昼休みにコンビニで退職届用の白い封筒を買っていると、工場の島田さんに会った。「平井さん、まさか辞めるのか?」と聞かれ、午前中の出来事を話した。新社長の大沼が開発部に来た瞬間、彼は俺を見て笑いながら言った。「なぜ高卒を採用した?上場したから底辺は会社の恥だ」と。先代社長は学歴で人を判断しない人だったのに、俺はその日のうちに辞めると決めた。でも島田さんの顔を見て、ふと思ったんだ。これは俺一人の問…

昼休みにコンビニで退職届用の白い封筒を買っていると、工場の島田さんに会った。「平井さん、まさか辞めるのか?」と聞かれ、午前中の出来事を話した。新社長の大沼が開発部に来た瞬間、彼は俺を見て笑いながら言った。「なぜ高卒を採用した?上場したから底辺は会社の恥だ」と。先代社長は学歴で人を判断しない人だったのに、俺はその日のうちに辞めると決めた。でも島田さんの顔を見て、ふと思ったんだ。これは俺一人の問...

新社長の大沼が開発部に視察に来た日のことだ。俺はいつものように新商品のアイデアを練っていて、特に気を遣うつもりはなかった。見たいなら見せればいいし、こちらから何かを見せびらかすようなものもないと思っていた。

午前十時、大沼が開発部に姿を現した。開発部長の石川が入口に駆け寄り、ぺこぺこと頭を下げている。俺はそれを見ながら、自分の机で図面とにらめっこしていた。

しばらくすると、不意に人の気配を感じて顔を上げた。そこには大沼が立っていた。いきなりのことで面食らう。

「君が高卒で我が社に入った平井君かね」

「はい、そうですが」

すると大沼は何がおかしいのか、俺を見て笑い始めた。そして俺を採用した石川に向かって、こう言ったのだ。

「なぜ高卒を採用した? 上場したから底辺は会社の恥だ」

石川は「大変申し訳ございません」と頭を下げた。俺は何のことかと呆然とした。確かに会社は少し前に上場したが、それと俺が高卒であることとにどんな関係があるというのか。俺は物づくりに精を出していればそれでいいはずではないのか。

「出ていけ。ここはお前のような高卒社員がいる場所ではない」

「お言葉ですが、この会社には高卒が結構いますよ。全員に出ていけというつもりですか?」

「平井君、社長のおっしゃることに何を言い返すんだ」

「ああ、その通りだ。中卒や高卒社員には出ていってもらう」

大沼は学歴主義者だった。俺はふうんと思った。同時に胸くそが悪くなった。先代の社長はそんなことを口にする人ではなかった。どんな学歴であっても受け入れてくれる人だったのに。

「じゃあ退職します」

即断即決だった。これからずっと邪魔者扱いされるくらいなら、いっそ辞めた方が楽になれるだろうと思ったのだ。

俺はその日中に退職届を出すことを社長に約束し、昼休みになると会社近くのコンビニへ向かった。白い封筒と便箋を買うためだ。

「平井さんじゃないか。昼に会うなんて珍しいな」

レジの前に並んでいたのは工場の島田だった。彼はカップ麺とおにぎりを手にしている。交代で昼休みを取る島田と俺の昼休みが重なるのは確かに珍しいことだった。

「昼飯を買うんじゃないのか」

島田は俺の手元を見て、何に使うんだと尋ねた。

「退職届を書くんですよ」

俺はなるべく軽い調子で言ってみたが、島田はごまかされなかった。

「退職? 平井さん、あんた退職するのか?」

俺は少しの沈黙の後、午前中に起きた出来事を島田に話した。

「高卒以下は今の会社にはいらないそうですよ」

島田はひどく驚いた。

「冗談じゃねえ。俺ら工場なんて、大卒なんか数えるくらいしかいないってのに。新社長は俺らも切り捨てるつもりなのか」

大沼が工場の人員についてどう考えているのかは知らない。だが俺に言ったことが本音なら、工場の人間にも同じことを言うはずだ。

「正しい選択をしてくださいね、島田さん」

「それはあんたと同じく退職しろってことか」

「そうは言いませんが」

独身の俺と違って、島田には家庭がある。闇雲に退職しても次の仕事が決まっていない状態では生活が苦しくなる一方だろう。

「難しいですよね」

結局、どうするのが最善かは他人じゃなく自分で決めることなのだと思った。

それにしても、社長というのは偉いものだと思った。たった一言で人の人生を変えてしまうくらいの権限を持っている。その分責任も重大なのだろうが、それは俺の知ったことではなかった。

俺は開発部に戻ると退職届を書き始めた。誰に見られても構わなかった。机の上に便箋を広げ、堂々と書き上げ、白い封筒に退職届と書いて石川に届けに行った。

「本当にやめてしまうのか? さっきのは売り言葉に買い言葉に聞こえたぞ」

石川は上には媚びる傾向があるが、部下に対して意地悪な人間ではない。大沼の言い分が全面的に正しいとは思っていないようだった。だが俺と石川が話していると、外から戻ってきた社員が驚くべきことを口にした。

「大変だ。人事の前に長蛇の列ができているぞ」

嫌な予感がして、俺は人事部へ走った。後ろから石川の声が追いかけてきたが、今はどうでもよかった。

人事部の前には、思った通り工場の正社員たちが列をなしていた。そして列の一番前にいたのは、工場長の島田だった。

「島田さん、こんなところで何してるんですか?」

「何って、退職しようとしてるんです。人事が社長に問い合わせるから待てって言われて待ってるんですよ」

話を聞けば、大沼はあれから工場にも足を運び、学歴主義について語ったのだという。俺のように出ていけとは言われなかったが、工場の社員たちにも邪魔な存在だと言ったのだそうだ。

「そこまで言われて働く義理はねえんだよ。なんたって俺たちは邪魔なんだからな」

まったく、大沼という社長は何を考えているのだろうと思っていると、人事の社員が一人出てきた。

「皆さん落ち着いてください。今、大沼社長がこちらへ来るとのことですのでお待ちください」

「俺たちは大沼社長と話がしたいんじゃなくて、退職届を受け取れって言ってんだよ」

島田の声が荒くなる。大声で言い合っていると、大沼が慌てて人事部に駆けつけた。

「これはどういうことなんだ? 島田工場長」

「どうもこうもないでしょう。あんたが俺らを邪魔者呼ばわりするから退職しようってんです。あんたにとっては嬉しいことなんじゃないですか」

「待ってくれ。君たち全員にやめられたら製造ラインが動かなくなってしまう」

どうやらそれは見越していなかったらしい。大沼は押し切られた。島田たちの数の勝利と言ってもよかった。人事は工場在籍者の四十名から退職届を受け取り、受理することになった。俺の退職届も石川経由で人事部へと渡されていった。

これからどうしようかとは考えていなかった。俺はその日は寝て、次の日になったら今後の身の振り方を考えることにした。

ふと、特許商品のことが頭をよぎった。俺が特許を取った商品がまだ製造されている。あのラインを止めてもらい、販売も中止してもらわなければならない。この時、会社側が特許に気づいて製造販売を中止してくれるだろうと、俺は勝手に思っていた。

退職してから一週間、俺は特に何もせずにだらだらと過ごしていた。会社からは離職票や雇用保険の案内などが届いていたが、開封する気もなくテーブルに置いておいた。そんな生活を続けるわけにもいかず、求職活動をするために栄養をつけなければとスーパーに買い出しに出かけた。

すると、俺が開発した髭剃りが店頭に並んでいるのを見つけたのだ。敏感肌用の髭剃り。俺はこれについて特許を取っている。会社はこの製品をもう作ることも販売することもできないはずだった。

「なんで出回っているんだ?」

もしかしたらこのスーパーだけで売っているのかと思い、隣のドラッグストアにも足を運んでみた。こちらでも普通に売られていた。

おかしい。会社は特許のことを知らないのではないか。俺は真っ先に社長の大沼を疑った。

会社の代表番号に電話をし、大沼につないでもらえるよう交換に頼んだ。少し待つと、大沼が電話に出た。

「ああ、開発にいた高卒か。あんな脅しで退職するとは、随分と根性がないじゃないか」

「そんなことはどうでもいいんです。今日は俺の特許商品についてお伺いしたくて電話をしました」

「特許? 高卒のお前が? 笑わせるな」

「特許に高卒も関係もないでしょう」

詰め寄ると、大沼は電話の向こうで黙り込んだ。

「俺の特許のことを知らなかったんですね。だったら今すぐ製造も販売も止めてください。このことを受け入れていただけないのであれば、こちらは弁護士を立てます」

その夜、俺は一つの考えについてあれでもないこれでもないと頭を悩ませていた。俺には前職だけでなく他の会社でも特許を取った経験があり、普通の社員よりは収入も貯蓄もある。それを会社の経営資金とできないだろうか。

高卒だ大卒だとうるさく言われるのであれば、いっそ自分が雇う側に回ればいいのではないか。俺はこの考えが客観的にどう思われるのか、同じ日に退職した元工場長の島田に電話してみた。

「おお、平井さんか。もう転職先は見つかったのか?」

「まだですよ」

そう答えた後、自分が会社を起こすという考えについてどう思うか、島田に尋ねてみた。

「ああ、いいんじゃないかな。平井さんは天才的なひらめきがあるし、案外会社を起こしたら繁盛するかもしれんな」

「本当にそう思いますか?」

「もちろんだ。まあ、もし会社を立ち上げるようなことがあれば声をかけてほしいですな」

そこで電話が切られそうになったが、俺は全力で止めた。そして電話口で大声で言った。

「島田さん、やりましょう。学歴に囚われない実力主義の会社を立ち上げましょう」

それから俺たちは力を合わせて会社を立ち上げた。初めてのことで分からないことだらけだったので、弁護士や経営コンサルタントのアドバイスに耳を傾けた。全てが滞りなく進み、俺の全財産を投資して念願の会社を設立した。

学歴で差別しない、差別されない。その理念のもと、ようやく俺たちの会社ができた。俺と島田はしっかりと握手を交わした。学歴主義を徹底的に排除した新会社にすべく、俺が社長、島田が副社長として登記した。島田は副社長と言っても現場にいたいということなので、建設中の工場が完成すればそちらに入り浸るようになる予定だった。

とうとう初出社の日を迎えた。まだ社内に従業員は少ないものの、俺が彼らの生活を支えるのかと思うと表情が引き締まる。オフィスに出社すると、今日は早速やらねばならないことがあった。

社長室の前には、この会社の顧問弁護士である相川裕子が待っていた。

「相川先生、おはようございます。お待たせしてすみません」

「大して待っていませんよ。社長、参りましょうか」

俺たちは連れ立って、以前の会社の社長室へと向かった。俺の特許を未だ使い続けているあの会社へ。ビルの最上階に着き、社長室のドアを二度ノックする。返事を聞いてドアを開けると、大沼は面食らったように俺を見た。

「君は……」

「そうか、君が平井だったのか」

どうやら大沼は誰が来るのか分からないまま予定を入れていたらしい。

「自分が首にした社員のことなど、いちいち覚えていませんでしょう」

俺は皮肉を込めて返した。

「社長、特許製品の製造販売を止めてください。この相川弁護士の名前で警告文が発行されていたはずですが、まさかまだ作っているのではないですよね」

「君、あれはうちの主力商品なんだぞ。やめたらどうなるのか分からないのか?」

「特許を取っているのは私です。あなたが恥扱いした、高卒の私の特許商品です。お返しいただきますよ」

相川が損害賠償金について話を進めると、大沼はギブアップするしかなかった。

「次なる特許でも見つけて儲かるといいですね。では」

俺と相川が社長室を出ようとすると、スラックスの裾を引っ張られて転びそうになった。振り返ると、大沼が床に膝をついて俺のズボンを引っ張っている。

「君に、我が社に戻ってきてほしい。君は他社の商品でも特許取得した過去があるそうじゃないか」

「私は高卒ですが、あなたの会社に底辺は必要ないとおっしゃっていましたよね」

「だからそれが悪かったと言っている。君ほどの逸材を切り捨てた私が愚かだった」

「そのセリフ、俺が退職する前に聞けたら良かったんですけどね」

俺はそう言って、社長室を後にした。

「平井社長は、本当に底辺なんて言われたんですか?」

大沼の口の利き方に、相川はなかなか信じられない様子だった。

「私も仕事柄いろんな会社の方とお話ししますけど、大沼社長のような学歴主義にはなかなかお目にかかれませんね」

それから大沼は俺への損害賠償金を支払うと同時に、特許商品の製造販売を止めた。そうすることで、大沼の会社は一気に経営危機へ陥った。

「平井君、助けてくれ」

主力商品の製造販売が取りやめになったことで、大沼の会社には金が入らなくなった。売上は下がり、資金は枯渇し、やがて手形を二度不渡りにしたことで倒産となった。

「時間の問題だとは思っていたが、本当に倒産しちまうとはね」

大沼の会社が倒産したことで、島田も少しはショックを受けているようだった。

「特許に頼った経営は危険ですね。うちはあの会社の失敗を教訓にして、一つの商品に頼りすぎる戦略は避けるようにしましょう」

「そこは心配してねえな。なんたってうちの社長は特許取るのが得意だもんな」

「からかわないでくださいよ」

俺が笑うと、島田も「謙遜しなさんな」と俺をからかってきた。

倒産を受け、俺の会社にはその被害が波及していた。仕事を失った従業員たちがうちの会社にこぞって応募してきたのである。だが、その中で一番びっくりしたのは、大沼が応募してきたことだった。書類審査で突っぱねたのだが、なんと俺の会社のビルで直接会わせろと騒いだそうで、やむなく社長室で面接をすることにした。

まず履歴書と職務経歴書を拝見する。書類には、名門私立大学を出て以前働いていた職場で十年ほど修行してから社長に就任したとあった。

「嘘偽りはなさそうだな」

俺は応募書類を机の上に置いた。

「では大沼さん、簡単な自己紹介をお願いします」

「大沼義博、五十歳、以上」

「い、以上ではなくてですね、あなたの今までのことをこの書類に肉付けして教えていただきたいんです」

「そんなことはすでに書類に書いてあるだろう。高卒の君には読み取れんのかね」

また学歴主義が始まったなと、俺は内心ため息を吐いた。

「大沼さん、うちは実力主義なんです。あなたより若い方があなたの上に立つこともありますし、中卒の方と机を並べていただくことだってあるんです。そういうことに耐えられますか?」

「中卒なら高卒認定を取ればいい。高卒なら大卒認定を取ればいい。そういう努力をするのなら、俺は認めてやってもいい」

俺は自分の表情がこわばるのを感じた。こちらが何度実力主義と言ったところで、大沼は学歴主義に書き換えようとする。面接するだけ無駄だなと判断し、なぜ俺を採用しないんだとわめく大沼を警備員に連れて行ってもらった。

この話を島田にすると、彼は腹を抱えて笑っていた。

念願の工場が完成すると、俺と島田は新しい工場に足を踏み入れた。少しオイルの匂いが気になるが、どこか懐かしい光景だ。俺は新商品の図面をいくつか持ってきており、その中には特許を取ったものも入っている。今はまだ全商品を生産ラインに載せられないが、少しずつ設備投資を重ねて大きな工場へと育てるつもりだ。

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