朝のうちから降り続く激しい雨の中、俺は取引先のエントランスに立っていた。傘を差していても、横殴りの雨風に打たれて、ズボンの裾から水が滴り落ちる。そんな姿を見下すように、取引先の部長が言い放った。
「霊載企業への事前事業は今日で廃止だ。」
その瞬間、俺の中で何かが冷たく固まるのを感じた。部長は、ただでさえ不機嫌そうな顔をさらに歪めて、腕を組みながら続けた。
「特許更新の金額、12億か。ふざけているとしか思えないな。」
「単純に特許を使用するための金額。そう考えているのなら、大きな間違いです。」
俺はできるだけ淡々と答えた。理由があって取り決められた金額。そう認識していると伝えたかったのだ。
「口応えするな。」
部長は俺の言葉を遮り、吐き捨てるように言った。
「親父は何を考えているんだか。古い付き合いが長いと、ずるずるしてしまう。霊載企業への事前事業は今日で廃止だ。この12億、他の企業に回した方がよっぽど有意義だろうよ。」
俺は即座に切り返した。
「その言葉、訂正してください。」
俺の名前は矢沢。48歳だ。町場を切り盛りしている小さな工場の社長で、従業員は50名にも満たない。見た目は古びているが、この工場から出るものに妥協はない。
長年の信頼を積み上げてきた取引先の中でも、ある工作機械メーカーとは10年以上の付き合いだった。縁をつないでくれたのは、先方の仙台社長だ。職人気質の実直な人物で、うちの技術に惚れ込んでいた。
「本当に見事な技術だ。」
当時、若い技術者だった俺に、彼は毎回のようにそう言ってくれた。その言葉があったからこそ、俺たちは手を抜かずにやってこれたのだ。
だが仙台社長が亡くなり、今の社長が就任してから、関係はぎくしゃくし始めた。数字で全てを判断するようなところがある上、コネ採用した人間ばかりを重用するため、社員からの評判も悪い。その中に、部長がいたのだ。
部長は、取引先社長の次男で、トラブルメーカーとして有名だった。担当になってから半年、連絡を入れても返事がない、問い合わせをすれば的外れな言葉が返ってくる、自分の立場を傘に来て脅しめいた発言をすることもあったようだ—
「価格下げてくれれば、親父も喜ぶと思うんだよね。」
「次男は関係ないし、これはビジネスである。」
俺がそう突き放すと、部長は決まって癇癪を起こし、「親父に言うぞ。お前らみたいな霊載企業、うちのおかげで存続できているようなもんじゃないか。」と喚くのだった。
特許更新の当日、出発の時間が迫った頃、窓の外は暗く、叩きつけるような雨音が響いていた。ゲリラ豪雨だった。視界が悪すぎて、運転するのは困難だ。俺はやむを得ず、部長の携帯に電話をかけた。
「何? 遅刻? 」
事情を話すと、不機嫌そうな声が返ってくる。
「何余っちょろいこと言ってんだよ。時間ぴったりに来い。運転が嫌なら歩いてくればいい。」
笑うようにそう吐き捨て、一方的に電話を切られた。
結局、取引先に到着したのは約束の時間から10分ほど過ぎていた。案の定、道路は混んでおり、通常の半分以下のスピードしか出せなかった。むしろ、その状況で10分の遅刻で済んだことは奇跡的だろう。だが、駐車場は屋外で、エントランスに到着するまでに、俺はずぶ濡れになってしまった。
「遅かったな。」
顔を上げると、部長が目の前に立っていた。出迎えてくれたのかと思ったが、さすがにこの大雨で心配してくれたのだろう—
「では特許更新の話を。」
俺が一歩足を進めようとした瞬間、部長が声を張り上げた。
「おい、そのびしょびしょの足でうちの会社に踏みいるな。ただでさえ霊載企業の人間の出入りなんて殆どないのに、うちの床を汚すつもりか。」
急速に、何か冷たいものが腹の奥底に溜まっていく感覚に襲われた
部長は平然と腕を組み、肩を揺らした。
「大体今回の更新額、12億だったか。なんだよ、その価格は。」
こんな場所で契約に関する話をしないで欲しいと思ったが、俺は淡々と質問に答えた。ずっと冷静に対応してきたつもりだったが、今回ばかりは許せない。運転で気が張り詰めていたせいもあるだろうが、ここまで屈辱的に感じたのは初めてだった
「弊社の精密センサーに関する特許技術は、非常に特殊なもの。それを理解しての言葉ですね。」
今まで俺は、部長に対して怒りをあらわにしたことはなかった。だがその瞬間、部長の顔が、わずかに強張るのが分かった
「なんだよ。事実だろうが。親父は顔馴染みに甘いからな。こうでもしないと、うちは立ち行かんだろう。」
玄関前で、俺たちをチラチラと見て通り過ぎていく人間も多い。こんな場所で、こんな屈辱を晒させるのか。
俺は、もうこの男に何を言っても仕方ないと悟った
「部長のおっしゃりたいことは、よくわかりました。
「はい。俺の機嫌を損ねたことを後悔するんだな。」
確かに大手の取引先を失うことは痛手かもしれない。だが、こんな男を平然と部長に据えるこの会社の体質には、前々から疑問があった。全担当者から聞いた話では、今の社長はかなりコネ採用を多く取っているらしい。今後は、部長のような人間が多くなる可能性もある。いや、もはや手遅れかもしれない。そう考えると、この会社の未来が、手に取るように見えるようだった。むしろ、タイミングが良かったのかもしれない
俺は一礼し、そのまま背を向けた。
車に再び乗り込むと、雨足は少し増しになっていた。10年来の付き合いに終止符を打つことへの未練はある。ふと、仙台社長の顔が浮かんだ。あの人は、今の会社を見て何と言うだろうか
俺は、その先のことを考えるべきだ。そう考え、エンジンをかけた
翌朝、出勤すると、雨はまだ降り続いていた。昨日ほどではないが、心配だな。どうしても昨日の風景と、部長とのやり取りを思い出し、気分が暗くなる。いかんな。シャキッとしないと
そう、一人ごちていると、突然乱暴に事務所の扉が開かれた。他の社員が大きな音に目を丸くしていると、人影がぬっと現れる
「部長さん。」
俺が思わず声に出すと、その人物と目があった。傘を持ってこなかったのだろうか。雨に打たれて、ひどく濡れている。急いできたのか、息も乱れていた
「話をさせてくれ。昨日は済まなかった。」
そう言いながら、部長が来客用のソファーに座ろうとする
「そのまま座るおつもりですか? ソファーが汚れてしまいますね。」
昨日、自分が言われたことの意趣返しのつもりだった。部長には、それが分かったのだろう。自分から言っておいて、なんだが胸が悪くなった。こんな言葉を、目の前の男は悪びれもなく言ってのけたのだ。そう考えると、部長は決して理解し合えない人間なのだと痛感する
「昨日の私の気持ちが、少しでもお分かりになりましたか?

」
俺はそう言って、改めて部長に着席を促す。社員に行って、タオルを持ってきてもらう。優しくしてやる必要などない。これは哀れみだった。それほどに、来客ソファーに座る部長の表情は、うつむきがちだったのだ
「ありがとうございます。」
部長から、ぽそりと感謝の言葉が聞こえてきて、思わず俺は社員たちと顔を見合わせた。今まで、こんな当たり前の言葉でさえ聞いたことがなかったのだ
「それで、本日はどうされましたか? 事前事業は廃止とおっしゃられたので、もうお会いすることはないと思っていましたが。」
俺の言葉に、部長は唸るようにして話し始めた。
「実は、昨日あんたが帰られてから、親父に報告したんですよう。」
昨日の俺とのやり取りが終わった後、部長は得意げに社長に報告したらしい。「親父の代わりに、俺が切ってやったぜ。」とでも考えていたようだ。最初社長は、部長が何を言っているのか理解できない様子だったという。だが遅れて理解したのだろう。
「この大バカ者。」
社長はそう言って、部長を叱り飛ばし、技術部門の責任者を呼んだそうだ。うちの精密センサーが使えなくなった場合、どのような影響が出るのかを試算させたのだ
技術部長が読み上げた試算の内容は、想像を超えるものだったらしい。代替業者を一から探し、性能検証を行い、製造ライン全体の回収と実装テストまでこぎつけるには、最短でも2、3年。費用は数十億規模に上る可能性があるというしかもその間、製造ラインの一部は停止を余儀なくされる。技術部長が数字を読み上げるたびに、社長の顔色が変わっていったそうだ。最後には、手が震えていたという。
「あんな親父の顔、初めて見た。」
話しながら、部長がつぶやく。それは当然だろうと、俺は黙って聞いていた。うちの精密センサーは、取引先の製造ラインの要所に組み込まれている。代替品がないとまでは言えないが、うちの代わりの企業を一から探し、交渉し、実装にこぎつけるには、相当な時間と金額を要することだろう
部長は、コスト削減のことや、親父のこと、会社のことを考えて、と言い訳していたらしいが、社長は聞く耳を持たなかったそうだ。
「黙れ。お前が勝手に判断していい案件じゃない。明日一番で矢沢社長のとこへ行って、頭を下げてこい。私は知らん。お前の責任だ。」
そう言い放ち、社長は部長を追い出したという
俺は黙って話を聞き、社員の入れてくれたお茶をすすった。謝罪にやってきたのは、部長一人である。自分のしたことに責任を持つのは当然だが、「私は知らん」という言葉が引っかかっていた。10年来の付き合いがある取引先に対し、これが社長のうちに対しての意識の現れだろう。自分の息子がやらかした尻拭いを、その息子一人に押し付ける。仙台社長なら、絶対にしなかっただろう
部長に対しても、社長に対しても、怒りはもうほとんど残っていない。代わりに存在するのは、呆れや哀れみ。そういった冷たい感情のみだ。
「お願いします。矢沢社長のセンサーに支えられていると知っていたら、あんな暴言は吐きませんでした。どうか、全て水に流してもう一度契約を。」
その言葉が部長から出た瞬間、「無理です。」と俺は口に出していた
「反省しています。どうか。」
部長は引かずにさらに懇願しようとするが、俺は首を横に振る。
「私は昨日、はっきりと申し上げました。二度と契約はしないと。」
部長は言葉を探すように、口を開閉させている
「『知っていたら』と言いますが、担当になって半年、あなたはうちの工場に一度でも足を運びましたか? 現場を見ようとしましたか? 知らなかったのではない。知ろうとしなかったんです。」
その言葉で、完全に部長は黙り込んだ。そこにいたのは、社長の次男でも、取引先部長でもなく、ただ打ちひしがれた中年の男だった
その後しばらくして、ある人物がうちの事務所を尋ねてきた。部長の兄だった。最近まで海外にいたようで、うちとのトラブルを知ったのがつい最近らしい
「この度は父と弟が、大変申し訳ございませんでした。」
部長の兄は、以前から父のやり方に不安を感じていたという。それを引き継ぎ、次期社長となることにも嫌悪感があったそうだ
「矢沢さんの会社の技術は、業界で本当に高く評価されている。父も、本当はそれを分かっていたはずなんです。私は父とは関わりない世界で、自分の道を進もうと思います。」
そう告げ、深く俺に頭を下げた。この時、ついでと教えてくれたことだが、部長は社長と揉めに揉め、最終的に会社を解雇され、実家からも追い出されたという
俺には、もう関係のない話だ。長年の取引先を失ったことは確かに悲しい出来事だが、不思議と気持ちは軽かった。早速、他の企業から新しい仕事の声もかけていただいている。お互いに認め合い、信頼し合う。簡単なようで難しいことだ。だけど俺たちは、これからも技術を磨き続ける。それが、自分たちの、相手のためにもなるのだから
ある建設会社の株主総会に、作業着姿で臨んだ俺を、受付にいた総務部長は馬違いだと言って追い返した。この部長は、株主名簿も確かめず、俺を下受け業者と見下したのだ
この部長は知らない。俺がこの株主総会の鍵を握る男だということを。そして、人を見た目で判断した愚かさを、後悔することになるだろう
俺は里崎。62歳。小さな土木工事会社の社長だ。中学を出てすぐ、見習いとして土木現場に入った。測量の仕方、図面の読み方、地面の傾きや土の締まり具合も、全部現場で覚えた。22歳の時に独立して自分の会社を起こし、もう40年が経つ
今日、俺は、俺が土木仕事を受け負っている建設会社、つまり元受けの本社ビルに向かって、軽トラを走らせている。仕事の相談ではない。元受けの株主総会に出席するためだ」俺は元受けの会社が創業する時に、株式出資した一人なのだ
助手席には、娘の夏が座っている。夏は34歳で、独立したファイナンシャルプランナーとして働いている。貯蓄や投資のことを人に教える仕事だ。幼い頃から数字に強く、細かいことに敏感な娘だ
「今日の総会で測られる合併の特別決議。うちの票がないと、否決になるよ。」
夏が窓の外を見たまま言った。
「そうか。」俺はそれだけ返した
「賛成派と反対派が、今、拮抗しているの。お父さんの15%が、天秤の奮闘になっている状況なんだよ。」
今、元受けは同業他社との合併を、株主総会で決めようとしている。三分の二以上の賛成が必要な話だ»俺の持ち株は全体の15%。この数字が持つ重みを、夏はそう教えてくれた
「合併先の会社のこと、少し調べてみたんだよね。知り合いのプランナーが向こうの関係者と接点があって、詳しく聞いてみたの。過去に三社を吸収していて、どこも合併先の従業員を大量にリストラしている。コストカットと言って、下受けへの単価も下げているみたい。」
俺は前を向いたまま、夏に聞いた
「なぜそんな会社と合併する必要があるんだ?
社長は何をやってる? 」
「合併を強く押しているのは、最近株を買いました一部の株主グループらしい。社長は、推進派だという話も聞いたわ。」
夏の話を聞き、俺は頭を巡らす。元受けが合併先に吸収されたら、俺みたいな古い下受けでも容赦なく工事単価を下げられる恐れがある
「お父さんが今年は総会に出るって言うから、何かあると思っていたのよね。”合併、止めないとね。」
俺は少し間を置いて返した
「あの会社が創業する時、俺も出資した一人だ。俺が金を出したあの会社が、別の会社に吸収されて終わるのを、黙って見ていられるか。」
ハンドルを握りながら、古いことを思い出していた」俺が独立してまだ間もない頃、ある現場で松岡という男と知り合った。元受け会社から来た職人で、無口だが仕事の丁寧な男だ
ある日、松岡の組が担当した工事の一部に、わずかな施工の粗が出てしまう。松岡は自分のミスを自ら申告し、材料を自費で、休日に仕上げ直した。俺はその一部始終を、たまたま見ていた」「誰も見ていない場所で、どう動くか。それがその人間の本質だ
現場が終わりかける頃、松岡から声をかけられた
「里崎さん、実は相談がある。俺も独立して、会社を起こしたいんだ。」
松岡はそう言って、資金が足りず、出資して欲しいと俺に深く頭を下げた」俺は少し考えた」会社を起こすのがどれだけ難しいか、俺はよく知っているつもりだ」それでも俺はその場で頷いた」出資した金の見返りとして受け取ったのが、株式だ」あの会社が大きくなるにつれ、その株の価値も上がっていったと、夏に教えてもらったのはずっと後のことだ」これまで、その株を売る気になったことも一度もない」今日、株主総会に行くのは、あの会社の行く末を黙って見届けるためじゃない」どこかに食われて終わるのを止めるためだ
「でも、お父さんらしいね。”作業着で株主総会に行くなんて。」
その声が、俺を過去から現実に引き戻す」
「作業着は、俺たち職人の正装だぞ。」
俺はそう言って、ミラー越しに夏が微笑むのを確認する」ダッシュボードには、薄く折り目のついた書類が挟まっている」夏に「ちゃんと持ってきてね」と言われていた、株主関係の書類だ」今日、必ず出席するよう念を押したのも夏だ」元受けの本社ビルが正面に見えてきた」俺はロータリーに軽トラを寄せ、エンジンを止めた」ビルに入ると、ロビーはすでに混んでいる」スーツ姿の男たちが、受付に向かって列をなしている」その流れの中に、作業着姿の俺と夏が加わった」受付の列へ向かって歩き始めた時、ロビーの奥から一人の男が近づいてきた」50歳前後だろうか」ノーネクタイのスーツに、光沢のある黒い靴」胸のバッジには「総務部長 久保」とある」俺はその男の目を見た瞬間、嫌な予感がした」ここは建設会社だ」しかしその男は、どこかの大手から転職してきた人間特有の、現場を知らない目をしていたように見える」夏が、そっとポケットに手を入れるのが見えた
「失礼ですが。」
久保は俺たちの前で立ち止まり、俺を下から舐めるように見てから、口を開いた
「本日は株主総会でございます。”取引業者様のご来場は、ご遠慮いただいております。」
言葉は丁寧だ」しかしその言葉遣いとは裏腹に、目には明らかに見下げの色がある
「株主として来ています。」
俺は答えた」久保の眉が、わずかに動く」俺の顔から視線が離れ、作業着の胸元から足元まで、再度確認するように見てから、また顔に戻ってきた
「念のため、ご確認させていただきます。」
そう前置きして、久保は続けた
「弊社の株主様はいずれも業界のご関係者でして、念のためご経歴をお伺いするのが確認手順となっておりまして。」
学歴。株主かどうかを確かめるのになぜ学歴を聞く必要があるのか」名簿を開けば一秒で分かる話だ」確認手順などというものがあるはずもないことは、この男の笑みを見れば明らかだ」だが俺は答えた
「中学卒業です。」
その言葉を口にした時、40年間、土と泥の中で積み上げてきたものが、この男の笑いに踏みにじられた気がした」こいつは、俺の何を知っていると言うんだ」怒りが込み上げてくる”だが俺は、奥歯を噛んでこらえた
久保は、舐めるような目で言った
「あのね、ここは中卒の現場職人なんかが来る場所じゃないんですよ。”下受けの貧乏人は間違いだ。”帰れ。」
夏が、横から一歩前に出た
「あの、もう一度言います。”私たち、株主ですが。」
怒鳴るわけでも、訴えかけるわけでもない」事実を告げる静かな声だった」久保は夏を呆れ顔で見て、言い放った
「あんたも中卒か。”二人揃って、冗談は学歴だけにしろ。」
久保はそう吐き捨てるように言うと、脇に控えていた警備員に命じた
「この二人、つまみ出せ。」
それだけ言い残して、踵を返した」会場の方へ遠ざかる背中を、俺は目で追う」この会社が創業する時、俺は金を出した」以来ずっと、この会社の下受け仕事も持っている」型枠を回り、土を掘り、コンクリートを打ち続けた”その俺が、今、警備員に連れ出されようとしている”込み上げる怒りを、俺はこらえた”現場で積み上げてきた俺の経験を、久保はわずか数分で踏みにじったのだ”だが、ここで事を荒立てることに意味はない”とにかく、一旦落ち着こう
警備員が無言で俺たちの前に立ち、出口の方へ手を差し伸べた”俺は夏と並んで、出口に向かう”ビルの外に出て、正面玄関から少し離れた場所に立ち止まった”夏はその場でスマホを取り出し、電話をかけ始める
「書面での議決権行使の期限について確認させてください。”今日の総会に出席できなかった場合、保有分はどういう扱いになりますか? 」
話の中身から、娘は証券会社へ問い合わせをしているのだと分かる”担当者とのやり取りは短かった”電話を切り、夏は言った
「お父さん、書面での議決権行使の期限は昨日まで。”今日の総会に出席できなければ、うちの15%は棄権扱いになるみたいよ。」
俺は黙ったまま聞いた”棄権扱い”株主名簿を一度も確かめないまま、あの久保という男は俺たちを外に追い出した”それは疑いのない事実だ”俺はビルの入り口の方をしばらく眺めた”俺は今日、株主としてここへ来た”それは、久保にも変えることができない
じっと俺の顔を見ていた夏は、俺の心が分かったかのように言った
「お父さん、もう一度行こう。”今度は追い出させないから。」
夏はバッグを開き、中を確かめていた”取り出したのは、株式の保有証明書だ”証券会社の社印が押された書面に、俺の名前と保有株数が明記されている
「名簿を確認しないまま、私たちを外に出したことは、この書類で証明できる。”株主の出席を妨げたことは、会社法に違反する行為よ。」
続けて夏は、スマホの画面を開いた
「さっきのやり取り、録音取れてる。”久保って男が来た時から、ポケットの中で起動させてた。」
「夏、お前、録音してたのか? 」
俺は驚いて切り返した
「あの男が近づいてきた時から、嫌な予感がしていたの。”言いがかりをつけられるんじゃないかと思って、念のため残した。」
俺にはそこまで頭が回らなかった”夏は、思う以上に先を見ている”夏はその場で録音を再生した”名簿を確認しなかったこと”学歴を尋ねたこと”その後に言った「冗談は学歴だけにしろ」という一言”全部、克明に記録されている”夏がバッグを閉じ、肩にかけ直した”俺は正面玄関の方を見た
「よし、行くか。」
俺は短く言って、歩き始めた”夏が黙って隣に並んだ”正面玄関まで戻ると、先ほどの警備員が俺たちに気づいた”「また来たか」という顔で、一歩前に出てくる”夏が先に口を開いた
「受付の担当の方を、呼んでいただけますか?
株主として、正式な申し入れがあります。」
淀みのない声だった”警備員は一瞬戸惑った様子を見せてから、腰の無線機を取り出した”「少々お待ちください」とだけ言い残して、その場に立ったまま動かない”自動ドアの向こうで、スーツ姿の男たちが往来する”待つ間、俺は路方に止めたままの軽トラに目をやった”あの現場、この現場と、ずっと走り続けてきた車だ”俺だけじゃない”元受けの仕事を支えてきた職人たちが、他にも大勢いる”合併先の判断一つで、その仕事が変わるかもしれない”それは書類の数字の話じゃない”現場で体を動かしてきた人間の生活、そのものの話だ
やがて玄関の自動ドアが開き、若い社員が出てきた”久保ではなかった”30代前半に見える男で、胸のバッジには「総務」とある”これまでの経緯を知らないのか、表情に構えはなかった”丁寧に頭を下げてから、口を開く
「お待たせいたしました。”どのようなご要件でしょうか? 」
夏がバッグから二枚の書類を取り出した
「こちらを確認してください。」
差し出したのは、証券会社の社印が押された株式の保有証明書と、今日の招集通知の控えだ”社員は両手で受け取り、書類の先頭に目を落とした”次の瞬間、手が止まる”名前と保有株数の欄を確かめるように、もう一度視線が戻った”顔が硬直していくのが分かる
「か、確認してまいります。」
さっきまでの落ち着きが、声から消えていた”書類を手に持ったまま、繰り返り、早足でビルの中へ消えていく”自動ドアが閉まり、外に静寂が戻った”ビルの中で、何人かが動く気配があった”さっきとは違う社員が、廊下を急いで横切っていく”警備員も、その動きを目で追っている”何かが動き始めているのだと分かった
やがてドアが開いた”最初に出てきたのは、書類を手にした先ほどの若い社員だ”その後ろに、白髪混じりの大柄な男が続いている”俺はすぐに、それが社長の松岡だと分かった”白髪が増え、体付きも変わった”だが、現場で土にまみれて働いていたあの頃の面影が、その目の奥にまだ残っていたのだ”松岡は、俺の顔を見て、動きが止まった
「里崎さん。」
声が上擦っている”松岡はすぐに、若い社員へ視線を移した
「この方は、どういう経緯で外にいるんだ? 」
社員は目を泳がせ、言葉を探している”夏が先に口を開いた
「株主として出席を申し出ましたが、担当の方に名簿の確認もされないまま、外に出されてしまったのです。」
松岡が、夏から差し出された書類に目を落とした”里崎という名前と、15%という数字”俺のことを知らないはずがない”創業の時から株主名簿に乗っている名前だ”だが今、その数字が別の重みを持って、松岡の目に映っているのだと分かった”今日の採決を左右する15%を持つ男を、自分の部下が追い出した”その事実が、松岡の全身を貫いたのだろう”顔から血の気が引き、額を伝い、顎の先まで流れ落ちる汗を、拭いもしない
「受付の担当は、久保だったな。”今すぐここに連れてきてくれ。」
松岡が社員に向かって低く言った”社員は駆け足でビルに向かった”間もなく、廊下にスーツ姿の男が出てくる”久保だ”廊下の奥で俺たちの姿を認めると、足の運びがわずかに鈍くなった”状況が読めていないような軽薄な顔で、近づいてくる”夏が、久保の方へ向き直った
「確認したいことがあります。」
その声に怒気があるわけではない”ただ冷静に久保を見据え、夏は話し始める
「先ほど、ここにいる私の父は、株主として総会への出席を申し出ました。”久保さん、あなたは株主名簿を一度も確認せず、私たちを外へ追い出しましたね。”株主の総会出席権は、法律で保護されています。”あなたは、私の父の持つ権利を侵害しています。」
夏は、保有証明書を久保の眼前に差し出した
「それは、外見から判断して。」
久保は、言い訳を続けた
「以前にも、業者の方が謝ってお越しになり、総会が混乱したことがありまして、それ以来、作業着姿の方は慎重に対応していまして。」
松岡の眉が、わずかに動く”その目に次第に怒りの色が浮かび、口が開きかけた”夏はそれを制して、言い放つ
「さらに、あなたは弊社の確認手順と称して、父の学歴を聞きました。”父が学歴を答えた直後、私は株主だと名乗り出ましたよね。”久保さん、あなたがそれに対しどう言ったか、今この場で聞いていただきます。」
夏がスマホを手に取り、再生した”久保の声が流れ出す
「冗談は学歴だけにしろ。」
久保の口が、半開きになった”顎だけが動いたが、声にはならない”そのまま数秒、久保は立ち尽くした”言い返す言葉を探しているのか、それとも何も出てこないのか”ただ立ったまま、額と首筋に汗が浮き始め、保っていた表情の形が内側から崩れていく
「もう一つ、伺います。」
夏は畳み掛けるように続ける
「名簿を確認していれば、父が発行済み株式の15%を保有する株主だと分かったはずです。”確認しなかったのは、見落としではありません。”確認するという判断を、あなたがしなかったということです。」
松岡が、久保の方へ視線を向けた”久保は足元に目を落としたままだ”久保は、俺に学歴を問う必要はどこにもなかった”名簿を開けば一秒で終わる話だ”久保はそれをしなかった”する暇がなかったのではなく、する気がなかったのだ”俺は久保を見たまま、松岡に向かって言った
「松岡社長、あんたの会社が声をあげた時、俺も金を出した一人だ。”久保さんのような人間がいる会社を作るために、俺は出資したんじゃない。”建設業で飯を食いながら、作業着の人間を格好だけで追い返す。”これがあんたの会社の総務部長か。」
松岡は、しばらく何も言わなかった”俺が言ったことの重さを、噛みしめているのだろう”やがて松岡は、深く頭を下げた
「里崎さん、本当に申し訳ございません。」
しばらくして顔を上げると、松岡は久保へ向き直った
「久保、里崎様に謝れ。」
久保の肩が動いた
「誠に、申し訳ございません。」
絞り出した声は、ろれつが回らず、言葉の形をしていた”それ以上、久保の口は開かなかった”俺は松岡を正面から見る
「ところで、合併の件だが、俺は株主として反対するつもりだ。」
松岡は、すぐに口を開いた
「わかりました。”里崎さん、とにかく中へお入りください。”正式に議決権を行使していただきます。」
俺は夏と並んで、自動ドアをくぐった”久保はその場に立ったまま、追従しない”会場に入ると、席に着いた株主たちの視線が集まった”廊下でのやり取りがどこまで届いていたのか分からない”それでも会場は静まり返っていた”俺と夏が前方の席に腰を下ろすと、隣の株主が俺の作業着に目を向ける”合併承認の特別決議が図られる”俺は指定された用紙に「反対」と記入した”俺がここへ来た理由は、これで果たされる”しばらくして集計が終わると、総会の議長が結果を読み上げた
「合併承認の議案は、否決されました。」
会内に、静寂が落ちる”俺は静かに息を吐いた”松岡の会社が、松岡の会社のままでいられる”現場を支えてきた職人たちの仕事も、今日のところは守られた”俺は夏と席を立ち、会場を出た”さっきまで久保が立っていた場所には、もう誰もいない”出口へ向かいかけた時、背後から声がかかった
「里崎さん。」
振り返ると、松岡が追いかけてくるところだった
「なぜ、反対票を入れられたのか、聞かせてもらえますか? 」
俺は少し考えてから、答えた
「合併先がコスト削減に動けば、下受けの単価が下げられる。”これは俺一人の問題じゃない。”現場を支えている職人全員に関わる話だ。”俺はこの会社に、職人を大事にして欲しいだけだ。」
松岡は少し黙り、俺に向かって深く頭を下げていった
「ありがとうございます。」
数日後、松岡から電話が入る”久保を解任したこと、会社として正式に謝罪したいとのことだった”電話を切り、事務所にいた夏を呼んだ”内容を伝え、俺は夏に感謝した
「お前がいなければ、ああはならなかった。」
「お父さんの思いは、間違っていないもの。”私は少し手伝っただけよ。」
夏はそう言って、はにかむように笑う”あの時、黙って引き返すことなどできなかった”権利があるからだけじゃない”あの場で黙っていれば、久保のような男が、下受けの者を見下し続けるだろう”現場の職人たちが積み上げてきたものが、あの会社の土台にある”それを変えるべきではない”これからも俺は、それを守り続ける”そう強く思うのだった
契約更新の打ち合わせに行った取引先で、部長が突然そう言った
「そういえば、君、中卒だったよね。」
「そうですが、それが何か。」
この手の質問は、聞き飽きた”俺は心の中でため息をつきながら、そう返す”すると部長は、にやりと笑い
「うちみたいな大手が契約している人間が、中卒っていうのも、イメージ悪いんだよね。」
と馬鹿にしてきた”「へえ。”俺を首にでもするというのか。”だったら、好きにすればいい。”その代わり、それ相応の覚悟はしてもらうけどな。」
俺の名前は沢村。35歳。フリーランスのエンジニアをしている”俺は昔、周りから「天才」と呼ばれていた”親にはパソコンを買ってもらい、興味のあったプログラミングを独学で勉強”自分で何かを作り出すということが面白くて、どんどんはまっていった”正直、学校の勉強なんてつまらなかった”「なんでこんな問題が分からないのか」と同級生に悪態をつく毎日”俺はこの時、同級生を見下していたのだ”今思えば、とんでもなく嫌なガキなのだが、その時の俺はそれに気づくことができなかった”周りの大人が、俺を「天才」だと持ち上げすぎていたからだと思う”おかげで友達もいなかったが、そんなもの必要ないと思っていた”地元で一番偏差値の高い高校に、余裕で合格した”ただ、偏差値が高いと言っても、所詮は田舎でのことだ”全国レベルには到底及ばないものだった
高校二年の頃、俺は同級生から嫌われ、教科書を隠されたり、上履きを汚されたりするようになった”別に上履きなんて履かなくても生活できたし、教科書がなくても内容はほとんど暗記していたので、問題なかった”周りにとっては、俺が落ち込みもしないのが、つまらなかったらしい”アルバイト禁止の学校なのに、俺がアルバイトしていたとか、そんなくだらない嘘を教師に告げ口され、めんどくさくなり、高校をやめた”つまり学歴は中卒である”でもその頃には、エンジニアとしての知識がかなりついていて、俺は自分の力を試してみたくなっていた”だが、面接に行っても、中卒ということで弾かれる”派遣社員として働きもしたが、どうもコミュニケーション能力不足で、仕事はうまくいかなかった”ネットで仕事を受け、小銭を稼いではいたが、部屋からはほとんど出ず、親とも会話をしない”そんな日が続き、ついに、高校を中退しても何も言わなかった父親が、俺の生活に激怒した
「お前は、目上の人に対する態度もなっていないし、コミュニケーション能力がなさすぎる。”アルバイトでも何でもして、さっさと社会人として一人前になってこい。」
そう言われ、家を追い出された”それが二十歳の時”俺は少しばかりの貯金でアパートを借り、以前と同じネットでエンジニアとして仕事を受けながら、生活費のためにコンビニでアルバイトを始めた”そこで出会ったのが、同い年の宮野だ”こいつは俺と正反対で、コミュニケーションお化けだった”クレームをつけたお客さんでも、最後は笑顔にして返す”常連さんが多い時間だと、宮野のレジに並ぶ人が圧倒的に多かった”俺は初めて、同世代に敗北を感じる”初めての劣等感だ”だが宮野は、俺のそんな気持ちなんてお構いなしに、ガンガン話しかけてきた
「なあ、沢村って、エンジニアなんだって。”すげえな。」
店長が漏らしたであろう情報を持って、俺にコミュニケーションを取ってくる”
「俺、大学の勉強ついていけなくてさ。”沢村は、どこの大学?
」
と、当然大学に通っているだろうというように言ってきた”俺は、物凄く嫌な気持ちで、「俺、中卒だから。」と答える”宮野は、「え、そうなの。」と驚いたが、聞いてはいけないと思ったのか、それ以上何かを聞かれることはなかった”だが、ある日、休憩室で大学の試験勉強をしていた宮野が、「ああ、わかんねえ。」と頭を抱えて悩んでいた”俺は気まぐれに問題を覗き、すぐに解いてしまった”答えを伝えると、「なんでわかんの。」と言い、その日から俺は宮野の勉強を見るようになったのだ”俺にとっては、初めてできた友達”新鮮だった”宮野のおかげで、俺のコミュニケーション能力も少しずつ人並みになった”本当に感謝している
その後俺は、フリーランスのエンジニアとして、アルバイトをしなくても生活できるようになった”特許をいくつか取り、大きな収入源となる”宮野とは定期的に近況を報告し合う中で、大学卒業後は家電メーカーに就職して、営業をしているという”今年に入り、俺は大手家電メーカーと契約をした”それは、俺が最近特許を取ったシステムで、車内の膨大なデータを特殊なアルゴリズムで瞬時に検索できるのだ”例えば「異音 洗濯機」などと入力すれば、今までに起こった同様の事例が出てくる”さらに追加で部品の名前などを入力することで、すぐに問題を解決に導くことができた”この企業は、グループ会社を含めると3500人ほどが働いている”その人数で全ての事例を共有することができるので、「どこの部署に聞けばいいか分からない」なんていう問題が起こらない”担当の石田部長は、最初こそ本当にそんなことができるのかと疑っていたが、実演して見せると、「これはいい。」と言ってくれた”石田は50代で、当時部長に就任したばかり”部下にいいところを見せたいということもあってか、張り切っている印象だった”このシステムも、好意的に捉えてくれていた
しかしそれから一年、石田の部下に言わせると、「最近部長は、人が変わりましたね。」とのこと”どうやら上層部から「もっと結果を出せ。」と強く言われているようで、経費削減やらコスト重視やら、考えが変わってしまったという”最初に異変を感じたのは、導入から一年が経った頃の定例打ち合わせだった
「沢村さん、このシステムの費用をもう少し下げられないか? うちほどの大手と契約できてるんだから、勉強してもらって当然だと思うんだがね。」
俺が費用の根拠を説明しようとすると、石田は遮るように言った
「まあ、それなりによくできてるとは思うが。」
嫌味な言い方だったが、この時はまだ、プレッシャーで余裕をなくしているのだろうと思っていた”だが、それから打ち合わせの度に、石田の態度はエスカレートした
「このシステム、本当は別の人のものじゃないの? 中卒がこんなもの作れるとは思えないんだが。」
と平然と言い放つようになった”俺は元々コミュニケーション能力がないので、こういう時の切り返しが分からない”宮野に相談したら、「そんなもん、適当に笑って流せよ。」と言われたが、それができたら苦労しない”怒りが顔に出ているのが、自分でも分かった”そしてある日、システムの契約更新のため、石田と折衝することになった”俺を待ち受けていたのは、石田と、もう一人、若い男性だった”石田は、
「こいつは俺の後輩。”ああ、君が中卒だから言っても仕方ないと思っていたが、私はT大出身なんだよ。”日本一の大学だ。”君も名前くらいは知っているだろう。”こいつは、T大の卒業が決まっていて、今年入社する機待のホープだ。”私に続き、T大卒が入社する。」
と紹介した”また中卒とかいうのか”その時点で俺はイラっと来ていたが、とりあえず挨拶をした”若い男は、こちらをちらりと見て、「よろしくお願いします。」とだけ言った”その目には、侮蔑するような色がある”俺はここで、昔の自分もこうやって同級生を見下していたのかもしれないと思い出した”今思えば、申し訳ないことをしたな”そう思うと、どうやら顔に出てしまったらしい”
「おや、珍しく暗い顔をするな。”まあ無理もない。”中卒がT大卒を前にしたら、何も言えないもんな。」
と石田と大学生が一緒になって笑う”その後も、
「こいつには、システムを構築する腕がある。”入社次第、我が社のシステムを担当する。」
と石田は意気揚々と言い放った”石田の言いたいことの予想はついたが、回りくどい言い方にイライラして、
「何が言いたいんですか? 」
と聞く”すると石田は、
「まだ分からないか?
T大卒が入社するから、中卒の外注は不要だ。」
と言って笑った”その傲慢な態度に頭に来て、
「では、契約終了でよろしいですね。」
と念を押す”石田は、
「君のシステムには、世話になったな。”ただ、T大卒のエリートには勝てんだろ。”こいつは、すでにシステムを構築してくれていて、君のシステムを上回っているのだよ。」
と言ってきた”隣にいる大学生も、得意げな表情で頷いている”
「そうですか。」
俺はため息をついた
「それでは、この更新の書類は必要ありませんね。”持ち帰ります。」
ニヤニヤと笑いを浮かべながら頷く石田”俺は書類を持って、退出した”その帰り道、宮野から連絡が来た
「お前、今どこにいる? ちょっと話があるんだけど。」
と言われたので、石田の会社を出て自分の事務所に向かっていると伝える”
「じゃあ、事務所に行くわ。」
と、相変わらず自分のペースで予定を決める宮野”まあ、石田との契約更新があるからと、今日この後の予定は入れていなかったし、ちょうどいい”事務所に戻ると、しばらくして宮野がやってきた”
「ここまで来るなんて、珍しいな。」
と言うと、宮野は何やら分厚い書類をテーブルに置いた
「突然来て悪いな。」
なんて、大して悪くも思ってなさそうな声で言う”そして宮野は、分厚い書類を指差し、
「これ、うちのコールセンターのマニュアルなんだけど、とんでもない量なんだ。”過去の事例をまとめてあって、資料が見つかればほぼ解決できるんだけど、なんせ量が多すぎて探すのが大変。”これ、なんとかならないか。」
と相談を受けた”家電メーカーはどこも同じような苦労をしているようだ”
「それなら、いいシステムがあるよ。」
でも、こんなの今に始まったことじゃないだろう”いきなりなんで、と言いかけると、宮野はにやりと笑い、名刺を出してきた”そこには「部長」の文字がある
「昇進したのか? 」
俺が声を上げると、宮野は得意げに、「その通り。」と言って笑った”俺は思わず、
「お前が部長なんて、お前の会社、大丈夫かよ。」
なんて笑って、軽口を叩く”宮野が言うには、まずは現場で苦労している点に着目したい、今までよりも権限があるのですぐに着手する、ということだった”こいつは部下からの信頼もありそうだし、理想の上司だろうなと、ちょっと羨ましく思った”俺は早速、石田のところで使っていたシステムと、このアルゴリズムは俺が特許取ったものだと説明”
「マジかよ。」
と宮野は目を丸くする
「これ、こんなのがあれば、一発で検索できるじゃないか。」
と、俺の肩をバシンと叩いた
「お前の昇進祝いとして、特許使用料は負けてやるよ。」
俺はそう言って笑うと、宮野は、
「じゃあ、早速、契約だ。」
と言ってくる”こいつのやることは、本当に早い”翌日、俺は宮野の会社に訪問し、宮野とその上司と再度折衝した”上司は資料を何度も確認した後、
「沢村さん、一つお願いがあるんですが。」
と前置きをして、
「特許使用料はもっと支払いますので、独占契約にしてもらえませんか? 他社には使わせないで欲しいんです。”このシステムが使えれば、競合他社と大きく差がつく。」
と申し出てきた”そのように契約をすることにした”宮野も、
「独占契約でこのシステムが利用できれば、他社と圧倒的な差がつきますね。」
と目を輝かせる”今まで石田の会社の顧客満足度が高かった理由が分かった、と言っていた”俺はすぐに宮野の会社用にシステムを組み、導入作業をする”初めてでもすぐに分かるような画面表示になっているので、導入後すぐに使い始めてもらった”オペレーターに直接話を聞かせてもらうと、
「仕事のしやすさが格段に上がり、待ち時間でお客様を怒らせてしまうこともなくなった。」
と喜ばれた”宮野も、
「やっぱり、お前に頼んでよかったわ。」
と喜んでくれる”その後、事務所に戻ると、電話が鳴った”相手は石田だ
「た、頼む。”前のシステムに戻してくれないか?
」
いきなりそんなことを懇願してきた”俺は内心「ああ、やっぱり。」と思ったが、
「無理ですね。」
とばっさり伝える”だが石田は引かずに、
「新入社員が作ったシステムは複雑で、誰も使いこなせていない。”昨日導入したが、車内は大パニックだ。”あの資料はどこだ、お客様を待たせて激怒されている、って俺に全部クレームが来るんだ。」
と現状を伝えてきた”俺は、
「ああ、そうですか。”でしたら、その新入社員にシステムを作り直させればいいのでは。」
と疑問をぶつける”それがさらに石田を追い込んだようで、
「あいつ、昨日システムを変更しろって残業させたら、今日は無断だよ。”今時の奴は、そんなにメンタルが弱いのか。」
となぜか俺を責めてきた”俺は鼻で笑いながら、
「俺を責められても、困りますね。”でも、T大の先輩であるあなたを裏切って無断欠勤なんて、やっぱり大学の絆なんてそんなもんなんですかね。”俺は中卒なんで分かりませんけど、頭のいい大学の出身者って、無責任なんですね。」
と言ってやった”石田は返す言葉がなかったらしく、
「いや、俺たちの時代は違った。”今の若者が悪いんだ。」
と言ってくる”これ以上は時間の無駄だと思い、
「契約終了を申し出たのは、あなたですよね。”それに、俺を中卒だと馬鹿にしたのもあなただ。”そんな企業の助けなんてしませんよ。」
と返した”石田は慌てて、
「申し訳ない。”私もちょっと調子に乗っていた。”今の若者があんなに使えないと思わなかったんだ。”助けてくれ。”金はいくらでも払うから、今すぐ来てくれないか。」
と早口でわめく”俺は、
「無理です。”あのシステムは、俺の持っている特許を使っていますが、オタクのライバル社と独占契約したんで、今後、以前のようなシステムを導入することはできません。」
ときっぱり断った”石田は、
「独占契約、ライバル社だと。」
と呟く”俺は宮野の会社名は言わず、
「そうですね。”どこだかは、そのうち分かるかもしれませんね。”とにかく、オタクを助けるようなことはできません。”そういうことです。”俺の言いたいこと、分かりますよね。」
と言った”石田はしぶしぶ「わかった。」と言ったが、続けて、
「だったら、あのシステムじゃなくていい。”似たようなもの、特許使わなくても作れるだろ。」
と引かない”俺は、
「分かってないようですね。”特許がなければ、同様のものを作るのは不可能です。”それに、あなたとは関わりたくないと言ってるんですよ。」
と言った後、少し間を置いた
「それと、余談ですが、俺、高一の時に、御社の社員も受けるT大の模擬試験で、A判定出してるんですよね。」
電話の向こうで、石田が息を飲む気配がした”俺が苦労して受かった試験を、高一で”どうやら石田のプライドは、ズタズタのようだ”俺は静かに続けた
「高校は、レベルが低すぎてやめました。”だから中卒なんです。”勉強ができないから中卒なわけじゃない。”色々な事情で、色々な学歴の人がいる。”これからは、その学歴マウントはやめた方が身のためですよ。」
と言って、電話を切った”その後、石田からは何度か連絡があったが、無理ですと、その都度断った”その後、宮野から石田の会社の話を聞いた”顧客満足度が急激に低下しているという
「保障してコールセンターに問い合わせたのに、時間がかかっただけで何も解決しなかった、とか、以前はすぐ対応してくれたのに、今は何時間も待たされるとか、そんな悪評が一気に増え、株価も下がっているらしい。」
半年後には、リストラも始まったと宮野が教えてくれた”一方、宮野の会社は顧客満足度が急上昇している”沢村のシステムのおかげで、車内の仕事も効率が上がったし、コールセンターでもすぐに対応できてるよ”本当にありがとう、と宮野に礼を言われるほどだ”そこで宮野は、少しおかしそうな顔をして、
「そういえば、お前が前に契約してた会社の、石田さんって知ってる? うちに転職面接に来たんだよ。」
と言った
「システムが不評になってきたから、それ作ったの、俺の親友ですよ、って言ったら、みるみる顔が青ざめてさ、そのままそそくさと帰ってったよ。”それに、T大卒ってやたら強調してて、うちの上司が、学歴を主張してくる奴なんてのはいない、って言ってたし、どうせ受からなかっただろうな。」
俺はその話を聞きながら、思わず吹き出してしまった”人を学歴で見下し、積み上げてきた信頼を自ら壊した男の末路がこれか”因果応報とは、よく言ったものだと思った”宮野の会社には、定期的にメンテナンスで行っているが、みんなが俺にもフレンドリーに接してくれるし、俺のシステムを喜んで使ってくれている”俺がこんな風に働けているのも、宮野のおかげだ
「宮野、ありがとな。」
不意に口に出すと、宮野が意外そうな顔した”これからは、もっと感謝を伝えていきたい”俺のコミュニケーション能力も、まだまだだ”宮野に習って、頑張っていこうと思う
俺の代理で、取引先の祝賀会に参加した娘が、なぜか一時間で帰宅した”取引先の新部長は、娘の学歴を笑い、俺の工場を侮辱し、契約を勝手に終わりにすると脅したという”俺にとって、娘は何よりも大切で、掛け替えのない存在だ”そんな娘を傷つけたものを、絶対に許すわけにいかない
俺の名前は上村。45歳。”小さな町工場を営んでいる”妻は、娘が五歳の時に病気で亡くなった”それ以来、俺一人で娘を育ててきた”高校三年の進路面談の時だ”担任は大学進学の話をしようとしたが、娘は迷わず言った
「私、お父さんの工場で働きたいです。」
娘の目は真剣だった
「お父さんの技術、すごいと思ってる。”一緒に工場を守りたい。」
その目は本気だった”俺はその決意を尊重した”卒業後、娘は俺の工場で働き始めて、三年になる”娘は、俺の人生そのものと言っていい”俺の工場で作っているのは、産業用ロボットの関節部分に使う特殊なベアリングだ”ベアリングとは、機械の回転する軸を支えて、摩擦を減らす部品の名称だ”技術者でもある俺は、数年かけて独自のベアリングの開発に成功した”そのベアリングは、特殊な形状のシールを使うことで、密封性を保ちながら、回転の抵抗を従来品の80%も減らすことができる”俺は開発に成功すると同時に、この技術の特許を取得した”特許公報に技術が公表されると、真っ先に連絡をくれたのが、大手産業用ロボットメーカーの吉岡技術部長だった
「このベアリングを、是非我が社で使わせてください。”精密な動きが求められる産業用ロボットは、摩擦が少なくて長持ちするベアリングが不可欠なんです。」
吉岡は、技術者として俺の特許技術を正当に評価してくれた”そこから、正式な契約交渉が始まる”営業部の大竹課長も交え、何度も打ち合わせを重ねた”最終的に結んだ契約には、重要な条件が三つあった”一つは、契約期間は五年間の独占供給契約であること”もう一つは、大手メーカーに特許ベアリングを特化供給すること”そして最後に、一方的な契約変更や、信頼関係を破壊する行為があった場合に備え、俺が強く主張して入れてもらった条項がある”供給側の判断で、契約を即時解除できる条項だ”契約書への署名は、大手メーカーの社長の立ち合いのもとで行われた”社長は、契約書に署名を終えると、俺に声をかける
「上村さん、本社の技術を信頼しています。”五年契約、よろしくお願いします。」
それから三年、毎月安定した数を納品し、取引担当となった大竹課長とも信頼関係が築けている”そんなある日のことだ”大手メーカーから、新工場完成の祝賀会への招待が届く”あいにく俺は、納期が迫っていたため欠席するつもりだった”すると、娘が言った
「私が代わりに行きたい。”大事な取引先だし、お祝いをきちんと伝えたい。」
娘も三年間、真面目に働いてきた”こういう経験も、成長の糧になるはず”俺はそう思い、願いを叶えた
「わかった。”大竹課長か、吉岡部長にあったら、よろしく伝えてくれ。」
祝賀会当日、娘を送り出して一時間後、玄関のドアが開く音がした”まだ早いと思い、顔を上げると、娘が泣きながら立っている”俺は血の気が引いた
「どうした? 」
娘は肩を振るわせながら、やっと声を絞り出した
「ごめんなさい、お父さん。」
俺は娘をなだめるように言った
「落ち着いて話してくれ。”何があったんだ? 」
娘の声は震えていた
「私が高卒だから、”高卒でボロ工場はできません」って。」
娘は涙をこらえながら、それでも丁寧に状況を説明した”娘によると、ことの天末はこうだ”会場に着いた娘は、受付で父の代理だと伝えると、メインホールへ案内された”大竹課長と吉岡部長を探したが、人が多くて見つからなかったという”そこへ、見知らぬスーツ姿の男が近づいてきた”娘はどこから来たのかと聞かれ、父の工場の代理だと答えると、男は「ああ、あの町。」と呟いたという”娘は、父は仕事で来られないと伝えると、男は、新しく着任した営業部長の角倉と名乗った”問題は、ここからだ”角倉は、まだ若い娘に、どこの大学に行っているのかと聞いてきた”娘が「高卒で、工場で働いている。」と答えた瞬間、角倉の顔が歪み、その周りにいた若手社員たちも、笑い始めたそうだ”そして角倉は、娘の耳元に顔を近づけて、こう囁いたという
「悪いけど、”高卒でボロ工場はできん」ってことで、”それに、新工場が正式稼働したら、うちは大手部品メーカーと組む予定だから、オタクの工場との取引は終わりにしたいんだよね。」
突然の理不尽な言われように、娘は混乱し、会場を逃げ出すように出てきたという”そこまで話すと、娘はまた泣き出した
「お父さんの、大事な取引先なのに、私が行かなければ。」
俺は娘の頭を撫でた
「お前は、何も悪くない。」
娘の震える肩を抱きしめながら、俺は唸るような声で言った
「大丈夫だ。”お父さんが、なんとかする。」
娘は涙を拭いながら頷いた”俺は部屋で娘を休ませ、事務所に戻る”そして金庫から、契約書のファイルを取り出した”ページを開き、特許供給に関する条項を確認していく”そこには、供給側の判断で即時解除できる条項がある”壁の時計を見ると、午後八時を回っている”そろそろ、祝賀会が終わる頃だろう”俺は大きく深呼吸をしてから、大竹課長の携帯番号を押した”数回のコール音の後、電話口から疲れた声が聞こえてくる”俺は静かに話し始めた
「大竹課長、上村です。”今日の祝賀会で、私の代理で出席した娘が、御社の角倉営業部長から、ひどい侮辱を受けました。」
電話口が一瞬静まり、大竹の声が驚きに震えた
「え、どういうことですか?
」
俺は感情を抑え、娘から聞いた祝賀会場での天末を、克明に話した”大竹は慌てて、否定の言葉を重ねた
「そ、そんな。”部長が、そんなひどいことを。”それに、取引停止の件は、会社として正式に決定したことではありません。”角倉部長の独断です。」
大竹の説明によると、角倉は二ヶ月前に着任した新しい営業部長で、大手機器勝者出身で、出世街道を歩いてきた人間だという”さらに、社長の娘と結婚したばかりで、コネでの採用だったそうだ”
「角倉が、新工場で大手部品メーカーと組む計画を勝手に進めているという噂は、車内で聞いていましたが、まさか、お嬢さんに直接、そんな暴言を吐くとは。”
大竹の声は苦しそうだった
「祝賀会では、私も吉岡部長も、来賓室で来賓対応をしていて、お嬢さんが来られていることも、角倉部長の暴言も、全く知りませんでした。”本当に申し訳ありません。」
大竹は必死に謝罪した
「すぐに角倉に抗議します。”そして、会社として正式な対応を取るよう、上に報告します。”二、三日、お時間をください。」
俺は静かに答えた
「分かりました。”大竹課長を信頼しています。”御社の対応を待ちます。」
俺は電話を切った”その夜は、眠れなかった”娘の泣き顔が、頭から離れない”二日後の午後、大竹課長から電話があった
「上村さん、角倉に抗議しました。”しかし本人は、”冗談のつもりだった”と軽く流すだけで、”私からは正式な謝罪を求めましたが、本部は”個人の発言であり、会社の方針ではない”という立場です。”申し訳ありません。」
大竹の声には、無念さが滲んでいた”大竹は、誠実に動いてくれた”しかし会社としての対応は、誠意が感じられない
「大竹課長、あなたは悪くない。”ありがとうございました。」
翌朝、俺は大手メーカーの代表電話にかけた”受付を通じて社長室に取り継いでもらい、社長に直接話したいと伝える”特許ベアリングに関する契約の件で、至急話したいことがあると告げると、秘書は少し躊躇したが、すぐに社長につないでくれた”電話口から、落ち着いた男性の声が聞こえる
「上村さん、どうされましたか? 」
俺は、大手メーカーと契約を結んだ時に言ってくれた、社長の言葉を思い出す”「上村さん、本社の技術を信頼しています。」”その言葉を、俺は信じていた”これまで築いてきた信頼関係、毎月の安定した取引”それら全てを天秤にかけた”しかし答えは明確だ”娘の涙より重いものなど、この世にない”俺は静かに告げた
「社長、特許ベアリングの五年契約は、破棄だ。」
電話口が、一瞬沈黙する”社長の声が慌てる
「え、どういうことですか? 」
「社長、御社の対応には、誠意が感じられません。」
俺は続けた
「娘への侮辱を、”個人の発言”として処理し、正式な謝罪もない。”それが、御社の姿勢ですか? 」
「いえ、そんなことは。”これから、本格的な調査をしようと。」
社長の返答は、曖昧だった”口先だけだ”本気で対処する気がない”俺は静かに、しかし明確に告げる
「社長、私は筋を通してきました。”まず大竹課長に相談し、御社の対応を待ちました。”大竹課長から報告は上がっていますよね。”しかし誠意ある対応は、得られなかった。”特許ベアリングの五年契約は、破棄です。」
「待ってください。”あの、ベアリングがなければ、新工場の生産ラインが稼働できなくなる。」
社長は、特許ベアリングの重要性を、完全に理解している”契約解除が、御社にとってどれほどの打撃になるか、社長は誰よりも分かっているはずだ”それでいい”娘を傷つけた代償は、それに見合うものでなければならない”俺は冷静に言った
「それは、御社の問題です。”この世で最も大切な娘を傷つけられた。”契約解除するに十分な理由です。」
俺は語気を少し強める
「社長、私は御社だけに特許ベアリングを供給してきた。”それなのに、その契約を打ち切ろうとする角倉という人間を、営業部長に据えた。”その判断の責任は、あなたにあります。」
社長は、言葉を失った”
「これから、契約解除通知を作成し、内容証明郵便で発送させていただきます。」
俺は静かに電話を切った”そしてすぐさま、契約時に世話になった弁護士に電話をかけ、契約解除通知の作成を依頼する”その後、顧問弁護士と打ち合わせをして、契約解除通知を作成し、その日のうちに内容証明郵便を発送した”相手の本社に届くまで、およそ二日”届いた時点で、正式に契約解除が成立する運びだ”内容証明を発送したその夜、俺は娘の部屋をノックした”娘は不安な顔でドアを開ける”俺は椅子に座った
「今日、大手メーカーとの契約を解除する通知を送った。」
「え。」
「俺は、お前を傷つけたあの会社を許さない。”だから、契約は終わりだ。」
娘は俯く
「でも、大竹さんや、吉岡さんは。」
俺は娘の肩に手を置く
「お前は、何も心配しなくていい。」
娘は小さく頷いたが、その表情は晴れなかった”この夜の夕食時、娘は箸をほとんど動かさなかった”目が赤い」
「ゆい、どうした?
」
「私、大竹さんや、吉岡さんのことを考えると、心が痛くて。”私が祝賀会に行かなければ。」
娘の声が震えている”俺は娘の隣に座り、肩に手を置いた
「ゆい、よく聞け。”お前は、何も悪くない。”お父さんは、お前が一番大事なんだ。」
娘の目に涙が浮かぶ”そして娘は続けた
「私、悔しい。”角倉さんに笑われて、何も言い返せなかった自分が情けない。」
娘の拳が、握りしめられている
「でも、あの時に思ったの。”お父さんの技術は、本物だって。”お父さんの工場は、誇りに思えるって。」
俺は娘の頭を撫でた
「ありがとう。」
娘は俺の肩に顔を埋め、小さく頷いた”翌日から、俺の携帯に何度も電話がかかってくるようになった”大竹課長、吉岡部長、そして社長”着信履歴を見ると、一日に十回を超える日もある”しかし俺は、一切出なかった”答えは変わらない”三日後、吉岡部長から留守番電話にメッセージが入った”その日の夜、俺は吉岡部長に電話をかけた”俺の特許ベアリングの価値を最初に見抜いてくれた技術者だ”電話口から、吉岡の声が聞こえる
「上村さん、正直に言います。”我々は、国内外二十社以上の部品メーカーを当たりました。”しかし、あなたの特許技術を再現できる製品は、一つもなかった。」
吉岡部長は続ける
「新工場の産業用ロボットは、設計段階から上村さんのベアリングの性能を前提に、組み立てられているんです。”代替品では、ロボットの精密動作が再現できません。」
吉岡部長の声には、技術者としての誠実さがあった”俺も、それは理解できる”
「吉岡部長、あなたの気持ちは分かります。”でも、俺の答えは変わりません。」
俺は静かに電話を切った”数日後の朝、業界紙に掲載された小さな記事が目に入る
「大手産業用ロボットメーカー、新工場の稼働延期。」
記事には、特殊部品の供給が途絶えたための、稼働の当分延期が書かれている”俺はその記事を、黙って読んだ”娘が後ろから覗き込む
「父さんの技術、やっぱり大事だったんだね。」
俺は静かに頷いた”その日の午後、俺は電話をかけた”相手は、以前から打診を受けていた大手自動車部品メーカーの担当部長だ”その担当部長は、二年前から半年に一度、必ず連絡をくれていた
「状況が変わったら、必ず声をかけてください。」
その言葉を、俺は覚えていた”
「以前お話しいただいた件、今なら契約可能です。」
電話口から、明るい声が返ってくる
「上村さん、お待ちしていました。”是非、お願いします。」
「こちらこそ。”御社との独占契約を前提に、ご相談させてください。」
「本当ですか? ありがとうございます。」
娘が事務所に入ってくる
「お父さん、新しい取引先が決まったの? 」
俺は頷いた
「ああ、大手自動車部品メーカーと、契約交渉を始める。」
娘の目が輝く
「私も、もっと頑張る。」
俺は娘の明るい笑顔を見て思う”この笑顔があればいい”そして、技術と誠実さがあれば、新たな道は必ず開ける”俺はそう確信した
契約解除から一週間後の午前、工場の前に黒塗りの高級車が止まる”降りてきたのは、社長と、強張った表情の男”おそらく、この男が角倉だろう”俺は二人を事務所に通した”社長が、深々と頭を下げる
「この度は、誠に申し訳ございませんでした。」
社長は顔を上げ、俺をまっすぐ見て続けた
「社を代表して、謝罪申し上げます。」
社長は角倉を見る
「角倉、誠意を込めて、謝罪しろ。」
角倉は立ったまま、俺に向かって頭を下げた
「申し訳ございませんでした。」
しかし目は泳いでおり、形だけの謝罪に聞こえる”そして角倉が口を開いた
「確かに、あの場では私の言葉が誤解されたのかもしれません。”しかし、そこまでひどいことを言ったつもりは。」
その瞬間、俺の中で、プツンと何かが切れる音がした”誤解だと”俺は唸るような低い声で言う
「娘は、泣きながら帰ってきた。”お前は娘に、”高卒でボロ工場はできません”と言った。”うちの工場との取引は終わり、とも言った。”これは、誤解する余地のない明確な侮辱だ。”違うか。」
角倉は動揺する
「それは。」
俺は角倉に詰め寄る
「お前は、娘の学歴を笑い、周りの若手社員も一緒に笑った。”そして、娘が工場で働いていることを侮辱した。”しかも、特許契約の取引を、お前の一存で終わりにすると言った。”違うか。」
角倉の顔が青ざめる
「私はただ、新工場の方針として。」
「お前に、何の権限がある? 」
俺の声が、事務所に響く
「技術部長の吉岡さんは、俺の技術を高く評価してくれた。”営業部の大竹課長と、信頼関係を築いてきた。”お前は、たった二ヶ月前に来たばかりだろ。”コネ採用で営業部長になったばかりの人間が、長年の契約を勝手に終わりにできるとでも思ったのか。」
角倉は言葉につまる”俺は容赦なく続けた
「お前は、大手部品メーカーと組むと言った。”その大手とやらは、俺の特許技術を再現できるのか?
」
角倉は答えられない
「つまり、お前が見下した”ボロ工場”の技術がなければ、お前の会社の新工場は動かせないんだ。」
角倉は、俺の勢いに震え、後ずさりし、潰えた
「申し訳ございませんでした。」
俺は冷たく言い放つ
「土下座するなら、俺じゃなく、娘に対してだ。」
俺は娘を呼んだ”娘が、緊張した顔で事務所に入ってくる”角倉は娘の前で土下座し、今度は震える声で言った
「お嬢さん、本当に申し訳ございませんでした。」
娘は、複雑な表情で角倉を見つめている”俺には、娘の心が読める”怒りと同時に、少し哀れみも感じている”それが、娘の優しさだ”娘は小さく答えた
「わかりました。」
そこで社長が口を開く
「昨日、緊急取締役会を開きました。”角倉は営業部長を解任し、子会社への出向が決定しました。”あの場で笑った若手三名も、地方拠点への異動です。”二度と本社には戻しません。」
社長は続ける
「上村さん、改めて、契約の再開をお願いしたい。”条件は全て、上村さんの希望に添います。”新工場の損失は、一日で数百万を超えています。”このままでは、今期業績が。」
俺は腕を組んで答えた
「答えは変わりません。”御社は、私の大切な娘を傷つけた。”それが、御社の今の状態を生み出したんです。」
「しかし、我々は最大限の処分を。」
俺は遮った
「社長、コネ採用で営業部長に据えたのは、あなたの判断です。”その責任は、経営者であるあなたにあるはずです。」
社長は言葉に詰まる”俺は明確に告げた
「私はもう、前を向いています。”娘を傷つけてまで守る関係に、価値はありません。”お引き取りください。」
社長は何度も食い下がったが、俺の決意は揺がなかった”二人が去った後、俺は娘の頭を撫でる
「辛かったか? 」
娘は首を横に振った
「うん。”お父さんが守ってくれた。”それが、嬉しい。」
娘はそう言って、笑顔を見せる”それを見て、俺は心から安堵するのだった”それから一ヶ月後、業界紙にある記事が載った
「大手産業用ロボットメーカー、部品調達問題で新型機の稼働を三ヶ月延期。”今期業績は大幅な下方修正。」
大竹からも連絡があり、角倉と若手社員たちのその後を聞いた”角倉は子会社で閑職に回され、若手社員たちも地方拠点で、倉庫整理や資料コピーといった仕事に従事しているそうだ”車内での評判は地に落ち、誰も声をかけようとしない、と聞いた”一方、新たに結んだ大手自動車部品メーカーとの独占契約は順調だ”受注量は以前の一・五倍になり、工場は活気に満ちている”ある日、娘は目を輝かせて俺に言った
「お父さん、私も、もっと技術を学びたい。”工場で働きながら、通信制の大学に行ってもいい? 」
俺は笑顔で答えた
「ああ、いいぞ。”応援する。」
俺はこれからも、娘と支え合い、この工場を守っていく決意を固めるのだった
「高校中退の底辺君、うちと一千万だけ契約してやる。」
俺のことを「底辺」と馬鹿にしてきたのは、高校の同級生で、自称エリートだ”学生時代もひどかったが、大人になって、さらに性格が歪んでしまったようだ”しかしこの後、エリート同級生は、自分が底辺に落ちるはめとなった
俺の名前は岩田。32歳”父親と一緒に見に行った野球の試合がとても楽しくて、六歳の時からピッチャー志望で野球を始めた”しかし俺が住んでいるのは、かなりの田舎”野球が満足にできる環境ではない”我が家は貧乏農家で、都会の私立校への進学なんて夢のまた夢だ”しかし環境を言い訳にするのは嫌だった”俺は地元の高校に進学し、野球部に入り、甲子園を本気で目指した
「こんな田舎の高校が、甲子園に行けるわけないだろう。」
そう言って俺を馬鹿にしてきたのは、同級生の根本だ”こいつも同じ野球部なのだが、あくまでちょっとした運動程度に考えているようで、あまり真面目に練習していなかった
「やろうと思えば、できるよ。”根本も一緒に頑張ろう。」
「嫌だよ。”一人でやってれば。”俺は、病院を継ぐための勉強をしなきゃいけないんでね。」
根本の父親は、小さな病院を経営している医者で、奴はその病院の二代目で、エリートを自称していた”確かに根本の家は小金持ちだし、将来を目指しているだけあって、成績優秀だ”しかし、町の外に出れば、根本より頭のいい同い年は珍しくない”もっと裕福な生活をしている連中もいる”根本があまりにも偉そうにするので、その態度に反感を持った同級生の一部は、「田舎でしか偉張れない、お山の大将。」と揶揄していた”確かにちょっと嫌味なところはあるけれど、俺にとっては大切なチームメイトだ”やる気のない根本を練習に誘いつつ、他のチームメイトにも積極的に声がけする”俺自身も熱心に練習を重ねていくうちに、感化されたチームメイトが、徐々に練習に打ち込むようになった
「このチームで甲子園を目指すのは、不可能じゃないんだよ。」
俺は常に、チームメイトにそう言っていた”試合があると、俺は相手チームを徹底的に調べ、勝利のための作戦を組み立てる”その作戦通りに試合をしたところ、勝ちが続き、入部一年目で創立以来最多の勝利数を記録した”もしかしたら、本当に甲子園に行けるかも”チームのみんなが希望を持ち始めると、根本も徐々に乗り気になる
「全国大会に出れば、テレビに映るよな。”活躍できれば、有名人になれるかも。」
なんて言っていたが、根本は練習不足のため、ベンチが多い”奴はそれを不満に思っていたようだが、我が部はどんどん力をつけていく”そして俺が高校三年の夏、甲子園出場のための地方予選に出場し、なんと決勝戦まで進むことができた”九回裏、我がリードの一点差で満塁の危機”この危機を招いた三番手ピッチャーはベンチに下がり、俺はマウンドに上がった
「よし、あと一アウトで試合終了だ。」
なんとか二アウトまで持っていったところで、相手の強打者が打席に立つ”打たれた弾は、俺の方へ飛んできた”冷静にボールをキャッチすれば、確実にアウトを取れる”しかし突然、意識が遠のき、俺はボールを取れず、見送ってしまった”ある理由から疲労を貯めており、熱気に包まれたマウンドで、軽い熱中症を起こしてしまったのだ
「何やってんだよ。」
ベンチから、根本の鋭い声が上がる”慌てて回復するが、時すでに遅し”相手が逆転勝利を納め、俺の夢は終わった”いい思い出になったな、で終われば良かったのだが、試合後、大切な場面でエラーをした俺を、根本が中心となって罵倒してきたのだ
「お前のせいで、甲子園の夢がなくなった。”どう責任を取るつもりだよ。」
チームメイトの半分は、根本の味方となり、俺を責める”その中にクラスメイトが何人かいて、野球部だけでなく、クラスにも俺の居場所はなくなった
「貧乏農家の底辺のせいで、三年間の努力が無駄になった。”時間を返してくれよ。”ていうか、野球しか脳がないくせに、エラー起こすとか、救いようがないな。」
根本は、顔を合わせるとこんな調子で、野球のことだけでなく、人格否定とも取れるような発言をしてくる”奴は声も態度も大きい上に、医者の息子という立場もあり、俺の味方はどんどん減っていった”いつの間にか学校中で、俺の影口が囁かれるようになり、耐えきれなくなった俺は、高校を中退”狭い田舎は居心地が悪く、都会に住んでいる叔父の家に引っ越して、お世話になった”しばらくバイトをして暮らしていたが、不定期な仕事のままでは不安だったため、叔父に紹介してもらった会社に採用してもらい、働き始める”この会社も最初は非正規だったけれど、一生懸命努力して結果を出し、正社員登用してもらった”今は、そこそこの地位で安定した暮らしをしている”しかし高校時代の出来事が未だにトラウマで、野球はできず、試合を見ることすらできない”甲子園の時期になると、気分が落ち込んでしまう”いつか克服できるといいな
32歳になった今も、夏はあまり好きじゃない”高校時代の辛い思い出が、勝手に頭の中に蘇り、俺は深いため息をついた”そして迎えた八月のお盆”この日、俺は田舎にある実家へ戻っていた”高校を中退して何年かは、周りの目が気になって帰れなかったが、今は普通に帰省できる”今年は、同居していた祖父の七回忌だったため、いつもより長く実家に滞在していた
「ちょっと、お使いに行ってきてくれない? “食材が足りなくなっちゃった。」
「いいよ。」
母から頼まれて、家を出る”町で一番大きなスーパーに行く途中、ちょっとしたハカ街がある”何件かある飲み屋は、お盆の帰省客で賑わっているようだ”あるチェーン店の飲み屋の前を通り過ぎようとした瞬間、扉が勢いよく開いた
「おっと。」
前を見ていなかった客にぶつかりそうになったが、ギリギリのところで避ける”野球をやっていた頃から、反射神経はいいのだ”危ないな、と思いつつ客の顔を見ると、あちらも怪しげな顔でこちらを見ている”次の瞬間、相手の目が驚きに見開かれた
「お前、岩田か?
」
「沼。」
そう、順方不注意で店から飛び出したのは、俺を高校中退に追い込んだ、あの根本だったのだ
「なんだよ。”帰ってたのか。”久しぶりだな。」
嫌な笑みを浮かべる根本の背後から、ゾロゾロと男たちが出てくる”よく見ると、全員、元野球部のメンバーだった”
「俺たち、お盆休みでみんな地元に帰ってたんだよ。”せっかくだから、同窓会でもやるか、ってなって、この店で飲んでたんだよな。」
野球部の連中も、俺を見て驚いた様子だったが、すぐ根本と同じような意地の悪い笑みを浮かべる”ここにいるメンツは、当時、根本の味方をして、一緒になって俺を虐めた奴らだった
「お前が帰ってくるって知ってたら、誘ったんだけどな。”ああ、そういえば、連絡先知らなかったわ。”前、途中で学校来なくなっちまったし。”
「まあ、誘われたところで、どこの馬鹿が下げて参加するんだ、って感じだな。」
根本が笑うと、その場にいる全員が、下品な笑い声をあげる”みんな顔が赤く、だいぶ酔っ払っているようだ”そもそも、俺があの時、熱中症を起こしたのは、根本をはじめとする不真面目なメンバーのせいだ”相手チームの研究や、計画立案は、全て俺が担当していた”手伝ってくれる部員もいたが、少数で、根本や他のメンバーは、俺の仕事だと押し付けていたのだ”さらに根本は、道具の手入れなどの雑用も、俺に任せっきりだった
「俺は、お前ほど野球に詳しくないからさ、”全部お前に任せるわ。」
なんてことは全部俺に押し付けて、程ほどに練習して、残りの時間は遊びに費やす”根本はずっと、俺のことを見下し、都合のいい飯使い扱いしていた”おかげで、疲労がたまり、熱中症を起こしたのだ
「で、高校中退君は、今何してんの? 最終学歴は中卒だし、バイトで食いつないでるとか。」
「俺は、大手企業で高給取りだぜ。”お前よりこっちの方が儲かるんだよな。」
「いや、正社員で働いてるけど。」
と月給を言われて、思わずむっとして言い返すと、根本が面白くなさそうな顔をする”底辺の俺が、ちゃんとした仕事についているのが、奴のお気に召さなかったらしい
「俺、もう行くから。」
呆れてため息をつきながら、そう返すと、根本の顔が怒りで一気に歪む”そして手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開けると、なんと中身を俺に向かってぶち掛けたではないか
「おい、待てよ。”高校中退の底辺君、うちと一千万だけ契約してやれよ。」
根本が、底意地の悪い声でそう言うと、周りにいた連中が大爆笑”一方の俺は、とっさのことで避けきれず、ズボンが水浸たしになってしまった”俺を呼び止めるなら、声をかければいいだけなのに、わざわざ喧嘩を売るような真似をするなんて”こいつの性根は、高校時代から変わっていないどころか、大人になってさらに歪んでしまったようだ”というか、俺の勤務め先を知らないのに、なぜ契約できると思っているのか
「これ、俺の名刺な。”明日からは大きな仕事が入ってて忙しいけど、暇になったら相手してやるよ。」
地面に自分の名刺を捨てる根本”俺が覚めた目でそれを見ているのに気づかず、連中は笑いながらその場を立ち去った”奴の名刺に書かれている会社は、それなりの規模の企業だ”俺はある事情から、よく知っている”あの会社は、社員にどんな教育をしているのだ、と思いつつ、個人情報の名刺を放置するわけにもいかないので、仕方なく拾い、自宅に戻ると、細かく破いて捨てた
その翌日、実家から戻ってきた俺は、早速仕事に励んでいた”午後からの商談に参加するため、手早く仕事を片付け、約束の時間の二十分前には会議室で待機”
「失礼します。」
時間ぴったりに相手が入ってきて、俺は笑顔で出迎えた
「よ、昨日ぶりだな。」
根本は、目と口を限界まで開け、茫然とした表情で俺を見ている”そう、今日の打ち合わせ相手というのは、根本なのだ
「な、な、なんで、お前が、こんなところにいるんだ? 」
「俺が、お前の商談相手だからだ。”本来の担当者は別の人間だが、お前に言いたいことがあって、変わってもらったんだよ。」
根本と一緒にやってきた50代くらいの男性が、「どういうことだ。」と困惑した顔で戸惑っている”商談の担当者の話によると、この人は根本の上司の岡山課長という人だ”俺はこの商談に一切関わっていなかった上、お盆で日本に戻ってくるまで、海外に長期出張中だったため、岡山課長とは今日が初めましてだ”課長に自己紹介すべく、懐から名刺を取り出す
「初めまして、岡山課長。”岩田です。”この会社では、営業本部長を務めています。」
「え、営業本部長だと? 」
驚きの声をあげたのは、根本だ”どうやら俺のことは、全く知らなかったようだ”それも無理はない”我が社は大手企業で、社員数も多く、営業本部長も何人かいる”会社のホームページに掲載されているのは、役員クラスの名前と顔写真だけで、俺の情報は載っていないのだ”長い付き合いがある会社なら、俺を知っているが、根本の会社とはまだ二ヶ月程度の付き合いだ”その中で、一億の商談の仮契約まで進んでいるが、俺は笑顔で根本にこう言い放った
「お前、言ったよな。”うちと一千万だけ契約してやる”って。”というわけで、一千万円分の発注を残して、残り九千九百万、契約破棄でよろしく。”まあ、まだ仮契約だし、そこまで手間はかからないだろ。」
「ま、待てよ。”なんで、高校中退のお前が、こんな大手企業にいるんだ?
」
「この会社に勤めてる叔父に紹介してもらったんだ。”ちなみに、叔父は専務を務めてるよ。”最初は契約社員からのスタートで、本部長になるまで、かなり苦労したな。」
叔父が紹介してくれたのは、自分が務めている大手企業で、俺は当初、契約社員として採用された”いくら社員の紹介とはいえ、高校中退を正社員で採用するのは無理だ”「結果を出せば、正社員登用」という約束を交わし、必死になって働く”入社して三年後に、十分な結果を出した俺は、正社員として営業部に配属された”そして32歳になった今年、営業本部長に昇進”昇進後はすぐに長期の海外出張に借り出され、お盆の直前になり、ようやく帰国できたというわけだ
「ちなみに、お前が商談の担当者だっていうのは、知ってたよ。”海外にいても、営業部の業務は全て目を通してたからな。”
忙しい海外出張の間も、部下たちの仕事は把握しておく必要があるため、時間を見つけて全ての業務に目を通していた”その中で根本の名前を見つけた時は驚いたが、仕事とプライベートは別だ”奴が大なしく真面目に仕事をするなら、スルーしようと思っていたが、昨日の件で、気が変わった”他人を汚い言葉でののしって、水をぶっかけるような相手は、仕事相手として信用できないからな
「え、水? 一体、何があったんですか? 」
困惑の声をあげる岡山課長に、一から事情を説明する”突然の契約破棄に、顔面蒼白だった課長だが、事情を知ると、根本に鬼のような形相を見せた
「お前、そんな失礼なことをしたのか。」
「すみません、課長。”でも、こいつが相手だと知ってたら、あんなことしませんでした。」
「相手が誰であろうと、罵倒して水をかけるなんて行為は、許されないんだよ。”そんな基本的なことも分からんのか。」
岡山課長の言う通りだ”俺が誰であろうと、あんな言動は許されない”社会人として以前の問題で、一人の人間として、あさまじき行為をしたのだ
「岩田本部長、大変申し訳ありませんでした。”残念ですが、契約も無理はありません。”社員の失態は、会社の責任でもあります。」
潔ぎよく受け入れ、素直に頭を下げる岡山課長”問題があるのは根本だけで、会社はしっかりとした組織らしい
「岡山課長、交換条件はどうでしょう? 」
「交換条件?
どのような内容でしょうか? 」
「今後、二度と根本を本案件に関わらせないことです。”担当者は、岡山課長でお願いします。”あなたは、信頼に値する方だと判断しました。”俺、これでも人を見る目はあるんですよ。」
笑顔でそう言うと、岡山課長も少しだけ表情を緩める”しかしすぐにキリッとした顔に戻ると、深々と俺に頭を下げた
「寛大な処置、誠にありがとうございます。”ご提示の内容で、是非よろしくお願いします。」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、課長。”俺は、どうなるんですか? 」
慌てた様子の根本を、岡山課長が睨みつける
「お前は、今からこの案件に無関係の人間だ。”もちろん報酬はなし。”むしろ、評価はマイナスだ。」
「最後のチャンスを、ミスミス逃したな。」
「最後のチャンスとは? 」
俺の問いかけに、岡山課長が呆れた様子で説明する
「お恥ずかしい話ですが、この根本は、勤務態度が良くない社員だったんです。”何度も指導したのですが、効果もなく、”今回、大きな案件に関わらせたのは、大変な仕事を最後まで責任感を持ちやり遂げることで、成長を促すのが目的でした。”根本には言ってなかったのですが、部長とも話し合って、これをラストチャンスにすると決めていたのです。」
岡山課長が、冷めた目と声を根本に向けた
「ラッキ、お前は、僻地の支社へ異動だ。”このチャンスを物にできなかったら、そうすると部長と話し合って、すでに決めてある。」
「い、いや、異動。”そんな、待ってください、課長。”俺、まだやれます。”やらせてください。」
「だめだ。”お前には、散々チャンスを与えた。”これ以上、甘やかすことはできない。」
根本の顔に、大量の汗が浮かぶ”そして何を思ったのか、勢いよく俺の方を向き、必死になって懇願してきた
「い、いわ、頼むよ。”俺たち、元チームメイトだろ?
一緒に甲子園を目指した仲じゃないか。”さっきの条件を、撤回してくれ。」
「そう、俺たちは元々、仲間だった。”でも、それを壊したのは、お前だ。”お前のせいで、俺は高校を中退し、とても苦労したんだよ。”そんな相手のために、俺が何かしてやると、本気で思ってんのか? 」
徹底的な拒絶の言葉に、根本の顔から徐々に血の気が失われていく
「他人にしたことは、必ず自分に帰ってくる。”因果応報だ。”これは当然の結果なんだよ。”大なしく受け入れろ。」
根本は、力なくその場に崩れ落ちる”その様子を、俺と岡山課長は黙って見ていた”この後、岡山課長はすぐさま今回の件を会社に報告し、根本の処罰を実行したそうだ”根本は、僻地にある支社に飛ばされ、何もない環境で、神経をすり減らして生活しているらしい”昔から都会の暮らしに憧れていて、「田舎暮らしは嫌だ。」と言っていたので、奴にとってこれ以上ない罰になっただろう
「あいつ、医者の息子とか言ってましたけど、親の病院を継ぐ腕がなくて、有名校に落ちた後、普通の大学に行って、我が社に入ってきたんですよ。”プライドばかり大きくて扱いづらい社員だったので、正直、助かりました。」
後日、会議のために我が社にやってきた岡山課長が、呆れた様子で顛末を教えてくれた”根本がしでかしたことは支社にも伝わっていて、周りから遠巻きにされているらしい”俺が味わった苦しみを、少しでも理解しただろうか”ちなみに、一億の契約は無事に締結され、現在は岡山課長の担当で進めている”この人はとても仕事ができる人で、おかげで我が社も助かっている”では岡山課長、今後ともよろしくお願いしますね
「はい、こちらこそ。」
会議が無事に終わり、俺たちは笑顔で握手をかわす”色々あったけれど、今の俺は幸せだと、胸を張って言える”来年は、甲子園の時期になっても、心が沈むことはないだろう
取引先部長の言葉で、商談の場の空気が張り詰めるのを感じた”次の瞬間、取引先部長は、直前まで俺が説明していた製品、小型の安全装置を手に取り、ゴミ箱に投げ捨てる”取引先部長は、当然と言った顔のまま、侮辱の言葉を吐き捨てた”絶対に許すことはできない”俺は拾い上げた安全装置を、固く握りしめた
俺の名前は川北。36歳だ”町工場の職人として働いている”大学在学中にこの町工場でアルバイトをして、そのまま正社員に採用された”機械工学を専攻していた俺にとって、最初は勉強も兼ねて、お小遣い稼ぎできたら、なんて軽い考えで応募したのだが、これがまさに運命的な巡り合わせだったのだ”
「町工場」と聞くと、小さくて低賃金、時代遅れ、なんて偏見を持つ人も一定数いるようだが、実際は違う場合が多い”俺が働いている町工場がそうだが、自動化も進んでいて、空調や安全対策が充実している”専門性や職人技を評価され、経営は赤字どころか、安定して黒字だ”ただ、現代において、高度な機械の発達とは裏腹に、高度な技術を持つ熟練が減っていると思う”だからこそ、町工場の人材は、社会的にも重要な存在として評価されているのだ”俺は大学生の時に、その熟練の技に魅了された
「で、触、聴覚など、五感全てで機械を把握しているかのよう。」
俺が聞いても触っても何の変哲もないものが、職人にとっては重要な変化なのだ”「かっこいい。」”当時アルバイトだった俺の仕事は、掃除や清掃、整備作業がメインだったが、少年のようなワクワクした気持ちで、職人さんの仕事を見ていた”おそらく、その視線に気づいていたのだろう”職人さんたちや社長が、時々俺に色々と教えてくれるようになった”その後は、新人の職人さんに混じって整備作業するようになり、俺は知的好奇心に突き動かされた”その意欲が評価されたのかもしれない”社長から、「卒業後は、うちで働かないか。」と誘われたのだ”俺は二つ返事で、その誘いに乗った
「町工場に就職なんて。」と馬鹿にしてきた奴もいたが、俺は後悔なんかしていない”むしろ、今も充実した毎日を送っている”毎日町工場で職人として仕事をする俺だが、時折、外に行かないといけない時もある”そういう場合は、大抵、営業の人間と、商談絡みの場へ赴く時だ”今日の場合は、俺がメイン担当したある小型の装置の説明として、取引先との折衝に同行する
「緊張してる? “今回行く場所、二回目だろ。」
営業の小宮さんが、運転する車の中で声をかけてくれた”よほど俺が強張った表情をしていたらしい
「いやあ、普段は作業ばかりしていますから。」
俺は苦笑しながら答える”確かに、以前も同じ理由で訪問したことがある会社なのだが、今言ったように、他の会社へ行くこと自体、緊張してしまう”これだけは、入社して十年以上経つ今でも慣れない”小宮さんは、俺がアルバイトの頃から何かと声をかけてくれる先輩だ”うちの町工場には、小さいながらも営業の課があり、小宮さんはそこのエースと呼ばれている”いくつもの会社と、俺たちの技術の橋渡しをしてきてくれたのだ
「ま、俺がいるから安心しろって。」
運転しながら、小宮さんは気軽に言う”さすがベテランの営業さんだ”目的地の会社に着くと、ある男性が俺たちを迎えてくれた
「営業部長の、小原です。”えっと、町工場の方でしたよね。”本日はよろしく。」
俺と小宮さんは、顔を見合わせる”俺たちは、てっきり、以前も担当してくれた営業さんが出迎えてくれると思ったのだ”あの、と挨拶をした後、小宮さんが口を開く”小宮さんが何を言おうとしているか察したのだろう”小原は発言を遮り、説明し始めた
「ああ、出迎えたのが私で、驚いたんでしょ。”実は、前任者が体調を崩しましてね。”全く、軟弱なことだ。”私が若い頃なんか、天敵を打ってでも仕事に出たものを。」
ぶつくさと文句を言いながら、小原は言う”俺たちが想定していた人物は、体調不良で休暇を取っているらしい”どうやら急なことだったようだ
「はぁ、まあ、部長の私が対応するので、ご安心を。”こちらへどうぞ。”さっさと済ませましょう。」
口調こそ一応丁寧だが、小原の目つき、言葉の端々から、どこか人を馬鹿にしたように感じてしまう”小原の態度に不安を覚えた俺は、ちらりと小宮さんの様子を伺ったが、小宮さんはいつも通りだ”俺の考えすぎかな”もしくは、顔に出さないようにしているだけかもしれない”折衝用の一室へ通され、俺たちは早速本題に入った”おそらく前任者が使っていた資料であろう書類を見ながら、小原は俺たちの話に耳を傾けている
「それで、本日お持ちしたのが、その安全装置です。”こちらの装置は、先日。」
「いいから、さっさと実物見せてくれますか? 時間がもったいないので。」
まだ小宮さんが話しているのにも関わらず、小原は言葉を遮った”しかも、資料に目を向けたままの状態でだ”さすがに俺はむっとしてしまう”挨拶の場でも思ったが、小原は人の話を最後まで聞けない質らしい”小宮さんは小さく咳払いする
「承知いたしました。”お見せしながら説明した方が、早いですよね。”川北君、安全装置を。」
俺は小宮さんの指示に従い、安全装置を机の上に置き、説明し始めた
「これはかなり小型のもので、工場などの現場の人間の腰や腕などに装着する装置です。”転倒などのリスクに反応して、アラートがなります。”と言っても、大音量ではないですから、周りを驚かせるような音ではないので、ご安心を。”転倒のリスクの他には、例えば、ポケットに手を入れて歩くような不安全行動を検知することも可能だ。」
高々それだけのこと”そんなに危ないかと思う人もいるかもしれないが、工場では「ポケテなし」という標語があるほど問題視される行為である”たまたまの気の緩みが、不幸な事故や怪我につながるものだ”俺がそれらを説明している間、小原は実際に装置を手に取り、様々な角度から装置を眺める”俺が緊張しながら小原の発言を待っていると、
「それだけ?
」
冷たい言葉に、空気が張り詰めるのを感じた
「え? 」
俺が言葉に詰まった瞬間、小原は思いもよらない行動を取る”なんと小原は、俺が持ってきた安全装置を、部屋にあったゴミ箱に投げ捨てたのだ
「ちょ、な、何をするんですか? 」
俺が慌ててゴミ箱から拾い上げると、小原は俺を見て、小馬鹿にしたように笑っていた”これには小宮さんも、顔色を変える
「これは、どういうおつもりですか? 」
小宮さんの問いに対し、小原は「やれやれ。」と首を横に振る
「って、見ての通りだが、”そもそも今日だって、会ってやっただけ感謝して欲しいもんだよ。”町工場なんて底辺相手は、信用ゼロだ。”偉そうにご託述していたが、高々、動作にセンサーがつく程度の製品。”誰が取引なんかするか。」
信じられない言葉の数々に、頭が追いつかなくなる”困惑する一方、絶対に許せない、という怒りの感情が湧き上がるのを感じていた”俺個人を馬鹿にするなら、いくらでもすればいい”だが、小原の発言は、俺の職場全体を馬鹿にし、否定している”ここまで侮辱されて、折衝を続けたいとは思えなかった”小宮さんの方を見ると、小宮さんは俺の考えを察したように、力強く頷いた”おそらく、開発担当をした俺の気持ちを酌んでくれたのだろう”意を決して、俺は口を開く
「わかりました。”では、二度と関わりません。”前任者の方には、大変よくしていただいたのに、残念です。」
「営業としても、遺憾です。”では、ありがとうございました。”行こう、川北君。」
俺は小宮さんと一緒に立ち上がる”帰ろうとする俺たちに、小原は馬鹿にしたように鼻を鳴らした
「ああ、全く。”一応、会うだけ会ってみてやったのに。”時間を無駄にしただけだったな。」
あからさまな嘲る声が鬱陶しかったが、俺は振り向かずに退出する”帰りの車で、小宮さんが俺を励ますように言う
「前任者がどんな説明をしていたかは知らないが、後悔するのは、向こうの方だ。」
俺はその言葉に頷く
「ええ、僕たちは、自分の仕事をちゃんと果たそうとしていた。”それを無にしたのは、小原部長です。”ありがとうございます。”僕は、大丈夫ですから。」
俺の言葉に、小宮さんは安心したように息をつく”俺はそっと、安全装置を入れた箱の表面を撫でた”その翌日のことだった
「私どもは、確か”二度と関わりません”と伝えたはずですが。」
小宮さんが、目の前の人物に対して冷たく言う”ここは、うちの町工場の応接室だ”俺と小宮さん、それからうちの社長が同席している”向かいの客側の席に座っているのは、小原と、取引先社長だ”取引先社長は、心妙な顔で頭を下げている”小原に関して言えば、滝のように流れる汗を、半端な動作で拭い続けている”顔色は悪く、目だけが落ち着かなく動揺していた”昨日、王平な態度でこちらを見下してきた人間と、同一人物とは信じられない
「それで、本日は謝罪にいらしたと。」
うちの社長が確認する
「ええ、昨日の出来事、御社から連絡いただいた時は、本当に驚きました。”今回の商談は、もうほぼ決まっていると把握しておりましたので。」
取引先社長が、申し訳なさそうに言う”それもそのはずだろう”事情を理解している俺と小宮さんは、あえて口にしなかったが、昨日の商談は、ほとんどもう決まったも当然の折衝だったからだ”開発担当として俺が製品説明をし、小宮さんが改めて契約事項の確認をする”そして問題がなければ、そのまま契約、という流れのはずだった”俺たちが帰ったすぐ後、事情を聞いたうちの社長は、速攻で取引先に「どういうことか。」と連絡を入れたのだ”さすがに、社長からの連絡とあって、すぐに取引先社長の耳に入ることになった
「わ、私は、そのようなことは聞いておりません。」
小原は声を震わせながら反論するが、俺たち全員に睨まれ、口をつむぐ
「君は、営業部の部長だろう。”前任者がどうとか、そんな言い訳は通用しない。”管理職として、なぜ把握していないんだね。”それだけで、すでに大問題だと思うが。」
取引先社長の呆れた口調が、さらに小原に追い打ちをかける
「ぶっ。」
と小原は情けない声を漏らすのみだ
「昨日、小原さんに話を遮切られて、説明できなかったのですが。」
と前置きをして、小宮さんが話し始める
「実は、この安全装置、特許されたばかりなんですよ。”こちらの川北君が開発した、我が社一押しの装置だったわけです。」
ぽん、と俺の肩を叩きながら、小宮さんが言う”俺は気恥ずかしさから、目を伏せた
「そ、その話は、社長からも聞きました。”最初にそう言ってくれたら、私だって、まず否定は。」
俺は、小原の言葉を遮る
「あなたが悔恨したのを、こちらのせいにしないでいただけますか?
」
俺の強い言い方に、小原は一瞬怯んだ
「それに、あなたが慌てているのは、ただ特許が絡んでいるからだけではないですよね。」
俺の指摘に、小原は「ぎくり。」と顔を強張らせた
「我々の商談対象となっている安全装置は、元々二つありました。”すでに商談が成立している安全装置と、昨日あなたがゴミ箱に捨てた安全装置の、二種類がね。”これは、ペアになっているんです。」
小宮さんが言った途端、小原の額に再び汗が滲む”小宮さんが言った通り、元々、商談の対象は二つで、ワンペアの安全装置だ”片方をプレス機などの機械に設置して、もう片方は、人間側に装着する”簡単に言えば、機械が稼働している最中、人間が誤って危険範囲に入った瞬間、機械を停止するようになっているのだ”俺は、人間側に装着する装置の方に目をつけた”機械の安全はもちろんだが、他の作業中でのリスクも減らせないものかと考えたのだ”町工場の職人というのは、実はかなり貴重な存在である”うちでも若手育成に力を注いでいるが、それでも若い職人はまだまだ少ない”つまり、それだけ平均年齢が高いのだ”腰など体を痛める可能性は、少なくするに越したことはない”これは年寄り扱いしているとか、そんな話でなく、リスクの話だ”そこで俺は、人間側に取り付ける方の機械を改良し、その改良版を特許申請したのだ”従来の安全装置より小型で軽く、独自の特殊な回路を用いて構築されている
「私の開発した人間側の安全装置は、特許出願中だったので、初回の商談の時期を送らせていただいていたんです。”特許登録が実現した場合には、その分の価格の見直しが必要になりますから。」
俺の発言に対し、小原以外の全員が頷いている”ずっと黙っていたうちの社長が、ため息混じりに口を開く
「最初に小原部長について報告を聞いた時は、信じられませんでした。”ですが、川北君や小宮君が揃って言うことです。”私は社長として、二人を信じようと思って、あなたの会社に問い合わせたんですよ。」
頷きながら、取引先社長が続ける
「私も、信じられなかった。”だが、調べてみると、小原なら、やりかねないと確信した。」
取引先社長曰く、すぐに小原の周辺を調べたそうだ”すると、たった一日で出るわ、出るわ、小原の悪評のオンパレードだったらしい”極めつけは、小原の部下の発言である
「小原部長は、言ってましたよ。”底辺の町工場の安全装置なんて、ゴミ箱に投げ入れてやった。”奴ら、悔しそうにとぼとぼ帰って行ったぜ。」って。」
さぞ自慢げに言ったのだろう”この部下だけではなく、複数、同じような証言が取れたそうだ
「と、それは、前任者がちゃんと引き継がなかったせいです。”あいつ、自分の体調不良にかこつけて。」
俺は再び、小原の発言を遮った”もう、こいつの言い訳なんて、たくさんだ
「本当ですか? あなたは、我々との折衝中、資料らしき書類を持っていた。”あれは、前任者さんが用意してくれたものなのでは? 」
図星だったのか、小原は「ぐっ。」と唸る”すかさず、小宮さんが追撃した
「仮に、引き継ぎが不十分だったとしましょう。”そうだとしても、あなたのした行動は、社会人、いえ、人としてありえない行動ですよ。」
その通りだと、小原以外の全員が同意する”小原は、完全に孤立状態だ
「違う、違うんです。”あの日、私は偶然、タイミング悪く。」
むしゃくしゃは、混乱状態に陥った小原は、とにかく何か言い訳をしなくては、と思ったのだろう”支離滅裂に、気分的なことを理由にまくし立て始める”他にまともな理由は浮かばなかったのだろうか”いや、まともな理由なんかあるわけもない”小原が言うには、そもそも商談に出ること自体、だるくて仕方がなかったという”ただでさえ、元々の前任者が急に休むことになり、自分の仕事が増えたと、イライラしていたところだったそうだ”つまり、その八当たりのせいで、私たちは不当に侮辱されたと
俺は静かに問う”小原は、罰が悪そうな顔をして、俺から視線をそらす”なんて身勝手な理由だろう”ここまで来ると、呆れや怒りよりも、「不快」という言葉がしっくりくる
「これも調査で分かったが、その前任者というものも、君のパワハラのせいで体調を崩した、という証言がある。”本人への確認はこれからだが、大多数の社員が同一の発言をしていることは、看過できない。」
「そ、そんな。」
必要以上に声をあげたが、誰も擁護はしない
「個人の暴走のようですので、これから、また話し合いをさせていただきますが、我々は、御社に対して不審感が拭えません。」
うちの社長が言うと、取引先社長は頷く
「もちろんです。”弊社の監督不行き届きですので、こちらが契約を打ち切られたとしても、当然です。”この度は、本当に申し訳ございませんでした。」
俺は、茫然としている小原を睨みつける
「どうやら、信用ゼロなのは、あなただったようですね。」
俺が言うと、小原は悔しそうに顔を歪め、それから震える声で謝罪した”その後、小原は懲戒解雇になった”取引先社長も言っていたことだが、昔のパワハラや、飲み会のアルハラなどで、小原はかなり問題のある上司だったらしい”休職していた前任者が、まさにその被害者だったわけである”今はもう復帰して、俺たちの担当としてよくしてくれているが、小原のことはトラウマのようになっているようだ”俺たちに話してくれた時の顔は、思い出した恐怖から引きつっていた”ちなみに、担当者が言うには、小原は職を失っただけでなく、自分を含む被害者から訴えを起こされ、かなり悲惨な状況になっているようだ
「もういなくなった人のことですから、前向きに考えます。」
そう笑っていたことだけが救いだ”小原の一存で消えかかった安全装置の契約だが、社長同士の話し合いで、うちへの発注を増額することで落ち着いた”今では、機械側、人間側の安全装置が使われ、現場で働く人たちの安全を守っている”俺はこれからも、誰かの役に立てる技術を育てていきたい