午後二時を回っても、田端ルナは姿を見せなかった。総務課の大崎ミキが、困り顔で俺のデスクにやってくる。
「課長、田端さんがまだ来てないんですけど」
大崎は入社四年目で、今では総務の何でも屋として欠かせない存在だ。遅刻や欠勤が日常茶飯事なルナのことだから、驚きはしない。ただ、昨日は少し注意しただけで泣き出し、「トイレに行ってきます」と言ったきり、事務室に戻ってこなかった。
「昨日、すみません。明日から心を入れ替えて働きますって言ってましたけど」
「ああ、あれか」
昨日の謝罪が嘘になることは、俺も薄々分かっていた。
ルナは十日ほど前、社長のゴリ押しで入社した新入社員だ。二十六歳で、専門学校を出たあとはキャバクラで働いていたらしい。履歴書代わりに手渡された書類を見たときは、思わず絶句した。キャバクラでの勤務歴が中心で、体験入店なんかも経歴として堂々と書いてある。中にはキャバクラ以外の風俗店で働いたことも、包み隠さず記載されていた。キラキラしたインクでハートや星の装飾まで施してあるのだから、お手上げだ。小学生の娘がいる身としては、こうはなってほしくないと心から思った。
「なあ、大崎。田端部長はこのことを知っているのか?」
田端ルナは、都心の支社にいる田端部長の娘だ。彼は人望が厚く、人当たりも良い。取引先の中には、田端部長じゃなければ交渉に応じないという客もいるほどだ。そんな誠実な部長の娘が、こんな状態で働いていることを知っているのか。知らせるべきなのか。大崎が心配していることは、俺も同じだった。
「本当に田端部長の娘なのか?」
「あの人、本当に私の父親ですよ。おはようございます」
俺と大崎が話している脇で、突然ルナがにこやかに現れた。カジュアルな私服姿で。
「今何時だと思ってるんだ?遅刻にもほどがあるだろう」
「だってキャバクラは、行きたい時に行けば良かったんだもん」
「ここは会社だ。酒を提供する店とはわけが違う」
「何よ、課長、私に注意するの?私は田端の娘だし、社長にも気に入られてるんだから」
切り札を出してきたつもりかもしれないが、俺は引かなかった。
「田端さん」
「ルナって呼んで」
「嫌だ。ここは会社だ。それより、君は酒を飲んでここに来たのか?」
「正解。駅前のバルでランチ飲み放題プランがあったから、朝ごはん代わりにビール飲んできたの」
大崎が思わず声を上げた。ルナは「課長に怒られて心が疲れたから、昨晩はホストの彼氏とアフターを楽しんだのよ」と続けたが、大崎の目はもう、汚いものを見るような目になっていた。
俺は大崎を仕事に戻し、ルナを応接スペースに連れて行った。
「君は会社を何だと思ってるんだ」
「自動的にお金が振り込まれるところでしょ。いるだけでお金もらえるって、なんかいいじゃん。キャバクラは日によってはお客さんがつかないと最悪だし」
「自動的にお金をもらえる場所じゃない。仕事をして会社に利益をもたらすから、給料をもらえるんだ。キャバクラだって、お客さんにボトルを入れてもらったり、フルーツを頼んでもらったりしてインセンティブをもらうんだろう」
「それはそうだけど。なんでこの私がコピー取ったり郵便局に行ったりしなきゃいけないのよ」
「仕事だからだよ」
「もっといい仕事ないわけ?海外出張して商談するとか、パソコンぱちぱち叩いて何十億の仕事を一瞬でこなすとか」
「そんな仕事はここにはない。仮にあったとしても、遅刻したり酒を飲んで出社する社員には任せられない」
「私が田端の娘だって分かって言ってる?」
「田端部長だって同じことをおっしゃると思うよ。ここに呼ぼうか」
「そんなことしなくていいわよ」
「じゃあ、最後のチャンスを与える。明日からはちゃんと起きて、酒を飲まずに出社できるな?」
「注意する気?」
「注意と受け取るか。これは教育的指導だ」
「注意するなら、お父さんに言ってやめるから」
まったく話を聞いていない。俺は呆れて言った。
「ああ、君がそれでいいならやめればいい」
するとルナは自分の手帳から一枚の小さな紙切れを取り出し、ペンでひらがなを書き、俺に突き出してきた。
「退職届。今日でやめます。六月十八日 田端ルナ」
「あ、ここに会社名を書いたらかっこいいな」
そう言ってルナは頬を膨らませ、会社名を書き足した。さらにバッグから小さな銀行印を取り出して、押した。
「反抗するんでしょ?これ、反抗されないように買ったんだ。他の書類にも押したから、練習になってるの」
もう、退職届という次元の話ではない。ルナはどんなに立派な印鑑かを解説し始めた。俺は呆れ果てて言った。
「ああ、その話はまた今度にしてくれ。これは人事部に提出する」
「じゃ、おしまいね。バイバイ」
ルナはそのまま会社を去っていった。
俺は田端部長がいる支社に電話を入れた。夕方、大急ぎで車を飛ばして本社にやってきた田端部長は、そのふざけた退職届を見て愕然とした。
「申し訳ない。娘が……」
深々と頭を下げられたが、田端部長はルナがこの会社に入社したことをまったく知らなかったという。
「ルナは兄貴の娘でね。私が引き取ったんだよ」
ルナは田端部長の兄の娘で、一度は母親が育てることになったが、捨てられたも同然の形で置き去りにされたのだという。ルナが原因で兄夫婦は不仲になり離婚。行き場を失ったルナを、田端部長夫婦が引き取って育てた。その時、ルナはすでに中学生で、不良の娘に仕上がっていたらしい。
「この退職届を有効にしてほしい。彼女には、少し痛い思いをさせないとダメかもしれない」
それにしても、なぜ社長がルナを入社させたのか。田端部長も、それが不思議でたまらないようだった。
田端部長は紙切れ一枚を持って人事部へ向かった。
それから一週間が経った頃だ。朝の定刻に、突然ルナが現れた。
「おはようございます」
社員全員が冷ややかな目でルナを見る。
「何よ。田端ルナが出勤してやったのよ。なんて目で見るのよ」
「出勤?ここは夜の店じゃない。会社だぞ」
「そんなこと分かってるわよ。だから心を入れ替えて来てやったんじゃない」
「随分と長い反省期間だったな。ただ、遅かったよ。もう君の退職届は受理されたし」
「え?あんな紙切れが通用するの?おかしくない?」
「文字や印鑑は押してあったからな。書籍として成立していた。人事部が自己都合による退職として受理したよ」
「それは向こうでしょ。私は誰だと思ってるの?田端の娘よ。ふざけないで」
「俺自身、君を首にしようと動き出したけど、田端部長が『退職届があるんだから』と自己都合による退職でまとめてくれたんだ。感謝しろよ」
「なんで父親が関わってくるのよ」
「秋の異動で、田端部長は本社に戻ってくる内定があるからだ。その前に、部長にとってネガティブな要素は断ち切っておきたかったんだろう」
「私がネガティブな要素ってこと?」
「それは俺が言うことじゃない。それより、君はどうして今になって出社してきたんだ?」
「働かないと生活できないって分かったからよ」
「キャバクラに戻れば良かったじゃないか。日のいい仕事なんだろう?」
ルナはここで睨みつけてきたが、やがて視線を落とし、シクシクと泣き出した。
「戻れなかったのかい」
泣き落としにはもう騙されない。数週間前にも、泣きながら心を入れ替えて働くと言っていたのだ。俺はルナがこの職場を去ってからの一週間で分かったことを、話すことにした。
「売掛金を抱えたまま、複数の店を飛んだんだってな」
ルナの顔色が変わる。
「お客さんのツケが不良債権化すれば、担当のキャスト、つまりキャバ嬢が付けを肩代わりすることになる。君はその肩代わり分を清算しないまま、姿をくらましていたんだろう」
「それは、支払わないお客が悪いんでしょ」
「そうだな。本当はな。けど君が店を飛んでしまえば、責任を追うのは君になっちゃう。店同士で情報が回れば、どんなに名前を変えたところで要注意人物だ。夜の世界には戻れない」
痛いところを突かれたルナは黙り込んだ。
「それと、君は連帯保証人としてホストの借金の肩代わりをしたんじゃないか?」
「え?何それ」
「この前、婚姻届に印鑑を押す練習だとか言って、彼が出してきた書類に署名捺印しなかったか?」
「署名捺印?何それ。印鑑を押したのは事実だけど」
「それだ。君が闇金から二百万借りたことになってるらしい。うちの会社に柄の悪いおじさんたちが押しかけてきたよ。君の彼氏は、その金を持って逃げた」
「嘘!嘘よ!」
ルナがスマホで彼に連絡を取ろうとしたが、電話もメッセージも通じなかった。
「婚姻届も嘘だったってこと?なんちゃら証明を取りに印鑑を持って役所まで行ったのに」
多分、ルナが言う「なんちゃら証明」とは「個人の証明書」のことだろう。印鑑証明を取らせて、借金を仕組んだのだ。ホストはルナを騙し、無防備な状態で金を騙し取ったのだ。
ルナも、うっすらとだが、自分が置かれている立場を理解したようだ。
「じゃあ、パパを呼んでよ」
「田端部長なら、もうすぐ来ると思うよ」
「違うわ。そのパパじゃない。めぐっちょ」
「めぐっちょ?」
ルナはバッグから名刺入れを取り出し、一枚の名刺を俺に差し出した。
「この人よ」
名刺には、見覚えがある。まさしくうちの会社のもので、目黒社長の名前が記載されていた。
「目黒社長?めぐっちょ?お金をくれるパパだったのか?」
俺は頭を抱えてうずくまってしまった。パパ活の相手が、弊社の社長だなんて。
「最近金払いが悪くなってキャバクラの台も飛ばしやがったんだよ。めぐっちょの家に乗り込んでやったら、月三十万の給料をやるからうちの会社で働けって言うから来てやったのに、これってありえない」
「まさか、社長が……」
「前の店に来てたお客の一人が会社社長だって言うから名刺を狙ったら、父親の勤務先だし。このおっさん使えると思ってパパにしてやったのに、これじゃただのキモいおっさん。三回ぐらい我慢して相手してやったのに、損したわよ」
収集がつかない事態になってきた。俺だけでどうにかできる話ではない。俺は頭をクラクラさせながら、なんとか立ち上がった。そこへ田端部長がやってきた。俺はこの十分ほどの間に起こった出来事を、すべて話した。
田端部長は顔を赤くしたり青くしたりしながら、唸るように言った。
「会社に闇金の取り立て屋が来た。社長とパパ活していた。売掛金を清算せずに店から姿をくらました」
怒りに満ちた口調だ。ルナの顔色が、途端に変わる。田端部長は、娘にとっても怖い存在なのだろう。
「神田課長、社長を呼びました。ルナさんの名前を出すと来ないと思ったので、嘘の内容で呼び寄せてあります」
大崎が状況を判断し、社長室に電話を入れて社長を呼び寄せていたのだ。社長が急いで事務室へ飛び込んできたが、ルナ、田端部長、俺、大崎が揃っているのを見て、何かを察したようだった。
「社長。田端ルナさんは田端部長の娘さんです。パパ活の事実とは、いかがなものでしょうか?」
社長とルナが夜の関係を持っていたという内容は、俺でも頭がクラクラする話だ。大崎はそんなことを淡々と社長に告げた。
「恐れ入りますが、これまでの皆さんの会話を録音させていただいております。こちらは人事部に提出いたします。先日、反社的な勢力の方が二名、この総務課を訪れてからずっと記録を取っております」
大崎のこの対応が、社長の逃げ道をがっちりと封じた。
その後のことだ。ルナの退職は、使用期間十四日以内だったため、正当なものとして扱われた。社長はパパ活の事実を役員会で追求され、解任に至った。ルナに強請られて、会社への入社を許したと社長は話していた。だが、飲み会を付にしたまま支払わなかったことが発端だと役員会で指摘された。月三十万のパパ活資金を、会社の給与として提供すると考えることもできた。これらを覆すことができず、社長は組織から追放されてしまった。
田端部長は父親としての責任を取り、退職届を出したが、直接の関係がないということで、減給処分にとどまった。
ルナは、ホストの彼に騙されて借金を背負わされた事実と、闇金に追われていることを警察に届け出た。売掛金の滞納については、田端部長が立てた弁護士と店との間で話し合いを行うらしい。
ルナは、結婚の約束をしたホストの彼が、また自分の元に戻ってくると強く信じている。今回の出来事のショックが大きすぎたため、心が夢の中へ逃げ道を作ったのだろう。ルナの挙動がおかしくなったため、田端部長は山の上にある病院へ入院させたそうだ。
怒涛のような数週間が過ぎ、やっと以前と同じリズムで仕事を進めることができるようになった。新しい社長が就任したが、今度の社長は、真面目さだけは日本一と呼ばれる人物だ。突然、社員を連れてくることもなさそうだ。
俺は、平穏無事に過ごせるのが一番だと、噛みしめている。
