夜中の高速道路で、黒沢信吾はハンドルを握り続けていた。腰から下がしびれ、まぶたは鉛のように重い。それでも白線を追いながらアクセルを踏むのをやめなかった。それが五十六年の生き方だった。神奈川の倉庫から青森の工場まで往復する長距離便を終え、東京北部の営業所に戻ったのは明け方の四時だった。エンジンを切ると、静寂が耳に痛かった。
ロッカールームのシャワーを浴び、鏡を見た。血走った目、くすんだ肌、落ちた頬。見慣れた顔だが、今日は特別にやつれて見えた。着替えていると携帯が震えた。息子の大輝からだった。「今月のゼミの合宿費、早急に振り込んでくれない。二十万。みんな行くし。俺だけ行かないのは無理だから」
口座の残高は十二万七千円。先週消費者金融から借りた三十万の返済がまだ残っている。それでも信吾は指を動かした。「分かった。今日中に送る」と打って送信した。自動販売機で缶コーヒーを買い、駐車場のブロックに腰かけて安いタバコに火をつけた。一箱百四十円。やめられなかった。息子に二十万を送るために、また消費者金融に電話する。家賃は大家に頭を下げて待ってもらう。昼飯はカパン一個で我慢する。計算は反射のように頭の中を走った。苦しさを感じる余裕は、もうずっと前になかった。
その日の午後、信吾は姉の千鶴と駅前の牛丼チェーンで会った。姉が指定してきた店だ。待ち合わせに十分遅れたのは、消費者金融への電話が長引いたせいだった。千鶴は入口近くのテーブルで待っていた。五十八歳になった姉は、私立病院の清掃員として週の大半を働いている。荒れた手の甲を見るたび、信吾は後ろめたい気持ちになった。
「姉ちゃん、最近シフトきつくないのか。無理すんなよ。俺は毎月大輝に仕送りして授業料も入れて、まだ余裕があるから」
嘘だった。余裕など一切ない。それでも笑って見せた。「あの子、新しいゼミに入ってな。将来有望な仲間と研究してるらしい」
千鶴はお茶を一口すすり、何も言わなかった。その沈黙にはいつも居心地の悪さがあった。やがて千鶴が正面から信吾を見た。「信吾、あんた、今いくら借金があるの」
信吾は笑顔を崩しかけた。「いきなり何だよ。俺はちゃんとやってるって」
「昨日、大輝から電話が来た」千鶴の声は静かだった。「本人は私に確認してほしかったわけじゃないと思う。世間話のふりをして、あんたのことを少し話した。『父さんって毎月送ってきてくれるよね』って。でも最近額が増えてるし、心配じゃないかなって言い方だった」
信吾は机の上の拳を握った。「あいつが俺を心配してるって……そういうことだよな」
「そうじゃない」千鶴はきっぱりと言った。「あの子は自分に送られてくるお金が続くかどうかを心配してたの。あんたのことじゃなくて、仕送りのこと」
その言葉がどこかへ沈んでいくような感覚があった。
「あんたはずっと大輝のことを自慢にしてきた。東京の大学、優秀な友達。でも、あの子が去年の夏から秋にかけて、あんたに会いに来たことあった? 電話してきたことは? こっちからかけた時、ちゃんとした時間に出てきたことは?」
答えは分かっていた。あまりに明白だったから、信吾は口を開くしかなかった。「あいつは勉強で忙しいんだ。俺がしっかり金を送ってやれば、あいつは俺の心配なんかしなくていい。親の仕事は子供に余計な苦労をさせないことだろう」
「違う」千鶴の声が初めて硬くなった。「親の仕事は、子供が自分で立てるように背筋を教えることよ。あんたがやってるのは、大輝を甘やかすんじゃなくて、弱くしてるんだ」
「姉ちゃんは俺の息子のことを知らないだろう」信吾は声を荒げた。「俺は大輝に好きな道を行かせたい。そのために俺がどれだけ走っても構わない」
千鶴はしばらく黙っていた。窓の外を自転車の老人が通り過ぎた。「竜馬は先月、地方の配送会社に正社員で採用が決まった。小さい会社だけど社会保険もある。先週電話してきて、『お母さんに何か送りたいから好きなもの聞いといて』って言ってきたんだ」
信吾は何も言えなかった。
「二十四歳で、自分の給料で母親に何かしてやりたいと思える子に育ったの。それは別に私がうまく育てたわけじゃない。あの子が自分で試行錯誤して、失敗して、立ってきただけ。私はただ見ててあげただけよ」
「俺の言い方が悪かった」信吾は視線を落とした。「竜馬はいい子だよ。ただ俺は、大輝に俺みたいな苦労はさせたくないだけだ」
「あんたの苦労は、どこから来てると思う?」
信吾は答えられなかった。働きすぎという言葉、収入が足りないという言葉が頭に浮かんだ。しかし、その根元にある何かがちらりと顔を出しては、すぐに沈んでいった。「俺は別に、大丈夫だから」
千鶴は何も言わず、お茶を飲み干した。その時、ポケットの携帯が震えた。今度は電話だった。大輝からだ。信吾は席を立ち、店の外に出た。
「父さん、さっきのメッセージ見た? 合宿費なんだけど、二十万じゃなくて、参加費以外にも準備物とか色々あって、合計で二十五万あった方が余裕があるんだけど。できればそっちで頼む」
挨拶もなかった。体調を聞く言葉もなかった。単に金額の修正を伝えてきただけだった。信吾は歩道の縁に立ち、曇り空を見上げた。「分かった。今日中に送る」
「ありがとう。じゃあ」
電話が切れた。信吾はしばらくそのまま立っていた。店内に戻ると、千鶴は薄いコートを羽織り始めていた。「姉ちゃん、もう行くの?」
「用事がある」短く答え、千鶴は信吾の顔をもう一度見た。何かを言いたそうだったが、結局口を開かなかった。代わりに数百円をテーブルに置いた。「体だけは壊さないで」
それだけ言って姉は店を出ていった。信吾は窓越しに、姉の細い背中が人混みに消えていくのを見送った。小さな背中だった。その背中が信吾より多くのものを知っているような気がして、目を離せなかった。
席に戻り、冷めたお茶を一口飲んだ。二十五万。どこから用意するか。追加の融資枠はあと十五万程度。残り十万は今月の生活費を削るか、給料日前借りをするか。頭の中で計算が走り始めると、信吾は少し落ち着いた。計算している間だけ、感情を横に置ける。千鶴が残していったお茶代を、信吾はそっとポケットに入れた。今は使える金が何より必要だった。
消費者金融の窓口で書類にサインする時、手は震えていなかった。三年前に初めて借りた時は、ペンを持つ指先が微妙に震え、拇印を押す瞬間に躊躇した。しかし今はそういう感覚がない。追加融資の十五万が口座に入るのは翌日だった。残り十万は食費と光熱費を来月に回してやり繰りする。来月になれば給料が入る。その循環が崩れなければ、何とかなる。その言葉を何度も繰り返した。
その夜、信吾は本来休みのはずだったが、夜間便を引き受けた。埼玉から新潟まで、往復で翌日の昼前に戻ってきた。その日の夕方、スマートフォンを開き、振り込みを確認した。二十五万を大輝に送金し、納金完了の通知を見て静かに息を吐いた。終わったわけではない。今日のことが終わっただけだ。
数日が経った。信吾は週に五、六本の長距離便を入れ、隙間に近距離の配送も受けた。体のどこかが常に重かった。ある待機時間に、信吾は大輝に電話をかけた。用があったわけではない。ただ声が聞きたかった。六回コールしても出なかった。忙しいんだろうと自分に言い聞かせた。合宿の準備で動き回っているのかもしれない。
合宿は一週間だった。その間、大輝からの連絡は一度もなかった。信吾は気にしないようにしたが、気にしていた。走行中に考え込んで、前の車との車間距離が一瞬詰まり、慌ててブレーキを踏んだ。
合宿が明けた翌日の夜、ようやくメッセージが届いた。「北海道楽しかったわ。また来たい」。それだけだった。信吾はそのメッセージを三回読んだ。楽しかったんだろう、それならいい。しかし、どこかがちくちくと痛むような感覚があった。二十五万がどこかに消えていった感覚だった。
その週末、信吾は珍しく休みが取れた。洗濯をして、ガス台の請求書を確認し、インスタントの味噌汁を飲んでいた。手元のスマートフォンにメッセージが届いた。「父さん、急なんだけど、来週研究室のみんなで箱根に行くことになった。参加費と交通費で合わせて十二万くらいかかる。送ってもらえる?」
北海道から帰って一週間も経っていない。その間に一度も連絡がなかった。今度は箱根、十二万。どこかで何かが静かに揺れたが、信吾はすぐにそれを抑えつけた。大学生は動き回るものだ。断ったら大輝が恥をかく。それは避けたい。しかし、今回ばかりはすぐに「分かった」と打てなかった。
信吾は皿を洗いながら考えた。今月はもう追加の融資枠がない。給料日まであと二週間。貯金はない。決めた。休みを返上して、週に七本走れば、残業代込みで何とか十二万は用意できる。スマートフォンに向かって打った。「分かった。来週中には送る」
返信は三十秒後だった。「サンキュー」。それだけだった。信吾はスマートフォンをベッドの上に置き、しばらく座っていた。眠りに落ちる直前に思った。大輝は、俺の体のことを一度も聞いてこない。その思いは眠気と一緒に溶けていった。
翌週、信吾は月曜から土曜まで六日連続の便を入れた。木曜の夜、深夜のサービスエリアで一時間の仮眠を取った。目を閉じているのに眠れない。数字が頭の中を流れていく。今月の利息、次の給料日の手取り予測、大輝への送金額。一時間後、目を開けて、また走り始めた。前後に社がいない区間では、白線だけが続く暗闇の中をトラックが進んでいく。自分がどこへ向かっているのか、ふと分からなくなる瞬間があった。
土曜の夜、給料が振り込まれ、信吾はすぐに十二万を大輝に送金した。「箱根楽しんでこい」。返信は翌日の昼前に来た。「了解。いいね」。信吾はその二文字をしばらく見て、スマートフォンを伏せ、百三十円のおにぎりを口に入れた。味がしなかった。
その翌週、大輝から電話がかかってきたのは意外だった。横浜の倉庫で荷下ろしを終えたところだった。
「父さん、ちょっといい? 友達が立ち上げてる事業があってさ、初期投資に参加しないかって言われてるんだ。二十万あれば入れるらしい。数ヶ月後には倍以上になるって言ってた」
信吾はしばらく何も言わなかった。「事業って、どんな?」
「詳しくはまだ分かんないんだけど、投資系らしくて。でも信頼できる友達が言ってるから、大丈夫だと思う」
「数ヶ月で倍になるような話は、普通はない。父さんは古いのかもしれないが、その友達のことを、お前はどこまで知ってるんだ?」
「学科が同じだから」
「学科が同じだから信用できるとはならないだろう」
沈黙があった。「まあ、父さんが出せないなら、出せないでいいけど」
その言い方が胸に刺さった。出せることが前提で、出せないのは信吾の側の問題だという言い方だった。「その話、もう少し調べてから決めろ。焦って動く必要はない」
「分かった。じゃあ」
電話が切れた。夕方、営業所に戻ると、三十代半ばの橋本が声をかけてきた。「黒沢さん、最近ちゃんと休めてます? 顔色が少し気になって」
「大丈夫。慣れてるから」
「無理しないでくださいよ。先月も一日しか休んでないじゃないですか」
「ありがとう。でも今のうちに稼いでおかないとな」
橋本はそれ以上言わなかったが、何か言いたそうな間が一瞬あった。
数日後、東京方面の便が入った。信吾は大輝に電話し、顔を見に行ってもいいかと尋ねた。「まあいいけど、今日は夜に予定あるから早めに来て」。信吾は急いでトラックを倉庫に戻し、私服に着替えて地下鉄に乗った。ようやく着いたマンションは六階建てで、エントランスにはオートロックが付いていた。インターホンを鳴らし、エレベーターで上がると、大輝が部屋着のまま出てきた。身長は信吾より高く、髪は明るい色に染められ、肌がきれいだった。ちゃんと食べているんだなと少し安心した。
部屋に通されて、信吾は二歩のところで足が止まった。広かった。一LDKかそれ以上。壁際に大きな液晶テレビ。低くて大きなソファ。床には絨毯が敷いてあり、キッチンには食洗機まであった。本棚に教科書は数冊、そしてゲームのパッケージやブランドの紙袋が積み上がっていた。「座れば」と大輝が言い、信吾はソファに腰を下ろした。沈み込んだ。
「体の方はどうだ?」
「普通」
「北海道の合宿は役に立ったか?」
「楽しかったよ」
答えが短い。目を合わせる時間が少ない。大輝はスマートフォンの画面を一度だけ確認した。早く帰ってほしいという空気が伝わってきた。
「父さん、何か用だったの?」
「用があるほどじゃないが、顔が見たくてな。久しぶりだから」
「そうか。まあ元気だよ」
大輝は社交的な笑みを浮かべた。来客対応に近い距離のある表情だった。三十分ほどで信吾は腰を上げた。「そろそろ行くよ。また連絡する」
「うん。気をつけてね」
大輝はソファから立ち上がることなく、手を軽く振った。廊下に出ると、扉がすぐに閉まった。エレベーターの中で、信吾は鏡に映る自分の顔を見た。古いセーターに毛玉ができていることに初めて気がついた。靴は泥で汚れ、髪は耳にかかっていた。そういう格好であの部屋に上がっていったのだ。
マンションを出ると冷たい夜風が吹いた。駅に向かいながら、あの日、牛丼店で千鶴が言っていたことが頭に浮かんだ。あの子が去年の夏から秋にかけて、あなたに会いに来たことあった? 信吾は立ち止まらなかった。歩き続けた。エレベーターの中で見た自分の顔が、しばらく消えなかった。
大輝に電話したのは、千鶴の家に越してきてから三週間目の火曜日の夜だった。特に理由はなかった。強いていえば、その日の昼間に届いた消費者金融からの督促状を読んでいて、大輝の声が聞きたくなった。それだけだった。コール音が五回なって、出なかった。十分後にもう一度かけると、三回で出た。「父さん、今ちょっと忙しいんだけど」。声の後ろに複数の人間の笑い声が聞こえた。
「悪い。少しだけいいか。督促状が来たんだ。消費者金融から。今月の返済が遅れてる」
「それって俺に何の関係があるの?」
声は低かったが、怒りではなかった。事実を確認しているような平坦な声だった。
「関係というか、話しておきたかっただけだ。大輝、最近どうしてるかと思って」
「普通だよ」
「父さん、今夜は無理。後で」
「分かった。また連絡する」
電話が切れた。信吾は督促状を畳んで箱の端に差し込んだ。「後で」という言葉がどこかに引っかかっていた。しかし、その言葉をそのまま受け取ることにした。そうしなければ、何を信じればいいのか分からなかった。
翌朝、信吾はハローワークに行った。担当の相談員は五十代の穏やかな男性だった。「今の健康状態でもう少し時間の長い仕事は可能ですか?」「医師には重労働は禁止されています。ただ、座り仕事か立ち仕事なら」。相談員はいくつかの求人を出してきた。工場の警備、スーパーのレジ補助。信吾は三件に応募した。
帰り道、コンビニのベンチに腰かけて缶コーヒーを飲みながら空を見た。冬の晴れた日は、空が高く、青が薄い。あの頃トラックで走っていた時、高速道路から見える空はもっと大きかった。あの景色を見るために走っていたような気がさえする。
千鶴の家に帰りつくと、テーブルにメモがあった。「夕飯は外で食べてくる。お米は炊いてあります」。信吾はご飯を温めて梅干しと一緒に食べた。昼のニュースが流れていた。どれも自分の生活とは遠いところの出来事のように感じた。横になっているうちに、少しだけ眠っていた。目が覚めたのは夕方の四時。スマートフォンを確認すると、大輝からメッセージが届いていた。「父さん、ちょっと話がある。電話していい?」
大輝の方から連絡が来たのは久しぶりだった。すぐに折り返した。声はいつもと少し違って、低くゆっくりしていた。「友達から進められた話、前に断ったやつがあるじゃん。あれ、結局別の形で乗ることになって。それがうまくいかなくて」
信吾の背筋に冷たいものが走った。「別の形って、どういうことだ?」
「ちょっと知り合いから金を借りて、その事業に入れたんだけど。そっちも損が出て、今返せない状態で」
「どこから借りた?」
「学校の先輩とか、あとその先輩の友達。最近、すごく催促が来るようになって」
「総額はいくらだ?」
「合計で百五十万くらい」
沈黙があった。大輝が何かを待っているような間だった。「父さん、何とかなる?」
「俺は今、百五十万はない」信吾は言った。「それどころか、自分の返済も滞ってる。お前が知ってる通り、仕事も失った。千鶴の姉ちゃんの家に身を寄せてる」
「知ってるけど」
「知ってるなら、俺に何とかなるかと聞いて、どういうつもりだ」
声が思ったより硬くなった。大輝は少し黙ってから言った。「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「まず、催促してくる相手に正直に状況を説明しろ。払えない事情を話して、分割か期限の延長を頼め。弁護士の無料相談でも、学校の学生相談室でも、まず話を聞いてもらえ」
「弁護士とか大げさだよ」
「大げさじゃない。先延ばしにするほど状況は悪くなる」
「……分かった。考える」
「考えるんじゃなくて、動け」
「うん」
少し間があって、大輝が言った。「父さん、体大丈夫なの?」
信吾は少し驚いた。大輝が初めてそれを聞いてきた。「薬を飲んでる。無理はしていない」
「そっか」
「お前も無理するな」
「うん」
通話が終わった。「体大丈夫なの?」という言葉が、しばらく消えなかった。本当に心配したからなのか、それとも会話の締めくくりとして出てきた言葉なのか、分からなかった。分からなかったが、聞かれたことは事実だった。それだけで少し十分だった。
翌日、信吾は千鶴に昨夜の電話のことを話した。「百五十万か」と千鶴は言った。「あんたが送った金も、そこに入ってたかもしれないね」
「可能性はある。確かめてはいない」
「確かめなかったのか」
「聞いても仕方がないと思った」
千鶴はご飯を一口食べ、ゆっくり噛んでから言った。「信吾、あんたはあの子を攻めたか?」
「攻めたといえば攻めた。ただ、言いたいことは全部言えなかった」
「言いたいことって、何だ?」
「俺がこの三年間、何のために走ってきたのかということだ」信吾は味噌汁の椀を持ったまま言った。「大輝のためだと思っていた。でも実際は、俺が父親としてやることをやってるという感覚のためだったのかもしれない。多分半分は自己満足だったと思う。だから、今さらあいつを責めても筋が通らない」
そこまで言って黙った。自分でそこまで口にしたのは初めてだった。声にしてみると思ったより重かった。
千鶴が言った。「正直なことを言った。それは悪くない。でも遅すぎた」
「遅かったとしても、気づいたのは今日だ。昨日よりはマシだ」
千鶴はそれ以上何も言わなかった。
数日後、千鶴の息子・竜馬の結婚式があった。朝から曇っていた。信吾は五時前に目が覚めた。ダンボールの底から三年ぶりにグレーのジャケットを出した。袖を通すと、少し大きくなっていた。六時過ぎに千鶴が起きてきた。紺色のワンピースを着ていた。「式場は何時からだ?」「十一時。でも私は十時には着いていたい。竜馬が緊張するから」「そうだな」。千鶴は信吾を見た。「あんたも来るか?」「呼ばれてないのに、迷惑じゃないか」「式場には、来てはいけないとも言ってない。小さい式だから席に余裕はある」。信吾はジャケットの袖を見下ろした。「竜馬とは構わないか」「昨日あの子に聞いた。来ていいって言ってた」。その声の中に、拒絶ではない何かが確かにあった。「分かった。行く」
式場は小さな料理店の二階だった。十二人ほどが集まっていた。白いドレスではなく、白いワンピースに近い一着だった。それでも、そこにあるものに下品さはなかった。竜馬が前に立って挨拶をした。「母さんに、俺が高校を出てすぐ働き始めた時、不満も言わずに送り出してくれた。自分で立てるように育ててくれてありがとう」
千鶴は背筋を伸ばして息子を見ていた。表情は変わらなかった。信吾は拍手しながら、胸の中に何かが積み重なっていくのを感じた。自分の足で立てるように育ててくれた。その言葉が、ゆっくりと沈んでいった。竜馬は、苦労させたことへの許しではなく、本当の意味での感謝として、あの言葉を言っていた。大輝はどうだろう。そう思った瞬間に、その問いを打ち消そうとした。今日は竜馬の日だ。比べることではない。
式が終わりに近づいた頃、ポケットの中でスマートフォンが振動した。大輝からだった。「父さん、ちょっと話せる。今日中に連絡してほしい。大事な話がある」。信吾は画面を消し、スマートフォンをポケットに戻した。大事な話。これまでの「大事な話」がどういうものだったかを思い出した。北海道の合宿費、箱根の旅行費、事業への出資。今度は何だろう。席を立ってすぐ電話しようという気持ちが浮かんだが、しなかった。今日はここにいる。今日という時間は、今日だけにある。
竜馬が花嫁と並んでテーブルを回ってきた。「おじさん、来てくれて嬉しかったです」「こちらこそ。おめでとう。体の方はどうだ?」「少しずつ落ち着いてきた。心配かけてすまない」「いえ、ゆっくり直してください」
式が終わったのは昼過ぎだった。駅に向かって歩きながら、千鶴が言った。「今日来てよかったか?」信吾は少し考えてから答えた。「来てよかった」。改札を出ると、千鶴は自分の方向へ歩き始めた。「ちょっと外を歩いてから帰る」と言うと、千鶴は振り返らなかった。「夕飯はある。遅くなるなら連絡しろ」
信吾は反対方向に歩き始めた。当てがあったわけではない。ただ歩きたかった。小さな公園があった。ベンチに腰かけると、冷たかった。スマートフォンを取り出し、大輝からのメッセージをもう一度開いた。「父さん、ちょっと話せる。今日中に連絡してほしい。大事な話がある」。信吾はしばらく画面を見ていた。そして、大輝の番号に発信した。コール音が三回で出た。
「父さん、遅かったじゃん」
「今日は外出してた。それで、話とは何だ?」
「うん。例の件、弁護士に相談したんだよね。紹介してもらって、先週行ってきた。向こうの金の貸し方自体が、法的にグレーな部分があって。そこをつけば交渉の余地があるって言われた。全額は無理かもしれないけど、分割交渉か減額ができる可能性がある」
信吾は息を吸った。「弁護士費用はどうした?」
「初回相談は無料だった。本格的に頼むなら費用がかかるけど、学校の学生相談窓口がサポートしてくれて、審査が通れば立替え制度が使えるって。今申請してるところ」
「自分で動いたのか」
「父さんに言われたから」
それは事実だった。しかし、信吾にはそれだけではないと思えた。誰かに言われたことをただやるなら、もっと早く動けていた。一週間かかったのは、大輝の中で何かが動いたからだろう。
「よかった」
「うん。まあ、まだ解決したわけじゃないけど」
「一人で抱えているよりはいい」
「そうだね」
少しの沈黙があった。「父さん、今日どこ行ってたの?」「千鶴の姉ちゃんの息子の結婚式に行ってきた」「ああ、そういえばそんな話してたね。どうだった?」「質素だったけど、いい式だった」「そっか」、また少し黙ってから、大輝が言った。「父さん、一個だけ聞いていい?」「何だ?」「今まで送ってきてくれてた金、大変だったよな」
信吾は答えを急がなかった。公園のブランコが風に揺れた。「大変だったかどうかは、俺には分からない。それが俺のやり方だったから。大変だということを感じる前にやってしまう。後になってから、ああ大変だったのかと気がつく。そういうやり方だ」
「それって損じゃない?」
「損かもしれない。でも、そうじゃないとやれなかった」信吾は続けた。「お前が大学に行けていることが、俺には何かの証明だった。俺自身が高校を出てすぐトラックに乗ったことへの、何かへの……うまく言えないけど」
大輝はしばらく黙っていた。「それって、俺を使って自分を納得させてたってこと?」
「そういう部分があったと思う」
「なんで今更、そんなこと言うの?」
「お前が聞いたから」
また沈黙があった。今度は少し長かった。「俺さ、父さんのこと、ちゃんと見てなかったと思う。金のことしか考えてなかった」
「お前はまだ二十一だ」
「それは関係ない」
大輝の声が少し低くなった。「次、東京に来ることあったら、飯でも食おう。俺が出す」
信吾は少しの間、何も言えなかった。大輝の方から誘ってきたのは初めてだった。「いつになるか分からないが」
「いつでもいいよ。父さんが来られる時で」
「分かった」
「体気をつけて。薬飲んでるよな」
「飲んでる」
「じゃあ、また」
「ああ」
電話は静かに切れた。信吾はスマートフォンを膝の上に置いた。借金はまだある。仕事は決まっていない。体の状態は元には戻らない。何一つ解決していなかった。それでも、今日という日は終わろうとしていた。
信吾はゆっくり立ち上がった。冷たいベンチから体を起こすと、足が少ししびれていた。その感覚を噛みしめながら、公園の出口に向かった。来た道を戻らず、別の細い路地に入った。どこへ出るか分からなかったが、構わなかった。夕方の住宅街は静かで、どこかの家から夕飯の匂いがした。醤油と、何かを焼く匂い。ごく普通の夕方の匂いだった。
信吾は歩きながら、明日のことを考えた。スーパーの清掃は明後日のシフトだ。ハローワークへは明日また行く。体に無理のない範囲でできる仕事を、もう少し探す。消費者金融への返済については、もう一度窓口で相談して返済計画の見直しを頼む。それが今週やるべきことだった。大きなことは何もない。一つ一つが小さい。しかし、それしかなかった。
千鶴の家まで歩いて二十分ほどかかった。玄関を開けると、台所から鍋の音がした。「遅かったな」と千鶴の声。「少し歩いてきた」「飯は煮込みだ。もう少しかかる」「分かった」。信吾は上着を脱いで、グレーのジャケットを丁寧にハンガーにかけた。「大輝から電話があった」と言うと、千鶴は鍋をかき混ぜる手を止めなかった。「どうだった?」「弁護士に相談したらしい。自分で動いていた」「そうか」「飯を食おうと言われた。次に東京に行く時に」
千鶴は鍋の蓋を少し傾けて湯を逃した。それから信吾を一度見て、何も言わなかった。しかし、その視線の中に信吾には何かが読めた。「まだ分からない。一回飯を食ったからと言って、何かが変わるわけでもない」「分かってる」千鶴は言った。「でも、呼ばれたなら行きな」
信吾はそれに答えなかった。代わりに椅子を引いてテーブルについた。千鶴が鍋の蓋を取ると、煮込みの甘い匂いが台所に広がった。窓の外は完全に暗くなっていた。ガラスには台所の明かりが映り込んで、外の景色は見えなかった。ただ自分たちのいる場所の光だけが、そこに浮かんでいた。それでよかったと信吾は思った。今夜はここで飯を食う。明日になれば、また別のことが始まる。それだけのことが、今の信吾には一つの形として見えていた。
