朝の温泉街の小道で、いきなり柄の悪い男に絡まれた。「俺らを誰だと思ってるんだ?青龍会の組の者だ。100万よこせ。お前の会社をめちゃくちゃに潰されたくなければな」。浴衣に作務衣、下駄履きの俺と妻のれ子は、逃げることもできない。妻が袖を引っ張り「逃げましょう」と囁くが、俺は妙に落ち着いていた。男が腕をまくり、中途半端な刺青を見せてきた。俺は思わず笑ってしまった。建設業を営む俺は、訳ありの人間をた…

朝の温泉街の小道で、いきなり柄の悪い男に絡まれた。「俺らを誰だと思ってるんだ?青龍会の組の者だ。100万よこせ。お前の会社をめちゃくちゃに潰されたくなければな」。浴衣に作務衣、下駄履きの俺と妻のれ子は、逃げることもできない。妻が袖を引っ張り「逃げましょう」と囁くが、俺は妙に落ち着いていた。男が腕をまくり、中途半端な刺青を見せてきた。俺は思わず笑ってしまった。建設業を営む俺は、訳ありの人間をた...

「おい、さっきから黙って聞いてりゃいい気になりやがって。俺らを誰だと思ってるんだ?青龍会の組の者だ。ふざけすぎてるから100万よこせ。お前、会社の社長なんだろ?お前の会社をめちゃくちゃに潰されたくなければな」

朝の温泉街の小道で、いきなり柄の悪い男に絡まれた。俺は目の前の背の低い男を、身長差ゆえに見下ろす形になっていた。

「10万からいきなり100万円に値上げですか?こいつ何言ってんだ?」

「綺麗組だぞ。知らねえのか?ヤクザだぞ。組長呼んで片付けてもらうからな」

「それは脅しですか?」

「脅しに決まってるだろうが。これが見えねえのかよ」

そう言って男が腕をまくり、中途半端な刺青を見せてきた。俺は思わず声を立てて笑ってしまった。

「お願い、かめさん。逃げましょう」

妻のれ子が浴衣の袖を引っ張る。だが、この格好では逃げ切れない。俺もれ子も、温泉旅館の浴衣に作務衣を羽織り、下駄履きという格好だ。いくら走ってもすぐに捕まるに決まっている。

「大丈夫だよ」

「どこからそんな自信が出てくるのよ」

「今日は大安吉日で一粒万倍日で天赦日だしな」

「何それ?」

れ子が吹き出して、俺の背中をパシンと叩いた。そんなやりとりをしていると、痺れを切らした男たちが声を上げる。

「おい、お楽しみのところ悪いんだけどよ。俺らは金が欲しいんだよ」

背の低い男が腕時計のカフスボタンを開けて腕をまくった。そこには、確かに何かの刺青が彫ってある。だが、それがまた、見ていられないほど中途半端な代物だった。海外の連中のように手首までびっしりと彫り上げるでもなく、施している途中なのか、それとも途中でやめてしまったのか、中途半端に終わっている残念な刺青だ。

「なるほど。あの筋の方ですか。働き口をお探しなんですね」

「おっさん、随分と肝が座ってるじゃねえか。これが何か分かってるんだろうな」

「ええ、よく分かってますよ。仕事柄、そういう男性も相手にしますから。腕を見せられたところで、何も感じませんよ」

俺は建設業を営んでいる。様々な事情を抱えた人たちが、働いて金を稼ぐためにうちの会社にやってくる。ワンルームの社員寮完備、朝と夕方の食事付きで、月五万円だ。背中や腕にカラフルな刺青を背負った者もいれば、耳にいくつも輪っかをつけた者もいる。社員寮で喧嘩を起こして、仲裁に入ることも珍しくない。

「うちの職場なら、希望者にはワンルームの社員寮付き、朝と夕食付きで暮らしやすいと思いますよ。資格がなければ、年齢問わず21万円から。そこから食費と寮費で月5万円引かれますけどね」

「おお、条件は悪くねえな」

「違う違う、そうじゃねえ。俺らは働かずに金が欲しいんだよ。今ここでお前が10万円出せば済む話なんだよ」

「ありませんよ。見れば分かるでしょう」

俺は浴衣姿に手ぶらで、小銭すら持っていない。れ子も同じだ。義兄が温泉宿の支払いを全て済ませてくれていて、俺たちが土産物を買おうとすると、宿の者が「お代は結構です」と断ってしまうのだ。

「金がなさそうな貧乏面してるけど、お前がここの温泉宿に泊まれてるってことは、それなりの金持ちだろ?」

「分かっててここに来てるんでしょ?」

「ああ?ババア、全部聞こえてるぞ」

「誰がババアだって?」

れ子の目が据わった。れ子はエステやヨガに余念がなく、見た目は三十代前半にしか見えない。つまり「ババア」などと呼ぶのは、誰であれ許されないのだ。うちの職場の若い奴らにも、まず最初に教え込んでいることだ。

「れ子さん、落ち着いて」

俺はれ子が一歩引くのを見届けてから、男たちに向き直った。

「すみませんが、相手を間違えましたね。私と妻は会いにく持ち合わせがありません。他の方を当たっていただけませんか?」

「おい、てめえ、ふざけてんのか?この温泉街には金持ちしか来ねえんだよ。しかも、ほとんど貸し切り客だ。お前らしかここにはいねえって分かってんだよ」

「ほう。では、過去にも同じような手口で金を巻き上げたことがあるんですね」

「結構な成金が多くてな。ちょっと脅しただけで10万や20万、ぽんとくれたよ」

「残念ですね。今日は日が悪かったと思って諦めてください」

「おい、さっきから黙って聞いてりゃいい気になりやがって。俺らを誰だと思ってるんだ。青龍会の組の者だ。ふざけすぎてるから100万よこせ。お前の会社、めちゃくちゃに潰されたくなければな、100万だぞ」

「10万円を100万円に値上げですか?10万円稼ぐのも結構時間が必要なんですよ。1日7時間40分働いて、3週間の労働が必要になります」

「こいつ何言ってんだ?綺麗組だぞ。知らねえのか?ヤクザだぞ。組長を呼んで片付けてやるからな」

「それは脅しですか?」

「脅しに決まってるだろうが。これが見えねえのかよ」

再び男が中途半端な刺青を見せてくる。俺はもう一度、声を立てて笑うしかなかった。

「かめさん、ダメだからね」

「ダメも何もないでしょう。相手は組長を呼ぶと言ってるんだから」

「さっきから何をごちゃごちゃ言ってんだ?金を出すのか、出さねえのか、どっちなんだよ」

「ありませんと、何度も言いましたよ」

「じゃあ、そのパチモンのサングラスよこせ。成功品のパチモンなら売り飛ばせるし、それなりの金になる」

俺は揉み合いの喧嘩は苦手だ。うまく避けようとしたが、二人がかりで絡まれて、サングラスをもぎ取られてしまった。

「あっ、眩しい」

サングラスを奪った男が、俺の顔を見て小さく叫んだ。

「俺は太陽の光が苦手なんだよ」

「おい、サトシ。こいつ、ただもんじゃねえかもしれねえ」

男が相方に小声で囁く。だが、いわゆる「丸聞こえ」だ。

「聞こえてますよ。どう見ても普通の会社経営者ですよ」

俺が極めて優しい声でそう言えば言うほど、二人の顔の恐怖が増していく。

「ああ、でも、確認しておこうか。君たち、『綺麗組』って言ったな。その組長を、連れて来られるのか?」

「あ、あの……」

男たちが口をパクパクさせながら俺を指さす。

「俺は、お前ら二人が『うちの組員』だってことを知らないんだよな。最近、うちの組の名前を語って金を巻き上げている奴がいると聞いてはいたんだが」

「あ、すすすみません!」

「組長を呼んでくれる前に言っておくが、あんたたちの前にいるのは、綺麗組の組長、藤道かめ、本人なんだけどな」

二人は声を震わせると同時に、腰を抜かしたようだった。

「もしかして、本物のヤクザを見たことなかったのか?ああ、こっちを見てしまったか。じゃあ、特別にしっかり見てもらおうか」

二人が俺のサングラスを取り外そうとした時、俺の浴衣の合わせがはだけて、胸元の刺青が見えてしまったようだ。仕方なく、俺は作務衣を脱ぎ、浴衣の袖を抜いて上半身を露わにした。

「ええか、お前ら。刺青はな、ここまで気合を入れてやらなきゃいけないんだよ。中途半端に彫ったまま、ヤクザ語るなんて、困るんだよ」

俺は低く響く声で一喝し、二人を睨みつけた。人相が悪いのでサングラスをかけていたのに、外されてしまっては、睨みで効かせるしかない。

「すみません!あの、その、嘘ついてました!綺麗組のヤクザだって!」

「謝ってもらっても困るなあ。暴力団法制で通っているうちの名前を、泥まみれにされたんだからな」

綺麗組という名前は、先代の組長が自分の妻の名前である「綺子」から一文字取ってつけたものだ。どんな時でも「綺麗」であることを極め、礼を尽くすことを信念とする。綺麗な場所は神聖な場所だと、先代は常日頃から言っていた。先代はその教えに従って娘を「れ子」と名付けて、蝶よ花よと育ててきた。

俺は元々、綺麗組の構成員だった。先代の若頭を務めており、その後、れ子に認められて婿入りしたのだ。だから、この二人のようにうちの組の名前を語って悪事を働くのは、れ子や彼女の一族を侮辱したことにもなる。

「今日はこの辺で勘弁してやる……と言いたいところだが、前科があるようだしな」

「うっ、勘弁してください!」

「悪いが、そこで勘弁できないのがこの世界なんだよ。適当な刺青で満足しているような奴は、元々許してないしな」

「すみません!すみません!」

「ここな、人里離れすぎてて警察も来ないんだよ。それに、このぬる間温泉郷は綺麗組の島だしな」

この温泉郷は、VIPや政府要人が会談のために訪れる場所だ。綺麗組が見えないところで警備を固めているからこそ、成り立っている聖地なのである。俺のような「背負い物」をしている人間が、のんびりと温泉を楽しみたいと思った時にも使える場所でもある。

「あの山の中腹にいい場所があるんだよ。うちの土木部門が開発中でな。埋め場所に最適だって若いのが言ってたな」

俺は、この場所から見えるおにぎりのような山を指さした。

「冗談が過ぎますっす!」

「私の旦那様は、冗談で物事を片付ける人じゃないのよ」

「円漁船の作業員が欲しいって言ってたな。もたもたしてると、釣り餌としてお前らを使いそうな奴らしかいないけどな」

「がっ、勘弁してください!」

二人の男の目の光は、もう消えていた。顔面蒼白を通り越して、視線が泳いでいる。

「一般人から金を巻き上げたのもそうだが、俺の嫁を『ババア』と呼んだことも許せないな」

俺は二人を下から上へと睨みつけ、どんな制裁を加えるか考えた。すると、れ子が口を挟んだ。

「だめよ、警察のお世話になるようなことは。あなた、ついこの前、出てきたばかりでしょ」

「直接手を下したりしませんよ」

この会話だけで、二人の男は何を意味するのか理解したらしい。ヒクつく顔で抱き合い、ガタガタと震え始めた。冷や汗どころか、歯の根が噛み合わず、ガチガチと音を立てている。

俺がスマホを作務衣の裾から取り出してタップしようとすると、ヤクザもどきの目がぐわっと見開かれ、何かを悟ったようだった。俺は声を出して笑った。

「もう十分、懲りたようですね」

「あ、あわあ……」

言葉にならない声を漏らす二人に、俺は言った。

「ヤクザじゃないのに、ヤクザの名前を語ると、もっとひどい目に遭いますよ。今回はこのくらいで許してやるが、あんたたちの身柄は、預かった方が良さそうだな。埋めたり、海で釣り餌にしたりはしないから安心しろ。うちの作業員として働いてもらうだけだから」

そうしてスマホで部下を呼ぶと、間もなく、真っ黒な大型のワゴン車がやってきた。

「この者たち、根性を叩き直してやってくれ。うちの名前を使って強請ってたみたいだからな」

車が去っていくのを見届けて、俺はれ子と二人で大笑いした。

「私も結構な名演技だったでしょう」

「やめてくれよ、れ子さん。俺は全く心配してなかったですからね」

綺麗組は、暴力や権力に頼らず、健全な仕事をしている。本来なら、義兄が組を継ぐはずだった。しかし、義兄は掟を破って警察の世話になるようなことをし、結婚するはずだった女性との縁談も破談になった。義父は義兄を勘当して、グループの不動産部門を任せたのだ。そして、娘のれ子の婿である俺に、組の若頭の役を担わせた。

その後、義兄の元婚約者が妊娠していることが分かり、その子が男児だと分かった。勘当された人間の子供だとしても、生まれてきた子は綺麗組組長の直系だ。身の安全を守るために、その子を引き取って育てることになった。

そして、その争いを避けるために、俺たち夫婦は子供を持つことができなくなった。そんなしがらみから抜け出せず、俺たちは二十年もの歳月を過ごしてきたのだ。

「まあ、子供のことは残念だが、今となってはれ子と仲睦まじく二十年も歩んでこれたことに感謝しているよ」

れ子は、俺がやんちゃをしていた学生の頃からずっとそばにいてくれた。組に入ることを推薦してくれたのも彼女だった。俺はれ子をこの世界から外に出してやりたくて、結婚を申し込んだのだ。

「しかし、結果的に、義兄に逃げられて、こうして組に残ることになったなあ」

「れ子さん、綺麗組、解散しようか?」

「それもいいかもしれないわね。先代も空に行っちゃったし、息子も大きくなったしね。今がタイミングかもしれないわ」

「かめさん、背負った刺青は落とせないけど、いいの?」

「子供がいるわけでもないし、服を着ていれば普通のおっさんだよ。仕事に関する資格も持ってるんだ。細々と、まだまだ仕事はできるはずだよ」

「じゃあ、そうしましょうか」

俺たちは二人で、またくすくすと笑った。変わらない朝の光の中、これからの新しい時間を、二人で歩んでいく決意を固めながら、俺たちは再び温泉宿へと戻っていった。

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