「おばあちゃん、今日ちょっと出かけるけど、一人で大丈夫?」
祖母は八十五歳。元気ではあるけれど、やっぱり心配だ。
「何言ってるの、私はまだまだ若いんだから」
「でもね、最近この辺りで訪問販売が頻繁に来るんだって。誰が来ても無視してよ」
「大丈夫、大丈夫。私を誰だと思ってるの」
祖母はそう言って手を振った。
私の名前はひえ。二十六歳の会社員。両親と兄と祖母の五人家族だ。父も兄も会社員で、母は専業主婦。なるべく高齢の祖母が一人にならないように気を配っているけれど、祖母は昔から豪快な人で、大丈夫だと言って聞かない。それでも前に一人でいるときに転んで怪我をしたことがあるから、何かと心配になる。
家族全員がシフト制の仕事をしているので、誰かしら家にいることがほとんどだ。でもこの日はたまたま、祖母が一人で家にいることになってしまった。まさか、それがこんなことになるなんて。
私が家を出てから二時間後、買い物をしていると祖母からメッセージが届いた。祖母はシニア向けのスマホを使っていて、電話や簡単なメッセージくらいはできる。
「浄水器の訪問販売が来た」
それだけ書かれたメッセージに、私は慌てた。母はまだパートから帰っていないはずだし、家には祖母だけ。最近近所で、訪問販売が強引に契約させるという話を聞いたばかりだった。
そろそろ帰ろうと思っていた私は、大急ぎで駅に向かい電車に飛び乗った。祖母からの連絡から三十分ほどで帰宅すると、玄関には見慣れない靴が置いてあった。訪問販売員の靴だろう。
慌ててリビングのドアを開けると、祖母がお茶を出しながら販売員と向き合っていた。
「あら、お帰り」
祖母が顔を上げる。販売員は三十代くらいの男性で、一瞬ぎょっとした顔をしたけれど、私の年齢や性別を見て大丈夫だと判断したのか、作り笑顔を向けてきた。
「お孫さん、いくつですか? 若いと分からないかもしれないけど、水は健康に一役買ってるんですよ。ご家族で使う水は、最高のものをお届けしたいと思ってるんです」
「この辺りの水質検査をして回ってるらしいのよ。家庭の水が汚れていたら、無料で浄水器を置いていってくれるんだって」
祖母はそう言って販売員を見る。販売員はうなずきながら立ち上がった。
「そうですよ。では早速、水質検査をさせてもらいますね」
キッチンの水道に向かい、コップに水を入れると、そこに薬品を垂らした。すると水がみるみる変色していく。
「見てください、こんなに色が変わりました。これは水が非常に汚れている証拠です。もしかして、この水を飲んでいたりしませんよね?」
販売員は凄い剣幕で詰め寄ってきた。
「あの、うちはウォーターサーバーを置いてるんですけど」
「あ、そうなんですね」
販売員は一瞬たじろいだが、すぐに持ち直し、健康被害の話をまくし立て始める。この水で手を洗うことすら危険だと言い出す始末だ。
どんだけ汚いのよ、うちの水。こんなわけあるか。
販売員はテーブルにパンフレットを広げ、無料で渡せる浄水器の説明をしたあと、こう言った。
「でもおすすめはこちら。最高級の浄水器です。七十万円になります」
「はぁ?」
思わず声が出た。祖母も驚いている。その様子を見て、販売員は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。最高級の浄水器は不純物を極限まで除去し、美容や健康にもいい。この水を飲み続けていたら病気が治ったという報告まである、と力説する。
すると祖母の目つきが変わった。
「こんなにいいものなら、家族に相談して検討しようかね」
「実はこれ、今だけのキャンペーンでして。本当は百万円なんです。今購入を決めていただければ、特別に七十万円にします」
テレビショッピング張りのアピールだ。私はうさん臭さを感じていたけれど、祖母はなんと、先ほど購入する気で販売員を中に入れたと言う。
「蛇口全部につけないといけないなら、五つ欲しいの。だから中へどうぞって言ったのよ」
「五つも!?」
「そんなにすごい商品なら安いものでしょ」
販売員はにやにやとうなずいている。とんでもない。
「おばあちゃん、さすがに五つもいらないでしょう。こんなこと勝手に決めちゃだめだよ」
「でも、ここは私の家だし」
祖母がこうやって言い張る時は、絶対に引かない時だ。でも七十万円もするものを五つも買うなんて。
祖母はどこか意地になったように言った。
「そうよ。ここの家主は私なんだから、家族に相談なんていらないわよね」
販売員は目を輝かせて、「では契約に移らせていただきますね」と契約書らしきものをテーブルに置いた。祖母に住所や氏名を書くように指示し、どんどん契約を進めていく。
私は無理やり間に入った。
「ちょっと待ってください。そもそもあなた、どこの会社の人なんですか?」
販売員は私を見下すように笑った。
「ああ、お孫さんには名乗っていませんでしたね。私は水道局の方から調査を委託されておりまして、こういう者です」
聞いたこともない会社だったけれど、販売員は私のことには目もくれず、祖母に契約書を書かせ続ける。
「あの、契約書面がこれだけってことはないですよね。あと、万一ですけど、クーリングオフもできますよね?」
販売員は鼻で笑った。
「契約書面は他にもありますよ。これは後で読んでおいてください。それと、これはキャンペーン価格で提供しているので、クーリングオフはできません」
「え?」
「クーリングオフってのは、購入意思のない人に押し売りしたものが対象ですよ。おばあさんはしっかり購入の意思を示していますよね。何でもかんでもクーリングオフできるわけじゃないんです。若いからって、そんな世間知らずじゃこの先困りますよ」
馬鹿にされた。でも、そんなわけはない。訪問販売のクーリングオフ期間は八日間だ。そう言い返そうとした瞬間、祖母が契約書を書き終えてしまった。
「支払いは現金一括払いが基本です」
そう言われ、祖母は販売員を待たせて部屋を出ていった。その間に販売員は「今日は手持ちがないから、一つだけ取り付けていきますね」と言って、キッチンに浄水器を取り付け始める。
しばらくして浄水器の取り付けが終わると、祖母が戻ってきた。手には厚みのある紙袋を持っている。
まさか、現金か。うちには現金を置かないようにしていたはずだけど……祖母のタンス預金か何かだろうか。
祖母が紙袋を販売員に渡そうとした瞬間、玄関のベルが鳴った。
入ってきたのは母だった。
販売員が慌てたように母に頭を下げる。
「私、水道局の方から依頼されてきました」
一瞬、母の目が光った気がした。けれど母はすぐに笑顔を作り、これまでの状況を聞いた。販売員がことの経緯を説明していると、また玄関の開く音がした。入ってきたのは父だ。
販売員は再びぎょっとした顔で、自己紹介と浄水器の案内をする。父は浄水器についてひたすら説明させた。本当に効果があるのか。最高級の浄水器なら健康にいいのか。その根拠は何か。詰め寄られると、販売員はどもりながらも必死に説明する。
ひと通り説明し終えると、販売員は疲れた顔で言った。
「では、残りの浄水器は明日取り付けにお伺いします」
早くこの場を離れたかったのだろう。祖母が渡した紙袋を持って席を立つ。
私たちが玄関まで見送ろうとした瞬間、玄関が開き、そこには兄の姿があった。靴を履いていた販売員は顔を上げ、再びぎょっとする。
「あれ、お客さん?」
兄が言い、販売員の前を塞いだ。販売員はまた名刺を出す。
「私、水道局の方から委託されまして……」
この販売員の名前を聞くのは何度目だろう。さすがに名乗るだけ名乗って外に出ようとしたが、兄がその前に立ちはだかった。
「うちに何か売り付けようとしました? まさか、詐欺じゃないですよね」
販売員は慌てた様子で「とんでもない、正式な契約なのでご安心を」と去ろうとする。けれど兄はそれを許さない。兄は体を鍛えるのが趣味で、ジムのトレーナーをしている。ガタイの良さは、ひ弱な販売員が立ち向かえるものではない。
「ちょっと、こっち来てください」
リビングに戻された販売員は、すでに青い顔をしている。
「最初に帰ってきたのは、ひえだよな」
兄に言われ、私はうなずいた。販売員は家族に囲まれ、しぶしぶと座る。
「水道局の方から来たんだって」
「水道局の方って、あっちだったかな?」
私は水道局の所在地を指さした。水道局から来たんじゃなくて、その近くに住所がある会社から来たってことですよね。詐欺の手口ですものね。
作り笑顔を浮かべていた販売員の表情が固まる。
「水質検査でしょ? この人が家の水をコップに入れて薬品を入れたら色が変わったの。この水が汚れてるんだって」
「でもそれ、何に入れても色が変わるやつだよね」
私は淡々と話し続ける。販売員は目を泳がせる。
「最初は無料で浄水器を渡すって言ってたのに、うちの水が汚すぎるからって、最高級の浄水器を勧められたの。七十万円だって。でも普段は百万円で、今はキャンペーンだから安いんですよね」
販売員は目を泳がせながらうなずく。
「契約内容は一切説明せずに、後で読んでおけと言われたし。キャンペーン価格だからクーリングオフはできないんだって」
「そうですよね」
念を押すと、販売員は今にも逃げ出したいように青い顔でうなずく。
「うちの水道水で野菜を洗って食べてると病気になるらしいし、飲むなんて論外だそうよ。この最高級の浄水器なら不純物を極限まで取り除いて、飲むだけで病気が治ったっていう報告があるとか」
「でもこれ、もう五年くらい前に問題があって、販売中止になった浄水器だよ」
私は販売員が取り付けた浄水器を指さした。販売員は青い顔のまま、「そんなことはありませんよ。嘘言わないでください」と言う。
「嘘じゃないですよ。だって業界では有名な話ですもの。あ、私、ここで働いてるんです」
私は販売員に名刺を差し出した。それを見た販売員は、さらに顔色を悪くする。人の顔色がここまで変わるのかと思うほど、顔面蒼白になった。
私はウォーターサーバーの販売もしている有名メーカーに勤めている。検査も大学で勉強したことがあるから、この販売員の説明がほとんどでたらめだと分かっていた。浄水器やウォーターサーバーの訪問販売は悪質なものが多いようで、業界にいるとよく耳に入る。
この販売員は運悪く、我が家に入ってしまった。祖母だけなら簡単に騙せると思ったのだろう。まさか、業界で働く人間がいる家に来てしまうとは。ちなみに父はやり手の営業マンだ。父が帰ってきて販売員を問い詰め、説明させたのは、詐欺の要素を暴くためだった。
顔面蒼白で反論もできない販売員に向かって、母がスマホを出した。そこには、母が帰ってきてからのやり取りが全て録音されていた。母は祖母のメッセージを受け取った時点で、これは詐欺だと思っていたらしい。水道局の方という言い方に違和感を覚え、万全の準備をして帰ってきたのだ。だから、あの時目が光ったのか。
録音を聞かせながら、祖母が言った。
「あんた、この近所の年寄りを騙して、高い浄水器を売り付けていたんだろう。これは詐欺じゃないのかい?」
販売員はかれた声で「でも、ちゃんと契約していますし」と言った。この根性は、ある意味見習いたいところだが、詐欺だ。
「ご近所の皆さんが騙されたのは、ここ数日の出来事です。あなたはクーリングオフできないと言いましたけど、実際にはできますよね。それに、この契約書面には内容も書かれていなければ、あなたの会社の住所すら書いてない。こんなの通用しませんよ」
私は会社で、悪質な同業者が多いから契約の際には気をつけるようにと、みっちり研修を受けている。この販売員はグレーゾーンどころではなく、真っ黒な契約をしている。完全に詐欺だ。
「これがきちんとした契約だなんて、よく言えますね。悪質な業者の手口って、本当にこうなんだって、私も勉強になりましたよ。水道局から来ましただと違法になりますものね。水道局の方から来ました、なら、そっちの法律事務所から来ただけだって言えますものね」
販売員は反論する気力もなくなったのか、うつろな目でこちらを見ている。
「契約書面もきちんと説明しないで契約させるなんて論外です。あなたの会社、もしかして、この販売中止になった浄水器を売ってたところですか? 潰れたと思ってましたけど、名前を変えてるんですかね。だとすれば、使えもしない浄水器を高額で売り付けて、負債を回収しようって魂胆ですか?」
確かあの会社は新参の会社だったはず。あなたが社長ってことはないと思いますけど、親族経営とか。最後は当てずっぽうで言ってみたら、どうやら当たってしまったらしい。
販売員は涙を浮かべ、「実は、その会社の社長は父なんです」と言った。小さな会社で、一家で路頭に迷い、仕方なく訪問販売に転向したのだと。
私たち家族はそれを聞いて笑ってしまった。
「路頭に迷ったからって、詐欺はないでしょう。根性腐ってますね」
「まあ、その涙も演技でしょうけど。路頭に迷ってたら、営業で高級車なんて乗ってきませんよ。そこの角に止めてある車、あなたの車ですよね」
帰ってくる時、家の向かいの角に見慣れない高級車が止まっていたのが気になっていた。兄が帰ってきて玄関が開いた時、販売員がすぐにでも出たがっていたのは、遠隔でドアを開けようとしていたからだ。
高級車に乗れるほど詐欺をしているなんて、ますます許せない。
祖母の友人のおばあさんも、近所の老夫婦も訪問販売の詐欺にあったと言って泣いていた。祖母はそれを聞いていたのだ。ただ相手の住所も連絡先も分からなかったので、泣き寝入りするしかなかったという。
家に一人でいた祖母は、訪問販売が来た時、ピンと来たらしい。これが近所の人を騙した相手なら、その敵を取りたいと思ったという。以前から、訪問販売が来たらとっちめてやると言っていたので、祖母がメッセージを送ってきた時点で、私たち家族は協力しようと急いで帰宅したのだった。
母が録音したデータ。最高級と言われた浄水器。いい加減な契約書面。これだけでも、詐欺の証拠としては十分だ。
祖母は近所の人に電話して、すぐに来てもらった。販売員の顔を見て口々に「詐欺の犯人だ」と言うので、今度は警察に来てもらうことになった。詐欺の現行犯ということで、販売員は警察に連れて行かれた。
随分と大騒動になったけれど、数日のうちに詐欺の被害にあった近所の人たちは、皆無事に被害額が返済された。販売員は詐欺罪で逮捕されたらしいが、その後どうなったのかは分からない。
「ところでおばあちゃん、タンス預金なんてやめた方がいいよ」
私はふと思い出して祖母に言った。祖母は何のことか分からないという。
「浄水器のお金で、紙袋渡してたじゃない。あれ、一体いくら入ってたの?」
すると祖母は思い出したかのように部屋を出て行き、あの紙袋を手にすぐ戻ってきた。渡された私は、紙袋を開けて笑ってしまった。中に入っていたのは、風呂敷に包まれた漫画雑誌だった。
「これを渡して、すぐにバレたらどうする気だったの?」
「これが私のおすすめだから、ぜひ読んで欲しいって熱弁しようと思ってたのよ」
確かに、それは昔から祖母が読んでいる雑誌だ。
「いざとなったら、ボケたふりでもすれば何とかなるでしょうしね」
祖母はそう言って笑った。私は、祖母はまだまだ元気だと確信した。我が家は今日も、笑いに包まれている。
