空港のロビーで、課長が私の目の前でこう言った。「パートと契約の雑魚を連れていくと思うか。あんたたちは留守番だ」と。私は五十歳。長年海外で働き、最近日本に戻ってパート社員として入社した。神崎さんという契約社員の女性と共に、ロンドン本社の研修旅行に参加するはずだった。彼女は五年目の契約満期を控え、正社員登用を夢見て必死に働いていた。課長は彼女に「お茶を持ってきたら考えてやる」と笑いながら言い、学…

空港のロビーで、課長が私の目の前でこう言った。「パートと契約の雑魚を連れていくと思うか。あんたたちは留守番だ」と。私は五十歳。長年海外で働き、最近日本に戻ってパート社員として入社した。神崎さんという契約社員の女性と共に、ロンドン本社の研修旅行に参加するはずだった。彼女は五年目の契約満期を控え、正社員登用を夢見て必死に働いていた。課長は彼女に「お茶を持ってきたら考えてやる」と笑いながら言い、学...

俺の名前は風信彦、五十一歳。人は俺を独身貴族と呼ぶ。独り身でここまで明るく楽しく、それなりに生きてきた、と言えば聞こえはいいか。

学生だった頃、まだ何者でもない若者たちの間で旅ブームが起きていた。安く貧乏旅行がいくらでも可能だった時代だ。今の時代からすれば信じられないほど気楽で、時間のある若者には刺激的な流行だった。大学生だった俺もその波に乗り、バイト代と最低限の荷物を握りしめて旅に出た。アジアへ向かい、そこで知り合った人たちと欧州へ渡った。大学に通いながら海外での生活を楽しみ、それがそのまま自分の人生を作り上げる起点になった。旅先で出会った貿易会社にそのまま就職し、長い間そこで働いてきた。

身軽なのも結構だが、せめて一度でいいから結婚したらどうだ。お前は一人息子なんだからな。両親は俺の行動を認めながらも、将来を案じて結婚と孫の顔を望んだ。だが俺は一人身だ。そして初めての転職を経験したのは、つい最近のことだった。同じ業界内で、とある貿易会社にパート社員として入社したのだ。

五十歳で初めての転職に、我ながら構えていた。旅の気分で生きてきた自分には、きっちりとした雰囲気の中で働くことに違和感があった。社会人経験は積んでいても、これまで折り目正しさを求められたことはなかったのだ。

「あの風さんも、ある程度自分の自由な考えで動いてもらっても結構ですよ」

「ああ、そうですか」

「ええ、そうすると効率のいいやり方が見つかりますから」

俺の指導係をしてくれているのは、契約社員の神崎さんという女性だ。彼女の契約期間は今年で五年になるという。の会社では契約社員の満期は五年と決まっているらしく、彼女の先は今、見えていない。仕事はできる。うまい。業務は全て頭に入っていて、動きもしっかりと段取りが取れている。彼女ばかりではない。この会社にはそんな人たちが多かった。肌が明るく、ビジネスライクも感じさせながら親切に働く。会社が好きだという人も多く、神崎さんもその一人だ。だからこそ彼女は正社員へのステップアップを望んでいるのだという。仕事の出来と成果からすれば、文句なしでその望みは叶うはずだ。だが彼女の前には、この会社で最初にして最大の難関が立ちはだかっていた。

「正社員になりたければ、せめて誰もが知っている大学を出るべきだったな」

俺と神崎さんが席を置く部署の課長、近藤さん。俺の二つ年上で、有名国立大学を出た優秀な人物だという。仕事もきっちりこなし、アイデアマンでもある。確かにできる人ではあるのだが、自分に溺れて自己評価を上げ、他人にもそれを基準に接してしまう。それゆえに、神崎さんの正社員登用への希望を受け入れずにいる。

私の中では学生時代の功績と成績も大事にしたいものなんだ。実力がどうと言われても、学歴と教養がなければ人間的に差がつく」

そんなわけのわからない理屈を通して、近藤課長は神崎さんをけなす。彼女は語学系の専門学校出身で、卒業時は主席、留学の経験もある。語学力を図るテストのスコアも高レベルだ。貿易会社にはそれだけでも十分な戦力となり得る人材だと思うが、近藤課長のセンサーでは不適格な人物らしい。

「風さん、あなたもいい年してパートとはね」

課長は中途のパート社員である俺のこともこけにする。

「まあ、大学は出ているらしいけど、それでも五十で会社を飛び出す人間なんて信用ならなくてね。そんなもんだよね」

「あ、まあ、そうかもしれませんね」

課長の言葉を受け流してはいるが、俺の中では超問題人物だと思っている。今時の物差しを課長に当てれば、何かしらのハラスメントに引っかかる。自覚がないのは本人だけだ。

「神崎君、お茶早く持ってきて。正社員になりたいんでしょ」

課長は神崎さんをからかって楽しんでいる。社員にする気もないのに、彼女の願いと希望を自分の遊びに利用していた。

「すみません、課長。そういったことはご自分で」

「なんだ、お茶を持ってきてくれたら、正社員にしてあげられるかもしれないんだぞ。ああ、それから毎朝の掃除を一人でしてくれたらな。それから俺に昼飯を奢ってくれたらね」

ニヤニヤと笑いながら、課長は神崎さんを追い詰めていく。

「まあ、昼飯はいい。その代わりコピーとメールの確認は君が全部やれ。会議室の準備、資料の手配と作成もな」

「あの、それをしたら正社員に、知ってあげられるかもしれないんだよ」

課長は神崎さんにかなり希望を持たせるかのように、足元を見る。思いつく限りの雑用と、普通ならそれぞれが片手間にこなす小さな仕事を課して、必死に動く神崎さんを眺める。課長は自分の席でふんぞり返りながら、彼女を笑っていた。

秋になり、ロンドン本社の視察を兼ねた研修旅行が行われることになった。同行者として家族も連れて行けるという。数年前にロンドンに拠点を置く貿易会社の傘下に入っていた会社にとって、初めての取り組みだっていた。それを前に課長はもちろん、会社の上層部はとにかく張り切っていた。

「私、両親を誘ってみようかな」

神崎さんは同僚たちにそう言っていた。俺は一人で参加を決め、早々に申し込みを済ませた|

「私、留学はカナダに行ったんです。あの頃は旅も安かったし。でも本当はイギリスに憧れていて」

「じゃあ、今回はいい機会ですね」

「ええ、普段色々あるけど、悪くないですよね」

日常ではストレスのたまる日々を過ごす二人も、研修旅行には前向きだった。なにせ神崎さんのご両親は、海外旅行の経験がないというのだ。彼女は家族三人での申し込みを済ませ、当日を心待ちにしているようだった。俺も久々の旅を前に、そとと荷物をまとめた。数年ぶりの旅。しかもかつて慣れ親しんだ欧州に行けるのは、楽しみで仕方なかった。

旅行当日、集合場所の空港のロビーで課長が全員をまとめて声をかけた。

「じゃあ、チケットは持ったな」

俺と神崎さんの周囲は、カバンから航空券を取り出すが、俺たちにはない。

「失礼ですが、私と神崎さんはまだ受け取っていませんよ」

「あ、あの、両親の分も」

俺と神崎さんが手を挙げると、課長の大きなため息が響いた。

「なんでそう野暮なのかね。そもそも研修旅行に参加しようとする時点で、図々しいんだよ」

「あの、それはどういうことでしょうか」

「あのね、パートも契約も来ていいっていうのは建前よ。そこはあんた方が空気を読まないと」

「しかし課長、会社は参加してもいいと」

「だから、契約でしかいられないんだよ。品もないな、全く」

「しかし、会社は認めているわけですから」

「あのな、本気でパートと契約の雑魚を連れていくと思うか。あんたたちは留守番だよ。とっとと会社に戻って、大人しくしてるんだな」

課長は嫌味を垂れ流して、最後はこれで終わりだと手を打った。戸惑う周囲には構わず、声をかけてゲートに向かう。

「ああ、どうしよう」

神崎さんは呆然とつぶやきながら、両親に謝っていた。若くはない両親に、日頃の頑張りを見てもらえる機会だと思っていた彼女にとって、それはもう大きな衝撃だっただろう。彼女の両親も何も言わず、肩を叩いていた。

「ちょっと待っていてもらえませんか」

「え、あの、風さん」

「私にチケットがあるか見てきますから」

神崎さんと両親の静かな落胆、それから俺自身の落胆。こうなればどうにかしてロンドンにたどり着きたくなった。というか、たどり着かなければならない。

俺は国内外を問わず、航空会社のカウンターを回ってロンドン行きのチケットの空きを尋ねた。その結果、運良く人数分のチケットを確保できた。

「ちょっと出発まで間は開きますけど、ロンドンに行けますよ」

「あの、そんなお金はあい んです」

「そもそも会社が悪いんですから。後でちゃんと事情は話しますから、今は気にせずに」

「あの、ありがとうございます」

心配そうな神崎さんと両親を慰めると、一家は一斉に頭を下げられた。それに恐縮しながら、俺は出発までの時間を共に過ごした。そして俺と神崎さんの一家は、会社から約半日遅れてロンドンに降り立った。

ロンドンに着いても、会社には合流しない。俺はいくつかホテルを当たり、会社一の宿泊先からそう遠くないホテルに部屋を取った。

「すみません。何から何まで」

「いえ、あの、昔取ったなんとかで、旅だけは慣れてますから」

俺は神崎さんに対して恩着 がましくならないように務めたろう。こうなってしまったのは課長のせいなのだ。こちらとしてはロンドンを楽しむだけだ。俺は会社の予定を確認しつつ、久しぶりのロンドンで友人との再会や食事を楽しんだ。神崎さん一家も観光に行き、お母さんが行きたがっていたアフターヌーンティーも数件の店を巡っていたらしいという。

そして、いよいよ会社一行に合流することになる予定当日。

どんどん本社と日本側の交流会が開かれるとのことだ。場所はホテルのレストランで、俺も神崎さんも時間通りにスーツを着て会場に向かった。立食パーティーでドリンクを受け取り、近くの人たちと話していると、知っている人や、本当に見たこともない人たちに囲まれ、なかなか忙しい。そんな中、俺は課長に気づかれてしまった。

「おい、あんた何してるんだよ」

「ああ、課長」

「ああ、じゃない。なんであんたがここにいるんだ。おまけに神崎まで」

課長は目ざとく、神崎さんの姿も視界に捉えていた。

「来るなと言ったよな」

「ですが私たちは、しっかりと会社に参加を申し出て許可されています。それを課長は自らの判断で没収にしただけかと」

「なんだと? なんだよそのへりくだりは」

「いえ、へりくだりではないかと」

「うるさい。空気を読めないあんたたちが悪いんだろうが。それも黙れよ。いいか、こんなことしやがって。帰ったらあんたたち揃って処分してやるからな。覚悟するんだな」

声は控えめに、それでもたっぷりと十分な脅しを俺たちにかける課長。

課長のしたことは、どうなのか。そこは疑問でも、課長は何としてでも俺と神崎さんをこらしめるつもりなのだろう。

俺と神崎さんは課長に監視されたままの進行を見届けた。

会は終盤に差しかかり、日本側の社長である砂川さんの挨拶が行われた。

「私にとって海外への憧れや好奇心が、この仕事に没頭する情熱となりました。道を開き、小さな繋がりが綺麗な縁となり、方もない時間が過ぎた、そんな気がしています」

通訳を交えながらの挨拶を、少し噛みしめながら聞いていた。六十歳を過ぎても、砂川社長は気持ちも見た目も若々しい。

「さて、私も六十五歳を迎えることとなりました。仕事にはまだ集中して取り組める、そんな年ではあります。私としてもその自覚はある」

辺りを見回しながら、砂川社長は間を取った。そして一斉 に台の決断を、じっくりと語る。

「しかし、ここで一度自らを見直したいと思いましてね。仕事にいつまで自分が関わるのか。私としてはこのタイミングで、戦闘集団を抜けるべきと決断いたしました。私は今回のこの旅からの帰国を持ちまして、日本の社長を退任いたします」

突然の発表に、ほとんどの人たちが驚きの声をあげる。

冷静に受け止めていたのは、事前に事情を知らされていた一部の上層部の人々のみだ。課長も神崎さんも、小さく口を開けて社長を見つめていた。

砂川社長はそのまま、後任人事について口を開いた。そしてその中身が、さらに周囲に驚きをもたらした。

「後任については、風信彦君を新社長と考えております」

「君へ」

社長に呼ばれ、俺はステージに上がるという。

「風君はかつて、こちらのロンドン本社に務める数少ない日本人の社員でした。単身で海外へ渡り、好奇心を武器に、異国での地位を築き上げた。私にとっては、似た空気を感じる人物です」

社長が俺を紹介し、周囲の視線が俺に注がれる。その目は全て、驚きと困惑に満ちていたろう。

無理もないと思う。俺の経歴はここまで完璧に隠し通されてきたのだから。

俺は学生時代の一人旅から始まり、ロンドンで就職をしていた。留学していた日本の大学を卒業し、仕事を探すつもりで欧州に戻る。試行錯誤しながら食いつぎ、現在所属する会社の本社となった貿易会社での職にありついたら。

「彼は経営企画やマーケティングといったセクションで、その能力を発揮してきました।正しくそれは孤軍奮闘だったのではないかと思います」

日本人の同僚はほぼゼロの中、俺は夢中で仕事をしていた。

価値観の違いや習慣の違いなど、些細な問題。異国での暮らしとは自分との戦いだったと感じている。少しずつ時間を積み重ね、俺は最後には、比較と営業の武士を束ねるマネージャーになっていた。

その過程で俺は砂川社長と知り合っていた。小さな会社に過ぎないと自分の会社の未来に悩み、社長は自分がすべきことを模索していたらの。

幾度となく仕事の話をしていく中で、業務提携や資本提携という形が浮上する。社長が最終的に本社の傘下に入ると決めたのは、本格的な全世界規模での業務展開を考えたからだという。

「いずれ俺を日本側の社長にというのは、その話の中で決まっていたんだよ」

俺が本社を退職し日本側へ入社したのは、地習しと業務の把握のためだった。パート社員というのも、経歴を隠し、俺をより普通の人として馴染ませるための策だったらしい。

「会社とは、創業者がいなくても生きていなければいけないものともし。私は何も思い残すことなく、この風君に全てを託そうと思います」

砂川社長は挨拶を締めくくられてステージを降りた。そして俺を連れて、近藤課長の元へ歩いていく。

「近藤君は、自分が何をしたのか分かっているのか? 」

俺は砂川社長に何も伝えていなかったが、社長は全て掴んでいたらしい。

社長は課長を睨みつけると、何も言わない課長を睨み続けた。

「私に、君が参加を拒否する権利があったとでも思ったのかね」

「ぁ、あの」

「それに、神崎君もだ。私は確か に、全従業員に参加可能だと伝えたはずだぞ」

「わ、私は、社長の気持ちを考えた上で」

「どう考えたというのだね」

「これはあの、本当の社員と、少数精鋭の旅をしたいのではないかと」

「少数精鋭,君はその精鋭に自分が含まれると思うのか?

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人を区別し排除しようとするような浅ましい考えを働かせるとはね」

「私はよかれと思って」

「だとしたら、一人前 よりはいいところだ」

ふと気づくと、社長の説教 を全社員が眺めていた。あからさまに声を潜める人もいる。

課長は嫌われ者であるのは間違いなく、擁護の声も上がらない。

俺でさえ、どうすればと言うほど呆れている。

課長はただ丸くなって、謝罪の言葉も出てこない。

「いいか、君には帰国後に処分を受けてもらう。反論はその時に聞かせてもらうぞ」

課長は呆然と立ち尽くしたら。しかし俺と神崎さんに謝ろうとはしなかった。

帰国後、会社は新体制を確立していった。俺は無事社長に就任した。

まずは人事の手入れとばかりに、正社員登用を希望する人たちの声を集めたら。

当然神崎さんも手を挙げた。

俺は彼女を総務部で主任に抜擢し、他に数人の契約社員を希望部署に割り振ったら。

全員が責任感を持ち、仕事に取り組んでくれている。

近藤課長は、元社長の紹介で地方の物流会社に送り込まれたら、人格を鍛え直すための修行だというらの。

そんな環境に放り込まれ、畑違いの会社で苦労の連続らしい。

俺は今、仕事の意味を考える毎日だと思う。

何をすべきか、何をしたいか。人は時々、願望と現実のバランスを取ることに迷うもんね、できることならば、願望と現実が噛み合う環境があってほしい。

社長としての自分の務めは、若い世代にそんな会社を提供することだそうだと思う!

自分のこれからの仕事と、その意味を信じて、俺は日本での人生を歩んでいくだけだ。