母が末期がんだと分かった日、実家に戻ることにした。その数日後、妹が突然こう言った。「お母さんも、そう長く持たないでしょ。家を売ろうと思うんだ。査定してもらったら結構いい値段がつくと思わない?」まだ自分で食事ができる母の前で、妹はお金の話しかしていなかった。私は頭に血が上った。「お母さんはまだ頑張ってるのよ」と叫んだが、妹は笑うだけ。大学生の時に母と大喧嘩して家を出ていった妹が、働きもせず戻っ…

母が末期がんだと分かった日、実家に戻ることにした。その数日後、妹が突然こう言った。「お母さんも、そう長く持たないでしょ。家を売ろうと思うんだ。査定してもらったら結構いい値段がつくと思わない?」まだ自分で食事ができる母の前で、妹はお金の話しかしていなかった。私は頭に血が上った。「お母さんはまだ頑張ってるのよ」と叫んだが、妹は笑うだけ。大学生の時に母と大喧嘩して家を出ていった妹が、働きもせず戻っ...

末期がんを患った母の前で、妹が突然そんなことを言い出したのは、まだ母が自分で食事をとれるだけの元気を持っていた頃のことだ。

「お母さんも、そう長く持たないでしょ。お母さんが居なくなったら、この家を売ろうと思うんだ。ほら、見てよ。これ、査定してもらったんだけど、結構いい値段がつくと思わない? 早く売りたいな。私、欲しいものいっぱいあるんだ」

頭に血が上るのが分かった。

「お母さんはまだ頑張ってるのよ。何てこと言うの?」

余命宣告を受けた母の前で、この妹はお金のことしか考えていない。大学生の時に母と大喧嘩して家を飛び出し、ようやく帰ってきたかと思えば、働きもせずいつも寝ているだけ。こんな妹に、この家が相続されるなんてありえない。そう思っていた。

けれど現実は、そんな私の思いとは全く別の形で残酷に牙をむくことになる。数日後、私は最愛の夫を妹に奪われ、この家から追い出されることになるのだ。

私の名前は半田直子。どこにでもいる普通の専業主婦だ。夫の大輔と二人暮らし。基本的に穏やかな日々で、強いて言うなら子供に恵まれないことが少しばかりの悩みだったが、年齢的にまだ余裕はあったので、それほど深刻には考えていなかった。

そんな普通の毎日を送っていたある日、悲しい知らせが届いた。母に末期がんが見つかったのだ。

余命は一年ほど。延命治療の選択肢もあったが、母はそれを望まなかった。最後まで住み慣れたこの家で過ごしたいと。とても悲しいことだったが、私は母の考えを受け入れ、できる限りの支えをしようと決めた。

母は一人暮らしだった。父は私が幼い頃に蒸発し、数年後に再発見された時にはもうこの世にいなかった。酔っ払って喧嘩になり、その時の打ち所が悪かったらしい。私は父を恨むことも、その死を悲しむこともなかった。私たち家族を捨てた最低な男。それ以上の感情は湧かなかった。

私が結婚して家を出てから、母は一人だった。だから今回のことを機に、私は実家に戻ることにした。夫の大輔も、母との同居に賛成してくれた。こうして私たちは私の実家で暮らし始めたのだ。

暮らし始めてしばらくは、悪くない日々だった。限られた時間という事実が、むしろ母と私の絆を深めてくれた。母は抗がん剤治療の影響で少し辛そうではあったけれど、行動や会話にはまだ問題がなかった。母の体調がいい日は、大輔も交えて三人で旅行に出かけた。母は女手一つで私を育ててくれたため、旅行に行く機会がほとんどなかったらしい。どこに行っても目に涙を浮かべて感動してくれた。

母と私は元々仲が良かったけれど、話せば話すほど、今まで言えなかった感謝の言葉や、別れを惜しむ悲しみが溢れてきた。それでも、悔いだけはなくなっていくように感じられた。

このまま、母の最期の時まで穏やかな日々が続けばいい。そう願っていたのに、それを邪魔する者が現れた。妹の鈴だ。

鈴は、数年前から行方不明だった。きっかけは母との喧嘩。鈴は素行が悪く、学生の頃からしょっちゅう学校をサボっては悪そうな連中とつるんでいた。その度に母は学校に呼び出され、なぜか先生から怒られていた。鈴が通っていた学校では、毎年何人かの教師が中途半端な時期に辞めていた。一部の不良生徒に辞めさせられたという噂は、私の学校にまで届いていた。

鈴のサボり癖は大学に進学してからも治らず、二度も留年した。そんな繰り返しに堪忍袋の緒が切れた母は、ついに鈴を激怒した。

「そんなに気に入らないなら、学校なんてやめて好きに生きたらいいわ。あんたもどうせ、父親に似てロクな人間にならないんだから」

母としては言い過ぎたと反省していたらしい。けれど、その謝罪をする前に、鈴は大学を自主退学し、家を出ていってしまった。

ここまでの説明で、私が鈴に対してどんな感情を持っているか分かってもらえたと思う。はっきり言って、私は鈴が嫌いだ。母の言葉は正しいと思うし、反省する必要もないと思っている。鈴のせいで私を避けるようになった友達もいたし、逆に鈴の姉だという理由で近づいてくる厄介な人間もいた。私だって迷惑を被っているのだ。

だから鈴が出ていった時、私は清々した。これで私の人生は明るくなる、とまで思った。実際、その後私はそれなりにいい会社に就職し、大輔とも出会えた。間違いではなかったはずだ。

しかし、その平穏は永遠ではなかった。ある日、鈴が実家に戻ってきたのだ。

その日は休日で、私も大輔も休みだった。母と三人で昼食を取った後のことだ。突然玄関の扉が開き、私たちが驚いていると、鈴がリビングまでずかずかと入ってきた。

「なんで鈴が……」

思わず私は呟いていた。すると鈴は私を睨みつけ、口を開く。

「ひどいじゃない。どうしてお母さんのこと、教えてくれないのよ。実の娘なのに。知り合いづてで知るなんて、あんまりじゃない?」

世の中は狭いと思った。母はこれ見がしに見舞いに来られるのを嫌って、病気のことはほとんど誰にも話していなかった。それなのに、鈴にまで知られてしまったのか。

「……それは、ごめん。でも、もう母さんの元気な顔は見たでしょ。それじゃあ、帰ってくれる?」

私は反射的に鈴を追い返そうとした。この子は必ずストレスの元になる。それをきっかけに、母の限られた時間がさらに短くなるかもしれない。そんなのは嫌だ。

「お姉ちゃん、ひどいじゃない。久しぶりに会った妹にそんな態度取るなんて」

もっともな言い分かもしれないが、はっきり言って迷惑だ。そう言おうとした時、鈴は不穏なことを言い始めた。

「それに、帰ろうにも帰る場所がないのよ」

この言葉には、母も軽く驚いた顔を見せた。少し前まで鈴は彼氏と同棲していたらしい。しかし別れることになり、家を追い出されたのだという。

「つまり何? あんたはお母さんを心配してきたわけじゃなくて、行くところがなくて戻ってきたわけ?」

「それは違うわよ。もちろん一番はお母さんの心配よ。でも、私もお母さんのそばにいれば、色々と安心でしょ?」

鈴はそう言いながら、ニヤニヤと笑っている。一体何を企んでいるのか。いや、何を企んでいようと関係ない。無理やりにでも追い出してやる。

「あんたなんていなくても問題ない。今日だけで十分。お見舞いにも二度と来なくていいわ。ほら、さっさと出ていきなさい」

すると、私と鈴の間に割って入ってくる者が現れた。大輔だ。

「ちょっと待てよ、直子。そこまでしなくてもいいんじゃないか。困ってるって言うなら、ちょっとぐらい家に置いてあげたって。余ってる部屋があるだろう」

まさか大輔が鈴の味方につくとは思ってもいなかった。けれど考えてみれば、私は大輔に鈴のことをちゃんと話したことがない。妹がいるということしか伝えていないため、大輔は鈴がどういう人間か知らないのだ。つまり今の状況は、私が理不尽に妹を追い出そうとしているように見えているのだろう。

困った。大輔に悪い印象を与えたくない。かと言って、鈴をこのまま家に置いておくのも……

そんな私の迷いを察したのか、母が口を開いた。

「直子。私のことは気にしなくていいわ。鈴に行くところがないなら、家にいればいい。だけど、直子たちに迷惑をかけるんじゃないよ」

そんな母の言葉を聞いた鈴は、「はーい」と軽く返事をすると、早速客間へと向かっていった。

鈴が来てからの生活は、今までに比べて不愉快なものだった。私や大輔は仕事があるので朝早くに起きる。母も体調が良ければ一緒に朝食を取っていた。しかし、その時間に鈴が起きているのを見たことは一度もない。なんなら、私が会社から帰ってきてもまだ眠っている時がある。いい年をした大人が、一体どんな生活リズムで過ごしているんだ。

その上、鈴は働きもせず、家事をすることもなく、家ではだらけて私や母に文句を言うだけだった。

「ねえ、ご飯まだ?」

「この服、高かったんだから一緒に洗濯しないでよ」

「私の部屋の掃除、甘くない? ちゃんとほこり取ってよ」

こんな調子だ。こういった文句が私にだけ向くなら、まだ我慢できる。けれど鈴は、こういったことを母に言うことまであるのだ。

「ママ、ちょっと動かないと、ますます体弱くなっちゃうよ? だから私の代わりに、コンビニまでアイス買ってきてよ。娘ができることも、あとわからないんだから、今がチャンスだよ」

そんな暴言を見かける度、私は鈴を叱りつけた。だけど、いつ何時でも鈴の行動を監視できるわけではない。特に私が仕事に行っている間、母に一体どんなことを言っているのか、分かったものではない。

そんな不安が募り続けたある日。その日は会社の創立記念日だった。私の働く会社では、創立記念日は午後から休みになる。同僚と飲みに行くこともできたが、この年は母のこともあり、帰宅することに決めていた。

そして帰宅してみると、玄関には知らない男物の革靴があった。さらにリビングへ向かうと、そこには鈴とスーツを着た男性が一人。何かの相談をしているように見える。鈴は私の帰宅に気づくと、「ゲッ」というような顔をした。その顔を見て、私は悟った。何かよからぬことを企んでいると。

私と鈴が睨み合っていると、スーツの男性も私の存在に気づいたようで、「お邪魔しております」と頭を下げてきた。

「私、○○まるまる不動産の者です。この家の査定に参りました。劣化があまりないので、結構いい値段がつくと思いますよ。良かったですね」

不動産屋の男性は、鈴に頼まれて家にやってきたらしい。実家を売りたいから査定に来てほしいと言われた、と。それを聞いた私は、とりあえず不動産屋の男性には帰っていただき、その日の夜、鈴を問い詰めた。

「この家を売るって、一体何を考えてるの?」

鈴は私を馬鹿にしたような目で見て、ため息をついた。

「何って、母さんが居なくなった後、きっとこの家は持て余すことになるから売ろうと思ってるのよ。お姉さんは母さんと今を過ごすことしか考えていないけど、私は先のことも考えてるの。何かとお金があった方がいいし。こういう手続きは、早いに越したことはないでしょ。現実を見なさいよ。私とお姉さんじゃ、現実との向き合い方が違うのね」

何が分かったような口を聞いているのだ。どうせお金が欲しいだけだろう。けれど、そんなことはさせない。

「急に帰ってきて、家を売るとかふざけたこと言わないで。この家は母さんと私のものよ。勝手に出ていったあんたなんかに、くれてやるものですか」

額に血管が浮きそうになるくらい私は叫んだが、鈴は余裕の笑みすら浮かべている。

「お姉さんがどう思おうと、私たちは姉妹。つまり、この家の相続権は私にもあるのよ」

「それは……」

何て言えばいいのだろう。私は続く言葉を慎重に選んだ。そして口を開きかけた時だった。

「じゃあ、法廷で争おうか」

不意に、私たち二人以外の声が飛んできた。鈴がやってきた時と同じで、大輔が話に割って入ってきたのだ。だけど、あの時とは決定的に違う。大輔が私の味方についてくれているのだ。

「僕はよかれと思って、鈴ちゃんの同居を進めたが、どうやらそれは間違いだったようだ。仕事でほとんど家にいない僕ですら、君の行動は目に余る。わがまま放題、やりたい放題。実際、僕の知らないところではもっとひどいんだろう。とても、病気を患った母親の前で取る態度とは思えない。そうやってお母さんや直子を困らせるなら、今すぐこの家から出て行ってくれ」

鈴は大輔を自分に都合のいい男だと思っていたのか、いきなり攻め立てられて驚いているようだった。それでも負けず嫌いな鈴は、「関係ないでしょ」と大輔に食ってかかる。

「さっきも言ったけど、私にも相続権はあるの。いくら直子の旦那だからって、部外者のあんたが口を出すことじゃない」

「僕もさっき言ったと思うんだが、そこまで行くなら、こちらは相続権について法廷で争ってもいいんだ。幸い、貯金はそれなりにある。最後まで戦う準備はできている。一方の君は、そんな余裕があるのかい?」

鈴は「それは……」と何か言いかけたが、口をつぐんだ。言わなくとも分かる。弁護士を雇う余裕など全くないのだろう。それでは、相続権争いの負けが確定だ。

「それが嫌なら、今日みたいな勝手な真似はしない。今後のことについては、直子とちゃんと話し合うと約束してくれ。直子も、それでいいよな」

不意に話が飛んできて、私はつい「うん」と頷いてしまった。正直なところ、それでは甘いと思っている。今度こそ鈴を追い出して徹底的にこらしめたかった。けれど大輔はあくまで、穏便な態度を取るつもりなのだろう。まあ、仲裁に入ってきてくれたということもあるし、ここは大輔を立てる選択でもいいか。

鈴はしばらく何かを悩んでいたが、最終的には「分かりました。ごめんなさい」と小さく呟いた。こうして、私たちの家は守られたのであった。

それから数ヶ月後、母が亡くなった。余命は一年と言われていたのに、実際は八ヶ月目までしか生きることが叶わなかった。きっと鈴が戻ってきたせいだ。そのせいで、母さんの寿命は縮まったんだ。そんな気持ちが、私の中に渦巻いた。

その鈴と言うと、母が亡くなっているにも関わらず、特段悲しんでいる様子もない。葬儀などの準備は何も手伝わないくせに、お金が絡むとなると口を出してくる。

「もっと安くならないの? 葬式なんて、ちゃんとやる必要ある? 時代も変わったし、最近は家族葬とか個人のやり方でやるのが主流なんじゃないの。無駄に費用をかける必要ないでしょ」

葬儀場の前でなければ、私は叫びながら飛びかかっていたかもしれない。そりゃ、お金をかけたからいい式、費用を抑えたから悪い式ではない。そんなことは分かっている。結局、式の大きさではなく、どれだけ故人が慕われていたかが大切なのだ。けれど母は、数年内に亡くなることが確定していた。つまり、葬儀に関して準備する時間は十分にあった。だから無理に費用を削る必要はない。何より、何も手伝ってくれないのに、お金のことだけに口出ししてくる鈴の根性が気に入らなかった。

そんな鈴の態度のせいで、私は心の中でちゃんと母と別れることができなかった。母との記憶を思い返す度、不意に鈴のことも頭に浮かび、不愉快な気持ちに引き戻された。

不完全燃焼な気持ちを抱え、諸々の手続きを終えた数日後、私は激務に追われていた。今まで母の通院についていったり、亡くなった後の事務手続きでかなり休みをもらっていたため、仕事に遅れが出ていたのだ。その分を取り返すかのように、馬車馬のように働いた。仕事で頭をいっぱいにすることで、母や鈴のことを考えないようにしていたのかもしれない。連日残業し、時には会社に泊まることもあった。

平日はそんな感じで過ごし、心休まるはずの休日は、鈴の言動に腹を立てる日々だった。鈴は相変わらず家でゴロゴロしてだらけており、口を開けば家のことばかり言う。

「お姉さん、この家を売らないなら、せめてリフォームしましょうよ。不動産屋は状態がいいって言ってたけど、見た目は古臭くて仕方ないじゃない。新築みたいな現代的な家にしましょうよ。ねえ、見てお姉さん。私、設計図書いてみたの。ほら、才能あると思わない? 私、建築士になれるかも。あ、でもお姉さん、私は見ての通りお金がないから、リフォーム代はお姉さんが出してね。だけどあまり大輔さんを頼りすぎちゃだめよ。ここはあくまで、私たち姉妹の家なんだから」

言っていることが滅茶苦茶で、筋が通るどころかぐちゃぐちゃに歪んでいる。一体どんな風に思考回路をつなぎ合わせれば、こんな矛盾だらけの言葉を吐けるのだろうか。休みの度にこんなことを言われれば、溜まるストレスは限界値を超えそうになる。

そしてついに、ストレスの水槽に亀裂が入る日が訪れた。ある休日、鈴はいつものように私に話しかけてきた。けれど、鈴が「家のリフォーム」という言葉を発した時点で、私は切れた。

「やかましいのよ!」

私の怒号に、別室にこもっていた大輔まで顔を出す。

「あんたね、立場を弁えなさいよ。食費も光熱費も、私たちのお金から出してるの。あんた、この家に住み着いて一体何をしているっていうの。ただ私たちが汗水垂らして稼いだお金を食い潰しているだけ。いい迷惑よ。その上、家をリフォームしろだの、亡くなる人の分際でうるさいのよ。大輔に注意されたことも忘れたの? そんなにこの家が気に入らないなら、さっさと出て行って。自分好みの好きな家でも何でも建てなさいよ。ほら、大輔、鈴に何とか言ってやって」

私がそう言った瞬間、鈴の口角が上がるのが見えた。

「そうだな。君は出ていくべきだ」

「直子。え? 何言ってるの?」

「鈴と同居するようになってから、俺はずっと考えていたんだ。君には悪いが……」

鈴と同居するようになってから、私と鈴の仲裁をしてくれるのはいつも大輔だった。鈴のことを詳しく知らないこともあり、良くも悪くも常に状況をフェアに見て判断を下す。だからこそ、鈴と同居することになってしまったし、出て行かせるチャンスを失うことになった。けれどそれは、大輔なりに私たち姉妹の関係性の改善を考えてくれた上での発言だったはずだ。

だけど、今の状況において出ていくのは鈴じゃなくて私。いや、そもそも私は大輔の妻。私が出ていくということは、大輔も出ていくということ。母も亡くなったため、この家に住み続けることが嫌になったのだろうか。だから鈴に家を明け渡せと。

「それは……違う。本当にすまないが、直子。俺と別れて欲しいんだ」

私はますます混乱した。そして、地獄に叩き落とされることになる。

「俺は、鈴とこれからを生きていくことにするよ」

大輔が放つ言葉の意味は分かる。しかし同時に、何が言いたいのかが理解できない。いや、私の本能が理解を拒んでいるというのが正しいのか。

「確かに鈴はお金もないけど、それはこれから俺が養っていくから問題ないよ。それよりも、鈴と一緒になることを選んでしまうほど、俺たち体の相性がいいんだ。やっぱり人間も動物。男女の関係である以上、こういった要素もかなり重視するべきだと思うんだ。直子とは……正直飽きたというかつまらないというか。もう興奮できないんだ」

大輔の言葉を聞いている鈴は、笑いが堪えきれないと言わんばかりに腹と口を押さえて震えている。そしてとうとう、ゲラゲラと笑い出した。

「可哀想なお姉さん。意味が分からないほど嫌っていた妹に、旦那を寝取られるなんて。でも大輔さんもチョロかったわよ。お姉さんが仕事で忙しくしている間、私が相手をしてあげたら、コロッと落ちたの。やっぱり男は下半身でしか物を考えられないのね。だけど、それでもいいじゃない。つまらない女より、気持ちよくさせてくれる女の元に来る。それを望むのが人間の本能よ。あ、もしかして子供に恵まれなかったのって、お姉さんとの夜が……失礼。あまりお上手でなかったことも関係してるのかしらね」

鈴がまくし立てるのを聞いて、大輔もニヤニヤと笑っている。

「まあ、ともかくだな。俺は鈴とこれからの人生を歩みたいから、離婚してくれ。そして、この家からも出て行ってくれ」

そう言う大輔を、鈴は「まあまあ」と止める。

「そこまでしなくてもいいんじゃない? お姉さんも私の家族だし。家にいたければ、いればいいのよ。ただ、夜は大輔さんとの声が聞こえちゃうかもしれないけどね」

そう言って、二人は再び笑い合った。人生の中で、まさかこんな恥をかく日がやってくるとは思わなかった。体に力が入らず、私は膝から崩れ落ちた。しかし、そんな私を気遣ってくれる人は誰もいなかった。大輔は、記入済みの離婚届を私の前に突き出す。

「これにサインしてくれ。あと、直子が家の権利を主張するなら、法廷で戦おう」

まさかこのセリフを、私が言われる日が来るとは思ってもみなかった。今にも心が折れそうだ。だけど、私はまだ完全に負けたわけじゃない。

「この家だけは、絶対に譲らないから覚悟してなさい」

私はそう言い放ち、復讐心を燃やし、大輔に差し出された離婚届を突き返したのだった。

それから数日後、私はマンションの一室を借り、新しい生活を始めた。落ち着き始めた頃、私は鈴や大輔にバレないように、実家の前を通ってみることにした。未練がましいと思われるかもしれないが、そうではない。私の実家には、住機とトラック数人の男性がおり、家の取り壊しを始めていたのだ。しかし、それらには業者名が書かれていない。おそらく鈴と大輔の個人的な知り合いだろう。それなら許可も手配も必要ない。以前鈴が見せてくれた設計図にちらっと目を通したが、元々あった家とはまるで間取りが違っていた。そのため、おそらく実家を更地にしてしまうのだろう。一体どれくらいのお金がかかることやら。

そんなことを考えていると、さらに数日後、鈴からメッセージが届いていた。

「実家のリフォームを始めたんだけど、あそこはお姉さんの家でもあるんだから、お金は半分以上出してよね」

馬鹿らしい。なぜ私が払わないといけないのだ。私はメッセージを無視した。すると、聞いてもいないのに鈴からさらにメッセージが。

「色々注文をつけてたら、大輔君の予算をオーバーしちゃったの。でも、お姉さんがお金を出してくれれば全く問題ないわ。それとも、私に大輔君を取られたことが悔しくて、お金を出せないのかしら? そうじゃないなら、ちゃんと払ってくれるよね」

そう言って、振り込み先まで記載されていた。何だ、この挑発にすらなっていない挑発は。大輔もよくこんなバカな女と一緒になろうと思ったものだ。それほどまでに、夜の相性が良かったというのか。確かに、夜の営みが夫婦関係に響くという話は聞いたことがある。本当に私と大輔の相性がいまいちだったなら、もっと早い段階で話し合い、何かしら改善できる点もあったかもしれない。けれど、それも全て今となっては「たられば」の話だ。大輔はすでに私を裏切ったのだ。相性がどうとか、そんなことは関係ない。

それからしばらくの間、私は実家の様子を見に行き、鈴からは挑発のメッセージが送られてくるという日々が続いた。しかし、それもある日まで。その日送られてきたメッセージは、いつもの挑発とは全く色合いが違うものだった。むしろ焦りに満ちた文章で、誤字脱字も多い。それでも、なんとなく言いたいことは分かった。私がいつものようにメッセージを無視しようとすると、今度は電話がかかってくる。

「仕方ないなあ」

そんなことを思いながら、私はスマホを耳に当て、その着信に応じた。すると案の定、鈴の怒声が電話越しに聞こえてくる。

「どうして私たちの家に警察が来てるのよ!」

「何度も言うけど、あの家は私のものよ。それは気持ちの問題だけじゃない。権利として、私のものなの」

実は、私は母からあの家を生前贈与してもらっていたのだ。だから鈴は「私にも相続の権利がある」と言っていたが、権利も何も、すでに相続済みだったというわけだ。私がそのことを電話で話すと、鈴は「そんな……」とか細い声を絞り出す。

「いや、ある日家の前を通りがかったら、私の家が勝手に取り壊されていたから、びっくりして警察と弁護士さんに相談したのよ。そしたら、建造物損壊罪に当たるかもしれないとか言われてね」

電話越しにも、鈴が息を飲む音が聞こえた。今まで不良じみたことをしていても、罪という言葉に対する恐怖心はあるのだろう。すると、横で聞いていたのか、大輔に電話が代わる。

「待てよ。生前贈与で家を相続していたとしても、もう一人相続権のある鈴がいる以上、直子の相続を無効にできる可能性もあるはずだ。直子、お前を訴えてやる。この家は鈴と俺のものだ」

私は法律に詳しいわけではないので、すでに相続された家や土地の相続者を変更することができるのかは知らない。けれど、もしそれが可能だったとしても、鈴には不可能なのだ。

「だって、実の子ならまだしも、血や戸籍的に繋がりのない鈴が、母さんのものを相続できるわけがないでしょ」

「え? ……」

私はしばらく待ったが、さすがの鈴もそれ以上言葉が出てこなかった。実は、鈴は母が産んだ子ではないのだ。これも母が亡くなる前に聞いた話。鈴は父がよその女との間に作った子で、父が姿をくらました日、私たちの家に置き捨てていった子だった。姉である私ですら記憶が曖昧なくらい昔の話だ。当時の鈴に至っては、まだ話すことすらできなかったんじゃないだろうか。

父が蒸発し、知らない子供を置き去りにされた母は、当時尋常じゃないストレスを抱えることになった。鈴の顔を見る度、父からされた仕打ちを思い出すはめになる。それでも幼児に罪はなかったため、母は鈴のことを実の妹として育てることを決意した。ただ、その際父とは連絡が取れなかったため、母と鈴は養子縁組を組むこともできなかった。そしてそのまま成長し、残念なことにぐれにぐれ、実の子供ではないということも伝えられぬまま、鈴は家を出て行ったというわけだ。

亡くなる前の母は、そのことを私に伝え、こうも言っていた。

「本当のことを言うと、私の病気のことを聞いて鈴が戻ってきてくれたことは、少しだけ嬉しかったの。多分、私もなんだかんだで情が湧いてたのね。だけど、それと同時にあの子がどうしようもない子だってことも分かってる。だから、鈴との関係をどうするかは、全て直子に託すわ。仲良くするも良し、関係を断ち切るも良し。好きにしなさい」

母はそう言い、それ以上何も求めなかった。私としては鈴と改めて仲良くするつもりなんてさらさらないけれど、別に縁まで切ろうとも思っていなかった。鈴にとって、私は唯一の生きている血縁者である。甘やかすつもりはないが、もし本当に困ったことがあれば、話ぐらいは聞いてやれたらな、と思っていたのだ。

だけど鈴は、そんな私の気持ちを知らず、裏切り、大輔を奪い取った。もう私と鈴の関係は、縁を切るでは済まされないところまで来てしまっている。

「そんなの、嘘に決まってるだろう!」

全てを聞き終えた大輔が、声を荒げた。今は私と鈴の話だというのに、相変わらず人の人間関係に割って入るのが好きな人だな。

「だったら、どうしてもっと早く言わなかったんだ? こんなことになるまでに、いくらでも鈴には相続権がないと伝えるタイミングがあったはずだろう」

「こんなこと」というのは、大輔が他人の家を勝手にぶち壊したということだろうか。もしそうなら、それは自業自得だ。あたかも私の成果のように言わないでほしい。

「だって、いつもあなたが邪魔してきたんじゃない」

「あ?」

大輔は何のことか分からないようだ。だから、私と鈴が相続の話で揉めた時、あなたが話に割って入って「法廷で争うか」なんて格好つけるから、言い渋ったのよ。まあ、いつからか「最も効果的なタイミングでこの事実を告げよう」という考えにシフトチェンジしていたが、それはわざわざ言うことでもない。

「ああ、そういうわけだから。これであなたたちは、晴れて犯罪者ってわけ。大輔ね、もう女性と会う機会には当分恵まれないわよ。牢獄の中で一人、絵でも描いてればいいの。鈴は家がないんでしょ。良かったわね。牢屋の中なら、衣食住完備よ。おめでとう」

私がそう言うと、大輔は「そんな……」と情けない声を出していた。しかし鈴は、諦めたのか開き直ったのか、ふふふっと不敵に笑う。

「まあ、あんたの思い出の詰まった家を壊してやったんだから、この辺りで痛み分けってところかしら。確かに私たちは捕まるかもしれないけど、あんたも思い出の家を失ったじゃない」

どうやら鈴は、最後まで負けず嫌いを貫くようだ。

「いいえ、残念でした。元々、駐車場にするつもりだったから、どの道潰す予定だったけどね。私、あんまり家に執着しないのよ。思い出は物じゃなくて、心に宿るの」

「ごめんなさい」という言葉を聞き、鈴は改めてギャーギャーと騒いでいたが、私はずっと「この家は私のものだ」と言い続けていたにも関わらず、鈴たちが私を追い出して勝手に壊したのだから、文句を言われる筋合いはない。そもそも、私が鈴のリフォーム計画に難癖をつけていたのは、駐車場にする計画があったのももちろんだけど、シンプルに私の持ち物に関して他人からとやかく言われるのが不愉快だったからだ。それを「お姉さんはリフォームしたくないくらい、この家のことが大事なのね」と、鈴が勝手に勘違いしただけの話。結果、実家は更地になり、邪魔物は消えたので一石二鳥である。

私は一切の手心を加えず、建造物損壊罪、器物損壊罪で彼らを訴えた。もちろん、有罪が決まり、懲役刑が課されることに。一方の私は、更地の土地を駐車場にし、そこから得られる収入で新しい家に住むようになった。これでやっと落ち着いて、母の死と向き合い、別れを告げることができる。そして、一通り悲しみを癒したら、しばらくは優雅な一人暮らしを楽しんでいこうと思う。

Thumbnail