銀行の窓口で手続きを待っていると、視界に見覚えのある顔が入ってきた。胸には「支店長 上城孝志」というネームプレート。中学時代、何かにつけて俺を「高卒予備軍」と馬鹿にしていた男だった。
「よう、久しぶりだな。なんだ、うちに口座持ってんの?高卒の無能にこの銀行は似合わないだろ」
その言葉に、周囲の行員たちがざわつき始めた。俺の返答が単なる言い返しでは済まないことを、この男だけがまだ理解していなかった。
「じゃあ、預金全部下ろします」
俺の名前は秋山慎吾、三十六歳。最終学歴は県立工業高校の卒業だ。大学には行っていない、正確には行けなかった。成績的にはもう少し上の高校に行けるはずだったが、うちは母子家庭だった。中学に上がる頃、父親が借金を残して蒸発した。母はパートを掛け持ちして家計を支えてくれていたが、生活は常にギリギリだった。
そんな光景を見て育ったから、高校を卒業してすぐ働くことを決めた。工業高校を選んだのは、いろんな技術が学べると思ったからだ。大学進学は最初から夢のまた夢だった。高校で成績優秀者として表彰されたこともあったが、奨学金を背負って母に負担をかけてまで進学する気にはなれなかった。
卒業後は地元の町工場に就職した。決して給料がいいとは言えなかったが、正社員として働けるだけでありがたかった。現場の仕事はきつかった。朝は五時に起きて、夜は終電まで働くこともあった。それでも不思議と嫌ではなかった。体を動かすことも、工具を扱うことも好きだったからだ。
二十六歳の時、会社の経営が傾いた。上司から「経理の仕事もやってみないか」と言われたのがきっかけだった。帳簿も伝票もチンプンカンプンだったが、数字の動きに興味を覚えた。資金繰り、売掛金、仕入れコスト、納税。それらを把握することで、会社の体力が読めるようになった。そこから数年、昼は工場、夜は会計の本を読む生活が続いた。
三十歳を前にして、ようやく自分の道が見えた。退職して独立し、資金管理や事業再生をサポートする小さなコンサル会社を立ち上げたのだ。最初は誰にも相手にされなかった。「高卒が金のアドバイスなんてできるわけがない」と、そんな目で見られることもあった。それでも折れなかった。一社一社、誠実に対応を続けた。数字に強く、嘘をつかず、無理をさせない。それが信頼につながった。
今では複数の企業から運用資金を任され、個人資産もそれなりに増えた。投資先の企業から役員就任を打診されることもあるが、表に出るつもりはない。金を動かす側でいたいし、学歴で人を判断するような場所に戻るつもりもなかった。
あの日の銀行での出来事は、すべては受付で手続きを済ませ、ロビーで待っていた時に始まった。支店長の札を胸につけた男の顔、上城孝志。中学の頃、成績がいいのを鼻にかけて、貧乏な俺を馬鹿にしていた男だ。
「あれ?お前、秋山?久しぶりだな。なんか懐かしいわ」
上城は目を細めて笑った。懐かしさなんてかけらもない、品のない笑い方だった。
「え、もしかしてこの銀行に口座なんて持ってたの?ちょっと意外だわ。てっきりタンス預金かと」
「手続きに来ただけだよ。預金の確認と名義変更を少し」
「へえ。名義変更?ああ、そうか。親が亡くなったとか?違うか。まさか相続で金が入ったとか言うんじゃないよな?高卒の無能が資産持ちとか聞いたことねえし」
平然とした顔で、まるで呼吸をするように侮辱してくる。昔と変わりないどころか、社会的地位を得たことでタチが悪くなっている。「つうかさ、高卒でしょ?お前、ここの利用者としては不釣り合いじゃね?最近はうるさい客が多いから、俺のこの対応に変なクレーム入れるなよ。そういうの支店に迷惑かかるからさ」
わざと声を張って、周囲に聞かせるように話してくる。行員たちが一瞬手を止め、こちらに目を向けるのが分かった。上城はまったく気にしていない様子だった。
「まあ、俺も同級生だから一応情けはかけてやるけどさ、今からATMでおろす金額とか三万とかだろ?昼飯次第にしては多いけど、銀行の数字としては誤差ってやつだな。でも俺も今や支店長だしな。昔の知り合いがうちの銀行に出入りしているってだけでも、正直ちょっとイメージ悪いわ。お前、見た目も変わってねえし、安そうだしよ」
さらに一歩踏み出し、俺の胸元に目をやって鼻で笑った。「ネクタイだろ、それ?あんま恥ずかしい格好で来んなよ。うち、富裕層重視だから」
この男は本気で、俺をあの頃のままの弱い立場の人間だと思っている。中学の頃の俺のままだと。
「そうか。俺にこの銀行は似合わないか」
「いやいや、別に悪気があるわけじゃないんだぜ。ただローンとか組む時とか大変じゃん。最終的に困るのはお前かなって思ってさ」
「結局それは似合わないってことだろ」
「まあ、そういうことかな」
上城は再び品のない笑いを見せた。だからこそ、俺はあえて言った。
「じゃあ、預金全部下ろします」
一瞬、空気が凍った。笑っていた上城の口元がわずかに引きつる。
「は?全部って何の話?」
「個人口座、法人名義、関連口座含めて全部。この支店にある分はすべて他へ移すよ」
周囲の行員が明らかにざわついた。視線が一斉に俺と上城に向く。上城の顔が見る見るうちに強張っていく。
「いや、ちょっと待てよ。お前、何の会社やってんの?」
「さっきから『高卒の無能』って言ってた相手に聞くことか?」
一切の感情を荒げず、淡々と返す。それだけで上城の顔は青ざめていった。彼はまだ、自分が何を失いかけているのか完全には理解していなかった。
「口座番号はメモしてきた。個人名義が二つ、法人名義が三つ。それと関連会社の決済用口座が一つある」
俺が淡々と事実を伝えると、近くの行員が一瞬だけ手を止めた。俺の名前に何か覚えがあるのか、ちらりとこちらを見たが、すぐに目をそらした。この支店にしてみれば、俺はかなりの金額を動かす客だろう。
「名義変更の手続きはキャンセル。その代わり、すべて解約してくれ。残高は指定口座に一括で振り込んでほしい」
「は?おい、急に何切れてんだよ。いくら何でもそこまで本気になるような話じゃねえだろ。久々に顔を見たから軽く冗談を飛ばしただけじゃねえかよ」
「冗談って言葉の意味をちゃんと知ってるか?」
「は?何お前?マジで怒ってんの?冗談通じねえな。高卒はやっぱ底が低いってか」
「この支店にある金額を全部合わせたら八億は超える。個人口座だけじゃなく法人も含めてな。動かすなら全部動かす。振り込み先は複数あるが、書類はまとめてきた」
上城の目がわずかに動いた。だがすぐに鼻で笑って見せる。
「は、八億?おいおい、何それ?口だけは達者だな。そんなもん、どうせ口座に一時的に入ってるだけだろ。残高だけ大きく見せといて、実際は空っぽなんじゃねえの?」
「そう思うならそれでもいい。信じるかどうかはお前の自由だ。ただ、それが全部引き上げられた時、どうなるかは別の話だろう」
周囲の行員が動き始めていた。内線を取る者、資料棚を確認する者、奥の部屋に小走りで向かう者。フロアの空気がじわじわと緊張に包まれていく。
「お前、何やってんのか知らねえけどさ、そういうの虚勢って言うんだよ。高卒が急に背伸びして『俺すげえ』って言い出すの、正直見てらんねえわ。恥ずかしいだけだって」
「高卒の言葉ばかり繰り返すお前が、俺をどう見てるかはよく分かった。だからこそ言ってるんだ。そんな場所にもう金は置かないって」
静かに、それでいて確実に突き刺すように告げる。上城の顔から、少しずつ余裕が消えていく。
「ここに預けてるのは俺一人の金じゃない。グループ会社の運転資金、複数の取引企業の資産。全部、一つの流れに乗せて動かしてる。その一部がこの支店に流れてたってだけの話だ」
「グループ?取引企業?お前、何言ってんだ?」
「また質問か。立場も職業も知らない相手に、随分フレンドリーだな」
その一言で、ようやく上城は言葉を失った。だが、まだ完全に事態を理解したわけではない。
「秋山、ちょっと待てよ。お前さ、本当にその金、全部自分の判断で動かせる立場なのか?なんか言ってることがデカすぎてさ、正直信じがいがないんだよ。もしかしてどこかの会社の下請けとかだったりしないか?名前だけ預金者になってるパターンとか、そういうのうちでもたまにあるしな」
「そういうパターンかどうかは、今に分かるさ」
空気がじわりと重くなる。強気だった上城の声に、わずかな揺れが混じっていた。
「つうかさ、仮に八億だとしても、そこまでの話か?一時的に資金が入ってるだけの可能性もあるし、どうせ口座動かしてるのは別の名義だろうし」
その時だった。奥の応接室から副支店長が慌てた様子で戻ってきたのだ。手に数枚の書類を持ったまま、険しい顔で上城に近づく。
「支店長、ご確認ください。お客様の口座名義、セントリック・ファンド・サービス株式会社及び関連法人三件、本部登録の重点顧客リストにも記録があります」
「セントリック?あの、聞いたことあるぞ」
副支店長が小声で補足する。「近年、企業再生と資産運用分野で急成長中の会社です。全国で地方銀行との連携も進めており、当行でも最重要先の扱いとなっております。支店レベルでの扱いを誤れば、本部対応に発展しかねません」
上城の目が見開かれたまま、唇が震えていた。
「そう、俺が代表だ。この支店にある法人資産も関連会社の口座も、全部俺の指示で動いてる」
ざわっと支店内が騒めいた。行員の数人が手を止め、こっそり視線をこちらに向けているのが分かる。
「ま、待てよ。俺だって、お前が秋山って名前じゃなきゃ、最初からちゃんと対応してたさ。誤解だよ」
上城は無言のまま、じっと俺を見つめた。その視線が言葉よりも強く上城を追い詰めていく。耳を傾ける者、伏せた視線の奥で状況を窺う者。今や支店長の失敗は隠しようのない共有事項になりつつあった。
「う、嘘だろ?いや、マジかよ。冗談で八億も動かす奴がいるなら、俺も一度会ってみたいね」
上城の額にはっきりと汗が浮かんでいた。視線は定まらず、目元は落ち着かない。
「じゃあ、口座を解約しようか」
この一言で空気が変わった。
「ま、待ってください。秋山様。今すぐ、本部へ。法人四口座、メインを含めすべて。残高の合計は八億二千万強。それらを別の金融機関に移します。個人口座も含めてね」
副支店長は真っ青になり、頭を下げた。「誠に申し訳ありません。本来であれば、こういったご対応は……」
「君の責任じゃない。問題は、最初に名前だけで判断した彼の方だ」
無表情のまま、俺は上城を見た。その視線が刺さる。数分前まで「高卒の無能」と言っていた男は、今、机のかげで縮まるようにして座っていた。
「ま、待ってって。俺が悪かった。ちょっと言いすぎただけで、ほんの冗談だったんだよ。こんな大事になるとは思わなかったんだ」
「『思わなかった』って言葉、お前ずっと昔から使ってるよな。中学の頃もそうだった。弁当が毎日同じだなって笑って、制服のボタンが錆びてるぞって茶化して、『お前の家、貧乏臭くて無理』って毎日言ってきた」
「あれはその、子供だったし」
「大人になった今も同じじゃないか。口座の残高や学歴を見下して、それっぽい人間にしか頭を下げられない」
上城は言葉を失った。
電話が鳴った。副支店長が慌てて受話器を取り、数秒後には眉をひそめた。「本部からです。すでに情報が共有されていました。解約と移行について、支店として正式に文書対応とのことです」
支店全体が凍りついた。
「いや、ちょっと待ってくれよ。お前、マジでやるのか?本当に全部引き上げるってのか?」
「この銀行にふさわしくないと言ったのは君だろ。だったら預金者の俺が去るのが筋ってものだ」
副支店長が再び頭を下げる。「どうか、どうか今一度お考え直しいただけませんか?支店として、そして私個人としても、誠心誠意対応させていただきます」
少しだけ考えるふりをした後、俺は静かに答えた。
「残念ながら、今回は見送らせてもらうよ。信頼っていうのは最初の言葉で決まる。いくら後から頭を下げられても、俺は忘れられない。『高卒の無能』にふさわしくない場所に無理に居続けるつもりもないんでね」
上城の顔が一気に蒼白になる。
「あと、預金の移動は別の日に担当者を通じてやる。直接この支店に来ることは、もう二度とない」
「ま、待ってくれ。俺、俺、支店長なんだぞ。このままじゃ、本部での立場が……」
「その立場が自分の発言一つで揺らぐものだと、ようやく分かったか。言っておくが、これは始まりに過ぎない。銀行という信用商売で、顧客を見下した支店長がどうなるか。数ヶ月後には結果が出るだろうな」
俺は歩みを止め、最後に一言だけ残した。
「客の顔を見ずに、肩書きだけを見るな。簡単なことだ。君のいる場所が金融機関である以上、それを忘れた時点で終わりなんだよ」
副支店長が電話を切った後、静かに告げた。「本部から、支店長の言動について正式な報告書を求められました。記録もすべて確認するそうです」
上城は机に手を置いたまま、立ち上がることもできずに呆然としていた。周囲の行員たちは何も言わない。ただそれぞれの視線が、彼の背中に突き刺さっていた。
俺は一言も発さず、その場を後にした。自動ドアが開くと、外の日差しが視界に広がった。振り返ることなく、そのまま歩き出す。もう、この銀行に来る理由はなかった。
上城の転落は、想像以上に早かった。あの日のやり取りを、たまたま待合スペースにいた別の客がスマホで撮影していたらしい。数日後、その動画はSNS上で拡散され、支店長の横柄な態度は瞬く間に話題になった。口座残高で態度が変わるなんて最低だ、客の金で成り立ってるのに、と批判が相次いだ。
銀行側は対応に追われ、上城は顧客軽視の発言と信頼毀損の責任として支店長職を解かれ、本部付きの研修職に左遷された。だが本人は移動直後まで「冗談が通じない時代になった」とこぼしていたという。研修先では誰にも相手にされず、やがて居場所を失い、半年も経たずに退職に追い込まれた。
その後、元銀行員という肩書きを頼りに中小企業の営業職に就いたと聞いたが、長続きしていないらしい。「例の支店長か」と噂されるたびに、居心地が悪そうにしていたという話も聞こえてくる。
一方の俺はと言うと、変わらず資金運用や企業再生の現場に立ち続けている。あの騒動で名前が広まったことで、新たな案件の依頼も増えた。いくつかの銀行から「口座をお持ちいただけませんか」と営業が来たのは皮肉だったが、笑って断った。
母も元気だ。今は絵画教室に通いながら、のんびりと日々を過ごしている。高校を出てすぐ働いた俺を支えてくれたその手に、ようやく少しは報いることができた気がしている。週末には好きなコーヒーと本を持って、お気に入りの喫茶店に通う。誰かに頭を下げられることも、見下されることもない日常。それが何より、俺にとっての幸せだった。
