午後二時を少し過ぎた頃だった。遠くでサイレンが鳴った。一台ではない。重なるように、けたたましく響く。胸の奥がざわつく。嫌な予感というやつだ。
「先生、国道で大型トラックと乗用車の多重事故です。救急が足りず、重症者がこちらにも回されます」
診療所の空気が一瞬で変わった。穏やかな午後が音を立てて崩れる。ストレッチャーが次々と運び込まれる。血の匂いが消毒液と混ざり、看護師の声が飛び交い、モニターの電子音が鳴り響く。その中に一人の若い女性がいた。顔面は蒼白で、唇の色が薄い。両手で腹部を押さえ、意識は混濁している。
大島事務が早口で説明する。
「妊娠八ヶ月。衝突時に腹部を強打です。出血が止まりません」
俺はすぐに腹部を触診する。異様な張り。硬い。これはまずい。モニターが接続される。
「血圧九十を切りました。脈拍百二十」
数値が落ちていくのが目に見える。赤ちゃんの心拍も低下している。常位胎盤早期剥離の可能性が高い。母体も胎児も危険な状態だ。背中に冷たい汗が流れる。
外部搬送する方法もある。最寄りの総合病院まで約四十分。この出血量では、その時間が致命的になる。ストレッチャーの横で若い男が立ち尽くしている。顔は真っ青だ。
「先生、妻と赤ちゃんをお願いします」
言葉が途切れる。両手を握りしめ、必死に涙をこらえている。俺はここでやるのか。この設備で。
十年間、俺は大きな手術から離れてきた。それでも目の前にあるのは命だ。モニターの警告音が一段と高くなる。
「出血量増えています。時間がありません」
急がなければならないのは明白だった。診療所の空気が張り詰める。全員の視線が俺に集まる。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。迷いか。それとも、俺の中で何かが静かに動き始めていたのか。
俺の名前は立花玲介。五十八歳。山あいの小さな町で診療所の医師をしている。少なくとも肩書きの上では。
朝七時。診療所の窓を開けると、冷たい空気が白衣の袖をすり抜ける。遠くでトラクターの音がする。ここでは救急車のサイレンも都会ほど頻繁には鳴らない。待合室の長椅子、壁の古い時計、消毒液の匂い。全てが穏やかだ。
俺はカルテをめくりながら、ふと手を止める。車での事故から十年。あの日の衝撃は覚えている。だが、その直前の数年だけが綺麗に抜け落ちている。まるで、そこだけ誰かが消しゴムで削り取ったみたいに。
俺は大学病院の最前線に立っていたらしい。難症例を任され、何度も命を繋いできたと聞く。だが、その記憶がない。手術室の光景も、患者の顔も、共に戦った仲間の姿も、俺の中には何も残っていない。
受付から声がかかる。
「先生、今日の予約です」
振り向くと、妻のゆかりが立っている。白衣をきちんと着こなし、静かな目で俺を見る。ゆかりは俺の妻であり、元麻酔科医だ。事故の後、彼女は第一線に戻らなかった。俺の隣に残った。
「午前は軽い処置だけですね」
俺は頷く。大きな手術を今日もやることはない。実際、この十年、俺は執刀していない。できないわけじゃない。だが、しない。
記憶を失った他に理由がもう一つある。強い集中が続くと、頭の奥に鋭い痛みが走る。視界の端が白く滲み、鼓動が耳鳴りのように響く。長時間のオペは危険だと、医者である俺が一番分かっている。だから俺はメスを置いた。
診察室の机に置いた自分の手を見る。指は太く、節は硬い。医者の手だ。だが、その手で何を積み重ねてきたのか。そこだけが空白だ。
俺は何をやっていたんだ。小さく呟く。その声だけが、朝の静かな診療所に響いた。
その日の午後、診療所の玄関が開き、懐かしい声が響いた。
「相変わらず静かな場所だな」
コートを羽織った男が立っている。岡本耕一郎。大学病院で今も現役の医師を続けている、俺の元同僚だ。十年前の事故の後、何度も俺を見舞いに来た男でもある。俺は診察室の椅子から立ち上がる。
「珍しいな。大学はどうした?」
岡本は肩をすくめる。
「たまには田舎の空気も悪くない」
だが、その目は笑っていない。診察室の奥にある、ほとんど使われていない手術室の扉へ視線を向ける。
「まだメスを置くのか」
静かな問いだった。攻めるでもなく、ただ確かめるように。俺は苦笑する。
「置いたんじゃない。置けなかったんだ」
岡本は黙って俺を見る。俺は視線をそらし、窓の外を見た。
「集中が続くと、頭の奥が割れるように痛む。視界も揺れる。長時間のオペは無理だ。事故の後からだ。原因は脳の軽い損傷だと説明された。命に別状はない。だが、限界はある」
岡本はゆっくりと息を吐く。
「それでも、お前の手は鈍っていないはずだろう」
俺は何も答えられない。その言葉が胸の奥をわずかに揺らす。俺は自分の手を見つめる。本当にそうなのか。俺はもう一度、あの場所に立てるのか。
診療所の時計の秒針が、やけに大きく響いていた。
その日の夜。診療所の明かりはほとんど落ち、廊下には足音だけが響いている。俺は一人、使われなくなった手術室に立っていた。無影灯の冷たい光。静まり返った空気。気づけば俺は棚の前に立ち、メスや鉗子を取り出しては並べ直している。向き、持ち替えの順、置く位置。考えているわけじゃない。ただ手が勝手に動く。
「これは違うな」
わずかに角度を直す。その時、背後から足音がした。
「変わっていませんね。その癖」
振り返ると、ゆかりが立っていた。柔らかな明かりに照らされ、静かに俺を見ている。
「癖? 俺は自覚がない」
「あなたは必ず右から順番に並べ直すんです。誰が触っても。事故の前も、ずっとそうでした」
胸の奥がわずかにざわつく。だが、思い出せない。俺は並べられた器具を見つめたまま、ぽつりと口にする。
「俺は、まだ医者なのか」
弱い声だった。自分でも情けないと思うほどに。ゆかりはすぐには答えない。数歩近づき、俺の手の上に自分の手を重ねる。温かい。
「あなたは今も医者です」
その声には迷いがない。
「患者を前にした時のあなたの目は、今も変わっていません」
俺は視線を落とす。自分の手を見る。震えてはいない。失った記憶は戻らない。だが、ゆかりの眼差しだけは十年前と同じ。俺を信じている目だ。手術室の静けさの中で、俺はただそのぬくもりを感じていた。
手術室の前。空気が重く沈む。事務の大島が一歩前に出る。
「先生、ここでやるべきではありません」
声は強い。事務としてではなく、医療者としての判断だ。
「設備が足りません。輸血量も限界があります。搬送を優先すべきです」
言っていることは正しい。冷静で合理的だ。俺はモニターを見る。血圧はさらに下がっている。胎児の心拍は不安定だ。岡本はまだ到着していない。大学病院からここまで、少なくとも三十分はかかる。間に合う保証はない。大島が続ける。
「先生に万一のことがあれば、この診療所は終わります」
万一のこと。その言葉が胸の奥に刺さる。集中が続けば、あの頭痛が来る。視界が揺れる。吐き気が走る。途中で倒れたらどうする。執刀が崩れたら、それこそ終わりだ。俺は唇を噛みしめる。
その時、先ほどストレッチャーの横に立っていた若い男。妊婦の夫が、ゆっくりと俺の前に歩み出た。作業着のまま、事故現場からそのまま搬送されてきたのだろう。袖口には乾ききらない血がついている。
「先生、お願いします。助けてください」
必死に涙をこらえている。
「搬送で間に合わなかったら、俺は一生後悔します」
声が震える。
「妻も子供もお願いします」
俺の胸の奥で何かが軋む。十年間、俺は大きな手術から距離を置いてきた。自分を守るためだったのかもしれない。だが、目の前にあるのは理屈ではない命だ。頭の奥がじわりと重くなる。まだ痛みは来ていない。だが、怖い。失敗したらどうする。途中で頭痛が来たらどうする。もし、どちらも救えなかったら。
大島の視線。夫の懇願。モニターの警告。全てが俺に迫ってくる。手術室の前。ドア一枚隔てた向こうで、モニターの電子音が鳴り続けている。俺の呼吸が乱れる。頭の奥に重みがある。まだ痛みではない。俺は壁に手をつく。情けないほど、体が震えている。
その時、ゆかりが俺の前に立った。まっすぐ俺を見る。
「血圧管理は私が見ます。あなたは目の前だけを見て」
声は静かだ。一切の揺らぎがない。
「輸血もモニターも、全部私が支えます。大丈夫。あなたならできるわ」
俺の呼吸が少しだけ整う。
「頭痛が来たら、すぐ言ってください。無理はさせません」
その言葉は、医師としての冷静な判断だった。十年間、隣に立ち続けてきた人間の覚悟だ。
「私はあなたを信じています」
ゆかりは一歩近づき、俺の両手を握る。
「あなたは逃げる人じゃない」
胸の奥で何かが静かに解ける。恐怖は消えない。だが、俺は決意した。深く息を吸う。そしてゆかりを見る。
「分かった。ゆかり、見ていてくれ。俺がやる」
ドアの向こうで命が待っている。俺は手術室の扉を押し開けた。
無影灯の光が視界を白く包む。腹部を切開した瞬間、内部に溜まっていた血液が一気に溢れ出た。出血量は多い。想定以上だ。
「血圧、八十代に低下」
モニターの数値が下がっていく。時間がない。俺は吸引で視野を確保しながら、胎児の位置と出血源を同時に確認する。母体も胎児も限界が近い。
「輸血開始。血圧維持できます。続けてください」
その声は驚くほど落ち着いていた。ゆかりの声だ。俺の手は迷わず動く。頭で考えるより先に、体が必要な動きを選んでいる。
「胎児の心拍、さらに低下しています。今です」
その合図と同時に、俺は最後の操作に入った。胎児が取り上げられ、助産師の腕の中へ渡る。次の瞬間、か細いが確かな産声が上がった。
だが、まだ終わっていない。母体の出血が続いている。俺は素早く縫合に移る。針を持ち替え、出血点を確実に抑えながら、組織の深さと角度を指先で測る。過去に何度も繰り返してきた動きが、静かに正確に積み重なっていく。
「血圧、戻り始めています」
出血を一つずつ潰していく。焦りはない。ただ確実に止める。それだけだ。最後の縫合を終え、状態を確認していたその時だった。頭の奥に鋭い痛みが走る。まるで神経を直接掴まれたような感覚。一瞬、視界が揺らぎ、無影灯の光がわずかに滲んだ。
来たか。まずい。だが、俺は目を閉じない。手も止めない。まだ確認すべきことがある。出血の再発がないか。血圧は安定しているか。縫合部に緩みはないか。
「血圧、安定しています。大丈夫。落ち着いて」
妻がすぐ隣で支えてくれる。
「玲介、呼吸をゆっくり」
俺は深く息を吸い、長く吐き出す。緊張が少しずつ解けていく。
「焦らなくていい。あなたのペースで」
すると不思議なほど、視界が澄んでいく。俺は改めて術野を見る。出血は制御されている。縫合は確実だ。母体の数値も落ち着いている。
「赤ちゃん、元気です」
助産師に抱かれた赤ん坊が力強く泣いている。その声が手術室いっぱいに広がる。
「母体も安定。成功です」
成功。その言葉が胸に落ちる。俺はゆっくりと息を吐いた。頭の奥の痛みは、いつの間にか薄れている。失った記憶は戻らない。だが、それでいいと思えた。俺の手は迷わなかった。俺の判断はぶれなかった。そして今、母子は生きている。
「あなたはやっぱり、あなたです」
俺は無影灯の下で静かに頷いた。俺はまだ、医者だった。
手術室の扉が開いた瞬間、外で待っていた夫が立ち上がった。俺が小さく頷くと、彼の目から一気に涙が溢れた。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
何度も頭を下げ、泣いている。
「お母さんも赤ちゃんも安定しています」
ゆかりの声はいつものように穏やかで、少しだけ誇らしげだった。そこへ足音が近づく。
「やっぱりな」
息を切らしながら現れた岡本が、俺をまっすぐ見て笑う。俺はゆっくりと首を振った。
「戻ったわけじゃない。今の俺で、なんとかやれただけだ」
岡本は何も言わない。事故前の記憶は戻らない。だが、不思議と悔しさはなかった。
廊下に出ると、夕方の光が床を柔らかく染めていた。診療所は少しずつ、いつもの静けさを取り戻している。俺はゆかりと並んで歩く。
「本当に、お疲れ様でした」
「お前がいなければ、できなかった」
ゆかりは小さく首を振る。
「私は、あなたの隣にいただけです」
ゆかりは足を止め、まっすぐ俺を見る。
「あなたは怖がっていましたね。でも、それでも前に出ました。それが、あなたです」
「ゆかり。俺はまだ、医者でいられるか」
弱々しい問いだった。ゆかりは迷わず頷く。
「あなたはずっと医者です。記憶がなくても、今日のあなたを見れば分かります」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「厳しい試験だったな」
「でも、満点だったと思いますよ」
ゆかりはにっこりと笑った。失った時間は戻らない。だが、彼女はずっと俺を信じ続けてくれた。
「これからも、隣にいてくれるか」
ゆかりは少しだけ目を細める。
「今更何を言ってるんですか。私は最初から、そのつもりです」
俺はゆかりと並んで歩き出す。夕日が廊下を染め、二人分の影がゆっくりと重なる。失ったものは確かにある。戻らない時間もある。だが、俺は一人ではなかった。今日、そのことをはっきりと知った。記憶がなくてもいい。俺はもう一度、前を向いて立っている。
