「貧乏人がこのエリート銀行員様に意見できる立場だとでも思ってんのか」
そう叫んだ男は、酔いと怒りで震える手でテーブルの上の日本酒のグラスを掴むと、勢いよくそれを俺の頭にぶちまけた。冷たい酒が髪を伝い、顔を滴り落ちていく。ここまでするのか。俺は何も言わずに、ただ静かに滴る滴を見つめていた。
慌てた店員がすぐにお絞りを持ってきてくれた。男の連れの連中も、まさかの行動に戸惑っているようだった。そんな中、男だけは愉快そうに笑っている。
「どうだ?少しは頭が冷えたか?俺に勘違いしたことを反省しろ」
俺が何か言い返す前に、ずっと黙ってこの様子を見ていた弟が呟いた。
「どういう人間かと思っていましたけど、なるほどね」
その言葉を聞いて、男の顔が再び不愉快な表情に歪む。弟を睨みつけると、俺の弟だと分かった瞬間、彼は嘲笑うように口元を歪めて怒鳴った。
「貧乏兄弟は目障りだからさっさと帰れ。お前たちが来ていいところじゃねえんだよ」
「そうですね。では、俺たちはこれで失礼しますよ」
弟は逆らうことなく微笑みを浮かべ、冷静に応じて店を後にする。だが、俺は気づいていた。弟の瞳の奥に、冷たく鋭い光が宿っていることを。
俺の名前は坂野ハルト。父親が経営している小さな町の工場で専務として働いている。専務といっても、小さな工場のことだ。俺も、社長である父も、従業員と一緒に現場で作業をしている。贅沢な暮らしはしていないが、従業員に給料を払って、自分たちも食べていける。生活に不満はない。
「父さん、ここの加工、もっといいやり方ある?」
「見せてみろ。この部分はこうやるとやりやすい。わかるか?」
「なるほど。やってみるよ。ありがとう」
今でも父に教わる技術はたくさんある。後を継ぐのはまだまだ先の話だけど、父や家族同然の従業員のためにも、この工場をずっと残していきたいと思っている。そのために、次の社長として父に負けない技術を身につけようと、毎日が勉強だという気持ちで過ごしていた。
そんなある日、突然銀行から電話がかかってきた。電話を終えた父は、少し気落ちしているように見えた。
「父さん、何の電話だったの?」
「ああ、銀行からだったよ。今の担当者さんが今月でやめることになったんだと。新しい担当者が来るらしい。今までの融資について、改めてその担当が判断すると言っているんだ」
「そうなの。でも今まで何の問題もなかったし、急に融資打ち切りなんてことにはならないよね」
「ああ、そう願うしかないな。とにかく準備しよう」
父は突然のことに不安を感じているようだった。だが、経営状況は今までと変わらない。きっと大丈夫だろう。俺には根拠のない自信があった。
しかし、その楽観的な考えが間違いだったと気づかされることになるとは、この時の俺は思ってもみなかった。
父と俺は査定に必要な書類を集め、訪問に備えた。約束の時間通り、新しい担当者が工場にやってきた。後ろ髪を束ね、いかにも高級そうなスーツと靴を身につけている。思いのほか若い男性で、そのいで立ちに俺は少しばかり驚かされてしまった。
「新しく担当になった磯村と言います」
事務所に案内し、早速帳簿や資料を広げた。しかし、磯村さんはそれらを手に取ることなく眺めつつ、「とりあえず工場内を見たい」と言う。父と俺は彼の後ろにつき、工場内を案内することにした。部屋を出る時、俺は密かに神棚を見上げて祈っていた。どうか何事もありませんように、と。
磯村さんは工場の立付けや機械、働いている従業員を値踏みするように見て回った。突然の訪問だったので部品や材料があちこちに置かれ、荒れているように見える場所もあったが、業務は滞りなく正しく行われている。従業員の態度も至って真面目で、俺の見る限り問題はないと感じていた。その間、磯村さんが何か質問するでもメモを取るでもなく、淡々と歩く様子が気にはなったが、そういうものなのだろうと思って見ていた。
一通り巡回が終わり、再び事務所で向かい合うと、磯村さんは笑みを浮かべながらはっきりと言った。
「多分、融資は打ち切りになりますんで」
「え?」
俺と父は顔を見合わせた。思ってもいない判断だった。工場に問題はなかったはずなのに。一体、どんな判断でそうなるというのか。説明が欲しい。
「ちょ、ちょっと待ってください。資料もちゃんと見てください」
必死に帳簿を開いて見せようとする俺の手を、磯村さんは制した。
「経営状況については把握してますよ。今のところ大きく儲かっているわけでも、大きなマイナスが出ているわけでもない。ええ、まあ、よくあるんですよ。何か大きな失敗やトラブルがあれば、いつマイナスになってもおかしくない会社って、あなたたちもそうですよね」
「それは、そうかもしれませんが」
磯村さんの指摘に、父は口ごもる。確かに、彼の言うことに反論はできない。しかし、大きな失敗やトラブルが起こればマイナスになってしまうのは当然のことだ。だからこそ、うちの工場はそんなことが起こらないように運営してきたし、これまでも実績はない。それなのに、そんな仮定の話で融資を打ち切られるのは納得できなかった。
「今までは、この状況で融資していただいていたじゃないですか」
「前の担当者のやり方がどうであれ、僕が担当になったので僕が判断しますよ。こんな小汚い工場の融資を続けたいと思わないなあ」
「そんなの納得いきません。支店長と話をさせてください。それまで融資打ち切りの話は少し待ってくださいませんか?」
「支店長?ああ、お知り合いなんですね。僕は全然構いませんよ」
支店長とは、前任の担当者と一緒に工場に来てくれたことがあり、面識があった。支店長と話せば、今まで通り問題ないはずだ。そんな希望を打ち砕くように、磯村さんが言った。
「でも、あまり期待しないでくださいね。僕の父は、うちの銀行の取締役なんですよ。だから、僕の決定に意見を言える人間はそういないんですよね」
「そんな。今融資を打ち切られたら、工場は立ち行かなくなります。どうか、もう一度考え直してもらえませんか?」
「何を考えてこんな工場への融資をOKしたのか分かりませんが、僕の考えは変わりません。こうして話している時間すらもったいない。僕は忙しいんですよ。貧乏人にかまっている暇はないんだ。じゃ、そういうことで」
俺たちが必死に訴えるのも構わず、磯村さんは冷たく言い放って帰っていった。
融資打ち切り。どうしたらいいんだ。
「とりあえず、支店長に連絡してみるか」
「だけど、担当が取締役の息子じゃ、どうしたもんかな」
父は気丈に振る舞っていたが、俺と同じように焦っているのだろうと分かった。それでも、俺たちはわずかな希望を持って支店長に何度か連絡を取ってみた。しかし、磯村さんが来てからというもの、支店長とは連絡が取れなくなってしまっていた。窓口に電話し、取り継ぎをお願いしても、「担当者から支店長へおつなぎしますので、担当者を通してください」の一点張りで、結局支店長と話をすることは叶わなかった。磯村さんの言っていた通り、彼の決定に意見を言える人間は、実際にいないのだと悟った。
それから数日が過ぎたある日、俺は弟のユウトと高級寿司店に来ていた。融資打ち切りの話について愚痴を聞いてもらおうと電話をかけた俺の様子を見て、ユウトが誘ってくれたのだ。
「ちょっと、なんだよその弱々しい声。らしくないな。いつもの無駄にバカでかい声はどうしたんだよ」
「無駄にバカでかいってひどいな。でも、確かに毎回電話の声がでかいって言うよな」
「そうだよ。やめろよ。気持ち悪いぞ。よし、嫌なことは忘れて、今度うまいものでも食べに行こうよ」
弟に言われて、俺は改めて自分がこんなにも落ち込んでいることに気づいた。しかし、落ち込んでいる場合ではないと自分を振い立たせて、ここまでやってきたのだった。
「まずは乾杯」
「何の乾杯だよ」
「そんな顔したらダメだって。ほら、この美味しい料理に乾杯」
目の前のテーブルには、丁寧に並べてもらった握りが一つ一つ輝いている。ここしばらくなかった食欲が湧いてきて、俺は仕事のことは一旦忘れて、寿司や日本酒を楽しんだ。
そうして時間が過ぎ、そろそろ帰ろうかと思っていると、騒がしい若者たちが店に入ってきた。何気なくそちらへ目をやると、見覚えのある顔を見つけて、思わず俺は小さく「あっ」と驚いた。
「どうしたの?あの人たち、知り合い?」
「うん。あいつが新しい担当の磯村だよ」
「へえ」
店内でひそひそ話をしていると、それに気づいたのか、磯村さんがこちらへ向かって歩いてくるようだった。俺は思わず顔を伏せ、目をそらしたつもりだったが、すでに遅かった。
「先日はどうも」
陽気に話しかけてきた磯村さんの顔は少し赤く染まっていて、すでに他のところで飲んできて酔っているようだった。俺は黙って会釈した。
「こんなところでお会いできるとは思っていませんでしたよ。工場はもう大丈夫なんですか?」
明らかに馬鹿にした態度で、磯村さんは笑っている。
「ええ、まあ」
俺は相手にしたくなくて曖昧に返事し、早く立ち去ってくれと願った。しかし、磯村さんはこちらの気持ちを一切察しない様子で絡んでくる。
「貧乏工場の貧乏息子が来ていい店じゃないでしょう。大丈夫?ちゃんと払えんの?」
「余計なお世話ですので」
「そんなツンツンしないでよ。僕は親切心で言ってあげてるんですよ。なのに、そんな言い方をしちゃうなんて。やっぱり、貧乏人は品がないなあ」
あまりにも馬鹿にした態度に、俺は我慢できずに言った。
「こちらこそ、品を疑いますね。銀行員以前に、人としてその態度はいかがなものかと思いますけど」
すると、磯村さんは一瞬驚いたような顔をした。もしかしたら、俺に反論されるなんて考えていなかったのかもしれない。少しの間を置いて、彼の顔色が変わり、怒りを露わにした。
「なんだと?貧乏人がこのエリート銀行員様に意見できる立場だとでも思ってんのか?」
「それが、品のある人間の口調ですか?」
「てめえ」
そう叫んだ磯村さんは、酔いのためか怒りのためか、震える手で俺たちのテーブルにあった日本酒の入ったグラスを掴み、勢いよく俺の頭にぶちまけた。ここまでするのか。俺は冷たく滴り落ちる雫を見つめた。
「どうだ?少しは頭が冷えたか?俺に勘違いしたことを反省しろ」
慌てる店の人や連れの人たちをよそに、磯村さんは一人愉快そうに笑う。どういう人間かと思っていたけど、なるほどね。
その時、黙って見ていたユウトが呟いた。磯村さんが再び不愉快そうな表情になり、ユウトを睨んだ。
「お前は誰?工場の人?」
「あなたが今、酒をぶっかけた人の弟です。あなたたち親子の噂はかねがね聞いていましたが、さすがですね」
「貧乏人の弟かよ。通りで貧相な顔だ。貧乏兄弟は目障りだからさっさと帰れ。お前たちが来ていいとこじゃねえんだよ」
「そうですね。では、俺たちはこれで失礼しますよ。兄さん、帰ろう」
「ああ」
俺たちは会計を済ませ、心配してお絞りを差し出してくれた店の人には「お騒がせして申し訳ありません」と詫びて店を出た。その間にも、背後からは磯村さんが何かを叫んでいる声が聞こえる。俺たちを罵倒し続けているようだった。
「本当にたちが悪いね、あの人」
「うん。ここまでとはね」
「言うと、磯村さん親子のこと知ってたの?」
「ああ。バカ息子の噂は有名だからね。だから、工場の融資銀行があそこだって知って、心配してたんだ。まさか新しい担当者がそのバカ息子とはね。これにしても、あの態度、本当に許せないなあ」
ユウトはため息をつき、スマホを取り出すと、怒りのこもった瞳を店の方へ向けながら、ある人物に電話をかけた。
その翌日、磯村さんと父親の銀行取締役が工場へやってきた。俺は父に呼ばれ、工場の入口へと急いだ。昨夜の磯村さんの態度を謝罪に来たということだったが、工場の入口で不機嫌そうにそっぽを向いている磯村さんを見て、全く謝る気がないことは一目で分かった。
「この度は、息子が大変失礼な態度を取ってしまったようで、本当に申し訳ございませんでした」
取締役は深々と頭を下げた。しかし、それに俺の心は少しも動かされない。
「取締役からの謝罪は結構です。ご本人に謝罪のお気持ちはないようですし、お帰りください」
取締役は磯村さんの頭を抑えつけて無理やり謝らせようとするも、磯村さんは言い訳するばかりで意味がなかった。
「俺さ、酔っててあんまり覚えてないんだって。もういいだろ」
不満そうな顔をして。こんなことを平然と言うのだから、もはや怒りを通り越して呆れてしまう。そんなやり取りをしていると、外に黒塗りの車が止まった。工場前に停められた高級車の中から、スーツ姿のユウトが降りてくる。すると、取締役はユウトを見た途端に顔色を青くして、より一層深々と頭を下げて謝罪した。
「どうか、お許しください」
「おいおい、親父。そこまですることかよ」
磯村さんが取締役のことを呆れたように見る。どうにも磯村さんには緊迫感がないというか、自分の父親がここまで謝罪している意味を理解していないようであった。
当たり前だが、取締役がこんなにも焦っているのには理由がある。実は、ユウトは大手企業の社長令嬢に見初められて婿入りし、現在はグループ会社の社長となっている。そして、磯村さんの銀行の大口顧客でもあるのだ。
昨夜、寿司店を出たユウトは取締役に直接電話をかけ、磯村さんの態度を一部始終報告した。
「あなたの息子さん、客への態度がこんなにもひどいとは知りませんでした。最低ですね。彼をこのまま放置するようでしたら、あなたの銀行は信用できません。社員一万人分の口座を解約させてもらいます」
そう伝えたのだ。こうして謝罪に来ることは想定内だったが、磯村さん本人の反省のない態度には、父も俺も呆れていた。
「融資担当というのは、いろんな会社のことを真剣に考えられる人間がなるべきではないですか?それでなくとも、こんな人間性の銀行員がいるというだけで、あなたの銀行の信用は地に落ちます」
「本当に申し訳ございません」
取締役がユウトにも謝罪し、磯村さんの腕を引っ張って謝らせようとする。しかし、信じられないことに、取締役から事情を聞かされた後も、磯村さんは面白くなさそうな顔をして、自分の暴言や態度を全く反省していなかった。
「はあ、わかりましたよ。融資の打ち切りはなしにしますよ。それでもいいでしょ」
「お前、なんて態度なんだ!」
取締役は今にも倒れそうな様子で叫ぶ。そこへ、さらにユウトが追い打ちをかけた。
「この様子では仕方がありませんね。私の個人口座も解約させてもらいます」
「解約?解約ってかよ。ああ、もう帰ろうぜ、親父」
磯村さんがそう言った瞬間、顔面蒼白だった取締役がガタガタと震え出した。そして、両目をぐわっと見開き、磯村さんを怒鳴りつけた。
「五十億の個人口座だぞ!どこまで考えなしなんだ!」
「え?親父、もういいだろ」
「お前は首だ!この脳なし!」
「俺が首?何言ってんの?親父、冗談だろ?」
すがりつく息子を振り払って、今度は取締役がユウトに泣きついた。
「息子はこの通り首にしますので、どうか、個人口座の解約だけは!」
「信用を取り戻すというのは、そう簡単なことではないですよね。磯村さんご自身の深刻さが分かってないようですね。あなたにはもう用はありません。お帰りください」
そう伝え、ユウトは磯村さん親子を追い返した。その日以降も、俺や父に対して取締役からの謝罪は続いた。
「こちらの誠実な新しい担当者を連れてきました」
ある日突然連れてきた担当者は、磯村さんとは打って変わって誠実そうだった。しかし、ユウトが家族であると分かった途端に態度を変えた銀行には、ますます不信感が募るばかりだった。それに、向こうからは「工場の融資を続ける代わりに、ユウト解約の撤回を頼んで欲しい」という魂胆が見え見えで、受け入れたくなかったというのも本音である。それに、工場の融資については、ユウトの紹介で信頼のおける銀行へ融資依頼をかけていた。ここでの融資も決まりそうであり、担当者の独断で突然融資を止めるような銀行とはおさらばしたかった。
俺は取締役に向かって、きっぱりと言った。
「別の銀行へ融資依頼をしている最中です。そこの担当者はとても信頼できる対応をしてくださっており、話もうまくまとまりそうです。あなた方とは今後関わるつもりはありませんので、お引き取りください」
こうして、磯村さんの銀行とは関係を断ったのだった。
磯村さん親子のこの騒動は、金融業界でも噂になっているらしかった。
「以前、融資していただいていた銀行とは、信用がなくなるようなトラブルがあって、こちらでお願いしたんです。丁寧な対応な上に融資を決めていただいて、本当に感謝しています」
「ええ、大変でしたでしょうね。お察しします。こちらにご相談いただいてよかったです。これからどうぞよろしくお願いいたします」
「やはり、ご存知でしたか?あの親子のことは、他の銀行でも有名だって弟から聞きました」
「ええ、あの銀行の評判は、息子さんが働くようになってからというもの、ひどくなっていました。ここだけの話、今回のことで息子さんは会社を首になったらしいですよ」
「そうでしたか。あの時、取締役が『お前は首だ』と言っていたのは、パフォーマンスではなかったようだ」
俺たちの工場だけでなく、磯村さんが担当になってしまった会社からの苦情はどんどん広まっていき、取引銀行を変える会社も少なくはないらしい。
早速融資が決まったことを父に連絡し、俺は晴れやかな気持ちで帰路に着いた。父親が経営する職場で働く者として、磯村さんと同じように、優位な立場だからと言って周囲を見下し、父親に迷惑をかけるような息子にはなりたくないと思った。今回の出来事があったおかげで、気を引き締めることができたと言っても過言ではない。
俺は父やユウトの恥にならないよう、従業員や工場を守っていくためにも、これからも精進していこうと、改めて決意したのだった。
