郵便受けの底に薄茶色の封筒が一枚落ちていた。市役所の隠しが押されたその封筒は、湿気を吸ってわずかに膨らんでいた。倉本茂尾夫は、玄関の引き戸を開けた瞬間にそれを見つけたが、すぐには手を伸ばさなかった。六月の朝の空気が、濡れた土のような匂いを運んでくる。梅雨の合間の静かな朝だった。
彼は毎朝五時半に起きる。目覚まし時計は必要ない。体に刻み込まれた時間が、まぶたを押し上げる。洗面所で顔を洗い、蛇口を閉める前に必ず鏡を一度見る。ぼうっとした眉毛、浅いくぼみ、首のしわ。確認してから、蛇口をきつく閉める。
この朝も、倉本は薄手の作業シャツに袖を通した。百円均一で買ったアイロンで、自分でかけた地味なグレーのシャツ。ボタンは全て止める。袖口も折らない。外に出る前に、玄関の沓脱ぎの上に置いてある竹ぼうきを手に取った。雨上がりの路面には、近くの樹木から落ちた葉が何枚か張り付いていた。倉本はそれを丁寧に掃き、ちりとりに集めた。
この路地を歩く人間はほとんどいない。午前中に一度か二度、配達のトラックが通るくらいだ。それでも倉本は毎朝掃く。誰かに見せるためではなく、ただそうしなければならないという感覚が、長い年月をかけて体に宿っていた。
ぼうきを玄関に戻した時、郵便受けの底の封筒が再び目に入った。倉本はそれを拾い上げた。差出人の欄には、千葉県立山市役所 地域整備課とある。開封する前から、中身が良い知らせでないことくらい分かっていた。市役所からの郵便で、良い知らせが来たことはここ数年一度もなかった。
倉本は引き戸を閉め、玄関の上がりかまちに腰を下ろした。封筒の端を丁寧に指で破いた。中から出てきた書類は三枚。白い紙に、黒い行政文書特有の文字が並んでいた。冒頭の数行を読んで、倉本は目を上げた。
書類にはこう書かれていた。立山市地域公共交通再編計画の一環として、倉本の自宅周辺を走る路線バスが、令和八年八月末日を持って廃止される。代替交通手段として月二回のデマンドタクシーが検討されているが、詳細は未定。市は住民に対し、利便性の高い中心市街地への自主的な移転を推奨する。
倉本は書類を膝の上で広げたまま、しばらくそこに座っていた。梅雨の雨が再び降り始め、軒先を叩く音が規則正しく室内に入り込んできた。バスが廃止される。その一言の重さを、倉本は頭の中でゆっくりと測った。スーパーまでは歩いて三キロ以上ある。病院はさらに遠い。もし車を持っていればそれほど深刻な話ではないが、倉本には免許がない。正確には、三十年前に取得したきり一度も使わず、十五年前に更新を怠って、そのまま失効させていた。
会社員時代は電車と営業車で事足りた。定年後もバスがあった。バスがある限り、自分はここで暮らせると思っていた。
書類の三枚目には、お問い合わせ先として地域整備課の電話番号が記されていた。倉本はその番号を眺めた。電話しても何も変わらないことは分かっていた。行政が一度決めたことは、個人の申し入れで覆えるようなものではない。それは、四十年近く会社員として生きてきた経験が教えてくれていた。上からの決定に対して、現場の人間は実行するだけだ。
倉本は書類をたたみ、封筒に戻した。封筒は台所のテーブルの端に置いた。ラジオ体操の時間になっていた。倉本は窓際に立ち、ラジオのスイッチを入れた。もう二十年使っている古い機種だ。それでも毎朝きちんと音が出る。ピアノの前奏が流れ始めると、倉本は肩幅に足を開き、腕を振り上げた。
窓の外では、雨が本格的に降り出していた。体を動かしながら、倉本は何も考えないようにした。
朝食は、冷蔵庫に残っていた昨夜の味噌汁を温め直したものと、冷凍のご飯をレンジにかけたものだった。塩の多い缶詰の魚を一切れ乗せた。倉本は新聞を読む習慣をやめて三年になる。毎月の購読料が惜しくなったからだ。だから朝食の間は、台所のラジオからニュースが流れるのを聞くだけだった。
食器を洗い、ふきんで流し台を拭いた。倉本は台所仕事を雑にしない。妻の和子が生きていた頃からそうだった。和子が五年前に逝ってからは、むしろ以前より丁寧になったかもしれない。誰も見ていないからこそ、手を抜かない。それが今の倉本の流儀だった。
午前十時過ぎ、倉本はスーパーへ行くことにした。最寄りのバス停まで歩いて五分。バスは一時間に一本だ。倉本は手帳で時刻表を確認し、折りたたみ傘を手に取った。外に出ると、雨は小ぶりになっていたが、やんではいなかった。アスファルトの路面は黒く濡れて光っていた。
バス停の小さなベンチに、倉本より先に一人の老婦人が座っていた。隣の家に長年住んでいる平岡キヨコ、七十二歳の女性だ。倉本とは十五年近い顔なじみだが、深い付き合いをしたことはない。
倉本は「おはようございます」と頭を下げた。平岡は視線を上げ、「あら、倉本さん」と言って小さくうなずいた。二人はしばらく並んで立ったままバスを待った。話題がないわけではなかったが、倉本にはどこから話を切り出すべきか分からなかった。市役所からの封筒のことは、まだ口に出せなかった。
バスが来た。倉本が先に乗り、整理券を引いた。後に続いた平岡は、倉本より後ろに座った。車内には他に二人の乗客がいた。ランドセルを背負った小学生と、ビジネスバッグを持ったサラリーマン風の男性。小学生はバスに乗り慣れていないのか、整理券を引くのを忘れて運転手に注意されていた。
スーパーに近いバス停で倉本は降りた。平岡も同じバス停で降りた。スーパーの自動ドアが開くと、蛍光灯の白い光と冷房の空気が同時に流れ出てきた。平日の午前中、店内は静かだった。買い物かごを手に取った倉本は、まず食料品コーナーを一回りした。予算は決まっている。今日は二千円以内で三日分の食材をそろえなければならない。
牛乳の棚の前で、倉本は同じ容量の牛乳を手に取り、賞味期限を比べた。より日付の遠い方を選んだ。豆腐、水菜、ほうれん草の袋、それから今日の夕食にする半額シールの貼られた弁当を一つ。弁当の値段は三百八十円が百九十円になっていた。
レジに並んだ。前に四人いた。鞄を床に置き、後ろに手を組んで待った。自分の番が来ると、倉本はかごの中の品物をベルトコンベアに一つずつ丁寧に並べた。レジを打っていた若い女性の店員は、画面を見たまま商品をスキャンし続けた。視線を上げることなく、「五百九十三円です」と言った。
倉本は財布から小銭を出した。ちょうどの金額を用意していたが、十円玉を一枚床に落とした。腰をかがめて拾い上げた時、店員はすでに次の客の方を向いていた。
外はまだ雨が降っていた。折りたたみ傘を広げながら、倉本は少しの間バス停の屋根の下で雨宿りをした。時刻表では次のバスまで四十分ある。歩いて帰ることにした。
帰り道の三キロを、倉本は黙々と歩いた。途中、空き家が三軒続いている区間がある。どれも倉本が引っ越してきた三十年前には、まだ人が住んでいた家だ。一軒は窓ガラスが割れ、草が玄関まで伸びている。別の一軒は表札だけが残り、苗字の文字が日焼けで薄くなっていた。もう一軒の空き家の前を通りかかった時、倉本は足を止めた。玄関の前に、ひっくり返った木のプランターが置きっぱなしになっている。中の土はすっかり乾いて縮み、植えてあったはずの草花の枯れがらだけが横たわっていた。
誰かがここに住んでいた証拠が、こうして雨に打たれている。倉本は歩き続けた。
自宅に戻ったのは正午すぎだった。買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、弁当は夕方まで取っておくことにした。台所のテーブルに目が行く。市役所からの封筒がそこにある。倉本はそれを手に取り、もう一度書類を開いた。今度は最初から最後まで読んだ。
「令和八年八月三十一日をもって廃止。代替交通手段については継続的に検討中。市は住民に対し、地域公共交通が充実した市街地への転居を積極的に推奨する」
「推奨する」という表現が倉本の目に引っかかった。推奨というのは、従いなさいということだ。やわらかい言葉で包まれているが、中身は同じだ。この土地を出ていけ。あなたのような人間のために交通を維持するほどの人口が、ここにはもうないのだから。
倉本はゆっくりと書類をたたんだ。
昼食は簡単に済ませた。昨夜の残りご飯に熱湯をかけ、梅干しを一粒乗せた。それを食べながら倉本は窓の外の雨を眺めていた。隣の平岡の家の屋根から、雨水が流れ落ちるのが見えた。平岡の庭には、今も野菜が几帳面に並んでいる。
午後になっても雨は止まなかった。倉本は押し入れから古い文庫本を取り出し、読み始めた。内容は頭に入らなかった。ページをめくりながら、視線だけが文字の上を滑っていった。
三時頃、倉本は縁側に腰掛けた。庭は狭く、手入れしてあるとも言いがたいが、隅に一本の柿の木がある。今年も青い実が少しずつ大きくなってきていた。和子が若い頃に植えた木だ。倉本はその木を切ろうと思ったことはない。ただそこにあればいい。そういう感覚だった。
夕方四時過ぎ、隣の平岡の家の前に見慣れない白い車が止まった。倉本は縁側から首を伸ばしてみた。車のボディに社名のロゴは入っていない。運送会社でも業者でもなく、個人の車のように見えた。ドアが開き、スーツを着た三十代くらいの男性が降りてきた。男性は玄関のインターホンを押した。ほどなくして、平岡がエプロン姿で出てきた。男性は深々と頭を下げた。二人は玄関の前でしばらく話し、それから男性は車のトランクを開け始めた。
男性が車から取り出したのは、折りたたみのダンボール箱と梱包テープだった。隣の家の引っ越し作業は、夕方から夜にかけて静かに進んだ。荷物はそれほど多くなかった。男性一人で運べる程度のものが、ダンボール箱八個と布団袋二つ分だった。
倉本は縁側から時折りその様子を眺めた。立って見ていることへの後ろめたさがあったので、見ているとも言えず、かと言って目をそらすこともできなかった。
午後七時頃、車への積み込みがほぼ終わった。平岡は薄いジャケットを羽織り、鍵を手に持って玄関に立った。男性が最後の箱を積み終えると、平岡は一度振り返り、玄関の引き戸を閉めた。
倉本は縁側から立ち上がり、玄関に向かった。引き戸を開けて外に出ると、足元の濡れたアスファルトの冷たさが靴下越しに伝わってきた。平岡は車のドアが閉まる音を聞いて振り返った。倉本の方を見た瞬間、彼女の表情が止まった。笑顔でも悲しみでもなく、ただ「ああ」という顔だった。
二人の間に十メートルほどの距離があった。倉本は深く頭を下げた。こういう時、何を言えばいいか分からなかった。「長い間お世話になりました」とか「どうかお体に気をつけて」という言葉はあったが、それを口に出すには喉の奥が固まっていた。
平岡も頭を下げた。無言のまま、車のドアが開く音がした。男性が運転席に乗り込んでいる。平岡はドアに手をかけた。車のエンジンがかかった。ヘッドライトが倉本の方向に光を当て、それからゆっくりと方向を変えた。テールランプの赤い光が、路地の先に消えていった。
エンジン音が完全に聞こえなくなるまで、倉本はその場に立っていた。雨はまだ降っていた。軒のない場所に立っていたので、肩と頭が濡れた。倉本はそれを気にしなかった。湿った夜の空気の中に、エンジンの残り香のような気配だけが残っていた。
倉本は屋内に戻った。電気をつけていない廊下を歩き、台所に入った。弁当を冷蔵庫から出し、ラップを外した。電子レンジに入れ、タイマーを二分にセットした。チンという音がして扉を開けると、卵焼きと白飯の端が少し乾いていた。倉本は箸を取り、一人でテーブルについた。電気をつけた台所は、外の暗さに比べて明るすぎた。窓に自分の顔が映る。倉本はその顔を見ないようにして、弁当を食べた。
平岡の家は今夜から無人になる。この路地で、今夜から夜が来るたびに、あの家の窓は暗いままだ。朝になっても、平岡の庭の野菜に水をやる人間はいない。雨が降れば多少は潤うだろうが、梅雨が明けたら、鉢の中の土はひどく乾くだろう。
倉本は卵焼きを一切れ口に運んだ。少し甘かった。和子は甘い卵焼きを好んで作っていた。スーパーの弁当の卵焼きは、もっと砂糖が多い。同じ甘さではないが、倉本の口の中で何かがわずかに揺れた。箸を置き、茶を一口飲んだ。
台所の窓から、雨の音だけが聞こえた。平岡の家の方向から、今は何も聞こえない。ただ雨が隣の屋根に落ちる音と、この家の屋根に落ちる音が、区別なく耳に届いた。
倉本は弁当の容器を丁寧に洗い、資源ゴミの袋に入れた。ふきんで台を拭いた。湯を沸かし、茶碗に茶を入れた。一人の夜の作業を、一つずつこなした。
眠る前に、倉本はもう一度台所のテーブルに置いてある封筒を見た。手に取ることはしなかった。ただそこにあるものとして、一秒ほど目を向けた。電気を消して布団に入った。暗い天井を見上げた。隣の家は静かだった。これまでも夜に平岡と言葉を交わすことはほとんどなかったのに、今夜は静けさの質が違った。壁一枚向こうに人の気配があることとないことでは、同じ沈黙でも重さが違う。
六月の雨が屋根を叩き続けた。倉本はまぶたを閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。ただ目を閉じることと眠ることの間に、今夜は長い時間が横たわっていた。
転入届の用紙に名前を書く時、倉本茂の手が一瞬止まった。ペンの先が紙に触れたまま、インクがにじんで小さな点ができた。住所欄に書くべき新しい場所の名前を、倉本は頭の中で一度確認した。埼玉県川口市柴町四丁目十二番地 桜川台二百四号室。そこがこれからの自分の住所だ。ペンを動かした。字は乱れなかった。
八月の半ば、倉本は千葉の家を引き払った。荷物はそれほど多くなかった。三十年近く住んだ家だったが、年を重ねるにつれて物は減っていた。和子が死んでからは特に、二人で使っていたものを少しずつ処分してきた。残ったのは衣類の入ったダンボール箱が四つ、台所道具の箱が二つ、あとは和子の写真が一枚入った小さな木の箱と、使い古したラジオだけだった。
引っ越し業者は頼まなかった。トラックを一日だけレンタルして、近所に住む親戚の息子に手伝いを頼んだ。その息子は二時間で荷物を積み込み、昼前に川口まで走ってくれた。荷物を下ろし終えると、息子はすぐに帰って行った。
空になった千葉の家を最後に一回りしたのは、荷物を出した後だった。倉本は各部屋を順番に歩いた。六畳の和室、上がり框、台所、廊下、縁側。畳は日焼けで色があせていた。縁側の木の床板は、一箇所だけ踏むとわずかに沈む。そのへこみの場所を倉本は覚えていた。和子がまだ元気だった頃、夜中にトイレへ行く時、その場所を踏むと音がして和子が目を覚ますことがあった。倉本は廊下の端を歩くようになり、それがいつの間にか癖になった。その癖が、和子がいなくなった後も体に残っていた。
倉本は縁側の引き戸を開けて、庭の柿の木を見た。青い実がいくつか枝に残っていた。秋になれば色づくはずだったが、その秋を倉本はここで迎えない。木を見たまま、倉本は長い間立っていた。何かを言おうとしたわけではなかった。ただ見ておきたかっただけだ。
引き戸を閉め、鍵をかけた。玄関を出て鍵を、市役所の封筒に入った書類に挟んだままにしておいた。市の担当者が後から回収することになっていた。
路地に出ると、平岡の家の窓は閉まったままだった。庭の野菜は、梅雨明けから誰にも水をやられずに枯れ始めていた。プランターの縁から枯れた葉が一枚だけはみ出して、風に揺れていた。倉本はその前を通りすぎた。振り返らなかった。
川口の新居に着いたのは昼過ぎだった。桜川台はJR川口駅から歩いて二十分ほどの場所にある四階建ての団地だ。外壁はかつてクリーム色だったと思われるが、今は雨じみと排気ガスによる黒ずみが縦線を作っている。エレベーターはない。二階までの外廊下の手すりは錆が浮き、所々塗装がはげて茶色の地金が露出していた。
二百四号室は、その外廊下の突き当たりにあった。ドアを開けると、六畳一間と小さな台所、それにユニットバスという間取りだった。押し入れが一つ。窓は東向きで、すぐ目の前に線路が走っている。窓ガラスは二重ではなく、外の音がそのまま室内に入り込んできた。
倉本は荷物を部屋の中央に積み上げ、しばらくそのまま立っていた。六畳の畳は継ぎ目が浮き上がり、表面は日焼けを通り越してほとんど灰色になっていた。天井の蛍光灯のカバーには、虫の死骸がたまっていた。
窓の外から電車の音が聞こえた。ガタンガタンという規則的な音と、線路が軋むことで生じる高い金属音が混ざり合って、一気に室内を満たした。振動が窓枠を通じて床まで伝わり、積み上げたダンボール箱がわずかに揺れた。
音が遠ざかった後、倉本はダンボール箱を一つ開けた。台所道具が入っている箱だ。鍋、フライパン、菜箸、それに軽量カップ。一つずつ出して、台所の棚に並べた。食器も出した。向こうの家で使っていた白い茶碗と湯のみが二客ずつ。なぜ二客のままにしているのか、自分でも分かっていなかった。捨てるに捨てられず、今日ここまで運んできてしまっていた。
片付けの途中で夕方になった。倉本は近くのコンビニエンスストアを探して外へ出た。桜川台の前の通りは片側一車線で、夕方の時間帯はトラックと乗用車がつながりになっていた。排気ガスの匂いが漂う。自転車と歩行者が危なっかしくすれ違っていた。
千葉の路地の静けさとは正反対の場所だと倉本は思った。だからと言って、都会の賑やかさが好ましく感じられるわけでもなかった。ただここが自分の新しい場所だという事実があるだけだった。
コンビニで弁当と缶ビールを一本買った。缶ビールを買ったのは久しぶりだった。引っ越しだからという理由を、倉本は自分に向けて心の中でつぶやいた。本当の理由は別のところにある気がしたが、それを掘り下げる気にはなれなかった。
部屋に戻り、ダンボール箱の上に弁当を置いて食べた。椅子はまだ出していなかったので、床に直接座った。畳の上に座ることには慣れているが、この畳はどこか居心地が悪い。前の住人の生活の気配が、繊維の中にまだ残っているのかもしれなかった。缶ビールを一口飲んだ。冷えていた。
翌朝、倉本は五時半に目を覚ました。布団は昨夜敷いたが、慣れない場所のせいか、一度も深く眠れた感覚がなかった。天井のシミを数えながら夜を過ごし、夜明け前にようやく少しだけ眠ったと思ったら、六時十二分に電車が通ってそのまま目が覚めた。電車は昨夜の想像より騒音が大きかった。窓ガラスがビリビリとなり、天井の蛍光灯がわずかに揺れた。
洗顔してラジオ体操をした。狭い部屋で腕を伸ばすと、指先が壁に当たりそうになった。それでも体操はやった。やらなければならないという感覚が、今朝も体の中にあった。
この日の午前中は、区役所へ行かなければならなかった。転入届の提出期限は、転入から十四日以内だ。倉本はその書類を、前夜のうちに鞄に入れておいた。マイナンバーカード、転出届、それに印鑑。倉本は、役所関係の書類を扱う時は必ず印鑑を自宅に置いてあるか確認する。若い頃一度だけ印鑑を忘れて出直しになった経験があり、それ以来の習慣だ。
川口市役所は、最寄り駅から歩いて十分ほどの場所にある。倉本は地図アプリを持っていないので、昨夜コンビニで買った地図のコピーを頼りに歩いた。コンビニで印刷した地図は縮尺が大きすぎて、細い路地が読み取れず、一度だけ曲がる場所を間違えた。気づいたのは三分ほど歩いた後で、来た道を戻り、正しい方向へ歩き直した。八月の日差しは容赦なかった。倉本はハンカチで額の汗を拭いながら歩いた。
市役所の自動ドアをくぐると、冷房の空気が一気に流れ込んできた。一階のロビーには案内板が立っている。倉本は発券機の前で立ち止まり、転入届と書かれたボタンを押した。A四十七番という番号票が出てきた。表示板にはA三十一番が表示されていた。倉本は待合いの椅子に座った。
番号が呼ばれるまでの間、倉本は周囲を見回した。同じように待っている人が十数人いた。ベビーカーを押した若い母親、スマートフォンを見ている男性、杖をついた老人。誰も互いに話をしない。番号が呼ばれるたびに一人が立ち上がり、窓口へ向かう。窓口の職員がキーボードを叩く音と、書類をめくる音が規則正しく響いていた。
「四十七番」とスピーカーが読んだ。倉本は立ち上がり、四番窓口へ向かった。窓口には三十代くらいの女性の職員が座っていた。眼鏡をかけ、髪を後ろでまとめている。倉本は転出届と転入届の用紙をカウンターに置き、マイナンバーカードを添えた。職員は書類を手に取り、目を落とした。それから画面に向かって何かを入力し始めた。
数分後、職員は顔を上げずに言った。「保険証のお切り替えはご希望ですか。」倉本は「そうです」と答えた。職員はさらに何かを入力し、別の書類を一枚カウンターに出した。「こちらにご記入ください」と言って、引き出しからボールペンを出した。
倉本は書類を手に取った。国民健康保険の加入申請書だった。氏名、住所、生年月日、世帯の状況。倉本は一行ずつ丁寧に記入した。年金番号の欄で手が止まった。番号は手帳に控えてあったが、その手帳は鞄の中だ。倉本は鞄を膝の上に置き、手帳を出して番号を確認し、書類に記入した。
書類を返すと、職員は再び画面に向かった。しばらくして、別の書類がカウンターに出てきた。「年金の住所変更の件ですが、こちらは年金事務所への届け出が必要です」
倉本は「年金事務所」という言葉を聞いて、今日できる作業の量を頭の中で計算し直した。川口の年金事務所はここから歩いて十五分の場所にあると、職員は地図入りの案内用紙を一枚出した。「受付時間は午後四時までです」と言った。時刻は午前十一時を過ぎていた。
手続きが終わったのは、窓口に座ってから五十分後だった。ロビーを出ると、外の熱気がすぐに体を包んだ。倉本は案内用紙の地図を確認し、年金事務所へ向かった。途中、自動販売機の前で立ち止まり、百円のコーヒーを買った。ブラックを押したつもりが、ミルク入りが出てきた。返却ボタンはない。倉本はそのままミルク入りのコーヒーを飲みながら歩いた。
年金事務所の入り口には、整理券を発行する機械があった。今度はB二十二番だった。待ち人数は七人。倉本は再び椅子に座った。この窓口を担当していたのは、五十代くらいの男性職員だった。額が広く、声が低く、話し方は丁寧だったが、目線はほとんど書類の上に向いていた。
倉本が転居の事実を告げると、職員は画面に向かって何かを確認し、住所変更の届け出用紙を出した。「記入してください」倉本は記入した。「確認してまいります」と言って、職員は一度奥へ消えた。
五分後に戻ってきた職員は、少し難しい顔をしていた。「倉本さん、少し確認させていただきたいことがありまして」と言った。倉本の年金の受給口座が、旧姓のある銀行の支店になっているので、口座情報の確認書類が必要だという。「通帳かキャッシュカードをお持ちですか。」
倉本は鞄の中を探った。通帳は自宅に置いてきた。それは、荷物の中のダンボール箱の中にある。鞄には持ってきていなかった。倉本は静かに言った。「今日は持参しておりませんでした」
職員は「それでは、口座変更のお手続きだけ別途お願いすることになります」と言い、書類をもう一枚出した。「こちらを郵送いただくか、通帳をお持ちの上また窓口にお越しください」倉本はその書類を受け取った。「了解しました」と言った。
もう一度来なければならない。足を運ぶたびに交通費がかかる。川口駅まで行って市役所まで歩けば交通費はかからないが、年金事務所はもう少し離れているので、バスに乗る必要がある。百七十円、往復で三百四十円。倉本はその計算を頭の中でした。それについては何も言わなかった。
年金事務所を出たのは午後一時を過ぎていた。倉本はスーパーによることにした。新居の近くに、使えるスーパーがどこにあるかを把握しておく必要があった。年金事務所の近くにチェーンのスーパーがあるのを、来る時に見かけていた。入ってみると、千葉のスーパーより品揃えは多かったが、値段もやや高かった。倉本は豆腐と卵と納豆をかごに入れ、それから半額シールの貼られた唐揚げのパックを一つ選んだ。
レジに並んだ。前に五人いた。「こちらのスーパーのカードはお持ちですか」とレジの女性に聞かれた。倉本は「いいえ」と答えた。「お作りになりますか。」「いいえ、結構です。」「ポイントがついてお得ですよ。」倉本はもう一度「いいえ」と言った。女性は特に気分を害した様子もなく、商品をスキャンし続けた。
倉本は財布から小銭を出した。今日は千葉のスーパーと違って、店員は手を止めて倉本の方を見ていた。それは親切というよりも、次の客がいるのに早くしてほしいという意味の視線に感じられた。倉本はできるだけ早く小銭を数えた。
帰り道に、倉本は団地の前の道をゆっくり歩いた。桜川台の建物を外から改めて見た。四階建て、各階に六部屋。一番端の部屋の前に、プランターが一つ置かれていた。緑のハーブのような植物が茂っている。二階の一室では、昼間でもカーテンが引かれていた。三階の一室では、物干しに大量の洗濯物が干されており、風でシーツがひっくり返って手すりにかかっていた。建物そのものは古びているが、人が暮らしている気配はあった。
二百四号室のドアを開けると、昨夜の弁当容器が台所のゴミ箱に入ったままだった。まだ荷物の半分はダンボールの中だ。倉本は上着を脱いでハンガーにかけ、台所に立った。冷蔵庫はまだ中身がほとんど入っていなかった。買ってきた豆腐と卵と納豆を並べた。昼食は遅くなったが、米をといで炊き、豆腐の味噌汁を作った。新しい台所のコンロは千葉のものより火力が弱く、湯が湧くまでに時間がかかった。
味噌汁を飲みながら、倉本はぼんやりと窓の外を見た。窓から線路が見える。電車が通るたびに、窓ガラスが低い音で震えた。
夕方になって、倉本は残りのダンボール箱を開け始めた。衣類の箱を開けると、たたんだシャツが六枚出てきた。そのうちの二枚は、袖口が擦り切れかけていた。それでも処分できずに持ってきてしまっていた。倉本はシャツを一枚一枚広げ、押し入れにかけた。ハンガーは六本しか持っておらず、二枚分は折りたたんで棚に積んだ。
小さな木の箱をダンボールから出した時、倉本は少しだけ慎重に扱った。中には和子の写真が入っている。写真は一枚だけ持ってきた。旅先で撮った写真で、和子が笑っている。どこで撮ったものか、倉本は今では思い出せない。それでもこの一枚だけは手放せなかった。押し入れの棚の端に、木の箱をそっと置いた。
夜の七時頃、スマートフォンの着信音が鳴った。娘の杉山ゆり子からだった。倉本は画面を見て、少しの間だけ待ってから電話を出た。「父さん、もう引っ越しは終わった」ゆり子の声は落ち着いていた。感情の起伏の少ない声だった。倉本は「ああ、昨日着いたよ」と答えた。「荷物はそんなに多くなかったから、自分で運んだよ」「そう」とゆり子は言った。それから短い沈黙があった。「近いんだから、落ち着いたら顔を出すよ」とゆり子が言った。「うん」「忙しいんだろうから、無理しなくていい」「いいや。行くよ」とゆり子は言ったが、それ以上の具体的な話はなかった。電話は五分と経たずに終わった。
倉本は電話を置いて、缶ビールを冷蔵庫から出した。昼に買った缶ビールの残りが一本あった。プルタブを開けて、床に座って飲んだ。電気はつけていた。ダンボール箱がまだ二つ。開封されないまま、部屋の隅に積まれていた。
九時前に布団を敷いた。昨夜より体は疲れていたはずなのに、目が覚めた時の感覚に慣れが生まれていなかった。天井のシミ、線路の音、時折り廊下を通る上の階の住人の足音。どれもが異質だった。慣れるには時間がかかる。倉本は目を閉じた。
翌週末、ゆり子が来た。土曜日の午後二時頃だった。インターホンが鳴り、倉本がドアを開けると、ゆり子がコンビニの袋を下げて立っていた。紺色のジャケットに黒いパンツ、仕事帰りのような格好だった。今日は休日のはずだが、倉本は思ったが口に出さなかった。ゆり子は、ドアのところに立ったまま靴を脱がなかった。
袋の中から、緑茶のペットボトルが三本と、レトルトのカレーが四袋、それに缶詰が何本かが出てきた。玄関の沓脱ぎのところに置いた。倉本は「ありがとう」と言った。ゆり子は「お父さん」と言いかけて、部屋の中を少し見渡した。「狭いな」と言った。倉本は「これで十分だよ」と答えた。
ゆり子の目の下には、くっきりとくまができていた。前に会った時より、頬が少しこけていた。倉本はそれを見たが、言わなかった。娘がどういう状態にあるかを、父親として尋ねる言葉が見つからなかった。聞いてどうなるという気持ちもあった。ゆり子は不器用な性格だ。幼い頃から、泣きたい時でも人前では泣かなかった。
立ち話のまま、ゆり子はこう言った。「お父さん、体の具合は大丈夫? 近くに病院とか調べてある?」「まだだよ」と倉本は答えた。ゆり子は少し間を置いて、「調べておいた方がいいよ」と言った。「うん」と倉本は言った。それから、「会社のことで最近忙しくて」とゆり子は言った。「なかなかこっちに来られないと思うけど」倉本はうなずいた。「いいよ、気にするな」と言った。ゆり子は小さくうなずいた。玄関口に置いた袋を倉本が持ち上げようとすると、ゆり子は先に手を出して、それを台所のカウンターの上に置いた。それが、ゆり子の部屋への唯一の侵入だった。台所のカウンターの上にレトルトと缶詰を並べ、すぐに玄関へ戻ってきた。「じゃあ」とゆり子は言った。
倉本は玄関の外まで出た。外廊下の端に立って、ゆり子が階段を降りていくのを見た。ゆり子は一度も振り返らなかった。階段を降りる足音が遠ざかり、外廊下の出口の扉が開く音がして、それが閉まる音がした。倉本は外廊下の手すりに両手を置いた。錆と塗装の感触が手のひらに伝わった。下を見ると、ゆり子が自転車に乗って駐輪場から出るところだった。ヘルメットをかぶり、ペダルをこいで道路に出た。角を曲がって見えなくなるまで、倉本はそこに立っていた。
五十分で来て、十五分もいなかった。部屋に戻り、倉本は台所の棚の上にゆり子が置いていったレトルトを見た。カレー四袋、スープ三袋、魚の水煮の缶詰が二つ。並べ方が不揃いだった。ゆり子はいつもそうだ。並べることよりも、置くことを優先する。倉本はそれを一度整え直した。同じ種類のものをまとめて、缶詰は向きをそろえた。カレーの袋を一枚手に取った。「よく食べろ」ということだろう。という気持ちと、「それだけか」という気持ちが同時にあった。倉本は袋を棚に戻した。
夕方、倉本は米を炊いた。冷凍庫に残っていたご飯があったが、今日は新しく炊いた方がいい気がした。米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れ、その間にサバの味噌煮の缶を開けた。缶の汁が指にかかり、倉本はふきんで拭いた。炊き上がった米をよそい、一人で夕食を取った。電気をつけた台所は、夜になると明るすぎる。窓に自分の顔が映る。倉本はその顔をできるだけ見ないようにして食べた。サバの味噌煮は甘辛く、ご飯が進んだ。食べながら電車が一本通った。窓ガラスが震え、茶碗の中の汁が揺れた。
食器を洗い、台所を片付け、電気を消した。暗い部屋で布団に横になった。隣の部屋から、誰かが来る足音がして、ドアが開いたり閉まったりする音がした。子供の声が壁越しに聞こえた。それは短く、すぐに静かになった。倉本は天井を見た。暗くて、シミの位置は分からない。電車の音が遠くから聞こえてきて、次第に大きくなり、建物の真横を通りすぎて、遠ざかっていった。その音が収まった後の静けさは、千葉の夜の静けさとは質が違った。千葉の夜は、物音がないことが静けさだった。ここの夜は、次の電車が来るまでの間の静けさだ。
どちらが寂しいかを考えようとして、倉本はそれをやめた。そういうことを考えるのは、眠れなくなるだけだ。倉本は目を閉じた。ゆり子の顔が浮かんだ。目の下のくまの色、ほおのこけ。何かを言いたかったのか、言えなかったのか、自分でも分かっていない。ただゆり子はここに来て、缶詰と茶を置いて、帰って行った。それが今夜、この場所にある事実の全てだった。次の電車が来るまでの静けさの中で、倉本はゆっくりと眠りの方へ引き込まれていった。
封筒の中には、三枚の書類と一枚の返信用はがきが入っていた。差出人は、千葉県立山市役所 建築指導課とある。倉本茂尾夫は台所のテーブルに腰を下ろし、書類を広げた。外は十月の雨が降っていた。桜川台の窓から見える線路の上を、貨物列車がゆっくりと通りすぎていった。金属と金属がすれ合う低い音が室内まで届き、テーブルの上に置いたコップがわずかに揺れた。
書類の表紙には、「特定空家等にかかる措置についての通知」と書かれていた。文を読み進めるうち、倉本の手が止まった。千葉の旧宅が、令和六年に施行された改正空家対策特別措置法に基づき、管理不全空家に認定されたという。近隣から「屋根の一部に崩落の兆候あり」の報告があり、現地調査の結果、倒壊の危険性があると判断された。所有者である倉本茂のに対し、令和八年十二月末日までに建物の解体を求める。解体費用は所有者負担とする。期限までに対応が確認できない場合は、行政代執行を実施し、その費用は地方自治法に基づき所有者に全額請求する。
推定費用の欄に、数字が記されていた。「百四十八万円」と書いてあった。
倉本はその数字を三度読んだ。一度目は意味が分からなかった。文字は読めているのに、数字の重さが頭の中に入ってこなかった。二度目は計算が合わないと思った。三度目に、これは現実に自分に突きつけられた数字だと理解した。百四十八万という数字が、紙の上で黒く動かずにいた。
現在の預金残高は六十三万円だ。毎月の年金受給額は八万四千円。家賃は四万二千円。光熱費と食費を差し引くと、月末に残るのは多くて一万五千円だ。百四十八万円は、このまま何もしなければ、七年以上かかる計算になる。しかし解体の期限は、十二月末。二ヶ月後だ。
数字と期限の間に立ちふさがるものを、倉本は頭の中で一つずつ並べてみた。どれも答えにならなかった。倉本はしばらく動かなかった。雨が窓を叩く音だけが、室内に満ちていた。
選択肢を頭の中で並べた。銀行から借りる。しかし担保になるものがない。土地はあるが、千葉の郊外の土地に担保価値があるとは思えなかった。ましてや、その土地に立つのは、解体を命じられた建物だ。消費者金融は使いたくなかった。それは倉本の中で最後の一線だった。論理的な理由ではなく、そこだけは踏み越えてはならないという感覚が、長年の間に倉本の中に形成されていた。
では、誰かに頼むか。親戚はいない。倉本は一人っ子で、両親はとうに亡くなっていた。和子の親族とは、以来一度も会っていない。友人と呼べる人間は、この年になると指で数えるほどしかおらず、その誰にも金の無心などできる間柄ではなかった。かつての同僚たちとも、会社が潰れた後は連絡が途えていた。
残るのはゆり子だ。
倉本は長い間、畳を見つめた。ゆり子に頼む。娘に金を借りる。それがどういうことか、倉本は分かっていた。四十年間、家族の前で弱みを見せたことがない男が、娘の前で両手を差し出す。その絵を頭の中で描いてみて、倉本は口の中に苦いものが広がるのを感じた。だが、それしかない。
倉本は返信用はがきを手に取り、一度だけ裏表を確認した。それからテーブルの端に置き、立ち上がった。台所の流し台の前に立ち、コップに水を注いで飲んだ。水は冷たかった。蛇口を閉め、ふきんで流し台を拭いた。何かをしていないと、頭の中で数字が動き続けるような気がした。
ゆり子の住むマンションへ、倉本は事前に電話をしなかった。理由は自分でも説明しにくかった。電話をすれば、ゆり子は何かを察して断るかもしれない。あるいは電話の中で話してしまえば、実際に顔を見て話す機会を失うかもしれない。倉本は対面でしか話せないことがある。電話の向こうの声だけでは、相手の表情が見えない。表情が見えないと、何をどこまで言っていいか判断できない。長い会社員生活の中で、倉本が学んだことの一つだった。大事な話は、必ず顔を見てする。
翌朝、倉本は電車に乗った。ゆり子の住所は、東京都北区赤羽だ。川口から赤羽は、電車で十分もかからない。それが川口の桜川台を選んだ理由の一つでもあった。近くに娘がいるという事実があれば、この先何かあっても少し安心できると思っていた。しかし、娘の近くに引っ越してきてから二ヶ月が経つのに、ゆり子に会ったのは一度しかない。距離が頻繁に会う理由にはならない。そういうものだと、倉本は自分に言い聞かせていた。
駅を降り、改札を出た。地図は頭に入っている。ゆり子の最寄りのバス停まで歩き、そこから五分ほどの住所だ。倉本は十月の冷えた空気の中を歩いた。コートはまだ出していなかった。薄手のジャケットの前を閉めながら歩いた。街路樹の葉が色づき始め、歩道に落ち葉が数枚ついていた。
ゆり子のマンションは、住宅街の細い路地に面した五階建ての建物だった。数年ほどか、外観は比較的きれいに保たれていた。オートロックのエントランスの脇に、郵便受けが並んでいる。倉本はその郵便受けの列を見た。「三〇五」とゆり子から聞いている。郵便受けの「三〇五」のプレートに目を向けた時、倉本は足を止めた。
プレートには、二つの苗字が書かれていた。一つは「杉山」。もう一つは、別の苗字だ。しかし、杉山の上に、黒いマジックで太い線が引かれていた。プレートをよく見ると、もう一方の苗字も同様に線で消されている。つまり二つの苗字がどちらも消されており、現在は何も書かれていないのと同じ状態だった。
倉本はしばらく、そのプレートを見た。消し方は丁寧ではなかった。急いでいたか、あるいは感情的になっていたか、どちらかのように見えた。マジックの線は少し歪んでいた。引いた人間の手が、まっすぐ保てないくらいの状態だったのかもしれない。倉本はそこまで考えて、その先を考えることをやめた。
オートロックのインターホンを押した。番号を入力して、呼び出しボタンを押した。応答がなかった。もう一度押した。やはり応答がなかった。出勤しているのか、あるいは留守か、どちらかは分からない。倉本は少し離れた場所で待つことにした。マンションの前の路地沿いに植込みがある。その前の縁石に腰を下ろした。時刻は午前十一時を過ぎていた。秋の日が低く差し込んできた。ジャケットの上から日が当たると、少し暖かかった。
倉本は縁石に座ったまま、時折り通りすぎる人を見た。ランニングウェアの女性、スーパーの袋を下げた年配の男性、子供を自転車の後ろに乗せた母親。誰も倉本を見ない。路地に座っている老人は、この町では風景の一部だった。
エントランスの扉が内側から開いて、ゆり子が出てきたのは、倉本が縁石に座ってから三十五分後だった。ゆり子はカジュアルなジャケットを着て、トートバッグを肩にかけていた。外出するところだったらしい。足元はスニーカーで、髪は後ろでざっくりとまとめてあった。仕事に出る格好ではなく、近所へ買い物に行く格好だった。
ゆり子は、植込みの前に座っている倉本を見て、一瞬体が固まった。「お父さん」とゆり子は言った。声に感情がなかった。倉本は立ち上がり、少し頭を下げた。「突然来てしまってすまない」と言った。ゆり子は周囲をさっと見回した。何かを確認するような素早い動作だった。倉本にはその意味が分からなかった。誰かに見られることを気にしているのか、あるいは他に誰かがいるかどうかを確認しているのか、判断できなかった。
ゆり子は少しだけ間を置いた後で、「上がっていって」と言った。声は低く、感情の起伏が少なかった。倉本はうなずいた。
エレベーターで上へ上がり、三百五号室のドアを開けると、最初に鼻をついたのは、締め切った室内の空気の匂いだった。窓を開けていない部屋の匂い。それと、何かが腐りかけているような、わずかに甘い酸っぱさが混じっていた。台所の生ゴミか、あるいは流し台の排水溝か。倉本は玄関から部屋の中を見た。
リビングのテーブルの上に、空の缶が三本立っていた。発泡酒の缶だ。その隣に、食べかけのカップ麺の容器が一つ。スープが半分以上残っているが、すでに冷えていた。床には紙袋が二つ倒れており、中から領収書のような紙が数枚飛び出ていた。ソファの背もたれには薄いカーディガンがかかっており、その下にクレジットカードの明細らしい封筒が、開封されたまま置かれていた。封筒の端から明細の紙が少しはみ出している。
ゆり子はトートバッグをソファに置き、窓を一枚開けた。外の冷気が流れ込んできて、テーブルの上の領収書が一枚床に落ちた。ゆり子はそれを拾わなかった。カーテンが風に揺れた。倉本はそのまま立っていた。靴を脱いで上がるべきか、ここで話すべきか、判断できなかった。ゆり子が振り返り、「座って」と言ったので、倉本は靴を脱いで、ダイニングの椅子に腰を下ろした。室内は片付いていなかったが、倉本はそれについて何も言わなかった。言う立場ではないと思った。
ゆり子はキッチンに立ち、水を二杯コップに注いだ。一杯を倉本の前に置き、自分はソファに座った。「お父さん、急にどうしたの」と言った。声はまだ感情が薄かったが、少し疲れがにじんでいた。目の下のくまが、昼の光の中で濃く見えた。
倉本は、持ってきた市役所の書類を鞄から出し、テーブルの上に置いた。ゆり子は書類に視線を落とした。数秒後、手に取って読み始めた。読む速度は早かった。目が文字の上を滑るように動いた。倉本はゆり子が読み終えるのを待った。室内は静かで、ゆり子がページをめくる音と、窓から入る外の車の音だけがあった。
ゆり子は書類をテーブルに戻し、水のコップを両手で持った。それからしばらく、何も言わなかった。「百四十八万か」とゆり子は言った。倉本はうなずいた。ゆり子は立ち上がった。急に立ち上がったので、倉本は一瞬驚いた。ゆり子はキッチンに行き、流し台の下の引き出しを開けた。何かを探している。引き出しを閉め、別の棚を開けた。そこにも見つからなかったらしく、トートバッグの中をかき回した。タバコの箱を取り出し、一本抜いて、窓の近くに立った。
ゆり子がタバコを吸うとは知らなかった。倉本は何も言わなかった。驚きはあったが、それを顔に出さなかった。ゆり子はライターで火をつけ、一口吸って、窓の外に向かって煙を吐いた。横顔が見えた。頬の線が、川口のアパートであった時より、少ししぼんでいた。タバコの煙が、細く外に流れていった。
「ねえ、お父さん」とゆり子は言った。「今、お父さんに貸せるお金、私にはないよ」倉本は「そうか」と言った。ゆり子は、タバコを持ったまま倉本の方を向いた。怒っているのか、それとも泣きそうなのか、どちらとも判断できない表情だった。ゆり子はこういう顔をすることがある。感情が複数同時に押し寄せた時、どれを外に出せばいいか分からなくなって、表情が固まる。幼い頃からそうだった。泣けない時のゆり子は、いつも表情が固まった。
ゆり子は再びタバコを一口吸い、煙を外に向けた。それから、言いにくそうに、でもはっきりと言った。「二年前に離婚した。それから今まで、一人でやってきた。元の夫が、うちの口座を紐づけて作ったカードを、勝手に使ってた。気づいた時には借金が残ってて、離婚後にそれが私の名義のままになってた。今もその返済で、毎月かつかつなの」
倉本はゆり子を見た。ゆり子は窓の外を向いたままだった。タバコの煙が、細く外へ流れていった。倉本は、ゆり子の指先が少し震えているのに気づいた。震えは小さく、タバコを持っていなければ気づかなかったかもしれない。自分の状況を口に出すことで、それがより現実のものになる感覚があるのかもしれなかった。
倉本は何も言わなかった。ゆり子が話を終えるのを待っていた。せかすような気持ちは、全くなかった。ゆり子がどれほどの間、この話を一人で抱えてきたかを、倉本は今考えていた。二年。二年間、父親に言えなかった。なんで黙ってたんだというつもりはなかった。そんなことを言っても意味がない。ゆり子が黙っていたのは、倉本を心配させたくなかったからだ。それは分かっていた。倉本も同じことをしてきた。娘に心配をかけまいとして、ずっと余裕があるふりをしてきた。今夜もこの部屋に来る前に、「何とかなるかもしれない」という顔をしてきた。親子で同じことをしていたということになる。
ゆり子は、短くなったタバコの火を窓の外に向け、それを息で消した。タバコの残りをゴミ箱に捨て、ソファに戻ってきた。「お父さんには、黙っててごめん」と言った。小さな声だった。謝罪の言葉の形をしていたが、中身は謝罪というよりも、もう隠せないという疲れに近かった。
倉本はゆっくりと口を開いた。「千葉の家は、売れたんだ。先月、不動産屋に頼んで買い取ってもらった。まあ、大した値段にはならなかったが、解体費用は何とかなりそうだ。だからゆり子、お前のことは心配しなくていい。俺の方は大丈夫だ」
ゆり子は倉本の顔を見た。倉本は視線を書類に落としたまま、表情を動かさなかった。ゆり子がどこまで信じているかは分からなかった。しかし今夜、この娘にこれ以上の重さを載せるわけにはいかなかった。ゆり子は、すでに十分に重いものを持っている。そこにさらに、父親の百四十八万を乗せることは、倉本にはできなかった。それは意地でも強がりでもなかった。ただ、できなかった。
ゆり子はしばらく倉本を見ていた。それから、うなずいた。「そうか」と言った。「よかった」と続けた。その「よかった」は、確認ではなく、そう思いたいという言葉に聞こえた。信じているのか信じていないのか、その判断をゆり子自身が留保しているように見えた。
二人はしばらく沈黙した。倉本は水のコップを一口飲んだ。ゆり子はテーブルの上の書類をもう一度手に取り、そっと表を向けて置き直した。何か言いたそうな顔をしたが、言わなかった。
「外に出よう」とゆり子が言った。「ここじゃ話しにくいし」二人は近くのファミリーレストランへ向かった。外廊下を歩き、エレベーターで降り、エントランスを出た。夜の九時近い時刻になっていた。ゆり子はポケットに手を突っ込んで歩いた。倉本は隣に並んで歩いた。二人の足音が、夜の路地に響いた。
ファミリーレストランの自動ドアが開くと、明るい光と温かい空気が一気に流れ出した。店内は週末の夜らしく、家族連れや学生のグループで埋まっていた。奥の窓際の席を案内された。倉本は外側に座り、ゆり子は内側に座った。倉本はコーヒーを頼んだ。ゆり子はアイスティーを頼んだ。注文を取りに来た若いアルバイトの男性は、二人の顔を交互に見て、注文を確認して去っていった。
二人の周囲では、高校生のグループが大声で笑っていた。隣のテーブルでは、小さな子供がメニューを広げてジュースの種類を選んでいた。この賑やかさの中で、倉本とゆり子のテーブルだけが静かだった。沈黙は不自然ではなかった。二人とも、黙ることになれていた。
ゆり子はアイスティーのストローを、ゆっくりとかき混ぜた。氷がぶつかり合う音がした。グラスの外側に結露が浮き、テーブルに小さな水の輪ができた。「ねえ、お父さん」とゆり子はもう一度言った。「今の生活、どうなの? 川口のアパート、慣れた?」倉本はコーヒーを一口飲んでから、「まあ、悪くない」と答えた。「電車の音が少しうるさいが、もう慣れた」ゆり子は小さくうなずいた。
ゆり子が、氷の入ったグラスを両手で持ったまま、目を伏せた。「私が離婚のこと言わなかったのはさ」とゆり子は言った。「お父さんに心配かけたくなかったのもあるけど、自分でも認めたくなかったんだと思う。失敗したって思われたくなかったし、お父さんみたいにちゃんとしなきゃって、ずっと思ってたから」
倉本はゆり子の顔を見た。ゆり子はグラスを見ていた。倉本は、ゆり子の言う「お父さんみたいにちゃんとしなきゃ」という言葉を、心の中でゆっくりと繰り返した。自分はちゃんとしていたか。勤めた会社は倒産した。妻より先に死ぬことができず、妻を見取った後は一人で残された。家は行政の圧力で手放すことになった。娘に心配をかけまいと、今夜も嘘をついた。ちゃんとしていた部分など、どこにあったのか。
しかし、今その話をゆり子に向かってするつもりはなかった。倉本はコーヒーカップを両手で持った。カップのぬくもりが手のひらに伝わった。「お前がちゃんとしてきたのは、俺のせいじゃないよ」と倉本は言った。「お前が自分でそうしてきたんだ」ゆり子は顔を上げた。倉本はそれ以上言わなかった。それ以上は言えなかった。この手の話は、言いすぎると何かが壊れる。壊れてしまった後では、元に戻すことができない。
ゆり子は小さく笑った。泣き笑いのような顔だったが、泣かなかった。ゆり子はいつも人前では泣かない。幼い頃からそうだった。泣きたくても泣けないのか、泣かないと決めているのか、倉本には分からなかった。
窓の外の通りを、若い男女が傘を差して歩いていった。二人で一本の傘に入っており、女性の肩が雨に濡れていた。倉本はそれを一秒だけ見て、視線をカップに戻した。
もう少し経ってから、ゆり子が言った。「お父さん、借金の返済が落ち着いたら、少しずつ仕送りするから」倉本はすぐに首を振った。「いらない」ゆり子は「でも」と言いかけたが、倉本は繰り返した。「いらない。俺はまだ体が動く。自分でやる」ゆり子はうなずいた。「でも、何かあったら言ってよ」と言った。「今度は黙ってないで」倉本は「分かった」と言った。嘘をついているかどうかは、自分でも分からなかった。「分かった」という言葉は、いつも正直とは限らない。
二人はそれ以上、お金の話をしなかった。ゆり子が「川口まで、何分かかるの」と聞いた。「電車で十分かな」と倉本は答えた。「近いね」とゆり子は言った。「そうだな」と倉本は言った。近いという事実がそこにあった。近いから何かが変わるわけではないが、近いという事実は事実だった。二人とも、それ以上近いことについて何も言わなかった。
十時になって、倉本は立ち上がった。「今日はもう」と言った。ゆり子も立ち上がり、財布を出した。倉本は先に千円札をテーブルに置いた。ゆり子は「お父さん」と言ったが、倉本は伝票を手に取ってレジへ向かった。会計を済ませ、二人は店を出た。
ファミリーレストランを出ると、外は本降りの雨になっていた。入った時はまだ小降りだったのに、いつの間にか、傘がなければ歩けないくらいの雨になっていた。倉本は折りたたみ傘をジャケットのポケットから出した。ゆり子はトートバッグの中をかき回したが、傘が入っていなかった。倉本は傘を開き、ゆり子の方へ差し向けた。「お前が持っていけ」と言った。ゆり子は首を振った。「お父さんが使って」と言った。二人はしばらく傘を押し付け合い、結局ゆり子が受け取った。倉本はジャケットの襟を立てた。ゆり子の顔が、傘の下で少しほころんだ。「じゃあな」と倉本は言った。ゆり子はうなずき、「気をつけてね」と言った。「ありがとう」とも言った。何に対しての「ありがとう」なのかは、どちらも確認しなかった。
倉本は来た道を戻った。雨の中を、濡れながら歩いた。ジャケットの肩が重たくなり、首筋に雨が入ってきた。角を曲がり、大通りに出ると、コンビニの明かりが見えた。倉本はその前で少し立ち止まり、雨宿りをするかどうか考えた。考えたが、歩き続けた。赤羽駅まで歩き、改札を入り、ホームに立った。電光掲示板に、川口駅の電車が三分後に来ると表示されていた。倉本はホームの端の方に立って、電車を待った。隣に立っていたサラリーマンが、携帯を見ながら一歩ずれた。倉本が雨に濡れていたからかもしれない。倉本はそれを気にしなかった。
川口で電車を降り、桜川台まで歩いた。外廊下に上がると、二百四号室のドアの前に、誰かが置いていったチラシが一枚落ちていた。ピザのチラシだった。倉本はそれを拾い、階段の隅のゴミ箱に入れた。
部屋に戻ると、外廊下から持ち込んだ雨の気配で、室内の空気がわずかに重たかった。濡れたジャケットをハンガーにかけ、着替えた。タオルで頭を拭いた。鏡を見ると、濡れた髪が額に張り付いていた。倉本はタオルでもう一度拭き、手で整えた。
台所のテーブルに、市役所の書類がまだ置いてあった。倉本はその書類を手に取り、読んだ。百四十八万円という数字が、今夜も同じ場所に印刷されていた。明日からどうするかを、考えなければならなかった。ハローワークへ行くか。あそこへ行くのは初めてではなかった。かつての会社が倒産した時、一度だけ行ったことがある。あの時はまだ六十前だった。今は六十七だ。七歳の差がどれほどの意味を持つか、倉本はとっくに知っていた。それでも、行かなければならなかった。
倉本は書類をテーブルの端に置いた。湯を沸かして、インスタントコーヒーを一杯作った。ファミリーレストランで飲んだコーヒーより薄かったが、温かかった。台所の椅子に座って飲んだ。電車が一本通った。窓ガラスが震えた。コーヒーの表面が、わずかに揺れた。
電気を消して、布団に入った。濡れた髪が、まだ完全には乾いていなかった。枕が少し冷たかった。ゆり子の顔を思い出した。タバコを持った手の指が震えていた場面と、ストローでグラスをかき混ぜながら目を伏せていた場面。二つの場面が交互に浮かんだ。それから、ゆり子が傘を差して帰っていく後ろ姿。雨の中で一本の傘を持って歩く、娘の背中。倉本はその背中を見ていなかったが、頭の中でその姿が作られた。
家は売れたと倉本はゆり子に言った。大した値段にはならなかったが、何とかなりそうだと言った。どちらも嘘だ。家は売っていない。お金は届いていない。ただ娘に言える言葉は、今夜はそれしかなかった。正直に言えば、ゆり子は無理をする。無理をしたゆり子がどうなるかを、倉本は想像したくなかった。
倉本は目を閉じた。外の雨音が、少し弱ってきた。次の電車が来るまでの静けさが、また部屋を満たした。嘘は自分の胸の中に戻ってくる。それを倉本は知っていた。明日も明後日も、百四十八万という数字が台所のテーブルで待っている。どこかで何かをしなければならない。しかし、それは明日のことだ。今夜はここまでだ。倉本は目を閉じたまま、体の力を少しずつ抜いていった。
ハローワークの整理券には、B六十一番と書かれていた。倉本茂は待合室の椅子に腰を下ろし、番号票を膝の上に置いた。十一月の月曜日の朝、川口公共職業安定所の待合室は、すでに四十人以上の人間で埋まっていた。倉本がドアを開けて入ったのは午前九時を少し過ぎた頃だったが、番号はすでに六十番台だった。早起きしてきたつもりだったが、この場所では、自分より早い時間に来ている人間がこれほど多い。そのことが、黙ってこの場所で待っている人間の数を実感させた。
待合室の椅子はプラスチックの成型品で、長時間座ると背中が張る形をしていた。倉本は背筋を伸ばして座った。背もたれに寄りかかる習慣がなかった。周囲を見回すと、年齢層はさまざまだった。二十代とおぼしき若者、四十代の背広姿の男性、六十代の老人、それに倉本と同じくらいの年齢の女性が数人。誰もが一様に、手元の書類を見るか、スマートフォンを操作するか、あるいはただ床を見つめていた。声を出している人間はいなかった。
倉本は持参した書類を鞄から出した。履歴書、職務経歴書、年金手帳のコピー。履歴書は前の夜に書いた。百円均一で買った黒のボールペンを使い、丁寧に楷書で記入した。最終学歴、職歴、資格。職歴の欄は、務めていた印刷機器の販売会社一社だけだ。入社が昭和五十八年、退職が平成二十四年。倒産による退職と書くべきか、自己都合と書くべきか、倉本は迷った末に「会社都合」と書いた。そこから現在まで、十四年間の空白がある。十四年という年数を目で確かめた時、倉本は少しの間、底に視線を置いた。
「B五十八番」とスピーカーが読んだ。倉本より三つ前だ。窓口は五つあった。それぞれに担当者が座り、申請者と向き合っていた。一番左の窓口では、三十代の男性が担当者と何かを話し合っており、男性の声が時折り聞こえた。内容は聞き取れなかったが、男性の方が少しずつ内側に向かって縮んでいくのが見えた。話が進むにつれて、男性の背中が丸くなっていった。担当者の声は低く、抑揚がなかった。窓口の向こうで言われていることは、おそらく現実的な話だ。
「B五十九番」とスピーカーが読んだ。倉本は書類を整え直した。履歴書の端が少し折れていたので、指で伸ばした。職務経歴書は二枚あった。一枚目に会社の概要と自分の担当業務、二枚目に取引先の規模と営業成績の概要を書いた。四十年近く前の記録だ。書きながら、この数字に意味があるかどうかを倉本は考えた。意味があるかどうかより、書ける事実を書く方がいいという結論にした。
「B六十番」とスピーカーが読んだ。倉本は立ち上がり、三番窓口へ向かった。担当者は四十代の女性で、眼鏡をかけ、髪をきつくまとめていた。倉本が着席すると、「書類を確認させてください」と言って手を差し出した。倉本は履歴書と職務経歴書を渡した。女性は書類に目を通した。ペンで何かを書き込んでいる。一分ほど経って、顔を上げた。「最後のご勤務から、十四年ほど経ちますね」と言った。倉本は「そうです」と答えた。「その間のご状況を、教えていただけますか。」倉本は「妻の介護と、その後の自宅の管理をしていました」と答えた。女性はうなずきながら、何かを打ち込んだ。倉本はその打鍵音を聞きながら、入力された文字の数が自分の答えより多い気がした、と思った。
「ご希望の職種は、何かございますか」と女性が聞いた。倉本は少し考えてから言った。「体を動かす仕事なら、何でも構いません。機械は最近のパソコンが使えないので、難しいかと思います」女性はまた何かを入力した。「年齢が六十七歳でいらっしゃいますと、ご紹介できる求人の幅がかなり限られます」と言った。そこには特に感情がなかった。現実の告知だった。倉本は「分かっています」と言った。
女性は画面を倉本の方に向け、現在登録されている求人の中からいくつかを表示した。警備員、清掃員、倉庫作業補助、配送補助。どれも時給は千円前後、週三から五日、シフト制。倉本は画面を眺めた。その中に、「夜間の清掃業務」という項目があった。「というのは、何時から何時ですか」と倉本は聞いた。女性は画面を確認して、「こちらの案件は二十二時から翌朝五時です」と言った。「週五日、時給は千百五十円です」
倉本は計算した。七時間、週五日。一ヶ月で二十一日程度。月に十七万円近くになる。年金と合わせれば、百四十八万の返済に向けて、毎月確実に積み立てることができる。数字が合う。初めて数字が合った。
「この求人について、詳しく教えてもらえますか」と倉本は言った。女性は書類を一枚印刷して出した。川口市内の大型スーパーの夜間清掃、バックヤード管理業務だった。勤務内容は、閉店後から開店前にかけての売場の清掃、資源ゴミの分別、バックヤードの整理整頓。「体力のある方歓迎、年齢不問」と書かれていた。倉本は「年齢不問」という文字を読んだ。こういう文言が実際の採用で意味を持つかどうかは分からなかった。しかし、とにかく応募してみなければ分からない。「応募してみます」と倉本は言った。
女性は紹介状を作成し、電話番号を教えた。「ご自身でお電話いただき、面接のご予約をお取りください」倉本は紹介状を受け取り、書類を鞄に入れた。「ありがとうございました」と言って立ち上がった。女性は軽く頭を下げた。「次の方どうぞ」というスピーカーの声が、倉本の背中に向かって流れた。
外に出ると、十一月の風が正面から当たった。倉本はコートの前を合わせながら、ハローワークの前に立った。紹介状の裏に書かれた電話番号を見た。今すぐかけるか、家に戻ってからかけるか。街行く人が、倉本の横を通りすぎていった。倉本は少し考えた後、近くの自動販売機の前に立って小銭を入れ、百円のコーヒーを買った。ブラックを押したら、今日は正しくブラックが出た。缶のぬくもりを両手で感じながら、電話をかけた。
三コールで、出たのは男の声だった。倉本は名前を名乗り、ハローワークの紹介で電話した旨を告げた。男は「少し待ってください」と言って、保留にした。保留中に、電子音楽が流れた。一分ほどして、男は戻ってきた。「今週の木曜日の午前十時は、いかがですか。」倉本は「それで構いません」と答えた。住所と名前をもう一度確認され、電話は終わった。倉本はコーヒーを一口飲んだ。缶の中はまだ暖かかった。
木曜日の朝、倉本はスーパーの従業員入り口から入り、事務所へ向かった。案内された会議室は狭く、折りたたみの椅子が三脚と、小さなテーブルが一つあるだけだった。倉本が座って待っていると、五分後に男性が入ってきた。店長代理の桑原という四十代の男性で、額が広く、雰囲気は穏やかな人間だった。倉本の履歴書を見て、桑原は言った。「夜間のお仕事は、体にきついこともありますが、大丈夫ですか。」倉本は「ラジオ体操を毎朝欠かさずやっている。体は問題ない」と答えた。桑原は「そうですか」と言って、少し目を細めた。驚いたような顔ではなく、確認したという顔だった。
「清掃の仕事は、経験ありますか」と桑原は聞いた。「ありません」と倉本は答えた。「ただ、自分の家の掃除は、丁寧にやってきました」桑原は小さく笑った。「それで十分です」と言った。その言葉の軽さが、倉本には少しだけ気になったが、黙っていた。
採用の連絡は、三日後に来た。十一月の半ばから出勤してほしいとのことだった。倉本は受話器を置いた後、しばらくその場に立っていた。採用されたという事実が、現実として定まるまで数秒かかった。
最初の出勤日、倉本は二十一時四十分に、スーパーの従業員入り口に立った。二十分早く着きすぎた。しかし倉本は、早く着くことへの後ろめたさを感じない。早く着きすぎて困るのは相手であって、遅刻して困るのは双方だ、という考え方が体に染み込んでいた。
入り口の前に立って待っていると、同じシフトの従業員が次々と来た。全部で四人。二十代の男性が二人と、四十代の女性が一人。それに倉本だ。二十代の男性二人は、互いに顔見知りらしく、来るなり会話を始めた。女性は一人で来て、会釈だけして扉の前に立った。倉本も同様にした。
更衣室で作業着に着替えた。作業着は薄い緑色のつなぎで、胸のポケットに名札を挟む。倉本の名札には「倉本」とだけ書いてあった。鏡の前でつなぎの前を閉め、胸の名札の位置を確認した。袖口のファスナーも閉めた。細かいところまで整えてから、倉本は更衣室を出た。
担当の松井という二十五歳の男性から、最初の夜に業務説明を受けた。松井は顔全体に細かい吹き出物があり、目つきが少し鋭かった。話し方は早く、説明が終わると、確認もせずに次へ進んだ。倉本はメモを取りながら聞いた。売場の清掃は、決められた順番と方法で行うこと。薬品の希釈倍率は、必ず守ること。バックヤードの資源ゴミは、種類ごとに指定された袋に入れること。一つ一つの指示に、それを怠った場合の問題が伴っていた。倉本は全部書き取った。松井は、メモを取っている倉本を見て、「そんなに細かく書かなくていいですよ。大体分かれば」と言った。倉本は「慣れるまでは、書いておきたい」と答えた。松井は何も言わず、説明を続けた。倉本はメモを取り続けた。
最初の一週間は、覚えることが多かった。売場の清掃ルートは決まっており、生鮮食品コーナーから始めて、惣菜、乾物、日用品、レジ周辺の順に回る。各コーナーで使用する洗剤の種類が異なり、希釈倍率も違う。間違えると、床の素材を痛める。倉本は最初の三日間、松井から渡されたマニュアルを、休憩時間に読み返した。文字は小さく、項目が多かった。しかし読めないわけではない。何度も読めば覚えられる。
バックヤードの資源ゴミの分別も覚えた。ダンボール、プラスチックトレー、発泡スチロール、ペットボトル、食品廃棄物。それぞれ圧縮機にかける手順があった。圧縮機の操作は、力の加減が難しかった。どこで力を入れ、どこで手を引くか。しかし三日もすれば、手が覚えた。体で覚える仕事は、倉本には向いていた。
体への負担は、倉本が想像していたより重くはなかった。七時間立ちっぱなしで動き続けるが、ラジオ体操で鍛えた体はそれに耐えた。足が疲れるのは確かだった。しかし休憩時間に座って水を飲めば、次の時間はまた動けた。倉本は、六十七という年齢を言い訳にするつもりはなかった。言い訳をすれば、すぐにそこで動けなくなる。それも長い年の中で学んだことだった。体が続く限り続ける。それだけだった。
問題が出始めたのは、仕事を初めて十日ほど経った頃だった。清掃に使う業務用の洗剤は、一般家庭で使うものより洗浄力が強い。倉本は薄めた洗剤に触れながら作業した。最初のうちは、特に何も感じなかった。しかし十日を過ぎた頃から、両手の指先に細かいひび割れが出始めた。乾燥した皮膚に沿ってひびが入り、深くなると赤みが出た。バックヤードの冷蔵エリアで作業する時は、冷気が指先に直接刺さった。仕事の後に帰宅して手を洗うと、ひびに染みる感覚があった。ひびが深くなると、洗剤の入った水に指を入れた瞬間、鋭い痛みが走るようになった。倉本は顔の筋肉が反射的に引きつるのを感じながら、それを外には出さないようにした。
痛みは仕事の一部だ、と倉本は考えた。好ましくはないが、仕事の外にあるものではない。手が壊れるわけではない。ひびが深くなり、血が出るようになっても、手は動く。
ゴム手袋をもらえないかと松井に聞いたのは、仕事を初めて二週間が経った夜だった。松井はその要求を聞いて、少し間を置いた。「手袋は、生鮮コーナーの作業用のものがありますが、清掃業務には対応してないんですよね。薬品対応の手袋は、今在庫がないですが、発注しておきます」倉本は「分かりました」と言った。発注の話は、その後一週間待っても出てこなかった。二週間待っても同様だった。倉本はそれ以上催促しなかった。催促するより、自分でどうにかした方が早い。
倉本は薬局でゴム手袋を自分で買った。二百三十八円だった。その手袋は、一週間持たずに破れた。また買った。これを繰り返すことになった。月に二、三回の出費だった。金額は大した額ではないが、倉本はそれを記録した。家計簿に書いた。「手袋代」と書いた。
十一月の終わり頃、夜の作業中に雪が降った。スーパーのバックヤードには搬入口があり、そこから外の冷気が吹き込んでくる。雪の夜は、特に冷えた。倉本は作業着の下に、長袖のシャツを一枚多く重ねることにした。それで多少はしのげた。冷気が首筋に当たる感触はどうしようもなかったが、体全体が冷えるよりはましだった。
夜の二時を過ぎると、スーパーの中は倉本たちしかいない。広い売場に四人だけが動いている。蛍光灯は全灯ではなく、作業に必要な箇所だけ点灯している。薄暗い売場の中で、モップを引いて歩く音と、遠くでゴミを押しつぶす機械の音だけがした。外の雪が窓枠を叩き始めていた。その静けさの中で、倉本は黙々と働いた。
二十代の男性二人は、休憩室でよく話していた。共通の趣味があるらしく、ゲームか何かの話で盛り上がっていた。笑い声が通路まで届くことがあった。四十代の女性は黙って作業をこなし、終わると一人で休憩室で弁当を食べた。倉本も同様だった。四人の間に、特に会話はなかった。それで良かった。倉本は、仕事場で親しくなることへの欲求をもう長い間感じていなかった。
松井が当たりの強い人間だということは、最初の週で分かっていた。仕事の指示は常に命令の形で来た。「次はあそこをやってください」「次、あそこ」という言い方だった。倉本が作業の手順を確認すると、「説明済みですよね」という返答が来た。ミスがあると、その場でそれを指摘した。倉本がゴミの分別で一度間違えた時、松井は二メートルほど離れた場所から声を上げた。「そこ違います。ちゃんと見てください」倉本は「失礼しました」と言って直した。謝る声に感情はなかった。ただ確認して直す。それだけだった。
松井が倉本に対して特別に冷たいのか、全員に対してそうなのかは、最初のうち分からなかった。観察していると、若い二人の男性に対する態度は、それほど変わらなかった。ただ、倉本には少し余分な何かがあった。倉本が作業に時間がかかると、松井の眉が下がる。倉本が松井の近くを通ると、松井の体がかすかに後ろへ引く。言葉ではなく、そういう小さな態度の積み重ねがあった。年寄りがこの現場にいることを、松井は心よく思っていない。倉本はそれを理解した。理解した上で、自分のペースを乱さないことにした。
十二月に入って最初の週、深夜二時過ぎに男が入ってきた。閉店後のスーパーに、酔った男が迷い込んだ。完全に閉まりきっていなかった自動ドアから入り込んだからだと、後で分かった。男は三十代くらいで、スーツのジャケットを着崩し、ネクタイは首の下まで緩んでいた。歩き方がふらついていた。発泡スチロール製の食品容器のコーナーを手で支えながら、よろめくようにして進んでいた。その男は、食品売場のコーナーに差しかかったところで急に足を止め、その場にしゃがみ込んだ。吐く音が売場に響いた。
倉本は三列向こうの日用品コーナーで、モップをかけていた。音を聞いて、何が起きたかはすぐに分かった。倉本はモップをバケツの縁に立てかけ、音の方向へ向かった。食品コーナーの床に、男がしゃがみ込んでいた。足元に吐しゃ物が広がっていた。アルコールの匂いと、胃液の酸っぱい匂いが混ざり合って漂っていた。男は気分が悪そうに頭を下げ、手を床についていた。
倉本は男の様子を一瞥してから、バックヤードへ向かった。ゴム手袋と雑巾と、消毒液の入ったバケツを手に取った。上司を呼ぶ必要があるかと考えたが、まず処理を始めることが先だと思った。時間が経てば、吐しゃ物の範囲が広がる可能性があった。
バックヤードから戻ると、松井がすでに現場に来ていた。別のコーナーで作業していた女性が知らせたらしい。松井は男に向かって「お客様、ここは閉店です」と言っていた。男は顔を上げ、「すみません」と力のない声で言った。顔が青白かった。倉本がバケツを持って近づくと、松井が振り返った。「倉本さん、早くやってください」と言った。倉本はうなずき、まずゴム手袋をはめた。袋から雑巾を取り出した。吐しゃ物の範囲を確認した。一メートル四方ほど広がっていた。倉本は床に膝をついた。雑巾を広げ、端から丁寧に拭き始めた。吐しゃ物を広げないように、外から内へ向かって拭いていく。
男はまだその場にしゃがんでいた。倉本が膝をついて作業を始めると、男はよろよろと立ち上がり、後ずさった。「すみません」という声がした。倉本は顔を上げなかった。作業に集中していた。作業の途中で、男がよろめいた。足がふらついて、前に出た一歩が倉本の方に向かった。男は倉本の肩に乗りかかるような形で、体重をかけた。倉本は一瞬バランスを崩した。手が床から離れ、膝で体を支えた。男の靴のつま先が、倉本の右手の甲の上に乗った。一秒もかからない接触だった。男はすぐに足を引いた。
倉本は右手を引き戻した。ゴム手袋の中で、指先のひびが割れた感触があった。深い部分が一気に開いた感触だった。手袋の内側に、温かいものがじわりと広がった。倉本は手袋を外さなかった。雑巾を持ち直し、作業を続けた。右手の感覚を確認する余裕はなかった。床の処理が終わっていない。
松井が近くに来て、床をのぞき込んだ。それから「倉本さん、バケツひっくり返してるじゃないですか」と言った。振り返ると、バケツが倒れていた。消毒液が薄く床に広がっていた。倉本が男の靴に踏まれた時、バケツに手が当たって倒れたらしかった。倉本は気づかなかった。
松井の声が大きくなった。売場全体に響くような声になった。「ちゃんと手元見てないから、そうなるんですよ。もう年なんだから、動きに気をつけてください。お客様も来てるのに、倒した液が広がったらどうするんですか。こういうの一番困るんですよね。本当に」
倉本は膝をついたまま、松井を見上げた。松井の顔は赤みがかっていた。二十五歳の顔が、怒りと苛立ちで少し歪んでいた。横に立った酔った男は、倉本と松井を交互に見ていた。若い男性スタッフ二人は、遠巻きに立っていた。四十代の女性は、別のコーナーで作業を続けていた。倉本を見ている人間と、見ていない人間がいた。
倉本はゆっくりと立ち上がった。膝が床についていた時間が長く、立ち上がるとわずかに体が揺れた。それをこらえた。背筋を伸ばした。そして、深く頭を下げた。「申し訳ありませんでした」と倉本は言った。声は低く、落ち着いていた。「すぐに片付けます」
松井は、もう一言何か言おうとして、言わなかった。倉本の頭の下がり方が、相手の言葉を止めた。完全に九十度に近い角度で下げられた頭は、謝罪の姿勢として完璧だった。それ以上何かを言えば、こちらがみっともなくなると、松井は本能的に感じたのかもしれなかった。それとも、単に返す言葉がなかっただけかもしれなかった。どちらでも良かった。
倉本は新しい雑巾を取り出した。倒れたバケツを起こし、残っていた消毒液を確認した。まだ使える量が残っていた。床に広がった液を先に拭き、その後で吐しゃ物の残りを処理した。作業は十分で終わった。男はその間に、松井に誘導されて外へ出た。
右手の中で、じわじわとした痛みが続いていた。倉本は作業を終えた後、バックヤードへ戻ってゴム手袋を外した。右手の薬指の付け根近くに、深いひびがにじんでいた。手袋の内側にも、赤いシミがついていた。倉本は流し台の水で手を洗った。洗剤が傷口に入り、痛みが増した。倉本は顔の筋肉が引きつるのを感じながら、水を出し続けた。水が赤みがかって、排水溝に流れていった。棚にあったバンドエイドを一枚取り、指に巻いた。それからゴム手袋をはめ直し、売場へ戻った。
残りの三時間の作業を、倉本は黙ってこなした。松井はその後、倉本に対して追加の指示を二度出した。どちらも通常の業務指示で、先ほどの出来事については何も言わなかった。倉本も何も言わなかった。ただ指示に従い、動いた。作業の手順は崩れなかった。洗剤の希釈倍率も正しかった。右手は痛かったが、動いた。
五時の退勤時刻になった。倉本は更衣室でつなぎを脱いだ。右手の薬指のバンドエイドを一度剥がして、状態を確認した。血は止まっていた。ひびの深さは、変わっていなかった。新しいバンドエイドに変え、ジャケットを着た。鏡を見た。六十七歳の顔が鏡の中にあった。頬の線と、首のしわ。倉本はそれを一秒見て、視線を外した。更衣室の電気を消して、出た。
外は、夜明け前の暗さだった。十二月の風が顔に当たった。倉本は桜川台まで歩いた。二十分の道のり。右手をポケットに入れて歩いた。電車に乗ることも考えたが、歩いた方が体が温まる。朝の空気は冷えていたが、足を動かしているうちに、体の奥から熱が出てきた。東の空が、わずかに白み始めていた。
アパートの外廊下を上がり、二百四号室のドアを開けた。部屋の中は、暗く冷えていた。電気をつけ、エアコンのスイッチを入れた。台所に立ち、湯を沸かした。湯が湧くのを待ちながら、倉本は右手を見た。バンドエイドの端から、細かいひびが何本も走っているのが見えた。バックヤードの冷蔵エリアで冷やされ、洗剤で脱脂され、作業で擦られる。それが繰り返されていた。一枚の皮膚が、仕事の時間を記録していた。倉本はその手を、しばらく眺めた。それからハンドクリームを棚から取り出し、バンドエイドの周囲に薄く塗った。
インスタントの味噌汁を作り、冷蔵庫に残っていた米を茶碗によそった。朝の五時半、倉本は一人で朝食を食べた。外ではまだ暗い時間が続いていたが、東の窓の外が少しだけ明るくなっていた。雲の間から、細く光が入り始めていた。
食べながら、松井の声を思い出した。「もう年なんだから」という言葉。その言葉を口に出した二十五歳の顔を、倉本は頭の中で一度見た。松井がその言葉を言った時、どういう気持ちだったかは倉本には分からない。怒りか、焦りか、あるいは単純に困惑か。若い人間が年上の人間に向かって言えてしまう言葉が、どこから来るのかも、倉本には分からなかった。しかし、それを考えても何も変わらない。倉本はその考えを止めた。繰り返しても、何も変わらない。その場で反論しなかった。これからも、反論するつもりはない。必要なのは、仕事を続けることだ。百四十八万という数字が、台所の引き出しの中の書類に書いてある。その数字が変わらない限り、倉本は仕事を続ける。
食器を洗い、ふきんで台所を拭いた。エアコンで、部屋が少し温まっていた。倉本は布団を敷き、横になった。右手を布団の外に出した。ひびの入った指先が、部屋の空気に触れていた。ハンドクリームが、少し乾いていた。痛みはまだあった。鈍い、奥にある痛みだった。倉本はそれをそのままにして、目を閉じた。六時間後に起きれば、またラジオ体操の時間になる。それが終われば、夜になる。夜になれば、また仕事がある。
最初に気づいたのは、指先の感覚ではなく、体の芯にある熱さだった。十二月の半ば、仕事を終えて桜川台に戻った時、倉本茂はいつもより体が重いと感じた。重いというより、内側から押し広げられるような感覚だった。布団を敷いて横になっても、その感覚は消えなかった。六時間後に起きるつもりで目を閉じたが、眠れた時間がどれほどだったか、翌朝には判断できなかった。夜明けの光がカーテンの隙間から差し込んできた時、倉本はまだ目を覚ましていた。
ラジオ体操の時間になった。倉本は布団から出た。立ち上がった時、視界の端が少し揺れた。一秒ほどで収まった。倉本はその揺れをこらえ、洗面所で顔を洗った。水が冷たかった。鏡の中の顔を見た。頬が、普段より赤みがかっていた。目の焦点が合うまで、わずかに時間がかかった。ラジオのスイッチを入れた。ピアノの前奏が流れた。倉本は肩幅に足を開こうとして、一拍遅れた。体の各部分に司令が届くのが、いつもより少し遅かった。それでも体操はやった。第一から第三まで、動きは崩れなかったが、いつもよりゆっくりになった。体操が終わると、汗が出た。寒い部屋の中で、ラジオ体操程度の動作で、汗が出た。
その日の夜の出勤前に、倉本は体温計で体温を測った。三十七度八分だった。倉本は体温計をテーブルに置き、数字を見た。仕事を休むべきかどうかを考えた。三十七度八分は高熱ではない。動けないわけではない。しかし仕事場は、夜間の冷えたバックヤードだ。七時間、冷蔵エリアで体を動かすことが、この熱をどちらに傾けるかは予測できなかった。悪化するか、それとも体が慣れるか。倉本には経験がなかった。倉本は出勤した。
その夜の作業中、倉本は普段より汗をかいた。バックヤードの冷蔵エリアに入ると、冷気が汗で湿った体に一気に触れた。背中が冷えた。首筋に鳥肌が立った。それでも作業を続けた。松井から指示が来ると、それに従った。右手のひびは、この数日でさらに深くなっていた。バンドエイドを二枚重ねて張っていたが、夜の終わりには剥がれかけていた。帰宅するまでに、一枚は完全に剥がれ落ちていた。
翌朝、帰宅して体温を測ると、三十八度三分になっていた。倉本は体温計を見た。三十八度という数字は、無視できるものではなかった。布団を敷き、横になった。天井を見た。天井のシミが、いつもより遠い場所にあるように見えた。仕事は今夜も入っている。しかし、今夜は休まなければならないかもしれない、という考えが初めて頭に浮かんだ。倉本はその考えと、「もう一晩だけ行けるかもしれない」という考えの間で、眠れないまま午後を過ごした。
結局、その夜は出勤した。仕事の途中で、上司に指示された手順を一度間違えた。生鮮コーナーの洗剤を、日用品コーナーで使いそうになった。気づいたのは、ボトルを開ける直前だった。倉本は一度止まり、正しい洗剤に変えた。松井はそれを見ていなかった。倉本だけが知っていた。判断力が落ちている。倉本はそれを認識した。それでも、作業は続けた。
三日目、倉本は帰宅した後で体温を測ることができなかった。体温計を取り出す前に、布団に倒れ込んだ。手が震えていた。右手のバンドエイドは、バックヤードの作業中に剥がれ落ち、ひびから出た血が、つなぎの袖口に染みていた。倉本がそれに気づいたのは、更衣室でつなぎを脱いだ時だった。水で洗い流し、新しいバンドエイドを貼ろうとしたが、指先の感覚が鈍くなっていて、うまく貼れなかった。バンドエイドを三枚無駄にしてから、ようやく貼ることができた。
布団の中で、倉本は天井を見た。蛍光灯をつけていなかったので、部屋は暗かった。カーテンの隙間から、外廊下の灯りの光がわずかに入っていた。体の芯にある熱さが、三日前より明らかに強くなっていた。喉が痛かった。飲み込むたびに、奥の方で痛みがあった。
電話しなければ、と思った。松井か、桑原か、誰かに、今夜は休むと伝えなければならなかった。倉本は枕元のスマートフォンを手に取ろうとした。指先が、うまく動かなかった。もう一度だけ試みた。スマートフォンを手に取ることができた。スーパーの電話番号を探した。画面の文字が、少し滲んで見えた。文字を目で追うのに、集中が必要だった。電話した。出た声は松井ではなく、別の担当者だった。倉本は自分の名前を告げ、今夜は体調不良で休ませてほしいと言った。声がかすれていた。担当者は「分かりました。お大事に」と言って、電話を切った。
倉本はスマートフォンを枕元に置いた。目を閉じた。翌朝のラジオ体操に起きなければ、と思った。その思いを持ったまま、意識が沈んでいった。
次に意識があったのは、翌日の昼過ぎだった。カーテンの隙間から入る光の角度が、変わっていた。朝の光ではなく、午後の低い角度の光だった。体が重かった。頭の中が、熱い塊で詰まっているような感覚だった。口が乾いていた。喉の痛みが、起きた時の最初の感覚だった。倉本は体を起こそうとしたが、腕に力が入らなかった。もう一度試みて、ゆっくりと体を起こした。布団の上で、数秒そのまま止まった。台所へ向かい、流し台の蛇口を回した。水を手に受けた。三回飲んだ。冷たい水が食道を降りていく感覚があった。倉本は蛇口を閉め、流し台に手をついた。
今日は何日か、と考えた。十二月に入ってから数えて、今日は十五日か十六日のはずだった。区役所への月の生存確認の電話は、毎月十日から十五日の間に、かけることになっていた。今月は、まだかけていない。倉本はそれを思い出した。テーブルに戻り、椅子に座った。区役所の番号を手帳で確認しようとして、手帳をどこに置いたか思い出せなかった。鞄の中を探った。手帳はあった。番号を確認し、電話しようとした時、スマートフォンの画面に、着信の履歴が表示されているのに気づいた。ゆり子からの着信が、三件入っていた。日付は、昨日と今日。それぞれ時間がずれていた。倉本はその着信を見た。ゆり子が三回かけてきた。倉本は昨日の昼から今日の昼まで、おそらく一度も意識が完全に戻っていなかった。その間に、ゆり子が三回電話してきた。区役所からゆり子に連絡が行ったのかもしれない。あるいは、ゆり子が自分で気になってかけてきたのか。どちらかは分からなかった。
折り返すべきかどうかを考えていた時、電話が鳴った。ゆり子からだった。倉本は出た。「もしもし」と言った。声がかすれていた。自分でも驚くほどかすれた声だった。ゆり子の声が、電話の向こうで一拍止まった。「お父さん」と言った。「今、どんな状態?」倉本は「少し熱がある」と答えた。「少し」という言葉を選んだことに、言いながら気づいた。ゆり子の声のトーンが、変わった。「区役所から、電話が来た」とゆり子は言った。「お父さんが、今月の確認の電話をまだしてないって」倉本はそれを聞いて、少しの間黙った。区役所がゆり子に連絡した。ということは、家族の確認が働いたのだ。と倉本は思った。「今から行く」とゆり子は言った。倉本は「来なくていい」と言った。「自分でできる」ゆり子は「お父さん」と言った。声に、静かな強さがあった。「今から行く」と繰り返した。それで、電話は終わった。
倉本は電話を置いた。テーブルの上を見た。台所のテーブルは、いつもは片付いているはずだった。しかし今日は、体温計が出しっぱなしになっていた。その隣に、飲みかけの水のコップがあった。それから、台所の引き出しから出したまま、引き出しに戻していない市役所の書類があった。百四十八万円という数字のある書類だ。倉本は書類を引き出しに戻そうとして、立ち上がった瞬間に体がふらついた。椅子の背に手をついて、こらえた。そのままゆっくりと動き、書類を引き出しに入れた。体温計は棚の上に置いた。コップは流し台に置いた。部屋の中をもう一度見回した。布団が、敷きっぱなしになっていた。倉本は布団を畳もうとして、途中で止めた。押し入れまで運ぶ力が、今はなかった。布団は、端だけ整えてそのままにした。部屋の中が片付いているとは言えなかったが、これ以上できることがなかった。
ゆり子が来たのは、電話から四十分後だった。インターホンが鳴り、倉本がドアを開けると、ゆり子がコンビニの袋を二つ下げて立っていた。コートのまま来たらしく、息がわずかに上がっていた。今日は、靴を脱いで入ってきた。部屋の中を見て、布団が敷きっぱなしになっているのを見た。それから、倉本の顔を見た。「顔、赤い」とゆり子は言った。倉本は「そんなでもない」と言った。ゆり子は、靴を脱いだまま倉本の額に手を当てた。手が冷たかった。外から来たばかりの冷たさと、倉本の額の熱さが触れた瞬間に、分かった。「熱い」とゆり子は言った。倉本は少しだけ体を引いた。ゆり子は手を引かなかった。もう一度確認するように、額に触れ続けた。「座ってて」とゆり子は言い、台所に向かった。コンビニの袋から物を出し始めた。経口補水液のペットボトルが二本。レトルトのお粥が三袋、それに使い捨てカイロが一つ。ゆり子はお粥をレンジに入れてスイッチを押し、経口補水液を一本開けてコップに注いだ。動きに無駄がなかった。来る前に、どうするかを決めていた動き方だった。
「これ飲んで」とゆり子はコップを倉本の前に置いた。倉本は受け取り、一口飲んだ。塩と甘さが混ざった味が、口の中に広がった。体に良いものが入ってくる感触があった。ゆり子は倉本の向かいに座り、両手をテーブルの上に置いた。それからしばらく、倉本の顔を見ていた。父親の顔を見る目と、状態を確認する目が混ざっていた。
「お父さん」とゆり子は言った。「ねえ、見せて」倉本は、少しの間動かなかった。ゆり子はテーブルの上で手を広げ、待った。求めているが、強制はしない。という待ち方だった。倉本はゆっくりと、右手をテーブルの上に出した。バンドエイドが二枚、薬指と人差し指に貼られていた。バンドエイドの端から、細かいひびが何本も伸びていた。ゆり子はその手を見た。何も言わなかった。しばらく見てから、倉本の手のひらをそっと裏返した。手のひら側も同様だった。指の腹に細かいひびが走り、冬の空気で乾いた皮膚は、全体的に荒れていた。親指の付け根近くに、かさぶたになったひびが一箇所あった。
「これ、いつから」とゆり子は言った。倉本は「仕事を始めてすぐ」と答えた。ゆり子は、小さく息を吸った。怒っているのか、泣きそうなのか、倉本には判断できなかった。ゆり子はこういう時、いつも表情が固まる。感情が複数来た時、どれを出せばいいか分からなくなる。
レンジが鳴った。ゆり子は立って、お粥をレンジから出し、倉本の前に置いた。「熱いから、少し待って」と言って、自分はコンビニの袋からもう一つ物を取り出した。小さな袋入りのハンドクリームだった。テーブルの端に置いた。「後で使って」と言った。倉本はお粥を見た。白い湯気が立っていた。量が多かった。一袋全部入っているらしかった。
ゆり子は、もう一度向かいに座った。「お父さん」と言った。「夜の仕事、してたの」倉本は「している」と答えた。ゆり子は、何も言わなかった。倉本は続けた。「時給が少し良かったから。夜のシフトだと、手当がつく。計算したら、あれが一番金になった」ゆり子はうなずいた。うなずきながら、視線を少し下げた。倉本の手の方に、視線が向いた。「お粥、冷めないうちに食べて」とゆり子は言った。
倉本はスプーンを持った。右手のひびが、スプーンの柄に当たった。軽い痛みがあった。倉本はそれをこらえて、お粥を一口救った。白いお粥は、薄く塩味がついており、温かかった。最後にまともな温かいものを食べたのが、いつだったか倉本には思い出せなかった。
ゆり子はテーブルの上で手を組んだ。倉本がお粥を食べる様子を、しばらく見てから、目を伏せた。「ねえ、お父さん」とゆり子は言った。「千葉の家、本当に売れたの」倉本は手を止めなかった。お粥を一口食べ、スプーンを椀に置いた。ゆり子を見た。ゆり子は顔を上げていた。倉本を見ていた。目が、赤くなりかけていた。泣く前の目だと、倉本は思った。ゆり子はほとんど人前では泣かない。それでも、今、その手前のところに来ていた。長い間一人で抱えてきたものが、今夜の父親の顔を見て、限界に来たのかもしれない。
倉本は答えなかった。ゆり子は、倉本の返事を待った。倉本が答えないことで、答えが出ていた。ゆり子は、テーブルの上の手を、膝の上に下げた。「引き出しの中に、書類がある」とゆり子は言った。「お父さんが片付けようとしてたの。さっき、見てた。あの書類。見ていい?」倉本は、少しの間黙った。それから、ゆっくりとうなずいた。
ゆり子は台所の引き出しを開け、市役所の書類を取り出した。テーブルに戻り、広げた。百四十八万円という数字のある書類を、ゆり子は読んだ。読む目が、数字のある下りで一度止まった。読み終えてから、テーブルに置いた。それから、ゆり子は泣いた。声は出さなかった。ただ、目から涙が落ちた。ゆり子は手の甲でそれを拭った。もう一度、拭った。倉本はそれを見ていた。
ゆり子が人前で泣くのを、倉本は何年ぶりかで見た。あるいは、初めて見たのかもしれなかった。ゆり子が泣いているのを、倉本は長い間見たことがなかった。子供の頃、ゆり子は転んでも泣かない子だった。膝をすりむいて、口を一文字に結んで、黙って立ち上がる子だった。その子が、今、テーブルの向こうで泣いていた。台所の蛍光灯の下で、三十五歳のゆり子が、手の甲で涙を拭っていた。
倉本は、何も言わなかった。お粥の入った椀の前で、黙って座っていた。「ごめん」とゆり子が言った。「私が離婚のことを黙ってたから、お父さんも言い出せなくなって」倉本は首を振った。「そうじゃない」と言った。「そうじゃないよ」と繰り返した。ゆり子は、涙を拭っても拭っても、目から涙が落ちた。倉本はそれを見ながら、自分の中で何かが少しずつ緩んでいくのを感じた。固く結んでいた何かが、少しだけ溶けていくような感覚だった。
倉本は右手を、ゆっくりと伸ばした。ひびが入り、バンドエイドの貼られた手を、ゆり子の肩の上に乗せた。軽く、一度だけ叩いた。ゆり子が、声を立てて泣きそうになった。しかし、それをこらえた。ぐっと息を詰めた。肩が、小さく揺れた。倉本は手を引いた。二人は、しばらくそのままだった。倉本のお粥から、湯気が細くなっていった。外廊下を誰かが歩いて通りすぎる音がした。電車が、遠くを通った。
ゆり子は目を拭き、鼻を抑え、息を整えた。しばらくかかった。それから、テーブルの上の書類を手に取り、もう一度読んだ。今度は、落ち着いて読んだ。数字を確認するように読んだ。記述を確認するように読んだ。「十二月末が、期限なの」とゆり子は言った。倉本は「そうだ」と答えた。「今、どのくらい手元にあるの」倉本は「六十万少々だ」と答えた。正確な金額を言うことに、今夜はためらいがなかった。ゆり子が泣いた後で、隠すことが馬鹿らしくなっていた。ゆり子も、同じ気持ちで聞いているのが分かった。ゆり子はうなずいた。考えるような顔をしていた。しばらく書類の数字を見ていた。「一つ聞いていい」とゆり子は言った。「あの土地、市に渡すことはできないの」倉本は、少し考えた。ゆり子が言っていることの意味を、確認するように待った。ゆり子は言った。「あの土地を市に無償で譲渡したら、解体は市がやってくれるんじゃないかと思って。価値のない土地でも、空家の解体義務は、あっちにあるはずだから。正確には分からないけど、調べる価値はある気がする。調べてみようか、一緒に」
倉本はその言葉を聞いて、しばらくの間、何も言わなかった。土地を手放す。先祖から続いてきた土地ではない。倉本が三十年前に自分で買った家だ。そこには、特別な価値はない。和子が植えた柿の木がある。木は、土地の付属物だ。土地を手放せば、木も手放すことになる。それが何を意味するか、倉本は分かっていた。最後の根拠地を、完全に失う。根を失う。千葉という場所との繋がりが、完全に切れる。
倉本は、お粥を一口食べた。冷めていたが、食べられた。「調べてみよう」と倉本は言った。ゆり子はうなずいた。「私も調べる」と言った。「月曜日に、市役所に電話してみる」倉本は「分かった」と言った。その言葉の重さが、以前と違った。今夜、この台所で出た言葉は、嘘ではなかった。
その夜は、ゆり子が部屋に泊まった。ゆり子はソファを使わず、押し入れから出したもう一枚の薄い布団を床に敷いた。倉本が押し入れを開けようとすると、ゆり子が先に動いた。倉本はそれを止めなかった。素直に受け取った。ゆり子が布団を広げる音を、倉本は聞いていた。電気を消した部屋で、二人は横になった。倉本の体熱はまだあったが、お粥と補水液を飲んだことで、さっきより少し楽になっていた。体の芯の熱さが、わずかに引いていた。
天井が暗かった。電車の音が遠くから来て、建物の横を通りすぎた。線路の振動が、床を通じて体に伝わった。窓の外では、風が吹いていた。「お父さん」とゆり子の声がした。倉本は「何だ」と答えた。ゆり子は、しばらく間を置いてから言った。「私、会社に相談して、少しだけ仕送りできるようにするから」倉本は、言いかけた言葉を止めた。「いらない」と言おうとした。しかし、今夜それを言うことが、本当にゆり子のためになるかどうかを考えた。ゆり子は今夜、泣いた。ゆり子が泣いた時、倉本は肩を一度だけ叩いた。それで、何かが変わった気がした。「いらない」という言葉を、今夜は飲み込んだ。倉本は黙っていた。ゆり子は、それ以上何も言わなかった。二人の間に、言葉はなかった。次の電車が来るまでの静けさが、部屋を満たした。
翌週の木曜日、二人は川口から電車に乗った。乗り換えて、千葉まで向かう特急の中で、倉本とゆり子は並んで座った。ゆり子は窓の外を見ていた。倉本も窓の外を見ていた。車窓の景色が、都市から郊外へ、郊外から海沿いの道へと変わっていった。千葉の山と海が視界に入り始めると、倉本は長い間、そちらを見た。見慣れた景色だったが、今日は少し違う目で見ていた。
市役所の建築指導課の窓口で、ゆり子が担当者と話した。担当者は四十代の男性で、書類を見ながらゆり子の話を聞いた。倉本は隣に座っていた。ゆり子は、土地の無償譲渡について聞いた。担当者は少し考え、「確認させてください」と言って、奥へ消えた。倉本は椅子に座って待った。窓口の外の廊下を、市民が何人か通りすぎた。倉本はそれを見ていた。五分後に戻ってきた担当者は、書類を一枚持っていた。「空家対策の特例措置として、一定の条件を満たす土地を市に寄付する場合、解体費用を市が負担するケースがあります」といった。「ただし、土地の評価や状態によって条件が変わるため、正式な申請が必要です」と続けた。「また、申請中は、解体命令の執行が猶予される可能性もあります」とも言った。申請に必要な書類の一覧を受け取り、二人は窓口を出た。
廊下を歩きながら、倉本は中の書類を見た。申請書類の欄に、「土地の権利書」「固定資産税の納税証明書」とあった。どれも、倉本が川口の桜川台に持参した書類の中にある。「できそう?」とゆり子が聞いた。倉本はうなずいた。「書類はある」と言った。手続きに一ヶ月かかると、担当者は言っていた。十二月の末日が期限だったが、申請中は執行が猶予されるという説明もあった。倉本はその言葉を、手帳に書き留めた。担当者が言ったこととして、記録しておいた。
二人は市役所を出た。外は、十二月の冷たい空気だった。空は晴れていたが、風が強く、コートの前が開きそうになった。倉本は前を手で押さえた。ゆり子は、マフラーを首に巻き直した。「せっかくだから」とゆり子が言った。「家の近くまで、行ってみようか」倉本は、少しの間考えた。ゆり子が誘った意味を考えた。それから、うなずいた。
バスで旧宅近くのバス停まで向かった。降りると、辺りの様子が三ヶ月前より少し変わっていた。倉本が住んでいた路地の入り口に、「立入注意」の看板が一枚立っていた。路地の奥の方で、枝が折れた木があるのが遠目に見えた。路地を歩いた。ゆり子が、横に並んで歩いた。二人の足音が、湿ったアスファルトの上に響いた。静かな路地だった。人の声はしなかった。平岡の家の前を通ると、庭の野菜は完全に枯れていた。プランターの土が、割れていた。倉本の旧宅の前に来た。引き払ってから、三ヶ月が経っていた。庭の草が、伸びていた。玄関の引き戸の前に、落ち葉が積もっていた。自分が出ていく時、最後に手で払った玄関先は、今は誰も触れていない状態になっていた。壁に目をやると、雨じみが増えていた。屋根の端の一部が、引き払った時点よりも傾いているように見えた。
庭の奥の柿の木を見た。秋に色づくはずだった実は、今はもう落ちていた。木の枝だけが、冬の空に向かって伸びていた。枯れ枝が、空を区切っていた。和子がまだ若かった頃に植えた木だ。その木が、来年もここに立っているかどうかは、もう倉本には分からない。倉本はその木を、少しの間見た。ゆり子が、隣で同じ方向を見ていた。何も言わなかった。倉本も、何も言わなかった。二人が黙ってその木を見ている時間が、少しだけ続いた。冷たい風が路地を吹き抜けた。落ち葉が数枚、地面を転がった。倉本はコートの前を合わせた。ゆり子は、首元にマフラーを引き上げた。「帰ろうか」とゆり子が言った。倉本はうなずいた。
来た道を戻りながら、倉本は一度だけ振り返った。家の外観が見えた。壁が、傾いているように見えた。屋根の端が、見た目にも剥がれかかっていた。そういう状態の建物が、三十年前には倉本の家だった。和子と一緒に暮らした家だった。今は、誰の家でもない。そして、時期に解体されて、さら地になる。それが、この家の最後の形だった。
バスを待つ間、自動販売機の前に来た。ゆり子が財布を出して、小銭を入れた。缶コーヒーが出てきた。ゆり子が一本を、倉本に渡した。倉本は缶を受け取った。缶のぬくもりが、手のひらに伝わった。ひびの入った指先に、缶の熱が染み込んでくるようだった。倉本は両手で缶を持った。右手のひびが、缶の滑らかな表面に当たった。痛みより先に、ぬくもりがあった。二人は、自動販売機の横に立った。バスが来るまで、数分ある。道路の向こうに、海が見えた。十二月の海は灰色に近く、波が低く繰り返していた。漁船が、一層遠くをゆっくりと動いていた。空の端に、薄い雲がかかっていた。
缶のプルタブを開けた。コーヒーの湯気が、細く上がった。倉本は一口飲んだ。苦さと甘さが混ざった味が、喉から食道を降りていった。飲み込む時、喉の痛みがまだあった。しかし、三日前より薄くなっていた。ゆり子も、缶を開けて飲んでいた。二人は、しばらく並んで立っていた。海を見ているのか、道路を見ているのか、どちらとも言えない視線で、前方を見ていた。カモメが一羽、鳴きながら横切った。その声が、路地の空気の中に響いて、消えた。
「お父さん」とゆり子が言った。倉本は「何だ」と答えた。ゆり子は、しばらく間を置いた。缶を両手で持ったまま、海の方を向いていた。それから、言った。「仕事のこと、無理しないで」倉本は、缶を持ったまま前を向いていた。ゆり子の言葉の意味は分かった。しかし、「無理しないで」という言葉に返せる言葉が、倉本にはなかった。無理をしているかどうかは、自分でも分からない。ただ、必要なことをしているだけだ。それが無理なのかどうかは、必要が終わってからでないと、分からない。「分かった」と倉本は言った。ゆり子はうなずいた。それ以上、何も言わなかった。海の方を見ていた。
バスが来た。二人はバスに乗った。並んで座った。バスが走り出すと、窓の外を海が流れていった。灰色の海と白い波と、冬の光の中の景色が、後方へと遠ざかっていった。倉本は窓の外を見ていた。缶コーヒーは、まだ少し残っていた。手の中で、缶の熱が少しずつ薄れていった。しかし、完全には覚めていなかった。倉本は缶を、両手で持ち続けた。
土地はなくなる。家はなくなる。千葉との繋がりは、これで最後になるかもしれなかった。倉本はそれを分かっていた。分かっていて、今はゆり子の隣で、バスに揺られていた。二人の間に、言葉はなかった。言葉がなくても、隣に人間がいた。それが、今日ここにある事実だった。バスが海沿いの道を離れ、内陸へ向かった。車窓から海が見えなくなった。倉本は、前方を向いた。手の中の缶は、もう冷たくなっていた。
