俺にはちょっと変わった妻がいる。「ありの観察」と言って、二時間も庭を眺めているような女だ。それでもいつも俺の近くにいてくれて、話も聞いてくれる。俺にとって、かけがえのない大切な妻だ。
結婚して四年になる。未だに何を考えているのか分からない時もあるし、笑いの壺もずれている。怒った顔を見たこともないし、泣いているところも見たことがない。変わり者だけど、いつも美味い飯を作ってくれて、笑顔で俺の話を聞いてくれる。そんな優しい妻は、俺にとって世界で一番大切な存在だった。
俺の名前は町田朝日。中学の頃に両親が離婚して、父とも母とも暮らしたくなかった。だから母方の祖母の家に引き取られることになった。俺は祖母の家から学校に通い、高校卒業後には介護士になった。ばあちゃんのことを、死ぬまで面倒を見たいと思ったからだ。
担任に相談すると、「なら一流の介護士になって、ばあちゃんを喜ばせてやれ」と言ってくれた。ばあちゃんは「あんたはバカだね。年寄りのことなんか気にせずに、自分がやりたいことをやればいいのに」とため息をついていたが、どこか嬉しそうだった。「だから俺のやりたいことをやったんだってば。俺のやりたいことは、ばあちゃんの世話をすることなんだから」と、俺は笑って返した。
就職した介護施設の調理場で働いていたのが香りだった。彼女は口数が少なく、黙々と働き続け、周りの人と会話をしているところを見たことがなかった。俺も含め、みんなは彼女を変わり者だと思っていた。
ある日の夕方、大きな地震がこの地域を襲った。その日夜勤担当だった俺は、入居者の夕飯が詰まったカートが全部ひっくり返っているのを見て驚愕した。
「どうすんだよ、これ」
すると外で自転車が止まる音がしたと思うと、その直後、香りが走ってきた。散らばった夕飯の床を見て、彼女は静かに呟いた。
「ああ、やっぱり」
「すみませんが、ここの掃除だけお願いしてもいいでしょうか?」
それだけ言い残し、彼女は調理場に消えていった。そして三十分も経たないうちに、十五人分のカレーを作り上げた。
「明日は親子丼にしようと思ってたから、鶏肉をたくさん下処理しておいたんです。だから今晩はチキンカレーです」
笑顔で盛り付けをする彼女に、俺は一瞬にして心を惹かれていた。
「ありがとうございます。助かります」
俺が頭を下げると、「そんなことは後にしましょう。まずは皆さんのお腹を満たすことが優先です」と彼女は言った。俺と同僚と香りの三人で急いでカレーを盛り付け、みんなに配った。その後、食べ終わった食器をものすごい速さで片付けると、自転車に乗って颯爽と帰っていった。
「あの人、すごいな」
同僚が口をポカンと開けながらそう呟くと、俺は隣で頷いていた。
その日以降、俺は香りのことが気になり、目で追うようになった。周りは無口だと言っていたが、挨拶をすればちゃんと返してくれるし、冗談を言えば笑ってくれる。俺はその笑顔が見たいがゆえに、時間を見つけては香りに会いに行っていた。
彼女に告白したのは、それから三ヶ月ほど後のことだ。季節の掲示板に貼ってあるお知らせで、香りの誕生日が六月だということを知った。
「あのさ、一緒に誕生日を祝いたいんだけど」
告白のつもりで行ったのだが、彼女はしばらく考えるようなそぶりを見せた。
「今日って、六月十日ですよね。私の誕生日は昨日だったので、あなたの言う誕生日というのは、来年の私の誕生日のことを指しているのでしょうか?」
彼女があまりにも真剣な顔で言ってくるものだから、俺は思わず吹き出してしまった。
「ああ、いやいや、ごめん。言い方が悪かったかな。俺、香りちゃんのことが好きなんだ。だから付き合ってほしい。一日遅れちゃったけど、誕生日を一緒に祝いたいなって」
自分でもびっくりするほどストレートに告白した。すると香りは顔を真っ赤にして、調理場まで走っていってしまった。置いて行かれた俺は、彼女を追いかけるべきかその場で悩んでいると、すぐに彼女は引き返してきた。
「私でよかったら、よろしくお願いします」
頭を下げてそう言う彼女に、俺は再び吹き出した。俺たちの交際はこうして始まった。
彼女は頻繁にうちに遊びに来るようになり、すぐに祖母と仲良くなった。祖母は「この子は若いのにパッチワークが得意なんだよ。手先が器用で何でも作ってくれるんだ」と言って、家にあった布切れを香りにあげていた。
それから二年が経ち、俺たちは籍を入れた。香りも家庭環境が複雑で両親と仲が良くなかったこともあり、結婚式は特に行わず、二人だけでゆっくり旅行をすることにした。
だが、俺は香りの指のサイズを間違えて結婚指輪を用意してしまった。交換してもらおうと言ったのだが、「大丈夫。薬指にしなきゃいけないルールなんてないんだから。それに大きい方が、なんだか得した気がするでしょ」と、彼女は笑いながら中指に結婚指輪をはめた。それが彼女らしかった。
香りは元々起立性調節障害を持っていて、その症状が悪化したのをきっかけに、俺は仕事をやめて家で療養することを勧めた。
「俺ももっと残業するつもりだし、最悪ばあちゃんの年金もある。贅沢な生活はできないけど、三人で暮らすだけなら十分だよ。だから今はゆっくり休んで、治すことを第一に考えよう」
「ありがとう。わかった。じゃあそうするね。でもそろそろ子供も欲しいし、何か家でできることを探してみる」
香りはそれ以降、祖母と作ったパッチワークの作品をネットで販売することを始めたようだった。
「おばあちゃんが古い着物の生地をくれたの。それが絹の生地ですごく素敵なんだ」
それからも祖母と香りは二人でクッションカバーや鍋敷きを作っていて、そんな二人を見ていると、俺の心は温かくなった。
ある日のこと、介護施設を辞めた元上司から連絡があった。
「なあ、真面目に聞いてくれ。お前、理学療法士になったらどうだ?」
元上司は資格を取得し、大学病院で理学療法士として働いていた。
「理学療法士になるには国家試験を受ける必要があるし、今から学校に通うとなれば時間も金もかかる。でも今の介護の仕事より給料はいいし、安定もするぞ。だから少しだけ頑張って、俺んとこに来ないか?そしたら俺が面倒を見てやる。ここの病院は待遇もいいし。お前ならきっとうまくやれるよ」
介護の仕事はやりがいもあるし、俺の好きな職業だった。だが調べれば調べるほど、勧められた理学療法士に興味が湧いてきた。試験を受けるためには最低でも三年以上専門学校に通わなければいけない。その分お金もかかるし、香りや祖母に迷惑をかけるのは嫌だった。
しかし元上司が言うように、長い目で見たら絶対に価値のある仕事だとも思う。もし祖母がリハビリを必要としても、俺が何とかしてあげられる。元上司から連絡を受けてから数日間、俺は一人でずっと悩んでいた。
そんな俺の気持ちをお見通しだったのは、やはり香りだった。
「朝日君、なんか悩んでるでしょう?」
「いや、悩みってほどでもないんだけどさ」
「嘘だね。私、知ってるんだから。朝日君が考え事をする時、すぐに無口になること。私にできることなんて全然ないと思うけど、話を聞くことならできるよ」
「俺だって話は聞けるよね」
そう言ったのは祖母だった。祖母はずっと側で俺たちの会話を聞いていたらしい。
「香りちゃん。ほら、おばあちゃんだっているんだから、怖いものなんか何もないでしょ」
俺は二人に見透かされていることを悟り、深呼吸をして話し始めた。
理学療法士になりたいと思っていること。それには学校に通う必要があること。時間はかかるが、将来のことを考えれば絶対に無駄にはならないと思っていること。自分で色々と調べてみたら、夜間にやっている専門学校もあるらしい。そうすれば残業はできなくなってしまうけど、今の仕事を続けながらでも通学できる。
「帰りが遅くなるから、今までみたいに家事の手伝いができなくなるし、休日は疲れて家でゴロゴロしちゃうかもしれない。それでも香りには今のまま家にいてほしいし、ばあちゃんにも負担をかけたくないと思ってる。めちゃくちゃ勝手なことを言ってるのは分かってるんだけど、だからこそちゃんとみんなに話してから決めたくて」
香りも祖母も、真剣な顔で俺の話を聞いていた。
「うーん。私は賛成だな。反対する理由が全く見当たらないし」
祖母も香りと同じ意見のようだった。
「二人の気持ちは嬉しいけど、お金も時間もかかるのは事実だからさ」
俺がそう言うと、香りはふっと口元を緩め、祖母の方を見た。
「香りちゃん、どうしたんだい?ひょっとして、もうあれを出すのかい?」
「おばあちゃん、今が絶好のタイミングだと思うよ」
すると祖母もニヤニヤしながら家の奥に消えていった。
「え?どうしたの?」
香りはまだ答えようとせず、しばらくすると祖母が何かを手に持ち、こちらにやってきた。よく見ると、それはパッチワークでできた小さなポーチだった。その中から取り出されたのは、通帳だった。
「ほれ、香りちゃん、説明してやりなさい」
そしてようやく香りが口を開いた。
「とりあえず、その通帳見てみてよ」
言われるまま通帳をめくってみると、そこには想像を絶するほどの金額が入っていた。
「なんとこれは、私とおばあちゃんのネット販売の売上金です」
「え、嘘でしょ?」
「嘘じゃないわ。最初は小物ばっかり作ってたんだけど、おばあちゃんがくれた着物の生地をリメイクして服を作ってみたの。そしたらそれがバズっちゃって、一瞬にして売れちゃったの。だからSNSでもちょっとした話題になったんだ」
「だから最近この子は人遣いが荒いんだよ。全く、年寄りを酷使して」
「おばあちゃん、ごめんって」
「ねえねえ、朝日君、ちょっとおばあちゃんの部屋を見てみてよ」
そう言われて祖母の部屋を見てみると、そこにはマネキンが三体ほど並んでいて、作りかけの洋服がかけられていた。ミシンも二台設置されていて、まるで小さな工場のようだった。
「香りちゃん、あのマネキンはなんとかならんのかね。夜中にトイレに行く度にびっくりしちゃうんだよ」
「ごめんね。朝日君にバレないように隠しておきたかったからさ」
香りは苦笑いでそう言った。
「だから、夜間だろうが昼間だろうが、大学だろうが専門だろうが何でもいいよ。朝日君が一番だと思う道を選んだらいいよ。これだけお金があれば、当分生活費も学費も賄えるでしょ。ここ最近は忙しくて、私もおばあちゃんもお金を使う余裕がなかったから、ちょうど良かった」
「さ、パッと使っちゃって」
祖母は深いため息をつきながら言った。
「香りは本当によくできた嫁だけど、ちょっと変わってるね。いい子なんだけどね」
「ちょっと、それってどういうこと?褒めてんの?」
俺たちは笑い合いながら、その日は三人で仲良く夕食を食べた。
こうして俺は、より高度な内容が学べるという理由で、大学で理学療法士の勉強を始めることにした。俺が家で勉強している間も、祖母の部屋からはカタカタと心地いいミシンの音がする。
「ああ、朝日君、今日って大学午後からだっけ?」
「うん、そうだけど」
「よかった。じゃあちょっと、このワンピース着てもらってもいい?ちょっとマネキンが足りなくて」
「え、ちょっと何すんだよ」
「やっぱり最後は実物で調整しないとさ」
「ちょっと長いんじゃないか」
「確かに。うーん。あと二センチだけ詰めるか」
今ではすっかり二人のマネキン係と化している大学生だが、俺は最高に幸せだ。結婚して四年、俺は今も変わった妻に振り回されながら、それでも確かに、この何気ない毎日を愛している。
