父の喜寿のお祝いで訪れた温泉で、私は一人でサウナを楽しんでいた。息子同士が同じクラスというママ友の白川なみさんに突然声をかけられたのは、ちょうど体が温まってリラックスし始めた頃だった。
「あら、裕子さん。こんなところで会うなんて偶然ね」
なみさんはサウナが趣味だと言い、私が興味を持ったのがよほど嬉しいのか、隣に座って一方的に知識を語り始めた。フィンランド式サウナの特徴や温度、湿度のこと。石に水をかけて蒸気を発生させると発汗が促されるのだとか。私は今日は一人でゆっくりしたい気分だったので、丁寧に断ろうとしたが、彼女は私の言葉など聞こえていないかのように喋り続けた。
五分ほど経った頃、サウナに慣れていない私はのぼせてきていた。申し訳ないと思いつつ退出しようと伝えると、なみさんはニヤリと笑った。
「裕子さん、私の話を聞いて少しはためになったでしょ?じゃあ、授業料をもらわなきゃね。百万円でいいわ」
頭がぼうっとしているのもあり、一瞬何を言われたのか分からず固まった。こちらからお願いしたわけでもないのに、お金を要求してくることに驚きを隠せない。
「ごめんなさい、今頭がぼーっとしてて。また学校でね」
足早にその場を離れようとしたが、なみさんに腕を掴まれてしまった。
「逃げるつもり?お金を払わないって言うなら、サウナの暑さをもっと味わせてあげるわ」
のぼせて力が入らない私の腕を引き、なみさんは私の顔をサウナストーンに押し付けた。熱い。頬に焼けるような痛みが走る。
「やめてよ!」
「私の言うことを聞かないあなたが悪いのよ。まだ払わないって言うなら、もう一回やるわよ」
このままでは本当に危ないと感じ、私は支払いを受け入れた。
「分かったわ。お金は払うからやめて」
なみさんは満足そうに手を離した。
「最初からそう言えばよかったのよ。あ、私の夫は角田組の組員なのよ。知ってるでしょ。逃げようなんて変なことは考えない方が身のためよ」
頬の痛みを感じながらも、まずは早く冷やさなければと思い、なみさんと一緒にサウナを出た。更衣室でお金を要求してきたなみさんに、さすがに百万円は今手元にないので、一旦父と合流してから銀行に行くと伝え、納得してもらった。フロントへ行くと、なみさんの旦那さんが待っていた。その顔は嫌な笑みを浮かべており、ああ、この二人はグルなんだとすぐに理解した。
少し先に父の姿が見えた。私はなみさんに、父と話をして銀行へ行ってもらうよう伝えるのでフロントで待っていてほしいと説明した。フロントまでは一本道で逃げられないと判断したのか、二人は納得してその場に残った。
父のもとへ駆け寄ると、父は私の顔を見て驚いた。
「裕子、どうした、その顔」
私はことの経緯を説明し、どうしたらいいか相談した。父は少し考えて、「自分に任せてほしい」と言い、フロントへ向かった。
フロントに戻ると、なみさんが近づいてきた。
「裕子さん、遅いわよ。主人はタバコを吸いに先に外へ出てるから、早くお会計して外へ行きましょう。あ、ここのお会計も一緒にお願いね」
勝ち誇った表情で言い放ち、なみさんは外へ向かっていった。私はなみさんたちの分も会計を済ませ、父と一緒に出口へ向かった。靴を履いて外に出ると、なみさんと旦那さんが嫌な笑みを浮かべて待っていた。しかし、後ろにいる父を見つけた瞬間、旦那さんの表情が凍りついた。
「お待たせ。初めまして。裕子の父です」
父が自己紹介をすると、旦那さんが小さな声で呟いた。
「ま、まさか…近島たかし…」
なみさんの夫は父のことを知っているようで、顔から血の気が引いて青白くなっていた。父は旦那さんの呟きを聞き、何かを思いついたようだった。
「裕子から話は聞きました。百万円なんてすぐに下ろせる金額でもないので、一旦私の方で立て替えてもいいかな。百万円なら手持ちがあるんだ」
父が百万円を差し出すと、なみさんは嬉しそうに受け取ろうとした。しかし、その瞬間、旦那さんが止めに入った。
「このお金は受け取れません。あの…今回は妻がすみませんでした」
「ちょっと、なんで止めるのよ」
「この人は鹿島組の組長だぞ」
なみさんは驚き、言葉を失った。顔から血の気が引いて固まっている。
「おい、払わないのかね?裕子に素晴らしい知識を教えてくれたんだろう。そのお礼だ。受け取ってくれ」
「いや、その…裕子さんとはお友達なので、今回は無料で大丈夫です。これからも仲良くしてくれたらそれでいいですから」
「そうか。ああ、それならこれは縁の証でどうだ?お前たち、角田組の者だろ。これも何かの縁だ。鹿島組と角田組の縁の証として受け取ってくれ」
なみさんが旦那さんの方を見るが、旦那さんは俯いて黙っている。なみさんはお金を受け取ると、旦那さんを連れて帰って行った。
「お父さん、お金良かったの?」
「ああ。この後あいつらは痛い目に会う。しっかり返してもらうから」
父がにやりと笑うのを見て、私はこの後何かが起こると察し、父に任せることにした。
数日後、父から連絡があった。なみさんが例の縁の証を使ったらしい。その日の夕方、父と一緒になみさんの自宅を訪れると、なみさんは私だけでなく父がいることに驚き、一旦家の中に戻って、少しすると旦那さんと一緒に出てきた。
「島さん、今日はどうしたんですか?自宅まで来るなんて」
「お前たち、縁の証を使ったな」
「えっと…こないだ頂いたお金ですよね。確かに使いましたけど」
「なぜ使ったんだ?鹿島組と縁を結べないってことか?」
「いや、あれは頂いたものですから、これからよろしくということで…」
旦那さんはどもりながら説明する。
「お前は友達になろうって言われた人からもらったものは捨てるのか?」
「えっと、それは捨てませんけど…」
「お前は縁の証をなくしたんだ。これは鹿島組に対する不敬と受け取る」
父は手こそあげないが、かなりの圧をかけて話している。その雰囲気に圧倒されたのか、なみさんは固まって動けず、旦那さんは土下座して必死に謝罪してきた。
「すみませんでした。えっと、今回のことですが、俺がいくら謝っても誠意が伝わらないと思うので、一度組長に相談してから改めて謝罪します。明日子供が学校に行ってから十時頃、お宅まで謝罪に伺ってもいいでしょうか?」
自分一人で解決できないと判断したのだろう。旦那さんは組長へ報告し、自宅まで謝罪に来るということで、父も了承した。
翌朝、私は緊張した面持ちで自宅の玄関を見つめていた。昨夜父が明日謝罪に来ると告げた白川夫婦が、果たして本当に来るのか。内心で期待と不安が交差していた。息子が登校し、家には私一人。時計の針が午前十時半を指すも、訪問の気配はない。
「やっぱり来ないか」
その時、リビングの電話が鳴り響いた。受話器を取ると、静かだが重みのある父の声が響いた。
「来なかったようだな」
「うん」
「予定通り事務所に行く」
「お父さん、一人で行くの?」
「誠意を示すために俺が出向く。それが礼儀というものだ。だが裕子が最後まで見届けたいというのなら、ついてきてもいいぞ」
私は少し悩んだが、最後まで見届けようと父について行くことにした。
事務所の扉を開けた父が中に入ると、重たい空気が部屋中に満ちていた。その場にいる全員に緊張が走る中、なみさんたち夫婦は焦りと恐怖で顔を歪めている。そんな中、父の低く静かな声が響いた。
「昨日謝罪に来ると言っていたが、来なかったそうじゃないか。これはどういうことだ?」
私は父の隣で緊張に包まれながら立っていた。父の背中はいつもより大きく見え、その佇まいは普段の優しい父とはまるで別人のようだった。なみさんとその夫はソファに座ったまま、凍りついたように動かない。父が発する一言一言が、部屋の空気をさらに重くしていく。
返事のない二人に、父は再度同じ質問をした。
「昨日謝罪に来ると言っていたが来なかったな。これはどういうことだ?」
父の声は冷静で、まるで静かな嵐の前のようだった。その言葉に、なみさんの夫は震えながら無理に笑みを作って言葉を返そうとした。
「そ、それは少し事情がありまして…」
ごまかそうとする声は明らかに震えていた。なみさんも慌てた様子で口を開く。
「謝罪するつもりはあったんです。でもどうしても事情ができてしまって…」
その言い訳が終わる前に、父がゆっくりと一歩前に進んだ。わずかに色が変わる父の顔に、私もゾクリとするほどの威圧感があった。
「実はな、お前たちが本当に反省したのか信じきれなくてな。お前たちと別れた後、部下に後をつけさせていたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、なみさんとその夫は目を見開いた。
「お前たち、裕子の顔に火傷させるだけでなく、俺の孫にまで手を出そうとしていたな」
父の声が一瞬、冷たい刃のように鋭くなった。その場の空気は一層重くなり、白川夫婦の顔から血の気が引いていくのが分かる。
「ど、どうしてそれを…」
なみさんの夫の声は震えていたが、次の瞬間、なみさんが開き直ったように叫んだ。
「そうよ!どうせあんたの娘を潰したところで、私たちが逃げれば問題ない。海外へ行ってしまえば、あんたの手も届かないでしょ!」
彼女は必死に笑みを作るが、その笑顔はもはや恐怖を隠しきれていない。
「だからそのガキ…裕子さんの息子も道連れにしようと思ったのよ。何か問題でも?」
その瞬間、私の体は凍りついた。息子を道連れに……私が固まるのを見て、なみさんは挑発的な笑みを浮かべていた。だが、その笑みは長くは続かなかった。
「な、なんだ…」
なみさんの夫が怯えた声をあげたのは、背後の扉が音もなく開き、鹿島組の男たちが無言で部屋に入ってきたからだ。スーツ姿の男たちが白川夫婦を取り囲むように立つ。
「逃げられると思ったか」
父が一歩前に出ると、なみさんたちは後ずさりし、恐怖で震えている。
「海外逃亡だと。俺の目を盗んでか。俺の娘に手を出して謝罪もなく、その上縁の証まで使い込んで、鹿島組を敵に回して逃げきれると思ったのか」
なみさんは青ざめた顔で叫ぶ。
「あ、待って!謝る!謝るから許して!ごめんなさい!」
なみさんの夫も土下座の姿勢を取ったが、父は無表情のまま彼らを見下ろしていた。
「謝罪だけでなく、愛する孫まで手にかけようとした以上、痛めつけるだけで済むわけがないだろう」
母が亡くなって以降、私と孫を以前よりも大切に思っている父にとって、二人は一番してはいけないことをしてしまったのだ。優しく温厚な父は、いったん怒ると誰にも止めることはできない。
「ごめんなさい!何でもするから命だけは助けてください!」
なみさんは震えながら父に土下座で謝罪するが、その程度で父の怒りが収まることはないだろう。父はしばらく無表情で二人を見下ろしていたが、何かを思いついたようで口を開いた。
「何でもするって言ったな。縁は結べなかったわけだから、百万円も返済してもらわないとだよな。娘の治療費と慰謝料も払ってもらわないとだし。俺の紹介する職場で働いてもらおうか」
にやりと笑みを浮かべた父を見て、二人は震えている。だが、もう逃げることはできないと悟ったのか、静かに頷いた。父は二人が頷いたのを確認すると、仕事の内容について話し始めた。
「マグロ漁船でどうだ?長期で海の上、体は辛いかもしれないが、一番効率よく稼げるぞ。そうだな、五年くらい働けば支払いが終わると思うぞ。もちろん稼いだお金は全て返済に当ててもらうからな」
「そ、そんな…五年なんて…私たちにも子供がいるんです!五年なんて無理です!他のお仕事はないでしょうか?」
「子供の心配は必要ない。俺の方からお前たちの両親に話をしよう。お前たちに育てられるよりよっぽどいいだろう。それとも他の仕事にするか?マグロ漁船が一番安全だと思うが」
なみさんは最後の一言で他の仕事は難しいと判断したのか、大泣きしながらマグロ漁船で働くことを了承した。うなだれる二人は、父の部下に連れられて部屋から出ていった。
子供と離されるのは同じ親としてかわいそうな気もした。しかし、自分の子供を巻き込もうとした二人を私は許すことができないし、子供のためにもこれで良かったのだろう。
それから一ヶ月後、私は平和な日々を過ごしていた。ありがたいことに火傷の跡も残らず綺麗に治り、息子も元気に小学校に通っている。なみさんの息子さんはなみさんの両親に引き取られたが、同じ町内に暮らしていたようで、学校も変わらずに通い、元気に過ごしているようだ。唯一気になっていた子供のことが問題なく解決したことで、私もすっきりした気持ちで日々を過ごすことができていた。
父から聞いた話では、あの後連れて行かれたなみさんたち夫婦は、最初こそ文句を言いながら働いていたようだが、慣れない過酷な環境で疲れ果て、文句を言う元気も今はないようだ。休憩時間などのちょっとした時間に私への謝罪と反省をしていると、船に乗っている父の仲間から教えてもらった。今更謝罪されても許す気にはなれないが、このまましっかり反省してくれることを願う。
そんなことを考えていると、父が口を開いた。
「この間はせっかくの時間だったのに、あいつらのせいで楽しみきれなかったから、今度また一緒に行こう。次は裕子の夫と孫も一緒にな」
私は一瞬驚いたが、すぐに微笑んだ。
「うん。いいね。家族みんなで行こう」
静かな時間を取り戻した私たちは、これからも新しい日々を歩んでいく。サウナの熱が、今度こそ心を癒すものになると信じて。
