「嫁は雑煮の汁だけすってろ。」
新年の祝いの席に、さち子さんの高い声が響き渡った。
私の目の前に置かれた雑煮の碗。そこには餅も野菜も、具と呼べるものは何ひとつ入っていない。ただ濁った汁が波々と注がれているだけである。
元日早々、汚された商品の対応に追われ、私は一睡もしていなかった。それでも嫁としての勤めを果たそうと、ふらつく体で必死に準備を整え、ようやく席についた私に対する仕打ちがこれだった。
呆然とする私を見下ろし、さち子さんは勝ち誇ったように言い放つ。
「あんたみたいにろくに稼ぎもしないお荷物に、具なんてもったいないのよ。」
周囲の親戚が戸惑いの表情を浮かべる中、夫の竜一までもが含み笑いを浮かべて同調した。
「はっ、母さん、うまいこと言うな。数億円の商談を控えてる俺にとって、お前みたいな貧乏神がそばにいると演技が悪いんだよ。さっさと消えろ。」
信じていた夫からのあまりに残酷な言葉。疲労困憊の体で尽くしてきた結果が、この理不尽な侮辱と傷である。私の中で来られていた何かが、音を立てて切れた。もう限界だった。
私の名前は瀬奈美。竜一と結婚して三年目になる。
竜一との出会いは、大学の麻雀サークルだった。卒業と同時に入籍し、お互い社会人として新たな一歩を踏み出した。竜一は中堅の一般企業に就職し、私は夢だったオンラインのセレクトショップを立ち上げたのである。最初は小さなショップだったが、事業は少しずつ軌道に乗っていった。
しかし私たちの順風満帆な生活は、竜一の行動によってもろくも崩れ去ることになる。
原因は彼の異常なオンラインゲームへの熱中ぶりだった。
連日の徹夜が原因で、竜一は会社への遅刻を繰り返すようになった。当然、上司から厳しい叱責を受ける。だが彼は反省するどころか、信じられない言葉で逆切れした。
「俺ほどの才能を理解できないなんて、あの会社は終わってる。」
そう捨て台詞を吐き、竜一は入社からわずか半年で自ら会社を辞めてしまったのである。
その後彼の転職活動は難航を極めた。面接に落ち続けるうちに、彼のプライドは歪んだ形で肥大化していく。
「どうせどこも俺を使いこなせない」「そもそも日本は俺のスケールに合ってないんだ。」
現実から目をそらし、言い訳ばかりを並べる夫の姿に私は途方に暮れた。このままではいけない。悩んだ末、私は唯一頼れる兄の優に相談を持ちかけた。兄は小さな清掃会社を経営している。
「事情は分かった。うちでよければアルバイトとして雇うよ。」
兄の温情に私は心から感謝した。これで竜一も少しは現実と向き合ってくれるはず。この時の私はまだ、そう楽観的に考えていたのだった
兄の会社で働き始めた竜一だったが、その現実は私の想像をはるかに超えて歪んだものだった。彼はなんと、姑であるさち子さんに、
「俺、ヘッドハンティングされて大手の海外事業部に引き抜かれたんだ。年収も前の会社の三倍以上だよ。」
というとんでもない嘘をついていたのである。
その日からさち子さんの私に対する態度は、まるで手のひらを返したように豹変した。義実家に顔を出す度に、私を値踏みするような視線を向け、あからさまなため息をつくようになる。
「あら、まなみさん。お兄様は掃除屋さんなんですってね。汗水流して働くのも結構だけど、エリートの竜一とはもう住む世界が違うわね。」
私だけでなく、懸命に会社を経営する兄までも見下すその言葉に、私は怒りで唇を噛んだ。しかし私が何か反論しようとすると、さち子さんはさらに言葉を重ねてくる。
「あら、何か言いたそうね。でも仕方ないじゃない。事実なんだから。あなたは竜一の輝かしいキャリアに傷をつけないように、せいぜい慎ましくしてなさいよ。」
義実家を訪れるたびに家事を全て押し付けられ、些細なミスを見つけてはネチネチと罵り倒すのが日常となった。
「私が作った料理には味が薄いわ。こんなもの竜一に食べさせられない。」
「掃除をすれば、隅に誇りが残ってるわ。だから掃除屋の妹止まりなのよ。」
姑の暴言は、鋭いナイフのように私の心を深く何度もえぐり続けた。
さらに厄介なことに、さち子さんは竜一が高給になったと信じ込み、長年続けていたスーパーのパートをあっさりとやめてしまったのだ。
そしてまるで今まで我慢していた反動であるかのように、ブランドもののバッグや洋服を買い漁るようになる。
友人たちと連日のように高級ホテルのランチや海外旅行に出かけては、その様子をSNSにこれ見よがしに投稿していた。
私は何度も竜一に、本当のことを正直に話すべきだと訴えた。
「お母さん、さすがにお金を使いすぎだよ。竜一からもちゃんと説明して。」
しかし彼は私の忠告に全く耳を貸さない。
「母さんが幸せならそれでいいだろう。それに俺は将来大物になるんだ。これは当然だ。お前は黙って俺の言うことを聞いていればいいんだよ。」
それどころか竜一自身も、その嘘の世界に完全に浸り切っていた。
ある日、スマートフォンの通知が鳴り、私はその画面を見て血の気が引くのを感じる。銀行のアプリからだった。夫婦の共有口座から、百万円もの貯金が一括で引き出されていたのである。
この口座は、将来生まれてくるかもしれない子供のために、二人で毎月決まった額をコツコツと貯めてきた。私たちの未来そのものだった。
震える手で竜一を問い詰めると、彼は悪びれる様子もなく、むしろ得意げにこう言い放った。
「ああ、あれか。海外事業部のエリートにふさわしいオーダーメイドのスーツを買ったんだ。一流の男はみから整えないとな。必要経費だろ。」
クローゼットの扉を開け、艶やかな光を放つ高級スーツをじっくりと眺める夫の姿に、私は呆れを覚えた。
それからというもの、竜一の狂気はさらにエスカレートしていく。毎朝そのオーダーメイドのスーツに身を包んで家を出ていく。そして現場近くの公衆トイレで汚れた作業着に着替え、汗と誇りにまみれて仕事が終われば、またスーツ姿に着替えて涼しい顔で帰宅するという、滑稽で惨めな二重生活を送るようになった。
ことさら彼は、スーツ姿で都心の大手企業が入る高層ビルに入っていく自分の姿をわざわざ三脚を立てて自撮りし、SNSに投稿までする始末だった。「今日も世界を動かす仕事へ」「凡人には分からない領域がある」という、見ているこちらが恥ずかしくなるようなコメントと共に。
肥大化した虚栄心に支配された夫と、その嘘を鵜呑みにして増長する姑。この歪んだ親子によって、私の心と生活、そして未来への希望は、確実にそして静かに蝕ばまれていったのである。
季節は巡り、年が迫っていた。私のオンラインショップでは、新春イベントの目玉として企画した限定ギフトセットの準備に追われていた。これは私がデザインしたオリジナルの雑貨と、海外から取り寄せた希少な茶葉を組み合わせた特別な商品である。さらにイベントで商品を飾るための高価な一点物のアンティーク住器も購入し、自宅の一室で出荷作業の準備を進めていた。百セット限定で用意した商品は、予約開始と同時に即完売。
購入してくれたお客様の喜ぶ顔を思い浮かべながら、私は一つ一つ丁寧に商品を梱包していく。その日も作業に没頭していたが、インターホンが鳴り、宅配便の対応で少しだけ部屋を離れることになった。。ほんの数分のことだった。
しかしそのわずかな隙に、悲劇は起きていたのである。
部屋に戻ると、そこに立っていたのは姑のさち子さんだった。その手には、黒く濁った水が入ったバケツが握られている。。そして私の目の前に広がる光景に、全身の血が凍りついた。。丁寧に並べていたギフトセットと、白磁が美しかったアンティーク住器が、汚水でぐしょぐしょに濡れになっていたのだ。。床には雑巾が転がっており、どうやら大掃除のついでに部屋に侵入したらしい。
「お母さん、これ……何をしたんですか?」
震える声で問い詰める私に、さち子さんは鼻で笑いながら言い放った。
「あら、何って?大掃除よ。。こんなガラクタが置いてあるから、邪魔で仕方なかったの。。感謝して欲しいくらいだわ。」
悪びれる様子もなく、むしろいいことをしたとでも言いたげな態度に、私は怒りで体が震えた。
その夜帰宅した竜一に経緯を訴えたが、帰ってきたのは信じられない言葉だった。
「はあ?お前、母さんに年末の大掃除をさせたのかよ。。しかも自分のガラクタのせいで母さんの手を煩わせるなんて、最低だな。」
「そうなのよ、竜一。私が掃除してあげなかったら、この家はゴミ屋敷になってたわよ。」
竜一は私の話など一切聞かず、姑の言い分だけを鵜呑みにして私を一方的に叱責する。。必死に育ててきた私の仕事を「ガラクタ」と断じ、母親と一緒になって私を追い詰める夫の姿に、私の心の中で何かがぷつりと切れる音がした。
年が明け、義実家では親戚一同が集まる新年の宴が設けられていた。。私は汚された商品の対応に追われ、ほとんど眠れないまま、それでも嫁としての勤めを果たそうと朝から準備に追われていた。。そしてようやく皆の雑煮を配り終え、自分の席に着いた時だった。。私の前に置かれた碗には、餅も野菜も何一つ入っておらず、濁った汁が波々と注がれているだけ。
呆然とする私に、さち子さんが甲高い声で笑いながら言った。
「あら、ごめんなさいね、まなみさん。。あなたみたいにろくに働きもしないお荷物の嫁には、具なんて、せいぜい汁だけすってなさいよ。」
周りの親戚たちが戸惑いの表情を浮かべる中、さらに竜一が追い打ちをかける。
「母さん、うまいこと言うな。。数億円の商談を控えてる俺にとって、お前みたいな貧乏神がそばにいると演技が悪いんだよ。。さっさと消えろ。」
侮辱と嘲笑。もう限界だった。。私は静かに席を立つと、黙々と宴会の後片付けを全て済まさせた。。そして自分の荷物をスーツケースに詰め込むと、リビングのテーブルの上に一枚の紙を置いた。。署名と捺印を済ませた離婚届けである。
玄関のドアを開け、冷たい冬の空気を吸い込む。。私はもう二度と振り返らなかった。
「今日から他人ということで。さようなら。」
心の中でそう呟き、私は暗い夜道へとたった一人で歩き出したのであるある
義家を飛び出した私は、凍える体を引きずるようにして実家へと向かった。。玄関を開けてくれた兄の優は、私の憔悴した顔とスーツケースを見るなり、静かに全てを察したようだった。
「入れ。。話は中で聞く。」
リビングで温かいお茶を差し出され、私は堰を切ったようにこれまでの全てを兄に打ち明けた。。竜一の嘘、さち子さんのいびり、そして元日の宴での屈辱的な仕打ちを。
私の話を聞き終えた優は、静かに拳を握りしめていた。。その瞳には、普段の穏やかな兄からは想像もできないような、燃える怒りの炎が宿っている。。まなみ、今まで一人でよく耐えたな。。辛かっただろう。。もうお前が我慢する必要はない。。あいつらには、俺がきっちり社会的制裁というものを教えてやる。」
兄の力強い言葉に、私はこらえていた涙が溢れ出した。。孤独と悔しさがようやく溶けていくようだった。
落ち着きを取り戻した私は、まずやるべきことを実行に移した。。スマートフォンでネットバンキングを開き、共有口座の残高を確認する。。そこには竜一が使い込んだ後も、私のショップの売上が入金され続けていた。。これはあの親子に渡すためのお金ではない。私はためらうことなく、残っていた全額を自分の個人口座へと移動させた。。これであの親子が勝手に使えるお金は、一円もなくなった。
一方優の行動は迅速だった。。彼はすぐにスマートフォンで竜一に電話をかける。。時刻は元日の夜十時過ぎだが、兄の表情に躊躇はない。
「もしもし。の瀬君か。。社長の清水だけど。新年早々済まないが、緊急の仕事が入った。。クレーム対応だ。。今からすぐ指定の現場に向かってほしい。」
スピーカーにした電話の向こうから、竜一の眠そうで不機嫌な声が漏れてくる。
「はあ?元日から仕事とかありえないんですけど。。こっちは正月の休みを満喫してるんですよ。」
「クライアントからの至急の要請だ。。これは業務命令だよ。。それに君にはエリートとしての自覚があるんだろう。」
皮肉を込めた兄の言葉に、竜一はぐっと言葉をつまらせた。。優はそれを無視し、淡々とした口調で指示を続ける。
「場所は三箇所だ。。南ビルの深夜清掃。第一工場の特殊清掃。。最後は倉庫の特別清掃。。詳細は現場で聞け。。朝までによろしく頼む。」
兄があげたのは、竜一が日頃から見下していた、市内で最も過酷な深夜の労働現場ばかりだった。。これは業務命令という名の、厳格な制裁の始まりである。
案の上、竜一は最初の現場を三十分も持たなかった。。悪臭に耐えきれず、無断で現場を放棄して逃げ帰ったという報告が、すぐに優の元へ届いた。
そして翌朝、優は再び竜一に電話をかけた。。数回のコールの後、電話に出たのは、弛んだるい声のさち子さんだった。
「あら、どちら様かしら?今うちの竜一は疲れてお休みになっているのよ。。世界の経済を動かすスーパーエリートは大変なの。」
その言葉を聞いた優は、氷のように冷え切った声で言い放った。
「では、お母様から息子さんにお伝えいただけますか?の瀬竜一さんは、昨夜の緊急業務を無断で放棄しました。。これは当社の就業規則における最も悪質な契約違反にあたります。。よって本日付けで解雇とします。」
「は?か子…一体何の話をしてるの?竜一はあなたの会社なんかじゃなくて、超一流大手の…」
「いつまでそんな馬鹿げた夢を見てるんですか?あなたの息子さんは、私の会社で清掃員のアルバイトをしていたんですよ。。それも今日首になりましたがね。」
電話の向こうで、さち子さんが息を飲む音が聞こえた。。全ての嘘が暴かれ、巨大な城がガラガラと音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
優が電話を切ってから一時間も経たないうちだった。。実家のインターホンが、壊れそうなほどけたたましく鳴り響く。。モニターに映っていたのは、顔面蒼白の竜一とさち子さんだった。
私が出る前に、兄が冷静な声で、「俺が出る。。お前はここにいろ。」と静止する。
玄関のドアが開くと同時に、二人は兄を押しのけるようにしてリビングに上がり込んできた。。そして私の姿を認めるなり、その場に崩れ落ちるようにして土下座をしたのである
「まなみ、悪かった。。俺が全部間違ってた。。だから頼むから戻ってきてくれ。」
「そ、そうなのよ。。まなみさん。。竜一はあなたがいないと駄目なのね。。お願いだから。」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら懇願する二人の姿は、数時間前の傲慢な態度が嘘のように惨めだった。。しかし、私の心は一ぺも揺らいでない。
「お断りします。。離婚の意思は変わりません。。これ以上話すことはないので、お帰りください。」
私が冷たく突き放すと、竜一はさらに必死に食い下がってきた。
「そんなこと言わないでくれ。。母さんも謝ってるだろう。。なあ、もう一度やり直そう。」
「やり直すつもりはありません。。今後の話し合いは全て弁護士を通して行います。。すでに依頼済みですので。」
弁護士という単語が出た瞬間、それまで床に頭を擦りつけていたさち子さんが、かっと顔を上げた。。その表情は、先ほどまでの泣き顔から一変し、怒髪天に満ちたものに変わっている。
「何よ?弁護士ですって。。ちょっと息子に尽くされたからって、何様のつもりなのよ。。この泥棒猫が。」
手のひらを返したような逆切れだった。。この後に及んでもまだ自分たちが被害者であるかのように喚き散らす姑の姿に、私は最後の同情心さえ消えうせた。
「そうですか。。では弁護士を通して正式に請求させていただきます。。あなたが台無しにした私の商品とアンティーク住器の損害賠償。。損害額、八百万円です。」
「は?八百万?」
私の言葉に、さち子さんの顔から血の気が引いていく。。さらに私は竜一の方を向いて続けた。
「それと、竜一さんが共有口座から無断で使い込んだ百万円。。これも当然返していただきますから。」
すると、それまで青ざめていた竜一が、馬鹿にしたように鼻で笑った
「はっ、大げさなんだよ。。八百万だ。。そんなガラクタにそんな価値があるわけないだろう。。百万は夫婦の金なんだから、俺が使って当然だ。」
全く反省の色を見せず、なおも言い逃れしようとする竜一。。その時だった。。ガチャリとリビングのドアが開いた
「ただいま。。の瀬さんたち、まだいたんですか?」
帰宅した兄の隣には、いかにも切れ者といった雰囲気のスーツを着こなした初老の男性が立っていた。。弁護士の先生だった。
「不法侵入と脅迫で、警察を呼びましょうか?それとも弁護士の先生を交えて、賠償の話をここで続けますか?」
兄の冷静で低い声と、弁護士の鋭い視線に気圧され、竜一とさち子さんは完全に凍りつく。。そして何も言えないまま、追い立てられるようにして私の実家から逃げ出していった。。虚勢を張ることしかできない二人の哀れな後ろ姿だった。
竜一とさち子さんを実家から追い返してから、半月ほどの穏やかな時間が過ぎた。。弁護士の先生を介した離婚調停は滞りなく進み、私はようやく悪夢のような日々から解放され、仕事に集中できる喜びを噛みしめていた。
そんなある日の夜、仕事を終えて帰宅した兄の優が、珍しく深刻な顔で私に相談を持ちかけてきた
「まなみ、ちょっとまずいことになったかもしれない。。会社の存続に関わるかもしれないんだ。」
兄の話によると、彼の会社が長年清掃業務を担当している大切な顧客の一つである、あるデザイン会社から、厳しいクレームが入ったという。。会社の備品が、ここ半月の間に、まるで計画されたかのように頻繁に紛失しているというのだ。。紛失物は、高価なデザインの本や社員が使うPCの周辺機器、さらには海外製の高級文房具など、多岐に渡るらしい。。先方の担当者からは、当然のようにうちのスタッフが疑われている。。「防犯カメラに映らない箇所を狙った犯行で、完全に内部事情に詳しい人間の仕業だ。」と。。このままだと契約打ち切りどころか、損害賠償を請求されかねない。。会社の信用問題に関わる一大事に、兄は心労しきった様子で頭を抱えていた
私はそのデザイン会社の名前を聞いて、思わず息を飲む。
「その会社ってもしかして、アトリエ・クレセント?」
「ああ、そうだ。。なぜ知ってるんだ?」
それはあまりにも奇妙な偶然だった。。私のオンラインショップが、つい先日までコラボレーション企画で密に連携を取っていた企業だったのである。
「私も仕事でお世話になってるの。。それで、備品の紛失が始まったのって、具体的にいつ頃からなの?」
私が尋ねると、兄は手帳を取り出して正確な日付を教えてくれた。。その日付を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走る。。紛失事件が起き始めたのは、私が竜一とさち子さんと完全に絶縁し、彼が仕事を首になった時期と、ほぼ完全に一致していたのである。。私の中にある、黒くそして確信に近い疑念が渦巻き始めた
「お兄ちゃん、一つだけ教えて。。そのアトリエ・クレセントの清掃に、竜一も入っていたことがある?」
「ああ、なんか、な。。あそこは歴史のある古いビルで、最新のセキュリティシステムも導入されていなかったから、新人の研修場所としてよく使っていたんだが。」
竜一なら絶対にやりかねない。。仕事を失い、私からの資金も完全に断たれた。。今、あのプライドと虚栄心の塊のような男が、まともな手段で金を得ようとするはずがない。。私はいても立ってもいられなくなり、自分のスマートフォンで大手フリマアプリを片っ端から検索し始めた。。アトリエ・クレセントの名前や、紛失したとされる備品リストの品をキーワードに、膨大な数の出品物を一つ一つ入念に確認していく。。数時間が経過し、目が疲れで霞み始めたその時だった。。ある出品者のページで、私の指がまるで吸い寄せられるように止まった。。そこには、紛失リストにあったデザイン会社オリジナルの高級文房具や、小型のインテリア雑貨が、新品同様の状態で複数まとめて出品されていた。。そしてその写真の片隅に紛れ込んでいた、ある一つのアイテムに、私は息を飲む。。それは私が今回のコラボ企画の成功を記念して特別に制作し、アトリエ・クレセントの社長に直接手渡した、世界に一つだけの非売品の限定ノベルティだったのだ。。真鍮で作られた精巧なペーパーウェイトで、底面には一つ一つ固有のシリアルナンバーが刻印されている。。そして文章な写真の中から読み取れたそのナンバーは、紛れもなく私がデザイン会社に納品した控えの番号と完全に一致した。。出品者のアカウント名は、竜一が昔からオンラインゲームで使っていた独特のハンドルネームと酷似している。
これで犯人は確定した。
私はすぐに兄にこの事実を伝え、二人でアトリエ・クレセントの社長に緊急の連絡を取った。。全ての悪夢の決着は、今夜つくはずだ。
私と兄からの連絡を受け、アトリエ・クレセントの社長は驚きながらも、すぐさま私たちの計画に協力してくれた。。その日の深夜、私たちはデザイン会社の社長室で息を潜めていた。。部屋の電気は全て消され、窓の外の街明かりだけが、室内にぼんやりとした影を落としている。。協力してくれている警備員の無線機から、緊張した声が聞こえてきた。
「不審な人影を確認。。通用口から建物内に侵入しました。。これからエレベーターでそちらの階に向かいます。」
心臓が早鐘のように鳴り響く。。やがて静まり返った廊下から、かすかな足音が聞こえてきた。。足音は社長室の前で止まり、カチリと鍵の開く音が響く。。ゆっくりとドアが開かれ、一人の男が懐中電灯の光と共に室内に忍び込んできた。
見慣れた、しかし今は憎しみしか感じない、竜一の姿だった。。彼は手慣れた様子でデスクの引き出しやキャビネットを物色し、目ぼしい備品を次々と、自前の大きな鞄に詰めていく。。その姿は、かつてのエリートを気取っていた男の面影もない。。ただの惨めな泥棒だった。
竜一が鞄をパンパンに膨らませ、満足げな表情で部屋を出ようとしたその瞬間だった
「そこまでだ、竜一。」
兄の合図で室内の照明が一斉に点灯し、入口では屈強な警備員二人が退路を塞いでいた。。突然の出来事に、竜一は短い悲鳴を上げ、その場にへたり込む
「な、なんでお前らがここにいるんだよ。」
狼狽する竜一に、私は静かに、しかしはっきりと告げた
「あなたの悪業は全てお見通しです。。フリマアプリに出品していた限定ノベルティが、決定的な証拠になりました。」
観念したかと思いきや、竜一は急に居直った態度で叫び始めた
「うるさい。。俺がこうなったのは、全部お前のせいだ。。お前が俺から金を奪ったからだろうが。」
仕事を首になり、資金を断たれた彼は、生活に困窮していた。。再就職にもプライドが邪魔をして、アルバイトすら探す気力もなかったらしい。。そして思いついたのが、以前清掃で出入りし、セキュリティが甘いのを知っていたこの会社に忍び込み、金目のものを盗んで売りさばくことだった。。通用口の合鍵は、清掃員時代に無断で複製していたと言うから、悪質極まりない。
追い詰められた竜一は、なおも喚き散らす
「ちくしょう。。高が会社の備品だろうが。。こんな安物のために、大げさなんだよ。」
その言葉が、完全に彼の終わりを告げた。。私は一切の情けを捨て、冷たく言い放つ
「最後まで自分の罪を認められないんですね。。もうあなたに話すことは何もありません。」
私はポケットからスマートフォンを取り出し、警察へと通報した。。数分後、駆けつけた警察官によって、竜一はその場で現行犯逮捕された。。パトカーに押し込まれる瞬間まで、彼は私の名前を呼び、罵声を浴びせ続けていた。。その惨めな姿を、私はただ無表情で見つめていただけだった。
竜一が逮捕された後、事態は速やかに収束へと向かった。。彼は、営利目的の窃盗及び建造物侵入の罪で起訴されることになった。。警察が彼のフリマアプリのアカウントを調査したところ、デザイン会社以外にも、彼が以前清掃を担当していた複数の企業から盗んだと思われる備品が、大量に出品されていたことが発覚したのである。。多数の余罪が明らかになり、彼の社会的信用は完全に失墜した。。当然、私との離婚も成立した
私はこれまで、竜一の親孝行に付き合う形で、義実家の高額なリフォームローンの支払いを肩代わりしていた。。しかし離婚と同時に、その支払い義務からも解放される。。そして、姑のさち子さんは、まさに地獄へと突き落とされた。。息子は逮捕され、私からの賠償金の支払いも当然のように滞る。。さらにこれまで支払われていたリフォームローンも停止し、あっという間に滞納状態に陥った。。結局、あれだけ自慢の種だった立派な義実家は、銀行によって差し押さえられることになった。。かつて買い漁ったブランド品も、賠償金や当面の生活費のために二束三文で手放すしかなかったらしい。。今では街外れの古い安アパートで、誰とも関わることなくたった一人で細々と暮らしていると、風の噂で聞いた
一方、私の人生は、あの悪夢のような日々が嘘だったかのように、明るい光が差し込み始めていた。。さち子さんに汚された商品と住器の損害は、事業保険を適用することで、幸いにも大部分をカバーすることができた。。この一件がSNSなどで話題になったこともあり、私のオンラインショップには応援のメッセージが殺到し、以前にも増して大盛況となった。。兄の優は、今回の事件を聞きかけに、会社のセキュリティ体制を全面的に見直し、顧客からの信頼をさらに厚くしたようだ。。そんな兄の紹介で、私はセキュリティが万全な都心の新しいマンションに引っ越すことになった
そしてある晴れた日の午後。
「まなみ、たまには気分転換も必要だろ。。仕事関係のパーティーがあるんだが、一緒に行かないか?」
兄に誘われ、私は少しおしゃれをして、ある大手企業が主催する立食パーティーに参加した。。そこで、一人の誠実そうな男性に声をかけられる。。彼はその企業の社長秘書だった。。私たちは仕事の話や趣味の話で大いに意気投合し、自然な流れで連絡先を交換することになった。。彼の物腰の柔らかさと、私の仕事を心から尊敬してくれるその姿勢に、私は久しぶりに心が解け解けていくのを感じていた。。過去の傷が完全に癒えたわけではない。。しかしこの新しい出会いが、私の未来をより一層輝かせてくれる。。そんな確かな予感があった。
私はもう、誰かの虚栄心のために自分を犠牲にしない。。自分の足で、自分の力で掴み取ったこの幸せを、これからは大切に育んでいこう。。私は晴れやかな気持ちで、新しい人生の第一歩を力強く踏み出したのである。
