財布の中身が消えている。誰が盗んだ。夫の怒号が家中に響き渡ったのは、いつもと変わらない夕暮れ時だった。
スーパーでの仕事を終えて帰宅した私は、夕食の支度を始めようとしていた。三十年間続けてきた仕事と、三十五年連れ添った夫との生活。それが当たり前の日常だと思っていた。ところが次の瞬間、玄関のドアが激しく開く音がして、夫が形相を変えて飛び込んできた。
お前しかいないだろう。白状しろ。問答無用で私の頬を往復びんたされた時、耳の奥でキンという音が鳴り響いた。頬が熱く、そして痛い。床に崩れ落ちながら、私は現実を理解できずにいた。三十五年も一緒にいて、まさかこんなことをするなんて。夫の冷たい目が私を見下ろしていた。
しかし、私の心の中では、ある確信が静かに芽生え始めていた。
私は原田文。この三十五年間、家族のために全てを捧げてきた。三人の子供たちを育て上げるため、スーパーのパート勤務を三十年間続けてきた。月収は十八万円。決して多くはないが、子供たちの教育費として総額で一千万円を私の給料から支払ってきた。家のローンも毎月八万円ずつ、私の収入から返済を続けている。
朝は五時に起きて家族全員分の弁当を作り、夜は遅くまで家事をこなす日々だった。けれど、半年ほど前から夫の様子がおかしくなり始めた。給料明細を見せなくなり、帰宅時間も遅くなっていった。財布の管理も自分でするようになり、私への態度は日に日に冷たさを増していった。
お前の料理はまずいな。年を取ったんじゃないか。些細な文句が増え、何か隠しているような雰囲気を感じるようになった。
一ヶ月前、私は決断した。リビングに小型の隠しカメラを設置したのだ。浮気の証拠を掴むため、そして離婚の準備のために。まさかこんな形で役立つことになるとは。この時の私は想像もしていなかった。
床に倒れたまま、私は頬の痛みに耐えていた。耳鳴りが収まらず、視界が揺れている。口の中に血の味が広がり、現実感が抜けていくような感覚に襲われた。立ち上がろうとすると、夫が鋭い声で制止した。
動くな。認めるまで絶対に許さないからな。財布には二十万円入ってたんだ。お前以外に誰がいるんだよ。
私は必死に首を横に振った。声を振り絞って答えた。
私は取っていません。本当に何も知らないんです。
嘘をつくな。この泥棒が。
夫が再び手を上げようとしたので、とっさに腕で顔をかばった。恐怖で体が震えているのが分かった。
実は夫の暴力は今回が初めてではなかった。三年ほど前から時々物を投げたり、壁を叩いたりすることがあったのだ。最初は仕事のストレスだと思っていた。でも子供たちには一度も見せたことはなかった。家庭内のことは外に出さない。それが私の世代の常識だと信じていた。
けれど、今回は明らかに違う。直接私の体に手を上げた。これは誰がどう見ても許されない行為だった。私の中で何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じる。
お前は泥棒だ。三十五年も養ってやったのに、恩をあだで返すのか。
養ってやったという言葉が胸に突き刺さる。私だって三十年間毎日働いて家計を支えてきたのに。子供たちの教育費だって総額で一千万円を私の給料から出してきたのに。家のローンだって毎月八万円ずつ私が払い続けてきたのに。
スーパーのレジでも盗んでるんじゃないのか。お前の稼ぎなんて小遣い程度だろう。
私の三十年間の真面目な勤務を、そんな風に言われるなんて。毎朝五時に起きて家族のために弁当を作り、仕事に行き、帰ってきてからも家事をこなしてきた日々。職場での信頼も、コツコツと積み重ねてきた誇りも、全て踏みにじられた気持ちになった。
誰のおかげで生活できてると思ってるんだ。感謝の気持ちもないのか。夫の言葉はさらにエスカレートしていった。まるで私が何もしてこなかったかのような口ぶりだ。義母の介護を五年間一人で担ったことも、子供たちが病気の時に徹夜で看病したことも、全てはすでに忘れられているのだろうか。
財布を出せ。今すぐだ。
夫は私のバッグから財布を奪い取り、中身を床にぶちまけた。小銭が音を立てて散らばり、カード類が散乱していく。長年使ってきた財布が乱暴に扱われる様子を見るだけで胸が痛んだ。
三万円しかないじゃないか。残りの十七万円はどこだ。隠してるな。
隠してなんかいません。私は本当に何も知らないんです。
私の言葉を遮るように、夫は立ち上がった。この部屋もあの部屋も全部探すぞ。タンスの引き出しを次々と開けては、中身を床に投げ出していく。私が大切にしてきた思い出の品々、子供たちの写真、昔の手紙。全てが雑に扱われていく様子を見るのは辛いものだった。寝室も子供部屋もリビングも、家中が次々と荒らされていく。クローゼットの中のものまで引きずり出され、床は足の踏み場もないほどになった。
私が何年もかけて整理してきた家の中が、あっという間に崩壊していく。それでも見つからないと分かると、夫はさらに激昂した。顔を真っ赤にして私を睨みつける。
お前は泥棒以下だ。人間のクズだ。こんな女と結婚したのが人生最大の間違いだった。
結婚したのが間違い。三十五年の人生を全否定される言葉。私の存在そのものを否定されているようだった。
お前なんかいらない。今すぐ出ていけ。離婚だ。でも慰謝料なんて一円も払わないからな。お前が盗んだ金を返してからだ。それまで絶対に離婚してやらない。
私の存在価値を、人間としての尊厳を完全に否定する言葉の数々。これまで三十五年間家族のために積み重ねてきた全てが、何の意味もないものだったと言われているようだった。涙も出なかった。ただ心が凍りついていくような感覚だけが残る。
荒らされた部屋の中で、私は床に座り込んだ。でも不思議と冷静だった。心の中である声が響いていたのだ。この人は最後の一線を超えた。もう二度と元には戻れない。
私は静かに立ち上がった。夫は別の部屋で誰かに電話をかけているようだった。おそらく友人に愚痴を言っているのだろう。私の悪口を、まるで自分が被害者であるかのように話しているに違いない。私はスマートフォンを手に取り、隠しカメラのアプリを開いた。手が震えていたが、今こそ真実を確認する時だ。
寝室に入り、ドアを静かに閉めた。夫の声は別の部屋から聞こえているが、もう気にならない。私はアプリを起動し、今日の録画ファイルを表示した。
リビングの様子が映し出される。最初は誰もいない静かな部屋だった。早送りで確認していくと、午後に変化が起こる。玄関のドアが開く音。夫が帰宅してきたのだ。仕事は休みのはずなのに、なぜこんな時間に。しかもその表情は明らかに慌てているように見えた。
夫はリビングに入るとすぐに自分の鞄から財布を取り出した。そして中を確認するように開き、大量の紙幣を抜き取り始めたのだ。一万円札を何枚も何枚も数えながら抜き取っていく。そして独り言が聞こえてきた。
クソ、競馬で半分以上吸っちまった。
夫はギャンブルをしていたのだ。しかもその様子から察するに、かなりの額を使い込んでいるようだった。
会社の金を二十万も使っちまった。これバレたら終わりだ。
その言葉に私は息を飲んだ。会社の金を横領しているということなのか。画面の中の夫は財布を空にして呆然としていた。
どうする。どうすればいい。夫は頭を抱えてしばらくその場に座り込んだ。そしてふと顔を上げた。そうだ。奴のせいにすればいい。
その瞬間、私の背筋が凍りついた。
どうせあいつは反論できない。財布が空になってたって言えば、疑われるのはあいつだ。
画面の中の夫は邪悪な笑みを浮かべていた。私は今まで見たことのない表情だった。こんな顔をする人だったのだろうか。三十五年も一緒にいたのに、私は本当にこの人を知っていたのだろうか。
奴はバカだから証拠なんて残してないだろう。
バカだから。その言葉が胸に刺さる。私をそんな風に思っていたのですね。
夫は立ち上がり、空になった財布を鞄に戻した。そして何事もなかったかのように、また外出していった。おそらく帰宅する時間を調整するために、時間を潰しに行ったのだろう。
私は震える手で過去の録画も確認してみることにした。もしかしたら他にも何かあるかもしれない。
一週間前の録画。夫が帰宅して誰かと電話をしている場面があった。
ああ、また負けちゃってさ。今月だけで五十万は使ったよ。笑いながら話している。ギャンブルは一度や二度ではなかったのだ。妻には絶対バレないから大丈夫。あいつ何も気づいてないよ。
さらに別の日の録画。女性の声が聞こえてくる。
まだ会えないの。奥さんに怪しまれてる。
大丈夫だって。妻は何も疑ってないから。鈍いんだよ、あいつは。
浮気までしていた。そしてその相手との会話の中でも、私をバカにする言葉ばかり。別の録画では、会社の同僚らしき人との電話が映っていた。
経費で落とせないかな。領収書の日付ちょっと変えてくれない。
不正な経費処理もしていたようだ。会社の金を私的に使い、それを隠蔽しようとしている。横領は今回だけではなかったのだろう。画面の中の夫は、私が知っている夫とは別人のようだった。家では威圧的で冷たいのに、電話では軽妙に笑い、不正を重ねている。そして、その全ての録画に共通しているのは、私への侮辱の言葉だった。
妻はバカだから。あいつは何も気づかない。鈍いんだよ。
私は夫にとって都合のいい、何も知らない妻でいることを期待されていた。三十五年間家族のために尽くしてきた私は、夫からこんな風に思われていた。スマートフォンを握りしめる手に力が入る。怒りではない。もっと冷たく静かな感情だった。
この人は私を完全に見くびっていた。自分の犯罪を私に押し付けようとした。三十五年間、私をバカにし続けてきた。
涙が一筋頬を伝う。でも悲しみの涙ではなかった。これは決意の涙だ。私は録画を全てバックアップし、クラウドにも保存した。証拠は完璧に残す。スマートフォンだけでなく、パソコンにも。USBメモリにも。そして画面に表示される番号を見つめる。百十番。警察に通報する番号だ。
これは正当防衛です。私は静かにつぶやいた。暴力を受け、濡れ衣を着せられ、三十五年の人生を踏みにじられた。もう我慢する必要はない。私はこの男と戦う。
指が画面に触れようとしている。もう迷いはなかった。この瞬間が私の人生の転換点になる。そう確信しながら、私は深く息を吸い込んだ。真実は全て記録されている。深呼吸を繰り返しながら、私は証拠の整理を始めた。感情的になってはいけない。冷静に、確実に。
まず各カメラの映像から重要な部分だけを切り取る。夫が財布を空にする場面。横領を告白する独り言。ギャンブルについて話す電話。浮気相手との会話。不正経費の依頼。全てをスマートフォンに保存していった。次にそれぞれの映像をクラウドストレージにアップロードする。スマートフォンを壊されても、証拠は消えない。パソコンにも同じファイルをコピーし、さらにUSBメモリにも保存した。
重要な場面はスクリーンショットも撮影した。夫の表情、時刻、状況が一目で分かるようにしておく。特に「奴のせいにすればいい」と言った瞬間の映像は、計画的な犯行の証拠として重要だろう。音声も文字に起こしておくことにした。会社の金を二十万も使っちまった。妻はバカだから、あいつは何も気づかない。一言一句、正確に記録していく。時系列でまとめたメモも作成した。いつ何が起きたのか。夫の態度が変わり始めた時期、暴力が始まった時期、今日の往復びんた、そして隠しカメラに映った真実。全てを整理していくと、夫の犯罪の全貌が見えてくる。
準備は完璧だ。私はスマートフォンを握りしめ、深く息を吸い込んだ。もう後戻りはできない。この通報が私の人生を大きく変えることになるだろう。でも恐れはなかった。画面に表示された百十番の文字を見つめ、通話ボタンを押した。コール音が二回鳴り、すぐに繋がった。
警察です。事件ですか。事故ですか。落ち着いた声が聞こえてくる。私も落ち着いて答えた。
事件です。夫から暴力を受けました。そして夫が会社の金を横領していた証拠があります。
分かりました。まず、今お怪我はありますか。
頬を往復びんたされました。腫れていますが、大きな怪我ではありません。
オペレーターの方は冷静に状況を確認していく。住所、名前、夫の名前、今どこにいるか。私は一つ一つ正確に答えていった。
暴力を振るった方は今どこにいらっしゃいますか。
別の部屋にいます。電話をしているようです。
証拠があるとおっしゃいましたが、どのような証拠でしょうか。
隠しカメラの映像です。夫が自分で財布を空にして私に罪を着せようとする様子が全て録画されています。会社の金を二十万円横領したことを認める発言もあります。
オペレーターの声に、わずかな緊張が走ったように感じた。
分かりました。その証拠は大変重要です。すぐにパトカーを向かわせます。十分ほどお待ちください。
ありがとうございます。待っています。
通話を終えると、不思議な安堵が広がっていった。もう一人で抱え込まなくていい。法律が、警察が私を守ってくれる。夫の声がまだ別の部屋から聞こえている。まだ電話をしているようだった。おそらく私の悪口を言い続けているのだろう。
私はリビングに戻ることにした。逃げる必要はない。証拠は全て揃っているのだ。
リビングに入ると、夫がソファに座っていた。電話は終わったようだ。私を見て鼻で笑う。
で、財布は見つかったのか。まだ隠すつもりか。
私は冷静に答えた。
見つかりました。
夫の目が光る。
どこにあった。やっぱりお前が隠してたのか。
いいえ。あなたが自分で空にしました。
夫の表情が凍りつく。
え、何を言ってるんだ、お前。
全て録画されています。
その言葉に、夫の顔色が明らかに変わった。
はあ。何の話だ。
リビングに隠しカメラを設置していました。あなたが今日の午後に帰宅して、財布から二十万円を抜き取る様子が全て映っています。
夫は立ち上がり、周囲を見回し始めた。
どこだ。どこにそんなものが。
もう遅いですよ。映像は全て保存しました。私の声は驚くほど落ち着いていた。会社の金を横領したことも録画されています。ギャンブルで使ったことも、私に濡れ衣を着せようと計画したことも、私のことをバカだと言ったことも。全て証拠があります。
夫は顔面蒼白になり、言葉を失った。
お、お前、いつから。
一ヶ月前からです。あなたの様子がおかしかったので、浮気の証拠を掴もうと思って設置しました。
そんな勝手に撮影するなんて。
防犯カメラです。自宅に設置することは違法ではありません。
夫の足が震えているのが見えた。
ま、待て。話し合おう。夫婦なんだから。
話し合いは必要ありません。私はスマートフォンを夫に見せた。画面には、夫が財布を空にする映像が映っていた。そして、警察を呼びました。
な、なんだと。夫の声が裏返る。その瞬間、外からパトカーのサイレン音が聞こえてきた。ピンポン。インターホンが鳴る。夫は立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けないようだった。顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。
ま、待ってくれ。妻を殴るなんて。
私は夫を一瞥することもなく、玄関に向かった。インターホンの画面には、制服を着た警察官が二人映っている。ドアを開けると、若い警察官が丁寧に声をかけてきた。
原田文さんですね。通報の件で参りました。
はい。お待ちしていました。どうぞお入りください。
警察官たちがリビングに入ると、夫は完全に硬直していた。取り調べの時間が始まったのだ。
一人は三十代くらいの男性警察官、もう一人は四十代くらいのベテランに見える女性警察官だった。
通報いただいた原田文さんですね。私は沢田と申します。男性警察官が名乗り、手帳を見せてくれた。女性警察官が続いて名乗った。
私は佐藤です。大丈夫ですか。お怪我は。
佐藤さんが私の方を見て、心配そうな表情を浮かべた。
はい。腫れていますが、大きな怪我ではありません。
まず状況を詳しく教えていただけますか。
私は落ち着いて説明を始めた。夫が帰宅するなり財布の中身がないと怒鳴ったこと。問答無用で往復びんたをされたこと。犯罪者扱いされ、家の中を荒らされたこと。そして隠しカメラに真実が映っていたことを話した。
証拠の映像を見せていただけますか。沢田さんが丁寧に訪ねてきた。私はスマートフォンを取り出し、保存していた映像を再生した。画面には、夫が財布を空にする様子が映っていた。
クソ、競馬で半分以上吸っちまった。会社の金を二十万も使っちまった。これバレたら終わりだ。そうだ。奴のせいにすればいい。
夫の独り言がはっきりと録音されている。警察官二人は真剣な表情で画面を見つめていた。
奴はバカだから証拠なんて残してないだろう。
その言葉を聞いた瞬間、佐藤さんが夫を見る目が厳しくなった。
映像が終わると、沢田さんが夫に向き直った。
原田正さんですね。これは本当にあなたですか。
夫は青ざめた顔で口をパクパクさせている。その、それは。言葉が出てこないようだった。
業務横領の疑いがあります。そして奥様への暴行の事実も確認できました。詳しくお話を伺う必要があります。
沢田さんの声は冷静だが、言葉を許さない強さがあった。夫は崩れ落ちるように床に座り込んだ。
違う、違うんだ。これは。
何か言い訳をしようとしているようだが、言葉にならない。佐藤さんが私に近づいてきた。
奥様、頬の傷をお写真撮影させていただいてもよろしいですか。証拠として必要になります。
はい、お願いします。カメラで何枚か撮影してくれた。腫れた頬、赤くなった部分を細かく記録していく。
診断書も取られることをお勧めします。明日病院に行かれてください。
分かりました。そうします。
夫が突然私に向かって叫んだ。
妻を許してくれ。取り下げてくれ。お願いだ。
床に手をついて謝り始めた。さっきまでの威圧的な態度はどこへ行ったのか。
俺が悪かった。もう二度としないから。会社首になる。人生終わっちゃうんだ。
私は冷たく答えた。
私が犯罪者だとおっしゃいましたよね。
夫の動きが止まる。
あれはカッとなって、つい。
私を殴りましたよね。
悪かった。本当に反省してる。もう絶対にしないから。
お前なんかいらないとおっしゃいましたよね。
夫は何も言えなくなった。私は続けた。
離婚だともおっしゃいましたよね。
それは言いすぎた。
誰のおかげで生活できてると思ってるともおっしゃいました。夫の顔が青ざめていく。お前の稼ぎなんて小遣い程度だとも。
一つ一つ、夫の言葉を返していった。私はあなたを許しません。
その言葉に、夫は完全に言葉を失った。
佐藤さんが私に確認してきた。
被害届を出される意思はありますか。
はい、出します。即答した。迷いはなかった。
分かりました。暴行罪として受理します。診断書が取れ次第、正式な手続きを進めましょう。
沢田さんが夫に説明を始めた。
原田正さん、業務横領と暴行の疑いで署まで同行していただきます。
ま、待ってください。会社には言わないでください。
夫が懇願するが、沢田さんは首を横に振った。
横領の事実確認のため、会社への連絡は必要です。
夫は絶望的な表情を浮かべた。私は追加の証拠映像があることを伝えた。
他にも、過去に何度か横領をしていた様子が録画されています。スマートフォンで別の日付の映像を見せた。ギャンブルについて電話で話している場面。不正な経費処理を依頼している場面。
これらの証拠も全て提出していただけますか。
はい。クラウドにも保存してありますので、いつでもお渡しできます。
沢田さんが頷き、夫に向き直った。
では、同行をお願いします。
手錠まではかけられなかったが、夫は警察官に促されて立ち上がった。足取りはふらついていた。玄関に向かう夫の背中は、驚くほど小さく見える。
妻、本当に済まなかった。
夫が最後に振り返り、そう言った。でも私は何も答えなかった。ただ静かに見送るだけだ。パトカーに乗せられていく夫。近所の人たちが窓からその様子を見ているのが分かった。
佐藤さんが私に声をかけた。
大変でしたね。でも、勇気を出して通報してくださってよかったです。
ありがとうございます。
今後の流れについて説明しますね。まず明日病院で診断書を取ってください。それから署に来ていただき、正式な被害届の手続きをします。
分かりました。
何かあれば、すぐに連絡してください。佐藤さんは名刺を渡してくれた。
警察官たちが帰った後、静かになった家の中で、私は深く息を吐いた。終わった。いえ、これは始まりなのだ。
翌日、私は病院で診断書を取った。顔面打撲、全治一週間の見込みと書かれている。そして警察署で正式な被害届を提出した。
その日の夕方、夫の勤めている会社から電話があった。
原田様のご主人について、確認したいことがあります。
会社の総務部の方だった。警察からの連絡を受けて、社内調査を始めたそうだ。
横領の事実が確認されました。総額は百五十万円に上ります。
私は息を飲んだ。やはり二十万円だけではなかったのだ。
即刻、懲戒解雇とします。退職金も支給しません。また刑事告訴も検討しています。
夫の人生は完全に崩壊していった。
数日後、夫の実家から電話があった。義母からだ。
文さん、息子がとんでもないことを。本当に申し訳ございません。
義母の声は震えていた。
お母さん、お気になさらないでください。
いいえ、あの子が悪いんです。文さんは何も悪くない。三十五年もよく我慢してくださいました。
義母の言葉に、涙が溢れそうになる。
離婚して自由になってください。文さんにはそうする権利があります。
ありがとうございます。
義父や夫の兄弟からも連絡があった。全員が私の味方だった。
文さんの味方です。兄が完全に悪い。応援しています。
夫は家族からも見放されたのだ。
私は弁護士に相談した。離婚の準備を始めるためだ。
完全に勝てます。暴行の証拠、横領の証拠、全て揃っています。慰謝料も財産分与も、全てあなたに有利に進みます。
慰謝料は三百万円を請求することになった。財産分与については、家は私の名義でローンも私が払ってきたので、完全に私のものだ。夫には何も残らない。
一ヶ月後、夫は起訴された。業務横領と暴行罪だ。執行猶予はつく可能性はあるものの、有罪がつくことは確定した。私の完全勝利が確定したのだ。
あれから三ヶ月が経った。離婚が成立し、私は正式に自由の身となった。慰謝料三百万円は分割で支払われることになったが、初回の入金はすでに確認できている。家は完全に私のものになった。長年コツコツと返済してきたローンも、あと数年で完済だ。
この家で一人暮らしを始めた今、静けさがこれほど心地よいものだとは思わなかった。朝目覚めた時に隣の声を聞くことはない。誰かの顔色を伺う必要もない。自分のペースで朝食を取り、好きな時間に家を出る。当たり前のことが、こんなにも幸せなのだ。
スーパーでの仕事は続けている。勤続三十五年目を迎えた。同僚たちは私の状況を知っていて、皆が温かく支えてくれる。
文さん、よく頑張ったね。感心するよ。その勇気。
休憩時間のお茶が、以前よりもずっと美味しく感じられる。笑顔で話せる仲間がいる。それだけで心が満たされていくのだ。店長も私を信頼してくれていて、新人の指導を任されるようになった。月収十八万円という額は変わらないが、一人で生活するには十分だ。慰謝料の貯金もあるし、経済的な不安はない。
自分で稼いだお金で、自分の好きなように生きる。この自由がどれほど素晴らしいことか。
成人した三人の子供たちは、最初は父親の逮捕にショックを受けていた。しかし、真実を全て話すと、全員が私を支持してくれたのだ。
母さん、よく頑張ったね。俺たち、母さんの味方だから。長男がそう言ってくれた時、涙が止まらなかった。
私たちもずっと応援してるよ。父さんは自業自得だよ。長女も次男も、定期的に実家に遊びに来てくれる。孫たちとの時間も増えた。むしろ以前よりも、家族の絆は深まったように感じる。
時間ができた私は、以前から興味のあったことを始めた。地域のコーラスサークルに参加したのだ。
文さん、素敵な声ですね。
同年代の女性たちと歌う時間は、心から楽しいものだった。陶芸教室にも通い始めた。土をこねながら無心になれる時間。自分の手で何かを作り上げる喜び。若い頃にやりたかったことを、今ようやく実現できている。
サークルで知り合った友人たちとは、よく食事に行く。
私も離婚して正解だったわ。自分の人生を取り戻したって感じがするよ。
似たような経験を持つ女性たちと語り合う時間は、何にも代えがたいものだ。お互いの経験を共有し、励まし合い、笑い合う。休日には友人と旅行にも行くようになった。誰にも文句を言われず、好きな場所に行ける。この自由がこんなにも楽しいものだとは。
一方、元夫の現在はどうなっているのだろうか。執行猶予付きの有罪判決を受け、前科者となった。実家で肩身の狭い生活を送っているそうだ。新しい仕事は見つからず、今はアルバイトで生活費を稼いでいると聞いた。慰謝料の支払いに追われ、ギャンブル依存症の治療も受けているとのこと。何度も謝罪のメールが送られてきたが、私は一度も返信していない。もう関わる必要はないのだ。
因果応報という言葉が、まさにこのことだろう。
ある日、町で偶然元夫を見かけた。すっかり痩せて、背中を丸めて歩く姿は別人のようだった。目が合ったが、私は何も感じなかった。怒りも憎しみも、もう何もない。ただ自分の人生を生きていく。それだけだ。
今、私は心から言える。あの日、隠しカメラを設置していて本当に良かった。百十番通報する勇気を持ててよかった。そして三十五年の我慢に、ついに終止符を打ててよかった。
同じ苦しみに耐える方がいらっしゃるなら、どうか一人で抱え込まないでください。証拠を集めてください。日記でも録音でも写真でも構いません。そして信頼できる人に相談してください。法律は被害者の味方です。警察も弁護士も、あなたを守ってくれます。勇気を出して、一歩踏み出してください。人生は何歳からでもやり直せるのですから。私のように、あなたも自由を手に入れることができます。正義は必ず勝つのです。
