「これは犯罪行為だ。君は犯罪者だ。どう落と前をつけるんだ?」
部長は俺の顔を見るなり、告発文書を俺に突きつけ、声を荒げた。その告発文書には、全く身に覚えのない俺の不正行為が記されている。身の潔白を主張するが、部長は首だと言い出す。
「これがニュースで流れてみろ。会社は信用を失い、多くの社員が君に道連れにされるかもしれない。会社を貶める不利益を与えようなどという奴は首で当然だ。」
出所不明の告発文書に勢いづく姿に、俺は首を受け入れ、ひとまず引き下がることにした。しかしそれはただのポーズ。来るべき逆襲の日に備え、俺は着々と態勢を整え直していた。
俺の名前は三田博幸。四十歳のアパレル関連企業に務める会社員だ。今の勤務先には三十歳の時に知人の紹介で転職した。それまでの俺は大卒で就職した大手量販店に務め、そこで婦人服と日用品部門のバイヤーをしていた。転職を思いついたのは、本当に衝動的な感覚だった。大手企業にいれば将来はそれなりに安泰かもしれないと考えていたが、どこでもいいから若いうちに違う会社というのを経験したいと思ったのだ。
そうして入社した今の会社では、かつてのバイヤーの経歴を買ってもらった。同じような業務を任せてもらうと同時に、営業部門に配属されて新規事業の立ち上げにも関わらせてもらうようになった。自分で営業活動をすることもあれば、営業の下準備や事前交渉の調整を担当する機会も多い。前職時代にはなかった立場や部署を超えた仕事をさせてもらいながら、俺はいつしかやりがいを感じるようになった。転職して十年、俺は自分なりに会社の中で頑張っているという感覚を掴んでいた。
「これからお世話になります。あの、何でもやれると思います。なのでまあ、よろしくお願いします。」
秋の人事異動が行われたある日、会社に一人の社員が中途採用で入社した。その人の名前は岡島高一郎と言って、入社前から社内で有名になっていた。
「まさか本当にここに入れるとはね。」
「いや、僕も空気を読むだろうと思ってましたけど。」
高一郎さんの気のない挨拶と自己紹介を聞きながら、俺は上司と言葉を交わす。
「以前とは職種が違いますけど、どうにかなると思ってます。助けられながらでも仕事はしますので、皆さんもそのおつもりで。」
高一郎さんは力なく、どこかだらしなく立ち、のらりくらりの挨拶をした。俺は彼の言葉からやる気も感じなければ誠意も読み取れなかった。それもそのはずというか、高一郎さんがどうしてうちの会社に来た経歴を考えれば当然だと頷いた。高一郎さんの父親はうちの会社の経営企画部の部長だ。しかも経営部門を束ねる統括部長で、社長から最も信頼される右腕。社長候補ナンバーワンであり、性格も押しが強くとにかく勢いがある。そんな部長は、ある大手金融機関で不祥事を起こした息子を引き取り、自分の権限で会社にねじ込んだのだ。
「あのパワハというか、ほとんど訴えられなかったのが奇跡みたいな話らしいからね。」
「これも部長が金で済ませたという噂ですけど、ま、この流れを見ればそれもそうかと思うよね。」
高一郎さんの入社には様々な意味で父親の意向が働いているというのが社内の噂だった。
高一郎さんは経歴的には超エリートで、名門大学を出た後は大手銀行に就職している。しかしそこで部下や同僚にパワハをしていたことが問題になった。どうやら高一郎さんは父親譲りの性格の持ち主らしい。部下に過剰な残業を強要し、営業成績を改ざんし、時には部下や後輩を使用人扱いしていたという。自分はできる人間で、名門大卒のエリートだと奢って周囲を見下し、好き放題していた。部下の一人が追い詰められて退職し、その後に高一郎さんを告発して問題が発覚。かつての部下は高一郎さんを訴える寸前だったそうだが、そこに部長が介入してことを収めたというのも聞いている。
「営業で引き取るわけですよね。」
「まあ、銀行でもそれでバリバリやっていたそうだからね。」
評価が最悪な高一郎さんを、俺と上司がいる営業系の部署で引き受ける。そう決まってからというもの、顔合わせまでの日々を俺たちはそわそわした気分で待っていた。そしてやってきた高一郎さんの挨拶は気のない投げやりなもの。嫌な予感がしたとその時に感じたが、実際に仕事が始まると予感では済まなくなった。
「あの、高一郎さん、取引先の方が次回から担当を変えてほしいと。」
「前回の話で何かありましたか?」
高一郎さんが営業の仕事を始めると、取引先からの問い合わせがひっきりなしに来るようになってしまった。申し訳なさそうに切り出す人もいれば、はっきりと高一郎さんに怒る人もいる。とにかくこちらが相手に何があったか尋ねる前に、高一郎さんの態度に問題があるという申し出が続出するようになったのだ。
「高一郎さんの説明が十分でないとおっしゃるんです。打ち合わせの席でどうお話しされてるんですか?」
高一郎さんに確認する俺も、遠慮をして言葉を選びながら質問する。そうでもしなければ、高一郎さんは容易に機嫌を損ねるというのはもう分かっていた。
「説明って、僕はしてやりましたよ。あちらでも分かるように、簡単で理解しやすいようにね。もっと色々話したくても、あんな人たちじゃわからないでしょうから、僕が気を使って。」
俺が問いただすと、高一郎さんはめんどくさそうにそう答えた。
「数字の話なんて、物を売るだけの人間には分からないでしょ。あっちが利益率がどうだなんて言い出してもね。そんなの僕が分かってればいいだけのことですよ。」
「そんなことはないですが。」
「そういうことでしょ。うちは別に、わざわざあちらの都合まで考えてやってるのに。それなのにあれこれうるさいんですよ。」
高一郎さんは取引先の名前を挙げて鼻で笑った。大手銀行勤務の経験がある自分が分かりやすく話をしているのに相手がうるさい。自分の説明に納得いかず相手がごねるから叱ってやっただけだと開き直る。
「叱るって、あの、正談は対等に話をする場ですからね。」
俺は正談の場で高一郎さんが取っていた態度に驚き、どうにか苦言を漏らした。しかしそんな俺の反応に、高一郎さんは不満そうにため息を漏らしていた。これ以上は何も言ってくれるな。高一郎さんはそんな態度で俺や同僚たちも見下していたのだ。その代わりに取引先に頭を下げるのが俺たちの役割になった。高一郎さんへのクレームが入るたびに誰かが謝罪をし、時には取引先に出向き事情説明もする。俺たちが駆け回る様子を、高一郎さんは気だるそうに眺めている。そんな状態がいつしか当たり前になった。
「物を売ればいいだけっていうのは、本当に楽だよね。」
高一郎さんは俺たちや会社の仕事を平然と見下すようになった。服飾卸の業務と自社ブランドの普及や売り込みという仕事を、あるものを売ればいいだけだと笑った。
「誰かが作ったものを適当に並べて売ればいいなんてね。猿でもバカでもできる。」
「あの、高一郎さん、そんなことは言うべきではありませんよ。服を一着作るだけでも、コスト計算も資材調達も考え尽くされてのことなんです。」
高一郎さんのあまりの暴言に、俺は時々真剣に反論していた。しかしそれが届くはずもなく、いつもあしらわれて終わった。
「考え尽くすなんて物は言いようですね。どうせ適当に思いついただけなくせに。」
「高一郎さん。」
「たく、僕はこんな仕事嫌なんですよ。バカでもやれることなんて仕事して、価値がありますか?」
俺や同僚たちを嘲り、言いたい放題。そんな調子の高一郎さんは部署の輪を乱し、まともに機能していなかった。上司も任せられる仕事はないと判断し、扱い方に困る。だが表だって声を上げるわけにもいかず、営業の中には重苦しい空気が漂うようになっていた。
それでもある日、俺はついに高一郎さんにはっきりと注意をした。
「いいですか? どんな人が相手でも、礼儀を忘れずに誠実に話してください。愛想でも何でも構いません。仕事だという意識を持って、誠意を相手に見せてください。」
俺が注意したきっかけは、何度目かわからなくなった取引先からの苦言を受けてだった。その取引先の人たちはとても温厚で、怒るにしてもしっかりと相手を考えて真剣に考えて物を言ってくれるのにも関わらず、俺が受けた苦言は辛辣で厳しかった。
「どうして失礼なことをするんですか? 分かるはずもないから説明します、と言ったそうですね。どうしてあなたはわざわざ人の神経を逆撫でするんです。」
「僕は別にあちらを貶めようと思ったんです。僕の緻密な考えが分かるわけがなくても、説明はしないといけないですからね。」
「どうしてそう上から物を言おうとするんですか?」
「上からも何も事実じゃないですか? 僕の方が誰よりも優れてるんだから。」
「その意識、捨ててもらえますか? そんなことじゃ、どこに行って何をしてもまともに成立しませんよ。」
高一郎さんは俺の説教に口を曲げて聞いていた。何かを言えば自分は悪くないというばかりで話にならない。そのうち高一郎さんは何も言わなくなった。俺ばかりが喋り、高一郎さんは黙る。そんな構図で俺の熱心な説教は終わった。
だが翌日、事態は思わぬ方向に転がった。なんと俺は岡島部長に呼び出され、指定された会議室に向かうと岡島部長と息子の高一郎さんが待っている。
「まあ座れ。」
岡島部長に言われ、岡島親子の向いに腰を下ろす。そしてそこから怒り狂った岡島部長に俺は詰められてしまった。
「君は、全く誰の息子だと思って彼に口を聞いたんだ。」
「え、あの、それは何のことでしょうか?」
「昨日だよ。君は高一郎に文句を言ったそうじゃないか。」
「それは文句ではなく注意です。仕事での態度と言動が悪すぎて、問題になっていましたから。」
「そうやって何、気取ったのか。」
岡島部長は自分が手を回して入社させた息子を信じているようだった。日頃の勤務態度や現状でどんな問題を起こしているのか、それは確かに部長の耳には入っていない。だが息子はかつて、行き過ぎたパワハで退職しているのだ。それなのに部長は自分の息子を可愛がって、その言い分を鵜呑みにしている。
「部長、ご存知ないのは当然かと思いますが、営業部内では高一郎さんの勤務態度が問題視されています。」
岡島親子に睨まれた俺は、我慢ならずに切り出した。自分だけ理不尽に責められるのは誰だって嫌なものだ。俺はその勢いに乗って、一気に岡島親子に反論した。取引先の方々から、相談や打ち合わせで恥をかかされたと。質問をすれば、そんなことも分かりませんかと笑われたという方もいます。正談への遅刻と資料の不備は当たり前。取引先が怪しめば、自分に従えばいいと言ってへそを曲げる。高一郎さんへの取引先からのクレームを一気に明かし、岡島親子に突きつけた。
「場所に文句を言い、相手の資料の作り方がなってないと笑ったそうです。だからそれは、高一郎さんに言わせれば、相手が自分より劣っているからだそうですね。」
「それはそうなんだろう。その認識がおかしいとは思いませんか? そんな態度でどうしたら仕事ができるんですか?」
「おい、あんた、まだそんなこと言うのか?」
俺の問いに、それまで黙っていた高一郎さんが口を開いた。不満に口を歪め、俺を睨んでため息をつく。
「あのなあ、俺に指図したことを後悔させてやってもいいんだぞ。」
「何ですか? それは脅しですか?」
高一郎さんの子供のような言動に、俺からもため息が漏れた。
「改めて伺いますが、今の言動は会社として許されるんですか? そんなことを言う人が会社にいてもいいんですか?」
俺は息子の高一郎さんよりも、父親の部長に尋ねていた。次期社長候補で仕事はできるはずの部長ならば、まだ聞く耳があるのではないかと思ったのだ。しかし部長から答えは返ってこなかった。それどころか岡島親子は何も言えなくなり、黙り込んでしまう。岡島親子からの呼び出しは、部長の「もういい」の一言で解散になった。岡島親子は苛立ちを隠さない様子で会議室を出ていき、俺はそれを見送った。
それから数日、営業部は相変わらずだった。高一郎さんは黙って仕事をして、周囲が忙しい。俺も呼び出しのことなど忘れ、仕事に打ち込んでいた。しかしまたもや事態が思わぬ形で進展してしまった。
「三田、ちょっといいか?」
上司に呼ばれ、別室に通される。通された部屋には人事と総務の社員がいた。
「実はこんな文書が総務に届いてね。三田が取引先と手を組んで、うちに不正な請求をしていると。契約額や経費を水増しして、その分を着服していると。」
「待ってください。何ですかそれ?」
上司は首をかしげながら、会社に届けられたという告発文書を俺に差し出した。その書面を見せる上司や、受け取った総務の人たちも寝耳に水で驚いていたようだった。
「こんなこと、覚えも何もありませんが。」
「そうだよな。私も総務も調べてみたが、君のこれまでの仕事に何の不審な点もない。」
どこから降って湧いたのか分からない文書の内容。俺も含めて部屋にいた全員が腑に落ちずにいたが、その時にはもう社内中に告発文書が回されていた。どうやら総務に書面で届けられただけではなく、メールである程度の人数に情報が流されたらしい。会社が調査をすると言ってくれたが、そんなことは追いつかないぐらい、気づけば騒ぎは大きくなっていた。
「三田、ちょっといいか。」
上司と人事、総務の人たちとの話し合いを終えると、厳しい表情の岡島部長にまた呼び出された。前回と同じ会議室に向かうと、そこにはまた岡島親子が俺を待ち構えていた。
「これは犯罪行為だ。君は犯罪者だ。どう落と前をつけるんだ?」
岡島部長は俺の顔を見るなり、告発文書を俺に突きつけ声を荒げた。
「そう言われましても、私は会社の調査の結果を待ちたいと思っています。とにかく事実無根ですから。」
「ほお、呑気なもんだ。それとも開き直りか。普通は即辞めるだろ。」
「事実無根なのに、それは今決められません。」
岡島部長は反論する俺にやめろと迫った。会社に迷惑をかけ犯罪行為を働いておきながら、のうのうとしているのはおかしい。自分の息子がおかしいと言う前に、自分のことを棚に上げていると部長が怒る。
「図々しいな。まあそうか。人の息子に偉そうに説教するような人間なんだなあ。ここまで言われて、恥ずかしくないわけ?」
「うちの父は、今やめるなら表沙汰にしないつもりで言ってやってるんだぞ。」
岡島親子は俺に告発文書を押し付け、こちらの言い分は聞かずに退職を迫った。俺が何も答えずにいると、今度は「首だ」と部長が言い出す。そしてそれに息子が同調し、俺を追い出しにかかった。
「これがニュースで流れてみろ。会社は信用を失い、多くの社員が君に道連れにされるかもしれない。」
「あの、そう言われましても。」
「会社を貶める不利益を与えようなどという奴は首で当然だ。」
岡島親子は出所不明の告発文書を武器に勢いづいていた。
「こんなもの、何もなければ出てくるわけがないんだからな。」
部長は酔ったように大事そうに告発文書を手にして目をやっていた。俺はふとそんな部長の振る舞いにあることを思いついた。もしかしたら告発文書は岡島親子がばらまいたのではないか。そんな考えが浮かんだが、それを調べようにもどうにもできない。俺に振りかかった事実無根の疑いと同じで、告発文書を誰が作ってばらまいたのかという謎も、この時点で経緯も何もかも不明だったのだ。
「これで君はまだ粘るか? 犯罪者のくせに開き直って居るのか。」
「そういうことでしたら、分かりました。」
岡島部長に追い込まれ、俺はひとまず答えた。抵抗もしたい、反論も公平な場でさせてもらいたいと思ったが、岡島親子がいる限りそれは叶わないだろう。
「でしたら、退職をさせてもらいます。今日限りでも。会社の指示に従います。」
俺は会社を去るという選択肢を受け入れた。後のことはまた考えるとしても、その場でやるべきことはそれだけだった。
「そうか。話が早くて助かる。ま、もっと早ければよかったがね。良かったよ。犯罪者がいなくなって。」
俺が退職を申し出ると、岡島親子は酔ったように嬉しそうに笑った。嫌味で癇に障る笑みとも言えるだろうが、とにかく岡島親子は嬉しそうに俺の退職に向けて動くと宣言した。そしてこの日、俺はすぐに帰るように言われた。そのまま会社からの指示を待つように言われ、岡島親子に追い払われる。俺は特に二人に何か挨拶をするでもなく部屋を出た。やるべきこと、自分が何をしたいか考えて今後に備えよう。それだけを考えていたのだ。
俺が退職を決めた翌日、岡島部長は俺に荷物の片付けを命じた。綺麗さっぱり出ていけと言われ、それに従いデスクを整理する。同僚たちは騒ぎを知る人とそうではない人に分かれ、営業部の空気は異様になっていた。
「すまない。これから我々も動くよ。」
「いや、それはもういいですよ。」
「いや、そうはいかない。」
上司は騒動を知る一人で俺に歩み寄ると、どうにか退職を止めようとしてくれた。文書の真偽を見つけることはもちろん、何が起きているのかを調べると言った。俺はその気持ちに感謝しつつも、岡島親子がいる限り誰が動いても無駄だと思っていた。自分がどう動くか、そこにかかっていると思っていると、営業部に社長が顔を出した。
「悪いな、忙しいところ。さっき大山百貨店さんから正談の予定が変更になったと連絡が来たんだが、何かあったのかね?」
社長はここのところ多忙で出張が多く、会社にいない状態だった。しかし会社にとって重要な相談と契約を前に、久しぶりに出社したようだった。大山百貨店という重要な相手の名前を出し、緊急事態の発生に焦った様子で俺たちに尋ね回る。
「何か緊急性があるなら、先方も仕方ないと思っているようなんだがね。それでも決まれば五十億なんていう話だ。早々何かあってもらっては困る。」
「それは担当は誰だったかな?」
社長は騒ぎが起きているとは知らず、本心からあの大山百貨店の担当者を誰か尋ねた。とっさに上司が答えようとしたが、うまく言葉が続かない。しばらく沈黙が続いたが、それでも一人の若手が声をあげた。
「その件でしたら三田さんが担当なんですけど、昨日岡島部長が三田さんを解雇すると言いまして。」
「何なんだと?」
「もしかして岡島部長から何も聞いていらっしゃらないんですか?」
俺が解雇されたと聞いた社長から驚きの声が上がる。そこにすぐさま後輩が問いかけ、社長の動揺は大きくなった。
「今回の契約は大きな新規案件だ。担当はそれを全て一任されていると。それなのに、なんでそんな。」
社長が言う大山百貨店との正談は、担当である俺が全て取り仕切っていた。我々との共同開発の新展開がその中身で、取引がまとまれば全国の店舗にショップを出店することになっていた。それだけではなく、共同で新たなECサイトも立ち上げる。将来的に見込まれる売上や利益は計算では五十億ほどになる超大型契約。それを担当する俺の身柄が不明になり、上司はひとまず客先に頭を下げて正談日程の再設定をお願いしていた。しかし現時点で日程は未定で、何をどうするかは決められていない。上司としては大山百貨店との関係をどうするか頭を抱えている段階だった。
「岡島君は、ひとまず話を聞かないといけないな。」
驚いているばかりの社長だったが、上司や後輩、俺の話を聞いて顔を上げた。そして自分で電話をかけ、岡島部長を呼び出すと、営業部のオフィスの真ん中で岡島部長を問い詰めた。
「今、聞いた。彼らから全部聞いたよ。君は三田君を解雇すると言ったそうだな。何をどうして君にその権限があるのか。」
「それは、あの。今から説明を。申し訳ありません。社長がお忙しいようで、説明が遅れてしまいました。」
社長は岡島部長に順を追って、自分が聞いた話を伝えた。部長が前日に俺に解雇を告げ、その理由が審議不明な俺の不正行為にあること。しかしその不正もまだしっかりと調べられていないことまでを、社長は部長に問いかけた。
「君は一体何を知っていると言うんだ。三田君は今、大山百貨店との大型新規案件に取り組んでいる最中だ。不正なことなど考える暇もないはずだぞ。」
「ああ、いえ、そう言いましても。」
「本当に君が言い出したことが真実でなければ、取り返しがつかん。今回の新規案件は契約成立となれば五十億の利益が見込めるんだ。会社の未来に関わるんだぞ。」
「え、それは。」
五十億と聞いて、岡島部長が目を白黒させる。俺に対する憎しみばかりに目がいって、俺が抱えている案件を知らなかったらしい。
「君は何を把握していたんだ? そんなことも知らず、根拠不明の噂に左右されているのか?」
社長は岡島部長を問い詰めながら、後悔を口にしていた。自分の仕事に入れ込みすぎ、会社に不在の時間を長く作ってしまったこと。よかれと思って信頼する人間に会社を任せたはずが、それがとんでもない間違いだった。
「私も愚かだな。社員に迷惑をかけてしまった。」
社長もなかなかに豪快な性格で、普通の感覚の範囲に収まらない人だ。だが会社が窮地に立たされているとなれば、経営者として青ざめる。その言葉を漏らした社長は岡島部長をまっすぐに見ていた。
「そうは言いましてもね、社長。この男は歴とした犯罪者ですからね。」
社長に厳しい目を向けられながらも、岡島部長は薄い笑みを浮かべて切り出した。
「この文書を見ていただければ、取引先からの証言もまとめてありますし、証拠の書類も準備されているようでして、もう言い逃れもできないかと。」
呆然と焦りが入り混じった状態の社長に、岡島部長は例の告発文書を差し出した。俺が取引先と手を組み架空契約を結ぼうとしているなどと説明して、社長を丸め込もうとする。自分が下した決断は間違っていないので、自分に俺が担当した案件を譲ってほしいと頼み込む。
「そのお話は待っていただけませんか?」
社長にすり寄ろうとする部長に、俺は待ったをかけた。自分なりに何かできないかと模索して、一つの手を思いついていたのだが、この時はそれを披露する絶好の機会だと思ったのだ。
「申し開きと言いますか、私からも聞いていただきたい証拠があるんです。」
俺は社長と部長の間に立つと、スーツのポケットからスマホを取り出した。そして先日に録音したばかりの音声データを再生する。少し聞き取りづらいが、耳を済ませば誰の声か分かる会話がスマホから流れる。
「あの文書はよくできていたもんだ。」
「あの程度の完成度でいいなら楽なもんだね。」
「あんな紙切れ一枚で一人首にできるんだ。」
「まあ、この後は領収書か契約書でもでっち上げてやればいいな。」
俺のスマホから岡島親子の下劣なやり取りが飛び出す。それは前日、俺が解雇すると言われた直後に、隠れて録音させてもらったものだった。首を告げられ、帰れと言われ、俺はそのまま引き下がらなかった。調子に乗っている岡島親子が何かボロを出すのではないかと期待して、部屋の外に張り込んでいたのだ。そしてその結果、この貴重なデータを手に入れた。親子は俺が退出した後、告発文書の偽造と文書の中身は嘘であると自白していた。自分たちにとって厄介者の俺を追い出すために適当な嘘を用意した。その先は嘘を固めるために証拠を偽造する気であると打ち明ける。
「これは、これは、嘘だ!」
俺のスマホからの音声は続いていたが、部長がそれを遮るように叫んだ。俺に爪を立ててスマホを奪い取ろうとしてきたが、それを俺の上司と後輩に止められた。およそ十分の録音データは俺の無実を証明していた。
「許せんな、汚い真似を。」
全てを聞いた社長は岡島部長を睨みつけた。
「首にされるのは君だ。岡島君、それから君の息子もだ。おい、君たちは今すぐ立ち去れ。処分は追って私から告げる。」
「待ってください。それはまだ言いたいことが。」
「もう帰ってくれ。」
岡島部長は言い訳の機会を社長に求めたが、聞いてもらえるはずもなく追い返された。そしてその場での出社停止を言い渡され、親子揃って返される。岡島親子が荷物をまとめる様子を、営業全員が監視した。岡島親子の正式な処遇と、社長が気にかける今後のことは、後日改めて話し合う。そう決まって、この日は俺も一時帰宅となった。
騒動から二週間、事態は急速に通常進行に戻ろうとしている。岡島親子は社長の手で解雇され、会社からいなくなった。親子の今後は決して明るくない。俺は特に彼らに何かをしようとは思わなかったが、社長は会社として親子を訴える準備を進めている。今回の件で業界内に悪評が広まってしまった親子は、今後の行き先もなく路頭に迷っているようだ。
俺はその混乱の最中、大山百貨店との正談を再開した。社長は俺に迷惑をかけたと謝罪し、百貨店との正談には助けに入ると約束もしてくれた。百貨店サイドには俺と社長で頭を下げに行き、正談の仕切り直しを頼んだ。そして百貨店サイドは俺を見込んで許してくれた。今後は俺の企画力や開発力を信用して、別の案件も任せたいとまで言ってくれたのだ。
「本当に申し訳なかった。そして本当にありがとう。君がこの難局を乗り越えてくれて、私も心底ほっとしている。」
「こちらこそ、社長にご心配をおかけしてしまいました。」
社長が心配していた五十億の案件も無事に成立となり、俺は社長から深く頭を下げられた。事態はどうなることかと思ったが、今となっては全てが過ぎたことだ。過去はまた過去ではないが、大型案件も始まってみれば何か起きるはずだと覚悟している。今の俺に大事なのは、何事にも丁寧に仕事を完結させること。今後も仕事は続けていくが、懸命にやるべきことに取り組んでいきたい。俺は今、心からそう思っている。
