「嫁をやめろ。」 その一言が、離婚届の前で私の手を震わせた。あの夜、義母の部屋から戻った私を待っていたのは、夫の冷たい言葉だった。「え……今、なんて?」「離婚だ。サインしてくれ。もう母の介護も、この家も、お前には関係ない」…

「嫁をやめろ。」 その一言が、離婚届の前で私の手を震わせた。あの夜、義母の部屋から戻った私を待っていたのは、夫の冷たい言葉だった。「え……今、なんて?」「離婚だ。サインしてくれ。もう母の介護も、この家も、お前には関係ない」...

「嫁をやめろ。」

その冷たい一言が突きつけられた離婚届けの前で、私の手は震えていた。あの夜、義母の部屋から戻った私を待っていたのは、夫のマサルのそんな言葉だった。

ダイニングテーブルに置かれた一枚の紙。「え……今、なんて? 」「離婚だ。サインしてくれ」「もう母の介護も、この家も、お前には関係ない」 夫の言葉は、まるで他人事のように響いた。7年間、毎朝五時に起きて、義母の着替えから食事の世話、入浴の介助まで、スーパーの仕事と両立しながら休む暇もなく続けてきた日々が、走馬灯のように頭を駆け巡る。「あなた、私が七年間ずっとお母さんを介護してきたこと、分かっていますよね? 」 震える声で訴える私に、夫は背を向けたまま答えた。「それが何だ? 老後も一緒には暮らせない。早くサインしろ」 その瞬間、私の中で何かが音を立てて壊れていくのが分かった。時計の秒針だけが、静寂の中で異様に大きく響いていた。

涙が一筋、頬を伝って落ちていった。

私、渡辺さち子は六十歳。地元のスーパーで二十八年間、真面目に働き続けてきた。夫のマサルとは三十五年前に結婚し、息子の達は今三十二歳。三年前にみさきと結婚し、三ヶ月前から息子夫婦はこの家で一緒に暮らしている。かつては幸せだった家族写真を見返すと、あの頃の温かさが懐かしく思い出される。

七年、前、義母が脳梗塞で倒れた。その日から、私の介護生活が始まった。毎朝五時に起床して義母の着替えから食事の世話。七時にはスーパーへ出勤する。十六時に帰宅すると、すぐに義母の入浴介助、夕食作り、服薬管理、就寝の世話と続く日々。週七日、休みなしで、一日平均八時間の介護を続けてきた。夫も息子夫婦も、誰も手伝ってはくれなかった三「当たり前だろ。嫁なんだから」「母さんがやるのが普通でしょ」と息子の達。「私たち世代には関係ないですし」と嫁のみさき。。感謝の言葉は、七年間で一度もなかった三時計の針だけが高速で回り続け、私の疲労だけが積み重なっていく三かつての温かい家族団欒が、遠い昔のように感じられた。

変化が始まったのは、半年前のことだった三「最近、母の機嫌が悪いのは、お前の介護が下手だからじゃないのか。」 夫のマサルが突然そんなことを口にするようになった三「もっとちゃんとやれよ。俺の母親なんだぞ。」 私は毎日必死にやっているのに、心の中で煮え繰り返りながらも、言葉にすることはできなかった三義母の着替えを手伝い、食事を口に運び、優しく声をかける。それでも「何かが足りない」と言われるのだ三息子の達も、同じような態度を見せ始めた三「母さん、もっと優しく接してあげてよ。「おばあちゃんが可哀想だよ。」 七年間休む暇もなく介護を続けてきた私に、家族からの一方的な批判が降り注ぐ三何が間違っているのか、私には分からなかった三不満という名の違和感が、日々大きくなっていくように感じた三朝起きるたびに、また今日も何か言われるのではないかという不安に、胸が締めつけられた三そして、息子夫婦が同居を始めてからは、状況がさらに悪化していった三「おばあちゃん、もしかして認知症では?

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最近変なこと言いますよ。」 嫁のみさきが上から目線でそう言い放つ三義母の前で、平然とそんなことを口にするのだ三「お母さんの介護のやり方、時代遅れじゃないですか? もっと効率的な方法があるはずですよ。」 みさきの言葉は日に日に厳しくなっていった三彼女は介護の経験もないのに、まるで専門家のような口ぶりで私を批判する三「母さんの料理、おばあちゃんには味が濃すぎるんじゃない? 健康に良くないよ。」 達も妻の言葉に同調するようになる三義母の好みに合わせて作ってきた料理まで、否定されていく三「さち子、お前のせいで母の具合が悪くなってる気がする。」 夫までもが、冷たい視線を私に向けるようになった三私の何がいけないの? 今まで一生懸命やってきたのに。。心の中で何度も繰り返す言葉は、誰にも届かない三みさきの上から目線の態度、達の無関心、夫の冷たい視線。全てが私を追い詰めていくように感じた三一ヶ月前からは、もはや「邪魔者」としてしか扱われなくなった三「私が介護した方が、おばあちゃんも安心するんじゃないですか?

若い人の方が力もありますし。」 みさきが自分からそう言い放つ三「おばあちゃんも、お母さんにはもう任せられないって言ってましたよ。」 義母までもが私を否定しているというのだ三毎日欠かさず世話をしてきた義母が、信じられない思いだった三「母さん、もう無理しなくていいよ。邪魔だから。」 達の言葉が私の胸に突き刺さる三自分が産んだ息子から「邪魔」と言われる。その衝撃は、言葉では言い表せないものだった三「お前はスーパーのパートだけやってろ。「介護はみさきに任せる。」 夫の決定は、まるで私の存在を完全に否定するものだった三七年間、私がやってきたことが、全て否定されていく三深い静寂の中、家族からの辛辣な言葉だけが響く三私の表情は、絶望へと変わっていった三そして、ある日の夕食時、家族全員が揃った場所で、私は公然と侮辱されることになる三「お母さん、古い世代の介護方法は効率悪いですよね。「今はもっと科学的なやり方があるんですよ。」 みさきが誇らしげな表情で言う三「そうそう。「母さんは時代についていけてないよ。「今の介護は違うんだよ。」 達も同調する三まるで私が時代遅れの役立たずだと言わんばかりだ三「さち子、お前はもう用済みだ。「お前は余計なことをするな。」 夫の言葉に、私は震える声で答えた三「私、七年間……」 「でも、お母さんには会わなかったってことでしょ。「仕方ないですよね。」 みさきの冷たい言葉が、最後の止めを刺す三家族全員が私を無視して、まるで私がそこにいないかのように会話を続けていった三その日の夜、私は一人で泣いた三七年間の献身が、たった一言で否定されていく悲しみ三布団の中で声を殺して泣き続けた三でも、私はまだ知らなかった三まだ最悪の瞬間は来ていなかったということを三次の、さらなる裏切りが私を待っているということを三

「用済み」と言われたあの夕食から、わずか数日後、最悪の瞬間が訪れた三疲れ果てた私が義母の部屋から戻ると、ダイニングテーブルに一枚の紙が置かれていた三「さち子、嫁をやめろ。」 夫のマサルが放った冷たい一言三離婚届けが、まるで不要な書類のように無造作に置かれている三「え、今、なんて離婚届けだ。」 「サインしてくれ。「もう母の介護も、この家も、お前には関係ない。」 涙を流した夜から数日、心の傷が癒えないうちに、さらなる裏切りが私を襲った三震える声で、私は夫に訪ねる三「どうして、私、何か悪いことしましたか? 」 マサルは冷たい目で私を見つめながら答えた三「悪いことはしてない。「ただ、もう必要ないんだ。」 必要ない——その言葉が胸に突き刺さる三「母の介護はみさきがやる。「お前がいると邪魔なんだ。」 邪魔——七年間休む暇もなく介護を続けてきた私が、邪魔だというのか三あの夕食の時に言われた「用済み」という言葉が、現実のものになっていく三「それに、老後も一緒には暮らせない。「お前と過ごす未来が見えないんだよ。」 心臓の鼓動が、異常に大きく響く三三十五年間一緒に歩んできた人生が、たった数分の会話で終わりを告げようとしている三私の表情が、絶望から怒りへと変わっていくのを感じる三「みさきは若くて、母の面倒も見てくれる。「お前はもう歳だし、母も満足してないんだ。「これが一番いい解決策なんだよ。」 まるで私が換えの効く道具であるかのような言い方だった三「用済み」という言葉が、こういう意味だったのかと、ようやく理解した三

その夜、眠れずにいた私は、リビングから聞こえてくる達やみさきの会話に、耳を済ませた三夫はすでに寝室に戻り、若い二人だけが残っていた三「ねえ、おばあちゃんが亡くなったら、この家って誰のものになるの? 」 みさきの声が、ドア越しに聞こえてくる三「俺が相続するつもりだよ。」 達が当然のように答える三「じゃあ、おばあちゃんの介護、私が頑張る価値あるわね。」 みさきの声に、計算された冷たさが滲んでいる三「お母さんを追い出せば、この家は私たちのものじゃない私は広いし、立地もいいし、将来的に売ることもできるし。」 達が笑いながら言う三「そういうこと三母さんには悪いけど、用はないんだよ。「邪魔だから、早く出て行って欲しいよね。」 「そうよね。「おばあちゃんの介護を引き受けたのも、全部計画通りってわけ。」 お母さんを追い出して、おばあちゃんの介護は私がやって、遺産も家も全部私たちのもの——みさきの声が誇らしげに響く三「父さんも、母さんがいなくなれば楽になるって言ってたよ。「母さん、最近文句ばっかりだし、離婚届け、すぐにサインしてくれるといいけど。」 全て計画だったのだ三数日前の夕食での非難も、今日の離婚届けも、全ては綿密に計算されていた三七年間の介護も、家族としての絆も、全ては家と遺産のための演技だった三私の手は、怒りで震えた三ドアの向こうで聞こえる冷酷な会話に、深い絶望と怒りが込み上げてくる三自分が産んだ息子が、こんな冷たい人間になっていたなんて三

翌朝、私は義母の部屋を訪れた三七年間毎日欠かさず世話をしてきた義母に、最後の確認をしたかった三もしかしたら、義母だけは私の味方でいてくれるかもしれない——そんな、かすかな期待を抱いて三「お母さん、私——」 言葉を続けようとした私を、義母が遮る三「さち子さん、あなたにはもう頼みません。」 冷たい声だった三その瞬間、最後の希望が崩れ去っていくのを感じた三「え、みさきさんの方が優しくて丁寧です。「あなたはもう結構です。」 七年間、朝五時に起きて着替えを手伝い、食事を口に運び、入浴を介助してきた日々三その全てが、たった一言で否定されていく三「それに、離婚するなら早くこの家から出て行ってください。「みさきさんの邪魔になりますから。」 義母の無表情な顔が、私の心を完全に砕いた三毎日介護してきた義母からの言葉三ただ、心が完全に折れる音だけが聞こえたように感じた三昨夜聞いた会話が、脳裏に蘇る三全ては計算だった三息子夫婦だけでなく、夫も、そして義母さえも、私を利用していただけだった三

自室に戻った私は、鏡の前に座った三そこに映る自分の顔は、疲れ果てて、まるで別人のようだった三今まで私が注いできた愛情も、時間も、労力も、全て無駄だったのか——心の中で問いかける三鏡の中の自分を見つめながら、真実に気づいていった三「家族のため」だと思って続けてきた献身は、ただ「労働力」として、「便利な道具」として使われていただけだった三「もう、我慢する必要はないわ。」 鏡に映る自分の表情が、絶望から決意へ、そして冷徹な決断へと変わっていくのが分かった三私は、覚悟を決めた三お望み通り、嫁も、介護も、全てやめる三もう迷いはない三三十五年間の結婚生活、七年間の献身的な介護三その全てに終止符を打つ時が来たのだ三夫が「嫁をやめろ」と言った三息子が「邪魔だ」と言った三みさきが「用済みだ」と言った三義母が「もう結構です」と言った三ならば、その言葉通りにしてあげましょう三あなたたちが望んだ通りに三そして、その結果がどうなるのか、しっかりと味わってもらいましょう三夜の闇の中、私は一人、新しい未来への第一歩を踏み出す準備を始めた三

翌朝、目が覚めると、不思議なほど心が落ち着いていた三昨夜の決意が、私の中で確かな力に変わっていた三感情的になっては負ける三冷静に考えましょう——心の中で呟きながら、私はメモ帳と電卓を取り出した三まずは、自分の立場を正確に把握する必要がある三私の立場——嫁として三十五年、義母の介護七年三メモに書き出していくと、自分が積み重ねてきたものの大きさが見えてくる三スーパー勤続二十八年、退職金と貯金は約千二百万円三電卓を叩きながら、私は自分の経済力を確認していった三七年間休まず働き続けてきた結果が、ここにある三夫の収入、この家のローン、義母の年金、介護保険——一つずつ、冷静に現状を把握していった三数字を見つめながら、私は気づく三私は、決して無力ではない三長年働き続けてきた実績と、それに見合う経済力がある三メモ帳には、次々と数字と事実が書き込まれていった三書類を整理していると、ある事実に気づいた三「そうだ、この家のローン、私も連帯保証人になっている。」 古い契約書を見つめながら、重要な事実が浮かび上がってくる三十年前にこの家を購入した時、私も連帯保証人として署名していたのだ三さらに書類を探していくと、介護保険の記録が出てきた三お母さんの介護三私が七年間、主介護者として記録されている三公的な記録として、私の献身が証明されている三週七日、一日平均八時間の介護三全てが、きちんと記録されていた三そして、引き出しの奥から、古い封筒を見つける三これは——お母さんの遺言書の下書き三手に取って開いてみると、義母の筆跡で書かれた文字が目に入った三「介護してくれた人に感謝する」と書いてある三数年前、義母がまだ元気だった頃に書いたものでしょう三私には、まだ使えるカードがあった三書類を手に持ちながら、私の表情に希望の光が浮かぶ三

その後、私はスーパーの店長に会いに行った三「さち子さん、二十八年間お疲れ様でした。「退職金は規定通り、全額をお支払いします。」 店長は温かい笑顔でそう言ってくれた三「それに、いつでも戻ってきてください。「あなたは貴重な人材です。」 店長の言葉が心に沁みていく三家族からは「用済み」と言われても、ここには私を必要としてくれる人がいる三その後、私は弁護士事務所を訪れた三「介護の実績があれば、遺産相続で有利になる可能性があります。」 弁護士は、私が持参した書類を見ながら説明してくれた三「七年間、主介護者として記録されている——これは非常に重要な証拠です。」 「それに、離婚するなら、財産分与もきちんと請求できます。「連帯保証人として、家のローンを一緒に返済してきたわけですから、当然の権利ですよ。」 弁護士の的確なアドバイスが、私の決意をさらに固めていく三感情的にならず、冷静に法的な手続きを進めること三さち子さんには、正当な権利があります三私には、私を応援してくれる人がいた三一人ではない三そう思えることが、これほど心強いとは思わなかった三

家に戻った私は、全ての情報を整理して、最終的な計画を立てた三お望み通り、嫁をやめます三そして、介護もやめます——心の中で静かに宣言した三あなたたちが困り果てた時、私は絶対に助けない三夫が「嫁をやめろ」と言ったならば、その通りにするだけだ三息子が「邪魔だ」と言ったならば、邪魔にならないよう、この家を出ていく三みさきが「用済みだ」と言ったならば、用がなくなった人間として、何も手伝わない三あなたたちの言葉を、そのまま返してあげる三メモ帳に、具体的な行動計画を書き出していく三離婚届のサイン、荷物の整理、新しい住居の確保、財産分与の請求三一つずつ、順序立てて進めていく三これは復讐ではない三正当な権利の行使だ三七年間の介護実績、二十八年間の勤労実績、連帯保証人としての権利三全てが、私の正当性を証明している三鏡を見ると、そこにはするどく冷静な、决意に満ちた自分がいた三もう迷いはない三明日から、私の反撃が始まる三あなたたちは、七年間私が担ってきた介護の重さを、これから思い知ることになるでしょう三「用済み」と言われた女性が、どれほど重要な存在だったのか、それを身を持って体験してもらいます三窓の外には、新しい朝の光が差し込んでいた三次の行動への期待感が、胸の中で静かに膨らんでいった三ついに、反撃が始まるのだ三

翌朝、私は家族全員をダイニングに集めた三「皆さん、お集まりいただき、ありがとうございます。」 穏やかな声で、私は切り出す三「なんだ、朝から忙しいんだが。」 夫のマサルが不機嫌に言う三「みんなを集めて、何のようだよ。」 達もみさきも、いぶかしげな表情で私を見る三私は、テーブルの上に離婚届けを置いた三「こちらに、サインしました。」 その瞬間、ダイニングに緊張が走る三三人の表情が、一斉に変わった三「え——」 達とみさきが、驚いた表情で顔を見合わせる三「そして、本日を持ちまして、お母さんの介護も終了させていただきます。」 静かに、しかし断固とした態度で宣言する三「はあ? 何を言って——」 マサルが立ち上がろうとするが、私は続けた三「あなたが言ったでしょ三嫁をやめろと三お望み通り、嫁をやめます三お母さんともう他人ですから、介護の義務はありません。」 家族の驚愕の表情が、心地よく感じられる三私は、すでに荷物をまとめてあった三玄関には、二つのスーツケースが置かれている三「ちょ、ちょっと待ってください。「介護は私がやるって言いましたけど——」 みさきが慌てて声を上げる三顔色が、みるみる青くなっていく三「そうでしたね三では、頑張ってください。」 冷静に、笑顔で答える三「母さん、冗談だろ?

本気じゃないよ。」 達が信じられないという表情で言う三「冗談ではありません三あなたたちも言いましたよね三私は邪魔だと。」 私は続けて言った三「私はもう外の人ですから、出ていきます。」 スーツケースを持って、玄関に向かう三「待て。「勝手なことをするな。」 マサルが叫ぶが、止めることはできない三「それと、この家のローン、私も連帯保証人なので、私の持ち分の財産分与を請求させていただきます三弁護士から連絡が行きますので。」 「な、なんだと? そんな権利が——」 「私も連帯保証人として、一緒にローンを返済してきました三当然の権利です三では、お元気で。」 私は一度も振り返らずに、その家を出た三長い間一緒に暮らした家三七年間義母の介護をした家三でもう、私の居場所ではない三新しい朝の空気が、とても爽やかに感じられた三背中越しに聞こえる家族の慌てふためく声が、遠くなっていく三

家を出てから一週間後、友人を通じてあの家の様子が伝わってきた三みさきが疲れ果てた表情でこう漏らしているそうだ三「ねえ、おばあちゃんの介護、こんなに大変だったの? 朝五時に起きて着替えを手伝い、食事を作り、食事介助する——それだけで二時間以上かかります。」 おむつ交換、服薬管理——終わりのない作業に、みさきは悲鳴をあげているそうだ三「朝から晩まで、俺仕事行けないよ。「会社から遅刻の連絡だし。」 達も、介護の手伝いをして、その大変さに気づいたようだ三「みさき、お前がやるって言ったんだろ三しっかりしろ。」 夫の怒鳴り声が、家中に響いているそうだ三「無理です。「私だって自分の時間が欲しいんです。「こんなの聞いてません。」 みさきの悲鳴が聞こえてくる三「さち子さんは、もっと上手だった。」 「さち子さん——」 義母までもが、私の名前を呼んでいるそうだ三彼らは初めて、私が七年間してきたことの重みを知ったのだ三週の七日、休みなし三その一つ一つの日が、どれほど大変だったか三

一ヶ月後、状況はさらに悪化していった三「もう限界三離婚します。」 みさきが荷物をまとめて叫んだそうだ三「待てよ。「みさき、約束したじゃないか。」 達が引き止めようとするが、みさきの決意は硬かったようだ三「こんな家、出ていきます。「おばあちゃんの介護なんて、もう知りません。「家も遺産も、もういりません。」 みさきは本当に家を出ていった三計略して手に入れるはずだった遺産三もう手に入らない三介護の大変さに、完全に心が折れてしまったのだ三「お前の嫁、どうにかしろ。」 マサルが達に怒鳴る三「父さんこそ、母さんを追い出したからこうなったんだろ三全部父さんのせいだ。」 達が父親に反論する三家族の中で、激しい言い争いが繰り返されているそうだ三家の中は荒れ果て、洗濯物が山積み、食事も外食やコンビニ弁当ばかり三「さち子さん——」 義母が、弱々しく私の名前を呼び続けているという話も聞いた三家族は、バラバラになっていった三

家を出てから三ヶ月後、私の携帯に電話がかかってきた三夫のマサルからだ三「さち子——」 「頼む、戻ってきてくれ。」 電話の向こうで、マサルの声が震えている三あの傲慢だった夫が、こんな弱音を出すなんて三「お断りします。」 冷静に、そう答えた三「母の介護、誰もできないんだ。「みさきも出ていったし、達も仕事で手いっぱいで——母が、衰弱していくんだ。」 マサルの声は、必死さで満ちている三「それは、大変ですね三でも、私はもう嫁ではありません。」 「金なら払う三月に十万でも、三十万でも——お願いだから——」 お金で解決しようとする三相変わらずだ三「あなたは私に言いましたね三お前は嫁をやめろと三過去の言葉を、そのまま返してあげます三あなたは、もう私の夫ではありません。」 電話の向こうで、マサルが絶句するのが伝わってきた三因果応報三これがあの言葉への答えだ三「頼む——「本当に困ってるんだ——」 「それは、お気の毒ですね三では、私は電話を切りました。」 私は電話を切った三

そして半年後、私が新しいアパートの近くを歩いていると、見覚えのある姿が目に入った三マサルだ三やつれた表情で、髪も白くなり、まるで別人のようになって、私の前に立っている三「頼む——「もう一度だけ、チャンスをくれ。」 そして、マサルは土下座をした三道行く人が振り返るほど、深い土下座だ三かつて「嫁をやめろ」と言った夫が、地面に頭をつけている三「起きてください三もう、そんなことはありませんよ。」 冷静に、淡々と言う三「母が——「母が入院して、もう限界なんだ——「施設に入れるのにも、月三十万かかって——」 マサルの声は、涙声になっていった三「それは、ご家族で対処することですね三私は、言われた言葉を思い出しながら言いました三私はもう、外の人です三あなたが、それを望んだのですから。」 「すまなかった——「本当に、すまなかった——「お前の七年間が——「どんなに大変だったか——」 マサルが、謝罪の言葉を口にする三「謝罪は、受け取ります三でも、やり直すつもりはありません。」 私は凛とした姿勢で立ったまま、言葉を続けた三「あなたたちは、七年間の私の献身を、邪魔者扱いしました三その報いを、しっかりと受けてください三これが、私の最後の言葉です。」 土下座したままのマサルを残して、私はその場を去った三振り返ることもなく三立場は、完全に逆転した三「嫁をやめろ」と言った夫が、土下座で懇願する三「邪魔だ」と言った息子が、家族崩壊に苦しむ三「用済み」と言ったみさきが、逃げ出す三全ての言葉が、そのまま彼らに帰っていった三青空の下、私は新しい道を歩き始めている三もう誰にも、縛られることはない三自由な風が、頬を撫でていく三

離婚し、家を出てから一年三時間はあっという間に過ぎ、新しい生活は想像以上に充実している三小さなワンルームのアパート三朝目覚めると、まず窓を開ける三新鮮な空気が部屋に流れ込んでくる瞬間が、とても好きだ三カーテンが風に揺れる様子を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを入れる朝三この何気ない時間が、どれほど贅沢か三今日は何をしようかしら——スケジュール帳を開きながら、一日の計画を立てる三今日は午前中に図書館へ行って、午後は久しぶりに美術館へ行こう三夕方には友人とカフェで待ち合わせ——全て、自分で決めた予定だ三誰かに「これをやれ、あれをやれ」と言われることはない三スーパーには、週三日のパートとして復帰した三店長は温かく迎えてくれ、新しい若い仲間たちとも楽しく働いている三「さち子さん、いつも笑顔ですね三なんだか、若返ったみたいです。」 同僚にそう言われて、気づいた三以前の私は、いつも疲れた顔をしていたのだと三今は、心から笑える三仕事が終わって帰る道すがら、好きなパン屋によって明日の朝食を買う三花屋で、季節の花を一輪買って帰る三そんな小さな自由が、こんなにも幸せなのだ三週末には、同じように一人暮らしを楽しむ友人たちと集まる三お互いの近況を話し、笑い合う時間三美味しいランチを食べながら、映画の話や旅行の計画、読書の話に花が咲く三誰かのために、介護のために、自分の時間を諦める必要はない三財産分与で得たお金は、将来のために大切に管理している三贅沢はしないが、時々自分へのご褒美として、好きな本や洋服を買う三部屋に飾った花を見るたびに、自由の尊さを実感する三明るい自然光に包まれた部屋で、お気に入りの音楽を聞きながら読書する三そんな穏やかな時間が、私にはある三これが、本当の幸せというものなのだ三

元家族のその後にいては、もう私の人生には関係ない三時々友人から近況を聞くこともあるが、それは遠い世界の出来事のように感じられる三彼らが選んだ道の結果だ三私はもう、その責任を追う必要はない三この一年間で、私は多くのことを学んだ三介護という問題について、深く考えるようになったのだ三私だけでなく、多くの人が同じように苦しんでいる現実三それを変えていかなければならないと、強く思う三介護は、決して一人に押し付けるものではない三「家族だから当然」「嫁だから当然」——そんな考え方が、どれほど多くの人を苦しめているか三日本中に、私と同じように七年、十年と介護を続けて、感謝の言葉一つもらえない人が、どれだけいるだろうか三介護は、家族全員で分担し、必要なら社会の支援を受けるべきなのだ三一人で抱え込むことが美徳なのではない三助けを求めることは、恥ずかしいことではない三感謝の言葉がどれほど大切か、身を持って知った三たった一言の「ありがとう」——でも、七年間で一度もなかった三その辛さを、誰かに味わせたくはない三理不尽に屈してはいけない三自分の人生は、自分で守るべきだ三

我慢することも大切だと教えられてきたが、我慢にも限界がある三限界を超えた我慢は、自分自身を壊すだけだ三心が壊れてしまっては、誰のためにもならない三正当な権利を主張することは、決して悪いことではない三むしろ、自分を大切にすることなのだ三私は、この年になってようやくそれに気づいた三でも、遅すぎることはなかった三もしあなたも、理不尽な扱いを受けているなら——一人で我慢し続ける必要はない三声を上げてください三助けを求めてください三あなたには、自分を守る権利がある三そして、幸せになる権利があるのだ三我慢し続けることが正しいわけではない三因果応報は、必ず訪れる三正義は、時間がかかっても必ず実現される三悪いことをした人には、必ず報いが来る三私が、それを証明した三長く苦しい思いをたくさんしたが、確実に幸せは訪れた三私は、反撃する勇気を持った三十五年間の結婚生活、七年間の献身を手放す決断——それは、簡単ではなかった三夜眠れない日もあった三でも、その決断が、私に自由と幸せをもたらしてくれたのだ三強く生きることに、遠慮はいらない三あなたの人生は、あなたのものだ三誰かのために犠牲になる必要はない三自分を大切にすることから始めてください三それは、自分勝手なことではなく、自分を守るために必要なことなのだ三

今、私は本当に自由で、毎日が幸せだ三窓辺で温かいお茶を飲みながら、心からそう思う三外を見れば、青空が広がっている三七年間の介護は、決して無駄ではなかった三私は、自分の強さを知ることができたのだから三苦しい経験が、今の自由の尊さを教えてくれた三理不尽な扱いが、自分を守ることの大切さを教えてくれたのだ三あの経験がなければ、今の幸せの意味も分からなかっただろう三これからの、新しい人生三何歳からでも、人生はやり直せる三遅すぎることなど、ない三あなたも、どうか自分を大切にしてください三強く、自由に生きてください三これが、私から皆さんへの、心からのメッセージだ三