雪が町を白く塗りつぶしていく。そんな冬の日のことだった。大企業・藤堂グループの会長である藤堂順は、地方出張から東京へ戻る社内にいた。「会長、ひどい雪になってきましたね」運転手が心配そうに言う。高速道路はすでに閉鎖され、ナビゲーションが示した脇道も雪で視界が悪化していた。「どこか少し休めるところを探してくれ」順の言葉に運転手は頷いた。やがて車は、時が止まったかのような小さな田舎町に迷い込んだ。昔ながらの商店街のアーケードが、ぼんやりと雪の中に浮かんでいる。「会長、あそこで少し休みましょう」車を降りると、冷たい空気が頬を刺した。ボタン雪がふわりと肩に積もる。商店街はさびれているかと思いきや、意外なほどの活気に満ちていた。おでんの出汁が湯気と共に立ちのぼる匂い。ソースが焼ける香ばしい匂いを漂わせるたこ焼きや、甘くどこか懐かしい焼き芋の香り。それらが混じり合い、順の鼻先を優しくくすぐった。特に買うものもなかったが、順は無意識に商店街の路地を歩いていた。ただこの温かい喧騒の中に身を置きたかった。商店街の中心を通り過ぎようとした、その時だった。どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ「いらっしゃいませ、焼きたてのベビーカステラですよ、熱々をどうぞ」自分の足が地面に縫いつけられたようにぴたりと止まった。心臓がどくんと大きく跳ね、奈落の底へ落ちていくような感覚に襲われた。その声、間違いない。毎晩夢の中で聞いた声だ。3年前に死んだと聞かされた。死んでも忘れられないはずの妻の声だった。まるで錆びついたブリキの人形のようにぎこちなく、ゆっくりと首を巡らせた。ベビーカステラの小さな屋台があった。その前に一人の女性が立っている。色褪せたダウンジャケットに油で汚れたエプロンをかけ、鉄板でベビーカステラの玉をひっくり返している。背中にはおんぶ紐で一人の子供を背負い、前にはもう一人の子供を抱っこ紐で抱き抱えていた。双子だろうか、二つの寝顔が見える。ボタン雪が容赦なく女性の肩の上に舞い降りる。女性は寒さで鼻の頭を真っ赤にしていたが、客には明るく微笑みかけ、湯気の立つベビーカステラの袋を手渡していた。順の目から熱いものがこぼれ落ちた。声にならない声が喉の奥で震えた「はずき、はずきじゃないか、あの顔、あの声」元の桜井はずき, 3年前に事故で死んだと聞かされていた桜井はずきだった。順は自分でも気づかないうちに屋台へと歩み寄っていた。足が震え、胸が狂ったように高鳴る, 目の前が涙でぼやけて彼女の姿が滲んで見えた「はずき」震える声で呼びかけた。女性がはっと顔を上げた。目があった。しかしその瞳には何の感情も映っていなかった。まるで見知らぬ人を見るような、ただそれだけの眼差しだった「はい、お客様、私に何かご用でしょうか? 」その声はかつてのはずきの声と同じなのに、響きが冷たくて人形のようだった「はずき、俺だよ, 順だ」順がもう一歩近づくと、女性は怯えたように少し後ずさった。その表情が戸惑いから警戒へと変わる「お客様、お間違いだと思います, 私は鈴木み子と申します」順の頭の中が真っ白になった「私の名前は鈴木み子です」女性の声はきっぱりとしていた。順を見る目には明らかな警戒の色が浮かんでいる。
死んだと聞かされていた妻が生きている, それなのになぜ俺のことを覚えていないんだ。その時、女性の背中に負んぶされた子供がふえと泣き始めた。女性は慌てて子供をあやすために顔を伏せる。その瞬間、順の視線は二人の子供たちに釘付けになった。子供たちの目元, その切れ長の目元は、毎朝鏡で見る自分自身のものとそっくりだったのだ, そして鼻の先に小さなほくろが一つ, は, 同じ場所にあるほくろと寸分違わなかった, 藤堂家に代々伝わる家系の証, まさか, あの子たちが俺の子供だなんて, 心臓が止まるかと思った「あ, あのお客様」女性が恐る恐る口を開いた「ベビーカステラいかがですか? 」順は必死に平静を装った, そうだ, 死んだ人間が生きているはずがない, きっととても似ている別人だ, そうに違いない「ああ, ベビーカステラをください, 500円分だけ」女性は手早くベビーカステラを紙袋に入れると順に差し出した, 順は財布から千円札を出し、釣りはいらないと告げた「子供たちに何か美味しいものでも買ってあげてくれ」それだけ言うのが精一杯だった, これ以上ここにいたら嗚咽が漏れてしまいそうだった, 背を向け商店街を抜ける間, 手の中の紙袋から漂うベビーカステラの甘い香りが、残酷なほどに3年前の記憶を呼び覚ます「私, 子供の頃すごく貧乏だったんです, だからベビーカステラが一番のご馳走でした」そう言って微笑んだはずきの笑顔が蘇る, 車に戻った順は運転手に何も告げず、ただ呆然と座り込んでいた, なぜ彼女は生きているのか, なぜ俺を覚えていないのか, そしてあの子供たちは一体誰なんだ, 窓の外では雪がますます強く降りしきり、遠くに見えるベビーカステラの屋台の明かりを霞ませていた, その明かりの下で彼女は双子を背負ってベビーカステラを焼いている, 順の目から再び涙がこぼれ落ちた, 手の中のベビーカステラは一口も食べることができなかった, その夜は一睡もできなかった, 都内の豪邸にある書斎で一人、ブランデーグラスを傾ける, 目を閉じれば、雪の中でベビーカステラを焼いていたあの女性の姿が浮かんでくる, 自分を全く認識できなかったあの空っぽの眼差し, そして自分と瓜二つの寝顔を見せていた双子の赤ん坊, 頭がおかしくなりそうだった, 順は書棚から分厚い革張りのアルバムを取り出した, そっと最初のページを開くと、眩しいほどの笑顔を浮かべたはずきの写真が目に飛び込んできた, 5年前の春、桜並木の下で少し照れたように笑う彼女の写真だ, あの頃は、父が経営する藤堂グループで専務に昇進したばかりだった, 31歳という若さで役員になったのだから周囲の期待は大きかった, しかし当の本人にとっては毎日が戦争のようだった, そんなある夜のことだ, 深夜11時を過ぎ、誰もいなくなったオフィスで一人、分厚い書類の山と格闘していた, その時、控えめなノックの音が聞こえた「失礼します, もしよろしければコーヒーはいかがですか? 」顔を上げると、見慣れない若い女性が立っていた, きちんと着こなされたスーツ姿で、手には湯気の立つコーヒーカップを持っている「私は, 本日付で秘書課に配属されました新入社員の桜井はずきと申します」女性は深々と腰を折って挨拶した「こんな時間まで残っていたのか」「はい, 引き継ぎを受けておりまして, でも専務もまだいらっしゃったんですね, 電気がついていたのでもしかしたらと思いまして」はずきはそっと微笑みながらコーヒーを差し出した, その笑顔が張り詰めていた順の心をふわりと解きほぐした「ありがとう, でもこれからはあまり遅くまで残らないようにな」「専務もですよ」はずきは小さく笑った, その屈託のない眼差しに、順は初めて心を奪われた, それが二人の最初の出会いだった, 初めはぎこちない上司と部下の関係だった, しかしはずきは気が利いた, 残業していると必ず温かいコーヒーを持ってきてくれた, 疲れているように見えると、そっと机の上にチョコレートを置いていった, いつしか順は、書類の山と向き合いながらも彼女の「お疲れ様です」という声と、その柔らかな笑顔を待つようになっていた, 仕事の話をしていたのが、いつの間にか趣味の話になり、家族の話へと広がっていった, 順の父であり、当時の会長だった藤堂安造も、愛想の良い書き割りのできるはずきに一目を置いていた「あの秘書はなかなかいいな, しっかりしていて賢い」そしてある春の日、順は思い切ってはずきに声をかけた「桜井さん、週末は時間あるかな?

」「もしよかったら一緒にどこかでかけないか」はずきの頬がほんのりと赤く染まった, こくりと小さく頷いた, 初めてのデートは川沿いの公園だった, 二人で自転車を漕ぎ、夕暮れの空を一緒に眺めた, 帰り際、順は熊のぬいぐるみをプレゼントした「これ何ですか? 」「なんとなく桜井さんに似ていたから」「私がクマに似てるんですか? 」はずきはけらけらと声を立てて笑った, 順も釣られて笑った, はずきはそのぬいぐるみをぎゅっと胸に抱きしめながら言った「ありがとうございます, すごく可愛いです, 大切にします」付き合ってちょうど1年になる記念日だった, 思い出の公園のベンチで、順ははずきの前に膝まずいた「僕と結婚してくれないか? 」はずきの目に、見る見るうちに涙が浮かんだ, 彼女は返事の代わりに深く頷きながら、順を強く抱きしめた, 結婚式はとても温かいものだった, 順の両親は二人ともはずきを心から歓迎してくれた「我が家へようこそ, はずきさん」父の安造はにこやかに笑った, 母の鞠子ははずきの手を固く握ってくれた「可愛い娘ができたわね, 息子のことよろしくお願いね」新婚生活は夢のように幸せだった, はずきは毎朝早く起きて彩り豊かなお弁当を二つ作った, 二人並んで出勤し、帰り道には一緒にスーパーに寄ってその日の献立を考える, 順は必ず妻の好きな苺を買い物籠に入れた, 週末には商店街でデートをした, そう, あの日の中で再開したあの商店街だ, そこでベビーカステラを買い、二人で分け合って食べた「私, 子供の頃すごく貧乏だったんです, ベビーカステラが一番美味しいおやつでした」はずきはベビーカステラをふーふー冷ましながら一口頬張った, その姿を愛しく見つめながら、順は思った, この人と一生こうして生きていきたいと, アルバムをめくる手が止まる, 最後のページには、少しお腹の大きくなったはずきが幸せそうに微笑んでいる写真が貼ってあった, 妊娠が分かった日の写真だ「男の子かな, 女の子かな?
」「どっちでもいいわ, あなたとの子なら」そう言って笑い合った日々, 何もかもが輝いていて、この幸せが永遠に続くと信じて疑わなかった, 順はアルバムを強く抱きしめた, あの温かいぬくもりも、甘い香りも、幸せな笑い声も, 全てが昨日のことのように思い出される, どうしてこうなってしまったんだ, 完璧だったはずの僕たちの日常は, いつどこで狂い始めてしまったのだろうか, 書斎の窓の外では雪が静かに降り積もり、東京の町の明かりをぼんやりと霞ませていた, グラスに残ったブランデーが虚しく揺れていた, 幸せな日々に最初の影が差し込んだのは、結婚して半年ほどが経った頃だった, 母の鞠子が突然自宅で倒れたのだ, 診断は子宮の末期癌, 余命いくばくもないと告げられた, 母さん, 病院の廊下で順は崩れるように座り込んだ, はずきがそんな夫の手を固く握ってくれた「大丈夫よ, あなた, 私がついてるから」そのぬくもりが自分の心をどれだけ支えてくれたことか, 鞠子の在宅介護が始まり、藤堂家に一人の介護士がやってきた, 安倍花世, という40代半ばの女性だった, 見た目はそれよりずっと若く見え、口が達者で愛想が良かった, 花世は鞠子のことを実に献身的に世話した, 食事の介助から下の世話まで嫌な顔一つせず、いつも笑顔を絶やさない, 父の安造も順もすっかり彼女を信頼しきっていた「花世さんが来てくれて本当に助かった」しかしはずきだけは、その完璧すぎる介護士に言いようのない奇妙な違和感を覚えていた「あなた, あの介護士さんなんだか変じゃない」夜, はずきが不安そうに切り出した「何がだ, よくやってくれていると思うけど」「人の前ではとても優しいけど, 一人の時の目が冷たいというか, 何かを計算しているようなそんな目をする時があるの」順は妻の言葉を気に留めなかった, 母のことで神経質になっているのだろう, そうとしか思えなかった, だが花世が来てからというもの、鞠子の容態はまるで坂道を転がり落ちるように急激に悪化していった, そしてある日の明け方, 鞠子は静かに息を引き取った, 担当医も少し信じがたい早すぎる死に首をかしげていた, 悲しみに暮れる間もなく葬儀が取り行われた, そして49日が終わった, まさにその直後のことだった, 父の安造が順とはずきを前に、衝撃的な発表をした「花世さんと再婚することにした」順は思わず立ち上がった「父さん, 何を言ってるんだ? 」「母さんの49日が明けたばかりじゃないか」「花世さんは君の母親を献身的に介護してくれた, その恩に報いたいんだ」安造の決心は固まっていた, 何を言っても聞く耳を持たなかった, こうして安倍花世は藤堂家の新しい奥様となった, 最初の家族での食事の席で、花世の本性が早くも牙を向いた, はずきが腕によりをかけて作った料理がテーブルに並ぶ「はずきさん, これからは私があなたの姑よ, よろしくね」花世はにこやかに言ったが、その目は全く笑っていなかった, そしてはずきの作った料理にちらりと見ると、ふんと鼻で笑った「あら, 元々何もないお家の出身の人は家事が上手だって聞いてたけど, あなたは違うみたいね, この煮物, 味が濃すぎるわ」カチンと箸を置く音が響いた「姑さん, 今なんとおっしゃいましたか? 」順が凍るような冷たい声で言うと、花世は慌てて手をひらひらさせた「あらあら, ごめんなさい, 冗談よ, 冗談, そんなにカリカリしないでちょうだい」笑ってごまかしたが、その眼差しは依然として冷たく、軽蔑の色を隠そうともしなかった, はずきは一口も喉を通すことができず、ただ俯いていた, その肩が小さく震えているのを順は見ていた, まさに針のむしろだった, その時から花世の陰湿な嫌がらせが始まった, はずきが入れたお茶はぬるいと罵り, 掃除をすれば埃が残っていると矢継ぎ早に攻め立てた, 順のいないところで嗤うのだ「あなたはこの家の嫁としてふさわしくないのよ, 順もいつかそれに気づくわ, あなたのような貧しい女と結婚したことを後悔するのよ」はずきは耐えた, 順に心配をかけたくなかった, この家庭を壊したくなかった, だが花世の本当の目的は、そんな小さな嫌がらせではなかった, 彼女には古くからの共犯者がいた, 藤堂グループの財務担当, 木村達也だ「会長の体調もあまり良くないようですし, この際裏金を少し作っておきましょうか」木村が花世のオフィスで囁いた「そうね, 会長の薬に少し混ぜ物をすればもっと早く判断力が鈍るわ, あの莫大な資産, 全て私たちのものにするのよ」花世は密かに会社の金を横領し始めた, そして安造が毎日飲む薬に、こっそりと体力を奪い思考力を低下させる薬物を混ぜ始めたのだ, 安造は次第にぼんやりとすることが多くなり、会社の重要な決定も花世の言いなりになっていった, そんなこととは露知らず、はずきは不安な夜を過ごしていた, 眠れない夜は、順がプレゼントしてくれた熊のぬいぐるみを抱きしめた, あの頃は良かったな, ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、幸せだった日々を思い出す, その柔らかな感触だけが彼女の唯一の慰めだった, その頃, 花世は木村と電話で話していた「はずきの動きは一つ残らず報告して, あの嫁が一番の邪魔よ」「ご心配なく, 常に監視させております」電話を切った花世の口角がゆっくりと釣り上がった, それは獲物を見つけた蛇のような冷たい微笑みだった, 彼女の本当の目的は藤堂家の財産を全て乗っ取ること, その壮大な計画の前に立ちはだかる, 賢くて正しい心を持つはずきが彼女にとって何よりも邪魔な存在だった, はずきは, 姑となった花世の背中に突き刺さるような視線を感じながらも, 会長のスケジュールを管理し、膨大な書類を整理し、会議の準備をする日々を送っていた, しかしその日の午後のことだった, はずきは安造の指示で内部監査資料を整理していた, 分厚いファイルの山を一枚また一枚とめくっていると,不当に奇妙な点に気づいた, 会社の法人カードの利用明細だったが,毎月,出所不明の巨額な金額が引き落とされていたのだ,これは何だ,はずきは声を潜め書類を食い入るように見つめた,毎月ほぼ一定額が,正体不明のコンサルティング会社へと送金されている,3000万円,5000万円,多い時には1億円にも登った,総額をざっと計算するだけで10億円をはるかに超えている,心臓がどきどきと嫌な音を立て始めた,これは裏金だ,はずきは震える手で関連書類をさらに探した,契約書の束が出てきた,しかし,取引先の会社名は聞いたこともないものばかりだった,念のためインターネットで検索してみたが,実態のないいわゆるペーパーカンパニーだった,これは偽の契約書だ,はずきは契約書の一番下,署名欄に目を落とした,そこには義父である藤堂安造の名前が力強く書かれていた,しかし何かがおかしかった,待って,このサイン,はずきは机の引き出しから安造が直筆で署名した他の書類を取り出し,二つのサインを比較してみた,違う,明らかに違っていた,義父のサインは最後の払いがわずかに上に跳ね上がる癖があった,しかしこの偽造された契約書のサインは,その払いが下に下がっている,何十枚と比べたが,その違いは明らかだった,義父様のサインじゃない,手がわなわなと震えた,誰かが安造会長の署名を偽造して会社の金を横領している,はずきはさっと周囲を見回した,会長室には誰もいない,素早くデスクの上のUSBメモリを手に取り,パソコンに差し込んだ,関連するファイルを次々とコピーし始める,心臓の鼓動がうるさくて耳が痛いほどだった,手が震えてマウスをうまく操作することさえできなかった,しかしはずきは知らなかった,天井の隅に巧妙に取り付けられた小型の監視カメラが,彼女の一部始終を冷たく撮影していることなど,知るよしもなかったのだ,コピーを終えたはずきは,USBをスーツのポケットの奥にしまった,そして知り合いの筆跡鑑定の専門家に連絡を取った,大学時代の先輩で元警察官という経歴を持つ信頼できる人物だった,数日後,その先輩から電話がかかってきた「はずき君が送ってくれた書類のデータ見たよ,これは偽造の確率100%だ,筆跡が全く違う,素人目でも分かるレベルだよ」電話を持つはずきの顔が真っ白になった「本当ですか? 」「ああ,これは立派な犯罪だ,すぐに警察に通報すべきだよ」はずきは電話を切り,しばらく呆然と椅子に座っていた,頭の中が混乱していた,誰がこんなことを,義父の署名を偽造し,会社の金を抜き取ることができる人物,それはごく限られた人間しかいない,その人物の顔が脳裏に浮かんだ,安倍花世,そして彼女と親しい財務担当の木村達也,その夜のことだった,を,誰もいなくなったオフィスを後にしようとすると,会長室の方の廊下で人の気配がした,時刻は夜の11時を過ぎている,こんな時間に誰かいるのだろうか,はずきは足音を殺し,そっと廊下の影に身を隠した,会長室のドアが少しだけ開いていた,中からひそひそと話す声が漏れてくる「今月の流出額は計画通り1億円です,順調に進んでいますよ」木村の声だった「よくやったわ」でも問題が一つあるの「安倍花世の声だ,はずきは息を殺して耳を澄ました,彼女は自分が巨大な陰謀の渦中に,たった一人で触れてしまったことにまだ気づいていなかった,としてその行動の全てが,冷酷な罠の仕掛け人によって完全に監視されていたことにも,これから自分を待ち受ける運命など知るよしもなかったのだ,会長室の中から漏れ聞こえてくる会話にはずきは全身の血が凍る思いだった「問題って何です?
」木村が少し不安そうな声で訪ねる「あの嫁のことよ,桜井はずき」花世の声が陰湿に低くなった「最近やけに書類を嗅ぎ回っているのがどうも気になるわ」「ああ,それは私も報告を受けております,監査資料を整理しながら何か掴んだようです」「だからね」花世の声の調子がさらに一段低くなった「あの子は確実に始末しないと,このままでは私たちの計画が全て台無しになるわ,確実に対処しないと」「始末する」その言葉にはずきの心臓が止まるかと思った,思わず漏れそうになる悲鳴を,必死に手で口を覆って押し殺した,足ががくがくと震えて,立っているのがやっとだった「どうなさいますか? 」「方法は考えてあるわ」花世の声は氷のように冷たかった「まずはあの子が横領したように見せかけるための証拠を集めるのよ」「濡れ衣を着せるということですね」「そうよ,順があの女を庇う姿なんて見たくもない,この際会社からも藤堂家からも完全に追い出してやるわ」はずきは震える手でポケットからスマートフォンを取り出し,録音ボタンを押した,心臓が張り裂けそうだったが,ふんとこらえて録音を続けた,どれくらい時間が経っただろうか,ガチャリと会長室のドアが開く音がした,はずきは慌てて身を翻し,反対側の階段を駆け降りた,家に帰っても心臓の動悸は収まらなかった「どうしたんだ? 顔色が悪いぞ」と順が心配そうに尋ねてきた「ううん,何でもないの,残業でちょっと疲れただけ」はずきは必死に笑顔を作った,今すぐ全てを話してしまいたかった,あなたの義母が会社の金を横領しているのよ,私に濡れ衣を着せてこの家から追い出そうとしているの,そう叫びたかった,あなたもしかして姑のことで何か,言葉が喉まで出かかって止まった,証拠がまだ不十分だった,USBに入れた資料と今の録音ファイルだけでは足りない,下手に息子の順に話せば,義母を庇って帰って自分が疑われかねない,ううん,何でもないの,本当に,はずきは力なく首を振った,順は不思議そうに妻の顔を見つめていたが,それ以上は何も聞かなかった,その夜,はずきはベッドに横になりながら熊のぬいぐるみを抱きしめた,私たちの家庭を守らないと,私が守らないといけない,はずきは決心した,もっと確実な証拠を集める,絶対にあの二人が逃げられないように,完璧に準備をしなければ,しかし,その頃木村は花世に電話をかけていた「奥様,ご報告があります」「何? 」「今夜,はずきが会長室の前にいました,監視カメラにはっきりと映っています」「なんですって」花世の声が冷たく変わった「廊下に隠れて何かしていました,スマートフォンを持っていましたから,おそらく録音したかと」「あの女」電話の向こうで花世が歯噛みする音が聞こえてきた「それと数日前,会長室のパソコンからUSBに何かをコピーしているのも確認できています」「もう悠長なことは言っていられないわね」花世の声が低く響いた「もう終わりにしないと,手遅れになる前に」電話の向こうから冷たい笑い声が漏れてきた,翌朝,花世は木村を自分のオフィスに緊急に呼び出した,ドアに鍵をかけ,ブラインドまで下ろす「嫁に全部被せるのよ,私たちがやったこと全部」「奥様,それが可能でしょうか?
」「可能にするのよ,はずき名義で裏金の口座を作るの,印鑑も偽造して,あなたにできないことはないでしょう」木村はこくりと頷いた,その日から完璧な証拠の捏造が始まった,はずき名義で秘密の口座が開設された,会社の金はその口座に流れるように偽装された,印鑑を複製し,署名を偽造した,さらにはホテルのラウンジの監視カメラの映像まで合成し,はずきが正体不明の若い男性と親密に会っているかのように見せかけた,花世の用意した完璧な証拠が,何も知らないはずきを奈落の底へと突き落とそうと,静かにその時を待っていた,数日後,会社の社内ネットワークに匿名の書き込みが投稿された,会長特別秘書,桜井はずき,巨額横領の疑い,そこにははずき名義の裏金口座の明細と,偽造された書類,そしてホテルで男性と会う合成写真が添付されていた,会社は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった「金目当てで結婚したんだな」「純粋そうなふりして,腹の底は真っ黒だったんだな」社員たちの心ないひそひそ話がはずきの耳にも届き始めていた,何も知らないはずきが出勤すると,社内の空気が一変していることに気づいた,すれ違う社員たちが好奇と軽蔑の入り混じった視線を向け,顔を背ける,普段にこやかに挨拶を交わす同僚たちも目を合わせようとしない,何かがおかしい,得体の知れない不安が胸の中に広がっていく,その時内線電話が鳴った,秘書室からだった「桜井はずきさん,緊急役員会にご出席ください」重苦しい雰囲気の役員会議室のドアを開けると,役員たちが全員厳しい表情で席に着いていた,正面の上座には義母である花世が冷たい表情で座っている,として部屋の壁に設置された大型スクリーンに何かが映し出されていた,桜井はずき,横領及び背任行為に関する証拠資料,そこには自分名義になっている裏口座の明細,偽造された署名が書かれた契約,そして見知らぬ男性と親密そうにホテルで会っている合成写真「これは一体何ですか? 」はずきの声が震えた「あなたがやったことでしょう」花世が氷のように冷たい声で言った「会社の金を横領しておまけに若い男と不倫までしていたなんて,見損なったわ,藤堂家の嫁としてあるまじき行為よ」「違います,その口座は私のものではありません,あの写真も合成です,私はこんなことしていません」はずきは必死に叫んだ,しかし役員たちは冷淡な視線を向けるだけだった「署名が君のものと一致しているが,口座開設の書類にはご本人の身分証明書のコピーも添付されていますよ」「これは偽造です,私はやっていません」はずきは必死に訴えたが,誰も信じてくれなかった,花世が周到に準備した偽の証拠はあまりにも完璧すぎた,その時,会議室のドアが静かに開いた,順が入ってきた,はずきは夫の顔を見るなり駆け寄った「あなた,私はやってないわ,これは全部濡れ衣なのよ,信じて」順は無言でスクリーンに映し出された証拠の数々を見つめていた,その顔が見る見るうちに険しくこわばっていく「本当に君がやっていないのか? 」その声は低く,疑いに満ちていた「当たり前でしょう,私がどうしてこんなことをするの? 」はずきの目から大粒の涙が溢れた,順は泣きじゃくる妻の顔を見つめていたが,やがてふいと顔を背けた,証拠があまりにも明白に見えたのだ,愛する妻を信じたい気持ちと,目の前にある動かぬ証拠,その間で彼の心は引き裂かれそうになっていた「順,証拠はこれだけはっきりしているのよ」花世が勝ち誇ったように割って入った「もういいでしょう,みっともないわ,早く認めなさい」「待ってください」はずきが叫んだ「私にも証拠があります,USBに全部入れてあります,それを見れば真実が分かります」はずきは最後の望みをかけて鞄からUSBメモリを取り出し,会議室のパソコンに差し込んだ,しかしファイルを開いたはずきの顔が真っ白になった,中身が空っぽだったのだ,何もない,はずきが震える手で何度クリックしても,そこには何もなかった,誰かが鞄の中のUSBを,同じ形の空のUSBにすり替えたのだ「何があるって,何もないじゃないの」花世が嘲笑った,役員たちがひそひそと囁き始める「同情の余地がないな」「やっぱり黒だったか」はずきはその場に崩れ落ちた,急いで会議室を飛び出し家に駆け戻る,元のファイルは家のパソコンにバックアップして残してあるはずだ,しかし家に帰ったを待っていたのはさらなる絶望だった,パソコンが壊されていたのだ,物理的に破壊され,電源さえ入らない,花世の手下が家に忍び込み,証拠を完全に消し去った後だった,もう打つ手はなかった,その夜,順は書斎にこもり出てこなかった,はずきがドアを叩いても返事はなかった,信じていた夫にまで背を向けられた,その事実がはずきの心をずたずたに引き裂いた,翌日,はずきは会長室に呼び出された,順が窓の外を向いて立っていた,その背中は氷のように冷たく閉ざされていた「離婚しよう」手を向けたまま順が言った,はずきは自分の耳を疑った「なんですって,私は本当にやってないの,信じて,お願い」はずきが順の腕にすがりついた,順はその手を強く振り払った,そして一度も振り返ることなく部屋を出ていった,はずきはその場に座り込み,声を上げて泣いた,喉が張り裂けるほど泣いたが,誰も振り返ってはくれなかった,夫にまで裏切られたはずきに,花世は3日後に出ていけという,あまりにも冷酷な宣告を突きつける,たった一人,絶望の淵に突き落とされた彼女にもう味方はどこにもいなかった,3日という時間はあっという間に過ぎた,はずきは荷物をまとめることができなかった,いや,まとめたくなかった,これが悪い夢であってほしいと,心のどこかで願っていたからだ,目が覚めたら,いつものように順が隣で笑っていて,全部誤解だったよと言ってくれるような気がした,しかし現実は違った,最終日の夜,はずきはがらんとしたリビングに一人で座っていた,順はあの日以来一度も家に帰ってきていない,花世はあからさまに勝ち誇った笑みを浮かべてはずきに言い放った「荷物はまとめたの,明日の朝までに出ていかなかったら,警備員に引きずり出させるからね」はずきは何も答えられなかった,ただ膝の上に置いたあの熊のぬいぐるみだけをぎゅっと抱きしめていた,順が初めてのデートでプレゼントしてくれた思い出のぬいぐるみ,私たちの始まりだった,このぬいぐるみが今,たった一つの慰めだった,夜11時を過ぎた頃,はずきは決心した,ここでこのままやられるわけにはいかない,私のお腹には新しい命が宿っているのだから,まだ順には言えていなかったが,数週間前,妊娠していることが分かったのだ,この子のために私は負けられない,まずは実家の父のところへ行こう,そこで気持ちを立て直し,証拠を整理して必ず真実を明らかにしよう,そうだ,証拠ならまだ一つだけ残っている,会議室でUSBがすり替えられる直前,念のためスマートフォンにデータをコピーし,それをさらに小さなメモリーカードに移しておいたのだ,あの時はただの予感だったが,それが最後の命綱になった,これをどこに隠そうか,はずきの目に,膝の上の熊のぬいぐるみが映った,これしかない,はずきは裁縫道具を取り出すと,熊のぬいぐるみの背中の縫い目を慎重に解いた,中からふわふわの綿が出てくる,その綿の間に小さなメモリーカードを深く押し込んだ,そして針と糸で元通りに丁寧に縫い合わせた,これが最後の希望よ,どうかこの子を守って,その様子を家の外の暗がりから,木村に雇われた手下の男がこっそりと監視していることなど,はずきは知るよしもなかった,男はすぐに木村,そして花世に報告を入れた「奥様,はずきが何やらぬいぐるみをいじっておりました」「ぬいぐるみ?
いい,大したことないでしょう,子供じゃあるまいし」花世はそれを大した脅威とは見なさなかった,はずきは小さなボストンバッグ一つだけをまとめた,着替えと財布,そしてあの熊のぬいぐるみ,それが彼女の全財産だった,玄関のドアを開けようとした時,ぐらりと体がふらついた,ひどい吐き気がして目眩がする,下腹部が重く圧迫されるような感じもした,ストレスがひどい体は,早くお父さんのところへ行かないと,家を出ると冬の冷たい風が容赦なく頬を打った,はずきは震える手でスマートフォンを取り出し,実家の父,正一に電話をかけた「お父さん,はずきよ」「こんな夜中にどうしたんだ」「お父さん,私,家に帰る」「何? どういうことだ? 一体何があったんだ? 」父の切羽詰まった声が聞こえる「詳しいことは着いてから話すわ,今からそっちに向かうから」「分かった,気をつけてこい,父さんが途中まで迎えに行くから」電話を切り,はずきは大通りに出てタクシーを拾った,父の家は東京郊外の小さな町にあった,ここから1時間半ほどの距離だった,走り出したタクシーの窓から,自分が住んでいた豪邸が遠ざかっていく,順の思い出が詰まったあの家が,涙が後から後から溢れてきた,その頃木村は花世に電話をかけていた「奥様,はずきがたった今家を出ました,タクシーに乗ってどこかへ向かっています」「何ですって,こんな夜中にどこへ」「おそらく父親の家へ向かっているものと思われます」花世の声が刃物のように鋭くなった「USBはすり替えたけど,原本がどこかにあるはずよ,あの子がバックアップを取っていないはずがない」「私もそう思います,間違いなく何かを持っていたはずです」「今すぐ追いなさい,何を持っているにせよ,全部奪うのよ」花世がヒステリックに叫んだ,木村は部下の男二人を急いで向かわせた,一台の黒いセダンが闇に紛れて,はずきの乗ったタクシーの追跡を開始した,はずきは知らない,その背後に花世が放った冷酷な手が,音もなく静かに迫っていること,彼女の運命はこの夜を境に大きく狂い始めていた,日付が変わり,タクシーが父の家の近くの駅に到着した「ありがとうございました」はずきはタクシーを降り,夜の更けた路地を歩き始めた,父の家まではここから歩いて5分ほどの距離だった,迎えに来てくれると言っていた父の姿はまだ見えない,街灯も点らない暗い道だった,その時だった,背後の暗闇から二つの人影がぬっと現れた,屈強な体付きの男が二人,行手を阻むように立ち塞がっている,はずきは本能的な恐怖に思わず後ずさった「誰ですか?
」「そのバッグをこっちによこせ」低い脅すような声だった「静かにしろ,騒ぐと痛い目に合うぞ」男の一人が手を伸ばしてきた,はずきはボストンバッグと,胸に抱いた大きな熊のぬいぐるみをぎゅっと強く抱きしめた,この中に最後の希望が,証拠が入っている,絶対に奪われるわけにはいかなかった「嫌です」はずきは身を翻して来た道を走り出した,心臓が狂ったように高鳴る,待て,男たちの怒声と追いかけてくる足音が背後から迫る,路地を走り,角を曲がり,,古い神社の石段を駆け上がろうとした,しかし焦る余り,足を滑らせてしまった「きゃっ」はずきの短い悲鳴と共に,その体は吸い込まれるように,冷たくて硬い石段の下へと転がり落ちていった,後頭部を強く打ち付けた,目の前が真っ白になり,意識が遠いていく,バッグは少し離れたところに落ちたが,熊のぬいぐるみだけは胸にしっかりと抱きしめていた,追ってきた男たちが倒れたはずきを見下ろした「おい,息はしてるぞ」「バッグを拾え」一人の男が落ちていたボストンバッグを拾い,,中身を改めた,着替えと財布だけだった「なんだ,大したものは入ってないな」「いいから行こう,このままだと死んだみたいだしな」その時,遠くから切羽詰まった怒鳴り声が聞こえた「そこにいるのは誰だ? 」父の正一が息を切らせて走ってくるのが見えた,男たちは驚いて闇の中へと逃げ去っていった「はずき,はずきしっかりしろ」正一は石段の下で倒れている娘に駆け寄った,後頭部から血が流れている,正一は娘を揺さぶった,はずきが微かに目を開けた「おとう」それが彼女の最後の言葉だった,正一は気を失った娘を抱き上げ,自分の車へと走った,娘を追ってきた男たちのことを考えると,大きな総合病院には行けなかった,人里離れた場所に,古くからある小さな産婦人科診療所が一つあった,正一はそこへ車を飛ばした,診療所で医師から衝撃的な診断が下された「保護者の方,落ち着いて聞いてください,お嬢さんは妊娠されています,3ヶ月で,双子です」「なんだって,娘が妊娠? 」正一は目を丸くした「お腹の赤ちゃんは幸い無事です,ですが頭の怪我が深刻です,ひどい脳震盪を起こしています,記憶に障害が残るかもしれません」数日後,はずきは静かに目を覚ました,しかしその眼差しはどこか焦点が合わず虚ろだった「ここはどこですか? 」「私は誰ですか?
」「はずき,何を言っているんだ? 私だ,父さんだぞ」「お父さん,ごめんなさい,私,何も思い出せないんです,何も」正一の顔が真っ白になった,医師が静かに告げた,極度のトラウマによる全生活記憶喪失です,脳が自らを守るために,苦痛な記憶を全て遮断してしまったのでしょう,時間が経てば思い出すかもしれませんが,,もしかしたら一生,正一は廊下に出て崩れるように座り込んだ,娘は自分が誰なのかも,結婚していたことも,そしてお腹に子供がいることさえも,全て忘れてしまった,しばらく悩んだ末,正一は一つの悲しい決断を下した,娘に新しい人生を与えることにしたのだ,病室に戻り娘の手を優しく握った「お前の名前はみ子だ,鈴木み子,私はお前の父親だ,お前は交通事故にあって頭を怪我したんだ,だから記憶がないんだよ」はずき,いや,今はみ子となった女性は,こくりと素直に頷いた,何も覚えていないのだから,父の言葉を信じるしかなかった,正一は娘を連れて,誰も知り合いのいないあの雪の田舎町へと引っ越した,古びたアパートを借りて二人で暮らし始めた,これが3年前に起きた悲劇の真相だった,3年後,現在,順は思い切って,はずきの父正一が住むあの田舎町のアパートを訪ねた,ベビーカステラを売るみ子,もとはずきは商売に出ていてるはずだ,家には正一が一人でいるに違いない,順は深呼吸をして,古びたアパートのドアのチャイムを押した,しばらくしてドアがゆっくりと開いた,車椅子に座った痩せた老人が,訝しげな顔を上げた「どなたかな? 」「姑さん,私です,順です」その名を聞いた瞬間,正一の目が大きく見開かれ,顔が見る見るうちに強張った「なぜお前がここにいる? 」その声は怒りと憎しみに満ちていた「姑さん,どうか真実を教えてください,はずきが私の妻が生きていることはもう知っています,妻と姑が…」「今更妻だ?
お前があの子に何をしたか分かっているのか」「申し訳ありませんでした,私が間違っていました,だからこうして伺ったんです」順はその場で深々と頭を下げた「帰ってくれ」正一は冷たく言い放った「娘はやっと笑えるようになったんだ,お前のせいでまたあの子の人生を壊すわけにはいかない」「お父さん,はずきは何も覚えていません,自分が誰なのかも,結婚したことも,子供の父親が誰なのかも」「その方があの子にとってはむしろ幸せなんだ,帰ってくれ」正一が車椅子の車輪を回し,,ドアを閉めようとした,その時だった「お願いします,3年前のあの夜何があったのか知りたいんです」順が必死に叫んだ,何があったかだと,正一が何かを叫び返そうとした瞬間,突然その顔を苦痛に歪めた,ごほごほと激しく咳込み,,胸を強く抑える,手で口を覆ったが,,その指の間からどす黒い血が溢れ出していた,喀血だった,正一の体がぐらりと傾き,,車椅子から崩れ落ちる,順は慌てて正一の体を支えた,救急車を待っている時間はない,順はぐったりとした正一を抱き上げ,自分の車へと走った,自らハンドルを握り,,この町で一番大きな救急病院へと向かった,救急治療室で緊急の検査が行われた,1時間ほど経った頃,,医師が出てきた「ご家族の方ですか? 」「はい,そうです」「肺癌の末期です,すでに全身に転移が進んでいます,もう残された時間は長くはありません」順の頭の中が真っ白になった,その時治療室の廊下を,息を切らせて走ってくる女性の姿が見えた,双子の男の子の手を両手に引いているみ子,,いや,,はずきだった「お父さん,お父さんどこ? 」み子は病室に駆け込んだ「お父さん,しっかりして,どうしてこんなになるまで,み子が正一の手を握って泣きじゃくる,正一が苦しそうにうっすらと目を開けた「み子,泣くな,お父さんには話さなければならないことがある」正一は病室のドアの前に立っている順の姿を認めると,,か細い手で手招きをした「あの人を中に入れてくれ」み子は訝しげな目で順を見つめたが,,父の言う通りにした,順はゆっくりと病室の中に入った,正一が最後の力を振り絞るように口を開いた「み子,,いや,,はずき,,いえ,,お父さん何を言ってるのを,,きっと,,誰? 」「お前の本当の名前だ,お前は桜井はずきだ」み子の目が大きく見開かれた,何を言われているのか全く理解できないという表情だった,正一は順を見つめた「お前に話さなければならない,3年前のあの夜のことだ」正一は途切れ途切れにゆっくりと話し始めた「あの夜,,はずきから電話があったんだ,家に帰ると,だから私が迎えに行った,だがあの子は誰かに追われていた,,男二人が,,ずきを階段から転がり落ちたんだ」順の顔が強張った「頭をひどく打って血を流して,病院に連れて行ったんだが,,そこで分かった,はずきが妊娠していると,3ヶ月だった,,双子だった」み子は呆然と父を見つめていた,まるで他人事のドラマでも聞いているかのようだった「はずきは目覚めた時,何も覚えていなかった,自分の名前も,結婚したことも,妊娠したことも,医師は極度のトラウマのせいだと,,だから新しい名前をつけたんだ,,み子と,,あの苦しみを忘れた方が幸せだと思ったんだ」正一がまた激しく咳込んだ「お父さん,,違う,,お前は桜井はずきだ,そしてあの男は,正一は震える指で順を指さした「お前の夫だ,,その双子の父親だ」み子の顔が真っ白になった,順は何も言えずただ俯いていた,死を目前にした父が何を言っているのだろう,,意識が朦朧として勘違いをしているのだ,み子は必死にそう考えようとした,正一が順の手を握った「わしが死んだら,,哀れなはずきはどうなるんだ?
双子たちは父親が誰かも知らずに,正一の目から涙がこぼれ落ちた「頼む,わしの子供たちを守ってやってくれ」「お約束します,必ず私が守ります」順は正一の手を固く握り返した,正一は微かに笑った,そしてみ子を見つめた「はずき,,父さんすまない,,愛してるよ,,娘よ」「お父さん,,目を閉じないで,,お父さん」み子が父の手を揺さぶった,しかし正一の目はゆっくりと閉じられていった,ピッという無機質な電子音が病室に響き渡る,,心電図モニターが一本の冷たい直線を描いていた「お父さあん」み子の絶叫が,,白く静まり返った病室にいつまでもいつまでも響き渡っていた,正一の葬儀は静かに行われた,順が全ての費用を負担し手配を取り仕切った,み子はそれが申し訳なくて何度も頭を下げた「あの,,本当にありがとうございます,この御恩は必ずお返しします,父の知人の方ですよね,ここまでしていただいて」み子はまだ順が誰なのか分かっていなかった,父が死の間際に残した言葉を信じることができなかった,いや,,信じたくなかったのだ,あまりにも現実離れしすぎていたから,ええ,,昔少しご縁がありまして,,順は正体を明かさなかった,今真実を話したところで,,混乱している彼女が受け入れられるはずがなかった,今はただ静かに彼女のそばにいることしかできない,順は,自分が一人,自分の犯した過ちの大きさを骨身に染みて感じていた,俺がはずきを信じていれば,,あの時彼女の涙を信じ,,手を差し伸べていれば,,こんなことにはならなかった,彼女が記憶を失うことも,,義父がたった一人で苦しみながら死んでいくことも,,そして俺が我が子の存在さえ知らずに,3年も生きてくることも,,全てなかったはずなのだ,その日から順の生活は一変した,会社の経営は信頼できる副社長に一時的に任せ,,毎日あの田舎町を訪れた,ただ遠くから彼女たちの姿を見守るだけだった,午前4時,,順は町の外れに止めた車の中で仮眠から目を覚ます,遠くに見える古びたアパートの一室に明かりが点いた,み子,,もとはずきが起きたのだ,窓の向こうに彼女のシルエットが見える,大きなボウルに小麦粉を入れ,,ベビーカステラの生地をこね始めている,早朝からその日の商売の準備をしているのだ,その健気な姿を順は胸が締めつけられる思いで見つめていた,昼12時,,み子が家から出てきた,,双子の手を左右にしっかりと握っている,近くの公園へ遊びに行くのだろう,子供たちがきゃっきゃと笑い声をあげている,み子も優しい母親の顔で微笑んでいる,順は遠くの電柱の影からその姿を追いかけた,幸せそうな親子の姿だが,,その父親であるべき自分はここにいるのに,,名乗り出ることさえできない,なんという苦しくて残酷な光景だろうか,夜10時,,み子が慌てた様子で家を飛び出してきた,子供を一人背中に背負っている,,近くの薬局へと駆け込んでいった「子ども用の風邪薬をください,いつものお願いします」薬剤師が手慣れた様子で薬を渡した「お子さん大変そうだね」「ええ,,最近寒くなったせいか咳がひどくて」み子が心配そうな顔で子供の背中をさすっている,順は薬局の外の暗がりから,その様子を息を殺して見守っていた,涙が勝手に溢れてきた,俺の子が,,そんなに大きくなったなんて,,それさえも知らなかった,,父親失格だ,,いや,,父親を名乗る資格すらない,ある日のことだった,順がいつものように遠くからみ子を見守っていると,,彼女が家の裏手で重そうなガスボンベを運んでいた,ベビーカステラの屋台で使うものだろう,小さな体で重いボンベを持ち上げようとして,,足を滑らせた,どすんという鈍い音と共にみ子が転んだ,ガスボンベがごろごろと転がっていく,順は反射的に車のドアを開けた,助けてやりたかった,しかし足が動かなかった,彼女は俺のことを知らないのだ,,不審に思われるだけだ,み子はゆっくりと立ち上がった,膝を擦り剥いたのか顔を顰めている,しかし,,何も言わずに再びガスボンベを持ち上げ,,ふらつきながらも家の中へと運んでいった,その姿を見て順は拳を固く握り締めた,俺が,,俺が信じなかったから,,3年前のあの日の光景が鮮やかに蘇える,,泣きながら懇願したはずきの姿,私はやってないわ,,信じて,,しかし自分は偽りの証拠だけを見て彼女に背を向けた,俺が信じていればこんなことには,順の目から後悔の涙が止めどなくこぼれ落ちた,その夜は車の中からみ子の家の窓を見つめていた,小さな窓から温かい光が漏れている,その時,,優しい歌声が聞こえてきた,ねんねんころりよ,,おころりよ,,み子が子守歌を歌った,,優しく温かい声だった,順は慄いた,その子守歌は,,新婚の頃,,はずきが歌ってると約束した歌だった,もし私たちの赤ちゃんが生まれたら,,毎晩子守歌を歌ってあげるわ,,そう言って笑ったはずきの顔が蘇える,順はもう耐えられなかった,車のエンジンをかけ,,その場を去った,涙で前が見えなかった,償わなければならない,,どうやって許しを請えばいいのか分からない,だがその前にやらなければならないことがある,真実を明らかにすることだ,3年前のあの夜,,一体何があったのか,なぜはずきは襲われ,,記憶を失わなければならなかったのか,順は拳を固く握り締めて誓った,今度は逃げない,,必ず真実を明らかにする,,そして君と子供たちを,,俺の人生をかけて守り抜いてみせる,反撃の準備は静かに始まった,順は都内に戻るとすぐにある人物に連絡を取った,以前仕事で知り合った腕利きの私立探偵だった「先日調査していただいた件とは別に,,追加でお願いしたいことがあります」順は私立探偵のオフィスで重く口を開いた「3年前のことです,,私の妻が誰かに追われて階段から転落した,,義父が亡くなる前にそう言っていました,あの夜一体何があったのか調べていただきたい」探偵は静かに頷いた「何年も前となると簡単ではないかもしれませんが,,費用はいくらかかっても構いません,順の目は真剣だった「病院の記録,,監視カメラ,,どんな些細な情報でもいい見つけてください,,そしてその犯人たちが誰の指示で動いたのか突き止めていただきたい」「承知いたしました,,お時間をいただきますが,,全力を尽くしましょう」探偵の調査は困難を極めた,しかし2週間が経った頃,,探偵から連絡があった「会長,,ご報告があります,,直接お伺い致します」しばらくして探偵が順の書斎を訪れ,,分厚い調査報告書の入った封筒を差し出した「簡単ではありませんでしたが見つけました」順は震える手で封筒を開いた,最初に出てきたのは病院の記録だった,3年前のあの夜,,はずきが運び込まれた田舎の産婦人科診療所のカルテのコピーだ,診断名,,頭部外傷性脳震盪,,妊娠3ヶ月,,全て正一が残した言葉通りだった,次は一枚の写真だった,現場近くのコンビニの防犯カメラの映像をキャプチャーしたものだ,画質は荒かったが,,黒い服を着た男二人が必死の形相のはずきを追いかける姿が克明に映っていた「この男たちの身元は二人とも前科者です,,暴行脅迫の前科で,,金で動くチンピラです」そして探偵が別の書類を取り出した「この二人は,,事件当時,,木村達也の法人カードで多額の現金を引き出した記録があります」「木村だと」順の目が大きく見開かれた,藤堂グループの財務担当,,そして義母花世の腹心だ「はい,,さらにあります」安堵がまた別の書類を広げた「社内の匿名の密告です,,当時,,安倍花世,,木村理事が会社の裏金を横領していたと,,その額数億円規模です,,そして奥様桜井はずさんがそのことに気づいたため,,濡れ衣を着せて会社から追い出したという証言です」順の手がわなわなと震えた,予想はしていた,だが,,いざ明らかな事実を突きつけられると,,腹の底から怒りが込み上げてきた「まだあります」探偵の表情が暗くなった「会長,,お亡くなりになったお母様,,鞠子様の件も念のため調べてみました」「母の? 」「はい,,当時の医療記録を入手しましたが,,死亡直前の血中薬物濃度が異常に高かったのです,,処方量の3倍を超えていました」順の顔が強張った「どういうことですか? 」「薬物の過剰投与の疑いです,,つまり自然死ではない可能性があるということです,,そして当時の担当介護士は,,安倍花世さんでした」順は言葉を失った,手が震えて書類を持っていられなくなった,最後に探偵がもう一枚の書類を取り出した「藤堂安造会長の,,ここ3年間の健康診断の記録です,,血液検査の結果ですが,,常に微量の毒物が検出されています,,父にまでは,,はい,,すぐに命に関わる量ではありませんが,,徐々に健康を蝕み,,思考力を奪う種類の薬物です,,誰かが意図的に,,長期間にわたって投与しているものと思われます」順は呆然と椅子に座り込んでいた,頭の中が真っ白になった,安倍花世,,あの女が,,母を殺し,,父を病にさせ,,妻を地獄に突き落とし,,そして自分に嘘をつき続けていたのだ,ありがとうございます,,この資料大切に使わせていただきます,順は書類を手にオフィスを出た,しかし順は知らなかった,その書斎の壁時計の裏に巧妙に隠された盗聴器が,,赤い光を点滅させながら,,今の会話を全て録音していることなど,その夜,,花世は共犯者である木村を呼び出し,,録音した音声ファイルを聞かせた「このままじゃ私たちみんな終わりよ」花世の声がヒステリックに震える「方法があります」木村が冷たい声で言った「あの女と子供たちを捕まえるんです,,人質になるほど」「花世の目に邪悪な光が宿った「自分がいくら証拠を持っていたって,,妻と子供が我々の手にいれば,,下手に動くことはできません,,同時に緊急役員会を招集します,,会長の解任を上程するんです,,すでに半数以上は懐柔済みです」木村は歪んだ笑みを浮かべた「いいわね,,明日の夜に決行だ」全ての証拠を手に入れたその時,,二人の運命が再び激しく交錯しようとしていた,その夜のことだった,み子,,もとはずきは双子を寝かしつけ,,一人台所で皿を洗っていた,父が亡くなってから,,この古いアパートはひどく静かになった,,子供たちの寝息だけが聞こえてくる,その時だった,どーんという凄まじい音と共に,,玄関のドアが破られた,み子は惊いて振り返った,黒い服を着た男二人がずかずかと家の中に押し入ってきた,顔を黒いマスクで覆っている「誰! 」み子が叫んだが,男たちは答えずにじりじりと近づいてくる「静かにしろ,,騒がなければ命だけは助けてやる」一人の男が,,子供たちが寝ている部屋の方へ向かった,その瞬間,,み子の目が大きく見開かれた「だめ,,私の子供たちに触らないで」み子は男の前に両手を広げて立ち塞がった,男は苛立ちげに舌打ちをすると,,み子の体を乱暴に突き飛ばした「うっ」み子は床に強く体を打ち付けた,その瞬間だった,打ち付けた頭の中で何かが閃光のようにひらめいた,数年前のあの夜,,暗闇の中で追いかけてきた男たち,,石段から転がり落ちたあの瞬間,,頭を打ち付けた感じた激しい痛み,,そのバッグをこっちによこせ,,あの時の声と,,今目の前にいる男の声が重なって聞こえた,み子の目の前に,,忘れていたはずの場面が次々とフラッシュバックした,,薄暗い廊下,,会長室の前で聞き耳を立てたあの会話,,あの子は確実に始末しないと,,冷たい眼差しでそう言ったあの女,,安倍花世,,木村達也,,数千個の,,バラバラだったパズルのピースが一気に一つの絵として組み合わさっていくようだった,川沿いの公園で順からもらった熊のぬいぐるみ,,結婚式の日の少し照れたような夫の笑顔,,義母の冷たい眼差し,,役員会での屈辱,,涙で過ごした孤独な夜,,私は,,桜井はずき,その瞬間,,子供たちの部屋からけたたましい泣き声が上がった,男が無理やり子供を抱き上げて出てきた「だめ,,私の子供たちから手を離して」はずきは床から飛び起き,,獣のように男に掴みかかった,その時だった,玄関から順が飛び込んできた,胸騒ぎがしていても立ってもいられず,,はずきの家に駆けつけたのだ「てめえ,,邪魔すんじゃねえ」もう一人の男が隠し持っていた鉄パイプを振り上げた,順は楯のように男の前に立ち塞がった,二人は激しく組み合いになった「はずき,,子供たちを連れて逃げろ」男が渾身の力で鉄パイプを振り下ろした,順はとっさに身をかわそうとしたが,,避けきれず鉄パイプが左肩にめり込んだ,順が痛苦の声を漏らした,しかし彼は歯を食い縛り,,男の足に強烈な蹴りを見舞った,男がバランスを崩して倒れる,その時,,遠くからけたたましいサイレンの音が聞こえてきた,近所の住民が騒ぎに気づいて通報したのだ,男たちは観念したようにその場にへたり込んだ,やがて駆けつけた警察官に男たちは為す術なく捕まった「誰の指示だ?
」刑事の厳しい問いに男はすぐに口を割った「安倍,,花世です,,あの女に金で雇われました」警察が男たちを連行していく,順は血の流れる肩を抑え壁にもたれかかっていた「順さん」はずきが震える声で近づいてきた,順が顔を上げた,はずきの眼差しが変わっていた,もう見知らぬ人を見るあの空っぽの目ではなかった「記憶が戻りました」はずきの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた「さっきあの人たちが子供たちを奪おうとした時,,頭の中で何かが弾けるようだったの,,階段,,暗い,,石段,,誰かに突き落とされたあの瞬間が」はずきは震える手で自分の頭に触れた,順が近づいた「すまない,,本当にすまない,,はずき,,僕が間違っていた,,僕が君を信じなかったから」順の声が途切れた,はずきは力なく首を振った,涙がぽたぽたと床に落ちる「あなたも辛かったでしょう,,私が死んだと思って」二人の手が固く結ばれた,3年というあまりにも長すぎた空白を埋める再会だった,しばらくして,,はずきがはっと目を大きく見開いた「思い出した」はずきは順の手を離し,,部屋の隅にある古い箪笥へとかけ寄った,その上から埃をかぶったあの熊のぬいぐるみを取り出した「このぬいぐるみ,,あなたが最初にくれたもの,,私たちの始まりだったわね」はずきの手が震えていた「ここに全てがあるはずなの,,ここに全部あるの」はずきは震える手で熊のぬいぐるみの背中の縫い目を慎重に解き始めた,中からふわふわの綿が溢れ出す,その奥から指先ほどの小さなメモリーカードが出てきた「あの人たちの不正の証拠,,全部」はずきはその小さなカードをまるで宝物のように固く握り締めた,3年前の最後の夜,,全部ここに入れました,,録音ファイルも,,偽造された書類のデータも,,筆跡鑑定の結果も,,その時,,順のスマートフォンが鳴った,会社の副社長からだった「社長,,大変です,,今緊急役員会が招集されました,,議題は社長の解任案だそうです」「に,,今からか? 」「はい,,安倍花世様が役員を全員集めました,,1時間以内に始まるとのことです」順の顔が強張った,花世が最後の勝負に出てきたのだ「行かなければ,,肩がそんな状態でどうするの? 」はずきが血の滲む順の肩を見て悲痛な声を上げた「今行かなければ全てが終わる,,会社も真実も」順は歯を食い縛って立ち上がった,肩からじわりと血が滲んでいる「私も行くわ」はずきはメモリーカードを固く握り締めた「これがないと駄目でしょう,,一緒に行くわ」順は決意に満ちたはずきの顔をじっと見つめた,そして力強く頷いた「子供たちは隣のおばさんに預けるわ,,少しだけ待ってて」はずきは急いで子供たちを隣人に預け,,すぐに戻ってきた,二人は順の車に乗り込んだ,順が片手でハンドルを握る,怪我をした左肩がずきずきと熱を持っていたんだが,,気にしている余裕はなかった「ごめんなさい」助手席ではずきがぽつりと言った「何年も気づかなくて,,あなたを一人で苦しませて」「僕の方こそ,,すまない,,君を信じられなくて」「もう過ぎたことよ,,今はあいつらを終わらせることが先決だわ」はずきの眼差しは硬く澄んでいた,もはや3年前に怯え追われていた哀れな女性ではなかった,母として,,妻として,,そして一人の人間として,,全てを取り戻すための戦いに挑む,,強い戦士の顔をしていた,藤堂グループの本社ビルに到着した,エレベーターで最上階の役員フロアに上がると,,大会議室の重厚なマホガニーの扉が見えた,中からは喧騒が聞こえてくる,順は一度大きく深呼吸をした,そしてしっかりと視線を交わした「大丈夫? 」「今度は一人じゃない」順が勢いよくドアを開けて中に入った,肩には応急処置で巻かれた血の滲んだ包帯が見える,その姿に役員たちがぎょっとして息を飲んだ,全員が揃っていた,そして上座には安倍花世が不敵な態度で座っている「あら,,順,,その格好どうしたのを,,どこかで喧嘩でもしてきたのかしら」花世があざけるように笑った,順は答えずに自分の席に着いた,その隣にはずきが凛とした態度で立った,その瞬間,,会議室の空気が凍りついた,花世の余裕を浮かべていた顔からさっと血の気が引いた「あ,,あなた,,お久しぶりです,,姑さん」はずきは静かにしかしはっきりとそう言った,記憶が戻っている,,花世はその一言で全てを悟った「あなた,,記憶がなかったはずじゃ」「ええ,,ですが取り戻しました,,姑様がわざわざ送ってくださった使いの方々のおかげで」はずきの声はあくまでも落ち着いていたが,,その瞳は燃えるような怒りの炎を宿していた,会議室の扉を開けた二人を待っていたのは,,敵意に満ちた役員たちと,,勝利を確信する花世の歪んだ笑顔だった,しかし状況は一変した,最後の戦いの火蓋が今切って落とされたのだ,3年間の嘘と偽りに終止符を打つための最後の戦いが「では緊急役員会を始めましょう」花世が同様を隠しながら立ち上がろうとした,その瞬間だった,会議室のドアが再び重もしく開いた,入ってきたのは,,杖をつきながらも自らの足でしっかりと歩く,,藤堂安造会長その人だった「あ,,あなた,,どうしてここに」花世の顔が恐怖に引き攣った「今回の役員会は私も参加させてもらう」安造の声は弱々しかったが,,その眼差しには確固たる決意が宿っていた,薬を変えてから徐々に体力が回復し,,順から全ての真相を聞いた彼は,,最後の力を振り絞ってここに来たのだ,安造はゆっくりと順を見つめた「本当の議題は別にあるのではないか」順は力強く頷き,,立ち上がった,その手にはあの小さなメモリーカードが固く握られている,そしてその隣にはずきが背筋を伸ばして立っていた,3年ぶりにこの屈辱の会議室に再び立ったのだ「父さん,,そして役員の皆さん」順の声が静まり返った会議室に響いた「この中に,,3年間隠されてきた真実が全て入っています」「そう,,それが何だって言うのよ」花世が金切り声を上げた,順は答えずに,,会議室の大型スクリーンに繋がれたパソコンにメモリーカードを差し込んだ,最初に一つの音声ファイルが開かれた,3年前,,会長室で録音されたあの音声ファイルだった,花世と木村の生々しい会話が会議室に響き渡る「今月の流出額は1億円です,,順調に進んでいますよ」「よくやったわ,,でもあの嫁が邪魔ね,,あの子確実に対処しないと」役員たちの顔が見る見るうちに青ざめていく,ひそひそと囁く声が聞こえる「そしてこれです」順が次のファイルを開いた,裏口座の明細,,偽造された契約書,,そして安造会長の署名の筆跡鑑定結果が,,次々とスクリーンに映し出されていった「これらの書類は全て,,安倍花世と木村達也によって捏造されたものです,,会長の署名を偽って会社の金を横領した,,動かぬ証拠です」花世の顔が醜く歪んだ「出鱈目よ,,全部嘘っぱちを出っち上げですか?
」はずきが一歩前に出た「3年前,,私は偶然この証拠を見つけました,,内部監査の資料を整理していて,,そして花様と木村理事が話しているのを聞いたんです,,私を確実に対処しろというその言葉まで」「黙りなさい」花世が狂ったように叫んだ「全部,,あなたが仕組んだことでしょう,,あの口座だってあなたのものだったじゃない,,私が嫁の横領現場を押さえたのよ」「そうですか」はずきは冷たく笑った「ではなぜ,,私を襲ってきた男たちが,,安倍花世に指示されたと自白したのでしょうか? 今夜,,私の家に侵入し,,子供たちを誘拐しようとした犯人たちは,,今警察署にいます」その言葉に花世ははっと息を飲み口を噤んだ,安造が震える手で杖を握りしめ,,ゆっくりと立ち上がった,その顔は怒りと悲しみで青白かった「お前がやったことなのか」花世は唇を震わせるだけで答えられない「私の最初の妻,,鞠子のことも,,お前がやったのか」沈黙が重く会議室にのしかかる,花世の目が絶望的に揺れた,順がまた別の書類のデータをスクリーンに映し出した「父さん,,これは,,母の死亡当時の記録です,,血中薬物濃度が処方量の3倍でした,,当時の介護士は安倍花世さんです」会議室がどよめいた,,役員たちが花世を見る眼差しが侮蔑と嫌悪の色に変わった「そしてこれもです」順が最後の書類を広げた「父さんのここ3年間の血液検査の結果です,,微量の毒物が継続的に検出されていました,,誰かが父さんにも薬を盛っていたんです」安造の顔が絶望に強張った,3年間,,自分がなぜあんなにも無気力で判断力が鈍っていたのか,,今ようやくその理由を理解した「花世」安造の声が震えた「どうして,,お前が,,どうして」花世はもはや何の弁解もできなかった,役員たちが一人,,また一人と席を立ち,,花世から距離を取っていく「会長解任の採決は撤回します」一人の役員がそう宣言した,他の役員たちも次々と頷いた,その時,,会議室のドアが勢いよく開かれた,制服姿の警察官たちがなだれ込んできた「安倍花世,,木村達也,,殺人,,殺人未遂,,業務横領の容疑で緊急逮捕する」警察官が冷たく言い放ち,,手錠を取り出した,花世が後ずさる「そ,,そんな,,私はこの家の奥様なのよ,,権利があります,,弁護士を選任することもできます」警察官が花世の手首に無慈悲に手錠をかけた,話しなさい「藤堂,,桜井はずき,,あんたたち,,ただじゃおかないから,,覚えてなさい」花世は悪態をつきながら連行されていった,木村も力なく項垂れ,,一緒に逮捕された,会議室に静寂が流れた,はずきは順の隣に立ち,,その光景をただじっと見守っていた,何年あまりにも長かった,,不当に追い出され,,記憶を失い,,たった一人で子供たちを育て,,耐えてきた,今ようやくその全てが終わったのだ,はずきの目から涙が止めどなくこぼれ落ちた,順がその潤んだ瞳の手を固く握った「終わったよ,,もう全部終わったんだ」しばらくして裁判が開かれた,鬼畜の毒婦事件としてマスコミも連日大きく報じた,元介護士の義母,,衝撃の犯行,,藤堂家乗っ取り計画の全貌,,3年ぶりに真実が明らかに,,涙の再会を果たした夫婦会長,法廷は毎回傍聴人で埋め尽くされていた「被告人安倍花世は,,藤堂鞠子を薬物過剰投与により殺害し,,桜井はずきに濡れ衣を着せて殺害しようとし,,さらに会社資金を以上横領しました」検察官が厳しい口調で論告を始める,花世は被告人席で最後まで喚き続けた「全部嘘よ,,あの女が全部仕組んだのよ」しかし動かぬ証拠の前には,,もはやどんな言い訳も通用しなかった,裁判長が判決を言い渡した「被告人安倍花世,,殺人,,殺人未遂,,業務横領,,全ての罪により無期懲役を言い渡す,,被告人木村,,共犯として懲役15年を言い渡す」ふざけるな「あんたたち,,ただじゃおかないから」花世は暴れながら法廷係員に引きずり出されていった,順は無言でその姿を見守っていた,隣ではずきがそっと順の手を握った「終わったわね」「ああ,,本当に終わったんだ」裁判が終わり数日後のことだった,はずきは双子を連れて病院を訪れていた,義父の安造が入院していたのだ,長年の薬物投与で体はひどく弱っていた,病室のドアを開けると,,安造がベッドの上で弱々しく微笑んだ「はずきさん,,すまなかった,,私があまりにも愚かだった,,君があんなに苦しんでいるとも知らずに,,鞠子のことも,,許してくれ」安造の目に涙が浮かんでいる,はずきは安造の手を優しく握った「いいえ,,姑様,,姑様も被害者じゃないですか」「ありがとう,,孫たちに会いたいな」「おじいちゃん,,こんにちは」双子がベッドに駆け寄ってきた,安造の顔に明るい笑顔が浮かんだ「おお,,孫たちが来たか」安造は震える手で子供たちをそっと抱きしめた「こんなに可愛い孫たちがいることを,,3年も知らなかったとは」その様子をはずきは温かい気持ちで見守っていた,3年間の闇が開け,,ようやく本当の家族が一つになるような気がした,その後,,はずきは家庭裁判所へ行き,,解免申請書を提出した,鈴木み子から桜井はずきへ,,3年間他人の名前で生きてきた彼女が,,ようやく自分の名前を取り戻す瞬間だった,同じ日,,双子の戸籍も整理された,,父親の欄に藤堂という名前がはっきりと記載された,子供たちも正式に父親を持つことになったのだ,1週間後,,順とはずきは双子を連れて正一の墓を訪れていた「お父さん,,もう全部終わったよ」はずきは墓前に手を合わせ,,静かに語りかけた「お父さんが守ってくれたから,,ここまで来られた,,ありがとう,,お父さん」順も手を合わせた「姑さん,,約束は守ります,,はずきと子供たちは私が必ず守ります」風が爽やかに吹き抜けた,まるで正一が空の上で頷いているかのようだった,春が来た,順は喘息持ちの息子のために,,郊外に特別な家を建てることにした,日の当たる木材をふんだんに使った自然素材の住宅だった「この木が呼吸器にいいらしい」順が設計図を広げながら言った「窓は大きくして換気が良くなるようにしましょう」はずきが隣で一緒に覗き込む,二人は頭を付き合わせて新しい家の設計をした,3年前は冷たい離婚届けの前で背を向けた二人だった,今は一緒に温かい未来を描いている,夏になり,,双子が幼稚園に入園した,初めて父親と手を繋いで登園する日だった「お父さん,,幼稚園って面白い? 」「ああ,,すごく面白いぞ,,友達をたくさん作ってこい」順が子供の手を固く握り,,幼稚園の門の前まで送っていく,はずきも隣で幸せそうに微笑んでいた,そして冬,,新しい家の大きな窓の外から,,静かに雪が舞い始めた,リビングの暖炉の火がぱちぱちと音を立てている,本棚の上には,,あの古びた熊のぬいぐるみがちょこんと置かれていた,全ての真実をその身に抱いていた,,私たちの始まりであり,,希望であったあのぬいぐるみが,3年前雪の降る商店街から始まった,,長く辛い物語が,その雪は今,,新しい家族の始まりを優しく祝福しているかのようだった,今日の物語が心に響いたなら,,大切な方々にシェアしてください,,チャンネル登録と高評価で応援していただき,,どこでこの物語を聞いたかコメントで残してください,その場所で,,あなたが幸せでありますように,,心から願っています。