研修から戻った社長が青ざめた顔で私に言った。「会社をやめたって、嘘だろう?」私は静かに答えた。「嘘じゃありません。すべての手続きは済みました」。二十年前、小さな工務店だった品川工務店に入社してから、私は一級建築士も施工管理技士も重機免許も建設業経理士も取り、社長と二人三脚で自治体の公共工事を受注できるまでに育てた。社長の右腕と呼ばれ、次期社長とまで言われていた。ところが社長が三週間の研修で不…

研修から戻った社長が青ざめた顔で私に言った。「会社をやめたって、嘘だろう?」私は静かに答えた。「嘘じゃありません。すべての手続きは済みました」。二十年前、小さな工務店だった品川工務店に入社してから、私は一級建築士も施工管理技士も重機免許も建設業経理士も取り、社長と二人三脚で自治体の公共工事を受注できるまでに育てた。社長の右腕と呼ばれ、次期社長とまで言われていた。ところが社長が三週間の研修で不...

私は品川工務店で二十年近く働いてきた。大学で建築を学び、入社してからは一級建築士の資格も、施工管理技士の資格も、重機の運転免許も、建設業経理士の資格もすべて取得した。小さな個人事業だった会社を、社長と二人三脚で自治体の公共工事も受注できる規模にまで育て上げた。今では専務として営業や入札業務、注文住宅の相談窓口を任されている。社長の右腕と呼ばれ、社長よりも会社のことを知っていると言われることもあるが、そんなことはない。来客用の茶碗の場所やコピー機のメンテナンス業者の名前を知っているだけだ。

ある日、品川社長に呼ばれて社長室に行くと、驚くべき話を切り出された。

「実は業務拡大を考えていてな。不動産部を立ち上げようと思っている」

「宅地開発や分譲販売も視野に入ってきますね」

「そうだ。それで税金の関係もあって、不動産部は別法人にしたい。俺は宅建士の資格があるからそちらに回る。で、この会社は君に任せたいんだが、どうだろう」

「え、私が社長にですか」

「ああ、二代目社長になってくれないか」

私は喜んで引き受けた。これまで社長の仕事はほぼ把握していたし、経営管理の実務もこなしてきた。すぐにでも社長としてやっていける自信はあった。とはいえ不動産部門の立ち上げはまだ先の話だし、取引先への挨拶回りも必要になる。準備期間として一年を設けることになった。株主総会は年度替わりのタイミングで開き、そこで社長任命というスケジュールが組まれた。株主は社長と私だけ。私は入社してしばらくしてから社長が持つ株の一割を譲ってもらっていた。あの時点で、社長は私に後を託すつもりだったのかもしれない。

社員三十人ほどの小さな工務店だから、社長交代の話はすぐに噂になった。社長は社員を集めて、まだ内々の話だと前置きしながら構想を伝えた。

「美さんが社長になるならどこまでもついていきます」

そう言ってくれる社員がほとんどで、全員が賛成してくれた。私は深く頭を下げた。

社長交代まであと数週間という頃、品川社長が資格取得の研修に参加することになった。新人社員を連れて三週間の長期出張だ。その間、私が社長代行として業務を引き受けることになった。社長がやるべき仕事はこれまでもほとんど私が代行してきたので、社員たちは何も変わらず業務を進めていた。

そんな時だった。私より少し若いくらいの女性が突然事務所に現れた。

「男臭い職場ね。匂いがきつすぎるわ」

「あの、弊社にご用でしょうか」

「うるさいわね。今日から社長になる品川里よ」

「え? 社長のお嬢さん?」

社長には私と同じくらいの年齢の娘がいると聞かされていた。しかし社長は家族と会社経営をきれいに切り離していたので、身内に会うのは二十年働いてきて今日が初めてだった。そこに突然現れて、社長になると言い出したのだ。

「父が長期不在になれば、当然会社も回らないでしょう。それにこの会社をやめて別の事業に手を出すって言ってるんだから、私がこの会社をもらって当たり前よ」

所々正確な情報ではないが、里子の言いたいことは理解できた。

「品川社長からは何も聞いていないんですか?」

「私には私の生活があるからって、何一つ聞かされてないわ。でも分かるわよ。家族なんだし」

めちゃくちゃな話だが、社長が戻ってきたら誤解も解けるだろう。そう思って、私は里子を応接室に押し込んでおくことにした。

「経理さん、案内お願い。飽きたら帰ると思うから、とりあえず大人しくしてもらって。タイミングを見計らって私から社長に連絡するから」

私は社長のスマホに電話を入れたが、研修施設はウイルス対策で完全に隔離されており、電源を切っているのか繋がらない。一時間ほどして経理の社員が私の部屋に飛び込んできた。

「応接室が荒らされて大変です! ケーキを買ってこい、コーヒーサーバーじゃなくて引いたレギュラーコーヒーにしろって、もううるさくて」

「それにジャケットを脱ぎ捨てて、雑誌も投げ捨ててやりたい放題です。私が止めると『私は社長よ。首になりたいの』って怒鳴られました」

私は財布から千円札を数枚出して経理の子に渡した。

「ごめん、本当にごめん。今日だけはケーキとコーヒーでちょっとだけ機嫌を取ってくれる? 領収書はもらってこなくていいから」

里子の一人相撲だとは思うが、社長の真意が分からない以上、無視もできなかった。すると今度は「社長室に通せ」と無理を言い出した。私は社長室には金庫や重要書類があるため通すわけにはいかないと判断し、私が使ってきた専務室と社長室の表札を交換した。専務室もそれなりにソファーなどが揃っているため、社長室だと偽って里子を案内した。

「何よ、この部屋テレビ見られないじゃん。休憩室からテレビ持ってきなさいよ」

「テレビを見る暇なんて社長にはありませんよ」

ようやく社長と電話が繋がった。

「申し訳ないが、家に帰るよう説得してくれないか。こちらは完全に缶詰で、外出は許可されていないんだ」

「お嬢さんに電話で話をしてもらえませんか?」

「里子から着信拒否をされているんだ。家内も里子と連絡が取れない」

「専務室にいるので直通電話で話をされてください」

「申し訳ない。現場研修で移動しなきゃならないんだ。もう切るね」

めんどくさそうな声と共に一方的に通話が終了した。私は社員たちも皆、呆然としていた。

それから二日が経過した。里子は私を呼びつけるたびに内線電話で社員を呼び出し、肩を揉め、お茶を持って来いと用事を言いつけている。私はしびれを切らして里子に言った。

「社長って、社員を顎で使うようなことはしませんよ。あなたのお父様もそんなことは一切しません」

「ああ、あんた誰? 首にしてやるわ」

この言動が、私と大して年齢の変わらない大人の女性の振る舞いなのだろうか。たった二日で、里子一人のせいで会社の雰囲気はすっかり悪くなった。私の次に里子に振り回されていた経理の子は、しばらく有休を使って休むと言い出した。外回りの社員たちは無理やり現場の仕事を入れて、直行直帰でお願いしますと会社に寄りつかなくなった。

昨日はお客様との新築住宅の契約があった。若い夫婦の、五千万円の新築工事だ。その契約の場に、里子が突然現れた。

「この会社の客って、立ちが悪いわね。社長に挨拶もないの?」

若い夫婦は気まずそうに顔を合わせ、そのまま契約を白紙に戻して帰ってしまった。五千万円の仕事が、里子の一言で吹き飛んだ。

「ああ、この会社もう終わったわね」

私は心の中でそう呟き、首を縦に振った。

「お嬢さんがそうおっしゃるのなら、それでもいいですよ」

私は里子の目の前で解雇に関する書類を作成した。そしてこれまで事務作業でやってきたように、その書類をファイルに綴じ、里子に決裁印を押すよう促した。里子は私の手際の良さにド肝を抜かれたようだったが、事務室にある社長の机から社長決裁印を探し出し、ぽんと決裁欄に押した。これで私は解雇されたことになる。

「お世話になりました。あ、労務士さんには私から手続きの連絡を入れておきますので」

このことで里子は自分の力は最強なのよと言わんばかりに笑い出した。

それから十日が経った。研修を終え、事の重大さにようやく気づいた品川社長が私に連絡を入れてきた。

「会社をやめたって、嘘だろう?」

「嘘じゃありません。労務士さんに間に入ってもらい、退職の手続きは全て済ませました」

「今は何をしているんだ?」

「電話じゃないんですからご足労ですが、こちらにおいでいただけますか」

私が場所を告げると、社長は「すぐ行く」と小さく覇気のない声で答えた。

私が品川工務店を辞めさせられたことで、建設業を続けるために必要な管理者は誰もいなくなってしまった。品川社長は管理者としての業務をすでに私に移管していたからだ。そのため会社は仕事を進めることができず、事実上の休業状態に陥っていた。社長が丁寧に話を進めてきた若い夫婦の新築注文住宅の話もなくなり、会社として成り立たなくなったと、社長自身が焦り始めていた。

社長は里子を連れ立って、私が指定した場所にやってきた。

「なんだって君は、こんなところに……」

「元の会社に解雇されたので、ヘッドハンティングされた先に就職したまでですよ」

私が転職した先は、業界でも大手の建設会社だった。私が持つ資格は、建設会社なら喉から手が出るほど欲しいものばかりだ。資格と経験を評価され、それなりのポストで迎え入れてもらい、品川工務店の専務室よりも広い部屋を使わせてもらえるようになった。

「あと、勝手なことをして申し訳ありませんでしたが、ご連絡です。元の会社の社員全員が退職届を出して、里子さんが社長代行として全て受理したそうです。弊社で彼らを本日付けで雇用いたしました」

経理の子や施工管理技士、建築士、設計士。資格を持っている社員たちが、みんな「美さんについていきます」と会社を退職してきたのだ。社員たちは里子が全て受理したと口を揃えて言っていた。

「おそらく書類の内容は見ていなかったんでしょうね」と経理の子は笑っていた。里子は面白がって社長印をぽんぽん押していたらしい。

「育てていただいたにも関わらず、恩を仇で返すような真似をしてしまいましたが、お嬢さんも私たち社員も、あなたに放り出されてしまったんです。会社の売上の九割を担う私に辞められたら……いえ、売上の九割のうち、私が営業で獲得した五千万円の大きな仕事をお嬢さんが一瞬で吹き飛ばしたんですよ」

「九割って何よ、それ?」

四十を過ぎても里子の高飛車な性格が治らなかったのは、社長の責任だ。社長が家のことを会社に持ち込まなかったのは、奥さんから三十年以上前に離婚されており、実際に妻がいなかったからだ。里子もまた、社長の娘であることにすがりつきながら、母親がいなくなったショックや父親に構ってもらえなかった幼少時代を埋めてきたのだろう。会社経営の色気を教えたり、建設業以外の仕事をさせれば良かったのに、甘やかして育ててしまった。今になって、その付けが回ってきたのだ。

「外の書類や退職届は法的にも成立しているので、取り消すことはできないと思います。私はもう元の会社には戻りませんので」

「もう会社潰れちゃうの? お金入ってこないの?」

「まだそんなこと言ってるんですか? 里子さんが潰した五千万円の新築住宅が、会社の運命を握っていたんです」

建築業界は、お客さんからお金をもらう前に資材の仕入れなどの費用がかかる。家を一軒建てるのに何十人もの人が動く業界だから、お金がなければ会社は回らない。住宅ローンの審査が降りれば、品川工務店に五千万円が入ってきて運転資金になるはずだった。だがその契約は里子が壊した。資金繰りは大きく狂ってしまった。

社長は起死回生を図るべく不動産部門を設けようとしていたが、莫大な金額を会社の資金から投資費用として計上し、流用していた。当然銀行からはこの資金の流れを指摘され、運転資金の融資は得られなかった。三ヶ月前に仕入れた資材の支払いもできない状態だ。さらに、社長職を譲って将来訪れる経営に対する責任を私に押し付けようとしていたことも、私は知っていた。

だから里子が解雇に関する書類に決裁印を押してくれたのは、渡りに船だったのだ。

「品川社長、後の始末はお願いしますね」

私はへなと座り込む親子に、部屋を出て行ってもらうよう促した。

里子があの場に現れなければ、私は品川工務店を意地でも立て直そうと思っていた。そして会社の資金を流用していた品川社長を、完全に排除しようと企んでいた。この計画は水の泡になったが、社員がいなくなった以上、品川工務店はもうやっていけない。でも、これで良かったのだ。

その後、品川工務店は会社の負債を残さずに精算し、廃業した。私は新しいキャリアをスタートさせたばかりだ。まだまだ先の長い人生、新しい会社で頑張っていこうと思う。

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