ある家族が、外から見ればどれほど堅固に見えても、内側が空洞になっていることがある。壁に亀裂が入り始めても、誰も声に出さない。夫婦は互いに気づかないふりをし、近所の目を気にして玄関だけを綺麗に保ち続ける。そして、ある日の夕方、一枚の紙切れが崩壊の引き金になる。それは領収書でも銀行の明細書でも、ほんの些細な紙切れだ。しかし、その瞬間、四十年かけて積み上げてきたものが音もなく崩れ落ちる。怖いのは、貧困が突然やってくることではない。じわじわと迫り来るのを、息が詰まるほどの沈黙の中でじっと見ていなければならないこと。その感覚こそが一番怖い。
神奈川県外れの古い団地。梅雨の雨が続く六月の夕方、白土道代は仕事を終え、スーパーの袋を提げて帰宅の途についていた。中身は百円の豆腐と値引きシールの貼られた納豆、そして冷凍うどんが三袋。バスの駅から少し離れたスーパーで割引時間を待たずに帰ってきたのは、夫の一夫が何時間も前から一人で家にいるからだった。彼は七十歳。認知症の診断を受けてから、一人で長時間過ごさせるのが危険になっていた。
歩きながら道代は頭の中で計算をしていた。夫婦合わせた年金は月に十九万三千円。そこから管理費と修繕積立金で二万八千円。光熱費に約一万六千円。国民健康保険料が一万二千円。食費と日用品で最低でも三万。差し引けば手元に残るのは十万円を切る。パート代を足しても、余裕など一円もない。
団地の外壁が見えてきた。建てられてから四十年が経つ五階建ての建物がコの字型に並んでいる。外壁の塗装は剥げ、ベランダの手すりには錆が浮いていた。エントランスの掲示板には、来月から管理費がさらに値上げされるという張り紙が皺くちゃになって貼ってあった。道代はそれを横目で見ながら通り過ぎた。読んでいないふりをしたが、数字はもう頭の中に入っていた。月々三千円の値上げ。胸の中で石が一つ増えた。
エレベーターを降り、自室の前でドアを開ける前に、道代は一秒だけ息を止めた。それは毎日続けている、ほとんど無意識の習慣になっていた。部屋の中は静かだった。夫の一夫はソファに深く腰を掛け、緑茶の湯のみを膝の上に持ったままバルコニーの方向を向いていた。現役時代は商社の課長職を務めていた男だ。白髪混じりの髪は整えられ、ボタンダウンのシャツにベージュのズボン、靴下までちゃんと履いている。外から見れば、どこかの元社員が穏やかな老後を過ごしているように見えた。
道代は台所に直行し、買ってきた物を冷蔵庫にしまおうとした。とってを引いて扉を開けた瞬間、手が止まった。野菜室の上の棚に、見慣れないものが置いてあった。横長の封筒と書類が一まとめにされている。道代はそれを取り出した。中を広げると、細かい文字で商品名と金額が書かれていた。健康食品の通販商品で、合計金額が四十万円。申込書には、申込者として「白土一夫」という名前が書かれていた。道代は、三秒間動けなかった。
通帳を確認しに行った。夫婦共通の郵便貯金の通帳。最後のページを開くと、そこには確かに「出金 四十万円」の記載があった。残高は一万二千円。道代の指がわずかに震えた。頭の中ではすでに計算が始まっていた。来月の管理費、来月の保険料、夏の電気代。計算するたびに、この残高ではどこにも届かないことがわかった。
リビングに戻ると、一夫はまだ同じ姿勢でバルコニーを向いていた。道代がゆっくりと正面に回り込むと、一夫は顔を上げて、にこりと微笑んだ。その笑顔に悪意はなかった。今日は取引先との大事な挨拶ができた。部長への贈り物として、身体を気遣うサプリメントを送るのが一番喜ばれる。そう、一夫は滑らかに説明した。しかし、その内容は十二年前に退職したはずの会社の話だった。存在しない部長のために、四十万円を使った話だった。道代は通帳を体の後ろに隠した。数字を見せても、それが何を意味するかを今の一夫は理解できない。それを、この一年でゆっくりと学んできた。
道代は無言で台所に戻り、流しの縁に両手をついた。頭の中で数字が積み重なっては崩れた。涙が出そうになるたびに、道代は奥歯を噛みしめる。泣くことは何も変えない。それを長い年月かけて確かめてきた。
翌朝、道代は区役所に行くことにした。一夫の介護認定の申請と、生活支援の相談。それ以外に道がない。朝食も取らず、タンスの奥から取り出した少し色褪せたジャケットを羽織った。一夫が起き出す前に、家を出た。
区役所の窓口で、夫の状態を説明し、書類を出した。診断書はまだなかった。診断書を作ってもらうにも費用がかかり、その費用をどこから出すかがまた問題だったから。介護保険の窓口の職員は、ていねいに説明した。申請を出してから認定調査員が訪問するまで、およそ一ヶ月。その後、審査会の判定が出るまでさらに一ヶ月ほどかかる。道代は、合計で二ヶ月ですかと聞き返した。職員は、標準的なケースでは、と頷いた。二ヶ月は長すぎた。残高は一万二千円。しかし、窓口でそう言ったところで、規定が変わるわけではなかった。
区役所の前の段差に立ち止まり、道代は空を見た。雨は上がっていたが、雲は低く、どんよりとした白い色で晴れる気配がなかった。行くべき場所へ行って、できることをして、それでも壁のどこにも入り口がなかったという事実が、足に重くのしかかっているようだった。
バスを待ちながら、道代は一夫に電話をかけた。出ない。もう一度かけた。やはり出ない。胸の中で何かが冷えた。一夫が電話に出ないのは珍しいことではなかった。しかし、この二ヶ月の間に、一夫が一人でどこかへ行ってしまったことが二度あった。道代はタクシー乗り場に向かった。費用は頭に浮かんだが、今は計算している場合ではなかった。
家に戻ると、一夫はいなかった。テーブルの上のご飯はラップがめくれ、半分ほど食べた後があった。湯のみが倒れていて、中身がテーブルにこぼれて乾いていた。道代は外へ出て、団地の敷地内を探した。駐車場、ごみ集積所の脇、管理棟の前。どこにもいなかった。近くのコンビニでも見つからなかった。
一時間が過ぎ、道代は交番に入った。若い警察官に状況を説明した。一夫の特徴を聞かれ、着ていた服を思い出した。グレーのズボン、白いシャツ、黒いスリッパのまま出たかもしれない。警察官が無線を使った。一時間後、無線が鳴った。一夫が団地から五キロ以上離れた交差点付近で保護されたという。パトカーで現場に向かうと、一夫は濡れた車道の白線の上に立っていた。両手を広げて、通りかかる車に向かって何か叫んでいた。声は届かなかったが、口の動きでわかった。道を塞ぐな、と言っていた。警察官が近づくと、邪魔をするな、会議に遅れると言ったようだった。
道代が車から降り、正面から近づいた。一夫は道代を見て、一瞬、薄い安堵のような表情を浮かべた。すぐに消えたが。それから、また背筋を伸ばして、会議に遅れると言った。声は穏やかになっていた。道代は一夫の腕を取り、ゆっくりと歩道に誘導した。何も言わなかった。言っても今この場で伝わらないことを知っていた。
交番で書類にサインをした。どの書類に何をサインしているのか、道代には確認する気力がなかった。警察官は、できれば早めに医療機関の受診を、と言った。穏やかな口調だったが、その言葉の裏にある意味を道代は正確に受け取った。次は対応しかねる、という意味だ。
タクシーの中で一夫は黙っていた。道代も黙っていた。窓の外に町が流れていった。一夫が小声で、疲れた、と言った。道代は答えなかった。団地に戻ると、エントランスの前に住人が数人いた。管理組合の掲示板の前で話をしていた人たちが、タクシーから降りる二人を見た。道代は気づいていた。視線を感じながら腕を引いて通り過ぎた。誰も声をかけてこなかった。ただ、視線だけが背中に刺さった。
部屋に入ると、道代は一夫の着替えを手伝った。濡れたシャツを脱がせ、乾いたシャツを着せた。一夫はされるがままになっていた。すぐに寝息が立ち始めた。道代は台所の椅子に座った。朝から何も食べていないことに、そこで初めて気づいた。しかし、食べる気にはなれなかった。今日一日でかかったタクシー代。区役所での待ち時間。そして、エントランス前で自分たちを見ていた人たちの目。道代は、今日起きたことの重さを一人で体の中に納めていくしかなかった。外では、また雨が降り始めていた。
翌週、道代はホテルに戻った。仕事が始まってしまえば、考えなくて済む。それが唯一の救いだった。しかし、午前の清掃が終わり休憩室に戻ったところで、支配人の内田から声をかけられた。内田は、最近の稼働率が落ちていて、清掃のシフトを見直さなければならない状況だと切り出した。週四日から週二日に減らしてもらえないかと。給与は比例して下がる。道代は、表情を変えずに、わかりました、と言った。声が震えなかったのは、震える前に奥歯を噛んでいたからだ。
その日の夜、道代は駅のベンチで電卓を弾いた。年金とパート代を合わせて約二十二万円。そこから固定費を引くと、食費に使える金は月に二万円を切る。一人一日あたり、三百円ちょっと。道代は電卓の画面をしばらく見つめてから、そっとバッグに戻した。
翌朝、一夫がまた騒ぎ始めた。誰かが自分の鞄を盗んだと言い張る。道代が鞄はここにあると見せると、それは本物ではないと言う。本物の鞄は会社に置いてある、と言う。道代はなだめながら朝食の準備をした。食器を洗いながら、今日が何日で、次の管理費の引き落としまで何日あるかを数えた。
午後になって、一夫は落ち着いた。眠り始めた。道代はリビングの椅子に座り、窓の外を見た。団地の中の小さな花壇には、まだ何も植えられていなかった。梅雨の雨に濡れて、土が黒く光っていた。道代は頭の中に浮かんだことを、一度追い払い、また浮かんだのを確かめた。娘の美由に電話をする、という選択肢だった。
美由は一人娘で、今年四十歳になる。東京で一人で子供を育てている。三年前に離婚し、その時、一夫は激怒した。離婚は家の恥だと言った。美由が子供を連れて実家に帰ってきた時、一夫は玄関で向かい合い、戻るなら相手とやり直して来いと言った。道代はその場で何も言えなかった。美由はそのまま踵を返し、それきりだった。
それでも今日、道代は電話をかけることにした。二十万円。社会保険料の支払いと、一夫を一度病院に連れて行くために、最低でもそれだけ必要だった。団地の廊下に出て、電話をかけた。美由が出た。道代はまず、お母さんよ、と言った。それから、夫の認知症のこと、貯金がほぼなくなったこと、パートの時間が減ったこと、管理費と保険料が払えなくなりそうなことを話した。それから、二十万円だけ貸してほしいと言った。
電話の向こうで、少しの沈黙があった。それから美由が言った。子供の頃から今まで、お母さんはずっとお父さんの後ろに立っていたね。お父さんが怒鳴れば黙って、お父さんが決めれば従って。私が離婚した時、お父さんは玄関で私を追い返した。お母さんはそこにいた。一言も言わなかった。私はその時、もう連絡しないって決めた、と。美由は怒るでもなく、泣くでもなく、淡々と言った。私は今派遣で働いて、子供を一人で育てている。来月の保育料の目途もまだ立っていない。二十万なんて、どこにもない、と。それから、区役所に相談窓口があるはずだから、そっちに行って。私にはもう何もできない、と。道代が返事をする前に、電話は切れた。
道代は折りたたみの携帯を閉じた。手の中で、その薄い機械が異様に重く感じられた。踊り場に立ったまま、道代は動かなかった。雨の音が廊下に反響していた。体の中で何かが動こうとした。それが何なのかを判断する前に、道代はそれを奥歯で潰した。感情に名前をつけると、それが大きくなる。長い年月かけて、それを学んでいた。
コンビニに寄り、一番安い梅干しのおにぎりを一つ買って、イートインコーナーに座った。ガラスの窓の外を、傘を差した人々が通り過ぎていく。誰も立ち止まらない。誰も道代の方を見ない。おにぎりを食べ、立ち上がって店を出た。雨はまだ降っていた。髪が少し濡れたが、気にならなかった。
七月に入ると、空気の質が変わった。梅雨の湿気がそのまま熱に変わったような重さで、朝から外が白く霞んでいた。部屋のエアコンは三年前から調子が悪かった。その朝、スイッチを入れると、室外機が短い金属音を立てた後、止まった。リモコンにエラーコードが点滅した。窓を全部開けても、外からの風は生ぬるく、熱を運び込むためにしか働かなかった。
一夫はまだ眠っていた。道代は絞った濡れタオルを持ってきて、一夫の首の後ろにそっと当てた。その瞬間、一夫が目を開けた。タオルを持つ道代の手首を掴んだ。強い力だった。道代は反射的に体を引いたが、一夫は離さなかった。一夫は、何をする、と言った。道代は穏やかに、暑いから冷やしているだけよ、と言った。すると、一夫の顔が変わった。目が細くなり、道代の顔をじっと見た。お前は誰だ、と言った。道代は動かなかった。この一年で何度か聞いた言葉だった。私よ、道よ、と静かに言った。一夫はしばらく道代の顔を見ていた。それから手を離した。何事もなかったように、天井を向いた。
道代は修理業者に電話をかけた。近所の電気屋だ。状況を説明すると、今日の午後に伺えますと言った。費用を聞くと、出張費が五千円、部品交換が必要であれば二万から四万円程度、と言った。道代は、来てください、と言って電話を切った。
午後一時、業者がやってきた。一夫は、業者を見るなりすぐに立ち上がり、何のようだ、と言った。声は低く、はっきりしていた。この男は何者だ。会社のスパイじゃないか、と言った。道代が一夫の腕を取ってソファに誘導しようとすると、一夫は振り払った。業者に向かって、帰れ、と言った。業者は、大丈夫ですか、と小声で聞いた。道代は、大丈夫です、と言った。しかし、その間にも一夫は業者に向かって腕を振り上げた。業者が一歩後ずさった。道代が一夫と業者の間に割って入った。一夫は道代を押しのけようとした。力が強かった。道代は玄関まで押されながら、なんとか一夫の体を壁に向けた。業者は、また落ち着かれましたらご連絡ください、と言って扉を閉めた。
部屋の温度はまだ上がっていた。道代は扇風機を出し、一夫の正面に向けてスイッチを入れた。扇風機の風は生温かった。熱を循環させているだけだとわかっていたが、他にできることがなかった。昼食を作って出した。一夫は黙って食べた。食べながら、また会社の話を始めた。今日の午後に重要な取引の会議がある、スーツに着替えなければならない、と言った。道代は食器を洗いながら、そうね、後で着替えましょう、と言った。
一夫が横になって眠り始めたのを確認すると、道代は郵便受けから持ってきていた封筒を開けた。固定資産税の納税通知書だった。分割払いの場合の一期分が七万二千円。期限は今月末だった。その下に介護保険料の通知書があった。道代は二枚の紙をテーブルに並べた。台所の引き出しを開け、奥の方にあった小さな巾着袋を取り出した。道代が長年、少しずつ入れていた現金が入っている。一夫には見せたことがない。万が一のためだけに取っておいた金だ。数えると、四万三千円しかなかった。固定資産税の一期分にすら届かない。道代は巾着袋を引き出しに戻し、閉めた。
夕方になっても気温は下がらなかった。熱帯夜になる予報だった。道代は濡れタオルを首に巻いた。一夫が起き出してきて、暑い、と言った。道代は内輪を渡した。一夫は内輪を手に取ったが、自分を仰ぐのではなく、中に向かって振り始めた。道代は一夫に夕食を食べさせ、薬を飲ませ、歯を磨かせ、着替えを手伝った。一つ一つの動作が、今日の暑さの中でいつもより重くなっていた。
寝室に戻り、道代も横になった。眠れないとはわかっていたが、体を横にするだけでも違う。しかし、眠れなかった。天井を見ていた。扇風機の音がしていた。固定資産税、介護保険料、エアコンの修理代、パートの収入が減った分、来月の管理費。数字が積み重なるたびに、それを崩す方法を探した。どこにも出口がなかった。
一夫の寝息が規則正しく続いていた。道代は一夫の方を向いた。暗い部屋の中で、一夫の輪郭だけが見えた。布団から肩が少し出ていた。道代は手を伸ばして、布団を一夫の肩まで引き上げた。その手が、布団の脇に置いてあった枕に触れた。道代は枕の端を持った。無意識の動作だった。枕がずれているから直した、というだけの動作のはずだった。しかし、その瞬間、道代の頭の中に一つの考えが浮かんだ。言葉の形をしていなかった。映像に近かった。静かな映像だった。一夫が苦しまない。道代も解放される。税金の通知書も、修理業者の顔も、美由の声も、区役所のアクリルの仕切りも、全部が終わる。その後にある静けさだけが、頭の中に一枚の絵のように浮かんだ。
道代は枕を手に持ったまま、動かなかった。暗い部屋の中で、扇風機が回り続けていた。月明かりが薄くカーテンの隙間から入っていた。道代は自分の手を見た。暗くてよく見えなかったが、手の輪郭は分かった。その手が枕を持っていることが分かった。体の中で何かが急速に冷えていった。道代は枕をそっと元の位置に置いた。そして、後ずさりした。壁に背中が当たるまで下がった。壁の冷たさが背中に伝わった。道代はそのまま壁に沿って床に座り込んだ。膝を抱えた。自分が何をしようとしていたかを整理しようとした。整理できなかった。整理すること自体が怖かった。言葉にした瞬間、それが現実になる気がした。どれだけそこにいたか分からない。十分か、三十分か。
一夫が寝言を言った。小さな声だった。何を言ったのかは聞き取れなかった。しかし、声が出たという事実だけで、道代の体が少し動いた。ゆっくりと立ち上がった。足が少し震えていた。台所に移動し、水を一杯飲んだ。水が冷たかった。その冷たさだけが、今の道代に届く唯一の感覚だった。コップを置いて、台所の床に座った。背中を冷蔵庫に預けた。冷蔵庫のコンプレッサーの低い振動が背中に伝わった。道代はそのまま夜明けまで、そこにいた。
明かりだけが、立ち込めてきた。外が少し明るくなり始めた。鳥の声が聞こえた。道代は立ち上がり、洗面台に行き、顔を洗った。鏡を見た。今日は視線をそらさなかった。何かを確かめるように、自分の顔をしばらく見た。自分がまだここにいることを確かめるように。台所に戻り、やかんを火にかけた。お湯が湧くまでの間、道代は窓の外を見た。団地の向こうに白い空が広がり始めていた。
昨日の夜、自分が何をしようとしていたか、道代は今、はっきりとわかっていた。それを一度言葉にしてしまった。今、もう曖昧にしておくことはできなかった。このままでは、どちらかが壊れる。一夫か、道代か。道代はやかんを火から下ろし、引き出しを開けて、紙を一枚取り出した。古い封筒の裏面だ。鉛筆を取って、書き始めた。計算ではなかった。考えを書き出す作業だった。このまま続けることはできない。一夫を施設に入れるには認定が必要で、認定まであと一ヶ月以上かかる。お金はそこをついていく。自分一人では限界だ。そこまで書いて、鉛筆が止まった。もう一度鉛筆を動かした。今度は、違う言葉を書いた。離婚。その文字を書いた後、道代はしばらく文字を見ていた。四十年間、一度も頭に浮かばなかった言葉ではなかった。しかし、浮かんだとしても、すぐに沈めてきた言葉だった。世間体のプライド、近所の目。そういうものが、その言葉を水の底に押し込み続けてきた。しかし、今道代が向き合おうとしているのは、体裁ではなかった。生き延びることだった。
その日の午後、一夫が昼食を食べて横になった後、道代は図書館に行った。スマートフォンは持っていなかったから、調べ物は図書館の端末を使うしかなかった。道代は「介護離婚」という言葉を検索した。配偶者が認知症や重度の疾患を抱えた場合に、法的に離婚をして相手を身寄りのない高齢者として公的な福祉の網に引き渡すという選択をする家族が一定数いることが書かれていた。次に、生活保護の単身世帯の基準額を調べた。二人世帯の十九万円ではなく、単身では十三万円程度が基準だった。道代の年金は夫婦合算で十九万三千円だったが、一夫の分を除いた道代一人の年金は八万四千円だった。単身になれば、その金額は受給要件を大幅に下回る。つまり、離婚して一人になれば、道代は生活保護の受給対象になる可能性があった。その計算を確かめるために、もう一度数字を打ち直した。答えは変わらなかった。
その夜、一夫が眠ってから、道代は暗い部屋の中に座っていた。昨夜は何もできないまま朝を迎えた。今夜は、何かを決めようとしていた。道代は長い時間をかけて考えた。離婚という言葉の意味を、四十年という時間の重さに当てはめて考えた。道代は自分の中に罪悪感があるかどうかを確かめた。あった。薄くではなく、ちゃんとあった。一夫は、今自分が何をされているか分からないままになる。それが道代の胸を刺した。しかし、その隣に別の感覚もあった。昨夜、暗い部屋で枕を手にしていた時の感覚だ。あのまま続けていれば、どこかで本当に取り返しのつかないことが起きる。道代にはそれが分かった。
翌朝、道代は区役所に電話をかけた。離婚届の取得方法と、生活保護の申請窓口について聞いた。二日後、区役所に出向き、離婚届の用紙と記入例をもらった。担当者は若い女性だった。道代が状況を説明すると、女性は少し間を置いてから言った。ご主人のご署名が必要になりますが、認知症の場合は代筆が認められる場合があります。ただし、医師の診断書か成年後見人の選任がある場合に限られます、と。道代は診断書を取っていないことを告げた。女性は、診断書があれば手続きが進みやすくなります。かかりつけの医に依頼することをお勧めします。費用は医療機関によって異なりますが、三千円から一万円程度が多いです、と付け加えた。
かかりつけの医師に電話をかけたのは、その翌日だった。山下医は七十代で、この団地の近くで長年開業している。診断書が必要な理由を聞かれ、道代は正直に言った。離婚の手続きのためです、と。電話の向こうで少し間があった。それから、山下は言った。わかりました。来週の火曜日に来てください。費用は五千円です、と。余計なことは言わなかった。
火曜日に診断書を受け取り、その足で区役所に向かった。担当の窓口に書類を提出した。離婚届の、一夫の欄には、道代が一夫の名前を書いた。手が震えなかった。担当者は書類を確認し、受理しました、と言った。それだけだった。大きな音はなかった。何かが終わったとは思わなかった。何かが始まったとも思わなかった。ただ、一つの書類が受理された。それだけが起きた。
それから二週間が経った。福祉施設の送迎車が団地の前に来たのは、平日の午前十時だった。道代はその朝、一夫に普段より時間をかけて着替えを手伝った。一夫が好きな濃いグレーのズボンと、白いカッターシャツ。ボタンを留めてやりながら、道代は何も言わなかった。一夫も何も言わなかった。車が来る少し前、一夫は自分で押入れから黒い革の鞄を引っ張り出してきた。随分前から中身が入っていない鞄だ。一夫はその鞄を手にして、玄関の前に立った。道代は一夫の後ろに立って、その背中を見た。背筋が伸びていた。白いシャツの肩幅が広かった。若い頃の一夫も、こうだったと道代は思った。何かに向かって出かける時、一夫はいつも背筋を伸ばした。
インターホンが鳴った。道代が扉を開けると、三十代の男性職員が立っていた。一夫は職員を見て、目を少し細めた。それから、うむ、と言った。会社の人間か、と聞いた。職員は落ち着いた声で、本日はお迎えに参りました、とだけ言った。一夫は頷いた。そうか、と言った。それから鞄を持ち直して、廊下に出た。廊下に出る前に、一夫が振り返った。道代は、一夫を見た。その瞬間、一夫の目に何かが宿った。霞のかかったような目の中に、一瞬だけ別の光が差した。それが何かを、道代はうまく説明できなかった。一夫は言った。留守を頼む、と。それだけだった。道代は動かなかった。口も開かなかった。一夫は職員の後について、廊下を歩き始めた。鞄を下げた右手が揺れた。背筋は、最後まで伸びていた。エレベーターの扉が閉まった。
道代は玄関の扉の前に立ったまま、動かなかった。しばらくして、扉を閉めた。部屋の中が静かだった。いつもと同じ静けさではなかった。一夫がいる時の静けさは、いつでも一夫が動き出す可能性を含んでいた。今の静けさは違った。その可能性が、部屋から抜け出ていた。
夕方になった。道代はスーパーに行った。値引きシールはまだ貼られていなかった。夕食に何を買うか、しばらく考えた。今日から、一人分でいい。その事実が、棚の前で初めて実感として降りてきた。豆腐を一丁取った。一丁で足りる。それから、卵を六個入りのパックを取った。十二個入りを買わなくていい。そのことが、奇妙なほど具体的に今の状況を示していた。
部屋に戻り、豆腐を切り、卵を解いた。包丁の音だけが部屋に響いた。食事をテーブルに並べ、椅子に座った。向いの椅子が空だった。道代はその椅子を見た。クッションが、少しくびれていた。一夫が毎日座っていた場所だ。四十年分のくびれ方だった。道代は箸を持ったまま、しばらくその椅子を見ていた。怒りはなかった。後悔も、今は言葉にできなかった。ただ、四十年がそこにあった。食べ始めた。薄味にしすぎたかもしれないと思った。一夫はいつも薄味を好まなかったから、道代は長年、少し濃い目に作ってきた。今日は自分の好みで作った。それが薄味だったとは、思わなかった。
食事が終わり、食器を洗い、リビングに戻って電気を消した。道代は一夫が座っていた場所を避け、反対側の端に座った。壁の時計が、勝ちカチと一定のリズムで刻んでいた。道代はその音を聞いていた。今日という一日を、最初から順番に辿った。朝の顔。離婚届の受理。二週間前の話。今日の午前十時に廊下を歩いていった背中。留守を頼む、という言葉。その言葉が音として頭の中で鳴った。一夫がどういう意味でその言葉を言ったかは、道代には分からなかった。四十年間使ってきた言葉を、習慣として口にしたのかもしれない。あるいは霧の中で一瞬だけ見えたものがあって、それを言葉にしたのかもしれない。どちらかは、永遠に分からなかった。
道代の目から、涙が出た。泣くつもりはなかった。意識的に泣こうとしたわけでもなかった。ただ出た。道代はそれを拭わなかった。しばらくそのままにしていた。泣き声は出なかった。声を出さない泣き方を、道代は長年かけて身につけていた。しかし今夜は、隣を気にしたから声を抑えたわけではなかった。声が出なかった、というだけだった。
涙が止んだ。道代は袖で目の下を一度だけ拭いた。立ち上がり、台所に行き、水を飲んだ。冷蔵庫を開けた。明日の朝食のことを考えた。卵があった。豆腐が残っていた。ご飯は昨日炊いたものが残っている。それで足りると思った。冷蔵庫を閉め、電気を消し、寝室に向かった。布団を敷いた。自分の分だけ敷いた。隣の分を敷かなかった。横になった。天井を見た。扇風機の音がしていた。外から夜の虫の声がしていた。時計の音がしていた。それだけだった。道代は目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。しかし今夜は、昨夜のように床に座ることはないと思った。それだけは分かった。明日も朝が来る。やかんを火にかける。お湯が湧く。それだけのことが、明日も続く。道代は目を閉じたまま、その事実だけを頭の中に置いていた。壁の時計が、続いていた。
