その日、会議室で新しく着任した古川部長は、俺が二ヶ月かけてまとめた報告書に一瞥もくれず、こう言い放った。「守りにばかり金を積む時代じゃない。もう下請けは不要だ」その瞬間、七年間あの工場を守り続けてきた俺の胸の中で、何かが静かに砕けた。俺は西村、四十五歳。情報セキュリティ会社を立ち上げて十二年、社員は八人だが全員が業界の精鋭だ。古川は俺たちの契約を一方的に打ち切り、翌日には監視権限の全てを返上…

その日、会議室で新しく着任した古川部長は、俺が二ヶ月かけてまとめた報告書に一瞥もくれず、こう言い放った。「守りにばかり金を積む時代じゃない。もう下請けは不要だ」その瞬間、七年間あの工場を守り続けてきた俺の胸の中で、何かが静かに砕けた。俺は西村、四十五歳。情報セキュリティ会社を立ち上げて十二年、社員は八人だが全員が業界の精鋭だ。古川は俺たちの契約を一方的に打ち切り、翌日には監視権限の全てを返上...

取引先の森林部長は、システム監視契約を一方的に打ち切ると宣言した。この取引先に危険が迫っていることは、俺が事前に書面で報告していた。だがこの部長は、その報告書に目を通そうともしない。言ってはならない。守りを自ら手放したことが、どれほど大きな代償となって帰ってくるか。この部長はいずれ知ることになるだろう。

俺は西村、四十五歳。情報セキュリティ会社を立ち上げて十二年が経つ。社員は八人だが、業界でもトップクラスの精鋭揃いだ。工場の設備や開発中の技術、顧客情報に対する目に見えない脅威を未然に食い止めるのが俺たちの仕事だ。俺たちの守りは自動制御の検知システムが土台になっている。だが全て機械任せでは必ず穴が出る。異変を人の目で読み解き、初めて万全の守りになる。

顧客からの評判は上々だが、俺が最も力を注いできたのが大手精密機械メーカーの仕事だ。契約を結んだのは七年前。当時そのメーカーは全国に十箇所以上の工場を構える大手でありながら、外部からの不正侵入によってシステムの一部を乗っ取られ、数日間にわたって主力工場の稼働が止まるという痛い目にあったばかりだった。生産遅延と取引先への影響で損失は億単位に上ったという。その事態を受け、どこに頼めばいいかを業界内で探っていた担当者が、俺たちのことを耳にしたらしい。「西村さんの会社に任せれば安心だと聞いた。是非、うちのシステムを守ってもらいたい」

以来、俺たちはこの工場を支えるシステムを監視してきた。どの設備がいつ、どこへ通信するか。どの回線に異変が出た時、どの製造ラインに影響が波及するか。その積み重ねが、俺たちにしかできない仕事の根拠になっていた。

その日の午前中、俺は部下の大野を連れて主力工場へ向かった。大野は俺が最も頼りにしているセキュリティエンジニアだ。迎えてくれたのは現場責任者の桑原。桑原は工場の設備を隅から隅まで知り尽くしたベテランだった。

「西村さん、今月もありがとう。先週ちょっと怪しい動きがあったと大野さんから聞いたが、もう止めてくれたって」

「外からこちらの様子を伺う通信が数件ありました。全てこちらで遮断しています」

桑原は深く頷きながら言った。「西村さんがいてくれるから、工場は安心して回せる。現場の連中も落ち着いて番に立てるんだ」

そう言われることが素直に嬉しかった。技術を認めてもらえることも大事だ。だが現場の人間が余計な心配を抱えず、目の前の作業に集中できる。その状態を影で支えることこそ、俺たちの仕事だと思っている。ただ俺の胸には一つの不安材料があった。最近、この工場群を狙う不審なアクセスが明らかに増えていることだ。制御システムの反応を外からじっと観察しつける隙はないかと、何者かが根気強く調べ続けている。

俺はすでに二ヶ月前、この状況をまとめた報告書を大手メーカーのシステム担当に提出していた。報告書では二つのことを指摘している。一つは基幹制御システムに対して侵入を試す動作が繰り返されていること。現時点では全て押し返せているが、攻撃者が手口を変えてくる可能性は高く、抜本的な対策が急務だと書いた。もう一つは、社内で最も厳重に守るべきはずのデータが、その管理体制に穴を抱えていることだ。外からの侵入を防ぐだけでは足りない。内部の備えが甘ければ、守りを破られた瞬間に重要な情報が一気に持ち出される。そう警鐘を鳴らしている。

担当者からの返信には「確認済み」とあった。だがメーカー側から具体的な対策を取る気配はない。俺は毎朝同じ画面を見ながら、嵐が来るのを知りながら傘を渡せずにいる人間の気分を味わっていた。現場は動きたくても、上が腰を上げなければ何も変わらない。対策案が承認され、予算がつかない限り、どれだけ危険を訴えても紙の上で終わる。俺は引き続き監視を続けることにした。報告書を出した事実は残っている。俺たちにやれるのは、守りを緩めないことだけだ。

翌週、メーカーとの定例の報告会に出向いた。会議室に入ると、見慣れない顔が上座に座っていた。四十代後半といったところか。上等なスーツに、気取った顔つき。

「新任の古川部長です」

俺の隣に座る担当者が小声で教えてくれた。前任の担当部長が先月移動となり、後任として先週着任したシステム部長だという。古川に軽く会釈し、俺は報告を始めた。

「本日は先月以降に確認された外部からの不審な動きと、その対応状況をご報告します」

古川は腕を組んだまま資料に目もくれず、退屈そうな表情を浮かべている。前任からの引き継ぎ資料の中に俺の報告書があったはずだ。読んでいないのか、読んでも意味が分からなかったのか。どちらにしても結果は同じだ。構わず俺は続けた。

「二ヶ月前にお渡ししたレポートでも警告しましたが、今この瞬間も外部からシステムの侵入口を探る動きが続いています。遮断はできていますが、早めに基幹システムの守りを固めるべきです」

「西村さん、だったね」

古川が初めて口を開いた。

「セキュリティ業務はこれからうちで内製化していく。私が着任してすぐにそう決めた。自社のシステムチームを増員し、新しい管理ツールに即切り替える。外部委託はコストと情報管理の両面から見直す。それに、守りにばかり金を積む時代じゃない。浮いた外注費はラインの生産性を上げるシステムに回す。守りは最低限の自動化で足りる。もう下請けは不要。自社技術で十分だ」

その一言で会議室の空気が変わった。大野が俺の横で小さく息を飲む。

「つまり、今の契約を打ち切るということですか」

俺がそう確かめると、古川は挑発するように返した。

「そういうことだ。他にどんな意味に聞こえる?」

俺は少し間を置いてから口を開く。

「方針の変更は理解しました。ただ先ほど申し上げた不審な動きは現在進行形です。引き継ぎのための移行期間を設けることをお勧めします」

古川は勝ち誇るように言った。

「移行期間は不要だ。明日にはもう新しいツールに切り替わっているんだよ。外部からの不審な動きなど、全て自動で検知できる」

古川はそう言うが、このメーカーの工場システムには固有の癖がある。新しいツールが見るのは通信の中身が既知の攻撃パターンに一致するかどうかだ。だがこの工場の制御系は、設備ごとに通信の間隔も順序も癖がある。それを知らないまま自動に委ねれば、見落としは必ず出る。おそらく古川はそれを分かっていない。担当者が困惑した顔で俺を見ている。

「古川部長、一つだけ申し上げます。一度切れたセキュリティ契約は、再契約できませんよ」

脅しではない。契約を切った後に事故が起きれば、責任の線引きと情報管理の都合から、改めて結び直すのは極めて難しくなる。それが業界の常識だ。古川はゆっくりと俺に視線を向けた。

「最悪、切ったらそれまでだ。本社に用はない」

古川の目はすでに別の書類へ移っていた。これ以上は話にならない。俺は立ち上がり、資料をまとめた。

「では、失礼します」

会議室を後にしたその足で、俺は大野に指示を出した。当日中に監視権限の全てを先方へ返上しろ。言うべきことは全て言ったのだ。会社に戻ると、大野がぽつりと漏らす。

「あの部長、こっちが何年も積み上げてきたものを分かっちゃいない」

俺は机の引き出しから一冊のファイルを取り出した。大手メーカーに提出した報告書の控えだ。送った日付、宛先、相手の受領確認。全てそこに残っている。

「声を荒げても意味はない。記録さえ残っていれば、それで足りる」

俺はそう言って、大野にそのファイルを見せた。メーカーは今、ある新技術の特許申請を進めている。申請が正式に認められるまでの間、その技術情報は会社にとって最も守るべき極秘事項にあたる。ところが社内ネットワークでの扱いを調べると、外部へつながる経路がいくつも、ほとんど手つかずのまま開かれていた。つまり守りを一箇所でも破られれば、その秘密はそのまま外へ流れ出す。報告書にはそうはっきり書いている。古川はその指摘を「自社技術で十分だ」の一言で切り捨てたことになる。

「再契約の話は、本当に無理なんですか」

大野がファイルを見たまま聞いた。

「業界の習わしとしてな。事故の後で関係の切れた相手から連絡をもらっても、原則として受けない。そこで新たな問題が起きれば、責任の境い目が曖昧になるからだ。もし向こうから頭を下げてきたら、その時はこちらの条件を出す」

大野が驚いた顔をした。

「受けることもあるんですか」

「それは向こうの出方次第だ」

ファイルを引き出しへ戻し、俺は次の仕事に向かった。あの工場で何かが起きるとすれば、それはもうこちらの手を離れた場所での話だ。だがその時、誰の判断が何を招いたのか。記録は全てを知っている。

契約を打ち切られた翌日。俺は別の顧客先のシステムと向き合っていた。あの工場の監視権限は前日のうちに全て返上している。もう何が起きても俺の画面には届かない。それでも気持ちの隅にはあの工場群が引っかかっていた。その日の昼前だった。携帯が鳴り、桑原の名が表示される。出た瞬間、ただ事ではないと分かった。

「西村さん、助けてくれ。工場が全部止まった」

俺は携帯を握り直した。

「落ち着いてください。『全部』というのは、十箇所全部ですか」

「朝から順番にラインが一つずつ落ちていって、気づいたらどこの工場も動いていない」

桑原の話を俺は頭の中で組み立てていく。昨日こちらの守りが消えた。何者かが外から制御を握り、全工場が緊急停止。何者かが俺たちの監視が消える瞬間をずっと待ち続けていたとしか思えない動きだった。桑原によると、新しく入れたという監視の仕組みは警報を一つも上げなかったらしい。

「本社の説明で、何でも自動で防げると聞いている。それが本番ではまるで……」

桑原の声が途中で途切れた。俺は奥歯を噛んだ。今すぐ止め方を指示してやりたい。だが俺にはもうその権限がない。昨日、自分の手で返したばかりだ。助けたくても踏み込めない。これほど歯痒いことはなかった。桑原さんたちは何も悪くない。現場の人間が何の落ち度もないまま、止まったラインの前で立ち尽くしている。その光景が頭から離れなかった。

その日の午後、今度は大手メーカー本社の担当者から連絡が入った。声は桑原以上に沈んでいる。工場の停止だけでは済まなかったという。生産途中だった技術の特許情報が、会社の外へ持ち出された痕跡が見つかった。新しいシステムチームが経路を辿ったところ、海外のサーバーを経由し、最後は海外のどこかへ抜けていたという。俺が報告書で指摘した、最も守るべきデータの管理の穴。そこが破られていた。委員会は開かれ、古川がずっと問い詰められているらしい。新しい管理ツールは業者が見せたデモ環境でしか動いた実績がなく、実際の工場では設定すら間に合っていなかった。その事実が関係者の前で次々に明るみに出たという。

聞きながら、俺は奇妙なほど冷静だった。腹立たしさよりも、桑原たちの顔が先に浮かぶ。何の落ち度もない現場の人間が、止まったラインの前で立ち尽くしている。それを思うと胸の奥が重くなった。すると夕方、会社の電話が鳴った。出ると、低く落ち着いた声が聞こえてくる。大手メーカーの社長、真田だった。

「西村さん、突然で申し訳ない。今回の件で、折り入ってお願いがある。近いうちに私が直接そちらへ伺いたい。責任者も同席させる。どうか時間をいただけないだろうか」

言葉は丁寧で、慇懃ではある。だがその奥に、追い詰められた焦りが滲んでいる。俺は静かに答えた。

「分かりました。お待ちしています」

ここから先は、向こうが頭を下げてくる番だ。

約束の日、真田は古川を連れて俺の会社を訪れた。応接室に通すと、二人は並んでソファーに浅く腰かけた。席につくなり、真田は両手を膝に揃え、深く頭を下げる。

「西村さん。虫のいい話だとは重々承知している。だが、もう一度だけうちの工場を見てもらえないだろうか」

その隣で、古川は身を縮めるように座っていた。報告会でまとっていた余裕は、もうどこにも残っていない。俺は二人の正面に腰を下ろした。止まった工場の数も、流れた情報のことも、桑原と本社の担当者からすでに聞いている。それでも、当人たちの口から言わせる必要があった。

「お話の前に、確認させてください。止まった工場は、全部で何箇所でしたか」

真田が絞り出すように答えた。

「十箇所、全てだ」

「外へ流れた技術情報は」

「特許申請している最中のものが一件」

そこで俺は一冊のファイルを取り出した。二ヶ月前に提出したあの報告書の控えだ。送った日付、宛先、そして先方の受領確認。そのページを開き、二人の前に置いた。

「ここに二つの危険を書いています。一つは、外から制御システムを探る動きが続いていること。もう一つは、最も守るべき技術情報の管理に穴があることです。今回起きたことと、ここに書いた中身は、ほとんど重なっています」

真田の顔から血の気が引いていった。古川が初めて口を開いた。

「この報告書は、私の前任が受け取ったものでしょう。私が着任したのは、つい先月で……」

語尾がわずかに掠れていた。

「ええ、あなたは後から来られた。俺は遮りもせず、穏やかに応じる。ですが、定例の席で私はお伝えしたはずです。外から侵入口を探る動きが今も続いていると。あの時あなたは資料に目を通そうともせず、『自社技術で十分だ』とおっしゃいました」

古川の顔が歪んでいく。

「後を引き継ぐということは、残された懸案ごと引き受けるということではないのですか。何が危ないと言われているのかを確かめないまま、あなたは守りそのものを断ち切った。おまけに、私が進めた移行期間も不要だと言った。その間にぽっかり開いた穴を、そっくり突かれたんです」

古川は視線を泳がせ、膝の上で握った手に力を込めた。俺はあの時の言葉を繰り返した。

「一度切れた契約は、再契約できません。あの時、確かにそう申し上げたはずです」

古川は俯いたまま動かなかった。俺はファイルを閉じ、続けた。

「これは意地で言っているのではありません。事故の後に関係の切れた業者がそのまま現場へ戻れば、どこまでが誰の落ち度か、その境い目が必ずぼやけます。問題を抱えた環境で次の不具合が出れば、その責めまでこちらが追われかねない。だからこの業界では、原則としてお断りするんです」

「そこを、なんとか頼めないだろうか」

真田は震える声で訴えた。意地を張って断るのは簡単だ。だが桑原たちのあの声を聞いた後で、俺に拒む資格があるか。俺は真田の目をまっすぐ見返した。

「する道がないわけではありません」

真田の目にかすかな光が差す。

「ただし、誤解のないように申し上げます。切れた契約をなかったことにして元へ戻すのではありません。あれはもう終わったものです。お引き受けするとすれば、全く新しい条件で、ゼロから結び直す別の契約です」

「条件とは」

「先に果たしていただくことが二つ。今回何が起きて、なぜ防げなかったのか。その原因を御社自身の手で洗い出し、改善計画として文書に残すこと。そしてもう一つは、私があなたに指摘した情報の管理を、私たちが入る前に御社の責任で塞いでおくことです。穴の残ったままの場所に、私たちは入れません」

真田はゆっくりと頷いた。

「その上で、契約そのものの中身も変わります。同じ過ちを二度と起こさせないために、監視の体制は以前の倍に引き上げます。増える分の費用については、本社に全額ご負担いただきたい。それでもなお、願いしたいということであれば、こちらも全力でお守りします」

真田は一瞬も迷わなかった。

「西村さんがおっしゃることは、当然です。どちらも本来ならこちらから差し出すべきものだ。それを、あなたに言わせてしまった」

真田はそう言って隣の古川へ目を向けた。

「古川の判断については、私が責任を取らせる。その始末も、必ず私がつける」

その低い一言には、社長としての覚悟が滲んでいた。視線に促されるように、古川がようやく顔を上げた。

「着任したばかりで、私は焦っていたんです。前任のやり方を引き継ぐだけでは、私が来た意味がない。何か目に見える形で変えたかった。外注費の削減額がそのまま私の実績になりますから。そればかりに気を取られていました。申し訳ありません」

古川はそう言って、深く頭を下げた。その姿を見ても、俺の胸は不思議と痛まない。ただ、動かないラインの前で立ち尽くす桑原たちの顔が頭をよぎっただけだった。

数週間後、メーカーから文書が届いた。今回の事故で何が起き、なぜ食い止められなかったのか。その原因が一つずつ洗い出され、再発を防ぐ手順がこちらの求めた水準で記されていた。俺があなたに指摘した情報の管理も、先に是正したとの報告が添えてある。約束通り、俺たちは新しい契約のもと、あの工場群の監視に戻った。桑原から聞いた話では、内製化を押し進めた古川は部長を更迭となり、関連会社へ移ることになったらしい。

その話の後、桑原は言った。

「止まってからの数日、現場の連中はみんな生きた心地がしなかったよ。西村さんが戻ってきて、現場がやっといつもの顔つきに戻ったよ。本当にありがとう」

外からの侵入を防ぐことも、情報の流出を止めることも、ただの手立てに過ぎない。俺が本当に守りたかったのは、多分この桑原たちの声だ。誰もが何の不安もなく自分の仕事に没頭できる。その当たり前の時間こそ、守るべきものなのだと俺は深く噛みしめるのだった。

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