会議室に入った瞬間、その男は俺を睨みつけた。まるで雑巾でも見るかのような目だった。「うん?誰だこいつは」俺がアメリカ本社の会長だと佐藤が説明しても、男は鼻で笑うだけだ。「なんだと?なんでお前はまたこんなのを連れてきたんだ?」佐藤が目を丸くして「こ、こちらが会長だとおっしゃるので……」と口ごもると、男は吐き捨てるように言った。「お前はそんなのを信じたのか。のじじが会長のわけがないだろう」その瞬…

会議室に入った瞬間、その男は俺を睨みつけた。まるで雑巾でも見るかのような目だった。「うん?誰だこいつは」俺がアメリカ本社の会長だと佐藤が説明しても、男は鼻で笑うだけだ。「なんだと?なんでお前はまたこんなのを連れてきたんだ?」佐藤が目を丸くして「こ、こちらが会長だとおっしゃるので……」と口ごもると、男は吐き捨てるように言った。「お前はそんなのを信じたのか。のじじが会長のわけがないだろう」その瞬...

会議室に入った瞬間、その男は俺を睨みつけた。まるで雑巾でも見るかのような目だった。「うん?誰だこいつは」俺がアメリカ本社の会長だと佐藤が説明しても、男は鼻で笑うだけだ。「なんだと?なんでお前はまたこんなのを連れてきたんだ?」佐藤が目を丸くして「こ、こちらが会長だとおっしゃるので……」と口ごもると、男は吐き捨てるように言った。「お前はそんなのを信じたのか。のじじが会長のわけがないだろう」 その瞬間、俺の中で何かが切れた。俺は兵堂孝志、五十八歳。アパレル会社のアメリカ本社で会長を務めている身だ。アメリカの地で四半世紀以上にわたって働き、パタンナーから叩き上げでここまで登り詰めてきた。そんな俺に向かって「無能のじじ」とは、よくもまあ言えたものだ。「どこの部署だ?社長を連れてこい」 俺の一喝に、佐藤ともう一人の男は目を見開いて固まった。俺としても、ここまで無礼な社員に会うのは初めてのことだった。うするとそこへ、慌てた様子で日本の社長、山口が駆けつけてきた。「兵堂会長、おいででしたか」「久しぶりだな。元気だったか」 山口は俺の高校時代の後輩だ。俺がアメリカに渡った後、彼はこの日本の子会社に入社し、やがて社長にまで上り詰めた。その後輩が、俺に暴言を吐いた男の方を向き、厳しい声で言った。「こちらはアメリカ本社の会長である兵堂さんだぞ」 男の顔色が変わる。「えっ……」「あんな無礼な口を聞くとは何事だ」 山口の叱責に、男は真っ青になりながらも、なかなか頭を下げようとしない。後方部の課長、山本という男らしい。いい大学を出ているというその男のプライドが、謝罪の言葉を喉の奥で塞いでいるのがわかった。「ほら、さっさと謝らんか」「この日本の子会社にいられなくなってもいいのか」 山口の最後の一言で、山本はようやくしぶしぶと頭を下げた。「すみません……」 誠意の欠片も感じられない謝罪だったが、会議の時間が迫っていた。俺はその場を納め、予定通り会議に出席した。会議では、店舗のスタッフに覇気を持たせること、店内の雰囲気を明るくすることでお客様が入りやすくなること、定員の態度に気を配ること、商品の質を維持すること、さらには顧客単価をアップさせるために関連性のあるアイテムやより高価な商品を提案することなどを提言した。パタンナー上がりの俺だが、長年アパレルの世界にいて培った知識だ。会議自体は滞りなく終了した。会議の後、俺は山口を呼び止めた。「さっき俺に暴言を吐いた山本課長だったか」「はい……」「あの課長だが、厳重に処分してくれ。意味は分かるよな」 山口は重々しく頷いた。そこへ、会議室の片付けのために佐藤がやってきた。手が足りないとのことで、彼も借り出されたらしい。俺はこの佐藤ともう一度話がしたかった。出迎えてくれた時から、彼が何かを隠しているように感じていたからだ。彼の話を聞かずしてアメリカに戻るわけにはいかないと思った。「しばらく会議室を二人きりにしてくれないか」 山口は心得たように頷き、他の者を連れて部屋を出て行った。「話したいことがあるんじゃないのか」 俺がそう問いかけると、佐藤は口ごもった。「いいんだよ。悩みとかあるんなら聞かせてほしい。私が力になるから」 俺の言葉に、佐藤は戸惑いがちに口を開いた。「実は……山本課長のことで悩んでるんです」 やはりそうかと、俺は思った。「詳しく聞かせてくれ」 佐藤の話を聞くと、山本による嫌がらせは日々の業務に及んでいた。みんなで共有すべき情報を佐藤に与えず、それによって業務が滞ることもあったという。また、嫌みを何度となく言われ、心が疲弊してしまっていると佐藤は言った。「しかも、佐藤君だけではないんです。他にも山本課長のターゲットになっている社員がいます」 「そうだったのか……」 俺は腕を組んで考え込んだ。日本の子会社とはいえ、俺の会社の中でこうしたことが行われている点は見過ごせない。「それでは山本課長を呼んできてくれるか。あとは私に任せてくれ」 佐藤は戸惑った様子だったが、「はい」と頷き、その場を後にした。人が来るまでの間、俺は少しだけ会議室の整理をした。やがてドアのノックと共に、山本が入ってきた。「会長、何かご用でしょうか」 先ほどの無礼を直接叱責されると思っているのか、山本の声は先ほどより明らかに小さくなっていた。「まあ、かけてくれ」 山本がおずおずと椅子に座るのを確認してから、俺は静かに切り出した。「佐藤君という社員から話を聞いたんだがな」 山本の目が一瞬、見開かれた。「佐藤がどうかしたでしょうか」「佐藤君とは同じ部署だそうだな。うまくやっているのか?」「ええ、それはもちろん。部下たちとは結束を深めております」 そう言う山本の目が、わずかに泳いでいるのを俺は見逃さなかった。「そうか。佐藤君は君から嫌がらせを受けていて苦痛だと言っているんだがね」「そんな言いがかりはありません。私はそんなことしていません」「ほう。それでは、情報を共有してもらえなかったとか、嫌みを言われたというのは、佐藤君が嘘をついているというのか」 俺の言葉に、山本は押し黙った。「別に……嫌がらせをするつもりじゃ……」 「山本課長。こういうのはな、された本人が嫌な思いをしているかどうかが大事なんだよ。佐藤は確かに嫌な思いをして、悩んでいたではないか」「それは……」「しかも君は、佐藤君以外にも嫌がらせをしていたそうだな」 山本ははっとして、目を見開いた。「そういうのは、見られているもんだよ。観念しなさい」 俺がそう言うと、山本は肩をすくめ、うめくようにしてうつむいた。「日頃から部下に嫌がらせをしていたとは情けない。そんな人間に管理職は任せられない」 俺は自分の上司から圧をかけられたり、嫌がらせを受けたことなどない。ミスをすれば注意されるが、それは自分が悪いのだから当然だ।上の立場の者が権力を笠に着て威張ることを、俺は良しとしない。上司たるもの、厳しくすべき時は厳しくしつつも、部下に尊敬される存在でなければいけない。「部下というのはな、圧力で従うもんじゃないよ」 「圧力をかけた覚えはありません」 「先ほども言ったが、君が思っていなくても、相手は嫌だと思っていることがあるんだ」 山本は唇を噛みしめた。「課長という立場にはなったかもしれないが、周囲への振る舞いを間違えると、大変なことになるぞ」 「どういう意味ですか?」 「よく考えるんだな。最後に、私への言動も含めて覚悟をしておくように」 そう言って、俺は山本を自分の部署に戻した。その後、残された乱雑な会議室を一人で片付け始めると、様子を見に来た山口に見つかってしまった。「行けません会長! アメリカ本社の会長に片付けなどさせられません」 聞くところによると、社長自らがトイレ掃除を行うという会社もあるそうだ。社員の模範となることも目的らしいが、俺としても、こういった一介の社員がやるような仕事でもやってみせることは大事だと思っている。「いいんだよ。こういうのも必要なことだ」 結局、片付けは佐藤が再度呼ばれて行うことになったが、俺はその夜、近場に一泊してアメリカに戻った。アメリカの本社から、俺は山口に電話をかけた。「こちらは夜だから、向こうは昼だろう」 俺は山口に、佐藤たちが山本にされていたことを詳細に報告した。「こういった管理職がいると、部署内の空気も悪くなってしまうからな」 山口は、山本の愚行が自分の耳に届いていなかったことに驚いていた。「それと、ひとつ提案があるんだが」 「何でしょうか」「社員たちが気軽に投目できる投目箱のようなもの、あるいは相談窓口などを設置すればいいのではないか」 これは俺の本心だった。社員たちに、嫌な思いを抱えながら仕事をしてほしくない。相談できる環境があれば、佐藤のような例を減らすことができるだろう。「気軽に相談できる手段が社内にないこと自体、驚きだよ」 「仰る通りです……」「設けることも大事だが、何より人を大切にすることが一番大事だ。要するに、会社をこれからも大きくしていくためには、社員たち一人一人を大切にしなければいけないということだ。上の立場にありながら部下を大事にできない者は、上に立つ資格はない」 そして俺は、はっきりと告げた。「山本課長は、私の会社にはいらない」 いくらバリバリと業務ができたとしても、部下に嫌な思いをさせるようでは、いい上司とは言えない。俺に対する暴言についても、俺の素性を知らなかったとはいえ、他人にあんな態度を取る人間など初めて見た。「我が社にああいった人間がいたことはとても残念だが、やはりの話にはできない」 山口は、しばらく躊躇したようだったが、最終的には「はい、わかりました」と答えてくれた。その後、山本は解雇されたらしい。彼は年齢が響いているのか、なかなか再就職ができないでいると聞いた。そして新たに課長となったのは、なんと俺を会議室まで案内してくれた佐藤だったという。佐藤は割と大人しい性格のようだが、誠実であり、山本のような暴挙に出ることはない。しかも彼は有能であり、山本に次ぐ後方部のナンバー2と目されていたというのだ。佐藤が課長に就任してからは、部署内の雰囲気も明るくなり、活気が出ているらしい。宣伝の仕方も一際優れており、メディアやSNSなどを駆使して、我が社は注目されている。ファッション雑誌にも我が社の商品が使用されたり、我が社の広告が掲載されたりもしている。日本では売上がアップし、好調となっているという。これも佐藤の働きによるところが大きいかもしれない。これからも、日本における我が社の宣伝に尽力して欲しいものだ。ただ、売上が好調なのは佐藤のおかげだけではないだろう。日本では俺の提言通りに、店舗のスタッフたちの士気を上げる試みをしたそうだ。店内の雰囲気を明るくすることで、お客様も入ってきやすくなる。アパレル業界ではアーティストとのコラボレーションが行われることもある。俺のいるアメリカ本社でも、有名なアーティストとのコラボを企画し始めた。コラボを依頼したいアーティストに我が社から打診したところ、心よい返事をいただけた。アーティスト自体も有名な方だし、これは話題となるだろう。アーティスト側とやり取りを行う部署には、失礼のないように気をつけてやり取りするようにと言い聞かせた。どういったアイテムを作成するか、どういったデザインにするか、カラーや素材など、多くのことを決定していく。実際に関わっている社員たちは大変ではあるだろうが、プロジェクトが形になっていくのを見るのは俺も嬉しい。一年の歳月をかけ、ようやくコラボした商品が完成し、売り出されることになった。予想はしていたが、いざ発売の日を迎えると、やはり不安がないと言えば嘘になる。しかし、コラボ商品は大々的な宣伝もあってか、次々と売れた。「コラボ商品は大ヒットとなり、消費者からは第2弾をやってほしいとの声も上がったほどだ」 コラボをしていただいたアーティストの方も、その大成功にとても喜んでいたという。俺は、先代会長から受け継いだこの会社を、これからも大きくしていきたい。そのためには、俺自身も健康管理などに気をつけていかなければいけないだろうアメリカでの長いキャリアから得たこの先見。そして、日本の子会社でのあの一件。

それが、今の我が社の好調な業績につながっているとすれば、あの日の出来事も無駄ではなかったということだろう。俺はデスクの前で、電話の向こうの山口の声を思い出していた。「兵堂会長、山本の件、確かに承りました。れからは、佐藤のような社員がもっと活躍できる会社にします」 あの後、山口は本当に相談窓口を設置したらしい。佐藤の課長就任とともに、日本の子会社は見違えるように生まれ変わった。そして俺は思う、会社というものは、上に立つ者がどれだけ社員を大切にできるかで、その未来が決まるのだと。だからこそ、俺はこれからも、この会社を大きくしていくために、自分自身にできることを尽くしていくつもりだ。最後に、あの日の山本の言葉を思い出すたび、俺はこう思うのだ、「無能のじじが会長のわけがないだろう」と笑った男は、今どこでどうしているだろうな、と。しかしそれは、もう俺の知ったことではない。俺には、やるべき仕事が山ほどあるのだから。

Thumbnail