「住む場所さえあれば十分だよな。だからやるよ。あの家、好きだっただろ」――カル、いや、元夫の言葉を思い出す。離婚を切り出された時、彼は平然と言ってのけた。私は言い返す気力も、考える力も残っていなかった。
のんびりしてたら、あっという間におばあさんになっちゃうわ。この家に来て三ヶ月。いつまでも心の傷を理由に片付けを放置しておくわけにはいかない。意を決して、私は階段を上がった。
二階の部屋の押入れを開けた瞬間、思わず声が漏れる。荷物で溢れていると思ったそこが、意外にも空っぽだったからだ。しかし、何気なく下の段を覗き込んだその時である。
何かしら。暗がりに黒いゴミ袋が見えた。物騒なものでも入ってやしないわよね。引き寄せて、結び目を開く瞬間、全身に鳥肌が立った。
それって……。手にしたものを抱きしめる。気づけば私は子供のように泣いていた。
私の名前は都知恵子。六十四歳。築百年の古い一軒家で、現在は一人暮らしをしている。二十三歳で結婚し、娘を出産したのが二十七歳。大学進学と共に家を出ていった彼女も、今ではすでに一児の母だ。孫は五歳になるはずだが、もう長いこと会っていない。
老後は娘とたまにお茶をしたり、時には孫を預かったりと賑やかに過ごすのだと思っていた。しかし、私は独り。床板が軋み、天井も歪むこの家で、日がな一日、間違い探しをしている。
高齢者がよくやるノート用の間違い探しとは違う。私は自分の記憶を辿っているのだ。どこで躓いたのか、何がおかしかったのか。人生を振り返り、ずっと己に問い続けている。けれど聞こえてくるのは、風でばたつく縁側の戸が立てる音や、天井を走るネズミか何かの足音だけ。
やっ。独り言と共に立ち上がる。水切り籠に伏せておいた湯呑みと急須は、どちらもこの家に元からあったものだ。これらの道具たちも、まさか今になってまた使われるようになるとは思っていなかったに違いない。というのも、ほんの数ヶ月前までここは空き家だった。
十年前に義父が、七年前に義母がそれぞれ他界し、以来誰も寄りつかず放置されていたのだ。しかし、今になってみれば、打ち捨てられ、忘れられたこの家だけが私の財産である。
「住む場所さえあれば十分だよな。だからやるよ。あの家好きだっただろう」
元夫・カルであり、幼馴染みだった彼は、私の育った家庭環境をよく知っていた。だからこそ、「好きだっただろ」という言葉に、強烈な棘が含まれていると分かる。無意識のうちに、私は記憶を手繰り寄せ始めた。
ふと脳裏に浮かんだ一言から、芋づる式に色々なことを思い出すのはいつものことだ。湯呑みを手に、今度はテーブルの前に腰を下ろす。
いつからバカにされていたのかしら。そう呟き、私はまた間違い探しを始める。
私の育った家庭は、一言で言えば荒れていた。酒好きの父は仕事を頻繁に変え、給食調理員とホテル清掃を掛け持ちしていた母が大黒柱だった。母はいつも忙しく疲れていて、一緒に食卓を囲んだ記憶がほとんどない。平屋建ての小さな借家に暮らしていたが、酔っ払う父と二人きりになるのが嫌で、よくカオルの家に逃げ込んだものだ。
「ここは居心地がいい。本当の家って感じがするから」
子供の頃からずっと。それが私の口癖だった。カオルの一人部屋があり、父親の書斎があり、台所に立つ母親の姿があり、酒の瓶や缶が散乱していない。大きいだけで古臭いだろうと彼は笑ったが、私には羨ましすぎる環境だった。
母が亡くなったのは高校三年生の頃である。間もなくして家賃が払えなくなり、家を追い出された。私は高校卒業後、工場に職を得て社員寮に入ったが、父は蒸発。どこで何をしているか分からないまま月日が経ち、二年後、突然警察から連絡があった。父は雪の降る夜、道端で倒れているところを通行人に発見されたのだという。病院に運ばれたが、すぐに息を引き取ったそうだ。
火葬場の扉が閉まる時、一緒にいてくれたのはカオルだった。
「泣いていいんだよ」
彼はそう言ってハンカチを渡してくれる。しかし、涙は出なかった。
「俺の前では強がらなくていい。結婚しよう。大学を出たら迎えに行く。チエコは俺が守るよ」
力強く優しい言葉。この人しかいないと、あの時私は心から思えたのだ。長い結婚生活の中で、火葬場でのプロポーズは次第に笑い話となった。二人で顔を見合わせて笑う。その景色は今でも鮮明に思い出せる。
「良かったじゃないか。立派な一軒家だぞ。チエコだけの城だ。ありがたく思えよ」
しかし、カオルと最後に交わした会話には、夫婦として暮らした四十余年を全て無にする乾いた響きしかない。彼はいつから私への愛情を失い、あんな意地悪な笑みを向けるようになっただろうか。
だめね。思い出せない。天井に広がる人の顔の形をした染みを見つめながら、一人呟く。
カオルの不倫が発覚し、すぐに「別れて欲しい」と開き直ったように言われた。慰謝料はこの家だと、悪びれる様子もなく告げる彼の顔が染みに重なって見える。本来ならもっときちんと話し合うべきだったのかもしれない。財産のことだって主張すれば、別の形になっていた可能性もある。けれど、あの時の私にはそんな気力が残っていなかった。信じ、愛した人との長い結婚生活が終わる。その事実を前に、十分すぎるほどに心が疲れていたのだ。
加えて、カオルの不倫相手の正体が、無気力に拍車をかけていた。もしも相手が別の女性だったら――と、意味のないことを考えてしまう。それほどの衝撃だった。
繁田好美。中学からの同級生であり、私の親友。その彼女こそがカオルの不倫相手である。
昔から私たち三人は仲が良かった。父から逃げてカオルの家に避難していると、決まって彼女も顔を出す。一緒に宿題をしたり、漫画を読んだり、おしゃべりしたり。思い返す青春時代には、カオルだけでなくいつも好美の姿があった。
「ねえ、聞いて。また告白された。中学生になってまだ三ヶ月なのにもう六人目よ。私が魅力的だからしょうがないんだけどね」
美しい容姿に加え、明るく活発。勉強もよくできて運動神経も抜群な好美は、学年で一番目立つタイプの生徒だった。
「ねえ、どうして私なんかと仲良くしてくれるの?」
一方の私は自分に自信など全くない。大人しくて見た目も平凡。成績は中の下。優れたところを見つけるのに苦労するほどだ。
「そんな言い方しないでよ。私はチエコのことが大好き。あなたは特別だし、一緒にいるとすっごく楽しいわ」
入学式の日、彼女の方から声をかけてきてくれたのだが、華やかな女の子たちと仲良くなれるであろう好美が、どうして私を選んだのか。その理由を聞いたつもりが、答えはいつも同じで結局分からずじまいだった。ただ、人気者の彼女と一緒にいるだけで私にも自然と友達が増え、楽しい中学校生活を送ることができたのは確かだ。
私がカオルの家によく行っていることを何気なく話した時、好美は私という親友がいながら、と嫉妬さえした。だから彼女もカオルの家に来るようになったし、そうして彼とも仲良くなったのだ。
私はどこかで、きっと二人が付き合い始めているのだろうと考えていた。好美と私は三年間同じクラスだったのに対し、カオルとはずっと別クラス。なのに彼女と仲良くなったわけだから、好美と親しくなろうと奮闘していた多くの男子にとって、カオルは嫉妬の対象だった。
そして、真剣な尋問と愚痴が始まる。カオルは日々、好美のモテっぷりを実感していたはずだし、彼自身も明るく社交的なタイプだったので、むしろ私よりも彼女と気が合っただろう。気づけば私を除いて二人で会うようになり、交際開始の報告を受ける日が来る――そんな覚悟を持ちながらの毎日だったものの、予想に反し、現実にならぬまま中学卒業を迎えた。
だが、覚悟を強めるべきはここからだったと、私はようやく気づくことになる。好美とカオルが同じ高校へ進んだからだ。地元の私立高校の進学コースである。カオルは初めからそこを第一志望としていたが、好美は県内一番の進学校を目指していた。しかし試験当日、思ったように実力が出せず結果は不合格。彼女は滑り止めとして受けていたその私立へ行くこととなった。
一方、私といえば学力に見合った公立高校。届いた制服を見せ合おうと三人で集まった時、華やかな二人と明確な差を突きつけられた気がした。
「チエコの通学路、ちょうど俺の家の前を通るだろう。これからも変わらず遊びに来いよ」
彼はそう言ってくれたが、私は素直に頷けない。おそらく入学して間もなく、好美とカオルは恋人同士になるだろう。そうすれば、もうカオルの家に逃げ込むこともできなくなる。中学ではたまたま好美が声をかけてくれたが、彼女のような存在が高校にもいるとは限らない。そもそも、私に友達ができるのか? 二人がいなくなった世界で、どうやって生きていけばいいのだろう。
寂しさと不安に押し潰されそうになりながらも、入学の日は慌ただしくやってきて、高校生活は始まった。だが意外にも、私と似た大人しい女子が多く、心配していた友達作りには成功。静かに目立たず、それなりに楽しい毎日だった。好美のような人気者と過ごした中学時代が幻だったのではないかと思えたほどだ。
私の高校入学と時を同じくして、父は土木作業員として働き始めた。家から遠い現場での寮暮らしの仕事だ。父が不在となったおかげで、以前のようにカオルを頼る必要もなくなった。幼馴染みだからと甘えて彼の家に入り浸っていたものの、本心では申し訳なかったのだ。母は相変わらず激務だったので、ほとんど一人暮らしのような状況だった。しかし寂しくはない。実はこの頃、生まれて初めて夢中になれるものに出会っていたのだ。
きっかけはクラスメイトの一言だった。家庭科の授業で布を切って巾着を作った際、家にあった布を適当に合わせただけの私の作品が、女子たちから好評を得たのだ。するとその翌日、ピアノを習っていた友人からある相談を受けた。
「発表会に着ていくワンピースなんだけど、一緒に選んでくれない?」
「え、あ、私が?」
「ええ、だってチエコちゃん素敵なの作ったじゃない。センスがいい証拠だわ。だから選んで欲しいの」
週末、友人とその母と私でデパートへ行き、色々な服を見て回った。肌の色に合うもの。工夫すれば大人になっても着られそうなもの。そのようなことを意識して選んだ一着を、二人はとても気に入ってくれた。人の役に立てたことが嬉しくてたまらず、家に帰ってからも興奮が覚めない。ふと目に止まったノートの隅に、彼女が今日選んだワンピースを着ている姿を描いてみた。色も塗ってみたくなり、押入れの奥から子供の頃に買ってもらった色鉛筆のセットを引っ張り出す。そのうち、こんな靴が似合うのではないか、ベルトをしてみたらどうか、小物をつけてもいいかもしれないと、アイディアが湧き出てきた。気づけば空が白んでいる。夢中で描いていたのだ。見ると、選んだワンピースから派生して、私は次々に新しい洋服をデザインしていた。
これ、本当に私が書いたの? 以来、私はデザイン画を書くことに夢中になり、多くの時間を費やすようになる。趣味が見つかると、こんな気持ちにもなった。たとえ好美とカオルが交際を始めても、喜んで祝福しようと。人間というのは不思議なものだ。自分の心が充実すると、何もかもが喜びの種に見えてくる。こうして私は高校入学前に抱いていた恐れや不安を克服し、ほんの少し自分を好きにもなれた。しかし、夏休みに入る頃、思いもしなかった出来事に見舞われる。カオルに告白されたのだ。
色鉛筆を買いに寄った文房具店。目当てのセットが見つかってほくほくした気持ちで店を出ると、目の前にカオルが立っていた。久しぶりに会う彼は、記憶の中の姿よりも大人びて見える。少しドキドキしながら笑いかけると、カオルは不機嫌そうな声で言った。
「どうして来ないんだよ。俺の家。父ちゃんも母ちゃんも、チエコに会いたがってるぞ」
「ああ、ごめん。実はね、お父さんが仕事を見つけたの。遠くの工事現場での仕事。寮に入ってるから、家に帰ってこなくて。それで……」
「ただの避難所だったってわけか」
彼は不機嫌に顔を背け、唇を尖らせる。
「そういうことじゃなくて。確かに避難させてもらってたんだけど」
返答に困り、私は黙り込む。ずっと迷惑をかけている、甘えているという意識があった。カオルの家に行かなくて済むなら、それが一番いいのだと思っていたのだ。だから、こんな風に言われると、どう返せばいいのか分からなくなる。
「俺の家好きだって、いつも言ってたじゃないか。嘘だったの?」
「もちろん大好きよ。広くて温かくて、私にとっては理想の家だからこそ、お世話になりっぱなしで申し訳なくて」
「そんな風に思わなくていい。というか、俺だって待ってるのに」
「え?」
思わず聞き返した瞬間、カオルは照れ臭そうに頭を掻いた。そしてしばらく視線を泳がせた後、覚悟を決めたように口を開く。
「俺たち、付き合わないかな」
あまりにも突然で、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。そして、まず頭に浮かんだのは好美の顔だ。
「こ、好美は? 好美じゃないの?」
「どうして好美さんが出てくるんだよ」
「だって、二人は頭がいいし、見た目もお似合いじゃない。高校も同じところへ行ったんだから、毎日顔も合わせるでしょ。私なんかがもう入る隙はないんだろうなって」
必死に言い訳する私の顔を覗き込み、カオルは言った。
「もちろん廊下であったら話すよ。だけど、彼女はよくモテるし、俺なんか眼中にないだろう。それに……俺はチエコがいいんだ」
まっすぐな一言に、胸の奥が熱くなる。一緒にいると安心できる。側にいてくれた人だからこそ、彼の言葉は本心だと思えた。偽りなく、私に気持ちをぶつけてくれたのだ。泣きそうになるのを堪えながら、私はこくりと頷いた。こうして私たちは交際を開始し、このことはカオルが好美に話すということになった。
「茂田さんがダブルデートしないかって。お前にも彼氏がいるんだろ?」
交際開始の報告を終えたという報告をカオルが電話でくれた時、彼がいきなりこんなことを言う。
「ダブルデートって、好美にも恋人がいるの?」
驚く私に、カオルは「そりゃそうだろ」と笑った。
「言っただろ? 好美さんはモテるって。彼氏くらい、とっくにいるさ」
「そう……よね」
思わず声のトーンが落ちる。寂しかったのだ。とはいえ、身勝手な感情だとも理解している。高校に入ってから、私も好美と会おうとしたことはない。友達ができて趣味を見つけ、充実していたから、彼女を必要としなかったのだ。なのに、恋人ができたことを教えてもらえていなかったからと言ってショックを受けるのは、筋違いだろう。
「というか聞いてなかったの? 君たちは親友だと思ってたけど」
「もちろん、私はそのつもりよ」
「でも、好美さんはチエコのこと、親友だと思ってなかったってことかな。なんちゃって」
ただの冗談だと分かっている。しかし、カオルの言葉は妙に胸に引っかかった。
「そんな言い方しないで」
声は小さくなったが、本音である。しかし、帰ってきたのはお気楽な笑い声だった。
「言っとくよ。チエコがショックを受けてたよってさ」
「やめて。言う必要ないわ」
「冗談だよ。真に受けるなって」
受話器を握る手に力がこもる。好美に嫌われたくなかったからだ。ただ、くだらないことで喧嘩になるのも馬鹿らしい。付き合い始めたばかりなのだ。カオルとはずっと仲良しでいたかった。
「行き先はまた学校で茂田さんと話し合っておくよ。彼女、色々詳しいと思うからさ。チエコは俺の家以外、遊ぶ場所を知らないだろう?」
「う、そうね」
「日取りについても決めておくね。君は趣味もないんだから、悪いけどこっちの予定に合わせてもらうよ」
趣味という言葉を聞いた途端、「あっ」と声が漏れる。
「じゃ、そういうことで」
しかし、電話は切れてしまった。どうして「待って」と呼び止めなかったのか。受話器を置きながら、私は小さく後悔した。まあ、でも、いつでも話せるわよね。誰もいない部屋で一人言う。
喫茶店の窓際の席。向かい合って座る好美が、淡いブルーの紙袋を渡してきた。
「これ、レイちゃんに中学校入学のお祝いよ」
「あ、いいの?」
受け取って中を覗く。紙袋と同じ色の、おそらくはワンピースだった。
「新作なの。レイちゃん、肌が白いからよく似合うと思う。それに、年を重ねても長く着られるデザインよ。まあ、サイズが変わらなければの話だけどね」
覚えのある台詞に、私は目の前の好美をまじまじと見つめる。もう四十歳になるというのに、肌はつやつやで、シミは一つない。きっと高い化粧品を使っているのだろう。彼女は今や、自身が立ち上げたアパレルブランドを率いる人気デザイナーだ。メディアへの露出も多いから、まとうオーラは芸能人のようだ。
「本当ね。とっても素敵」
ぽつりと言葉が漏れる。しかし、もらったワンピースを褒めたつもりが、好美の顔を凝視している自分に気づき、私は慌てて視線を下げた。
「ええ、袖の膨らみにこだわったの。レイちゃんが気に入ってくれるといいけど」
にっこりと微笑んだ彼女は、細長い指でコーヒーカップを持ち上げる。鮮やかなグリーンに塗られた爪。きらびやかな色だ。やはり働く女は違うと、思い知らされる。私があんな色の爪をしていたら、きっとカオルに「何を似合わないことしてるの」とバカにされるだろう。脳内でその台詞が再生された。
「そうだ。今度、また新店舗出すのよ。オープニングセレモニー、よかったら来ない? レイちゃんとカオル君と三人で招待するわ」
好美のブランドは雑誌でも頻繁に特集が組まれ、有名百貨店にも出店している。ガーリーでどこか懐かしさを感じるデザインは、世代を問わず多くの女性から人気だ。そんな彼女からの誘いは、ブランドのファンからしたら垂涎ものである。しかし、私のような専業主婦には縁がない世界だ。今手の中にあるワンピースも、値札は外されているが、おそらく交渉すれば六、七万はくだらないだろう。私には出せる金額ではないし、事実、好美の服を自腹を切って購入したことはない。
「どうだろう。レイの部活も始まるし、カオルは仕事が忙しいし……」
口にしてから、途端に惨めになった。忙しいのは娘と夫だけで、私自身には何の予定もない。家事をして家族の世話を焼くだけだ。自分のために使う時間などを、こんな風に宣言したような気持ちになったからだ。
「だったら、チエコだけでも。服に全く興味がないなんて女はいないでしょ。見ているだけでも気分が上がるわよ。素敵な人たちもたくさん来るし」
まっすぐに目を見つめられて、思わず黙り込む。「遠慮しておくわ」の言葉がどうしても出てこない。それでも何か言わなくてはと口を開いた瞬間だった。
「思い出した。そういえば、ここって……」
私から視線を外し、好美が店内をぐるりと見回す。釣られてきょろきょろする私に、彼女は嬉しそうにこう言った。
「高校生の頃、ここでダブルデートしたわよね」
とっさに首を傾げたが、ダブルデートという言葉と共に見るみる記憶が蘇える。同時に、苦しくて嫌な感覚が胸の内側に広がっていく。
「ほら、チエコとカオル君が付き合い始めてすぐ、私の当時の彼と四人で来たじゃない。映画を見てから、ここでナポリタンを食べたんだわ。もう二十年も経つのね。信じられない」
あの日、カオルと好美が相談して決めた行き先は都心の映画館だった。手持ちの服でできる限りのおしゃれをしたつもりだが、待ち合わせの場所に現れた自分以外の三人を見て、私は落ち込んだ。カオルも好美も、その恋人も、みんな背がすらりと高く、とても大人っぽかった。シンプルな服装も相まって、全員が大学生のように見えたのだ。
一方の私は、母のタンスから引っ張り出した、袖が膨らんだデザインのワンピース。昔、家族で一度だけ旅行へ行った際、母が着ていたものだ。彼女にとってはよそ行きの一番のお気に入りだったのだろう。ほとんど服を持っていなかった私は、それをこっそり借りて着てきたのである。
「これは随分と……」
カオルは女性の服装に頓着しないタイプのようだったが、好美の彼は違う。私を見た瞬間、そう呟いて笑いを堪えているのか、手で顔を覆った。それだけで顔から火が出そうになったが、追い打ちをかけたのは好美である。
「あら、そういえば私服姿は初めて見たかも。制服よりもっと幼くなるのね。羨ましいわ。私なんか何を着ても老けて見えるんだもん」
無邪気に言って、彼女は恋人と自然に手を繋いで歩き出す。ダブルデートは愚か、デート自体が初めてだった私とカオルは、彼らの後ろをただ並んでついていったのだが、振り返った好美はふっと吹き出した。
「やだ、手くらい繋ぎなさいよ」
言われたカオルはふいっと顔を背ける。
「うるさいな。俺たちはいいんだよ」
「意外と奥手なのね。学校ではやんちゃばかりしてるくせに」
その会話に、私は胸がざわりとした。私の知らないカオルがいる。当然だ。高校生になってからの学校での彼を、私は見たことがないのだから。分かっていたことなのに、私は俯いた。カオルが手でも握ってくれたら、少しは元気が出たかもしれない。しかし、聞こえてきたのは残酷な言葉だった。
「俺とチエコが手を繋いだら、小さな妹とその付き添いの兄みたいになるだろう」
思わず顔を上げる。彼は私をちらりと見て、すぐにまた好美に話しかけた。
「なあ、チエコに教えてやってくれよ。服とか化粧とか」
「またそういうこと言ってる。チエコはいいのよ。このままで可愛らしいじゃない。それに、映画だって子供料金で見られるかもよ」
「君はそういう冗談、どこで覚えてくるんだ?」
カオルが笑い、好美とその恋人も続けて笑う。映画館に着いても、映画が始まっても、私はずっと上の空だった。ぼんやりしたまま街を歩き、三人が入っていく喫茶店の扉をくぐる。慣れた様子でメニューをめくる好美の指先は、鮮やかなブルーに塗られていた。膝の上に置いた自分の手を見下ろす。子供のように小さく丸い爪が、ささくれと一緒に目に入った。
「チエコ、聞いてる?」
その声に、私ははっと顔を上げる。大人びた高校生の好美ではなく、小心照明の四十歳の彼女が、こちらを見て微笑んでいた。
「あの日、私と同じでチエコもナポリタン頼んだじゃない。でも、あなたフォークの使い方が下手くそで、服を汚しちゃったのよ。そしたらもう、ケチャップがべったりついて、それでお開きにしようってなったのよ。チエコがすんごく落ち込んじゃってたし。シミをつけたままの人と街を歩くのもね、かっこ悪いし」
おしぼりで一生懸命擦っても、シミはびくともしなかった。トイレに駆け込み、水で濡らしても、オレンジ色の異様な形は胸元に残ったままだ。本当は、ショッピングにも行きたかったのに。母の大切なワンピース。お気に入りの一着。それを台無しにしてしまった自分が、狭いトイレの小さな鏡に映っていた。忘れたかった映像が、鮮明に蘇る。
「ねえ、あのワンピース、そんなに大事だったの?」
好美の問いに、私は小さく頷いた。母の服だったの。それを勝手に借りて、汚しちゃったことを言えなかった。タンスの奥にしまい込んで、隠したの。誰にも言えずにいたことが、ぽろぽろと口からこぼれ出す。でも、母は気づかなかった。働き詰めだったから、よそ行きの服を着る機会なんてなかったのね。いつか謝ろうって、ずっと思い続けて、結局最後まで言えないままだったわ。あのダブルデートから二年後、母は旅立った。大切なワンピースを汚してしまったこと。そして、謝れなかったこと。ずっと胸に引っかかっていた。私は母に何も親孝行できなかったどころか、隠し事をしたままお別れとなったのだ。その事実を直視したくなくて、あの日の記憶に蓋をしていた。
「ああ、でも、親への隠し事や後悔くらい、誰にでもあるわよ」
私の深く暗い気持ちとは裏腹に、好美のあっけらかんとした声が響く。
「ああ、でも、まだ高校生だったもんね。お母さんが亡くなられた時って、寂しい悲しいだけじゃなくて、あのワンピースへの後悔もあったんだ」
彼女は痛みに寄り添おうとしてくれているのか。一瞬思ったが、続く言葉に頭が真っ白になった。
「その弱みに付け込んだって感じだね。火葬場でのプロポーズは」
はっと息を呑む。
「お父さんが亡くなったのは、二十歳の時よね。立て続けに親を失って、どん底の時に火葬場でプロポーズされたんでしょ。カオル君も計算高いわよね。頼る人がいなくなった瞬間を狙ったんだから」
「そんなことないわ」
反射的に大きな声が出る。
「父は全くもって頼りにならない人だった。だから、父が亡くなったからって、私は別に……」
「でも、チエコ、声が大きいってば。私が高校生になって、父が工事現場の仕事を始めて、それは続いていると思ってた。でも、母が亡くなった時に、あれもとっくにやめてたって分かったのよ」
あの当時、家に帰らず寮暮らしで仕事を頑張っていると思っていた父は、実はとっくに無職だったのだ。知人の家に寝泊まりしながら、パチンコでお金を溶かす日々を送っていた。その父が、資金が尽きてふらりと帰ってきたのが、母が亡くなる日である。
母が職場で倒れていた頃、何も知らない私は家でデザイン画を描いていた。突然帰宅した父にぎょっとし、慌ててノートを隠したものの、見つかって散々馬鹿にされたのだ。
「自己表現の唯一の手段をコケにされ、泣きながら家を出ようとした時に、電話が鳴った」
それからのことはほとんど記憶がない。大慌てで病院に向かうと、すでに母は息を引き取っていた。
「そういえば、あの混乱の中、私はデザイン画のノートをどうしたのだろう」
父の悪意に触れさせたくなくて、これまで書いていたもの全てを通学鞄に押し込んだところまでは覚えている。しかし、母の葬儀が済み、放心状態からふらっと我に返った時、ノートは消えていた。私はデザイン画のことを好美には話していない。結局、ノートの消失と共に書くのをやめてしまったから、三年弱の短い期間の没頭だった。だから、私が好んで使っていた色も、母への想いと共に袖の膨らんだワンピースをたくさんデザインしたことも、彼女は知らない。
「その色ね。『秘則』っていうの。秘密の色と書いて。いい名前だと思わない?」
ふと目があった彼女は、笑っていなかった。真っ黒な瞳がただまっすぐに私を見ている。すっと背中に寒いものが走った。しかし、彼女はたった一人の親友だ。美貌も名声も、私にないものを全て持っている素晴らしい女性。有名になってからも、こうして私をお茶に誘い、娘にプレゼントまでしてくれるのだ。感謝するべきだ。私はそう胸の内で呟いた。
「ええ、いい名前ね」
静かに言うと、好美は美しい笑顔を私に向けた。しかし、胸の奥に引っかかる違和感は消えない。その違和感が何なのか、私はまだ分かっていなかった。
「今年もレイは帰ってこないのか? 正月」
今のソファーで新聞を読んでいたカオルが、平坦な声で言う。
「そうね。帰るって連絡は特にもらってないけど」
皿を洗いながら答えると、彼はなおも質問を重ねた。
「アキ君の実家には帰ってるのか?」
アキとはレイの夫の名である。数度しか会っていない彼の顔がぼんやりと浮かんだ。
「さあ、どうかしら」
皿に汚れを見つけ、それを拭き上げる。なかなか取れず、前屈みになって力を込めた。耳にかけていた髪が垂れて邪魔だが、両手が濡れていてどうすることもできない。小さな苛立ちをそのままに汚れをこすっていた、その時だった。
「おい」
突然、頭上から声がして、体がびっくりと跳ねる。顔を上げると、ソファーに座っていたはずのカオルがキッチンカウンター越しに立っていた。
「びっくりした。忍者みたいに移動しないでよ」
シンクに向き直りながら冗談めかして言うが、彼からの反応はない。手を止めて、再度カオルを見上げる。眉間に皺を寄せた彼が、じっとこちらを見ていた。
「ど、どうしたの?」
「チエコのせいじゃないのか」
「何?」
意味が分からず首を傾げる。そんな私に、カオルは大きなため息をついた。
「レイが顔を見せないことだよ。可愛い孫がいるのに、最後に会えたのは何年前だ?」
思わず言葉につまる。何も答えられないでいると、彼が指を三本突き立てた。
「三年だよ。何年も合わせてもらえてない。二歳の子供がもう五歳になるんだぞ。俺たちの顔なんか、覚えてもいやしないだろう」
イライラを隠そうともしない様子に戸惑う。昔のカオルはこんな風ではなかった。率直に物を言うタイプであったことは確かだ。しかし、どこまでも素直で、感情が表に出ることはなかった。こちらに圧をかけるような、苛立ちを含んだ言い方はしない人だった。それがここ数年、突然喧嘩腰で話し始めることが増えた。今だって、ただ一人で新聞を読んでいただけのはずなのに。
「レイが思春期に入った頃から、君たちは仲がいいとは言えなかった。普通、母と娘というのは友達みたいな関係を築くだろう。これがなぜできなかったんだ?」
棘のある言葉に胸が痛む。だが、事実だった。レイが私を避けるようになったのは中学に入学してからだ。何を言っても、何を尋ねても、無視した態度で目も合わせてくれなくなった。そういう時期なのだろうと高を括り、私はできるだけ気にしないように勤めていたと記憶している。しかし、一年経っても二年経っても状況は変わらず、高校生になってもレイは私を避け続けた。カオルに対しても同じで、だから家族での外食や旅行も行けたのは、彼女が小学校を出るまでだけ。本当は三人で食べたいものや行きたい場所がたくさんあった。だが、反抗的というよりも、年を重ねるごとに諦めの表情を向けるようになった娘に対し、そんなことを言えるはずもない。結局、大学進学で一人暮らしを始めて以降、彼女は家に寄りつかなくなった。就職、結婚、出産と人生のステージを進んでも、レイとの関係は変わらず疎遠である。
「え、一度メールしてみるわ。今年は帰ってきたらどうって」
無理に明るく言ってみた。するとカオルは、そんな私を鼻で笑った。
「本気で言ってるのか? チエコからのメールに返事をよこすわけがないだろう。何せ、君は嫌われ者なんだから。そうかもしれないけど、趣味も特技もないんだ。母親くらいうまくやるかと思ったが、とんだ親子だったよ。好美さんの方が良かったかもしれないな。彼女なら、子育てと仕事を両立できそうだ」
「どうしていきなり好美が出てくるのよ」
不思議と声が震えた。自分でもその理由が分からない。
「この好美とは、もうずっと会ってないでしょ。カオルこそ、会ってないんでしょ?」
「それは君への話だろ」
怒りを滲ませていたカオルが、何かを含み笑うような、不気味な笑みを浮かべる。瞬間、さっと鳥肌が立った。どういうこと? この好美とは、もう十年近く会っていない。彼女のブランドは成長を続け、今では日本のファッション業界において確固たる地位を築いている。創業者である好美は業界の重鎮で、忙しく華やかな日々を送っていることだろう。だから、もちろん私から誘うことはない。若い頃だって、会おうと言ってくるのはいつも彼女の方からだった。私への誕生日プレゼントが、レイが中学生になってからは毎年「これ、レイちゃんに」と変わり、それはあの子の大学卒業まで続くこととなる。
「ねえ、どういう意味? 好美に会ったの?」
「四年ぐらい前、高校の同窓会があったじゃないか」
「あったけど、でも言ってたじゃない。好美は来てなかったって」
「へえ。そんなこと言ったっけ?」
間違いない。カオルは確かに「茂田さんは来てなかった。忙しいだろうしね」と言ったのだ。そのことを告げようとすると、彼は奇妙な笑みを残したまま、今度は部屋を出ていってしまった。
この一週間後である。まるで私に見せるように、わざとらしく放置されたカオルのスマホに、好美からメッセージを受信したのは。
「今度はいつ来てくれるの? 寂しいから早く会いたい」
はっきりと画面に表示された文字。それを茫然と見下ろす私に、風呂から出てきたカオルは言った。
「ああ、見ちゃった」
諦めた声だった。六十過ぎた大人の男のものとは思えない。恋に恋する十代のような口調に、真っ先に感じたのは底知れぬ寒気だった。
こうして、カオルは好美との不倫関係をあっさりと白状した。同窓会で再会して以来、連絡を取り合うようになり、ごく最近、男女の仲になったのだと、彼は悲しげに語った。だから、離婚してくれ。チエコは妻としても母としても期待外れだったよ。はっきりとした言葉に、体が麻痺するようだった。今住んでるこの家は売りに出そう。俺は好美のところで暮らすからさ。一人娘すら寄りつかないんだ。こんなとこ必要ないだろう。立っているのがやっとの私に、カオルはなおも続けた。チエコの行く先も考えてあるよ。行く先であり、慰謝料だな。俺の実家で手を打とう。迷うだろ。あれこそが、君が家だってよく言ってた家じゃないか。
その後も彼は同じような台詞をいくつか吐き、笑顔を見せる。言い返す気力も、考える力も、私には残されていなかった。訳も分からず離婚が成立し、そして現在に至る。
この家に移り住んで三ヶ月。今と寝室だけは暮らせるように整えたが、後の部屋は放置したままだ。義母が亡くなった時、カオルが遺品をなかなか片付けてくれず、結局は簡単な片付けしかできなかった。彼の実家なのだ。あまり口出しはしない。そう思っていたあの頃の自分が、今の自分を見たらどう感じるのだろう。ふと考えて、両手で湯呑みを包み込む。巻き戻し、振り返ってきた記憶。そこに不思議な感覚までが絡まり合って、頭がぼんやりしてしまう。
ここに住んでる実感が湧かないのは、きっと手つかずにしてる部屋がたくさんあるからね。思考の深みにはまらないよう、切り替えるつもりで呟いてみる。少しだけ頭のモヤが晴れた気がした。そもそも、今日こそは片付けようと朝起きるたびに決意して、実行できずに何日経ったのか。自分がこんなに後ろ向きな人間だったとは知らなかった。夫と親友の裏切りによってつけられた心の傷を、いつまでも言い訳にしていてはいけない。
のんびりしてたら、あっという間におばあさんになっちゃうわ。一人なのに、冗談めかして言う。湯呑みの中身の半分を残したまま、私は立ち上がった。今を出て、階段の前に立つ。登った正面にカオルの部屋がある。この家の中で、私が最も長い時間を過ごしてきた部屋だ。足を踏み入れれば、たくさんの思い出が溢れ出すだろう。それが恐ろしい。優しく、いつも味方でいてくれた頃のカオルがいた部屋。私には彼しかいなかった。なのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
心を決めて今を出たというのに、すぐに弱気になってしまう。ポケットに入れていた携帯電話に自然と手が伸びる。離婚する方向で話が進み出した時にも、そして実際に離婚が成立した時にも、レイにはもちろん連絡をした。電話は出てもらえなかったので、メールを入れたのだ。しかし、彼女からの返信はなかった。きっと呆れているのだろう。元々嫌われているのだ。熟年離婚に至った親を軽蔑しているに違いない。返事は来てないか。もしかして、と期待した自分が情けなかった。私はいつまでこんな風なのだろう。自分のすることに自信が持てず、自分が嫌いで、誰かに手を差し伸べてもらうのを待っている。
よし。気を取り直して、階段を一歩一歩踏みしめる。そして見えたのは、ドアにぶら下がる木のプレート。ローマ字で「KAORU」と書いている。小学校に上がる前、カオルが「かっこいいでしょう」と見せてくれた日のことがありありと蘇った。込み上げる感情を抑え、ドアの取っ手に手をかける。迷いが出る前に一思いに開けると、懐かしい光景が広がっていた。
勉強机と本棚は、あの頃のまま同じ場所にある。窓際には色褪せたカーテンが垂れ下がり、差し込む光もどこか鈍い。机の上には使い込まれたスタンドライトとシンプルなペン立て。カオルが参考書を入れていた引き出しの取っ手には、擦り切れた跡がいくつも残っている。何度も開け閉めされた記憶が、そのまま刻み込まれているようだった。
けれど、部屋全体がそのまま保存されているわけではない。ベッドの上には古びたダンボールがいくつも積まれ、古びた衣装や家電が顔を覗かせている。カオルが出て行った後、長い年月をかけて少しずつ物置きとして使われるようになったのだろう。しかし、そこまで物量は多くない。大きい家具については一旦置いといて。そうだ、押入れは。
押入れの取っ手に手をかける。わずかに軋む音と共に、それをゆっくりと横へ引いた。あら。中は意外にも空っぽで、拍子抜けしてしまう。布団も衣装ケースもダンボールもない、からんとした暗がりが広がっていた。ここはすっきりしてるのね。思わず小さく呟く。拍子抜けしたような気持ちで、何気なく下の段を覗き込んだ。その時である。奥の暗がりに、何かがあることに気づいた。目を凝らしてみる。影のように佇む、それは黒いゴミ袋だった。
何かしら。言いながら手を伸ばす。予想していたよりもずっしりとした重みがあり、妙な緊張感に襲われる。物騒なものでも入ってやしないわよね。引き寄せて外に出し、ごくりと唾を飲んだ。そっと結び目を解き、袋の口を開く。瞬間、全身に鳥肌が立った。
これって。入っていたのはノートである。それも一冊や二冊ではない。重さからすると、二十冊はありそうだ。同時に、これらが何なのか、ページをめくらずとも私には分かった。私のデザイン画。声に出してみると、記憶が一気に蘇る。母が亡くなる日、父から隠そうと通学鞄に押し込んだノートたち。どこかに消えてしまったと思っていたが、違う。私は母の葬儀が済んだ後、父のいる家には置いておけないと、全てカオルに預かってもらったのだ。ゴミを捨てに行くふりをして、大切なものを黒いゴミ袋に詰めた。あの時の光景。感じていた焦りと虚しさまでもが、まるで昨日のことのように思い出される。
そうか。ここにあったのね。呆然と袋に手を差し入れた。ノートを一気に取り出そうとしたのだが、何か柔らかいものに指が触れた。何かしら。掴んで腕を引き抜く。目の前に現れたのは、母のワンピースだった。ダブルデートに勝手に着て行き、ナポリタンで汚して、そのことを謝れなかったあのワンピースである。母を失った私は、父に捨てられないようにと、ノートと一緒にこれも避難させたのだろう。
お母さん。自然と声が漏れた。胸元についた薄いオレンジ色の染みに、喉の奥がつんと痛む。ごめんなさい。ごめんなさい。涙が溢れ出し、私はワンピースを抱きしめて、子供のように泣いた。お母さん、私、ごめん。ごめんなさい。どうして素直に言えなかったのか。幼さを理由にしてはいけない気がした。私はいつもこうだ。大事なことを見て見ぬふりをする。こんな自分が情けなくて、大嫌いだ。全てが繋がっているのだと思う。カオルとの結婚、離婚、レイとの関係。今この古い家で一人ぼっちであること。何もかも、私が選び、行動してきた結果なのだ。
「お母さん?」
不意に声がして、驚きながら顔を上げる。開け放たれたドアの前に、レイが立っていた。
「レイ? どうして……」
掠れた声で問う。涙で滲む視界の中、彼女の姿がゆらりと揺れる。レイはそっと部屋に入り、こちらに向かって歩いてきた。そして、私の隣に膝をつく。何も言わず、彼女は黒い袋の中へ手を伸ばした。細い腕が、ノートを一冊取り出す。ぱらりとページをめくる音が、静かな部屋に響いた。
「どうして? どうしてこの好美さんのデザインが、ここにあるの?」
低く抑えた声。久しぶりに会う娘の横顔を、私はまじまじと眺めた。この子は一体何を言っているのだろうと。
「好美さん? いや、違うわ。これは……」
説明しようとした、その時だ。レイが勢いよくこちらを向いた。
「これ、お母さんのデザインよね」
驚いたような、何かに気づいたような目が、私を見ている。彼女が指差す先に視線を落とした。春の風が吹く日に、このワンピースで出かけたい。ページの隅の走り書きに、胸がどくんとなる。すっかり忘れていた。デザインをしながら、こんなシチュエーションで着たいと妄想していたこと。そして、それを些細なことまでメモしていた、あの頃の自分を。
「え、私のよ。だって、これは私が高校生の頃に書いたものだから」
言いながら、私は逃げるようにノートから視線を外した。初めてレイに打ち明けたのだ。こんなことをしてたのね、と笑われるのではないか。そう考えると、恐ろしかった。
「そう……」
しかし、彼女は小さく呟くのみだ。どこか遠くを見るように目を細めている。
「ずっと不思議だったの」
「不思議?」
「お母さん、覚えてる? 私が小学校一年生だった頃、夏休みに書いた作文がクラスで優秀作品に選ばれたでしょ」
「え、覚えてるわ。全校集会で表彰式があって、そのための服を二人で買いに出かけた」
「だけど、私、気に入る服が見つからなくて。『お母さん、レイはおしゃれさんなのね』って、どんなのが理想って聞いてくれたわ」
「そうだったわね。だから、私、うんと可愛いワンピース。お姫様になりたいのって」
「そう。だから、おばあちゃんからミシンを借りてきて、お母さん、一生懸命縫ってくれたの。何度も失敗して、何度もやり直しながら。針に糸が通らず、何度もやり直した夜。布の扱いになれず、指を刺したりもした。それでも完成した時、私が見せてくれた笑顔に、全ての疲れが吹き飛んだこと」
「私、すごく嬉しくて、スキップしながら登校したわ。でも……」
彼女の声が沈んでいく。
「言われたの。クラスの意地悪な女の子に。『手作りなんて、服を買うお金もないの?』って。それで、泣きながら帰って」
あの日、目を真っ赤にして帰宅した我が子に、私は何を言ったのか。思い出すと同時に、胸が痛んだ。
「お母さん、ごめんねって言ったのよ。お母さんのせいで、嫌な思いをさせちゃってって」
その言葉を聞いて、申し訳なくなり、私は思わず俯いた。長い間忘れていたのに、当時の感情が今と重なる。
「でもね」
レイの指がページを撫でる。その手付きは、どこか愛おしそうだった。
「中学生になってから、好美さんが毎年くれるワンピース。すごく似てたじゃない? お母さんが作ってくれたワンピースと。ただ袖が膨らんでるだけじゃない。動いた時の形まで覚え抜かれてる。複雑で他にはないデザインよ。それが、この好美さんのブランドの、何よりの特徴」
デザイン画の袖の部分を、レイが指し示す。
「ここ、少しだけ絞ってあるでしょ。だから、動いた時に広がりすぎなくて、軽く見える」
まさにその通りだ。布を買うお金もミシンも持っていなかった高校生の私が、頭の中だけで試行錯誤を重ねて、ようやくたどり着いた理想形。他にはない、私だけのオリジナル。
「お母さんと好美さん、昔から友達なんだよね」
彼女が言わんとしていることが分かる。私は静かに頷いた。このノートを見せたの? 写させてあげた。どうぞ真似してください、って差し出したの?
「いいや、そんなことしてない」
顔を上げて、しっかりと答える。その瞬間、レイの表情が変わった。流れるような動きでポケットからスマホを取り出す。無言で操作したかと思うと、画面をこちらに向けてきた。そこに並んでいたのは、色とりどりのワンピースだ。
「この好美さんのブランドのオンラインストアよ」
レイは言い、ノートをそっと床に置いてページをめくり始めた。同時に、スマホをスクロールさせる。ノートに描かれたデザインと、スマホに映し出される高価な商品。似ているという言葉では足りない。全く同じだった。どこからどう見ても、私がデザインしたものが好美のブランドで販売されている。
「ここを見て」
ある一つの商品の詳細ページを開いたレイが、添えられた説明文の箇所を指差す。
「春の風が吹く日に」
私がデザインの横に走り書きしたメモと、一言一句同じだった。ページをめくり、画面をタップする。次々と一致が見つかった。
「私は、私は……」
呟きながら、気づけば膝の上で拳を握っている。本当は、ずっと違和感があったのだ。何十年も前から、私は分かっていた。好美がブランドを立ち上げたと報告してきた時も、雑誌で特集記事を見た時も。この服、知ってる。そう思っていた。しかし、まさかそんなはずはないと、自分に言い聞かせてきた。こんな風に思うのは、成功した好美を私が潜在的に羨んでいるからだと。
何より、ノートは消えてしまったのだから証拠もない。私がただ、美貌も名声も手にした好美を妬んで、記憶を都合よく改竄しているだけだ。そう、自分を納得させてきた。
「分かってた。でも、私が間違ってるんだって。どうしてお母さんは、いつもそうなの?」
レイが勢いよく立ち上がる。
「なんで自分を信じてあげないのよ」
声が震えていた。目にも涙が浮かんでいる。レイは怒っているのだ。
「ずっと見てた。お父さんが何気ない会話の中でお母さんをバカにするのは、本当は分かってたんでしょ? おかしいって思ってたはずだよ。お父さんの態度も、好美さんの服も」
レイの必死な叫びに、私も涙が堪えきれない。
「見てて、すごく嫌だった。悲しかった。作ってくれたワンピースだって、私が欲しかったんじゃない。お母さんに『そんなことない』って言って欲しかった。『可愛いよ。自信持って』って」
「レイ……ずっと冷たくしてごめんなさい。でも、私、お母さんが大好きだから、腹が立った。大好きな人が、自分のことを大切にしない。そのことに、怒ってたんだよ」
立ち上がり、私は愛しい娘を抱きしめた。抱きしめ返してくれるレイの手が、力強く背に触れている。私たちは声を重ねて泣いた。数十年分の感情が溢れ出し、溶けていく。
抱きしめ合ったまま、どれくらいの時間が経ったのだろうか。涙は少しずつ引いていき、代わりに胸の奥に別の熱が灯り始めていた。
「お母さん」
腕の中で、レイが静かに言う。
「戦おう」
その一言に、熱が体中を駆け抜けた。今までの人生で、一度も自分の中に存在しなかった言葉だ。戦う。ええ、そう、そうよ。戦わなきゃ。戸惑いながらも腕の力を少しだけ緩めて、彼女の顔を見る。涙の跡が残るその表情は、まっすぐだった。
「ええ、全部取り返すの」
「でも待って。何を、どうやって」
「大丈夫。私に任せて」
その声には、不思議な説得力と強さが宿っている。レイはこくりと頷くと、床にしゃがみ込み、広げてあったノートとスマホを向き合わせた。ぱしゃぱしゃと、丁寧に写真を撮っている。シャッター音が、静かな室内に規則正しく響いていた。
「よし」
立ち上がった彼女は、素早くスマホを操作し始める。慣れた指の動きだった。やがて、ふっと小さく息を吐く。
「できた。まずは、相手に先制攻撃よ」
先制攻撃。レイがこちらに向ける。そこには、華やかなワンピースの写真と共に、新作の宣伝と思われる文章の投稿が表示されていた。好美の公式アカウントだ。その下に、今し方レイが撮影したデザイン画の写真が並んでいる。
「このデザイン画をご存知ですか? 代表の茂田好美氏の説明を求めます」
音読して、私ははっと息を飲んだ。
「これを好美の会社に送ったの?」
「誰でも見られる画面よね。当然よ。結局、この方法が一番効果がある。逃げ場もないわ」
堂々とした宣言だった。我が子の強さと行動力に、思わず目を見張る。
「原因を作った人にも、ちゃんと知らせないとね」
そう言って画面を切り替えたレイは、誰かに電話をかけたようだった。スピーカーにしたスマホには、「カオル」の文字が表示されている。
「お父さん。久しぶり。レイだけど」
「レイ? お前、どうした? 返事もよこさないで」
「担当直入に言うね。お母さんのデザイン、好美さんに見せたの、お父さんだよね」
「あ、ぜ、デザイン? 何のことだ? いきなり」
はっきりと声が上ずっているのが分かる。好美との関係が私にバレた時とは、全く異なる反応だ。彼にとって、不倫よりもよほど都合が悪いらしい。
「今、おばあちゃんちにいるの。お母さんの家って言った方がいいのかな? お父さんが押し付けたんだもん。分かるよね」
「なんだ、その口の聞き方は」
「お父さんの部屋の押入れから、お母さんのノートを見つけたの。お母さんはこれを好美さんに見せてない。だけど、好美さんの発表するデザインは、これとことごとく一致してる」
「おい、レイ。悪いことは言わない。おかしなことに首を突っ込むな」
焦りから苛立ちの滲む声に変わる。
「おかしいのは、そっちでしょ。ねえ、お父さん、いつからお母さんを裏切ってたの?」
「とにかく落ち着け。きちんと話そう」
「落ち着いた方がいいのは、お父さんの方ね。不倫に加えて、盗作。好美さん、忙しくなりそうだから、ちゃんと支えてあげなきゃね。じゃあ、逃げないでね」
そう言って、レイは一方的に通話を切った。真っ直ぐな瞳が、私を見つめる。
「もう、お母さんをバカにはさせない」
力強い言葉に、もう涙は出なかった。泣くのはもう終わりだ。逃げ続けてきた人生が、今初めて動き出したのだと感じている。不意に、ポケットの中の携帯電話が震えた。取り出して画面を見ると、表示されていたのはカオルの名前である。
「あの人だわ。メールよ」
思わず呟く。レイもすぐに、こちらを覗き込んだ。
「見せて」
促されるまま画面を差し出す。そこに書かれていた文章を、私はゆっくりと読み上げた。
「『すぐ行くから待ってろ。きちんと話し合おう』だって」
「へえ。あっちから来てくれるんだ。今から好美さんの豪邸に乗り込むつもりでいたけど」
余裕の笑みさえ浮かべる彼女の顔は、一緒に抱き合って泣いた先ほどのものとは別人である。
「レイ、あなたは強い子ね」
思わず言葉が漏れた。レイは堪えたように肩を竦めて、私の手を握ってくれる。胸の奥が、じんわりと熱い。
それからの時間は、奇妙なほどゆっくりと流れた。時計の針の音が夕闇に大きく響き、窓の外の風の音さえも耳に残る。レイはノートを整え、スマホを手元に置いたまま動かない。私は母のワンピースを丁寧に畳み、そっとそばに置いた。まるで何かの儀式の前のような、静けさだ。
やがて、家の前で車の止まる音が聞こえた。
「来た」
その言葉に、私の喉がひくりと鳴る。玄関の引き戸が開き、足音が階段を上がってきた。次の瞬間、ドアが開かれる。
「レイ、どういうつもりだ? お母さんをたぶらかして、何がしたい?」
低い声だった。聞き慣れたはずのその響きは、今ではもう私を安心させてくれるものではない。ただ、胸が痛む。
「事実を並べて確認してるだけじゃない。というか、お前、いつの間に仲直りしたんだ。レイはお母さんを嫌ってただろう」
「それを言うなら、お父さんのこともね。というか、お父さん、自分から席を立たないでよ。このノートたち、しっかり見てもらわなきゃいけないし」
床を叩く。言われるがまま、カオルがその場に膝をつく。彼の視線は積まれたノートをちらりと見たが、すぐに顔を背け、床を向いた。
「その汚いノートだが、俺は何も知らんぞ」
「ここ、お父さんの部屋だったんでしょ? 押入れから出てきたの。知らないは無理がある」
「だから、俺はチエコに頼まれただけだ。あの飲んだくれ親父に見つかりたくなかったんだろう。いきなり押し付けられて、迷惑かけた側だ」
「なんだ、やっぱり知ってるんじゃん」
ぐっと喉を鳴らし、カオルは黙り込む。だが、私は彼から発せられた「飲んだくれ親父」という言葉に引っかかっていた。私の父が愚かな人間だったことは事実だ。しかし、カオルがこんな直接的な表現で父を見下したことはない。心の奥底では、やはり馬鹿にしていたのだ。その事実が露呈した瞬間だった。
「預かった後、もちろん中身を見たんだよね。当時、もう付き合ってたわけでしょ。普通、気になるじゃない。彼女がいきなりこんなにたくさんのノートを持ってきたら」
「そりゃ、見たわな」
「で、どう思ったの?」
一瞬の沈黙が流れる。レイが顔を覗き込もうとすると、カオルが口を開いた。
「ただの遊びだな、と思っただけだ」
床を向いたまま、彼は低く言う。
「遊び……そうね。遊びよ。私の唯一の心の寄り所でもあった」
小さく呟く。その瞬間、カオルが弾かれたように私を振り返った。
「唯一だと? 何だよ。俺がいただろう。付き合う前から、付き合ってからも、チエコの寄り所は俺だったはずだ」
ものすごい剣幕に、言葉を失ってしまう。部屋を揺らすほどの怒気と威圧感が、彼が口を閉じてからも続いていた。
「不倫した人が、随分な言い方ね」
「黙れ。チエコにとっては、俺だけが支えだった。これは揺るがぬ事実だ」
先ほどの「飲んだくれ親父」と言い、長く一緒にいて、今初めて彼の心の底からの本音に触れた気がしている。父のことも、私がカオルに頼りきっていたことも、何もかも事実だ。しかし、妙な違和感が拭えない。
「お父さん、落ち着いてよ。今はデザインの話をしてるの。ねえ、結局見せたんでしょ? 好美さんに」
レイが淡々と聞く。咳払いをしたカオルが、どこか気まずそうに小さく頷いた。
「見せたさ。別に、チエコに『誰にも見せるな』とも言われてない。レイだって知ってるだろ。俺とチエコと好美は、昔からの幼馴染みだ。友達である彼女に見せて、何が悪い?」
「いつ見せたの?」
「預かってすぐ。じゃなかったかな。それは、そう、二十歳の頃だったかな」
歯切れの悪い回答に、私は考えるよりも先に口を開いていた。
「飲んだくれ親父が亡くなる前」
「あ、ああ。昔のことだ。記憶が曖昧というか」
「火葬場でのプロポーズ。あれを忘れたとは言わないわよね。好美に見せたのは、プロポーズの前、それとも後?」
長い沈黙があって、彼が観念したように呟く。
「……後だったかな」
点と線が繋がった気がした。だが、それをうまく言葉にできない。ただ、違和感の正体が分かりかけているのは確かだった。次の瞬間、レイが口を開く。
「分かった」
確信に満ちた、力強い声だった。
「何が分かったんだよ。お前が生まれる前の話だ。それに、プロポーズの前だろうが後だろうが、どうでもいいだろう」
「お父さんは、お母さんをずっと手元に置いておきたかったんだ」
「どういう意味だ? 何を言ってる?」
カオルがわなわなと震え始める。目と眉が釣り上がり、先ほど私に怒鳴って見せた時と同じ、恐ろしい表情だ。
「お父さんはデザイン画を見て、お母さんに特別な才能があることに気づいた。だから、親を失ってる時に付け込んでプロポーズをして、そしてノートを好美さんに見せたんだよ」
「訳の分からないことを」
「お父さんは、お母さんに自分に自信の持てない、不幸で従順な女性でいてもらいたかった。そういうことなんじゃないの?」
私は思わず息を飲む。レイの言葉。まさに、それこそが違和感の正体だった。カオルは私を、自分より弱い生き物としてそばに置いておきたかったのだ。愛していたのではない。それは、歪んだ支配欲。
「もしもお母さんが、この先デザインを仕事にしようと思い立ったら。万が一、成功でもしたら、遠くに行ってしまう。それが怖かったんでしょ?」
「やめろ」
「だから結婚した。日々見下して、何気ない会話に嫌味を含ませて、自分には価値がないと思い込ませたの」
「やめろと言ってるだろう! いいか? 俺には服のことは分からん。だから、チエコに才能があるかどうかなんて、どうでもいいんだ」
怒鳴りながら、カオルがノートの束に手を伸ばす。わし掴みにしたかと思うと、それを壁に向かって投げつけた。
「俺に秘密で、こんなもんを書きやがって。デザイナーにでもなれると思ったのか? だがな、チエコには無理だ。夢を見るだけ無駄なんだよ」
「どうしてお父さんが決めるの?」
「チエコは、俺がいなきゃ生きていけない。そうやって洗脳してきたんだ。いいか、お前は自分で物を考えるんじゃない。何もできない能無しなんだよ」
彼の荒い息だけが、部屋に響いている。予想以上に根深くて、見苦しいカオルの本性に、私は鳥肌が止まらなかった。耐え切れず、自分の両腕を抱きしめて擦り上げる。しかし、次の瞬間、ぴこんと間の抜けた電子音が聞こえてきた。
「はい。録れました」
レイがポケットからスマホを取り出す。
「今の、全部録音させてもらったから。お父さんは、お母さんを洗脳していた自覚があったんだっていう証拠ね。あの親友が弁護士なの。それで、色々相談してて」
立ち上がると、レイは散らばったノートを一冊ずつ拾い上げた。
「二人の離婚、あまりにもめちゃくちゃだったじゃない。お母さんがまともに判断できる状態じゃなかったことを証明できれば、不利な条件を見直せる可能性があるって言われて」
「おい、何を勝手なこと? 俺たちはちゃんと話し合ったんだ。今更、掻き回すな」
「やだ。はっきりと言い切ったわ」
彼女はノートを胸に抱え、カオルを睨みつける。
「ごめんね。私、お父さんのことは嫌いだけど、お母さんのことは好きなの」
「なんだと?」
「ああ、あと。それから、好美さんの盗作の件だけど、もうそろそろかな。大変なことになってるんじゃない? お父さん、SNSやってたっけ? 好美さんからは、何も連絡来てない」
勉強机でノートの束をとんとんと整えると、レイはそれを自分の鞄に大事そうにしまった。私をちらりと見て、にっこりと笑う。カオルはと言うと、慌てた様子でスマホを取り出している。その姿を見て、私はぽつりと呟いた。
「スマホに変えたのね。あんなに嫌がってたのに。それも、好美の影響?」
「どうでもいいだろう、そんなこと」
「私を手元に置いて、支配しておきたかったのに。どうして今になって、簡単に捨てたの?」
まるで自分の口ではないようだった。思ってもいない言葉が、勝手に滑り落ちてくる。
「やっぱり、本当はずっと好美が好きだった。美人で賢くて、自分に自信があるあの子が」
「おい、黙れ!」
慣れない手つきでスマホを操作していたカオルが、レイの言葉を遮るようにして叫ぶ。
「レイ! お前、何をした!」
声が震えていた。彼がこちらに突き出した画面には、例の投稿が映し出されている。
「なんだ、これ? ニュースの画面に移ってるぞ。好美の服屋が。お前、盗作のこと、世間に出したのか? どうやって? 今すぐ消せ!」
「お父さん、自分のアカウント持ってるんだ? でも、全然分かってないみたいだね。消しても無駄。消せば消すほど増えるんだよ、こういうのって」
聞こえていないのか、カオルはスマホを指で乱暴に叩き始めた。あれでは、きちんと操作できているようには思えない。彼の姿を呆然と眺めていると、外に車の止まる気配がした。そして、すぐにチャイムが鳴る。
「入るわよ」
キンキンとした声と共に、玄関のドアが開く音がした。ちょっと、どこよ? 肩をびっくりと揺らしたカオルが、弾かれたように部屋を出る。
「ここだ。こっち、二階だ」
彼が階下に向かって叫ぶと、がたんがたんと乱暴な足音が近づいてきた。
「あら、あの方まで来てくれたみたい」
レイが言うと同時に、キンキン声の主が姿を現す。好美だ。久しぶりに見る彼女は、相変わらず美しかった。しかし、その顔は興奮で真っ赤に染まっている。
「チエコ、あんたでしょ。この投稿! これ、どうなってるの? 皆に見えてるのか、この画面!」
「うるさい。あんたは黙っててよ。というか、なんで返事しないの? 何度もメッセージ送ってるのに」
「何も来てないぞ。というか、俺、見方が分からんって言ってるだろう」
興奮したカオルが唾を飛ばすのを、好美は嫌悪感に満ちた表情で振り払った。そのままの手で、彼の肩を押す。
「汚い。唾飛ばさないでって、いつも言ってるでしょ。というか、見方が分からないって何よ。本当に年寄りね。嫌になる」
「年寄りだと? そっちだって、いい歳だろ」
「ああ、もう、黙れって言ってるでしょ。本当にうるさい人ね。あんたと同じにしないで。私はね、実年齢より中身も外も、ずっと若いんだから」
突如始まった見苦しい争いを眺めていると、不思議な気持ちになった。まるで十代の子供だ。彼らがこんな風に喧嘩をする姿は、実際に十代だった頃には一度も見たことがないというのに。カオルと好美が制服姿である錯覚を覚え、私は思わず吹き出した。
「何がおかしい」
「ちょっと、なんで笑ってるの?」
一斉に振り返った二人が、こちらを睨みつける。
「だって、あなたたち、なんだか子供みたいなんだもの」
すると、レイが私の方に優しく触れた。
「こんな状況で笑ってられるなんて、お母さんも強いね。ねえ、私も思うの。この人たちは、愛し合ってなんかないって。お父さんは確かにお母さんを簡単に捨てた。長い時間支配していたくせに。でも、その支配欲と同時に、六十を過ぎて幼稚な承認欲求も出てきたんじゃない?」
レイがずいっとカオルに近づき、彼の顔を観察するかのごとくじっくり眺めた。
「顔に書いてあるよ。『俺はかつての学年のマドンナ、そして現在は有名ブランドの代表である女に言い寄られた男だ。すごいだろ』って」
「なにを……」
「でも、この好美さんが好きだっていうより、彼女のステータスにクラッと来ちゃった感じかな。確かに好美さん、美人だもんね。お金も持ってるし。でも、まあ」
眺めながら、レイがカオルの肩をぽんぽん叩く。その仕草には、哀れみが含まれていた。
「あなたは、取り返しのつかないミスを犯した。これからどうなっても、知らない」
「レイちゃん、やっぱりあなた、分かってる? そうよ。私は美しくて、お金持ち。何もかも持ってるの」
好美には、自分を褒める言葉しか聞こえていないらしい。腕を組んで、彼女は鼻高々だ。レイの視線が、好美へと移る。
「この好美さんとは、ほとんど初めましてですよね。生で見て感動したし、確信しました」
「私の美貌でしょ? よく言われるの。そうだ。レイちゃん、今度一緒にエステに行きましょう。あなたは、私の娘みたいなものというか、本当の娘になってくれてもいいのよ」
彼女と会うのは、随分久しぶりだ。昔からの自信満々な性格は、年を重ねておかしな方向へと暴走してしまったらしい。おそらく周囲にイエスマンしかいないのだろう。でなかったら、友人の夫を奪った挙句、レイに対して「私の娘になれ」などという言葉が出てくるはずがない。周りの状況と自分の立場を、この歳になって客観視できない彼女に、私は初めて好美を哀れだと思った。
「それ、本気で言ってます?」
「うん。そうよ」
「だとしたら、ちょっと本当に救いがない人だな。まあ、誰も救うつもりなんてないんだけど」
「何をぶつぶつ言ってるの?」
ご機嫌な様子から一転、好美が不機嫌な顔をする。その瞬間、レイが彼女の顔の前でぱちんと手を合わせた。
「私が感動したのは、美しさに対してではありません。好美さん、あなた本当は、ずっと不幸せだったんでしょう?」
「は? 急に何を言い出すのよ」
わずかな変化だったが、私は見逃さない。好美の眉が、ぴくりと動いたのだ。
「この好美さんがお母さんと友達でいたのは、常に見下せる相手が欲しかったから。お父さんと、少し似てるのかな。はっきり言えるのは、どちらも歪んでるってこと」
「ど、どういう意味よ。勝手な憶測を言わないで」
「辛い家庭環境。自信もなくて、何も持ってなさそうで。そういうお母さんを隣に置いておけば、自分はいつも優越感に浸ってられる」
「ふざけないで!」
短く吐き捨てる声には、明らかな動揺が混じっていた。
「好美さんって、美人だから自信があったんでしょ? だけど、高校生になって、幼馴染み同士のお父さんとお母さんが付き合い始めた。それが何よ」
「私は、常に彼氏がいたし。別に、何とも思ってなかったわ」
「心から愛されているお母さんが、羨ましかったんじゃない? まあ、それは表向きだったわけだけど。でも、この好美さんには『純愛』に見えた。当時なら、信じられなかった話だ」
しかし、好美を哀れだと認識した今は、深く頷けてしまう。
「見下していた相手が、何かを手にしたこと。それが耐えられなかったのよ。この好美さんは。なぜなら、あなたは自分に自信がない。本当は怖いのよ。見てくれ以外は、空っぽな自分が」
「違う!」
鋭く否定する声が、部屋中に響いた。その必死さが、裏返しの告白になっている。
「この好美さんの経歴を調べたわ。高校はお父さんと同じ進学校。でも、大学は今で言う誰でも入れるところを出てる。で、卒業後に改めて服飾の専門に通い直したのよね」
レイの言う通りだ。好美は服飾専門学校を出た後、アパレル業界で経験を積み、三十歳でブランドを立ち上げている。
「あなたは、大学を出てからの人生に悩んでたんじゃない? そんな時、お父さんからお母さんが書いたデザインを見せられて、さらに絶望。でも、歪んだ心は絶望を怒りに変えた。『やめなさい。特別な才能があるなんて許さない。私より華やかな人生にさせない』。だから、奪うことにした。当時はスマホなんてないからね。ノートを借りて、写真にでも撮ったのかしら」
鮮やかな髪からちらりと覗く好美の耳は、真っ赤だ。
「好美さん、あんたは黙ってて」
「好美さんの家には、未だにあるんじゃない? デザインを盗むために必死に撮った写真の束が、大事にしまってあるのかしら。ブランドの秘密を、秘密のアルバムに」
「うるさい!」
絶叫に近い声だった。カオルがびっくりと肩を揺らすが、私とレイはびくともしない。
「本当は、いつバレるかずっと怖かったんでしょ。いつお母さんに指摘されるか。だけど、何も言ってこない。怯えているくせに、腹が立ったんじゃない? 主導権を握られている気がしたのよ。もしくは、何も言ってこないのは、お母さんが今の生活に満足しているからだって」
悔しそうに、好美が喉を鳴らした。
「結婚して、子供がいて、成功するほど追い込まれる自分とは正反対のお母さんの幸せが許せなかった。だから、家庭を壊そうと思い立ったのね」
「芸能の世界は厳しいのよ! 次々に新しい才能が現れる。外にも中にも敵がいるの。私は、恐怖と隣り合わせで踏ん張ってきた」
低く言って、彼女は両手で顔を覆う。
「たくさん恋愛もしたわ。だけど、寄ってくるのはお金目当ての男。仕事場からパーティーから帰れば、家には誰もいない。私は、ずっと一人なの。そんなの、おかしいでしょう」
まるで独り言だった。掠れた声に、好美の底知れぬ孤独が宿っている。
「おかしくない。それが、この好美さんの人生よ。お母さんも利用して奪ってきたんだ。当然の報いだわ」
「なあ……おい。この画面、どうするんだよ。あのレイとかいう弁護士がどうとか、話、あれ、長いんだよな」
情けなさそうに、カオルが顔を俯いたまま立ち尽くす。私は二人を交互に見る。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「カオル、好美。あなたたち、私がいないと生きていけなかったのね」
穏やかに言う。彼らははっと顔を上げ、絶望の滲んだ表情で私を見た。
「ごめんなさいね。とりあえず、帰ってくれる? 久しぶりに娘と二人なの。そろそろ夕飯の支度をしたいから」
静かな嗚咽が聞こえてくる。好美が泣いているのだ。その背中をさすることもなく、カオルが部屋を出ていった。気配を察し、彼女も後に続く。階段を降りていく二人の足音が、古びた家にただ響いていた。
録音されたカオルの発言は、私が思っていた以上に重い意味を持っていたようだ。弁護士に相談した結果、あの内容は単なる言い争いの記録ではなく、婚姻中の虐待や不当な圧力の裏付けとして扱える可能性が高いと判断されたのである。すでに成立していた離婚条件についても、通知書の内容に不備や不公平が認められるとして、見直しの交渉が開始。最終的には、財産分与の割合が修正となり、慰謝料も増額される形で合意に至った。あの古い家は私の名義のまま、今後生活に十分な資金が手元に残ることになったのだ。
好美の転落は、早かった。レイの投稿により、これまでの実績は次々と疑われ、盗作は確定事実として世間に拡散。稚拙な弁明は状況を悪化させるばかりで、彼女はブランドの代表を辞することになった。それでも責任を免れることはできず、関係者から損害について追求する動きが出ているらしい。店舗の閉鎖も相次ぎ、積み上げてきたものは、短い時間で崩れ去った。もちろん、カオルとの関係も破綻。不倫のもつれ合いとしてブランドに絡めたゴシップ記事が、週刊誌に小さく掲載されていた。互いに責任を押し付け合うだけで、あの二人に支え合おうなどという考えがあるはずもなかったのだ。
私はと言うと、全てが片付いた後に、あの家を手放した。留まる理由は、もうどこにもなかったからである。レイの暮らすマンションの近くに小さな部屋を借りて、そこで静かに過ごす日々だ。自分の人生を、私は今きちんと握りしめている。その喜びは、何者にも代えがたい。
「この紅茶、美味しい。どこの?」
ティーカップを両手で包みながら、レイが聞く。
「近くのスーパーよ。レイだって、よく言ってるところ」
「うっそ。こんなの売ってたの」
私は小さく笑い、彼女が買ってきてくれたケーキをお皿に移す。離婚が成立してから、三年の月日が流れた。一人暮らしのこの部屋にも、すっかり馴染んだ。今では週に二度、レイが遊びにやってくる。他愛のない会話に笑い合う時間が、こんなにも心を落ち着かせるものだったとは。以前の私には、想像もつかなかったことだ。
「実はね、最近またデザインを書き始めたの」
席に着いてそう切り出すと、レイが目を丸くする。
「近くの手芸屋で、洋裁教室をやってるのよ。先週、初めて行ってみたんだけど」
「え、すごいじゃない。うん。とってもいいと思う」
私の言葉を遮るように、喜びに満ちた声が飛んできた。彼女は身を乗り出しながら、満面の笑みをこちらに向ける。
「水希に行ったら、絶対私のためのお洋服を作ってって言うと思う。あの子、すっかりおばあちゃん子だから」
思わず頬が緩んだ。可愛い孫が、そんな風に言ってくれる姿を想像し、胸の真ん中が熱くなる。
「じゃあ、一生懸命練習しなくちゃね。ミシンなんて、レイに作ったきり触ってなかったから」
穏やかに言うと、レイは一瞬だけ言葉を飲み込み、それから柔らかく笑った。
「いつか、私にもまた作ってね」
少しだけ声が震えている。喉の奥がつんと痛むのを堪え、私は静かに頷いた。レイの左手が、テーブルに置いた私の右手に重なる。俯く彼女の頬に、涙の筋が伝っていた。
失ったと思っていた時間は、形を変えて今、目の前にある。これから紡いでいく日々は、自信と愛に満ちているだろう。確かな感覚に、私はもう片方の手で愛しい娘の髪を撫でた。
