葬儀場の空気は重く、線香の煙が天井に向かって立ち上ぼっていた。まゆ子は膝の上に娘のユナを抱き、喪主として必死に背筋を伸ばしていた。まだ四歳になったばかりのユナは、異様な雰囲気を恐れる様子もなく、きょろきょろと周囲を見回している。その無邪気さがかえって痛々しかった。数日前、夫の浩司が亡くなった。会社の階段から転落したという。まゆ子は葬儀の準備をしながら、まだ実感が湧かないでいた。
僧侶が経を唱え、読経の声が静かに響く。参列者たちは皆、暗い表情を浮かべている。まゆ子がふと視線を下げると、ユナがぽつりとつぶやいた。
「パパ、ゆうな、ここにいるよ」
突然ユナはまゆ子の膝から飛び降りると、白い布がかけられた棺桶に近づき、その側面にぴったりと体を寄せた。浩司の頭の位置だろう。ユナは棺桶に耳を押し当て、にっこりと微笑んだ。
「ああ、やっぱりパパだ。ゆうな元気だよ」
まゆ子は息を呑んだ。「こんな小さくて可愛い子供を置いていくなんて」という声が、読経の影から聞こえてきたような気がした。参列者の誰かがすすり泣く音もする。
「何? パパお願い事? いいよ。ゆうなに何でも話して」
ユナは棺桶に寄り添ったまま、うんうんと頷いている。まゆ子の心臓が激しく打ち始めた。その口調。それは浩司がユナと話す時とまったく同じだった。いや、それだけではない。ユナの言葉が明らかに浩司のものに変わっていた。
「ユナ」
まゆ子が呼びかけると、ユナは人差し指を鼻先に立てて、「シーっ」と言った。そして突然立ち上がり、何かをつぶやきながら参列者の波の中へ歩き出していく。
「あ、だめよ、ユナ」
まゆ子は引き止めようとしたが、座ったままの姿勢が窮屈で、すぐには立ち上がれなかった。ユナはまっすぐ最前列へ歩いていく。そこには、義姉のみほがいた。みほは夫のトオルと並んで座っている。ユナはみほの隣に置かれた紺色のバッグを指さした。
「パパ、これだね」
「ちょっと、何をするのよ」
「パパがこの鞄の中、調べて欲しいって言ってるの。この言葉が何を意味してるのか、みほ姉さん分かってるよね」
まゆ子は我が耳を疑った。ユナの口から出たのは間違いなくユナの声だったが、その口調は明らかに浩司が怒りに満ちた時のそれだった。
「この鞄の中には何も入っていないわよ」
「みほ姉さん、最近眠れないって診療内科で薬もらってるよね」
僧侶の読経はとっくに止んでいた。四歳の子供が大人びた口調で話す姿に、参列者の誰もが息を呑んで見守っている。
「何これ? ちょっと気持ち悪い」
「うちの娘が気持ち悪いってどういうことですか」
まゆ子が声を上げると、ユナはさらに畳みかけるように続けた。
「まゆ子、話し残しておるんじゃないよ。その薬、俺のコーヒーマグに入れて飲ませたよね。マグカップは飲みかけのまま、まだ俺の机の上に置きっぱなしになってるよ。もう一週間も経ってるのにね。誰もマグを洗おうとしないんだよ。警察に証拠として抑えるように伝えてくれるかい?

」
「あ、はい」
まゆ子は思わず返事をしていた。ユナの背後に、夫の浩司が立っているような錯覚に襲われた。股関節が悪くてユナを抱っこできない彼が、代わりに肩を抱き寄せて包み込むようにしていた姿まで、まるでそこにあるかのように想像できた。
「それで、姉さん。多分姉さんがコーヒーに入れたのは、眠る前に飲む薬か、気分が落ち着かない時に飲む薬だね。バッグの中に入ってるのは、分かってるんだ」
ユナの口調は冷静で、聞き慣れた浩司のものだった。
「おばちゃま、ゆうな何でもお見通しなのよ」
急にユナの声に戻って、みほに声をかけた。その時には、みほ自身が過去を起こしており、苦しそうに唸っていた。顔色は真っ青で、唇が震えている。
「なんだか、ママ、眠くなっちゃった」
ユナは大きく息を吸うと、まゆ子の腕の中に倒れ込むようにして眠り始めた。葬儀場がざわついた。誰もが白い布がかけられた棺桶と、まゆ子の腕の中で眠るユナを交互に見ている。ここに参列している誰もが、この奇妙な出来事の目撃者になった。
トオルさんが立ち上がり、みほのバッグの中を改めると、丸い薬袋が二つ出てきた。
「何をするの。これがないと、私」
「お前か。浩司をあの世に送ったのは」
トオルが激昂して叫ぶ。みほは肩で息をしながら、自分の夫を見つめ返していた。この構図から明らかに、みほが浩司のコーヒーに薬を入れたこと、そして階段に導いたことが見えてくる。
「違う。あなただって。あなたが取締役になれないって言ってたから」
「とおる君も、一連の事件とは別のところで何かしているよね。おじ様、この場では言うべきではないことは分かっているけれど、会社に損失を出しているね。その分を補填しているようだが、その金はどこから出てきたんだ? 」
ユナは目を閉じたまま話している。まゆ子にはもう、それが誰の言葉なのか分からなくなっていた。いや、分かっている。これは浩司の言葉だ。
「以前、浩司と一緒に投資目的で購入した海外の事業の利益を当てました」
「そして社外取締役に、浩司の社長就任を思いとまるように持ちかけたのも、認めるね。浩司が会社資金の使い込みをしているから調べているとまで言ったそうじゃないか。どうして、それ」
「浩司が次期社長になることは、もう浩司が生まれた時点で決まっていたんだ。みほが会社をやめなければ、みほに取締役を務めてもらっていたはずだったんだが。君に会社の実験を握らせるのはやめておいて正解だったな」
「これだから、家族経営の会社には就職したくなかったんだ」
みほが吐き捨てるように言う。
「こう言ってみほが身内だと分かって、恋愛関係に発展させたのは君だろう。そうです。だが、営業本部長としての実績は認めている。死亡事故と不正経理、認めるね」
トオルは唸るようにして、こちらを睨みつけた。
「浩司はね、それらを全て把握して是正するために動き始めていたんだよ。その矢先に、このようなことがあってね」
トオルさんとみほさんの近くには、いつの間にか警官が二人立っていた。トオルさんは直接浩司の高価には関わっていないけれど、会社のお金を使い込んでいたようだった。それを隠すために、みほさんを一人悪者にしようとした。その構図も見えてきた。
「こちらの一件も、すでに被害届は出してある。ここに警官が来ているのは、君たちが、浩司、家族の生活を脅やかしたことの証拠が固まったからだよ」
不審火や、ユナの身を脅やかすために幼稚園へ電話をかけたこと。それもすべて当てはまる。今日はそれだけではなく、浩司を殺めたことや、会社の不正経理といったことまで、芋づる式に明らかになってしまったようだ。もう、葬儀どころではない。トオルさんとみほさんは、すでに葬儀会館の外に連れ出されていた。
まゆ子は着物が着崩れてしまっていることも気にせず、そこへへたり込んだ。どうして、この人たちの私利私欲のために、浩司はあちらの世界へ旅立たねばならなかったんだろう。もっともっと、ここにい続けられたはずなのに。まゆ子は白い光沢のある布がかけられた棺桶を、丁寧に撫でた。葬儀が中途半端なまま終わってしまったが、もう出棺だ。火葬場へ向かわなければいけないということが分かってはいるけれど、まだ浩司はここにいて、話を聞いてくれている。さっきのユナの振る舞いを見て、気づかされた。浩司を連れて行かないでと言いたかったが、もうここには浩司はいないのだ。重たくなったユナを抱っこして、まゆ子は叔父の車で火葬場へ向かった。
あれから少しの時間が経過した。まゆ子とユナは、あの家を出ることにした。浩司が相続するはずだった不動産は、まゆ子とユナが相続することになった。問題がありそうだったので、マンションへ引っ越し、不動産などは全て売却しようということで弁護士と話をまとめたのだ。しばらく暮らせるだけの資産は残されたが、まゆ子も働かなければならなかった。
引っ越し荷物を段ボールに詰めながら、まゆ子はふとユナに聞いた。
「ねえ、ゆうな、パパはまだいるかな? ママはパパと最後のお話、できなかったんだ」
ユナはまゆ子の方を向くと、いたずらっぽく笑った。
「パパ、帰ってきているよ」
「え? 」
「ママ、もう分かってるでしょ?
パパはね、ママが心配でたまらなくて、さとるちゃんになって帰ってきたよ」
さとるちゃん。初めて聞く名前だった。近所の子でも、幼稚園のお友達でもない。
「あのね、ゆうながママのお腹の中にいる時にね、さとるちゃんと一緒に遊んでたんだよ。さとるちゃんと一緒におにぎり食べたんだよ」
「え? 」
「さとるちゃんに一緒に行こうよって誘ったんだけど、さとるちゃんはもう少し待っててねって言うから、ゆうなだけ外に出てきたの」
確かに、まゆ子は最近妊娠が分かっていた。まだ実家の両親にも、ユナにも伝えていない。
「さとるちゃんは、パパだよ」
ユナはそれっきり、このことについて一言も話さなくなった。
その後、まゆ子は無事に男の子を産んだ。名前は、ユナの言う通り「悟」と名付けた。そういえば、ユナを妊娠していた時、浩司がこんなことを言っていたのを思い出す。
「女の子だったらユナ、男の子だったら悟。悟はあて字だけどな」
もちろんこれはユナには話したことがない。まゆ子は、悟を抱き上げながら思った。浩司はちゃんとここにいる。ユナが教えてくれた。ユナと悟を大切に育てていこう。まゆ子は心に誓った。