あの日、郵便受けに入っていた赤い封筒を開けた瞬間、私の静かな老後は音もなく終わった。「連帯保証人として、四十八万五千円をお支払いください」。五年前、身寄りがないと言う若い同僚のために名前を書いた、たった一行の署名だった。六月の大阪、湿った団地の廊下で、私はその紙を握りしめたまま動けなかった。誰も悪くない。ただ、逃げた男と、名前を書いた私がいた。毎月三万円、十六回の分割払い。私は区役所に足を運…

あの日、郵便受けに入っていた赤い封筒を開けた瞬間、私の静かな老後は音もなく終わった。「連帯保証人として、四十八万五千円をお支払いください」。五年前、身寄りがないと言う若い同僚のために名前を書いた、たった一行の署名だった。六月の大阪、湿った団地の廊下で、私はその紙を握りしめたまま動けなかった。誰も悪くない。ただ、逃げた男と、名前を書いた私がいた。毎月三万円、十六回の分割払い。私は区役所に足を運...

六月の大阪は、息が詰まるような湿気に包まれていた。梅雨前線が日本列島に張り付き、雨は止んでも止まないようなどんよりとした重さが空気の底に溜まっていた。黒沢しげおが住む団地の四階は廊下の手すりがうっすらと緑色に滑り、エレベーターの中は古いゴムと湿った壁の匂いが混じり合っていた。

六月十一日、木曜日の夜だった。黒沢は茶ブ台の前に座り、左手に小さな電卓、右手にシャープペンシルを持って家計簿の見開きページを睨んでいた。部屋の照明は六十ワットの電球一個で、蛍光灯は去年切れたまま変えていなかった。その薄暗さの中でも彼の目は数字を間違えなかった。

今月の収支は、警備会社からの夜間手当て込みの給与が十二万四千八百円、 年金が月割りで八万三千円、合わせて二十一万一千円の収入に対し、家賃が三万二千五百円、国民健康保険が一万四千二百円、電気代が三千七百円、水道代が千四百円、食費が二万千三百円、薬が三百円、雑費が千九百円だった。彼は金額の一桁一桁を指でなぞりながら合計を出した。差し引き手元に残るのは七万六千七百円だ。そのうち二万円を「万一のとき用」と書いた封筒に入れた。もしも自分が死んだ時の弓に迷惑をかけないための金だった。黒沢はペンを置き、家計簿をぱたりと閉じた。それから老眼鏡を外し、胸ポケットから小さな灰色の布を取り出して眼鏡のレンズを左右それぞれ七回ずつ吹いた。この動作は彼が意識的にやっているのではなかった。気がつくと手が動いている。若い頃から続けてきた習慣で、考え事をする時や気持ちを落ち着かせたい時に自然と出てくる

夜の九時を過ぎると団地の廊下に人の気配がなくなった。隣の部屋からはテレビの音が壁越しにくぐもって聞こえてくる。黒沢は日付が変わる前に起きて、翌日の早番出勤に備えなければならなかった。シャワーを浴び、明日の弁当用に梅干を一個、冷蔵庫の隅にある小皿から取り出して小さな容器に入れ、布団を敷いて横になった。それが彼の夜だった

翌朝、六月十二日金曜日。黒沢は午前五時四十分に目が覚めた。目覚まし時計は六時にセットしてあったが、いつもその前に自然と目が開く。夜が明けきらない薄暗い時間に、彼は台所で白米を一合炊き、梅干を一つ乗せた茶碗を前にして黙って食べた。箸の先が茶碗の縁に当たる音と、雨つが窓枠を打つ音だけが部屋にあった。食事を終え、茶碗を洗い、台所を丁寧に拭いてから、黒沢は玄関に向かった。靴を出す時、彼は必ず左右の靴のつ先を揃えて外向きに並べる。横から見てもまっすぐ平行になるように。これも若い頃からのことで、妻が生きていた頃は笑われたこともあった。でも今はもう笑う人間が誰もいない

廊下に出て郵便受けの前に立った。鉄製の受け口は錆びていて、明け閉めのたびに「カチッ」という音がした。大抵はチラシかNHKの受信料の葉書か、自治会の回覧板だ。今日も同じだろうと思いながら手を突っ込むと、指先に封筒の核が当たった。引き出してみると、それは見慣れない色をしていた。赤い封筒だった。差出し人は「株式会社さんわ不勤産管理」。住所は大阪式南だった。黒沢は封筒を持ったまま廊下の冷たい空気の中に立ち尽くした。「さんわ不勤産管理」という名前は記憶にあった。五年前、彼が保証人として名前を書いた賃貸契約の管理会社だ

封筒を開けると、折りたたまれたエイオンの紙が二枚入っていた。一枚は通知分、もう一枚は迷彩書だった。通知分には「生前としたっ、勝じで」と書いてあった。

黒沢茂雄様、あなたは当社管理物件にお住まいの入居者「田浩司」様の賃貸借契約において連帯保証人として署名されています。この度、田様が以下の滞納賃料及び処費用を残したまま現在所材不明となっていることを確認いたしました。つきましては連帯保証人様であるあなたに対し、金額の早急なご対応をお願い申し上げます。」

最初に目を移したのは診療四か月分二十四万円。退去清掃費用九万八千円、損壊修繕費用十四万二千円。その他管理費用二分五千円。合計四十八万五千円。黒沢は数字を読んだ。もう一度読んだ。「四十八万五千円」。我が今月、老後のために封筒に入れた二万円を積み立てて続けても二十四か月かかる金額だ

廊下に立ったまま、どのくらいの時間が経ったかわからない。隣の部屋からガスコンロに火がつく音がした。どこかの子供がドアを勢いよく開けて駆け足で階段を降りていった。黒沢はそういった音を聞きながら、封筒と紙を胸の前でじっと持っていた

田浩司という男のことを思い出した。あれは五年前のことだ。黒沢がまだ同じ警備会社の別の現場にいた頃、田は新入りの警備員として入ってきた。二十八歳で身寄りがないと言っていた。両親は早くになくなり、兄弟もいない。アパートを借りようとしても保証人がいないからと何度も断られたと言っていた。黒沢はその話を聞いた時、木の枝にを持った。「木の枝にを持ったから保証人になってやった」。それだけのことだ。田は礼儀に正しい男だった。挨拶をきちんとして、制服の折り目を整えて、先輩の話をよく聞いた。保証人になってから一年ほどで職場をやめ途切れたが、黒沢はそれほど気にしなかった。若い人間は移り気なものだ。どこかで元気でやっているだろうと」。ただそれだけしか考えなかった。それが四十八万五千円になって戻ってきた

黒沢は部屋に戻り茶ブ台の前に座った。封筒と迷彩書と通知分を茶ブ台の中央に丁寧に並べた。そして古い折りたたみ式の携帯電話を取り出し、工事の番号を押した。電話は三秒もかからずに切れた「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という機会の声が流れた。もう一度押した。同じ声が流れた。黒沢は携帯を閉じた。茶ブ台の上の紙を見た。眼鏡を外し、布を取り出して吹き始めた。左のレンズを七回、右のレンズを七回、また左を七回、右を七回。気づいた時、彼はもう十分以上それ を繰り返していた

その夜、黒沢は仮眠から起きた後、警備の仕事に出た。いつも通り制服を着て時間通りに現場に着いた。商店街のシャッターが閉まりかけた夜の巡回路を歩きながら、彼の頭の中では「四十八万五千円」という数字だけがぐるぐると回っていた。歩いても立ち止まっても、空きシャッターを懐中電灯で照らしても、その数字は消えなかった

翌日の土曜日、黒沢は朝から支度をした。いつもの休日の格好、グレーのポロシャツと薄い色のスラックス。スラックスは膝の内側がわずかにすれているが、アイロン掛けで折り目をつければ十分綺麗に見える。靴は黒の合皮で、かかとが少し減っていたが磨いてある。鏡の前で一度だけ自分を確認してから外に出た

「さんわ不勤産管理」のビルは梅田から地下鉄で二駅の場所にあった。黒沢は電車の中でも通知分を内ポケットに入れたまま、中吊り広告を見るふりをして目を動かさなかった。電車が揺れるたびに吊り革を握った手に力が入った

ビルの入り口を入り、エレベーターで三階に上がると、受付カウンターの前にフロアがあった。若い女性の事務員がいくつかのデスクに座っていた。奥の方にスーツを着た中年の男性が書類を見ていた。黒沢は入り口に近い小さな椅子に腰かけ、呼ばれるのを待った。十分ほどしてカウンターに案内された。担当者は二十代後半と見える若い男で、名札ダには「井上」と書いてあった。井上は黒沢の顔を見てからすぐにパソコンの画面に目を向け、キーをいくつか叩いた「田浩司様の件でいらっしゃいますか」と言った。声に特別な温度はなかった

黒沢は「そうです」と答えた。それから通知分を取り出しカウンターに置いた。井上は書類を一瞥してからまた画面に目を戻し、用紙を印刷して黒沢の前に差し出した。それは分割払いの誓約書だった。毎月一定額を支払うことを約束する書面で、支払い回日と金額の欄が空白になっていた。黒沢は用紙を見た。それから井上の顔を見た。井上は特に何も言わず、ペンをカウンターの橋に置いた。サインを促すための無言の動作だった

黒沢の胸の中で何かがひっそりと締め上げられる感覚があった。「自分は何も悪いことをしていない。たが逃げた」。それは事実だ。しかし保証人として名前を書いたのも自分だ。その自覚はある。だが、この若い担当者の感情のない視線が、黒沢の胸の奥の言葉にならない場所を圧してきた

黒沢は深く息を吸った。そして井上に向かって腰を四十五度に折った。頭を下げたまま声を出した「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。必ずお支払いします」と言った。井上は「よろしくお願いします」と言った。それだけだった。感謝でも道場でも何でもない。ただの事務的な返答だった

黒沢は誓約書にシャープペンシルで名前を書き、押印をした。「毎月三万円を十六か月かけて支払う」。そういう計画に一人でなった。担当者は計算機で確認してから、「領収」のスタンプを書類に押した

ビルの外に出ると、空は朝と変わらない灰色だった。低い雲が低く垂れ込め、道路のアスファルトは湿っていた。黒沢はしばらくビルの入り口の前に立っていた。特に行く当てがあったわけではない。ただ足が動かなかった

そのまま二十分ほどかけて歩いた。どこをどう歩いたかはっきり覚えていない。気がつくと古い商店街のアーケードの下に入っていた。シャッターが半分以上閉まっている。寂びれた通りだ。かつては賑わっていたのだろう。昔の看板の痕跡が外壁に残っている店がいくつかあった

アーケードの橋に公衆電話のボックスがあった。ガラスが一枚割れていて、ガムテープで塞がれていた。黒沢はそのボックスに入り、扉を閉めた。警備の常備担当を古川係長の番号を押した。電話が繋がって古川の低い声が出た「古川さん、お願いがあるんですが、来月から週に三回夜間の追加シフトに入れてもらうことはできますか? 体の方は問題ありません。もし空があれば是非入れてください」と言った

古川は少し間を置いてから「どうしたんですか? 急に」と聞いた。黒沢は「ちょっと事情があって」と言い、それ以上は続けなかった。古川はまた少し黙った「まあ西田さんが体調を崩して来月から休みに入るから、ちょうど枠は出るわな」と言った。黒沢はもう一度頭を下げた。電話の向こうには伝わらないが、それでも下げた「ありがとうございます」と言った

ボックスを出ると、雨がまた降り始めていた。傘を持っていなかった。黒沢は濡れながら歩いた。シャツが背中から貼り付き、スラックスの膝元が暗い色になった。それでも足を止めなかった。駅の方向に向かってまっすぐ歩き続けた

「四十八万五千円」。週三回の追加シフト。軽六か月。黒沢は口の中でそれだけを繰り返しながら歩いた。感情でも考えでもなく、ただ計算として、それが今の彼にとって一番確かなものだったから

この一日が始まる前まで、黒沢しげおの定年後の計画は驚くほどつつましいものだった。仕事は今の警備員のまま続け、体が動く限り続け、年金と合わせて月に十万円前後で暮らしていく。余計なものは買わない。旅行にも行かない。ただ毎朝梅干を一個乗せた白米を食べ、夜には家計簿に数字を書き、それだけでいいと思っていた。それが今日、一枚の赤い封筒で静かに終わった

黒沢は濡れた靴で改札を抜け、ホームに降りた。電車が来るまでの間、プラットフォームの橋に立ち、レールの上に目を落としていた。雨が降り続いていた。電車が来て乗り込み、ドアが閉まった。窓の外、灰色の町が流れていった。黒沢は窓には寄らず、吊り革を握ったまま目を閉じていた

八月に入ると、大阪の暑さは昼夜の境目をなくした。日中は体感温度が四十度を超え、夜になっても気温が三十度を下回らない日が続いた。団地の廊下はコンクリートが熱を蓄えていて、夜中に素足で歩けばそこから熱が上がってくる。黒沢しげおはその廊下を午後七時四十分きっかりに出発していた

出発の前に彼は必ず同じことをした。台所で麦茶を一杯飲む。折り目のついたスラックスをもう一度確認する。制服のシャツのボタンを上から順番に指でなぞる。靴を玄関に出して左右のつ先が完全に揃っているかを確認してから足を入れる。これを急ぐ時もあったが、順番を変えたことはなかった

三回の追加シフトが始まってから一か月が経っていた。黒沢の勤務は夜の八時から翌朝の五時まで九時間だ。現場は以前と同じ大阪の外れにある古い商店街、通称「南銀座通り」の防犯業務だとは言っても、名前ほどの活気はなく、三十二件ある店舗のうち現在営業しているのは十四件だけで、残りはシャッターに蔦が絡まっていた

夜間の巡回は二時間に一度で、それ以外の時間は通路の橋に置かれた折りたたみの椅子に座って過ごす。椅子は金属製で背もたれがなく、尻の骨が一時間もすると痛くなる。それでも黒沢は正しい姿勢を崩さなかった。背中を伸ばして膝の上に両手を置いて正面を向いて座っていた。若い警備員は巡回のない時間、スマートフォンで動画を見たり、うとうとしながら首を落としたりしていた。黒沢にはそのどちらもできなかった

八月の半ば、深夜の二時過ぎ、地下鉄の終電が終わった後の時間帯に一番きつい時間が来る。商店街の照明は最小限のLEDがとっているだけで、シャッターの白い金属面がぼんやりと浮かんでいる。夏でもその時間になると、地下から冷たい風が吹いてくる。黒沢はそれを顔に受けながら立ち上がって巡回に出た「ゆっくりと、しかし一歩一歩確かめるように歩く」。靴の裏がタイルを踏む音だけが誰もいない通りに響く

サラリーマンが終電を逃してよ、商店街のベンチに倒れ込んでいることがある。黒沢は声をかけ、体を起こし、方向を確認してから送り出す。相手がどんな態度を取っても黒沢は怒らなかった「起こる余力がもうなかった」

追加シフト三か月目に入ると、月の総収入が十五万円を超えるようになった。「年金の八万三千円に通常シフトの七万二千円、追加シフト分の三万一千円が加わった。計十八万六千円だ」。そこから毎月三万円を誓約書通りに「さんわ不勤産管理」に振り込み、家賃と保険と食費を払うと、残りは月に四万円弱になる

黒沢はその四万円を一円も使わなかった。封筒に入れて押入れの奥の一番古いダンボール箱の中にしまった。「十月になれば九月と十月分を合わせて八万円。十一月には十二万円になる計算だ」。そうやって積み上げていけば一年以内に関西できる。黒沢はそれだけを考えて夜を過ごした

ところが十月の初め,いつもと違う郵便物が届いた.差出人は大阪式の区役所で,封筒の表に「住民に関する通知」と書いてあった.黒沢は昼前に郵便受けから取り出し,台所のテーブルに置いたまま,昼食の梅干しを食べ終えてからゆっくりと開いた.通知分には専門的な行政用語が並んでいた.黒沢は一度読みを得たが,内容が頭に入らなかった.もう一度,今度は指で一ずつなぞりながら読んだ.内容はこうだった.

「今年度の合計所得金額が,給与収入及び年金収入の合算により一定の基準を超えたため,住民税非課税世帯の認定が解除された.それに伴い,来月分より国民健康保険料が改定されることになる.また,現在適用されている公営住宅の家賃減額措置についても,所得釣化に該当するため次年度より終了する見込みであることをお知らせします」

黒沢は通知分をテーブルに置き,次のページをめくった.健康保険料の新しい月額が記載されていた.現在の一万四千二百円から二万九千八百円に変わる.月に一万五千六百円の増加だ.そしてその次のページ,家賃の記載があった.現行の月額三万二千五百円が,来年度から六万七千五百円に改定される見込みです」と書いてあった

黒沢は計算した.健康保険の増加が月き一万五千六百円.家賃の増加が月三万五千円.合わせて月に五万五百円.新たな支出が増える.今の自分の手取りからこの増加分を引いたら,毎月三万円の返済を続けながら食費を賄うことが計算上できなくなる

翌日の午前,黒沢枠役所に向かった.地下鉄でき,改札を抜けると,区役所の建物は白いコンクリートの印象のない箱のような外観だった.自動ドアを入ると待ち合いのスペースに年配の人々が列と並んでいた.黒沢は受付に通知を見せ,番号札を受け取って水色のプラスチック椅子に腰を下ろした.待っている間,黒沢の隣に七十代と思われる男性が座っていた.その人は何かの書類を膝の上で何度も読み返し,口の中で文字を追っているようだった.黒沢はそちらを見なかった.前を向いて番号が呼ばれるのを待った

四十分後,番号が電光掲示板に表示された.黒沢は立ち上がり,指定された窓口に向かった.仕切りのアクリル番の向こうに三十代半ばほどの女性職員が座っていた.黒沢はまず通知分を差し出し,「内容をもう一度確認したいのですが」と言った.女性職員は通知分を受け取り,画面に向かっていくつかキーを入力した「黒沢しげおさんですね」と板越しに言った「はい」と黒沢は答えた

職員は画面を見ながら説明した「今年度の所得合算により,住民税非課税世帯の基準である年間百二十万円を超えされています.ご確認の通り国民健康保険料は改定されます.またお住まいの公営住宅の家賃についても所得長化認定が来年度に見込まれます.それについては住宅管理課からご通知が届く予定です」と言った.声は穏やかで,早くも遅くもない一定のペースだった

黒沢は聞いた「この所得の基準というのは,去年の収入が増えたからでしょうか」.職員は答えた「はい.今年一月から十二月の確定申告ベースの所得が判定基準となります.昨年度に収入が増加された場合,今年度の判定に反映されます」.黒沢はもう少し聞いた「では今年また収入が減れば,来年の判定で非課税に戻ることはありえますか? 」.職員はまた画面を見た「所得が基準内に戻れば,申請によって再度非課税認定を受けることは可能です.ただし一度所得が超過した世帯については素給しての適用はできません.本年度分については現行のまま適用となります」と言った

黒沢は黙って聞いていた.職員は続けた「なお家賃の減額措置については住宅管理課の判断になりますので,詳細はそちらにご確認ください.本日そちらの窓口にも行かれますか?

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」.黒沢は「いいえ.今日はここだけにします」と言った「また日を改めます」と付け加えた.職員は「了解です」と言い,通知分を丁寧に折り返して黒沢に返した

区役所の外に出ると,十月とは思えない生ぬるい空気があった.空は薄い水色で,雲が一枚ゆっくり流れていた.黒沢は正面玄関の脇に並んでいるベンチのうち,日陰になっている一番端のものに腰を下ろした.彼は手の中に通知分を持ったまましばらく正面を見ていた.バスが来て止まり,年配の女性が二人降りてきた.一人が転ばないようにもう一人の腕を支えながらゆっくりと歩道に降りた.バスのドアが閉まり発車して いった

黒沢の頭の中で数字が組み換えられていた「収入が増えたから非課税でなくなった.非課税でなくなったから保険料が上がった.保険料が上がれば手取りが減る.家賃の減額がなくなればもっと減る.このまま返済と生活費を両立しようとすれば,増えた収入では追いつかなくなる可能性がある.より多く働くためにより多く削られる」

その構造は黒沢には初めて見えたものだった.彼はこれまで「制度」というものを意識したことがなかった.保険料は決まっているもの,家賃の補助はありがたいもの,年金は自分が長年払ってきたもの.そういう風に捉えていた.それが収入が一定のラインを超えると,蛍光灯が消えるように次々と切り替わるということ を,今日初めて理解した

黒沢は胸ポケットから老眼鏡を取り出した.眼鏡ではなく,布の方だった.鏡を持っていないのに布を 出したことに気づいてまた戻した.その動作が自分でもおかしく感じられたが,笑う気にはなれなかった.ベンチから立ち上がり,バス停の方向に向かった.バスを待っている間,並に立っている恒例の男性が黒沢に気づき目 があった.どちらも何も言わなかった.バスが来て乗り込んだ

その夜,黒沢は通常通り八時に現場に入った.古川係長はいつものように事務所の椅子に腰かけ日報を見ていた.古川は黒沢が入ってくると「おう」と短く言った.黒沢は「お疲れ様です」と返して制服のジャケットを羽織り,懐中電灯と無線機を腰のベルトに通した

その夜の商店街はいつもより静かだった.十月の連休明けで人手が少ないのかもしれない.シャッターの前を歩くと自分の足音だけが反響する.黒沢は巡回ルートを外れず,決められた順番で確認所を回った.非常口のドアに手をかけて押す.南側の駐輪場の状況を確認する.ゴミ置き場の蓋が閉まっているかを見る.それを繰り返す

深夜の十二時を過ぎた頃,入口に近いベンチにコンビニの袋を抱えた若い男が座り込んでいた.二十代前半くらいで,首元が寄れたTシャツを着て目が虚ろだった.酔っているのか疲れているのか判断しにくかった.黒沢は近づき「ここは私有地になりますので,年塚に行った」.男は顔を上げた.それから黒沢を見て「おじいちゃん」と言った.悪意のある言い方ではなかったが,黒沢の胸に小さなトゲが刺さった

黒沢はもう一度「ここは私有地になります.ご移動をお願いします」と言った.男はのろのろと立ち上がり,コンビニ袋を引きずりながら出口の方へ歩いていった.黒沢はその後ろ姿を見届けてから巡回を続けた「おじいちゃん」という言葉が耳の底に残っていた.六十八歳は確かに老人に分類されるのかもしれない.だが自分がその言葉で呼ばれることにまだ慣れていない感覚があった

朝の五時,交代の警備員が来た.黒沢は引き継ぎのメモを渡し,制服のジャケットを脱いで事務所にかけた.それから外に出た.十月の夜明け前の空気は夏とは違う冷たさを含んでいた.地下鉄の始発まで三十分ある.黒沢は駅の方向に向かってゆっくりと歩き,途中のベンチに座って時間を待った

帰宅してシャワーを浴びてから,黒沢は家計簿を開いた.今月の見込みを書き直した.収入の欄は変わらない.しかし支出の欄の健康保険の数字を一万四千二百円から二万九千八百円に書き換えた.一万五千六百円の増加が赤いペンで括られた.そして来年の欄の家賃に六万七千五百円という数字を薄く鉛筆で書いた.現在の三万二千五百円から三万五千円の増加だ

現在の月の収支計算では返済三万円と生活費を引いた後の余剰は四万円弱だった.そこから保険料の増加分一万五千六百円を引くと余剰は二万四千円になる.さらに来年家賃が三万五千円増えれば毎月一万千円のマイナスになる計算だった.つまり返済を続けながら来年の野賃増加に対応することは現在の収入水準では不可能だ

黒沢はその数字を見た.鉛筆を置いた.眼鏡を外した.布を取り出した.レンズを吹いた.左七回,右七回

取れる選択肢は何か.まず追加シフトをさらに増やす.しかし,古川係長に確認したところ,現在の空枠で週三回以上はない.現場を掛け持ちすることは体力的に可能だが,別会社の案件は自分で探さなければならず,六十八歳での採用は簡単ではない.次に生活費を削る.食費と高熱費の削減はすでにほぼ限界まで来ている.携帯電話を解約することは考えられるが,緊急連絡の手段がなくなる.最後に家賃補助が切れた時に備えてより安い住居に移ることだ.しかし移転費用と敷金が必要で今の蓄えでは厳しい

黒沢は家計簿を閉じた.それから台所に行き湯を沸かしてインスタントの麦茶を作った.冷蔵庫に入れる余裕はないから上温のまま飲んだ.苦が口に広がった.窓の外はまだ明るかった.昼の光が白く差し込んでいた.黒沢はカーテンを少し引いて光を遮り,,布団を敷いた.夜の仕事に備えて午後の早い時間に寝ておく必要があった.横になって目を閉じた.眠れなかった

現状を見ながら黒沢は田浩司のことを考えた.の顔は今も思い出せる.笑顔がよく似合う男で,敬語を使うのが丁寧で,黒沢に保証人を頼んできた時,何度も頭を下げた.あの礼儀に正しさがまさか演技だったとは黒沢には思えない.ただどこかで歯車が狂い,逃げることを選んだのだろう.人は追い詰められるとそういうことをする.黒沢には憎む気持ちより先にそういう理解が来た.それが自分でも不思議だった

眠れないまま一時間が過ぎた.黒沢は起き上がり布団を畳んで押入れに戻した.それからまた家計簿を開き,,今度は来年の十二月までの月計算表を作った.返済が終わる月,保険料が上がる月,家賃が上がる見込みの月をそれぞれ色分けして書き込んだ.数字を書くことで不安が形になる.形になれば少しだけ扱いやすくなる.黒沢には長年そういう習慣があった

翌週の木曜日,,黒沢は午前中に再び区役所に向かった.今度は住宅管理課の窓口だった.担当者は四十代の男性で,,老眼鏡を指先で掛け直しながら黒沢の書類を確認した「家賃の改定については来年四月からの適用になります.所得が再度基準以内に収まれれば翌年度から元の水準に戻る可能性はあります.ただし自動的に戻るわけではなく申請が必要です」と担当者は言った

「申請するためには何が必要ですか」と黒沢は聞いた.担当者は引き出しから一枚のチラシを取り出し,,必要書類の一覧が書かれた欄を指先でなぞりながら説明した.確定申告の写し,,前年の収入証明,,口座確認書類,,在籍証明書その他.黒沢はメモ帳を取り出し一つ一つ書き取った.担当者は「揃えるのに時間がかかりますか」と聞いた.黒沢は「ええ,大丈夫です」と答えた.担当者は「そうですか」と言って,窓口の受付時間が書かれた別のチラシを添えて渡した.黒沢はチラシを受け取り「ありがとうございました」と言って頭を下げた.担当者は「どうぞお大事に」と言った

外に出た.今日は雨ではなかった.冷たい晴の空だった.黒沢は区役所の正面玄関の段差を下り,,横断歩道を渡り,,地下鉄の入口に向かって歩いた.階段を降りながら,黒沢は一つのことを確認していた.自分はこの仕組みの中で正直に生きようとした.仕事を増やし,,返済を続け,,書類を揃えようとしている.それなのに働けば働くほど元々受けていた支えが消えていく.このことは誰かに訴えるべきことなのか,,それとも自分が知らなかっただけで最初からそういうものだったのか,黒沢には判断できなかった

地下鉄の改札を通りホームに降りた.電車が来るまでの間,,壁の広告を眺めていた.健康食品の広告だった「五十代から始める健康習慣」と書いてあった.黒沢は五十代をとっくに過ぎていた.電車が来た.乗り込んだ.ドアが閉まった.窓の外に地下の暗いトンネルが流れていった.黒沢は吊り革を持ち,,目を正面に向けていた.どこかの子供がシートで隣の母親の膝に登り,,母親が小声で「静かにして」と言っていた.黒沢はその声を耳の端に聞きながら今夜の巡回ルートを頭の中でなぞっていた「入口の確認,南中林城,ゴミ置場,,非常口,また入口」同じルートを今夜もまた歩く,,明日の夜も歩く.数字が変わっても夜は来る

十二月が来た.大阪の冬は東北や北陸のように雪が積もるわけではないが,「底冷え」という言葉がよく合う.空気が乾き切って息を吸うたびに鼻の奥がヒリヒリする.夜の商店街は夏の頃とは全く違う静けさになる.夏の静けさは熱を帯びていてどこかに人の気配が残っていた.冬の静けさはもっと根本的な空虚さを持っている.シャッターの前を歩くと自分の足音の後ろに何もない空間だけが続く感じがする

黒沢しげおの生活は十一月の終わりから目に見えて変わっていた.変わったというより削られていった.まず昼食がなくなった.朝に梅干飯を一杯食べ,,夜の出勤前にカンパンを二枚食べる.それが一日の食事になった.夜の仕事の間は水を飲んだ.帰宅後は何も食べずに横になる.カロリーの計算をしているわけではなかったが,,体がなんとなく痩せていっていた.高熱費を削るために部屋の暖房をつけるのをやめた.代わりに押入れから引っ張り出した古い毛布を昼間から肩にかけて過ごした.夜の現場は制服のジャケットの下にフリースを一枚重ねた.フリースは五年以上前に千円で買ったもので,,襟の部分が少し薄くなっていたがまだ機能はしていた

節約の結果,,十一月末の時点で手元の封筒の中には六万三千円が積み上がっていた.「さんわ不勤産管理」への残債は後に十分六万円だ.つまりこの封筒の金を全部は足せば今月か来月には返済が終わる計算になる.その事実だけが今の黒沢を支えていた

十二月に入ってから黒沢は夜の巡回の帰りにスーパーに立ち寄るようになった.現場から帰る途中路線の駅前にスーパー声優がある.二十四時間営業で,,夜の九時半を過ぎると当日中に売り切らなければならない相材や弁当に値引きシールが貼られる.黒沢はそれを目当てに立ち寄るようになった

最初の一週間は店に入っても何も買わなかった.相材コーナーの前まで来て値引きシールを見て,,それからまた戻った.何かが引っかかった.引っかかりの正体は自分でも最初は分からなかったが,,三日目にようやく気づいた「値引きシールが貼られるのを待って並ぶ」という行為が自分には恥ずかしかった.誰かに見られているわけでもない.夜の九時半の相材コーナーに.それでも恥ずかしかった

四日目,黒沢はその気持ちに対して静かに結論を出した「恥ずかしいかどうかは関係ない」という結論だ.関係ないというより,,恥ずかしいと感じる余裕がもうない.彼は相材コーナーの前に立ち,,値引きシールを待った

スーパーの相場の店員は四十代くらいの男性だった.名札ダには「坂本」と書いてあった.坂本は夜の九時十分頃になるとバックヤードから台車にシールを乗せて出てきて,,残っている相材を一つ一つ確認しながら値引き額を決めていった.三割引きのものと五割引きのものがある.売れ残りそうなものほど五割引きになる

黒沢がその前に立っていると,,同じ目的で来ている人間が何人かいることに気づいた.七十代と見える背中の丸まった女性が一人,,五十代くらいの男性が一人,,そして黒沢より少し上に見える男性が一人.誰も会話しなかった.目も合わせなかった.それぞれが自分だけがここにいるかのように振る舞っていた.高本が五割引きのシールを貼り始めると全員が少しだけ前に進んだ.歩み寄るというより重心が動く感じだ.黒沢も同じだった.あるいは自分が一番分かりやすく前に出ていたかもしれない

その日黒沢が手に取ったのは白飯と酒の切り身が一つ入った弁当と,,ほろ草のご前が小さなパックに入ったものだった.二つで合計に百四十円になった.隣で背中の丸まった老女がカ丼の弁当を手に取ろうとしたのを見た.その弁当の方が明らかに中身が豊かだった.黒沢は一瞬手を伸ばしかけたが止めた.自分より年配の女性が先に来ていた.それだけのことだ

黒沢はセルフレジで支払いを済ませ袋を持って店を出た.外は冷えていた.帰り道に買ったものを袋の中で確認した.連投の蓋が少し湿っていた.レンジで温めれば食べられる.温める電気代を考えて黒沢は常温のまま食べることにした

十二月の第一土曜日の午前,,玄関のドアがノックされた.二回間をけ二回.黒沢は茶ブ台で家計簿を見ていたところでノックの音に顔を上げた.夜勤から帰ったばかりでまだ普段着に着替えていなかった.ドアを開けると七十代と見える女性が立っていた.顔に見覚えはあった.同じ棟の三階に住んでいる確か安田という名前だったはずだ.自治会の会計を長年やっていると聞いたことがある.安田は小さな茶色の封筒を胸の前に持ち,,ニコリともせずに言った「年末の共養部掃の費用と新年会の会費をお集めしております.合計で四千円になります」

黒沢はドアの縁に手をかけたまま一瞬だけ考えた「四千円.今の自分には四千円はカパ四十色分に相当する.しかし払えない金額ではない.払えない金額ではないが,,払うと今月の計算が狂う」.考えたのはほんの二秒だったが,,その二秒の間に黒沢は別の判断を下した.安田に向かって「申し訳ありません,,このところ出張が続いておりまして,,自治会の活動に参加できておりません.今回の清掃と新年会についてもやむを得ず欠席させていただこうと思っておりました.費用の方は後日改めてお渡しすることでよろしいでしょうか」と言った.嘘だった.出張などない.ただ四千円を払いたくないとも言えないし,,お金がないとも言えなかった.だから出張という言葉が出た

安田は黒沢の顔をじっと見た.それから封筒を少し下げて「そうですか」とだけ言った.それ以上は何も言わなかった「ではまたお伺いします」と言って廊下を戻っていった.黒沢はドアを閉めた.背中をドアに当てて一度だけ深く息を吐いた.安田のじっと見た視線が気になった.咎めるような目ではなかった.それよりも何かを確かめようとするような,,少し見入った目差しだった.黒沢にはその意味が読めなかった

これから黒沢は,「もし自分がこの部屋で死んでいたとしたら」という考えが頭をよぎった.自治会と距離を置いて,,隣とも挨拶をかわさず,,娘は遠くにいる.発見されるまでに何日かかるだろう.その考えは恐怖という形では来なかった.ただの冷静な事実確認としてきた.それが余計に静かに胸に残った

十二月の中旬の木曜日の深夜だった.気温は三度まで下がっていた.黒沢が担当する商店街の北側入口は通りに面した開口部が広く,,夜の風が吹き込んでくる.黒沢は手袋をはめ,,首にタオルを巻き,,制服のジャケットの上からウインドブレーカーを一枚重ねて立っていた

夜の十一時過ぎ,,北側の入り口から人の声が聞こえてきた.若い男の声が三つ,,四つ,,笑い声が混じっていた.黒沢は椅子から立ち上がり,,懐中電灯を手に入り口の方向に歩いた.入り口の近くに差しかかるとスケートボードを持った四人の若者が見えた.二十代前半から半ばと思われる.全員が派手な色のジャケットを着て,,うち一人は帽子を後ろ前にかぶっていた.商店街の入口付近の石畳の段差をボードで繰り返し飛び越えようとしていた.段差は商店街の設備の一部で,,ボードの衝撃が蓄積すると欠けが生じる.黒沢は週に一度の巡回報告書に段差の状態を記録する義務があった

黒沢は一定の距離まで近づき「すみません,,ここはスケートボードの使用が禁止されておりますので」とだけ言った.声は平坦だった.感情を載せていなかった.四人のうち体格のいい一人が振り返った.黒沢を上から下まで見てから「ああ,,はいはい」と言った.しかし動かなかった.別の一人がまた暴道段差に向けて走らせた.「ガタン」という音が通りに響いた

黒沢はもう一度言った「ご使用はご遠慮ください.私有地になりますので」.四人の間で目配せがあった.一番前にいた体格のいい男が「ちょっとだけやん.うるさいな」と言った.大阪弁で,,特別に怒っているわけではなく,,ただ面倒くさそうな口調だった.その背後で残りの三人が小声で何か言い合い,,笑った

黒沢は数歩前に出た.ここまで近づくつもりはなかったが,,体が動いた.警備の仕事を始めてから,,相手に対してどう対応するかは一通り研修を受けていた.感情的にならず,,記録を取る,,暴行はしない.それが正しい手順だ.黒沢はそれを理解していた.しかしその夜,,黒沢の中に別の感覚があった.この数ヶ月の言葉にならない重さがどこかに溜まっていた.通知分,,誓約書,,区役所の窓口,,インスタントの麦茶,,上温の弁当,,安田の視線,「おじいちゃん」という言葉.それらが一つ一つは小さくても,,積み重なって胸の中に淀んでいた

体格のいい男が持っていたペットボトルの飲み残しを地面に向けて捨てた.笑った.液体が黒沢の靴の先にかかった.コーラか何かでベタベタした感触が靴の表面を濡らした.男はそれを見て笑った「すまんすまん」と言ったが,,声に謝罪の色はなかった

黒沢の右手が動いた.考えてからではなかった.長年の反射が体を動かした.男の左手首を右手で掴んだ.強く力が入った.男が声を上げた「いて,,何すんねん」と言った.残りの三人が固まった.黒沢は三秒そのまま手首を握っていた.それから手を離した.男は手首を自分の胸に引き寄せ,,黒沢を見た.今度は笑っていなかった.黒沢は一歩後ろに下がった「失礼しました」と言った.声が少しかれていた

翌朝,,気が変わってから二時間後,,黒沢の携帯に古川係長からの着信があった.黒沢は巡回の途中で電話に出た.古川の声は普段より低かった「今夜起きたことで,,昨日の客の親御さんから会社に連絡が来た.明長,,俺のところに来てほしい」とだけ言った

翌朝昨時,,黒沢は警備会社の事務所に向かった.スーツではなくグレーのポロシャツとスラックスだった.事務所は商店街から地下鉄で四駅の場所にある雑居ビルの二階だ.ドアを開けると古川が奥の席に座っていた.その隣に黒沢の見知らぬ人間が立っていた.四十代の男性で,,背が高く,,ネクタイをしていた.名札を見ると営業部の主人とあった

古川は黒沢に椅子を進め経緯を確認した.黒沢は昨夜の出来事を順を追って話した.感情は入れなかった.ただ事実だけを言った.スケートボードの禁止エリアでの仕様.注意,,液体をかけられたこと.それに対して相手の手首を掴んだこと.古川は黒沢の話を黙って聞いていた.主人は手元のメモに何かを書いていた.話を終えると古川は一泊置いてから言った「相手側の言い分では,,お前さんが突然手を出したという話になっている.動画も撮られているそうだ」.黒沢は「そうですか」と言った.それ以外に言葉がなかった

主人が口を開いた「会社としては警備員がお客様に対して身体的な接触をすることは,,理由を問わず問題になります.今回,,先方が御便に済ませて欲しいということを条件として,,直接のお詫びを求めています.黒沢さんに相手の親御さんに謝罪していただくことがこの件を納める最善の方法です」.黒沢は主人の顔を見た.それから古川の顔を見た.古川は目を合わせなかった

謝罪の場所は商店街から数駅先にある交番だった.先方の保護者は駅から歩いて数分のところに住んでいると聞いた.その日の午後三時,,黒沢は古川と連れだって交番に向かった.外は晴れていたが冷たい風が吹いていた.黒沢はポロシャツの上にジャケットを着ていた.古川は黙って歩いていた.二人の間に会話はなかった

交番の前にすでに先方が来ていた.昨夜の体格のいい男と,,その男より少し年配と見える男性が一人,,そして四十代の女性が一人だ.年上の男性が父親,,女性が母親だと後で分かった.息子は昨夜の態度とは全く違い,,俯いて立っていた.番の中には入らず入口の前の屋根のある場所でのやり取りになった.交番の当直の警察官が一人背後で書類を見ながら立っていた

古川が先に頭を下げ「この度は弊社の従業員がご則に対しまして不適切な対応をしてしまい,,大変申し訳ございませんでした」と言った.主任の代わりに古川が来たのは,,古川の方が現場の責任者だからだということは後で聞いた.次に黒沢が出た.父親と母親の前に立った.二人とも黒沢を真正面から見ていた.父親の表情は険しかった.母親は少し疲れた顔をしていた

黒沢は息を吸った.それから腰を折った.九十度ではなかったかもしれない.それに近い角度まで頭を下げた「昨夜,,息子さんの手首を強く掴んでしまい,,大変失礼いたしました.痛みや怖い思いをさせてしまったことを深くお詫び申し上げます」と言った.声は揺れなかった.頭を下げている間黒沢は自分の靴の先を見ていた.磨いてある.かかとが少し減っているが磨いてある.先にコーラをかけられた右足の先は帰宅後に拭いたから跡は残っていない

黒沢は頭を上げた.父親はまだ険しい顔のままだった「まあ,,向こうも向こうで火があったとは思いますけどね」と言った.声にはトゲがあった「それでもわざわざ来てもらったことは分かりました」とも言った.母親が息子の方を見た「あんたも何か言いなさい」と言った.息子は黒沢の方にちらりと見てから「すみませんでした」と短く言った.昨夜と全く違う声だった.黒沢はもう一度軽く頭を下げた「ありがとうございます」と言った

帰り道,,古川と並んで駅まで歩いた.古川は最初しばらく何も言わなかった.駅が見えてきた頃に「まあこれで終わりや」と言った.黒沢は「そうですか」と返した.古川はそれ以上何も言わなかった.改札の前で古川と別れ,,黒沢は一人でホームに降りた.電車を待つ間,,ホームのベンチに腰をかけた.頭を下げている間ずっと黒沢は奥場を噛しめていたことに気がついた.方の内側に薄口の味がした

昨夜の出来事を振り返った.手首を掴んだのは自分の判断だった.研修で教わったことに反していた.だから謝罪は正当だったと思う.しかしコーラをかけたことについては誰も謝らなかった.父親は「火があった」と言ったが,,息子は靴のことは謝らなかった.それについて黒沢は何も言わなかった.言えなかったというより,,言う場所がなかった.謝罪の場はそういう構造になっていた

電車が来た.乗り込んだ.座席が開いていたが黒沢は立ったままだった.吊り革を両手で持ち目を前に向けていた.方の内側にまだうっすらと血の味が残っていた

その夜,,黒沢は仕事を休んだ.古川からは休んでいいと言われていた.部屋に帰り,,制服も着替えずに茶ブ台の前に座った.家計簿を開いたが何も書かなかった.ページをめくらず,,ただ開いたまま前を向いていた.二十分ほどして台所に行って湯を沸かした.インスタントの麦茶を作って茶ブ台に戻った.飲みながら窓の外を見た.十二月の夜は完全に暗い.街灯の光がガラスに薄く映り込んでいた

黒沢は今日の謝罪の場面を繰り返し考えた.正しいことをしようとした.しかし結果として頭を下げることになった.これは自分が間違ったからか.それとも正しいことをしても頭を下げなければならない場所に自分はいるからか.その二つの答えは違うが,,どちらが正しいかを判断するだけの余力が今の黒沢にはなかった

麦茶の椀を置き,,家計簿を閉じた.押し入れの中の封筒を取り出して確認した「六万三千円.変わらずそこにある」.次の振り込みは月末だ.あと一回か二回で,,えの責任は終わる.それだけは確かだ.封筒を戻し,,押し入れを閉めた.布団を敷き横になった.部屋の電球を消すと完全な暗さになった.窓の外から遠くを走る電車の音が聞こえてきた.低く,,長く,,それからまた静かになった.黒沢は目を開けたまま暗闇を見ていた

頭を下げた角度のことを考えた.九十度に近かったと思う.若い頃,,会社でミスをした時,,客先に謝罪に行った時,,そのくらいの角度で頭を下げたことがある.あの時は自分が本当に申し訳ないと思っていたから角度に意味があった.今日はどうだったか.形は同じだった.しかし中身は今日の方がはるかに空洞だった

黒沢は目を閉じた.眠れなかった.しばらく経ってまた開けた.安藤は変わらなかった.頬の内側の血の味は消えなかった.代わりに口の中が乾いていた

翌朝,,黒沢はいつも通り五時四十分に目を覚ました.梅干を一個取り出し,,白米を炊いた.食べて茶碗を洗い,,台所を拭いた.玄関に靴を出してつ先を揃えた.それから外に出た.空は薄い青で,,西の方にまだ夜の名残りがある時間だった.黒沢は商店街の方向には向かわなかった.今日は日番だ.ただいつもより少し長い道を選んで歩いた.川沿いの遊歩道を,,人がまだほとんどいない時間に一人で歩いた.川の水は灰色で,,風で小さな波紋が揺れていた.黒沢はコートのポケットに両手を突っ込み,,前を見て歩いた.昨日の謝罪についてもコーラについてももう考えていなかった.考えを止めたのではなく,,歩いている間はただ歩くことしかできなかった.それで十分だった

一月になった.年が変わったからと言って黒沢しげおの部屋の中は何も変わらなかった.大晦日の夜も仕事があり,,元日の朝に帰宅して梅干を食べて布団に入った.初詣でに行く習慣は妻が生きていた頃からなかった.年賀状は十年前にやめた.近所から餅をもらうような付き合いもない.一月一日はただ一月一日だった

その年の正月三日,,大阪の町は薄曇が続いた.黒沢は仕事が入っていない日には午前中に近くのスーパーまで歩いて必要最低限のものだけ買って帰った.元日のスーパーは閉まっていたから二日に行った.棚の半分は空で年始の補充が間に合っていなかった.黒沢は残っていたパンとインスタント味噌汁,,見切り品の豆腐を一丁だけ買った.合計で三百四十円だった

一月の半ばになると「さんわ不勤産管理」への返済残高があと一回分になった.先月末に三万円を振り込んだ時,,担当の井上から短い確認のメールが来た「残三万円,来月末までにお振り込みください」とだけ書いてあった.黒沢は携帯の小さな画面でそれを読み「了解しました」と返信した.その三万円は押入れの封筒の中にあった.六万三千円から少しずつ減ってきて,,今は三万二千円になっている.来月末に三万円を振り込めば差し引き二千円が手元に残る.それで完済になる.計算は間違いない.しかし二月末というのは,,来月の家賃と保険料を支払った後の話だ.月の初めに家賃と保険料を払い,,残った金で食いつなぎながら月末に三万円を振り込む.数字の上では成立するが,,その間に何か予定外の出費が一つでも入れば順序が崩れる.黒沢はそれだけを考えながら一月を過ごしていた

一月の下旬,,黒沢は仕事用の靴の底が右足のか完全に剥がれかかっていることに気づいた.前から減っているのは知っていたが,,剥がれるところまで来るとは思っていなかった.巡回中にそこを引きずる音が出るようになり,,濡れた路面を歩くと靴下まで染みた.靴屋に持っていけば修理代がかかる.新しいものを買えばもっとかかる.黒沢はホームセンターにより靴用の接着剤を三百八十円で買った.帰宅後,,剥がれた底面の汚れを丁寧に拭いてから接着剤を塗り,,洗濯バサミで挟んで一晩を置いた.翌朝確認すると,,まあまあくっついていた.完全ではなかったが巡回中に引きずる音は出なくなった.黒沢はそれで十分だと判断した

薬の話も一月のうちに限界に来ていた.かかり付けの内科で処方される降圧剤は一錠あたり約十六円の高発品だったが,,一日一錠を飲み続けると月に約四百八十円かかる.黒沢はこれを十一月から一日おきに飲んでいた.医師には言っていなかった.言えば怒られると分かっていたからではなく,,言う必要がないと判断したからだ.一日おきにすれば薬が倍に伸びる.それだけのことだ

一日おきに飲んでいると,,夕方から夜の時間帯に頭の後ろがじわりと重くなる感覚が出てくることがあった.血圧が上がっているのかもしれなかった.横向きに寝ると多少楽になったから,,巡回の合間に椅子に背中を預ける時なるべく首を後ろに傾けて過ごすようにした.それ以上のことは考えなかった.考えたところで飲む頻度を増やせる状況ではなかった

一月の二十三日,,木曜日の昼だった.仕事は夕方からで,,黒沢は昼前に起きて梅干を食べ,,家計簿の今月分を確認していた.その作業を終えてペンを置いた時,,ふと携帯に目がいった.娘の弓のことを考えたのは唐突ではなかった.何週間も前から頭の隅にあった考えだった

「借りる」という言葉を自分に対して使うのに時間がかかった.五年間,,弓とはほとんど話していない.正月に短い電話が来ることもあったが,,去年の正月はそれさえもなかった.黒沢から連絡することはこれまでほとんどなかった.父親から連絡するのは緊急の時だと思っていた.今がその緊急かどうかは,,黒沢の中でまだ決まっていなかった.それでも携帯を手に取ったのは,,二月末の完済まであと一か月という数字が頭の中で動かなくなっていたからだ.三万円を持っている.しかし二月の家賃,,保険料,,食費を払った後に三万円が残るかどうか,,余裕が薬を一日にしても食費をさらに削っても数字の上でギリギリだった.何か一つ狂えば足りなくなる

黒沢は弓の番号を見つけ発信した.呼び出し音が三回なってから繋がった.電話からすぐに子供の鳴き声が入ってきた.高い声で何かを訴えるように泣いていた.その声の後ろにもう少し小さな声がもう一人分重なっていた.弓の声が「お待ちください」と誰かに言ってから電話に出てきた「お父さん」.声は驚いていた.疲れてもいた

黒沢は「ああ,,弓か」と言った「久しぶりやな」と続けた.弓は少し間を置いてから「どうしたの? 珍しい」と言った.後ろでまだ子供が泣いていた.弓がその子供に向かって「ちょっと待って」と短く言った.声が少し尖っていた.疲れているというより余裕がない声だった

黒沢は「弓,,上の方は寒いか」と聞いた.弓は「うん,今年は特に寒くて,,東油がとんでもないことになってる」と言った.それが夫の名前だったが「先月から勤務時間が削られて,,ちょうど今月が一番厳しいかな」と言った.言いながら後ろで子供の声が続いていた.弓は一度電話から離れて「落ち着きなさい」と言った.また戻ってきて「ごめんね.ちょっとバタバタしてて」と言った

黒沢は弓の声を聞いていた.電話から子供の鳴き声と食器の音と北海道の冬の空気が混じって聞こえてくる気がした「勤務時間の削減,,一月が一番厳しい」.それが弓の今だった.黒沢の胸の中で何かが静かに転換した.傾いていたものが別の向きに戻るような感覚だった

「弓,,実はちょっと確認したいことがあって電話したんやけど」と黒沢は言った.それから一泊を置いた「年金の手続きの書類で分からんところがあってな.でも今調べたら多分大丈夫や.ごめんな.急に.そちらは元気にやっとるか? 」嘘だった.年金の手続きの書類など何も届いていない.ただ別の言葉が必要だった.「貸して欲しい」という言葉の代わりに別の言葉を

弓は「そっか,,ならよかった」と言った「お父さん,,ちゃんとご飯食べてる? 一人やから心配やわ」と言った.黒沢は「食べとるよ.昨日も近所で定食食べてきた」と答えた.また嘘だった.昨日の夕食はスーパーで買った半額の卵豆腐一個だった

「どうかな,,ならええけど,,また電話するね」と言って弓は電話を切った.黒沢は携帯を閉じた.テーブルの上に置いた.窓の外は薄い冬の光が落ちていた.部屋の中が静かだった.子供の声も食器の音も,,もう聞こえない.黒沢は両手をテーブルの上に置いたまま正面を向いていた

借りることはできなかった.正確に言えば,,借りるという言葉を出す前に出せなくなった.弓の声を聞いた瞬間に分かってしまった.あの声は,,人から何かを受け取る余裕のある声ではなかった.例え三万円であっても,,あの声に向かって金を貸して欲しいとは言えない.それは黒沢の意地だったかもしれないし,,弓への配慮だったかもしれない.どちらかは自分でも判断できなかった.ただ電話を切った後に感じたのは安堵に近い何かだった.借りなくて済んだという安堵ではなく,,弓を巻き込まなかったという,,もっと静かな種類の安堵だった.それと同時に,,自分が今日ここで感じたものを,,弓が知ることは一生ないだろうという,,奇妙な孤独さも来た

黒沢は老眼鏡を外し,,布を取り出した.レンズを左,,右七回,,また左七回.気がつくと十分以上経っていた.布をポケットに戻し,,眼鏡を掛け直した.時計を見ると午後一時を過ぎていた.仕事は夕方五時からだ.それまでに仮眠を取らなければならない.黒沢は布団を敷いて横になったが眠れなかった.天井を見ながら今月の残りの日数を数えた「今日が二十三日.月末まで八日ある」.その八日で何が起きないかを確認した.大きな出費の予定はない.薬の受け取りは先週済ませた.靴はまだ持つ.食費はさらに絞れる.黒沢はそれを確認してから目を閉じた.眠れはしなかったが目を閉じていた

その電話から四日後の月曜日,,午前十時頃だった.黒沢が帰宅して制服を脱いでいると,,玄関のドアをノックする音がした.今度は安田ではなかった.ドアを開けると,,見知らぬ四十代の男性が立っていた.スーツを着ていて胸に社員証のようなものをぶら下げていた「大阪府住宅共済行」という文字が小さく見えた

「黒沢しげおさんでいらっしゃいますか」と男性は言った.確認書類を見せながら「住宅管理に関する件でお伺いしました」と続けた.黒沢は男性を部屋に入れなかった.廊下に出てドアを背中で支えながら話を聞いた.男性は書類を一枚取り出した「滞納賃料に関するご通知」と表題が書いてあった.黒沢が住む団地の現行は月三万二千五百円だが,,先月分と今月分の合計六万五千円が見払いのままとなっており,,このままの状態が続く場合は住宅明けは多市請求の手続きに移行する可能性があります,という内容だった

黒沢は書類を受け取った.手の中でその紙の重さを感じた.薄い紙だった.しかし内容は重かった.男性は続けた「区役所からのご通知でご案内した通り,,来年度以降の家賃は所得長化認定により改定される見込みですが,,現行家賃につきましても滞納が続く場合は入居資格の審査対象となります.本日は事実確認のためにお伺いしました」と言った.声は事務的だったが丁寧ではなかった

黒沢は「はい」と言った.それから「来月末までには必ずお支払いします」と言った.男性は「よろしくお願いします」と言って頭を下げ,,廊下を戻っていった.エレベーターのドアが閉まる音がした.黒沢は部屋に入り,,ドアを閉めた.廊下の冷たさが,,閉めた後もしばらく背中に残っていた

押入れを開けて封筒を取り出した.三万二千円が入っている.先月と今月の家賃は合計六万五千円だ.封筒の中身では足りない.「さんわ」への最終返済が三万円.それを合わせると,,今の手元では両方を同時に払うことができない.どちらかを先にするしかない.どちらかを後回しにするしかない

黒沢は茶ブ台の前に座り,,紙を一枚取り出して数字を書いた「現在手元三万二千円.二月の給与振り込みを予定二月二十日.その給与から家賃保険料を引いた残りおよそ六万円.それを全て「さんわ」への最終返済と滞納家賃の一部に回す.残りは給与の前払い申請が可能かどうか,,古川係長に確認する」.数字を書いた紙をしばらく眺めた.綱は足りなかった.しかし綱はまだある.それだけは確かだった

翌日の朝,,黒沢は押入れを改めて整理した.毎年一度やっていることで,,正月明けにやるつもりが今年は後回しになっていた.ダンボール箱を引っ張り出し,,中身を確認していった.古い写真,,妻の遺品の一部,,通帳の控え,,年金手帳.そして一番奥から小さな冊子が出てきた.生命保険の保険証書だった.郵便局の簡易保険で,,二十年ほど前に契約したものだ.死亡保障が五十万円,,月々の保険料が二千七百円.妻が生きていた頃,,もしもの時のために二人でそれぞれ契約した.妻の分は妻が亡くなった時に受け取った.自分の分は今も続いている

黒沢はその証書をしばらく手の中に持っていた.五十万円の死亡保障.それは黒沢が死んだ後に娘の弓が受け取る金だ.葬儀代,,仮想台,,その他の手続き費用.これがあれば弓に金銭的な負担をかけずに住む.黒沢がこの保険を二十年続けてきたのはそのためだった.自分が迷惑をかけずに死ねるようにというのが,,この保険の意味だった

解約返戻金を確認したことはこれまで一度もなかった.黒沢は証書に記載されている郵便局の番号に電話をかけた.自動音声の案内に従って番号を押すと担当者に繋がった.担当者に解約返戻金の概算を聞いた.しばらく待たされてから「現時点での解約返戻金はおよそ三十八万円です」と告げられた.黒沢は「そうですか」と言った.それから「解約の手続きには何が必要ですか」と聞いた.担当者は驚かなかった.手続きに必要な書類の説明を始めた「本人確認書類,,通帳,,委任の解約申請書,,郵便局の窓口に来ていただければその場で手続きが可能です」と言った.黒沢はメモを取りながら聞いた.丁寧に「ありがとうございます」と言って電話を切った

証書を茶ブ台の上に置いた.白い冊しが薄い光の中に横たわっている.黒沢はそれを見ていた.三十八万円があれば,「さんわ」への残三万円を払い,,滞納家賃六万五千円を払い,,来年度の家賃増額分を数ヶ月分積み立て,,なおかつ当面の生活費を確保できる.数字の上では解約が一番確実な解決になる.しかしそれは,,自分の死際の段取りを今この時点で放棄することを意味していた.五十万円の死亡保障をなくすことで,,自分が死んだ後,,葬儀の費用を弓が負担することになるかもしれない.迷惑をかけないために二十年払い続けてきた保険がなくなる

黒沢は長い時間,,証書の前にして座っていた.冬の光が窓から差し込んでいた.カーテンを薄く引いているから光が筋になって床に落ちていた.その光の筋の中に小さな埃がただ酔っているのが見えた.黒沢はその埃を目で追っていた.浮かんでは消え,,また浮かぶ.やがて黒沢は証書を手に取った.立ち上がりコートを着た.印鑑と通帳を鞄に入れた.それから玄関に向かい靴を出した.左右のつ先を揃えた.靴を履いた.ドアを開けた.外は晴れていたが,,風が冷たかった.黒沢は首をすくめて郵便局の方向に歩き始めた

郵便局は団地から十分ほど歩いたところにある古い建物だ.自動ドアを入ると番号の機械の前に列ができていた.黒沢は番号を取って椅子に座った.隣に老夫婦が座っていて,,夫の方が妻に何か書類の書き方を教えていた.妻は分からないところを夫に指をして聞いていた.夫は少し面倒くさそうな顔をしながらも丁寧に教えていた.黒沢は正面を向いていた

三十分ほどして番号が呼ばれた.窓口の女性職員は黒沢よりずっと若かった.保険証書と通帳と印鑑を出し,,解約したいと告げると,,女性職員は一度奥に引っ込んで年配の職員を連れてきた.年配の職員は眼鏡をかけた男性で「確認させていただきます」と言って証書を確認した「解約の理由をお聞きしてもよろしいですか」と聞いた「義務ではありませんが」と付け加えた

黒沢はこう言った「資金が必要になりまして」と言った.それだけだった.職員は何も聞き返さなかった「かしこまりました」と言い,,所定の用紙を出した.黒沢はそこに名前と住所を書き,押印をした.職員が確認して「返戻金は三からご営業日以内にご指定の口座にを振り込みいたします」と言った.黒沢は「ありがとうございます」と言って頭を下げた.手続きが終わり,,窓口を離れた.出口に向かいながら,,背後で老夫婦がまだ書類の話をしているのが聞こえた.自動ドアが開いて外の風が顔に当たった.黒沢は一度立ち止まり,,それから歩き出した

帰り道,,黒沢は団地へ続く道ではなく,,少し遠回りになる公園の横を通った.なぜそうしたかは自分でも分からなかった.ただ足がそちらに向いた.公園には平日の午前中だというのに何人かいた.ベンチで新聞を読んでいる老人,,犬を連れて歩いている女性,,遠くにある滑り台で一人で遊んでいる子供.黒沢は入口近くのベンチに腰を下ろし,,しばらくそこにいた

今日自分は何をしたのかを順番に整理した.保険証書の解約手続きをした.三十八万円が口座に振り込まれる.それで滞納や賃を払い,,「さんわ」への残債を払い,,来月以降に備える.それが正しい選択かどうかは分からない.ただ今日の自分にできることの中で一番確実な選択だった.公園の木が風に揺れていた.葉の落ちた枝が細かく振動していた.黒沢はその枝を見ながら弓のことを思った.弓はこのことを知らない.保険が解約されたことを弓は知らない.知る必要もないと黒沢は思った.ただいつか自分が死んだ時,,その保険がなくなっていることを弓が知る日は来る.その時弓がどう感じるかを黒沢は想像しようとした.しかし想像は途中で止まった.先のことを想像する習慣が黒沢にはもうなかった

ベンチから立ち上がり団地に向かった.エレベーターで四階に上がり,,廊下を歩き,,自分の部屋のドアを開けた.靴を脱いで揃えた.コートを脱いでハンガーにかけた.台所に行って水を一杯飲んだ.茶ブ台の前に座り,,家計簿を開いた.今日の出来事を記録した「保険解約手続き,,管例金振り込み待ち,,三十八万円見込み」と書いた.それから今月の残り支払い予定を書き直した.数字が少しだけ整列した.窓の外で風が吹いていた.カーテンが内側からわずかに揺れた.どこかに隙間があるのだろう.黒沢はカーテンを抑えたが,,また少し揺れた.それ以上は気にしないことにした

夜の仕事は六時からだ.布団を敷いて横になった.今日は眠れた.保険の解約という行為が何かを決定したのかもしれない.決定したことは悲しいことでも後悔することでもなかった.ただ今日の自分が今日のためにできることをした.それだけだった.黒沢は目を閉じたまま今夜の巡回ルートを頭の中でなぞった「入口の確認,,南中林城,,ゴミ置場,,非常口,,また入口」.それを繰り返しながら意識が薄れていった.部屋の中は静かで,,風の音だけが続いていた

三月になると,,大阪の町のあちこちに桜のつぼみが見え始めた.川沿いの並木道では枝の先がほんのりと膨らんで,,遠くから見ると枝全体が薄く色づいているように見える.天気予報は週末に開花を告げていた.黒沢しげおの部屋にはその色が届かなかった

部屋の中はダンボール箱が四つ並んでいた.そのうち二つはもう閉じられてガムテープが張ってあった.残りの二つはまだ開いていて,,中にいる糸日用品が雑然と入っていた.雑然というのは黒沢らしくなかった.彼は本来,,物を整理する時に分類を細かくする人間だった.しかし今回は分類よりも先に捨てる量の方が圧倒的に多かった

部屋の面積は三十四平米だった.二十二年間暮らしてきた.妻が生きていた頃は二人で住んでいたから,,部屋の隅々まで二人分の生活の痕跡があった.妻が亡くなった後も,,黒沢は妻のものを急いで処分しなかった.棚の上の化粧品,,引き出しの中のハンカチ,,台所の一番上の棚にある使い古した鍋.それらを今回全部処分することにした.時間がかかったのはそのためではなかった.時間がかかったのは,,次に住む部屋がそれらを持ち込める広さではないからだった

西成区の日雇い労働者向けいわゆるドヤにある木造の旅館を,,黒沢は先週下見してきた.部屋は三畳,,エアコンなし.共用の洗面所と便所は廊下の突き当たりにある.月の家賃は二万八千円だ.今の家賃の六万七千五百円から見れば半額以下になる.しかし部屋の広さは今の八分の一以下になる.感情に持ち込めるのは布団と着替えと日常的に使うものだけだ.黒沢はそれを理解した上で引っ越すことを決めた

保険解約で入った三十八万円のうち,,まず「さんわ不勤産管理」への最終返済三万円を二月末に振り込んだ.これで五年前の一枚の署名から始まった負債は完全に消えた.次に,,滞納していた団地の家賃二か月分六万五千円を払い,,退去の意思を管理会社に伝えた.引っ越しは業者を使わず自分で運ぶことにした.三畳に収まる量のものを,,黒沢は何日かけて少しずつ手で運んだ

三月の第二週の水曜日,,黒沢は押入れの一番奥から木の箱を引き出した.縦四十センチ,,横七十センチほどの蓋のついた平たい箱だ.塗りは剥がれかかっていたが,,箱自体は歪んでいなかった.妻のものだった.箱の中に着物が入っていることは知っていた.妻が生前に大切にしていたもので,,何かの時に来ていたが,,黒沢はその着物を正確に見たことがなかった.妻が来ているところを何度か見たが,,着物の模様や色を細かく観察したことはなかった.今日,,箱を開けて初めて中を真面目に見た.薄い組織士の中に,,キの着物が折りたたまれて納められていた.色は相色に近い青で,,袖と裾に薄い金糸の模様が入っていた.触れると冷たく,,指の腹に滑らかな感触があった.黒沢は組織を元に戻した

この着物は三畳の部屋には持っていけない.保管する場所がない.ではどうするか?

買い取り業者に頼む方法もあるが,,それには連絡してきてもらって,,査定して,,値段交渉して,,という過程が必要だ.時間がかかる.今の黒沢にその時間の余裕があるかどうかを考えた.引っ越しの期限まであと十日余りしかない

黒沢は箱を持ったまま立ち上がり,,玄関に向かった.外に出て団地の横にある粗大ゴミの集積場まで歩いた.集積場の前には大きな金属製のコンテナが置かれていた.収集者が週に一度来て中身を持っていく.コンテナの前に立った.蓋を開けると中にはすでにいくつかのものが入っていた.壊れた扇風機,,カーテン,,割れた陶器の植木鉢.黒沢は箱を両手で持ち,,コンテナの縁に当てた.手が止まった.三十秒ほどそのまま止まっていた.着物の入った箱の角がコンテナの縁に触れていた.蓋の塗りが一部剥がれて木の地肌が白く出ていた

黒沢は箱を持ったままコンテナの奥を見ていた.古い扇風機のプロペラが曲がった白色で,,光の中にあった.黒沢は右手で箱の蓋を撫でた.一度だけ.それからコンテナに箱を入れた.音がした.蓋が閉まった.黒沢はコンテナから手を離し,,後ろに一歩下がった.それ以上そこにいなかった.踵を返して部屋に向かって歩いた.廊下を通り,,ドアを開け,,靴を脱いで揃えた.台所で手を洗い,,布で拭いた.ダンボール箱の前に座り,,残りの荷造りを続けた

引っ越し前日,,三月の下旬に,,黒沢は郵便局に立ち寄った.転居届けを出すためだった.カウンターで用紙をもらい,,今の住所と新しい住所を書いた.新しい住所は西成区のドヤ外の番地だった.窓口の担当は若い女性だった.黒沢が書いた用紙を受け取り,,新しい住所の欄を見た.一秒か二秒,,視線がそこにとまった.それから顔を上げて黒沢を見た.黒沢と目があった.女性はすぐに視線を用紙に戻し「確認させていただきます」と言った.スタンプを取り出して書類に押した「こちらの控えをどうぞ」と控えを渡した.声は穏やかで,,早くも遅くもなかった.先ほどの一秒か二秒は黒沢の思い過ごしだったかもしれない.黒沢は控えを受け取り「ありがとうございます」と言った.頭を下げて郵便局を出た

外は晴れていた.桜が八部咲きになっていた.川沿いの並木がピンクに染まっていた.平日の昼間なのに河川敷には人が何人もいた.ベンチに座って弁当を食べている会社員,,スマートフォンを向けて写真を撮っている女性,,犬を連れてゆっくり歩いている老夫婦.黒沢はその前を通り過ぎた.桜を見たが,,立ち止まらなかった.見ても今は何も感じてこなかった.それが悲しいのかどうかも,,黒沢には判断できなかった.ただ通り過ぎた

引っ越しの日は曇りだった.桜が散り始めていた.黒沢は朝五時に起きて,,ダンボール箱を一つ担いで最初の往復をした.団地からドヤまでは地下鉄で四駅,,そこから歩いて十二分だ.ダンボール箱を手で持って地下鉄に乗った.朝早い時間は人が少なかったから,,周囲の目はそれほど気にならなかった.三往復した

最後の往復の時,,黒沢は部屋の中を一度見回した.空になった部屋は元の広さがはっきりと見えた.三十四平米,,二十二年間ここに住んでいた.壁には日焼けの跡が残っていて,,かつて棚が置いてあった場所の輪郭が薄く床に見えた.台所の壁の一角に,,ガスコンロの油が飛んできた小さな黒い点が,,拭いても取れずに残っていた.妻が料理をしていた頃からあった点だ.黒沢はその点をしばらく見ていた.それからドアを閉めた.鍵を閉めた.管理会社に返却するために鍵を持って管理事務所に寄り,,封筒に入れて窓口に出した.担当者は受け取り書にサインを求めた.黒沢はサインした.担当者は「お疲れ様でした」と言った.事務的な言葉だったが,,黒沢は一瞬その言葉の重さに気づいた「お疲れ様でした」.二十二年間のことを指している言葉ではなく,,手続きが終わったことを指している言葉だ.しかし黒沢の耳にはどちらにも聞こえた

管理事務所を出て,,団地を振り返らなかった.駅に向かって歩いた.ドヤの建物は,,築五十年以上と思われる木造三階建てで,,外壁の塗装が何度も塗り重ねられて表面がでこぼこしていた.入り口の引き戸を開けると古い木材と湿気の混じった匂いがした.管理人は六十代の男性で,,黒沢の顔を見て「ああ,,黒沢さん」と言った.先週下見に来た時に顔を合わせていたから名前を覚えていた「二階の突き当たりやから」と言って廊下の奥を刺し示した

二階に上がり,,廊下の突き当たりのドアを開けた.の部屋は下見の時に見た通りだった.畳は日焼けして色が抜け,,端の一箇所がすり切れていた.壁は薄いベージュで,,所々に水しみと思われる模様がついていた.窓は南向きで小さく,,鉄格子がはめられていた.格子は錆びていた.黒沢はダンボール箱を置き,,中から布団を出した.布団を敷くと,,部屋の床の半分が埋まった.その横に折りたたみ式の小さな台を置いた

洗面用具は共用の棚に置けることを管理に聞いていたから,,タオルと歯ブラシと石鹸を持って洗面所を確認しに行った.廊下の突き当たりにある洗面所は蛇口が二つと鏡が一枚だった.鏡には横に細い日が入っていたが,,映ることには支障がなかった.黒沢は自分の顔を見た.変わっていなかった.変わっていないように見えた

部屋に戻り,,ダンボール箱を解いて最低限のものを整理した.衣類を押入れの小さな棚に畳んで入れた.薬の袋を台の上に置いた.家計簿とシャープペンシルを台の引き出しに入れた.それだけで,,ダンボール箱の中身はほとんど終わった.窓から外を見た.向いの建物の壁が見えた.古い看板の残骸が壁に取り付けられていたが,,文字は読めなかった.空は建物と建物の間から細く見えた.下の部屋からテレビの音が聞こえてきた.ニュースか何かの話し声が床を通して伝わってきた.黒沢は耳を傾けなかった

夜になった.黒沢は引っ越しの途中にコンビニにより,,白飯のパックと梅干を買っておいた.白飯のパックをレンジで温めた.この建物には共用の電子レンジがあった.廊下の一角に置いてあって,,誰でも使えるようになっていた.温めている間,,廊下に立っていた.同じ回の別の部屋からドアが開く音がして,,五十代くらいの男性が出てきた.男性は黒沢を見て会釈した.黒沢も会釈した.それだけで,,二人はそれぞれの方向に歩いた

部屋に戻り,,温めた白飯のパックを台の上に置いた.梅干を一個取り出して飯の上に乗せた.箸を持った.食べ始めた.白飯は温かく,,梅干の塩が口に広がった.いつもの味だった.団地の台所で自分で炊いたものとは違う,,コンビニの白飯の少し甘い味がした.しかしそれは大きな違いではなかった.黒沢はゆっくり噛んだ.一口ずつ噛む回数を意識しているわけではなかったが,,急いで食べる理由もなかった

窓の外から電車の音が聞こえてきた.近くに線路があることは下見の時から知っていた.を走る電車の音で,,低い振動の後に「ガタン,,ガタン」という規則的な音が続いた.それからまた静かになった.黒沢は飯を食べながら今日一日を振り返った.朝から三往復の引っ越し,,管理事務所での鍵の返却,,桜の前を通り過ぎたこと,,建物の入口の匂い,,洗所の鏡の日,,廊下で会釈した男性.大きな出来事は何もなかった.しかし今日は,,色々なものが終わり,,別の何かが始まった日だった.黒沢はその感覚を言葉にしようとしたが,,言葉にならなかった.言葉にしなくてもいいと思った

箸が空になった飯のパックの底を撫でた.最後の一粒を取って食べた.食べ終わってから,,台の上にパックと箸を置いた.外からまた電車の音がした.今度は少し遠く,,方向が違った.別の路線かもしれなかった.音は長く続いてから消えた.黒沢は台の上に両手を置き,,正面の壁を見た.冷ジの壁に水しみの模様があった.形は不規則で,,何かに見えるようで見えない.黒沢はその模様を見ながらこの数ヶ月のことを順番に思い返した

六月の赤い封筒から始まった「四十八万五千円」という金額,,保証人という立場,,田浩司という男,,区役所の窓口と「住民税非課税世帯」という言葉,,保険料の増額,,家賃の通知,,スーパーの値引き弁当,,自治会の四千円と「出張中」という嘘.商店街の若者と液体をかけられた靴と,,交番での謝罪,,弓への電話と「年金書類」という風証,,とその解約,,そしてこの三畳の部屋

どの場面にも,,黒沢は間違ったことをしようとしていなかった.保証人になったのは善意からだった.追加シフトを入れたのは責任からだった.区役所に行ったのは誠実であろうとしたからだった.謝罪したのは手順に従ったからだった.弓に電話したのも,,保険を解約したのも,,引っ越しを決めたのも,,それぞれに理由があり,,それぞれに筋が通っていた.しかし結果として,,今,,この部屋にいる

黒沢はそこで考えを止めた.止めたのは,,考えが無意味だと思ったからではない.この先を考え続けると,,誰かを恨むか,,制度を責めるか,,田を呪うか,,あるいは自分の判断を後悔するか,,そのどれかに着地しそうだったからだ.そのどれも今夜の黒沢には必要なかった.恨むことの意味を,,黒沢は信じていなかった.信じていないというより,,恨んでいる余力がなかった.田を恨んでも,,四十八万五千円は戻らない.制度を攻めても,,三畳の部屋は広くならない.自分 の過去の判断を後悔しても,,署名した書類は消えない.それだけのことだ

ただ一つだけ残る感覚があった.名前のつけにくい感覚だった.自分はこの社会の中で正しく生きてきたつもりだった.規則を守り,,納税し,,誰かに迷惑をかけないように最新の注意を払って生きてきた.その帰着点がこの三畳の部屋だということを,,社会は知らない.印みがない.黒沢茂雄がここにいることを誰も把握していない.年金の振り込み先が変わっても,,住民票の住所が変わっても,,この男が今日ここに来た経緯を知っている人間は,,この建物の中に一人もいない.黒沢は見えない人間になった.それはひどいことではなく,,ただ事実だった

九時を過ぎると廊下の物音が少なくなった.テレビの音も下の部屋から聞こえなくなった.誰かが廊下を歩く足音が一度あって,,洗面所のドアが閉まる音がして,,また静かになった.黒沢は家計簿を引き出しから出した.今日の日付と引っ越し僚と残高を書いた.三十八万円から引いた分を計算すると,,手元に残った金は四万三千円だった.今月の家賃は新しい住所の分として来月から発生するから,,今月は,,ドヤの最終精算分だけだ.四万三千円あればしばらくは持つ計算だ.しばらくというのは二か月か三か月か.それは今後の収支次第だ.家計簿を閉じた.引き出しに戻した

窓の鉄格子の向こうに町の光が薄く見えた.この町には,,夜でも消えない光がある.どこかの店の看板か,,道路の照明か,,あるいは別のドヤの窓から漏れる光か.黒沢はその光をしばらく見ていた.明日からまた仕事がある.週三回の追加シフトは,,負債がなくなった.今,,続ける必要があるかどうかを,,古川係長と話す必要があった.続けた方が蓄えができる.しかし体の負担も続く.黒沢はその判断を明日以降に先送りした.今夜決めることではない

布団の中に入った.天井を見た.部屋の電球は六十ワットで,,黒沢が自分で取り替えた.前の住人が使っていたものがついていたが,,切れかかっていたから新しいものを買ってつけた.天井は低く,,電球が近かった.消すと,,外の光が格子越しに入ってきて,,床に細い影の縞が作られた.黒沢は目を開けたまま光と影の縞を見ていた.電車の音がまた聞こえてきた.遠く,,規則的に,,それから消えた

翌朝,,黒沢は五時三十分に目が覚めた.いつもより三十分遅かった.新しい部屋の音の感覚に慣れていないせいかもしれなかった.布団から出て,,台の引き出しから梅干の容器を取り出した.白飯は昨夜の残りのパックがあった.共用の電子レンジで温めた.部屋に戻り,,台の前に座った.白飯の上に梅干を一個乗せた.箸を持った.食べ始めた.ゆっくり噛んだ.梅干の塩と酸味が口の中に広がった.いつもの朝の味だった.団地の台所でも,,コンビニのパックでも,,この味だけは変わらなかった.黒沢はそれを確認するようにゆっくり噛み続けた

窓の外が明るくなってきた.格子の向こうに空の色が変わっていくのが見えた.濃い色から少しずつ薄くなっていく.向いの建物の壁が光の中でぼんやりと形を作っていった.古い看板の残骸が朝の光の中では,,昨夜とは違う色をしていた.電車の音がした.朝の始発が動き始める時間だ.一本目の音が遠くから来て,,近づき,,通り過ぎ,,遠ざかった.しばらくして二本目が来た.その次も来た.町が動き始めていた.黒沢は飯を食べた.茶碗の代わりのパックの底を箸で撫でて,,最後の米粒を取った.食べ終えてからしばらくそのまま座っていた

この部屋で自分はこれから生きていく.その事実を改めて言葉にしたわけではなかった.ただ窓の外の光を見ながらそこにいた.黒沢しげおは六十八歳で,,負債を完済し,,規則を破ったことがなく,,誰に頭を下げられても頭を下げ返し,,一人で全部を抱えて,,今,,この三畳の部屋にいる.それを知っている人間はこの世界にいない.弓も,,古川係長も,,郵便局の職員も,,区役所の担当者も,,隣の部屋の五十代の男性も,,誰も知らない.知らなくても,,明日も朝は来る.今日も仕事がある.夕方に出て商店街を巡回して,,朝に帰ってくる.帰ってきたらこの部屋に戻る.梅干飯を食べる.家計簿に数字を書く.眠る.また起きる.電車の音がまた一本通り過ぎた.黒沢は窓の外の空が完全に明るくなっていくのを見ていた.格子の影が床の上で少しずつ動いていた.太陽が動いている証拠だった.黒沢はその影を目で追いながら,,今日という日が始まるのを静かに待っていた