「最終学歴が高校というのは事実かな。」
いつも通り仕事に励んでいた日、俺は突然呼び出された。相手は視察に来た本社の部長だ。最近新部長になったばかりだと噂に聞いたその男は、冷たい目をしていた。突拍子もない質問に面食らっていると、部長から次々と問い詰められる。俺の学歴を笑い、バカにし、最終的に「首」とまで言い放たれた。俺は部長を睨みつけた。
俺の名前は新井。40歳の会社員だ。うちの会社は主に建設機械を他の会社にレンタルしている。俺はその整備工場で整備士をしているのだ。20歳で今の会社に入社し、今では一級整備士の資格を有している。大型の建設機械を相手に、毎日油まみれになって働いてきた。国内でも扱える技術者が極めて少ない特殊な大型機械の整備も手掛けられるようになり、俺は自分に誇りを持っている。
子供の頃の俺は、とにかく自信がなかったように思う。高校は卒業したものの、外に出るのが怖い、人と接するのが怖いと言って、2年ほど自宅にこもっていた。外に出るたびに心臓が縮む思いがして、人の目が怖くて仕方がなかった。自分に価値があるとは到底思えなかったのだ。
そんな俺を見かねて、父はある人を俺の元へ呼んだ。それが今働いている会社の社長である。現在は病気で亡くなってしまっているのだが、父の恩人に当たる人で、俺の自立のために頭を下げてくれたらしい。
「無理はしないが、うちで働いてみないか」
どうせ父に頼まれたからで、俺に期待なんてするわけない。俺はひねくれた思考でいたが、その手を取ることにした。俺も心のどこかで分かっていたのだ。ここできっかけを自ら手放せば、きっと機会はない。俺はまた逃げ続けて、ひたすら逃げ続ける人生なのだと。
社長の手を取ってから、俺の人生は動き始めた。社長の恩義であることは伏せたまま、俺は学歴不問枠の入社試験と面接を経て入社した。入社当初は、正直毎日が苦しくて仕方がなかったという記憶がある。人が怖くてたまらない俺が、大勢の先輩たちの中でやっていけるはずがないと思っていた。それでも続けられたのは、他でもない先輩たちのおかげだった。慣れないコミュニケーションで挙動不審になってしまっても、先輩たちは俺を決して馬鹿にしたりしない。それどころか、俺のいい点を教えて自信をつけようとしてくれたのだ。
真面目にコツコツ、黙って機械と向き合う。この仕事は思っていたよりも俺の性に合っていたらしい。気がつけば夢中になり、俺はどんどん知識を吸収していった。整備士の資格3級から始まり、入社から10年以上が経った頃、1級を取得したのだ。こうして今に至る。1級を取ってから、さらに仕事の幅が広がったと思う。より難しい整備も可能になったし、取引先からも出張で整備を任されるほどだ。今の俺があるのは、社長や先輩たちのおかげだ。
そんなある日のこと。「新井さん、聞きました? 今度、視察が来るらしいですよ」と若い部下が話しかけてきた。俺は作業の手を止めて、ヘルメットを脱ぐ。
「視察? 珍しいな。一体誰が?」
「最近、経営企画部長になった人だって聞いてますけど、人手不足も続いてますし、人員を増やすかどうか見に来るとか」
俺は「なるほど」と頷いた。
「まあ、俺たちはいつも通り仕事をするだけだ。ほら、作業に戻って」
俺はそう告げると、黙々と手を動かし続けた。
部下から視察の話を聞いて数日後のことだ。聞いていた通り、ある人物が視察にやってきた。
「こちらは本社からいらした森本部長だ」
工場長からそう紹介された男、森本は冷たい印象の男だった。流れ的に一言挨拶する場面なのだろうが、森本は腕を組み、渋い顔のまま俺たちを眺めるのみだ。手元の書類に視線を落としたまま、工場の機械には目も向けようとしない。工場長が反応に困って、「では、君たちは通常通り仕事に励むように」と言って締めくくる。
「なんか怖そうな人ですね」
紹介の後、部下が小声で話しかけてくる。確かに睨むような目つきは気になったな。でも真面目なだけかもしれないし、緊張していたのかも。
「そうですね。部長になったばかりらしいですし」
ちらりと後ろを振り返ると、工場長と何やら話し込んでいる森本の姿が映る。印象だけで判断したら悪いよな。俺は心の中で呟いた。この時の俺は何も分かっていなかったのだ。森本が決して真面目な男などではないということを。
今日の作業が滞りなく終わり、間もなく定時を迎えようとしていた頃のことだ。
「君、ちょっと」
工場長に声をかけられ、俺は振り返った。工場長は困った顔で手招きしている。
「どうしたんですか?」
俺が近寄りながら尋ねると、
「実は、森本部長が……」
工場長によると、森本が俺を名指しで呼んでいるらしい。なぜ俺を、と尋ねても工場長は首を横に振るだけだ。
「私も訳を聞いたんだが、『突然君を呼べ』とそればかりでね。とりあえず事務所でお待ちだから」
工場長によると、俺たち整備工場に所属する人間の給与などの人件費に関するデータを閲覧していた際、急に顔色を変えたらしい。困り果てた工場長の顔を見ていると、こちらも居た堪れなくなる。
「そうですか。分かりました。では、ちょっと行ってきますね」
視察に来た部長が指名するくらいだから、よほどのことなのだろう。理由は全く思い当たらないが、俺は足早に事務所へと向かった。
事務所に行くと、険しい表情の森本が出迎える。
「君が新井君か。最終学歴は高校卒業とあるが、事実かな」
俺が着席するなりそう言われて、俺は面食らう。
「ええ、事実ですが、それが何か」
「しかも年収が2000万を超えている。そうだね」
俺の言葉を遮るように、森本は突き詰めてくる。高卒に年収。それが何だというのか。唐突すぎて頭が追いつかない。俺は困惑したまま頭の中でざっくりと計算する。細かい数字は何とも言えないが、確かに年収を計算すると、それくらいになるのかもしれない。俺はおずおずと頷いた。
「はい」
森本はじっと俺を見る。その瞳には明らかな軽蔑の色があった。一体突然何なんだ? 子供の頃にからかわれたり馬鹿にされた時のトラウマが、じわりと胸の中に広がっていく。それに似た不快な感覚から、自然と手に力が入る。
「率直に聞くが、高卒のくせに年収2000万の価値があるとでも思うかな。というか、なんでこんなに年収が高い? 何か悪いことでもしてるんじゃないだろうな」
森本は冷たく放つ。思いがけない言葉に、俺は間の抜けた声を漏らす。意味が分からないとしか言いようがなかった。確かに俺は高卒だが、地道に仕事をこなしてきたはずだ。2000万を超えるのは確かにすごいことだと思うが、それは俺の仕事を評価してくれているからこそ。そもそも俺が一級整備士であることは、森本も把握していることではないのか。混乱のあまり、ぐるぐると思考が渦を巻いていく。
俺が何も言えずにいると、森本はニヤリと表情を歪めた。
「君を雇い続けるなら、新人を5人雇う方がよっぽど費用対効果がいい。若いから、マンパワーも得られる」
「何がおっしゃりたいんですか?」
俺が短く問うと、森本は鼻で笑った。
「だから、首。ここまで言わなければ分からないか」
森本のその言葉を聞いた瞬間、俺は顔を上げていた。森本の嫌な笑みを見ていると、心の傷をえぐられるような気持ちになる。だけど、逃げたらだめだ。俺はまっすぐに森本を見据え、口を開いた。
「私はこの会社に入社して20年になります。その間、一級整備士の資格を取得し、実績を積んでまいりました。それは少し調べれば分かることです。年収2000万は確かに驚かれるかもしれませんが、正当な評価のもと頂いているものです」
俺はこの時はまだ、心を尽くして説明すれば分かってもらえると思っていた。丁寧に言葉を選んだつもりだったが、
「黙れ。何が一級整備士だ? 辞めたくなくて必死だな。仮に一級整備士の話が本当だとしても、年収2000万はありえない」
森本は、そんなものは関係ないと言わんばかりに一蹴する。あまりに軽く突き離され、俺は開いた口が塞がらない。その表情が面白かったのか、森本は吹き出した。
「いやはや、視察に来た甲斐があったものだ。部長になって早々、上司から人員を削減しろと言われた時はどうしようかと思ったが、君のような人間がいたとはな。高卒なら高卒らしく、それなりの仕事をして暮らせばいいのだ」
話し方から察するに、裏に上司が絡んでいるらしい。俺は静かに森本を睨みつけた。
「新井君のことは上に報告する。精査するから覚悟しておくように。不正に年収を得ていたと明らかになった時は、覚悟しておくんだな」
森本が笑い声をあげながら足を組み替えた。自分の発言に間違いがないと盲信しているのは明白だ。森本は俺という人間を知らなければ、現場も整備士の仕事も知らない。森本が学歴や数字でしか物を見れない、単純な思考の持ち主だということだけは、はっきりと分かる。俺が20年かけて積み上げてきたものを、理解しようともせずに踏み躙ったのだ。そうでなければ、「首」なんて言葉を簡単に口にできるわけがない。こんな男は許せない。こんな男を視察によこしたという上司にも不信感が募る。
「長年お世話になりました」
俺は短くそれだけを言った。その瞬間、森本は少し面食らった顔になる。もっと食い下がってくると思ったのだろう。俺としては会社に恩がある。だが、もう社長は病気で亡くなり、後を継いだのも俺とは関係のない人物だ。今まで真面目に働いて、十分恩は返したと思う。必要ないというのなら、それでいいだけのことだ。
「高卒だからという理由で私に『首』だと、言い放ったこと。私は決して忘れません。精査も好きにすればいい。然るべきところに相談させていただきます」
俺の言葉に、いよいよ森本は笑い始めた。
「なんだ? 弁護士にでも相談するとか? 君のような高卒の話なんぞ、碌に聞いてもらえないだろうよ。向こうだって勝ち目のない話なんか相手にしないさ」
俺は大笑いしている森本を尻目に立ち上がる。そして、そのまま黙って事務所を出た。
工場の駐車場に出ると、風が頬を撫でた。20年分の記憶が走馬灯のように過ぎていく。先代社長の顔、先輩たちの顔。何度も頭を下げながら技術を学んだあの日々。もう十分だ。高卒での解雇通告を受けた以上、ここに残る理由はない。退職届を出し、然るべき手を打つ。それが今の俺にできる唯一の筋の通し方だと思った。
森本に事務所に呼ばれてから1ヶ月が経過した。俺の選択は間違っていなかったと思っている。思い返せば、森本は上司の名前を口にしていた。うちの整備工場は人手が足りていない方で、人員削減どころか人員を増やしていたほど。それなのに人員削減しろというのだから、まるで現場を理解していない。そんな人間の元で、長く働いていこうと思えるほど、俺はお人好しではないのだ。
「またか」
俺はスマホに目をやり、ため息をつく。実を言えば、昨日からいわゆる「鬼電」と呼ばれるほどの着信が来ていた。一度は着信拒否にしていたのだが、別の番号になってさらにかかってくるようになっただけだった。相手が誰かは分かっている。留守番電話に何件かメッセージが入っていたためだ。俺はしびれを切らして電話に出た。スピーカーモードに設定し、手元では録音機器を作動させる。迷惑電話をかけてきた相手が誰か分かっているからこそ、必要な行為だと思ったからだ。
「森本部長、いい加減にしてください」
そう、相手は俺の退職のきっかけを作った森本、その人だった。
「やっと出た。おい、頼む。戻ってきてくれ」
森本は一方的に要件をまくし立ててくる。鬼電をかけて迷惑行為に走った挙句、挨拶もなしに要件を告げるとは。俺はうんざりしながら耳を傾ける。電話に出た以上、一応要件は聞いておこうと考えたのだ。
「実は大変なことになっているんだ。お前が辞めてから、何人も退職の申し出が……。それに定期検査が……。まさか、本当にお前が一級整備士だったなんて」
「自分から電話をしてきておいて、要領を得ない内容を垂れ流さないで欲しい。分かりやすく話していただけますか?」
俺は冷静に告げる。まあ、およその内容は推察できる。電話の向こうで森本は大きく息を吐き、改めて説明した。内容は、俺が推察した通りのものだった。森本の言う「大変なこと」というのは、大きく分けて3つ。
まず、一級整備士の俺が抜けたことにより、特定の定期検査が実施できなくなった。現在代わりの人間を募集しているようだが、そう簡単に見つかるわけもない。それから、俺が辞めたことを切っ掛けに、何人もの整備士が退職を訴えているらしい。俺が森本に事務所に呼ばれた時、工場長は気になってこっそり事務所に行ったそうだ。事務所の扉はお世辞にも厚いとは言えず、森本の発言は漏れていたのだ。そういえば、俺が事務所を出た直後、扉の外にいた工場長と顔を合わせた。工場長はひどく憤慨していたし、別に秘密にすることでもない。周りもどんなことがあったか知りたがったため、森本が俺に言い放った言葉は、またたく間に整備工場内に広がったというわけだ。俺が上層部に不信感を覚えたように、工場長や他の整備士たちも自分たちの行く末を案じたのだろう。
「そうですか。それは大変ですね。特定の検査ができなくなれば、整備工場としてできることは限られます。ましてや、そのための人員も激減してはね。でも、良かったじゃありませんか。人員削減をしたかったんでしょ」
俺が皮肉を込めて言い放つと、電話の向こうで森本が唸り声を漏らした。
「お、俺が人員削減したかったわけじゃない。上司がやると言うから。それに、ゼネコンが……」
森本の発言に、俺は目を細めた。最後の問題が、大手ゼネコンとの取引だ。ゼネコンが所有する特殊な大型建設機械の整備時期が迫っている。その整備は、元々俺に頼みたいという指名があったのだ。俺が退職した以上、他の者に頼むしかない。
「ですが、仕方ありませんよね。森本部長は私に『首』だと言い放った。不当も不当ですが、私は必要としているところへ行くだけです」
俺ははっきりそう告げると、
「頼む。待ってくれ。お願いだ」
と森本が懇願する。事務所に俺を呼びつけた時の威勢の良さは、どこにも感じない。声は震え、今にも泣き出しそうなほど弱々しかった。
「お前、弁護士にも依頼しただろう。会社に連絡が来た。挙げ句にゼネコン側から『示した。お前がいないとはどういうことだ』とクレームが来ている。それで上はカンカンだ。上司にも問い詰められて、俺はおしまいだ。俺はただ上司の言う通りに行動しただけなのに。上司に従えば安泰だったはずなのに」
最後は、もはや泣いていたのかもしれない。「やっと気づいたか」と俺は思った。だが、もう遅い。
「ええ、退職を決めてすぐに弁護士に相談させていただきました。幸い工場長が証言を申し出てくれましたし、不当解雇ですからね」
「まさか、本当に弁護士に頼るなんて」
さっきから「まさか」と繰り返し言う辺り、森本は見通しの甘い人間なのだろう。
「高卒だからと適当に私を選出したあなたが、愚かだっただけです。学歴と年収が見合っていないと思ったのなら、少し調べれば理由も分かったはず。自業自得ですね」
俺がなぜ年収2000万超だったかといえば、もちろん理由がある。一級整備士としての給与に加え、今回のゼネコンのような特殊な大型建設機の整備案件をこなすたびに、インセンティブが支給される契約になっていたからだ。国内でも扱える技術者が限られているその機械は、整備単価も桁違いに高い。大口取引先から直接指名を受けるたび、その報酬が反映されていたのだ。それらを説明してやると、森本は絶句した。
「ですが、お断りします。なあ、それから。この通話は録音していますから、弁護士に提出させていただきますね」
「えっ」
森本の驚きの声に、俺は苦笑した。迷惑電話を鬼電してきた相手の電話に出るんですから、警戒して当然だろう。何を言われるか分かったものじゃないですから。森本はまだ何か言いかけていたが、俺はそのまま問答無用で電話を切った。
「さて、新しい仕事を探さないとな」
俺は大きく伸びをした。
その後、本社社長から謝罪を受けた。
「あなたのように真面目で優秀な人を失ったのは、社長として私の責任です。誠に申し訳ありませんでした」
本社社長は、先代から俺のことを聞いていたそうだ。先代が繋いでくれた縁は、こんなところにも生きていたのか。俺はそう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。社長が言うには、森本は懲戒解雇になったそうだ。不当な言動に加え、俺に対する不当な解雇通告、そして今回の混乱による損失の責任。かなり重いものだが、本人に言った通り自業自得だろう。上司にいた役員も、今回の責任を強く問われているらしい。
俺はと言うと、幸いなことにすぐに次の職場が見つかった。今回の事件を聞いたお得意様の一社が声をかけてくれたのだ。来月から新しい職場でスタートを切る。高卒だろうが、一度立ち止まろうが、歩き続ければ未来はあるのだ。それを教えてくれた全てに感謝し、俺はこれからも技術を磨こうと思う。
