旅行の間、物置に閉じ込められて涙を必死にこらえる小さな女の子を見たとき、私の胸は張り裂けそうだった。まだこんな幼い子を置いていくとは。来るのが遅くなってごめんなさい。今は怒るよりも先にやるべきことがある。震える体を抱きしめながら、私は思考を巡らせた。調子に乗りすぎだわ。そろそろ思い知らせるべきね。いくら自分の子供とはいえ、さすがに許せる範囲を超えている。しっかりとお灸を据えよう。そう決意した私は、カノンの手を引きながらある場所へ向かった。
一週間後、私のスマホに健二から電話がかかってきた。おい、どういうことだ?なんで俺たちの家がなくなってるんだよ。ギャーギャーとわめく声を聞きながら、笑いそうになるのを必死にこらえた。私を怒らせたらどうなるか、考えていなかったの?困惑する彼らに、私は冷たい声で真実を告げた。
私は平野の幸恵。夫の正彦に先立たれ、一人のんびりと暮らす五十九歳の主婦だ。子供は二人いて、それぞれ家庭を持っている。私は地方、それも田舎の生まれだ。そのため小さい頃から男女関係なく遊び、あちこちを駆け回っていた。実家は広い土地を複数持っており、友人たちと毎日かくれんぼや鬼ごっこなど、いろいろしたものだ。とはいえ、年々出生率が下がり、若い人が次々と都会へ出ていく。住民はいなくなり、土地を持て余し始めた。売ったところで大した金にはならんだろうし、そもそも買い手もつかんだろう。今時、仕事なんてする物好きもおらんからな。そんな話を、両親や祖父母と何度もしたものだ。いつも頼りになる大人たちがそろって困り顔をしていたのが、幼い私には不安に感じて印象に残ったのかもしれない。
だが、意外な形でそれは解決した。最近やたら工事の人を見るな。あら、知らなかったの?今度近くにショッピングモールができるのよ。結構大きくて、レジャー施設も併設されるんだって。大型ショッピングモールが立つことになり、土地の価格が一気に高騰した。その矢先、建築に伴い、マンションのオーナーやホテル、飲食店などの経営者から土地を買いたいと連絡が来た。急すぎて理解が追いつかないな。とはいえ、土地は信用できる人間にしか売りたくないしな。祖父たちは考えた末、土地の貸し出しを決意したのだ。賃貸という形でも各経営者は承諾し、あっという間に私の家は多額の資産を持つようになった。普通はこんなラッキーは起きないからね。だからと言って、生活に変化はない。小遣いは常識の範囲内で、欲しいものがあれば家事などのお手伝いやバイトをして自分で稼ぐように育てられた。私のそばには幼馴染みがいて、昔からずっと一緒に遊んできた正彦がいた。住む世界が違うわ。きっと贅沢三昧の毎日だろうな。急にお金持ちになった関係で周囲の人々の態度が変わる中、正彦だけは変わらず接してくれた。彼は私が何かに悩めばすぐに気づいて励ましてくれた。そんな彼を成長と共に意識していたが、おそらく妹にしか思われていない。そう考えた私は、正彦への想いを胸に秘めておくつもりだった。
しかし、別の高校に通うことになった際、彼から告白された。離れ離れになる前に俺の彼女になってほしい。遠距離恋愛になったものの、お互いの気持ちは大人になってもそのままだった。そして成人式の日に、正彦からプロポーズされた。義両親とも昔からの顔なじみということもあり、温かく歓迎してくれた。やがて二十四歳の時に息子の健二を、二十八歳で娘のしおりを出産した。初めての子育てはいろいろあったが、正彦と支え合い乗り越えていた。特別なことは何もない。ごく普通の穏やかな家庭を築いていた。
健二が十四歳、しおりが十歳になった頃、健二は塾に通いたいと言い出した。中学に入った健二は大きな反抗期もなく、いわゆる優等生に育った。毎日勉強が楽しいと話し、自ら勉強をして、成績も常に上位をキープしている。一方、しおりは読書が趣味の大人しい子になった。毎日近所の図書館に通い、何時間もこもって一日で何冊も読破していた。俺たちの子供時代とはえらい違いだな。本当ね。私たちとは違う子供たちの個性に、多少の驚きはありながらも、新鮮な気持ちで二人の成長を楽しんでいた。しおりたちも塾や図書館が好きで家にいない方が多いし、私も働きに出ようと思った。そうして私は正彦が働く建設会社で事務として就職が決まった。母さんが働くなら俺も家事を手伝うよ。そう申し出た健二は、率先して洗濯や掃除をし、夕飯まで用意してくれた。お兄ちゃんは優しくてすごいわね。私の言葉に曖昧な返事をするしおり。それに違和感を持ち、彼女に振り返ると、しおりの指に絆創膏がいくつも巻かれているのに気づいた。慌てて問いかけるが、彼女は言いにくそうに目をそらすだけ。ああ、紙で切ったらしいんだ。しおりは毎日たくさんの本を読んでページをめくってるんだから、傷ができても仕方ないさ。しおりの代わりに説明したのは健二だった。そうなの?それならどうしてすぐに言ってくれないの?下手に心配かけたくないみたい。大丈夫。しおりの様子も俺が見ておくから。こっちは仕事に集中しなよ。彼の行為に感謝し、さらに仕事に励む日々。貯金も増えていく一方なので、就職して正解だと考えていた。
ある日、いつもより一時間ほど早く帰宅した。今日は一緒に夕飯を作ろうと声をかけようとキッチンに向かった。だが、そこでの光景に言葉を失った。だからお前が作るのはワンパターンなんだよ。レパートリー増やさないと結婚できないぞ。ごめんなさい。そもそも本ばっかり読んで成績が伴わないやつなんか、男は相手にしないか?これから一生惨めな思いをすると思うと、なんだかかわいそうだわ。キッチンに入った私が見たのは、ネチネチとしおりを責めている健二の姿。明らかに自分の妹を見下している。私は信じられず、すぐに声をかけることができなかった。なんとか気を取り直して彼の名前を呼ぶと、健二は驚いたように私の方へ振り返った。お母さん、いつもならもっと遅いのに。今日は早く終わったので。あなたは何をしてたの?どうしてしおりがキッチンにいるのか説明してくれる?淡々と尋ねたところ、彼はため息をついて説明した。健二曰く、今まで彼がしていたと思っていた家事は全てしおりが行っていたらしい。元々仕事を始めた私を気遣い、役に立とうと不慣れな手で掃除をしていた彼女を、たまたま健二が目撃した。これは使えると考えた健二は、私に手伝いを申し出ると同時に、しおりにはやり方を教えるから家事をしろと命令したそうだ。中学に入ってから急成長し、体が大きくなった健二に睨まれ、しおりはおとなしく従った。彼女の指の怪我も、健二に夕飯作りをするように言われ、しぶしぶやった結果、包丁で切ってしまったものだった。手伝いをすればお小遣いがもらえると思ったのに、なんで早く帰ってくるんだよ。叱ろうとする私を無視し、不満そうに健二は言う。その姿は今まで見たことがないものだった。待ちなさい、健二。聞く耳も持たず、彼は自分の部屋に向かい、そして財布に使っているカバンを手にさっさと外に出てしまった。ごめんね、しおり。お母さん、何も気づかなくて。小さくうなずき、しおりは首を横に振る。私は申し訳なくなり、彼女を抱きしめた。
それから私は帰宅した正彦に健二の件を報告する。話を聞いた彼は当然怒り、早速帰宅した健二を捕まえて説教をしてくれた。自分が利益を得るために誰かを犠牲にするなんて、卑怯者のすることだ。分かったよ。もう二度としない。父親には逆らう気はないらしく、健二はおとなしく約束を交わしていた。正彦も彼の言動とこれまでの真面目さを考え、一旦許すことにした。やっぱり仕事をしないで子供たちを見ておくべきかしら?いや、健二はお前を無視したんだろ。だからそばにいても無駄かもしれない。しばらくは注意深く見ておこう。もしかしたらしおりに当たり散らす可能性もあるし。今回私たちのこの心配はただの杞憂に終わったように見えた。健二は説教されて以降、塾や友人との遊びを理由に外出することが増え、家にいるのは夜だけに。そのまま中学時代を終え、高校になれば県外の学校に進み、早々に独り立ちした。しばらくは三人で穏やかな日々を送った。それからしおりも成長し、大学に進学している。そして、お母さん、合わせたい人がいるんだけど。しおりは高校時代から交際している人が、卒業後に結婚を考えていると相談してきた。早速週末に、しおりの彼氏を我が家に招待した。道優太です。よろしくお願いします。明らかに緊張している様子で現れたのは、しおりの一つ年下の男の子だった。裏返った声で自己紹介する優太の姿に、私と正彦は思わず顔が緩む。母親の平野幸恵です。そんなに緊張しなくていいのよ。父親の正彦だ。それで娘と結婚したいと思ってるんだな。はい。彼女は絶対に幸せにします。ただの紹介だというのに、まるで結婚の挨拶のようになっている。それにも私は笑いを誘われた。二人とも空気が硬いよ。お父さんも緊張してたみたい。お茶でも飲んで少しはリラックスしましょう。私たちがそう言うと、正彦と優太は出されたお茶を一気のみし、それぞれ深く息を吐いた。全く同じ行動に私としおりがつい吹き出してしまい、場の空気が柔らかいものになった。優太はしおりの後輩で、委員会で出会い一目惚れしたらしい。初めて会った日に告白したそうだが、しおりにはまずは委員会の仕事をちゃんとやれ、私は本好きの人がタイプと返された。彼女の好みに少しでも近づきたくて毎日読書する時間を作ったら、すっかり本好きになりまして。照れくさそうに優太は笑う。しおりは彼に温かい目を向けている。その姿に、彼とならしおりは幸せになれると感じた時だ。家のインターホンが鳴った。
玄関先に立っていたのは、高校進学後一切顔を見せなかった健二と、見知らぬ女性だった。久しぶりね。急にどうしたの?父さんに用があるから、早く中に入れて。私の返事を聞かず、押しのけるようにして健二が家の中に入る。その後、女性が続いたかと思うと、健二君の言ってた通りだわ。鼻で笑いながら私を見下してきた。突然の失礼な物言いに戸惑う私を無視して、彼らはリビングにいる正彦の元へ向かった。健二か。突然どうした?頼みがあってきた。大事な話だから。母さんとしおりと、誰か知らないけど、そこのあんた、どっか行ってくんない?優太に邪魔そうな視線を向ける健二。いきなりのことに困惑する彼の隣で、しおりは怒りの表情を浮かべる。俺の大事な客人にブレーキをかける奴の願い事なんか聞きたくない。どうやら正彦の神経にも触ったらしい。彼の言葉に一瞬不快そうな顔をした健二は、深くため息をついた。分かった。ごめんなさい。これでいいか?お前な、要件なんだけど。適当な謝罪だけして自分の話をしようとする健二に、正彦は明らかに呆れている。それも気にせず、彼はさっさと語り出した。俺さ、起業したんだよな。私たちの仕送りで大学に進学した彼は、同級生と一緒にIT企業を立ち上げ、今のところ問題なく経営しているそうだ。で、俺にビルを借りろと、それとも融資して欲しいとでも言うのか?さすが父さん。話が早くて助かる。健二の目的は、職場となるビルの購入の援助らしい。援助するのは簡単だ。だが、挨拶も礼儀も知らん奴を助けたいとは思えない。正彦は元々正義感が強く、間違っていることがあれば相手が誰だろうときちんと訂正する。え、父さんってそんなにうるさかったっけ?自分がそう育てられたからと言って相手に強制する気はない。だがお前の態度は明らかにブレーキすぎる。きっぱりと告げる正彦に、健二は不快そうに表情を歪ませる。ああ、もうめんどくさい。さっさと優秀な健二君に投資してっての。その時、これまで健二の隣で暇そうにスマホをいじっていた女性が口を出した。ずっと思っていたが、彼女は誰だ?俺の彼女のルカ。あ、結婚の約束してるし。今は妊娠してるから、その辺よろしく。ルカという女性の言動に、私と正彦は顔をしかめる。話を戻しますけど、親なんだから子供を助けるのは当たり前でしょ。文句言ってないでお金出してよ。あなたね。いくらなんでも失礼だわ。お金を出せない人は黙っててください。それか、父さんが建設会社で働いてるんだから、ポンとビルでも建てて健二君に渡してよ。そりゃいいな。できるわけがないというのに、何が面白いのか健二とルカはケタケタと笑う。いきなり頼まれて大金を出すのは難しい。少し考えさせてくれ。それもそうか。じゃ、卒業するまでに用意しといてくれ。お邪魔しました。嵐のように去っていく。私は呆然としている優太へ頭を下げた。騒がせてごめんなさい。ああ、いえ、気にしないでください。それよりも大変ですね。俺もこれから家族になるので、いつでも相談してください。健二よりも年下で他人である優太の方が、よっぽど気遣いができていて苦笑する。ありがとう、優太君。嫌なものを見せてしまったな。お詫びにみんなで外食でも食べに行かないか?子供のようにはしゃぐ彼に、しおりは優しい笑顔を浮かべた。
そんな出来事があって二年後。お母さん、私ね、大学をやめようと思ってるの。え、急にどうして?真面目で今のところ休まずしっかりと授業を受けていたしおりの突然の発言に、私は驚いて固まる。妊娠したの。優太との子供で間違いないわ。衝撃の告白を受け、私と正彦、しおりと優太の四人で家族会議をすることに。必ず責任は取ります。私たちの前で土下座する彼はまだ大学生。すぐに退学して就職するというが、妻と子供を養えるはずもない。両親はありません。優太は幼い頃にご両親をなくしており、祖父母に育てられたらしい。その二人も先日体を悪くして入院し、現在は施設を探しているという。つまり彼には頼れる親族がいない状態なのだ。お前たちの決意と覚悟は分かった。俺たちも協力しよう。もちろん。その代わり、ちゃんと籍を入れて夫婦になること。はい。ありがとうございます。就職の件も俺の知り合いに雇ってもらえないか聞いてみる。だから少しだけ待っててくれ。私たちの言葉に、優太は涙ぐみながら感謝した。正直、親としては学生の身での授かり婚に関して複雑な思いはある。それでも二人がしっかり考え決めたのだ。しおりと優太を支えようと私たちも決断した。彼らはそれぞれ大学を退学し、優太は正彦の知り合いが経営している出版社に就職し、しおりは在宅で無理のない範囲の仕事をすることに。しばらくした頃、しおりは空を出産した。まだ二十一歳という若さで母親になった彼女。私も正彦も心配しつつ、心から祝福したものだ。現在二人は私たちの家と同じ町内のアパートに暮らしている。車で二十分くらいの距離なので、定期的に訪れては初めての育児に奮闘する彼らを手助けしていた。そんなある日、突然正彦が二人に結婚式を提案した。空がもう少し大きくなって落ち着いたら結婚式をあげなさい。その資金は俺が出すから。妊娠の発覚に大学中退、就職と忙しかった彼らには、式をあげる時間も金銭的な余裕もなかった。それを正彦はずっと気にしていたらしい。大事な娘の晴れ姿を見せてくれないか?分かりました。ありがとうございます。優太の返事に、正彦は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
しかし、悲劇は突然訪れる。正彦が交通事故に巻き込まれ、病院で処置を受けるも、息を引き取ってしまった。これから孫のためにもっと頑張ろうって約束したのに。大切な人を失い、私は呆然自失になる。葬儀はなんとか済ませることができたが、頭の中が真っ白で何も考えられない。一人で悲しまないで。私たちもいるから。今度は俺たちに支えさせてください。そんな私のそばに、しおりたちはいてくれた。空を連れて我が家に来ては、話し相手やおざなりになった家事をし、慰め続けたのだ。おかげで私の心は少しずつ回復した。一方、健二は正彦が危篤と知らせても連絡を無視した。病院にも葬儀の日にも顔を出さなかった彼に、しおりは怒っていた。もちろん私も思うところはある。しかしどこか健二には期待をしてはいけないという諦めがあり、彼の行動にそこまで心を乱されなかった。
正彦が亡くなってから一ヶ月経った頃、健二からたった一言のメッセージが送られてきた。遺産はどうなった?私を労わるとは言わないが、それでも無神経でしかない言葉に、私は悪意すら感じてすぐに反応ができない。俺の取り分、さっさと振り込んでくれ。私の返信を待つ気もないのか、続けてメッセージが送られてきた。その前にせめてお父さんに手を合わせて。止まっていた思考を動かし、なんとか返事をする。だが健二からの連絡はなし。電話をかけるも繋がらず。あの子が正彦の言うことに従ってたのは、お金が欲しかったからだったのね。どこで育て方を間違えたのだろう。そう思いながら健二に見切りをつけ、彼の指示通りに遺産だけ振り込み、これ以上何も言わないことにした。しかし私の予想に反して、健二は再び電話をかけてきた。その家と土地は俺が継ぐから、あんたは出ていけ。何言ってるの?この家は私のものよ。うるさい。父さんの遺産は長男である俺が全部もらうのが常識だ。確かに昔は長男に全てを引き継がせるのが普通だった。だが現代社会においてそれは古臭い偏見でしかない。分かったら荷物をまとめて、来月までには出ていけ。そう健二は電話を切る。自分勝手な子。つぶやきながら家の中を見渡した。家族四人で暮らしてきた自宅は、私一人で生活するには広すぎる。何より正彦との思い出がたくさんあり、悲しくなる時があるのも事実だ。健二がそこまで望むなら、出ていった方がいいかもしれないわね。私は早速しおりに伝えた。お兄ちゃんの言うことを聞く必要なんてないよ。そうね。でもやっぱり広い家に一人っていうのも、なんだか寂しいのよ。あ、でも全てに従うわけではないわ。いくら長男だからと言って全てを譲る気は一切ない。それを説明したところ、彼女は少しだけ安心した声を出す。ならうちと同居する?確かにしおりたちと一緒に住めば楽しいかもしれない。一瞬そんな考えがよぎるが、首を横に振った。魅力的な提案ね。だけどあなたたちに甘えてばかりいられないわ。でも近所に引っ越してもいいかしら。もちろん。私と優太の方でもいい物件がないか探しておくね。しおりたちの協力もあり、話はトントン拍子に進んだ。そして月末には荷物をまとめて新居に引っ越すことに。あの家は俺とルカの愛の巣になった。あんたは戻ってくるなよ。結局健二は一度も顔を出さず、引っ越し当日もそんなメッセージだけだった。特に期待もしていなかった私は、既読だけつけて返信せず、そのまま疎遠となった。
正彦が亡くなり、十年ほど経った頃。現在私はしおりたちの家から歩いて数分の小さい一軒家で、自分のペースで暮らしている。おばあちゃん、遊びに来たよ。空は元気な男の子に育ち、よく私の家に遊びに来る。彼女たちの幸せそうな姿を見るだけで心が満たされた。このまま娘家族と適度な距離感を保ちつつ、穏やかに暮らしていくだろうと考えていた時だ。また平穏をかき乱される事件が起きる。家で仕事をしていたところ、この十年間ほぼやり取りのない健二から電話がかかってきた。どうしたの?連休でも貧乏人はどこにも行けなくてかわいそうだな。開口一番、嫌みを言い放つ彼に、彼が変わっていないことを思い知らされる。で、要件は、今から俺たちの家に来い。え?なんで?しばらく家を開けるから、物置きの中のやつの面倒を見ろ。上から目線の命令調。これが母親に対する言葉遣いだろうかと感じながら、ため息をついた。犬か何かを飼ってるの?言ったら分かる。じゃあな。詳細を説明せず、健二はさっさと電話を切る。こちらの事情なんて一切気にしない様子に呆れて言葉が出なかった。何の動物を飼っているのか分からないが、物置きに入れられているならかわいそうだ。思い腰を上げ、久しぶりに息子夫婦のものになったあの家に行くことに。物置きという単語でペットだと思い込んでいたが、予想外の事態を迎える。随分静かね。犬や猫などなら、物置きに入れられて泣き声をあげないのはおかしいのではないか。一体何がいるのかと若干の不安を持ちながら物置きの扉を開けた。そこにいたのは、小さな女の子。目を丸くする私を、ぽつんと一人座り込んでいる彼女が見上げる。おばあちゃんですか?あなたは?カノンです。七歳です。なぜ物置きにいるのかという疑問を抱えるも、まずはカノンを物置きから出した。それでカノンちゃん、あなたはどうしてここに?旅行だから留守番て。カノンの話によると、健二とルカは連休ということで長期旅行に出かけるそうだ。しかし子供の面倒は見たくないからと、物置きに彼女を押し込んだらしい。その際に祖母に当たる人間に連絡をしておくよう、迎えに来た人以外には迷惑をかけるなと言い聞かされたそうだ。おばあちゃんがここを開けるまで動くなって。そうだったの。怖かったね。うん。怖かった。涙を必死にこらえる姿に、こちらの心まで痛む。まだこんなに幼い子供を置いていくとは。それどころか、暗い物置きに閉じ込め、連絡した大人に迎えに来させるとは、親のする行動とは考えられない。健二に怒りの連絡を入れるのをぐっと抑えた。今は怒るよりも先にするべきことがある。震えるカノンを抱きしめながら、私は思考を巡らせた。とりあえずおばあちゃんの家に行きましょう。お着替えとか準備しないとね。家の中に入ると、ゴミが放置され、健二たちの私物が転がっている。子供を育てる環境ではないのは一目瞭然で、子供に関係するものが全然見当たらない。カノンちゃん、これだけは持っていきたいものはある?うん。じゃあ取ってきてくれる?しばらくこの家には帰らないから。素直にリビングの方へと向かう彼女を見送りながら、私は決意を固めた。調子に乗りすぎだわ。そろそろ思い知らせるべきね。いくら自分の子供とはいえ、さすがに許せる範囲を超えている。しっかりとお灸を据えよう。そう考えた私は、カノンの手を取りながらある場所へ向かった。
一週間後、私のスマホに健二から電話がかかってきた。何度も何度もかかってくる様子を見ると、相当焦っているのだろう。はい。何でしょうか。おい、どういうことだ?なんで俺たちの家がなくなってるんだよ。前回の電話とは違い、怒りと焦りが含まれた声だ。ギャーギャーとわめくのを聞きながら、笑いそうになるのを我慢した。ただ単に業者に連絡しただけよ。私の名義の家を壊してもらって、名義も変えたわ。私は確かにその家を出ていったけど、名義変更はしてないわよ。おそらく健二は、私が引っ越したイコール名義は自分になったと思っていたのだろう。手続きをしていないにも関わらず。だってあの家は俺が相続して、家の相続人は私。あなたは現金だけだったのよ。つまり最初に振り込んだ分で、健二の取り分は終了していたのだ。私を怒らせたらどうなるか考えていなかったの?カノンちゃんは保護されたわ。保護?あいつはあんたに預けたから。バカを言わないで。あなたたちのしたことは立派な育児放棄よ。私はあの日警察に出向き、カノンがいた状況を細かく説明した。警察は事態を重く受け止め、児童相談所に連絡した。駆けつけてくれた職員と相談し、現在は安全なところで保護されている。カノンちゃんから、あなたたちから普段どんな扱いをされていたのか聞いたわ。放置を当たり前。少しでも気に食わないことをすれば食事を抜かれる。洋服は機嫌がいい時はリサイクルショップで購入してくれるが、基本的に知り合いからもらった古着を使い回している状態だった。栄養が足りてないのね、カノンちゃん。とても小さかったわ。小学二年生のはずなのに、カノンは一見すると幼稚園くらいに感じる。児童相談所の進めで保護された後に病院で診察してもらったところ、栄養失調だと診断を受けた。あなたたちは子供に何をしたの?俺たちの期待通りに動かないあいつが悪いんだ。そうよ。私たちは教育しただけ。私の問いかけに、二人は声を荒げて自分勝手なことを語り始めた。俺は高卒のしおりたちとは違って、完璧に計画を立ててたんだ。なのにあいつはどん臭くて何一つできない。健二はどこからか、しおりが授かり婚をし大学を中退したのを知ったらしい。彼はそこで自分は妹と違ってきちんと育児計画を立てると決断したようだ。その結果、七年前にカノンが生まれた。せっかく金をかけてやったのに。健二はカノンを高い教育を受けられる幼稚園に入れ、さらに家庭教師を雇い、徹底的に英才教育を施した。だが子供というのは大人の思い通りにはいかないもの。ただでさえ遊びたい年頃に、あれこれ詰め込まれたカノンのストレスは相当だっただろう。俺の子供のくせにテストで毎回満点を取らないし。運動神経抜群のルカの娘なのに運動もダメ。だから俺たちの貴重な遺伝子と金を無駄にしたんだ。お灸は必要だろう。黙りなさい、この愚か者め。気づいた時には怒鳴っていた。完璧な計画。そんなのを立てる時点で育児を舐め切ってるわ。だけどカノンちゃんは人形じゃない。子供だって自分の意思はあるし、無理をすれば心身に影響が出るに決まってるでしょ。そんなことも理解できないの?カノンの年齢を考えれば、できないことの方が多い。そこに加えて勉強しろと見張られている状態では、緊張と焦りで自分の力を発揮するのは大人になっても困難だ。運動だって勉強漬けの日々の中で練習する時間も外で遊ぶ暇も与えられないのに、どうすれば上達できるのか。ここまで健二を強く攻めたのは初めてだ。正論をぶつけられ、さすがに気づいたのか一瞬黙る。俺は悪くない。俺だって毎日勉強してたから今の地位を手に入れたんだ。だが納得はしていないようだ。まだ自分を正当化する彼に、逆に私は冷静になる。確かにあなたは毎日勉強してたわね。でもそれは高学年になって自分から望んでやってた。違う?健二も低学年までは周りの子供と一緒に遊び回っていた。中学の頃に勉強の面白さに目覚め、家にいる間は学習するようになった。私も正彦も、たまには太陽の光を浴びた方がいいとは告げたけど、外遊びや運動を強制した覚えはないわ。それに、あなただってずっと勉強してただけではないでしょう。健二は中学生の時は運動系の部活に所属していた上、塾以外は友人と遊ぶことも多かった。カノンのように行動の制限は愚か、丸一日勉強机に座るような体験も、勉強だけに明け暮れた経験も彼にはないのだ。実際にやってみたこともないくせに、一方的にカノンちゃんを責めるのは愚か者の所行よ。ましてや、あの子はまだ小さいのよ。せめて早くカノンの存在に気づいていたら、ここまでひどい状況にはならなかったかもしれない。疎遠になった後も健二の近況を調べておけばよかった。そんな後悔の波が押し寄せてくる。お、俺はしおりと違って誰にも頼らなかったんだ。頼れなかったんでしょ?そんな状態にしたのは、あなたの行動の結果よ。親の事情に巻き込まれたカノンちゃんがかわいそうで仕方ないわ。うるさい。文句を言うなら、あんたが手伝えばよかっただろう。健二が結婚したのは風の噂でなんとなく察していたが、子供の件はあの日呼び出されるまで知らなかった。そんな状態でどう手伝えというのか。ああ、もうそこまで言うなら、子供はあげるわよ。あんなの私たちにはいらないし。鬱陶しそうなルカの声。彼女は健二とは違い、カノンに興味がないのかもしれない。ママはね、私を見てくれないの。カノンの話でも、ルカは基本的に彼女を無視していたらしい。健二から理不尽に叱られ、母親である彼女に助けを求めても、うるさいの一言で済ませられるほどの無関心ぶりだったそうだ。ええ、あの子はあなたたちのところには返さないわ。は?勝手に決めるな。あれは俺の子供だ。どうでもいいわよ。それよりも家。なんでこんなことになったの?ルカは娘よりも家の方が大事らしい。怒りで怒鳴りそうになるのをこらえる。あなたたちに、私名義で正彦が大事にしてきた家に住む権利はない。だから家は没収しただけよ。退職したとはいえ、かつて務めていた建設会社とはまだ繋がりがある。社長に事態を説明し、家の売却と解体の相談をしたところ、快諾した。一週間以内に片付けてくれたのだ。私名義の家なのだから、息子家族を住まわせるのも解体するのも、私の好きにしていいはずよ。せめて家賃を支払っていたなら話は違っただろう。私の話をきちんと聞いていれば、違う未来を迎えていた可能性もあった。要は二人の自業自得だ。何もそこまでしなくても。仕方ないでしょ。誰かさんたちの扱いが悪いせいで、呼んでも人が住める状態にするのは難しかったんだから。ゴミの悪臭や汚れが染みついた壁、生ゴミが散らかった台所、いつから洗っていないのか分からない風呂場、暴れたのかと疑うほど開いている穴。それ以外にもいろいろとあり、直すよりも解体した方が早いと言われたのだ。ああ、あなたたちの私物は倉庫に置いてあるから、後で場所だけ送ってあげる。マジでありえない。こんなの絶対にパパとママが許さないから。どうでもいいわ。これ以上あなたたちと話す必要はないし、切らせてもらうわね。そう言って電話を切り、電源を落とした。ルカの両親がどんな人か知らないが、カノンちゃんだけは奪われないようにしないと。彼女の言い方からすると大物の可能性もある。警戒を怠らないためにも、私はカノンの保護先に連絡を入れた。
健二との電話から一週間後、その日私はしおりの家を訪れていた。同じ親としてお兄ちゃんの行動は許せないわ。全くだよ。前から見下されているのは分かってたけど。え、どういうこと?私とは疎遠になった健二だが、しおりと優太には接触があったらしい。きっかけは優太を紹介された日のこと。健二は優太を見て、しおりが通っていた高校の生徒だと気づいたそうだ。それで実は何度か待ち伏せをされてまして。優太は家庭環境の関係で学校側の許可を得てバイトしていた。健二は彼が学校を出たところから尾行してバイト先を特定し、バイト終わりに待ち伏せをして絡んだり、客として訪れて理不尽なクレームをつけたりした。現れるたびに、低能は貧乏だから学生のうちから働かないといけないのか、って。あまりにも幼稚な内容に、思わず呆れてしまう。そこまで自分の息子が愚かだとは信じたくなかった。お父さんに叱られて家にいなくなってからも、私には「お前はバカでかわいそうだから親が守ってくれるだけ。俺は期待の星だから自由にできる」ってメールを送ってきたし。思わず頭を抱えてしまう。私の目は本当に節穴のようだ。健二の悪巧みにここまで気づかず放置するなんて。まあ仕方ないよ。お母さんの周りは、お兄ちゃん以外いい人だもん。確かに私の両親や親戚はしっかりした人で周囲に迷惑をかけない。正彦の親族も穏やかで人格者ばかりだ。なのに、だけが邪悪な性格だった。むしろお兄ちゃんは突然変異って言ってもいいくらいよ。こんな環境で育った健二がなぜねじ曲がった性格になったのか。私たちは理解できず首をかしげた。その時、インターホンが鳴る。しばらくして、しおりが驚くようなお客さんを連れて戻ってきた。ルカさんのご両親だって。ルカの両親という二人は、深々と頭を下げた。ご迷惑をおかけしています。ルカの父親です。妻でルカの母親です。この度は娘がお騒がせして申し訳ありません。謝罪するご両親に困惑しながらも、私たちは彼らの話を聞くことに。実はカノンを保護しているのはしおりたちなのだ。今は学校に行っているため不在である。それで連れ戻しに。いいえ。ルカのところに戻すつもりはありません。まさかの発言に、ご両親を見つめた。彼らからはとにかく申し訳ないという雰囲気が出ており、私たちは警戒を解くことにした。実は私たちは娘と縁切りしておりまして。ルカの父親は実業家で、この辺りでは誰もが知る会社の社長だ。母親の方も元アスリートで、今でもファンがいるほどの人物である。周囲にいい意味でも悪い意味でも影響力のある二人は、昔からルカを買いかぶり甘やかしてきたそうだ。それがあの子を付け上がらせてしまったんです。ルカは両親の長所を受け継ぎ、スポーツ万能のカリスマを持った女性に育つ。それまで何もかも自分が一番だった。そんなルカを初めて負かしたのが健二さんだったらしいです。優秀な家庭教師をつけていた関係で成績優秀だった彼女だが、中学の時に普段から勉強に明け暮れていた健二に敗北する。初めての事態にルカは健二を素晴らしい人間だと考え、以上に持ち上げた。健二が問題を起こすようになったのも、ちょうど中学の時だ。ルカと関わるようになって、自分は特別な存在だと彼は考えるようになったのかもしれない。さらに、ルカは祖母の影響を受けていた。ルカの両親は忙しい身で、彼女は祖母に預けられることが多かった。その際に祖母は「働いていない役に立たない女は、優秀な男に従うべき」と彼女に教えていたらしい。ああ、だからですか。ルカは健二にもその内容を話したのだろう。そして彼は私としおりを「役に立たない女」と認識し、私たちを利用するだけで話を聞く存在ではないと判断した。お兄ちゃんが私たちを見下す原因は分かった。でも、すんなり受け入れるなんて正直素直すぎない?元々そういう性格なのよ。健二が幼い頃は親の言葉を素直に聞く子だった。勉強にはまったのも、知らないことを理解するのが楽しいという純粋な思いから。そんな彼だからこそ、ルカの考えを抵抗なく受け入れて染まったのだろうか。ところで、絶縁した理由をお聞きしても?実はカノンが関わっています。ルカが成長して大人になっても気が済まなかった彼女の両親。健二のことも、娘が選んだ相手なら結婚を承諾する。彼の育児計画についてもきちんと考えていて素晴らしいと感じていた。その時は詳細を知らなかったんです。せいぜい出産してどこの幼稚園や学校に入れる程度のものだと考えていたそうだ。でもあの子は母親に向いていなかった。初めに計画が崩れたのは、ルカの子供への無関心さだった。彼女はカリスマ性のおかげで周りに人がおり、常に自分に注目が集まっていた。だが子供がいれば自然とその視線は自分から逸らされる。ルカはそれが気に入らなかったのもあり、子供と関わるのを極力控えた。そんな娘が出産したからと顔を立てることはできなかった。初めは健二の育児計画に乗ってルカはカノンを育てようとした。しかしすぐに疲れたと言って育児を彼女の母親に押し付けた。私もアスリートだったのでそれなりに体力はあったのですが、毎日面倒を見ていたら疲れてしまって。当然だ。育児というのは若い夫婦でも気が抜けず、心身共に疲弊する。いくら自分の孫とはいえ、体力が落ちた身では辛かっただろう。なんとか幼稚園に入れるまでは耐えたんですが、安心したのか倒れてしまって。夫がルカを叱りつけたんです。結果、ルカは母親に押し付けるのをやめた。これで安心だと思っていた二人だが、突然息子夫婦が旅行に行くと言い出し、物置きにカノンを閉じ込めたことを知ったらしい。そこで初めて今回のことを知りました。二人が心配したのはカノンだ。必要なら自分たちの養子にしようと考え、人を雇って調べた結果、ここを突き止めた。なるほど。事情は分かりました。それでこれからどうするおつもりで?カノンの安全さえ確保されているなら手出しはしません。あの子たちの手助けをするつもりもないです。彼らは自分たちはカノンの味方であり、ルカたちをサポートする気はないと伝えるために訪れたらしい。私は一人の親として彼らの行動を許す気はありません。そのため徹底的に追い込むつもりです。ええ、構いません。私の言葉にしっかりとうなずく二人。何かあれば自分たちも協力すると約束してくれた。
ルカの両親との接触から三日後。学校終わりの孫たちを迎えに行くと、二人は仲良さげに出てくる。あれ、今日もカノンをきちんと守ったんだよ。空は立派ね。突然引き取ったにも関わらず、空はカノンを気にかけ、何かと面倒を見ていた。そのおかげか、環境が変わったもののカノンは周りと馴染んでいるようだ。これなら彼女を引き取っても問題ないだろう。さあ、帰りましょう。二人にそう声をかけた時だ。やっと見つけた。健二、どうしてここに?少し離れたところに止まっていた車から健二が出てきた。彼の視線はカノンに向けられており、私は彼女を自分の後ろに隠す。そいつは返してくれ。俺の子供なんだぞ。あれだけ言ったのにまだ分からないの。あなたのしたことは親がする行為ではないわ。だから警察も保護を選んだのよ。は?間違ってない。ほら、いい加減帰るぞ。健二が怒鳴ると、カノンがびっくりと体を震わせる。その様子を空はじっと見つめた。いい加減にしなさい。あなたにカノンちゃんは渡さない。あんたが俺に命令するな。ただの事務のくせに。健二はお構いなしにカノンに手を伸ばそうとする。彼女を奪われまいと、とっさに抱きしめた時だ。カノンとおばあちゃんをいじめるな。健二の手を空が払った。まさか子供に邪魔されるとは思っていなかったのだろう。目を丸くする健二を、空はきっと睨みつける。よくわからないけど、あんたがカノンを苦しめてるのは分かる。だからカノンとおばあちゃんから離れろ。このガキ。俺はお兄ちゃんだからね。だから絶対に守る。大人相手に真正面から対抗する空。その頼もしい姿をカノンはじっと見つめる。一方健二の表情は怒りに変化し、彼に向かって手を伸ばす。黙れ。大人しくしないと。何をしてるんだ?騒ぎを聞きつけたのか、学校の方から複数の男性がこちらに向かってきた。さすがに分が悪いと判断したらしく、健二は舌打ちをして駆け出し、車に乗り込むと去っていく。大丈夫ですか?はい、ありがとうございます。空君もありがとう。かっこよかったよ。教師らしい人たちに頭を下げ、空を褒める。俺、カノンを守るって決めてたから。お兄ちゃんありがとう。誇らしげに笑う小さなヒーローに私は微笑み、カノンも嬉しそうにお礼を告げた。警察に相談した方がいいかもしれません。そうですね。考えておきます。実際、教師たちが現れたから健二は何もできずに立ち去ったのだ。下手すれば空が怪我をしていた可能性もある。念のためしばらく休ませますか?教師からの申し出に少しだけ考えた。健二の件はすぐに対応するつもりだが、落ち着くまで休ませるべきかもしれない。とはいえ私一人で決めるわけにはいかないので、この日は教師に感謝して早々に帰宅する。
みんな大丈夫だった?誰も怪我をしなくてよかった。学校から連絡が行ったらしく、私たちが帰宅すると同時にしおりと優太が駆けつけた。二人は私たちが無事だと知り、安堵したように息を吐く。空君が大活躍してくれたのよ。偉いぞ。大人に立ち向かうなんてすごいじゃないか。俺は男の子だから、女の子のカノンとおばあちゃんを守るのは当たり前だよ。そう言いながら空は誇らしげに笑った。彼の頭をわしわしと撫でると、優太は真剣な顔をする。カノンと空が一緒にいるところを見られた以上、ここを突き止めるのも時間の問題ですね。そうね。お兄ちゃんは一体何を考えてるのかしら?学校の前でカノンを連れて行こうとするなんて。二人の言うことは最もだ。おそらく健二は、しおりたちがカノンを保護したのを察したのだろう。そして学校前など目立つところで行動したということは、今後もこちらに接触してくる可能性は高い。だから行動に移そうと思ってる。それも徹底的にやる方向で。賛成。私もお兄ちゃんたちを見返してやるわ。俺も同意です。情報もしっかり集まりましたから。元々はカノンのことを考えて、健二たちの存在は徐々にフェードアウトさせるつもりだった。しかし、それだと私たちのいない時に何かしでかすかもしれない。そう考え、健二たちを徹底的に追い詰めるため私たちは動き出した。
健二が現れた翌日。私たちはカノンと空を知り合いに預け、とある家を訪れる。しおりがインターホンを鳴らすと、中から不機嫌そうなルカが現れた。彼女は私たちの顔を見て驚いたように目を丸くする。大事な話があるの。中に入れてくれる?一応、あなたのお父様から許可を得ているわ。私たちが訪れたのはルカの実家だ。あの家を失くしたことで帰る場所を失った健二とルカは、彼女の両親の元に身を寄せていた。分かったわよ。親が許可を出している以上、彼女は拒めない。しぶしぶ玄関の扉を開けたので、私たちは中に入る。家の中にはルカと健二だけ。彼女の両親は不在らしい。大事な話だと?ええ、簡潔に言うわ。カノンちゃんをしおりたちに引き取らせなさい。私の言葉に、明らかに不快そうな顔をする健二。ふざけんな。あいつは俺の子供だ。それに、しおりなんかに育てられるわけがない。あなたよりまともよ。まとも?貧乏人暮らしが。馬鹿にしたような笑みを浮かべ、健二はしおりたちを見る。ルカも同じ表情をしている。私が貧乏?なんでそう思うの?むしろお兄ちゃんよりよっぽど稼いでるはずだけど。嘘つけ。俺は社長だぞ。そんな俺よりも稼いでるはずないだろ。社長と言っても、もう会社は危機に陥ってるじゃないですか。優太が告げた途端、健二の顔色が変わる。あなたの会社、もうすぐ潰れるってもっぱらの噂ですよ。優太の出版社では情報雑誌も扱っていた。そのためまだ世間に出回っていない話も、時より彼の耳に入るらしい。仲間に支えられていたくせに、横柄な扱いをしたそうで。大学時代の友達と立ち上げた会社。経営学を専攻していた健二が社長という立場になったが、実際は彼の仲間がいろいろと回している状態。立場に胡座をかいて「俺が社長だから言うことを聞け」と常に周囲に話していた。で、つい先日、そのお友達に出て行かれてしまった。選ぶことしかできない健二に、友達は愛想を尽かして出ていった。その中には特許を持っているメンバーもいる。一気に健二はピンチに陥る。で、取引先からも次々と契約を切られてるらしいじゃないですか。なんでお前がそんなこと?俺、これでも編集長なので、割と情報が入りやすいんです。そう、正彦の紹介で編集部に就職した優太は、真面目にコツコツと仕事に成果を上げていった。結果認められ、現在は編集長という立場になっている。なんでお前なんかが。確かに俺は高卒です。でも努力だけはしてきました。それが健二さんとの差です。ちなみに私も結構稼いでるわよ。は?これでも作家なの。大学を中退したしおりはブログを開設する。そこで小説を投稿していたところ、書籍化の話が出た。それを承諾した結果、彼女の本は大流行している。ドラマ化の話も出てるくらいにはヒットしてるわ。少し前にテレビで特集されてたんだけど、見てなかった?私がしおりの作品の名前を口にしたところ、健二とルカが目を丸くした。先日、話題の作品として「涙なしでは読めない」とゴールデンタイムのテレビで放送されていたのだ。どこかのタイミングで目にしていてもおかしくない。そんなしおりが俺より優秀なのに。呆然とつぶやく彼を、しおりは冷たい目で見た。あなたの言う優秀って何?少なくとも私たちはしっかり稼いでるけど。しおりの言葉に、健二は黙る。見下していた妹夫婦の成功ぶりが信じられないのか、納得いかないような顔をしていた。まあ、健二君の妹だもん。多少は優秀よね。その時、黙って様子を見ていたルカが話し出す。彼女の視線は私に向けられている。でもお母さんは違うよね。ただの事務員なんでしょ。確かに私は元事務員よ。だったら大して稼いでないんじゃない?その分、実家が太いけどね。私はこれまで実家のことを健二たちに話していない。自分たちの稼ぎだけで子供たちを育てると決めていたし、実家もその方針を理解していた。けど、先日両親が引退して、私が全部継いだのよ。両親が持っていた土地には大きなマンションや有名飲食店が立っている。そのため不労収入だけで生活していけると判断して退職した。下手な会社経営よりよほど収入があるわ。そ、そんな。がっくりと肩を落とす健二。ルカも悔しそうな顔で私を睨んでいる。残念よ。せっかく正彦が資金援助したのに。会社の設立資金を頼まれた時、正彦は悩んでいた。甘やかせば健二のためにならない。しかし可愛い息子にお願いされ、彼は援助を決意した。とはいえ、無駄になってしまったが。倒産するとなれば、貧乏人はどちらになるのかしら。そ、それはパパたちが助けてくれるわ。本当に?静かに問いかければ、ルカが黙る。ルカの両親は二人をこの家に住ませているが、今後一切助けないと彼女に宣言済みだ。もし倒産して収入がなくなれば、追い出される可能性もある。分かった。好きにしろ。ええ、そうする。その子は私たちが大事に育てます。しおりの言葉に反応する気力もないらしく、健二はうなずくだけ。では失礼するわ。後日、手続きお願いしますね。さようなら。一方、私たちは笑顔で立ち去った。
それから間もなく養子縁組の手続きが行われ、カノンは正式にしおり夫婦の子供になる。おばあちゃん、あのね、どうしたの?あの日、物置きから出したのが私だった関係か、カノンは懐いてくれた。あとを追いかけては話しかけてくる姿は可愛らしい。すっかり落ち着いたわね。そろそろ学校に通ってもいいかもしれない。健二が現れてから念のため休ませていた。だが真実を突きつけた日の健二の様子から考えれば、登校させても問題ないだろう。カノン、また学校に行ける?お兄ちゃんと一緒なら。そうしてカノンは学校に通うことに。しばらくは私としおりが交代で送り迎えを見守る予定だ。そうだ、一緒に行ってお茶でもしない?それもいいわね。最近しおりも健二たちを警戒したり、子供たちの心のケアと大変だった。彼女にも癒しの時間が必要だと考え、学校に迎えに行く前に近くの店で甘いものでも食べることに。なんだかこんなにゆっくりした時間は久しぶり。すっきりした表情でコーヒーを飲むしおりに、私も同意しつつ紅茶を口に含んだ時だ。本当最悪。完全に外れくじ引いたわ。一人の女性がスマホで電話をしながら店に入ってくる。聞き覚えのある声に振り返ると、間違いなくルカだった。そうそう。適当に持ち上げてた男。起業したから結婚したのに。いよいよ会社やばいみたい。家族も面倒な人たちばっかでさ、離婚したいんだよね。おそらく男というのは健二で、家族は私たちのことだろう。私が聞き耳を立てているとは知らず、ベラベラと話すルカ。子供もさ、私は別に欲しくなかったんだよ。でも完璧な家庭には不可欠だって言われて。それで産んだけど、世話とかマジ無理なのに、また妊娠しろっていうのよ。最悪だと思わない?どうやら健二はまだ子供を諦めていないのか。てかさ、あのガキ、旦那の子供じゃないんだよね。そうそう。父親はあのホスト君。それなのに自分の子供ならもっとできるとか言ってんの。笑うしかないよね。衝撃的な内容に、私としおりは顔を見合わせた。カノンは健二の子供ではない。つまり、ルカには浮気相手がいて、カノンはその相手の子供だということになる。その時、店員がルカに店内での通話はご遠慮くださいと注意した。あ、感じ悪。食べる気失せたし帰るわ。そう言ってルカが出ていく。完全に姿が見えなくなった辺りで、私は深くため息をついた。とんでもない話が聞こえたわね。でもカノンが誰の子供とか関係ない。あの子は私の娘だもん。きっぱりと言えるのはしおりの美徳だ。直後、彼女はスマホで何かを操作し始める。何してるの?実はさっきのルカさんの会話、録音してた。お兄ちゃんへの手切れ金代わりにね。にやりと微笑み、しおりは先ほどの会話を健二にメッセージで送った。すぐに既読がつき、電話がかかってくる。出ないの?そこまでお世話するつもりはないわ。目の前で着信をブロックする姿に笑いながら、私は残りの紅茶を飲んだ。
その翌日。カノンと空が無事に学校に入ったのを見届け、帰ろうとした私の元に健二が駆け寄ってくる。彼は要注意人物だと教師間で共有されているのだろう。校門付近にいた教師が厳しい表情でこちらに来ようとするのを、手を振って制した。昨日の件で何か聞きたいの?そうだよ。あれはどういうことなんだ?さあ、私たちはルカさんがベラベラ話してるのを聞いてただけだから。詳細や真実を私が知ってるわけがない。知りたいなら、自分かプロに頼んで調査すればいいじゃない。母親なら俺を助けろよ。何年もあんたを無視してた癖によく言うわ。昔は優しかったのに。当たり前でしょ。昔は母親としての愛情があったんだから。愛情は尽きることだってある。ずっと無償の愛情を注げるわけではないのだ。見下されて、ないがしろにされてきた相手に、優しくできると思う?でも俺は息子だろう。もっとこう、ねえ。私はあなたを子供だとはもう考えてない。きっぱり告げれば、健二は被害者のような顔をした。散々周りを傷つけてきたのは彼の方だというのに。せめて私の話を少しでも聞いていれば、結果は違ったかもしれないわね。違う。こんなの俺の人生じゃない。頭を抱えて健二はつぶやき始める。彼もある意味、ルカにいいように利用された側かもしれない。だが同情する気が一切出てこないほど、私は彼に興味がないのだ。これからはせいぜい一人で頑張りなさい。へ、一人?私たちはあなたを助けるつもりはない。ルカさんはあなたを捨てるつもりだし、離婚すれば彼女の親族とも縁が切れる。友達からも見放されてるんでしょ?健二の顔が見るみる青くなっていく。ようやく理解が追いついたようだ。お母さん。正彦だったら優しいから、あなたを助けたかもしれない。でも私は無理だわ。まだそらに罪悪感があるなら手を貸そうと考えたかもしれない。しかし子供にひどい仕打ちをした時点で、私は彼を許容できなくなった。あなたに言っても無駄ね。告げて健二に背を向けて歩き出す。ふざけんな。こうなったのはお前らの教育のせいだ。責任取れ。すると健二が背後から私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。そこまでだ。今警察呼んだからな。だが待機していた教師が間に入って阻止する。直後、パトカーがやってきて、暴れる彼を連行していった。お騒がせして申し訳ありません。いえ、お怪我がないようでよかったです。頭を下げる私に対し、教師は笑顔で答えた。こんなに頼もしい人たちがいる学校なら、孫たちを安心して任せられる。そう思いながら私は家に帰った。
お兄ちゃんが現れたって本当?その日の夜、しおりと優太が子供たちを連れて帰ってくる。変に心配をかけてはいけないと思い、しおりたちに健二の件は報告しておらず、私は首をかしげる。すると優太が空の頭に手を置いた。空が教えてくれたの。どうやら彼は廊下の窓から見ていたらしい。以前カノンを守った男の子が私に絡んでいると考えた空は駆けつけようとしたが、教師に止められ、仕方なく様子を伺っていたそうだ。そしたらおばあちゃんが追い払ってくれて、かっこよかった。実際には先生が追い払ってくれたんだけどね。でもそう言ってくれて嬉しいわ。ありがとう。俺もみんなを守れるようになりたい。じゃあ、いっぱい食べて大きくならないとな。優太の言葉に、空は元気に「うん」と返事をする。その様子を笑顔で見守るしおりと優太。やっぱり素晴らしい家族だわ。健二はしおりを見下し、無計画の授かり婚だと笑っていた。現状はどうだろう。明らかに彼女たちの方が幸せそうだ。人としてはしおりの方がずっと上ね。何のこと?なんでもないわ。せっかく来たのだから、みんなで夕飯を食べましょう。おばあちゃんのご飯大好き。嬉しい言葉をもらい、微笑みながら私は台所へと向かった。
健二の件はあっという間に噂として広がり、私もご近所さんに「変な男に絡まれて大変だったでしょう」と声をかけられるようになった。そんなご近所さんと立ち話をしていたところ、またあの声が聞こえてきた。視線を向けると、ルカと彼女の両親の姿が。これ以上は面倒を見ないと言っただろう。パパとママは私の味方なんでしょ?その封筒のお金だって、私にくれるんじゃないの?これはご迷惑をおかけしたお詫びのお金です。いい加減にしなさい。道端にも関わらず大声で言い争う彼女たち。興味深そうに見ながら、ご近所さんたちが「あれって大手の会社の奥さん夫妻じゃない?」と話している。あなたはもう子供じゃないの。私たちに恥をかかせないでちょうだい。結局世間体が大事なんでしょ。するとルカが母親が持っていた封筒を奪い、駆け出した。あ、ルカ。パパもママも大嫌い。幼い子供のように走る彼女を、両親は慌てて追いかける。その姿に社長や元アスリートの威厳など全くない。あの様子じゃ、早々に縁を切った方がいいわね。実はルカの父親の会社が立っている土地も、私が保有している。だから謝罪とカノンの安否確認に来た際、「もしかして平野さんはいわゆる地主様ですか?」と問いかけてきた。私はそれにうなずいており、これ以上怒らせまいと詫び金を持って訪問するつもりだったのだろう。それを奪われたわけだ。厄介な人たちには関わらないのが一番。ご近所さんたちの間で変な噂が広がって危ないかもしれない。大切な家族のためにも、さっさと遠ざけるべきだと私は決断した。
その後、健二は学校の前で暴れた上に抵抗して警察官に手を出し、公務執行妨害で実刑。しばらくは壁の向こうで反省する日々だろう。その間に一人でどう生きるか考えておけばいいけど、出所した彼を助ける人などいない。私たちが住んでいる地域では、要警戒人物として広まっている。そのため一歩でも足を踏み入れれば冷たい視線を向けられるので、近づこうとしないはずだ。一方ルカは、刑務所にいる健二と離婚だけ済ませ、駆け落ちしたらしい。しかし、お金を奪われたことで激怒した両親がすぐに居場所を突き止めた。で、ホスト君はルカを見捨てて一人で逃走。ホスト側からしたらとばっちりだろう。自分だけ逃げたホストを恨みながら、ルカは両親の知り合いが経営している工場に放り込まれたそうだ。お詫びとカノンの養育費として多額のお金を渡してきたルカの両親。そのお金は、ルカの給料から自分たちに返済させるとのこと。同封されていた手紙にはそう書かれていた。あちらとしても会社の業績は下がってるから、少しでも稼げる存在を手放さないだろうし。私が土地を貸すのを嫌がり、ルカの父親は強制的に会社を移すことになった。あの日のご近所さんの噂は尾ひれがついて広まり、今や会社の信用に関わるほどになっている。いずれ倒産するだろう。まあ縁を切ったし、私には関係ないわね。それからしばらくして、彼女の両親は娘を置いて夜逃げ。ルカは出産時期になり暴れて工場の機械を破損。健二の会社も当然倒産し、二人は同じところから借金。これから返済のためだけに生きていくことになる。自業自得よ。もう周りに迷惑だけはかけないでね。風の噂で聞いたが、私はそう祈るだけだった。
さて、今日はどうしましょうか?あれから余計な騒動を起こす人物たちがいなくなり、穏やかに暮らしている。空とカノンの送り迎えの見守りも必要なくなった。そのため若干暇を持て余していた。まずはご飯ね。私の言葉に返事するように鳴く猫。ようやく落ち着いたので、保護猫を先日迎えたのだ。一人暮らしの寂しさを癒してくれるので、飼ってよかったと思っている。あら、しおりからだわ。その時、メッセージが送られてきた。今日みんなでお出かけしようって話になって、お母さんも一緒にどう、というお誘いだ。せっかくだから行こうかな。承諾の返事をし、支度を整えた。その直後、おばあちゃん、お出かけしよう。こら、二人とも。全くお転婆なんだから。元気よく孫たちが駆け込んできて、しおりと優太が呆れながら続く。そんな彼らを、私は笑顔で迎えた。
