父の定年退職まで、あと一ヶ月。父の会社では六十歳の誕生日がそのまま退職日となる。私は父の誕生日と退職を一緒に祝おうと、こっそりプレゼントを用意して、その日を心待ちにしていた。ところが、その直前にかかってきた妹からの電話で、そんな浮き立つ気持ちは一瞬で吹き飛んでしまった。
私はあみ、三十二歳の独身女性。しっかり者だと周囲には言われるが、そのせいかどうか、いまだに彼氏はいない。就職を機に家を出て、今は賃貸マンションで一人暮らしをしている。二歳下の妹のり子は、甘やかされて育った。見た目も子供の頃からアイドルのように可愛らしく、誰からも愛される子だった。特に母の入れ込みようは凄まじく、二人が小学生に上がると、当時流行っていたチャイドルにさせようと芸能事務所に所属させたほどだ。
残念ながら妹は芽が出なかった。だが母は、その理由を「細身でブスな姉がいるから、り子も将来姉に似てくると思われたに違いない」と、私のせいにした。ますます妹ばかりを可愛がるようになった。例えば、お風呂に入る順番は、いつも妹が先で私が後。妹の方が体格が良かったからというのもあるが、母は「お前に回すお金がもったいない」とはっきり言ったことがある。食事だって妹の方が豪華だった。同じ肉料理でも、り子には赤身の部分、私には脂身だけといった具合で、注ぐ愛情の量が明らかに違っていた。
父も、自分に似ている私より妹の方を大切にしていた。会社の部下が家に来ると、紹介されるのはいつもり子だけだった。「まるでモデルさんのようですね」「将来すごい美人さんになりますよ」などと言われ、目尻を下げていた父の顔を、今でも鮮明に覚えている。
そんなり子は、二十五歳の頃に玉の輿に乗った。相手は大手企業の部長の一人息子で、両親は彼女にデレデレで、彼女の望むものは何でも買い与えているようだった。いかにもセレブ妻という感じだ。
彼女から、父の定年退職と誕生日の一ヶ月前、突然電話がかかってきた。り子は私を下に見ていて、彼女の方から連絡が来ることなどほとんどない。驚きながら応答すると、り子は言った。
「お父さん、もうすぐ退職でしょ。偽邸住宅をお父さんの退職金で建てようと思ってるの」
「偽邸住宅? お父さんとお母さん、誰が住むのよ」
「私と夫の健造に決まってるじゃない」
「え、だってあんたたち、タワマン買ったんじゃないの? 」
り子の頭の中には「セレブ妻ならタワマン」という公式があって、新築タワマンの上の方の部屋を結婚と同時に購入したはずだ。
「ああ、私、実は妊娠したの。だから実家に住んだ方が何かといいかと思って」
「それって、子育てをお母さんに押し付けるってこと? 」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。お母さんの方から、子供の面倒を見たいって言ってきたんだからね。偽邸住宅にするなら同居するけどって提案しただけよ」
「ふーん。父さんや母さんがそれでいいって言うなら、私は構わないけど」
「いいに決まってるでしょ。可愛い娘と孫が同居するんだから」
「でも健造さんは、義理のお父さんになるわけでしょ。いいって言ってるの?

」
「あいつの意見なんか関係ないのよ。お金だけ出してくれればいいんだから」
やれやれ。健造さんも、こんなのを妻にして、お気の毒なことだ。
とにかく、詳しい話を聞くために、週末に実家に行くことにした。
土曜の午後、実家に行くと、すでにり子が来ていて、リビングのテーブルの上には住宅メーカーのパンフレットが山積みになっていた。どうやら母とり子の二人で、住宅展示場をしょっちゅう回っているらしい。
「色々見て、知り合いの工務店にも話を聞いたんだけど、偽邸住宅の費用が大体二千五百万くらいなの。お父さんの退職金が二千万くらいらしいから、足りない分はうちで出そうと思ってるの。そうすればローンもほとんど組まなくていいから、安心して住めるでしょ」
り子夫婦もお金を出し、両親も賛成しているのなら、私が口を挟むことではない。
「分かったわ。父さんの退職金の使い道については、一切口を挟まないから」
そう言って席を立とうとすると、り子が「待ってよ」と止めた。
「ここからが本題なんだけど」
り子はじっと私を見つめると、そう切り出した
「姉さん、実家とは関わらないでくれる?. 両親の面倒は全部こっちで見るから。姉ちゃんに余計な口出しして欲しくないのよね」
「は? それって、私に二度とこの家に出入りするなってこと? 」
意味が理解できず問い返すと、り子は「そうよ」とはっきり言った。
「それと、お父さんの遺産を放棄して欲しいの」
驚いた。父はまだ六十歳。平均寿命まであと十五年くらいはあるはずなのに、もう遺産のことを口に出すなんて。思わず父の顔を見ると、父はちょっと決まり悪そうに私から目をそらしながら言った
「色々考えたんだが、独身のお前は仕事が忙しくて、今後私たちに介護が必要になった時でも、あまり助けてもらえないんじゃないかと思ってな。その点、一流企業の旦那さんを持って専業主婦のり子の方が、頼りになる」
「なるほどね。自分たちの幸せな老後のために、私を切り捨てて、り子一人で行くってことね」
「本来なら、あみが結婚してこの家を継ぐべきでしょう。それなのに、これまでまともにお付き合いした男性は一人もいないんでしょ。そんな情けない子に、我が家の財産を引き継がせるわけにはいかないわ」
母の気持ちが分からないではない。実家は田舎にあり、二十五歳を過ぎて結婚していない女性は、今でもあまり良く言われないのだ。でも「情けない」とまで言われるとは。
もうこの人たちと繋がっていても、いいことは何もない。そう思い、私は一言だけ返した
「分かった」
私は、り子が差し出した書類を確認した。「父の退職金の使い道には一切口を挟まないこと」「父がこの世を去った後の遺産を放棄するすること」「両親の介護はり子夫婦が全て行うこと」「私が実家に関わらないこと」がしっかり書かれているのを確認した上で、最後に一文だけ入れてもらうことにした。
「万が一、契約を破棄したくなっても、両親やり子側と私、双方の合意がなくては、契約は解消できないってことでいいわね」
実は、偽邸住宅の話を聞いた時、ちょっと引っかかることがあったのだ。そのため、後になって「あの契約は向こうの都合で簡単に破棄できる」と言われては困る。こちらが不利になるのを防ぐため、あちらが私を内がしにするなら、こちらも自分を守らなくてはならないと思ったのだ
そして一ヶ月後、母から電話がかかってきた。
「あんた、結構稼いでるんでしょ?
少し立ててくれないかしら? 」
「いきなり何? 」
「偽邸住宅のことで、ちょっと費用が足りなくなってね。百五十万ほどなんだけど」
「デートする相手もいないあみなら、貯め込んでるでしょ」
お金をくれというのに、その傲慢な態度。そしてその額を聞いて、私は「この前引っかかったこと」だとピンと来た
「家の解体費用でしょ? 」
り子たちは偽邸住宅を新築することにしたため、今立っている家を取り壊す必要がある。り子たちの話を聞いた時、偽邸住宅を建てる費用ばかり話していたため「もしや」と思ったのだが、どうやら住宅メーカーや工務店が提示していた額は、あくまで偽邸住宅そのものを建てる費用だけだったらしい。古い家の解体費など、いわゆる付帯費用は含まれていなかったようだ
「ってか、仮住まいや引っ越しは用意してあるの?
」
「え? 」
「あらあら、そっちも計算に入っていなかったのね。家を全面的に立て替えるのなら、その工事中の仮住まいが必要になるし、引っ越しだってかかるわ」
「そちらも百五十万程度かかると言われているので、解体費用と合わせて約三百万、用意しなくてはならない」
母にそう説明すると、母は泣きそうになりながら「援助してくれ」と懇願してきた。子供の頃あれほど私を蔑ろにしたくせに、今更気の毒だとは思ったが、私はきっぱり拒絶した
すると父が電話を変わった
「なあ、お前は優しい子だろ。しいた両親に、古い家じゃなく、新しい住まいを与えたいと思ってくれないか」
登場を買うようなセリフだが、こちらも私は一歩も引かない。
「お父さん、私はり子から『実家とは手を切れ』って言われてるのよ。だから、余計な口を挟まない代わりに、手助けも一切しないから」
それだけ言うと、一方的に電話を切った
すると数時間後、今度はり子から電話がかかってきた
「お姉ちゃん、三百万くらい払いなさいよ」
「だって『実家とは関わらないで』って言ったの、そっちじゃないの? 」
「そりゃそうだけど、お姉ちゃんがこのまま独身だったら、お姉ちゃんの老後は私や私の子供が見ることになるじゃない。実家に戻ってくる可能性だって十分あるんだから、少しぐらい援助してくれたっていいでしょう」
妹にまくし立てられ、私はうんざりした
「大丈夫よ。絶対あんたたちの世話にならないよう、ちゃんと考えてるから」
そう告げると、途中で電話を切った。
しかし、り子がこのまま引き下がるわけがなかった。翌日から毎日のように電話をしてきては、私をなじるように言うのだ
「血も涙もない」「親を見捨てる気だ」
大声でわめくものだから、さすがにノイローゼ気味になった。仕事にも支障が出るようになり、考えた末に、私はり子の夫である健造に連絡をした。両親はすでにり子側だから、何を言っても無駄だろうが、健造ならなんとかしてくれるかもしれないと思ったのだ
そして、私は驚くべきことを彼から告げられた
「お姉ちゃんのせいで、健造が離婚することになったじゃないの。どうしてくれるのよ」
健造に止められたらしく、しばらく連絡が途絶えていたり子が、私に怒りの電話をしてきたのは、それから三ヶ月後のことだった
実は、健造と電話で話をした時、彼が今回の偽邸住宅に反対していること、さらには健造がリストラされたことを聞かされたのだ
「最終的な就職先はもう決まったんですが、給料がこれまでの三分の二くらいでして。のままタワマンのローンを払い続けるのはきついので、売却して僕の両親と同居しようって話が出たんです。その途端、り子が『彼女の実家を偽邸にする』って言い出して」
「なるほどね。旦那の両親との同居なんて、り子が我慢できるわけないから、急に偽邸住宅なんて言い出したのか」
「しかも、聞いたことないような小さな工務店に頼むって言うんですよ」
「でも大学時代の友達が経営するところだから安心だとか言ってん」
「あのセレブ気取りのり子が、友達ってだけで無名の工務店なんかに頼む? 」
疑問を感じた私は、健造に提案し、新所にり子のことを調べてもらうことにした。
すると、り子がその工務店を経営する男性と不倫していることが分かったのだ
お金はないし性格も悪いが、顔だけはいいというその男は、り子の大学時代からの彼氏で、り子の方がべた惚れだったらしい。健造と結婚してからも関係が続いていたようだ。そしてその男の工務店の経営がここ数年かなり傾いていることを聞かされた。
り子は彼に偽邸住宅を建てさせようとしたのだろう。
「お姉ちゃんのせいで、偽邸住宅の話は危うくなるわ。健造が離婚を言い出すわ、私の計画は全ておじゃんだわ。責任取りなさいよ」
「不倫に関しては、あんた自身の問題でしょ」
「それに、お父さんの退職金で偽邸住宅の費用の大部分が支払えるんだから、足りない分は健造さんじゃなくて、あんたが出せばいいじゃないの」
「貯金なんかないわよ。家具とか家電とか、バンバン買っちゃったんだから」
「じゃあ、その不倫相手に偽邸住宅の値段を下げてくれるよう頼めばいいじゃない。間取りを変更するとかもできるでしょう」
「いやよ、せっかく彼が色々私のためにって考えてくれた設計に、ケチつけるなんて」
「ああ、そう。じゃあ、請求された額を払うしかないんじゃない」
とにかく、何と言われようと、私は一銭も援助する気はない。はっきりそう意思表示すると、り子は反撃に出た
「ああ、もう、健造と不倫相手の奥さんから慰謝料請求されちゃったのに」
どうやらり子は、何らかの理由をでっち上げて健造に非があると主張し、離婚と同時に慰謝料もせしめることを計画したようだ。
しかし、調査の結果を見た健造が先手を打ち、離婚と慰謝料を要求してきたというのだ。正確には、健造ではなく彼の両親だ。息子がり子に騙されていたことに激怒し、有能な弁護士をつけて慰謝料を請求してきたという
「しかも、り子のお腹の中の赤ちゃんのDNA鑑定もしろって言ってきてるらしいのよ」
「鑑定すればいいじゃない。養育費払ってもらえるでしょ」
「そ、それ、あ、そう、不倫相手の子なのね」
「お姉ちゃんが探偵所なんか使って、全部ぶっ壊したんだから、訴えてやる」
「確かに探偵所に頼むことを健造さんに提案したのは私だけど、申し込んだのも、費用を払ったのも、健造さんよ。だから私を訴えても無駄だと思うけど」
そこまで言うと、母が電話口に出てきた
「もう来月から、家の解体が始まるのよ。お願いだから、援助してちょうだい」
「悪いけど、私『実家には関わらない』って約束させられたから」
「ああ、まだそんなこと言ってるの?
」
「それに、り子が依頼した工務店の建てる偽邸住宅じゃない. 私はその工務店が経営不振になっていることと、その理由を教えてあげただけよ」
実は、健造の両親がり子を追い詰めようと、探偵所にお金を払って彼女の辺を徹底的に調査させていたのだ。浮かび上がってきた疑惑の工務店の内情を、私の実家での立場に同場していた健造が教えてくれたのだ。「一緒に戦いましょう」と言って。
それによると、その工務店は非常に評判が悪く、ネットの掲示板にも苦情がわんさとあった。手抜き工事ばかりで、やり直しをさせられたり、訴えられたりで、大赤字なのだという。
「り子との愛の巣だから、多少はましかもしれないけど、数年もすれば雨漏りとかひび割れとかできてくるんじゃない? そんな家のためにお金を払うなんて、ごめんだから」
それだけ言って、私は電話を切った
その後、り子たちは離婚した。り子は、健造と不倫相手の奥さん双方から、計一千万近い慰謝料を請求されたようだ。さらに不倫相手の奥さんからは、子供二人分の養育費も請求されたという
それなのにり子は、不倫相手をつなぎ止めるため、偽邸住宅の建築を強行したらしい。
そのかいあって、不倫相手は奥さんと離婚し、新築の偽邸住宅に転がり込んできたそうだ。
だが結局、彼の会社は倒産するし、建てた偽邸住宅は予想通り、数年もすると雨漏りやひび割れが目立つ状態になった。今はり子と不倫相手と両親が、お互いを罵り合いながら、必死に働いて借金を返しているようだ。
り子など、子育てもあってボロボロらしい。
まあ、全員自業自得だろう。
私の方はというと、健造と彼の両親に気に入られてしまい、しょっちゅうお誘いが来るようになった。「決断力があり、自立しているところがいい」のだそうだ。
今のところ、彼とお付き合いするところまではいっていないが、こんな私を好きになってくれる男性がいたことが、ちょっと嬉しい。
どうなるかは分からないが、結婚についてもう少し真剣に考えようと思っている。