「おっさん、僕らにコーヒー買ってきてくれない?」
それが、十年ぶりに帰ってきた俺を待ち受けていた言葉だった。長い年月を海外で過ごし、ようやく本社に帰還した俺だったが、俺を知らない若手社員はある勘違いをしながら言い放ったのだった。
「わかりました」
命令に従って素直にコーヒーを買いに行く俺。そして自販機の前で俺は運命の出会いをする。
「ここで何をしているんですか?」
突然こちらに話しかけてきたのはスーツ姿の美女だった。俺を見下す若手社員に向かって彼女は言い放った。
「知らないんですか? その方がどれだけ会社にとって重要か」
え、俺を馬鹿にした若手社員はその後、自分の非を深く後悔することになる。
俺の名前は川崎智也。世界に支社を持つ大手企業、サテクノロジーに勤める三十六歳のサラリーマンだ。ああ、白がずっと大忙しだったもんな。エレベーターの鏡に映る顔を見つめながら小さく呟く。実はこのサテクノロジー本社を訪れるのは実に十年ぶりのこと。十年前、ある日突然海外支社への移動を命じられて、この度ようやく念願の本社復帰が叶ったのだった。
ああ、ここだ。懐かしいな。到着したのはビルの十五階、営業部フロア。足を踏み入れると懐かしくも新しい光景が広がっていた。オフィス内の配置はほとんど昔のままだったが、見慣れた顔ぶれはほとんどなく、この十年間で入社したらしい若い社員たちの姿が集中する。
「あれ? 誰か来たぞ」
「社員証を下げてる中途かな? この半端な時期に」
は、まあそうなるよな。いきなり注目を浴びて内心苦虫を噛み潰す俺。すると一際目を引く若者が立ち上がった。
「やあ、初めまして」
高級ブランドらしいスーツに身を包み、自信に満ちた表情でさっと歩いてくる。身長百八十センチはあろうかという長身に、きっちりとセットされた黒髪、整った顔立ち。他の社員たちの視線も彼に釘付けになっているのが見て取れた。
「そういえば近々中途採用の社員が加わるって噂が。あなたですか?」
「え、えっと、なんだよ。はっきりしないな。まあいいや。僕は鈴木。第三営業チームのリーダーです」
鈴木と名乗った彼はふと鼻を鳴らして腕を組んだ。見たところ年齢は二十代後半。その年でチームリーダーと言えばこの会社では出世だ。見た目にも有能そうなオーラが溢れている。
「ところでさ、早速で悪いけど僕らにコーヒー買ってきてくれない? おっさん」
え? フロア中の視線が俺に集まる。
「あの、これも新入りの仕事だよねえ」
同意を求めるように周囲に目配せをする鈴木君。他の社員たちは困ったように顔を見合わせた。
まあいいか。俺は心の中でため息をついて彼に向かって頭を下げた。
「分かりました。では行ってまいります」
「そうそう。それでいいんだよ」
にやりと笑って頷く鈴木君に見送られ、俺は廊下にある自販機へと向かうのだった。
よっと、これくらいで足りるかな。全員分ともなるとコーヒーを買うのも一苦労だ。腕いっぱいに冷たいコーヒーの缶を抱えてオフィスに戻ろうと立ち上がった。その時だった。
「ここで何をしているんですか?」
え? 凛とした声に横を向くと、すぐそばにはいつの間にか一人の女性が立っていた。まず目を引かれるのはその端正な顔立ち。タイトなスーツを着こなすスタイルと相まってまるでモデルのようだ。とても真面目で知的な雰囲気を漂わせているが、その顔に表情はなく、どこか冷たい印象を受けた。
「あなたは川崎さんですね。この度本社勤務となられた」
「あ、はい」
俺の社員証をちらっと一瞥して事務的に確認する美女。そして再び無表情で繰り返した。
「ここで一体何を?」
それが俺が事情を説明しようとしたその時、鋭い声が廊下に響き渡った。
「おい、そこの人。コーヒー買うのに何分かかってるんだよ。まさか無能なのか?」
なかなか帰ってこない俺にしびれを切らした鈴木君だった。鈴木君はずんずんと大股でこちらに向かってくると、突然その足をぴたりと止めた。
「あ、佐々井さん。お疲れ様です」
佐々井さんと呼ばれた美女は表情を崩すことなく淡々とした挨拶を返した。驚いたように目を見開く鈴木君。その頬はよく見るとほんのり赤い。もしかして彼は佐々井さんに思いを寄せているのか。
「佐々井さん、ちょうどいいところに。今、中途採用のおっさんに上下関係を教えていたところです。こういうのは最初が肝心ですからね」
いわゆるドヤ顔をして鈴木君はなおも俺の肩を強く叩く。すると初めて佐々井さんの表情がわずかに変化した。
「中途採用?」
「はい。見るからに使えなさそうなおっさんですけど、そこは教育する人間の腕次第ですよね。僕の下に配属されたことを彼も感謝すると思いますよ。なんと言っても日本で三本の指に入る私立大学でマネジメントを学んだ僕ですから」
俺の肩をばんばん叩きながら鈴木君の口調はどんどん得意げなものになっていく。まるで自分の有能ぶりをアピールするように。どうやら彼は佐々井さんに思いを寄せているようだ。
「ほら、おっさんも挨拶しろよな。彼女は社長付きの秘書さんだぞ」
え、それはそうだったのか。俺はぐいっと押されるまま佐々井さんに「初めまして」と頭を下げようとした。すると佐々井さんは「いえ、結構です」と俺の前に手のひらをかざして一歩後ろに下がった。
「あなたに頭を下げさせたと知られれば、社長にお叱りを受けます。川崎部長」
「へ」と抜けた声をあげたのは鈴木君だった。そんな彼に佐々井さんは冷え切った声で尋ねた。
「あなたは彼の社員証を見ていないんですか?」
「え? 社員証?」
確かに書いてあります。営業部長、川崎と。何かの冗談だろうという顔で鈴木君が俺の正面に回り込む。そして胸元の社員証を穴が開くほどじっと見つめて、「マジでですか?」と一瞬にして額から血の気が引いていくのが分かった。
「はい、マジです。俺は中途採用の社員ではなく、この度異動になった部長に変わって新たに営業部の部長へ就任した川崎と申します。挨拶をしようとオフィスに顔を出したところ、うっかり中途採用の社員に間違われてしまった」
そう説明すると鈴木君は真っ青な顔でがたがたと全身を震わせた。
「も、申し訳ありません…」
「ちゃんと説明しなかったのも悪かったよ。ごめんね。まあ同じ職場の仲間になるのは変わらないから。これ、挨拶代わりにと思ってどうぞ」
「そ、そんな、受け取れません…それに、多いです…」
「そうは言っても困るんだよな。受け取ってもらわないと。観葉植物の冷たさと重さでそろそろ腕も限界だ」
無理やり押し付けると鈴木君は今にも倒れそうな様子でよろめいた。そんな彼にまるで氷のような視線を向けて、佐々井さんはとどめの言葉を言い放った。
「川崎新部長は、社長が最も期待を寄せる次期社長候補です。ええ、この件は社長にも報告しておきます。それと、私はあなたのことを全く存じ上げていませんので、馴れ馴れしく名前を呼ばないでください」
思わず俺までぞっとするほど淡々とそう告げられて、鈴木君は茫然とした表情でその場に崩れ落ちた。床にがらがらと大量の缶コーヒーが転がり、ものすごい音を立てる。それさえも聞こえないかのように、佐々井さんはすたすたと早足でその場を立ち去っていく。
「ああ、えっと、これからよろしく、鈴木君」
慌てて缶コーヒーを拾い集めると、俺は佐々井さんの後を追いかけた。
「佐々井さん、待って」
いくら俺が呼びかけても、佐々井さんは全く立ち止まる気配がない。仕方なくこちらも速度を上げてエレベーターホールに差しかかったところでやっと追いつくことができた。
「佐々井さんだよね。さっきはありがとう」
「…そうですか」
ようやく彼女の足は立ち止まり、ゆっくりと振り向く。え、その瞬間、俺の中で何かが引っかかった。その端正な顔立ちに改めてよく見れば覚えがあったのだ。
「もしかして、彼女は…カナちゃん?」
とても懐かしいその名前を口に出すけれど、佐々井さんの表情は一切変わらない。むしろさらに冷たさを増したようにさえ見える。
「カナちゃん?」
「あ、ほら、昔、病院で…」
「人違いです」
きっぱりとした口調でばっさり断言される。
「川崎部長とお会いしたのも今日が初めてです。事前に書類で情報は把握していましたが」
「あ、そ、そっか。ごめん。変なことを言って」
それでは、と無表情で一礼すると、佐々井さんはエレベーターのボタンを押す。扉が開くと、彼女は振り返ることなくエレベーターに乗り込み、今度こそ俺の前から去って行ったのだった。
人違いか。また会えたと思ったのに。目の前で閉まる扉を眺めながら、俺の心は二十年以上前の記憶へと引き戻されていた。
あれは小学六年生の夏休み。共働きの両親が忙しかったことで、俺は祖母の家に預けられていた。祖母には持病があり、週に二回バスに乗って町の総合病院に通っていた。
「つまんないな。もう六年生だからちゃんと留守番できるって言ってるのに」
一人にするのが不安だったのか、祖母は決まって俺を病院に連れて行った。とはいえ、祖母の診察を待つ間やることがあるわけじゃない。退屈で退屈で、ある日とうとう我慢できなくなって俺は病院内を探検することにした。
「何か面白いことないかな?」
ぶらぶらと当てもなく歩いて、気づけば俺は入院患者たちの部屋がある塔に入り込んでいた。暗く静まり返った空気にきつい消毒液の匂い。廊下を歩くスタッフたちの表情も張り詰めていて、俺は急に不安が押し寄せてきた。もうすぐ祖母の診察も終わるはずだから戻りたい。だけど戻り方が分からない。どうしよう。思わず泣きそうになって廊下の隅っこにしゃがみ込んだその時だった。
「どうしたのお兄ちゃん?」
え? 頭の上で誰かの声がした。顔をあげると、そこにいたのは小さな女の子だった。髪を同じくらいの長さでツインテールにして、白いワンピースを着ていた。
「どこか痛いの?」
「ううん。別に」
「カナがおまじないしてあげる。痛いの痛いの、とんでけ」
自分をカナと呼んだ女の子は、俺の頭に手のひらを乗せた。そして何度も何度も優しく撫でるように、「痛いの痛いのとんでけ」のおまじないをしてくれた。
「もう大丈夫だから、痛くないよ」
「本当に?」
ぱあっと花が咲くように笑った顔を今でも覚えている。すごく可愛くて、あの時の俺にはまるで天使のように見えた。
「あら、カナちゃん、お友達ができたの?」
「うん」
いつの間にか俺はカナちゃんのお友達になっていたが、たまたま通りかかった看護師さんに聞いて無事に祖母のいる待合室へ戻ることができた。それから俺は二度と、祖母の通院に付き添うことを退屈だと言わなくなった。
「お兄ちゃん、待ち合わせ場所は病院の中心にある中庭だよ」
そこで俺たちは一緒に遊ぶようになったのだ。俺が姿を見せると、カナちゃんは必ず満面の笑顔で手を振ってくれた。実は妹が欲しかった俺は、かくれんぼや鬼ごっこに付き合うのも苦ではなかった。
「ああ、帰りたくないな」
ある日ふと、俺は独り言をこぼした。もうすぐ夏休みが終わる。そうすれば両親と暮らす自宅へ戻ることになるけれど、夜遅くまで誰も帰ってこない家の中はいつも死んだように静まり返って寂しい。両親には言えないけれど、帰りたくない、が俺の本音だった。
「帰るの嫌なの、お兄ちゃん?」
え? 顔をあげると、カナちゃんはこてんと首をかしげていた。
「じゃあ、やだよって言わなきゃ。お兄ちゃんが嫌だってこと、わかんないよ」
彼女の言葉に、俺は雷で打たれたようなショックを受けた。俺が忙しい両親に遠慮して本音を言えないことを見抜かれたような。そんなことを言ってくれたのは、見るからに年下の女の子が初めてだった。
「そうだよね。カナちゃんの言う通りだ」
「カナはね、パパとママに言うよ。寂しい時はぎゅってしてって」
「うん」
その日の夜、俺は電話で初めて両親に自分の思いを伝えた。
「夜はなるべく早く帰ってきてほしい。家に一人でいるのは嫌だよ」
両親は驚いていたものの、「気づかなくてごめん」と謝ってくれた。そして職場に掛け合い、残業を減らせるように調整すると約束してくれた。この出来事がきっかけで俺の考え方も変わった。気づいてもらえるのを待つのではなく、自分から思いを伝える。その大切さに気づいた。時には遠慮せず相手に伝えることが、お互いのためになることを知った。
カナちゃんのおかげだよ。ありがとう。次に会えた時にはそう伝えようと心に決めたけれど、それから二度と、俺がカナちゃんに会うことはなかった。
「ああ、カナちゃんはね、もう来ないのよ」
彼女と顔見知りの看護師さんは、少し寂しそうな表情で教えてくれた。そのまま夏休みは終わり、俺は両親の元に戻って、あれから二十数年、すっかり大人になった。今でも昨日のことのように思い出せる。こちらに向かって手を振る小さな女の子の笑顔。思えばあれが初恋だったのかもしれないな。どこかで元気にしているといいけれど、きっとすごく綺麗な女性になっているだろうな。
カナちゃんのことを胸に秘めて思い出しながら、これまでの日々を過ごしてきた。佐々井さんは、思わずはっとするほどカナちゃんに似ていた。カナちゃんとは似ても似つかない冷たい表情をしていても。まさかな。こんな偶然があるわけが。きっと他人の空似だ。そう自分を納得させながら、部長就任の初日を過ごした。
するとその日のうちに、俺は佐々井さんと再会することになった。
「おお、川崎君。本当によく戻ってきてくれた」
夕方呼び出しを受けて社長室を訪れると、自ら出迎えてくれたサテクノロジーのトップ、佐々井社長はがっしりと俺の肩を抱いた。
「ご無沙汰しておりました、社長」
「十年か。随分長く向こうに置いてしまってすまない。だが、本当によくやってくれた」
「ありがとうございます」
社長の言葉に俺は胸が熱くなるほどの嬉しさを感じた。俺が異動する以前から何かと目を掛けてくれていた社長。今回の部長就任は、役員たちの反対を押し切っての大抜擢だという。
「さすがは、私の後を任せてもいいと誰よりも信頼する君だ。これからも期待しているぞ」
「はい」
社長の言葉に、俺は改めてこれから頑張ろうと身を引き締めた。その時だった。
「ところでだ。君をサポートしてもらうべく、今後は秘書をつけることにした」
「秘書ですか?」
「ああ、なかなか有能だよ、彼女は」
そう言うと、社長はデスクの電話で誰かを呼び出した。すると間もなくノックの音がしてドアが開く。
「お呼びですか、社長」
「こっちに来てくれ。川崎君、紹介しよう。現在私の秘書を務めてくれている佐々井君だ」
社長室に入ってきたスーツ姿の美女は、あの佐々井さんだった。
「改めまして、佐々井志乃と申します。よろしくお願いいたします」
彼女は丁寧にお辞儀をしたが、その表情は午前中と変わらず冷たいままだった。
「なかなか頼りになるが、見ての通り愛想が足りなくてな。あそこは勘弁してくれよ、川崎君」
社長は笑いながら佐々井さんの肩をぽんぽんと叩いた。社長とその秘書にしては、妙に距離が近い気がする。その理由はすぐに社長の口から明かされた。
「苗字からも察したかと思うが、実は志乃は私の娘なんだ」
「え?」
「似ていないか? よく言われるよ」
「そ、そうですか。娘さんだったんですね」
俺は複雑な思いを抱きながら頭を下げた。
「こちらこそ、佐々井志乃さん」
その名前を口にした瞬間、俺はやっぱり、という納得と寂しさが混じった気持ちに見舞われた。カナちゃんから「パパは教授をしているの」と聞いたことを思い出す。佐々井社長は三十年前からサテクノロジーの経営者だ。その名前も、生まれ育った家庭も、どれも佐々井さんとカナちゃんは違っている。やっぱり違うのか。いい加減に初恋から卒業する時が来たのかもしれない。
いつかもう一度カナちゃんに会ってお礼が言いたい。ずっと心の片隅に抱いていた夢は、もう叶わないような気がして俺は小さな胸の痛みと一緒に、改めて彼女と向き合った。
「これからよろしくお願いします、佐々井さん」
こうして佐々井さんは俺の秘書として一緒に営業部で働くことになった。一週間ほど経つと、俺も部長としての業務に慣れてきて、彼女の人柄を観察する余裕も出てきた。
「部長、こちらが今月の営業実績報告書です」
いつもの淡々とした口調で報告書を差し出す佐々井さん。これを一瞥しただけで、俺は思わず目を見張った。この報告書は単なる数字の羅列ではなく、緻密な分析と洞察に満ちていた。前月比十パーセントの売上増加の要因が業界別、顧客規模別、さらには営業担当者別に細かく分析されている。さらに驚いたのは、各項目に対する具体的な改善策まで書かれていたことだ。
「この分析は佐々井さんが?」
「はい。現在我々が推進するデジタルトランスフォーメーションによる業務効率化の影響や、最近の為替変動を考慮した上での数値です」
「すごいな」
俺は心から関心した。佐々井さんの仕事ぶりは単に効率的で無駄がないだけでなく、常に俺が求めているものの一歩先を行っている。ありがとう。本当に助かるよ。佐々井さんのおかげで我々の部署の方向性がクリアになった。
「いつも部長としての未熟さをカバーしてくれて、本当にありがとう」
「恐縮です」
もう見慣れた無表情を保ったまま、佐々井さんは小さく頭を下げた。しかし頭を上げると、その瞳にはわずかな、しかし確かな自信の光が宿っているように見えた。もしかしたら、冷たいだけの女性ではないのかもしれない。もっと知りたいな。
「他に何かご用がありますか、部長」
「ああ、そうじゃなくて。佐々井さんのことをもっと知りたいんだ」
「私のことですか?」
「決して変な意味じゃなくて。一緒に働く以上、もう俺たちは仲間だから。仲間のことは知れば知るほど、さらに知りたいと思うよね」
「仲間…」
小さく呟いて、佐々井さんはわずかに眉をひそめた。考え込むような、初めて見る表情の変化。俺がおっと思うのと同時に、再び彼女は無表情に戻ってしまった。
「申し訳ございません。私には分かりかねます」
「そ、そっか。佐々井さんにも分からないことがあるんだね」
「なんて。次回までに勉強しておきます」
「いいよ、いいよ。そんなに深刻に捉えなくて」
人並外れて優秀だけど、少々真面目すぎて融通が効かないところもある。そんなところがむしろ人間らしくて、やっぱり俺はもっと佐々井さんのことを知りたい。心の中でそう思うのだった。
そんなある日のこと、昼のため食堂に向かう途中、俺は廊下の角を曲がる直前で足を止めた。営業部の若手社員たちの話し声が聞こえたからだ。
「佐々井さんって、やっぱりコネ入社かな?」
「え、そうだよ。社長の娘なんだから当たり前だろ」
「随分仕事ができるみたいだけど、あれって本当かな?」
「まさか。そう見せかけてるか、裏で誰かが手伝ってるんだろ?」
ああ、つい。立ち聞きしながら、俺は気づけば前を進み始めていた。
「それより見た? あの態度。『あくまで私は部長秘書のため、皆様のサポートはできかねます』だって。ちょっと質問しただけなのにさ」
「どうせ答えられないからに決まってる」
「だって彼女、噂じゃ…」
「それ、本当だったのか」
佐々井さんがだ。角を曲がると、三人の社員たちの前に立った。
「君たち、ちょっといいかな?」
「部長! お疲れ様です」
驚いた表情を浮かべる彼らに、俺は穏やかにしかしきっぱりと言い切った。
「佐々井さんの話をしていたようだけど。彼女の仕事ぶりを実際に間近で見ているのは俺なんだ。確かに彼女は社長の娘さんだけど、その能力は本物だよ」
「は、はい」
「それに、影で人の悪口を言うのもよくないね。何か問題があるなら、直接本人に伝えるべきだ」
「あの、佐々井さんにですか?」
「ああ。それが難しいなら、部長である俺に相談してほしい。いつでも聞くよ。俺たちはチームなんだから。佐々井さんも含めて。一緒にもっといいチームを作っていこうよ。まだまだ至らない部長だから、みんなも協力してくれると助かるな」
そう最後に付け加えると、三人は次々と頭を下げた。
「はい。部長。すみませんでした。二度とこのようなことはしません」
俺は微笑んで、彼らの肩を順番に軽く叩いていった。
「分かってくれてありがとう。それじゃあ、午後も一緒に頑張ろう」
ひとまず思いが伝わったようでよかった。ほっと胸を撫で下ろしながらその場を去ると、俺は廊下の先に立つ人影を見つけた。
「佐々井さん。お疲れ様です」
ふいっとすぐに視線をそらして、佐々井さんは俺の横をすり抜けていく。ぎょっとする社員たちを一瞥もせず、無表情でオフィスに戻っていった。
さっきの話、彼女も聞いていたのかな? あの無表情の下で、どんなことを思っていたんだろう? 傷ついていないといいけど。そう願いながら、俺は食堂へ向かったのだった。
やがて昼食を終えてオフィスに戻ると、佐々井さんは俺のデスクの前に立っていた。
「佐々井さん、どうかした?」
「川崎部長。少しお時間よろしいでしょうか?」
「え? あ、ああ、もちろん」
佐々井さんがそんなことを言い出すなんて初めてだ。俺が驚きながら頷くと、いつもすらすらと言葉を紡ぐ彼女が珍しく言いにくそうに口ごもって、やや間を置いた後、ようやく口を開いた。
「先ほどは、ありがとうございました」
「え? ああ、やっぱり聞いていたんだね」
「はい。部長は、私のことを…かばってくださいました」
「かばうなんて大げさな。俺は当たり前のことをしただけだよ」
「…嬉しかったです」
え? 佐々井さんが、はっきりと自分の気持ちを言葉にした。それも俺の秘書になってから初めてのことで、俺は驚きながら思わず口元が緩むのを止められなかった。
「当たり前だよ。佐々井さんは、営業部というチームの大切な仲間だからね」
「大切な…私がですか?」
「もちろんそうだよ」
だから、無視されても構わない。そう思いながら、俺は佐々井さんの前に片手を差し出した。
「これからもよろしく。頼りにしているよ」
あ、俺の手を見た瞬間、その瞳がわずかに揺れたように見えた。そして。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。川崎部長」
佐々井さんは手を伸ばして、俺と握手をかわした。ひんやりと冷たい手で、しっかりと。この出来事を境に、彼女は少しずつ変わっていった。つまりそういうことで、今のは物の例えというか、冗談のつもりで。
「はい。なんとなくわかりました」
相変わらず無表情ではあるものの、俺の冗談に小さく頷いてくれたり。
「部長、第二営業チームでトラブルが発生しているようです」
自ら進んで部署内に目を向け、俺だけでなく社員たちのこともさりげなくサポートしてくれたり。それでいて、部長秘書の仕事もますます完璧以上にこなす。そんな彼女の姿に、周囲の目も徐々に変化していった。
そんなある日、営業部を上げて進めていた大型案件がとうとう契約成立という大成功を迎えた。
「やった!」
「きっと社長も喜んでくださるよ」
明るいニュースにオフィス内は大盛り上がり。俺も嬉しさのあまり立ち上がって、無意識に佐々井さんの両手を握りしめていた。
「ああ、ごめん。つい」
ああ、やってしまった。最近少し距離が縮まったとはいえ、さすがにまずかったか。無反応で固まる佐々井さんを見て、慌てて俺は手を離した。その時だった。
「はい。良かったですね」
佐々井さんの口元が、わずかに緩んだ。それはほんの小さなけれど、確かに初めて見る笑顔だった。
ああ。俺は思わず声をあげてしまった。その笑顔を見て、思い出の中の笑顔がはっきりと浮かんだから。
「どうかしましたか、部長」
「あ、いや、その。佐々井さんの笑顔がとっても素敵で、びっくりしちゃったよ」
「え?」
自分が笑ったことに気づいていなかったのだろう。佐々井さんは目を大きく見開いて、照れたように頬をほんのりとピンク色に染めた。
やっぱり、似てるよな。胸の奥で、懐かしさと新しい感情が入り混じる。ずっと抱いていたカナちゃんへの思いと、今目の前にいる佐々井さんへの気持ち。俺は自分の変化に戸惑いながら、先ほどから心臓の音が気になって仕方なかった。
後日、大型案件の成功を祝う飲み会が開かれることになった。俺は仕事で少し遅れて、会場である居酒屋の宴会場に入った。すでに飲み会は盛り上がっており、社員たちはちらほらと赤い顔をしていた。
「部長、こちらにどうぞ」
先に向かってもらっていた佐々井さんが、俺を自分の隣に案内してくれる。
「ありがとう。これで全員集まったかな?」
「はい。改めて乾杯しますか?」
「いや、いいよ。盛り上がりに水を差すのも悪いし」
これまでの苦労を癒す社員たちを、俺も今までお疲れ様という気持ちで見渡す。するとふと、宴会場の隅にいる人物が目に入った。
「おい、もうビールがないぞ。誰か注文しろよ」
からになったジョッキを掲げるのは、あの鈴木君だった。思えば彼も、俺が部長に就任して以来すっかり影が薄くなっていた。俺が新部長だったことがそれほどショックだったのか。はたまた、佐々井さんにばっさり切られたせいか。あれから覇気を失い、成績トップクラス常連の座も転落してしまった。
「ちなみに、いびり散らす彼に怯えていた同僚たちは、今は伸び伸びと働いていてそれぞれ大きく成績を伸ばしている」
「くそっ、いつもこうだ。俺の話なんか聞いちゃいない。こんなはずじゃ…」
そんな鈴木君はすでにかなり酔っているようだった。真っ赤な顔に虚ろな目で、ぽつんと一人でビールを煽り続けている。周りの社員たちは、彼を避けるように距離を置いていた。彼も部下の一人だ。部長として声をかけた方がいいだろう。本人に嫌がられても。
俺が腰を浮かせたその時、鈴木君の方が先にすくっと立ち上がった。そしてよろよろとした足取りで歩き始めた。俺と佐々井さんがいるテーブルに向かって。
「やあ、佐々井さん」
まるで俺の姿など見えないように、鈴木君は佐々井さんだけに話しかける。彼女の横にどかっと腰を下ろして、グラスを勝手に「かちん」と合わせた。
「飲み会に来るなんて初めてですね。一緒に飲みましょうよ」
「私は…」
俺だけに分かるほどわずかな困惑を顔に浮かべて、佐々井さんはグラスを置いて鈴木君の申し出を断った。
「あれ? それ、水じゃないですか? 飲んでないんですか?」
「私はお酒が苦手で」
「え、マジですか? そりゃないでしょ」
え、止める間もなかった。鈴木君は酔っているとは思えない速さで、佐々井さんのグラスへ勝手にビールを注いで、それをずいっと彼女の前に差し出した。
「ほら、一杯だけでも。いつも部長が言ってるじゃないですか。俺たちはチームの仲間だって。仲間は酒を酌み交わすものですよ」
「いや、やめてください」
「嬉しかったなあ。佐々井さんと仲間になれて。僕、まだ諦めてないんで。佐々井さん」
「佐々井さんのこと、ずっと…」
不気味に笑って、鈴木君がさらにぐいっとグラスを佐々井さんの顔に近づけた。その瞬間。
「鈴木君、やめるんだ」
俺は立ち上がって、その手首を掴んでいた。
「佐々井さんが嫌だと言ったのが聞こえなかったのか。飲みすぎているようだから、今日はもう帰った方がいい」
周囲の社員たちも、俺の言葉にその通りだと頷く。すると鈴木君の顔から笑みが消えた。
「ああ、そっか」
鈴木君の声が低く唸るように響く。
「みんな、知らないんだな。佐々井さんがどういう人間なのか」
あ。佐々井さんの表情が強張る。何の話だ、と社員たちがざわめき始める。すると鈴木君の目は険しく釣り上がり、まっすぐに佐々井さんを指差した。
「自分で言えないなら、僕が言ってやるよ。あんたが高卒だってことをな」
あ。佐々井さんの顔から、みるみる血の気が引いていく。宴会場は水を打ったように静まり返った。
「そうそう。びっくりだよな」
鈴木君は周囲を見回しながら続ける。
「単に社長の娘ってだけで、いい気になりやがって。普段あれほど偉そうにしてるのに、実は大学も出ていないんだぞ。俺たちは寝る暇もなく勉強して、厳しい入社試験を乗り越えてこの会社に入ったのに。いいよな。スタートから違う人は」
「鈴木君!」
俺は遮るように声を荒げた。
「やめるんだ。それ以上は」
けれど、遅かった。激昂した佐々井さんの肩は小刻みに震えて、その目にみるみる涙が浮かぶ。
「ごめん。これ、二人分の会費」
財布から札をありったけ出すと、俺は近くにいた社員の手に押し付けた。
「行こう、佐々井さん」
「え?」
今にも涙がこぼれそうな佐々井さんの手を取って、引っ張るように宴会場から連れ出す。そのまま居酒屋を出て、しばらく二人とも無言で歩き続けた。時々、佐々井さんの震える肩を横目で見ながら、俺は迷っていた。こんな時、どんな言葉をかければいいのか。
やがて人通りの少ない通りに差しかかった頃、突然ぴたりと佐々井さんが立ち止まった。
「川崎部長」
震える声で、佐々井さんが呟く。
「どうして、私をかばうんですか?」
「え?」
俺は驚いて振り返った。月明かりに照らされた彼女の頬には、こぼれ落ちた涙が光っていた。
「…やはり、社長の娘だからですか。父に押し付けられた私を、特別扱いしなければいけないから」
まるで出会ったばかりの頃のような、硬い口調で佐々井さんは淡々と続けた。
「違う」
はっきりと、俺は言い切った。
「間違っていると思うからだ。きちんと結果を出しているのに、単なる噂だけで努力をしていないと決めつけられるのはおかしい。佐々井さんが毎日欠かさず昼休みにオフィスで経営や営業の勉強をしているのを、俺は知っているから」
「え」
佐々井さんの目が大きく見開かれた。けれどすぐに、俺から視線をそらすように伏せられる。
「ですが、私が高卒なのは事実です。父に大学進学を許してもらえなかったので。『習うより慣れろだ』と。大学よりも自分のそばで知識を身につけるようにと」
それは俺も知らない事実だった。経歴よりも実績を重視する佐々井社長が言いそうなことではあるが。
「佐々井さん。君の能力は紛れもなく本物だ。君が社長のそばで学んできたこと、学ぼうと懸命に努力してきた事実は、みんなに高卒だと知れたからって消えるわけじゃない。そして、確かな能力を身につけた今も、継続して努力を続けている。それを知っているから、俺は佐々井さんを尊敬するよ。そして…つい、かばいたくなってしまうんだ」
ぱっと勢いよく、佐々井さんが顔をあげる。その目からは、大粒の涙がいくつもこぼれ続けていた。
「ですが、もう結構です」
佐々井さんは一瞬ためらった後、小さな声で続けた。
「私の味方をすると、部長の立場も危くなってしまいます。ただでさえ、父の一声で抜擢され、上層部には未だ今回の人事に反発する声があるのに」
「佐々井さん」
その言葉に、俺は胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。自分が危険な状況でも、他人の立場を考えられる。やっぱり佐々井さんは、冷たいだけじゃない。優しい心も確かに持った女性なんだ。
「そうか。そんな女性だと気づいたから、俺は…好きです」
「え?」
「私のせいで、傷ついたり立場を危うくして欲しくありません。そんなことは耐えられないんです。私は…部長が好きですから」
まっすぐに俺の目を見つめて、佐々井さんが口にした告白に、俺は息を飲んだ。
「好きなんです。もう、随分前から。もしかしたら部長も…なんて、思ってしまったりもして。だから、かばってくれるのかな、なんて。勝手にすみません、ごめんなさい」
その声はどんどん小さくなり、佐々井さんは再び俯いていく。そんな彼女の肩を、俺はとっさに掴んだ。
「そうかもしれない」
「え?」
「俺も、傷ついて欲しくないから。自分の立場が危うくなってでも、守りたいと思う。それも、本当なんだ。君のことが好きだから」
そう告げた瞬間から、佐々井さんの目がみるみる大きく見開かれていく。
「嘘…」
「本当だよ。俺も、佐々井さんが好きだ。一緒にいるようになってから、カナちゃんを思い出すことは日に日に減っていって。代わりに、佐々井さんのことばかり考えるようになった。いつの間にか、俺は…ずっと忘れられなかった初恋を乗り越えていたのだった」
「本当に…」
くしゃっと、佐々井さんの表情が歪む。今にもこぼれそうなほど溜まった涙に、俺はそっと指を伸ばした。
「本当だよ。だから、佐々井さんの笑顔が見たいんだ」
「部長…川崎さん」
勢いよく、佐々井さんは俺の胸元に飛び込んできた。俺は少しためらって、おそるおそるその背中に腕を回した。
「川崎さん」
俺の胸に顔をうずめて、佐々井さんは声を上げて泣いた。きっと、今までたくさん周囲の声に耐えてきたんだろう。大切な人を守りきれていなかった自分が情けなくて、俺は唇を噛みしめた。だけど、約束するよ。
「これからは、何があっても君は俺が守るよ」
その思いが伝わるように、俺は佐々井さんを抱きしめる腕に力を込めたのだった。
それから、ちょうど一ヶ月が経とうとしている。
「おはようございます」
「おはようございます、部長」
はにかむように表情を緩ませて挨拶を返してくれる佐々井さん。そんな彼女の様子に愛しさが込み上げてくる。俺たちは現在、密かに交際を進めている最中だ。
「ところで川崎部長、昨日おっしゃられていた件ですが、こちらが調査の結果です」
「もう調べてくれたの? さすがだな」
「それが私の仕事ですので。それから、こちらの資料は…」
相変わらずの有能さに加えて、きっちり仕事モードに切り替えられるところにも、俺は感心させられるばかりだ。新しい一面を知るたびに、どんどん佐々井さんへの思いが強くなる。
佐々井さんか。今だお互いを苗字で呼び合っている俺たちだけど、いつか「志乃さん」と「智也さん」と呼び合える日が来たら。そう思いながら、俺は佐々井さんのサポートのおかげで営業部長の仕事も順調にこなしていた。
ところが、そんな順風満帆の日々に、突如暗雲が立ち込めた。
「あれ? 何かあったのかな?」
ある日、俺はオフィスの妙な雰囲気に気づいた。仕事の話をする俺と佐々井さんをちらちらと見ながら、社員たちが小声で言葉をかわし合っている。
「君たち、何かトラブルでもあったのか?」
不思議に思った俺が近づいていき、男性社員の一人に訪ねると、彼はぎょっと驚いた顔をして、続いて罰が悪そうに俯いた。それはかつて廊下で佐々井さんの噂話をしていた一人だった。
「問題があったら相談して欲しいと、以前に伝えただろう。何でも聞くよ」
彼は他の社員たちと顔を見合わせて、しばらく迷った後、意を決したように俺に教えてくれた。
「実は…営業部に噂が流れているんです」
「噂?」
「はい。…川崎部長も、実は能力がないのに社長に取り入って部長になったんじゃないか、って」
「え」
若くして部長に抜擢されて以来、覚悟はしていたつもりだった。けれど、実際にこの耳で部下たちの本音を聞くと、これまで積み上げてきた日々ががらがらと足元から崩れていくようなショックを受けた。
「それから…ここ最近の営業部が好調なのは全部自分のおかげだって、部長が行く先々で触れ回っているとも…みんな噂を聞いたそうです」
「そんな。どこからそんな出鱈目が」
「それが、よくわからなくて。誰に尋ねても、噂の出所は知らないと言うんです」
けれど、俺の頭にはある人物の顔が浮かんでいた。部下を疑うなんて上司失格かもしれない。けれど。
「まさか、君なのか」
その後、噂は静まるどころかますます広がるばかりで、もちろんそれは佐々井さんの耳にも届いてしまった。
「ごめんなさい。私のせいで川崎さんまで」
「そんな。佐々井さんは何も悪くない。みんなの心をまとめられない、俺の力不足だ」
せっかく明るくなりつつあった佐々井さんの表情も、俺の不出来のせいで再び曇ってしまった。どうすれば噂を沈められるんだろう。みんなが佐々井さんの実力をきちんと評価してくれるんだろう。
俺が頭を抱えたその矢先のことだった。あるトラブルによって、彼女が最大のピンチに陥ったのは。
「いよいよ本番だね、佐々井さん」
「え、そうですね」
この日の佐々井さんは、いつになく緊張した様子を見せていた。その理由は、今回の商談が成功すれば、うちは海外シェアを大きく伸ばすことになる。決して逃せないチャンスだ。
「さすがに俺も緊張しているよ」
そう、このサテクノロジーにとって非常に重要な商談を兼ねた会議を控えていたからだった。その重要性だけに、各部署の部長クラスだけでなく、社長をはじめとした役員たちまでもが出席する。そんな大舞台で、商談相手である海外企業のクライアントにプレゼンを行うのは、営業部の代表である俺だった。
「だけど、今日までしっかり準備してきたから大丈夫だよ。佐々井さんも、分析や資料の準備でたくさん力を貸してくれたし」
「ええ。今日の会議でも、私にできる限りのサポートをします。川崎さんのために」
小さく微笑んで、佐々井さんがそっと俺の背中に手を添えてくれる。これほど心強いエールが他にあるだろうか。俺の胸にはみるみる自信がみなぎって、きっと商談を成功させられると確信した。
やがて午後一番で会議はスタートした。会場である大会議室の緊張感漂う空気の中、俺はプレゼンを開始。スクリーンに映し出された資料を差し示しながら、緊張しつつも自信を持って説明を進めていく。
「我が社がお勧めする新製品は、従来の問題点を解決し、さらに画期的な機能を追加しています」
中央に座った海外から来たクライアントは、俺の説明に合わせて頷いたり、時には目を丸くしたり。紹介している製品に対する関心の高さが伝わってきて、俺は内心で手応えを感じた。ちなみに、俺がプレゼンに使っているのは英語。アメリカ支社にいた経験が生かされ、きちんとプレゼン内容を伝えられているようで一安心だ。
プレゼンが終盤に差しかかると、専務がぽつりと呟くのが聞こえた。「なるほど」。彼は、俺を営業部長に抜擢したいという社長に最後まで反対していた一人だという。社長は今回、この案件を俺に任せてくれた。実力を見せつけて、未だに存在する反対派を黙らせろと。
ありがとうございます、社長。俺が視線を送ると、社長は目を合わせて大きく頷いてくれた。顔には微笑みが浮かんでいる。それに勇気づけられて、俺はますます言葉に力を込めてプレゼンを続けた。
「このグラフをご覧ください。スライドを操作してくれる佐々井さんに合図して、スクリーンに映る画面を切り替える。我々には今後の市場予測があります。我が社の製品を導入した場合、売上は前年比百五十パーセントアップ。こちらをお約束します」
その瞬間、クライアントはがたっと椅子を立ち上がった。そして、大きな音を立てて拍手を始めたではないか。
ああ。俺は思わず佐々井さんと顔を見合わせて、笑顔を浮かべた。クライアントはプレゼンに納得してくれたどころか、その内容を絶賛してくれているのだ。
「ありがとうございます」
こちらも深く頭を下げて、感謝の気持ちを伝える。ところが、その直後だった。思わぬトラブルが発生したのは。
「いくつか質問があるんだけど、いいかな」
そんな意味の言葉を、クライアントが俺に伝える。俺はもちろんですと答えて、あらかじめシミュレーションしていた質問の答えを頭に浮かべたはずだったのだが。
「それじゃあ、まず…」
え。その瞬間、俺と佐々井さんが同時に驚いた。いや、驚いたのは何も俺たちだけではなかった。クライアントが発した言葉で、会議室の空気は凍りついた。なぜなら、その質問は英語でも、ましてや日本語でもなく、全く別の言語で発せられたのだから。
「えっと、ん…」
俺が質問に答えられずにいると、クライアントはこてんと首をかしげて、伝わらなかったと思ったのか、同じ質問を再び繰り返した。
「川崎さん」
困惑した表情で、佐々井さんが背後から俺に囁く。するとその時、会議室の後方で一人の人物がぬっと立ち上がった。
「早く翻訳をお願いしますよ、佐々井さん」
その人物とは、今後のためにと会議に同席していた各チームのリーダー、そのうちの一人。その顔に不敵な笑みを浮かべた、鈴木君だった。
「え、私ですか?」
「はい。聞きましたよ、数カ国語がペラペラだって。とても優秀な佐々井さんですから、それくらいは朝飯前だろうと僕も思いまして。是非、彼女に翻訳をお願いしてはどうでしょう?」
「皆さん! そんな…」
振り返ると、佐々井さんはぶんぶんと首を振った。俺も、そんな話は彼女から聞いたことがない。それどころか、英語も自信がないとこぼしていたのに。
「あれ? 変だな。僕は確か、佐々井さん本人から聞いたはずなのに」
え? 佐々井さんが驚愕すると、鈴木君はさらに声を張り上げた。まるで会議室にいる全員へ聞かせるかのように。
「見栄を張って、嘘をついたんですか? 高卒だってバカにされるのが嫌だから」
その言葉が終わるや否や、別の人物が立ち上がった。
「君は誰だ。名前を名乗りなさい」
険しい顔つきで君を睨みつけたのは、佐々井社長だった。その迫力に、鈴木君だけでなく会議室にいる誰もがごくりと息を飲んだ。質問を放置されたクライアントも困惑して、誰も言葉を発せない。ぴんと張り詰めた糸のように緊迫した空気。もはや、これでは商談どころではない。誰もがそう思っただろう。
その時だった。
「大変失礼しました」
沈黙を破った人物に、全員の視線が一斉に集中する。その人物は咳払いをすると、クライアントに向かって笑顔を浮かべた。
「準備ができました。ご質問には、私がお答えさせていただきます」
「は?」
茫然としたような声をあげたのは、鈴木君だった。そして、彼は俺を指差して鋭く叫んだ。
「あんたが左遷されたのはアメリカだろ? どうして英語だけじゃなくて、フランス語まで喋れるんだよ」
そう。俺がクライアントに向けて放ったのは、フランス語だ。きちんと意味が伝わったのだろう。クライアントはほっと表情を柔らげた。
「最初のご質問についてですが、私たちの新製品は独自開発した最先端の技術を使用しています。これにより、突発的に変化する条件に適応しつつ、リアルタイムでパフォーマンスを最適化することができるのです」
「なんと。それではコストの問題は?」
「それについても、心配はいりません。なぜなら…」
フランス語で質疑応答をかわしていくたびに、どんどん鈴木君の口は大きく開いていく。まさしく、開いた口が塞がらないといった様子だ。そんな姿を横目で見ながら、俺は思い出していた。本社に復帰するまでの十年間、自分が過ごしていた日々について。
「え、アメリカですか?」
いきなり異動の辞令を受けた時の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。当時二十六歳だった俺は、ようやく仕事にも慣れて周囲からも認められ始めて、まさにこれからという時だった。
「川崎君。頼めるのは君だけなんだ。この通りだ」
「社長! 頭を上げてください」
「実は我が社のアメリカ市場での営業成績が急激に落ち込んでいる。現地スタッフだけでは、状況を打開できそうにない。君には、これからアメリカ支社の立て直しに向かってもらいたい」
「そんな。どうして自分が」
「確かに君は若い。しかし、君の営業力と適応力、またピンチを切り抜けるとっさの判断力には、私も報告を受けるたびに関心している。君なら、現地の問題を解決できる。頼むぞ、川崎君」
「社長…」
あまりに責任重大で、俺一人が背負うには大きすぎる使命だった。けれど、社長はあらゆる手を尽くした末に、最後の望みを俺に託してくれた。そのことが表情から痛いほどに伝わってきて。
「わかりました。行かせていただきます」
「本当か? 行ってくれるのか、川崎君!」
「はい」
入社した当時から何かと目をかけてくれた社長の期待に答えたい。俺は使命感に燃えて、一ヶ月後にアメリカへと旅立った。
「日本の支社から来ました、川崎です。よろしくお願いします」
アメリカ支社では、表向きは勉強のためやってきた若手社員として働きつつ、裏では営業戦略の全面的な見直しを進めることになった。しかし当然、それは簡単ではなかった。
「よそ者が偉そうにして。さっさと日本に帰れ」
現地スタッフは、日本から来た若僧がどういうつもりだと、俺の言動にいちいち警戒の目を向けてきた。特に年配の重役たちは、俺の提案に全く耳を貸そうとしなかった。
こんな時は、きっと日本もアメリカも一緒だ。そこで俺はまず、信頼を得ることから始めた。朝一番に出社し、夜は誰よりも遅くまでオフィスで仕事。営業担当たちの後をついて回り、彼らの仕事ぶりを観察させてもらった。休憩時間には積極的に話しかけ、アメリカの文化や習慣、そして営業の苦労話に耳を傾けた。
「お前、なかなかいいやつだな。見直したよ」
ある日、冷たかったベテランスタッフがそう言ってくれた。少しずつだけど、信頼を寄せてくれている。そう思えたのを合図に、俺は次の行動を開始した。
「市場調査を徹底的に行いましょう」
そう会議で提案すると、俺は自らクライアントを一件ずつ訪問し、彼らのニーズや不満を直接聞いて回った。するとその過程で、営業成績が悪化している原因が明らかになった。日本から輸出された新製品が、現地のニーズと微妙にずれていたのだ。
「そこで、新しい営業戦略を練り上げました。製品のカスタマイズやアフターサービスの利用など、それぞれの悩みや要望に寄り添ったオーダーメイドな提案を、クライアントに行っていきませんか?」
この新戦略をスタッフたちに伝えると、最初は懐疑的だった彼らも、俺が収集してきた生の声を聞くと次第に協力的になっていった。そして、アメリカ支社全体が一丸となった懸命な努力の結果、約一年後、ついに成果が現れた。新規大口クライアントの獲得に成功し、また、失いかけていた既存クライアントとの関係も修復できたのだ。
さらに一年後には、なんと売上を前年比百五十パーセントまで急回復させることができた。
「素晴らしい。私が見込んだ以上の成果を出してくれたな、川崎君」
俺の報告に、社長も大喜びだった。俺も喜びに包まれながら、これで日本に帰れると安堵した。ところが。
「相談なのだが、このままフランス支社に移動してくれないか」
「え?」
「向こうでも問題が発生しているらしい。アメリカを見事立て直した手腕を見込んで、頼む」
「そんな。フランス語なんて話せませんよ」
「君なら、どうにかできるだろう。これは…社長命令だ」
ええ。俺は半ば無理やり、今度はフランスへと旅立つことになった。
「よくやってくれた。お次は…」
「またですか?」
再び二年ほどでフランス支社の問題を解決すると、次はベトナムへ、その次はイタリア、次は中国。それぞれの支社で問題が発生する度に、俺は社長命令で世界中を点々とするはめに。もちろん、各国の言葉は現地でがむしゃらに覚えざるを得ず、あまりに忙しい日々を送っていたら、いつの間にか十年もの月日が経過していた。
「本当にありがとう、川崎君。君のおかげでどこの支社にも問題がなくなった。ついては、日本に戻ってきてくれるか?」
「いいんですか? 今度こそ本当に?」
ああ。電話の向こうで、社長が力強く頷いてくれた気配がした。ところが、それに続いた言葉で、俺は絶句することになる。
「日本に戻った暁には、君を新たな営業部長に指名する。そして、次期社長候補の一人にも加えよう」
「え?」
帰国後、本人から聞いたところによると、アメリカ支社を立て直した時点で、社長は俺を次期社長候補の筆頭に加えていたという。周囲を納得させるために、各国の支社で結果を出させることを考えたのだ。それでもなお、部長就任については「年が若すぎるのでは」と反対意見が上がったものの、それを押し切る形で社長は俺を部長に抜擢してくれたのだった。
ちなみに、先ほど質問に答えるのが遅れたのは、突然のことでとっさにフランス語を思い出せなかったから。準備さえ整えば、フランス語だろうと中国語だろうと対応できる。そんなメッセージを込めてじろっと鈴木君を睨むと、彼は顔面蒼白になり、こそこそと隠れるように会議室を出ていったのだった。
「素晴らしい! 途中トラブルはあったが、これほど満足できた取引は初めてだ」
全ての質問を終えたクライアントは、声を震わせて両手を広げた。そのままこちらに向かってきて、ものすごい力で思いきり俺を抱きしめた。
「それじゃあ、もちろん今すぐ契約だ」
その瞬間、会議室には大きな拍手が巻き起こった。社長をはじめとして、全員が俺に笑顔で拍手を送ってくれる。振り向けば、佐々井さんも目を潤ませて、拍手と共に微笑んでくれていた。それが何よりも嬉しかった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
こうして俺は、商談を成立させることができた。トラブルはあったものの、会議は無事に終了したのだった。会議の後、俺たちはクライアントを玄関で見送った。それから、お互いの顔を見合わせる。
「お疲れ様でした、川崎さん。それと、ありがとうございました」
「こちらこそ、佐々井さんのおかげで」
その時、背後で自動ドアが開いた。俺たちが同時に振り返ると、そこに立っていたのは。
「あんたのせいでもう終わりだ…」
目を血走らせて、ぶつぶつと独り言を呟いて。誰が見ても明らかに様子がおかしい、鈴木君だった。
「鈴木君…?」
「大きな恥をかいたらよかったんだ。そうしたら、僕が助けてやったのに…」
「落ち着くんだ、鈴木君」
刺激しないように静かに声をかけて、俺は怯える佐々井さんをかばいながら、少しずつ彼と距離を取る。しかし、それが逆効果だった。
「僕は、志乃さんと話してるんだよ。邪魔者は引っ込んでろ」
突然ばっと顔をあげて、鈴木君は唾を飛ばして怒鳴った。そして次の瞬間。
「高卒女のくせに!」
俺の背後にいる佐々井さんに向かって、拳を振り上げながら突進してきた。
「きたっ!」
「カナちゃん!」
俺は佐々井さんを抱き抱えるようにして、一発で攻撃をかわした。ところが鈴木君は止まらない。
「見せつけてんじゃねえよ! あんたなんか! あんたらなんか!」
彼が持ち上げたのは、玄関にあった観葉植物の鉢だった。それを足元をよろめかせながら持ち上げる。
「まとめて…くらえ!」
そう叫びながら、俺たちに向かって鉢を振り下ろそうとした。その瞬間だった。
「やめろ」
重く厳しい声が、あたり一体に響き渡った。鈴木君は、その手から地面に鉢をごとんと落とした。
「し、社長…」
「ため様子を見に来て正解だった。君は、先ほどの営業部の鈴木だな。私の娘と川崎君に、何をしている?」
「あ…」
社長の言葉で、鈴木君は正気を取り戻したようだった。がたがたと全身を震わせて、顔面蒼白になって頭を抱える。
「ち、違うんです。これは…」
「話は後で聞く。ひとまず社長室に連れて行き、見張っていてくれ」
「あっ」
鈴木君が目を見開くのと同時に、社長が一緒に連れてきた警備員たちが彼の肩や腕を背後から掴んだ。
「話せ! 違うんです! 社長! 僕はただ、志乃さんが…」
そのまま抵抗する鈴木君を、会社の中へと連行していくのだった。
「そうだ。佐々井さん。どこか怪我はないか」
俺は背後を振り返った。よほど怖かったのか、佐々井さんは立ち尽くしていて。
「志乃、大丈夫か?」
社長が声をかけると、彼女はようやく言葉を発した。
「…誰ですか?」
「え?」
「さっき、川崎さんが…『カナちゃん』って…」
あ。この時まで、俺は気づいていなかった。佐々井さんをかばいながら、とっさに「カナちゃん」と叫んだことに。
「私は…やっぱり、どこにもいないんですか」
くしゃっと、その顔が歪んだ直後だった。佐々井さんは、俺に背中を向けて、会社の前に広がる通りを駆け出した。
「佐々井さん! 待つんだ!」
「川崎君」
追いかけようとした俺の肩を、社長が掴んで止めた。
「志乃は…少し一人にしてやってくれ。それより、君に話したいことがある」
「え?」
会社近くの喫茶店。俺を連れてきた社長は、長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「君は…知っていたのか?」
「え? 知っていたとは?」
「志乃のことだ。いや…カナのことを、だ」
あ。社長は確かにはっきり、「カナ」と言った。俺が驚きで言葉を失うと、彼はさらに驚きの事実を告げた。
「志乃は、私にとって実の娘ではない。あの子が『カナ』だった頃、志乃には実の両親がいた。私の弟夫婦だ」
「どういうことですか?」
「佐々井さんは…いや、志乃は。知らないというよりも、全く覚えていないんだ。あの子には、八歳から昔の記憶がないんだ」
俺の目をまっすぐに見つめて、社長がそう告げた。そこから、彼が語るカナちゃんの過去は始まった。
カナちゃんの両親は、元々同じ病気で入院する患者同士だった。一緒に辛い病生活を耐える中で、二人は少しずつ思い合うようになっていった。そして幸いにも病状が回復し、二人とも退院することができた後に結婚。やがて可愛い一人娘にも恵まれ、家族三人で幸せな日々を過ごしていた。
ところが、残酷なことに弟夫婦は同時期に病気が再発した。再び二人で入院することになり、カナは私が預かった。あの子は毎日のように両親へ会いに行き、「痛いの痛いのとんでいけ」とおまじないをしていたそうだ。
「だが、俺がカナちゃんと出会ったのは、彼女の両親が亡くなる直前だった」
最初は社長の弟さんが。続いて奥さんが。まるで一緒に天国へ旅立つように、愛情を持って息を引き取った。
「パパ、ママ、やだよ。置いていかないで」
両親の入院中、一度も泣いて社長を困らせなかったカナちゃんは、葬儀で声を上げて泣いた。そして、泣き疲れた後はぐっすりと眠り続けて、次に目を覚ました時には、それまでの記憶を全て失っていた。
「そんな…あまりにもショックが大きすぎたんだろう。あの子は自分の心を守るために、自ら記憶を封印したんだ。弟たちからもらった『カナ』という名前も」
ここまで語ると、社長は両手で顔を覆った。まるで、これから先の過去を背負うかのように。
「『それでいい』と、あの時の私も思った。たった一人の娘が幸せに生きていけるのなら、無理に思い出させる必要はないと。だから、新しく『志乃』と私が名付け、養子縁組の手続きを行った。それから正式に自分の元へ引き取り、最初から自分の娘だったと教えた。本当の両親を思い出させるようなものは、彼女の周囲から徹底的に遠ざけた」
そして二十年以上、親子として過ごしてきて。社長は今更ながら、これで良かったのかと迷っていた。
「記憶が戻らなくとも、何かを忘れていることには気づいている。あの子はずっと、悩んできたんだ。自分が本当は何者なのか、ということに。ああ、川崎君」
社長はテーブルに両手をついて、俺に頭を下げていた。
「あの子の元へ行ってやってくれ。君なら、きっと…」
それから、俺が向かったのは会社近くの公園だった。社長から、あの子が悩んだ時は決まってそこにいると聞いたから。すると社長の言う通り、佐々井さんはベンチにぽつんと座っていた。
「佐々井さん」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔をあげた。その目は、今まで泣いていたことを示すように真っ赤だった。
「川崎さん…」
声を震わせながら、佐々井さんは俺を見つめる。
「子供の時から思っていたんです。私には、何かが足りない。何か大事なことを忘れているんじゃないかって」
「うん」
俺はそっと、彼女の隣に座った。
「八歳より前のことが、全く思い出せないんです。私は…何を忘れてしまったの? 忘れる前の私も、私だって言えるんですか?」
止まっていた涙が、ぽろぽろと再びこぼれ始めた。
「本当の自分は、どこにもいないです。私は…私は、一体誰なの? …川崎さんが好きだと言ってくれたのは、本当に私ですか?」
「佐々井さん。志乃さん」
目が合った瞬間、俺は思わず彼女を抱きしめていた。
「違うよ、志乃さん。君は、今ここにいる。今、ちゃんと俺の前にいる」
「え…」
「俺が好きになったのは、君なんだ。頭が良くて、冷静で、時々冗談が通じなくて。誰よりも真摯に仕事と向き合い、本当は優しい、君を」
大きく、志乃さんが目を見開く。記憶を失っても、彼女の中にはちゃんとカナちゃんの優しさも残っていた。自分が辛い時でも、俺を笑顔で励ましてくれた優しさが。だからきっと、俺は志乃さんを好きになった。そして、志乃さんを知れば知るほど、好きになっていった。だから。
「思い出せなくてもいい。君が忘れている過去も、今も、未来も。全てひっくるめて、俺は君が好きだ。志乃さん」
「川崎さん…智也さん」
初めて俺の名前を呼んだ瞬間、志乃さんの頬を大きな涙の粒が滑り落ちていった。
「私…ずっと怖かった。自分のことも分からないのに、他人と関わることが怖くて。ずっと逃げ続けて」
「うん」
「わざと冷たくしたら、みんな離れていって。『これでいいんだ』って。そうやって、自分の心を守ってた。でも…」
言葉を切って、志乃さんは大きく深呼吸をした。それから、俺の目をまっすぐに見つめる。
「でも、智也さんだけは違いました。こんな私と向き合い続けて、受け入れてくれて。こうして、全てを受け止めてくれて」
その時、志乃さんは目を細めて微笑んだ。これまで見せてくれた中で、一番優しく、一番綺麗に微笑みながら、俺の手をそっと握った。
「ありがとう。本当にありがとう。智也さんのおかげで、私は初めて、私を好きになれそうです」
「志乃さん…」
「智也さんが好きだと言ってくれた私を、私も好きになりたい。『これが私だ』って、みんなに伝えたいです。これから…」
「うん」
「見ていてくれますか? 智也さん。上手くいかなくても」
「もちろん。これからも、いつでもそばにいるよ」
そう伝えながら、もう一度志乃さんを抱きしめる。今度は、志乃さんもぎゅっと強く抱きしめ返してくれた。
「志乃さん。俺からも、一つお願いがあるんだ」
「え?」
その後、プレゼンの妨害と俺たちに対する襲撃を重く見られ、鈴木君には懲戒解雇の処分が下った。社長が厳しく問い詰めると、彼は全てを明らかにした。密かに俺の社内PCを使って俺の名前でクライアントにメールを送ったこと。その際、「我が社には語学に優れた人材がいるので、質疑応答は英語ではなく母国語で構いません」と、フランス出身のクライアントに伝えていたこと。志乃さんが通訳できないのを知っていて、彼女をピンチに落とし入れた後に助け船を出し、自分の株を上げる計画だったこと。そして、俺たちの噂を流していた本人だったこと。
「大変申し訳ありませんでした」
散々社長に絞られたのだろう。会社を去る間の鈴木君はすっかり意気消沈して、別人のようにも静かだった。俺や志乃さんと顔を合わせる度に挨拶のように謝罪を繰り返していたので、きっと反省していたのだと信じたい。どこか別の場所で、一から謙虚に再スタートしていることを願うばかりだ。
別人のよう…といえば。志乃さんの変化も、営業部では大きな話題を呼んでいる。
「あの、私も一緒にお昼に行ってもいいですか?」
「え? もちろん、是非!」
「ありがとうございます。嬉しいです」
彼女は、記憶を失った自分を受け入れ、未来に向かって歩み出した。その第一歩として、自分から周囲と関わり始め、思いを言葉で伝え、時には笑顔も見せるようになったのだ。
「佐々井さん、ごめん。俺たち…」
「部長も、すみませんでした」
志乃さんの変化は、周囲の社員たちの心も動かした。その努力や才能に自ら目を向けて、その上できちんと彼女、それから俺のことも改めて評価して。噂を鵜呑みにしたことを、俺たちに謝罪してくれたのだ。
「みんな、ありがとう。それから、聞いて欲しいことがある」
時に、噂に惑わされてしまうのは人として仕方ないこと。けれど、大切なのはその後。その噂が本当なのか、自分の目や耳でそれぞれが判断すること。そして、間違っていたら素直に認めて、考えを改めること。それが大切なんだ。
俺が語りかける言葉に、誰もが真剣に耳を傾けてくれた。
「そうやって、これからますますチームになっていこう。よろしくお願いします」
頭を下げた俺に、彼らは大きな返事と割れんばかりの拍手を送ってくれた。そして。
「チームの仲間に隠し事はなしですよ、部長」
「そうです。佐々井さんとの件…ちゃんと報告してくれるんですか?」
え、とっくに気づかれていたのか。俺と志乃さんは顔を見合わせて、苦笑いをした。そして、二人とも照れながら「ええと…」と切り出したのだった。
やがて、チームとして一丸となった営業部が以前に増して好成績を上げるようになった頃。俺と志乃さんは、ある日、とある墓地を訪れた。
「ここが、私の本当の両親のお墓だって。父が教えてくれたの」
「志乃」と書かれた墓石に、志乃さんと並んで手を合わせる。顔をあげると、志乃さんは俺に微笑んだ。
「ありがとう。あの時、智也さんが『社長と話して欲しい』って言ってくれたから。私は初めて、父ともまっすぐ向き合えた気がするの」
「じゃあ…」
「私が『カナ』という名前だったって聞いても、やっぱりピンと来なかった。記憶が戻ってくることも…きっと、ない。でも、それでいいの」
そう言って、志乃さんは目を細めた。
「大学に進学させてくれなかったのは、私のためだったの。本当のお父さんが大学教授をしていたから、万が一記憶を取り戻すきっかけと出会わないように。その代わり、自分が知っていることは全て教えてくれた。そうやって、いつも私を思ってくれていたのが、お父さんだから」
「志乃という名前は、本当の両親が好きだった花からつけてくれた。記憶が戻らないように守りながら、同時に本当の両親との繋がりも作ってくれた」
「そんなお父さんは、これからも大好きなお父さんだから」
そう言って、志乃さんは輝くような満面の笑顔を浮かべたのだった。
「お父さん、お母さん。私には、今支えていきたい人がいるの。ほら、とっても素敵な人でしょ」
志乃さんに紹介されて、俺も空を見上げて語りかける。
「初めまして。お嬢さんにはいつも支えてもらっていて。俺も、彼女を支えられる人間でありたいと思っています。二人で支え合って、きっと幸せになります」
その願いは風に乗って、きっと天国にいる二人の元まで届いたはずだ。
「行こうか、志乃さん。次は…いよいよ、社長に挨拶だ」
「緊張してる?」
「そりゃ、もちろん」
笑い合いながら、自然に手を繋ぐ。俺たちは二人で、未来に向かって一緒に歩き始めた。それを誰かが祝福してくれるように。優しい風が、いつまでも俺たちを包んでくれていたのだった。
