長の息子という立場を笠に着ているらしく、傲慢な面が目立ち、社員たちにも煙たがられているようだ。父親である赤沼洋一郎社長は温厚な人柄で社員から慕われているらしいが、可愛がるあまり、息子の傲岸不遜さを止められずにいるようだった。

俺は朝倉と共に再び秀樹の会社を訪れた。今度は社長と話をするためだ。

応接室に通され、お茶を飲みながら待つこと十分ほどで、赤沼洋一郎社長が現れた。俺が先日商談をさせてもらった企業の社長だと名乗ると、社長は穏やかな表情で「どういったご要件でしょうか」と尋ねてきた。息子の暴言はまだ伝わっていないようだ。

「残念ながら、御社とは契約に至ることが叶いませんでした」

「そうですか……」

「ただ、ですね」

俺は続けた。

「商談の際、秀樹さんにわが社のことを『底辺企業』と呼ばれまして」

社長の顔色が変わった。

「え、それは本当ですか?」

「本当です。それに『うちは無能とは契約しない』とも言われました」

「なんですって……」

そう言って、俺は携帯電話を操作した。流れてきたのは、わが社を罵倒する秀樹の声だ。朝倉が密かに録音していたものを俺の端末に転送してもらっていた。動かぬ証拠だ。朝倉には感謝してもしきれない。

音声を聞いた社長は顔を青ざめ、目を見開いて言葉を失っていた。息子が商談の場であんなことを言っていたとは、夢にも思わなかったのだろう。ビジネスの場であからさまに相手を攻撃するなんて、ありえない話だ。商談には互いのリスペクトが必要だ。

社長は顔をくしゃくしゃにしながら「誠に申し訳ございませんでした」と何度も頭を下げた。確かに社員である息子の責任は社長にもあるだろう。だが、俺が謝ってほしいのは彼ではない。

「わが社は、けなされるような会社だとは思っておりません」

俺がそう告げると、社長は「それは十分に存じ上げております」と言い、「息子にも謝罪をさせますので」と言って、秀樹を呼び寄せた。

少し待たされて、渋々やってきた秀樹は、俺の顔を見て一瞬驚いたようだったが、すぐにふてくされた顔で椅子に座った。

「何ですか」

社長が激怒して怒鳴った。

「何ですかじゃない。お前は何をしたか分かっているのか」

「だから、何のことですか。分からないんですけど」

秀樹はしらを切った。

「こちらの会社との商談で、失礼なことを言ったそうじゃないか」

「ああ、あれか。気に食わない会社なんだから、しょうがないだろう」

悪びれもせず言い放つ秀樹に、社長はさらに怒鳴った。

「何を言ってるんだ。失礼にも程があるだろう。立場を弁えろ」

「こちらの社長に、早く謝りなさい」

それでも「ええ……」とぐずる秀樹に、社長はついに拳を振り上げた。秀樹は慌てて両手で頭を押さえた。

「分かった分かったよ。謝ればいいんだろ」

秀樹はこちらを向いて「すみませんでした」と仕方なさそうに言った。その目が、内心では「なんで俺が謝らなきゃいけないんだ」と思っていることを如実に語っていた。

謝罪の様子を見届けた社長は、改めて深々と頭を下げた。

「本当に申し訳ございませんでした。パスタにつきましては、安くお譲りさせていただきますので」

形だけとはいえ謝ってもらったものの、すでにこの会社への信頼は失われていた。

「ありがとうございます。でも、結構です。もう御社とは縁がないと思いますので」

「いや、そうおっしゃらずに。もう一度機会をお願いいたします」

社長は必死に食い下がったが、答えは変わらない。

「申し訳ありませんが、今後は御社と取引をさせていただくことはございません」

社長はがっくりと肩を落とした。すると、秀樹が今度は俺に向かって吠えた。

「謝っただろう。考え直してくれてもいいだろうが」

「拍子にということで。これで失礼します」

俺は朝倉を伴って、部屋を出た。

俺の秀樹への復讐は、これで終わりではない。

その後、俺は朝倉に指示して秀樹の愚行をファミレス業界に広めさせた。そして、関係のあるファミレスの会社に対して、秀樹の会社との取引を行わないように通達させたのだ。うちは業界でも知名度が高い会社だ。この一報が広がれば、秀樹の会社は業界の主要な取引先を失うことになる。

秀樹はうちの会社の知名度を知らなかったらしい。レストランには来たことがあるようだが、それだけだ。せめて時期社長を目指すなら、取引先のことをもう少し調べておくべきだったな。

噂は瞬く間に広がり、秀樹の会社は他のファミレスの多くとも取引ができなくなった。品物の仕入れすら難しくなり、業務が滞って経営不振に陥った。

それは俺の狙い通りだ。

もう関わることはないと思っていたが、数日後、秀樹から電話がかかってきた。

「おい、一体どういうことだ」

突然の怒声に、俺は冷静に答えた。

「何のことですか」

「お前だろうが。うちの邪魔してくれたの」

「証拠でもあるんですか」

「そんなもんあるわけないだろうが。お前がやったに決まってる」

「そうですか。でも、俺にあんな態度を取らなければ、こうはならなかったですよね」

「うるさい。うちの会社が潰れそうなんだ。どうしてくれる」

俺を怒らせると怖いと、身を持って知るがいい。

「知ったこっちゃないですよ。あなたの責任でしょう」

そう言って、電話を切った。その後も着信が続いたが、俺が出ることはなかった。やがて、諦めたのか、それきりかかってこなくなった。

ほどなくして、秀樹の会社は資金繰りにも行き詰まり、倒産した。俺の思惑通りだ。秀樹自身も職を失い、路頭に迷うことになった。社長は従業員の処遇に奔走し、大変だったようだ。

秀樹は会社の後始末に追われていたが、それでも自分を養っていかなくてはならない。最初はプライドが邪魔をしていたようだが、結局は夜間の道路工事の警備を始めたという。

彼は今、どんな気持ちで働いているのだろうか。わが社にしたことをしっかり反省してほしいものだ。しかし、あの男に長く続けられる仕事だろうか。

案の定、秀樹は数週間で警備の仕事をやめてしまったらしい。「こんな仕事やってられるか」と思ったのだろう。そんな心持ちでは、どんな仕事も続かない。さらに、秀樹は妻からも愛想を尽かされそうになっているという。今は職安に通う日々を送っているそうだ。

今度こそ、心を入れ替えてほしいものだ。

一方、俺は新たなパスタの仕入れ先を開拓した。知り合ったイタリア人の協力で、現地から直接輸入できるようになったおかげで、イタリアン部門は好調だ。

そして、その頃からだろうか。どういうわけか、俺は朝倉と恋に落ちていた。

俺は仕事一筋できて、この年まで独身だった。朝倉も美人なのに独身だという。彼女ほどの美貌なら、男なんて放っておかないだろうと思っていたが、なぜ結婚しなかったのか。

彼女自身の言葉によれば、理由は俺だったらしい。

「ずっと社長のおそばにいたかったので、打ち明けられませんでした」

彼女はこう言った。部下と上司の関係だから、言えなかったのだろう。気持ちを明かすことで、関係を壊したくなかったのかもしれない。

朝倉が俺に気があるそぶりなんて、今まで一度も見せたことがなかったから、知った時は驚いた。だが、彼女の思いを知ってから、俺も彼女を意識するようになった。

俺は、これからの未来を朝倉と共に生きていけたらと思っている。あの傲慢な男が失ったものを思えば、今の俺は幸せだと言っていいだろう。

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