銀行の窓口で、板倉と名乗る若い行員が、こちらの記入済みの引き出し用紙をちらりと見て、一瞬手を止めた。二万円という金額を確認した途端、彼の口元に微かな笑みが浮かんだかと思うと、小さな声で独り言のように呟いた。
「ねえ、まんぼっちで窓口まで来てんじゃねえよ」
耳の良い俺には、はっきりと聞こえた。だが、後ろには大勢の客が待っている。文句の一つも言いたかったが、ここで騒いで迷惑をかけるわけにもいかない。俺は怒りを飲み込み、何も言わずに案内された席で自分の番号が呼ばれるのを待った。
俺の名前は柏木雄太郎。清掃会社を経営している。父から会社を継いだのが二十五歳の時で、あれから四十年。気がつけば六十五歳になっていた。規模は大きくないが、地元の人々に慕われ、社員は家族同然のような雰囲気でやってきた。今でも自ら現場に出て、社員たちと共に汗水を流して働いている。さすがに体力の衰えは感じるが、まだ若い者には負けるつもりはない。息子も数年前から社員として働き、しっかり経験を積んでいる。そろそろ譲って隠居しろと言う者もいるが、体が動くうちは働き続けるつもりだ。
会社の近くに大手銀行の支店があり、いつ行っても気持ちのいい対応をしてくれる行員が多かった。機械の操作が得意ではない俺は、いつも窓口を利用していた。仕事関係の用事でもプライベートの用事でも、重宝していたのだ。
あの日も、仕事の休憩時間に銀行を訪れた。昼時だったからか、銀行内は混雑していた。番号札を受け取り、椅子に座って順番を待つ。その時、窓口で対応している見慣れない顔の行員が目に入った。かなり若い見た目で、新人だろうと思った。対応はスムーズで、忙しい中でも笑顔を絶やさず働いている。最近の若者は、自分たちの時代より飲み込みが早く、要領のいい人材が多い気がする。そんなことを考えていると、俺の番号が呼ばれた。
担当になったのは、先ほど観察していた若者だった。名札には「板倉」と書いてある。彼は笑顔を崩さず対応を始めた。
「お待たせいたしました。今回はどのようなご要件でしょうか」
「引き出しをお願いします」
俺が記入済みの用紙を差し出すと、板倉は確認して一瞬手を止めた。
「お客様、金額は二万円でお間違いないでしょうか」
「はい、間違いないです」
それを聞いた板倉は一瞬黙ったが、すぐに笑顔を取り戻して言った。
「準備できましたらお呼びいたしますので、少々おかけになってお待ちください」
俺が後方の席へ向かおうとしたその時、背後から小さな声が聞こえた。
「貧乏人が銀行来てんじゃねえよ」
さすがにカチンと来て振り返ったが、板倉はそしらぬ顔で次の客を案内し始めていた。俺は怒りを飲み込んで、その場を後にした。
その後も、俺が銀行を利用するたびに、担当が板倉になることが度々あった。最初の頃は独り言のように小さな声だったが、最近ではわざと俺に聞こえるように嫌味を言ってくるようになっていた。それでも、板倉が担当でない時はこれまで通り気持ちのいい対応をしてくれるし、会社から近くて便利だから、俺は我慢して利用し続けた。そのうち彼も興味を失くすだろう。そう期待していたが、彼が変わることはなかった。
あの日は、従業員への給料の振り込み日だった。いつもなら給料日に現場の仕事はあまり入れないのだが、その日はどうしても外せない現場作業が早朝から入っていた。現場から戻ると、かなり時間が経ってしまっていた。給料は給料日の朝十時までに振り込むのが、俺の会社の決まりだ。少し遅れたところで文句を言う者はいないかもしれないが、今まで守ってきたルールを破っては、従業員に示しがつかない。
着替える時間も惜しく、俺は現場帰りの汚れた作業服のまま銀行へ向かった。銀行に長居するわけでもないし、誰も俺の服装なんて気にしないだろう。いつも通り混雑する銀行で、俺は番号札を取り、順番を待った。どこの会社も給料日は大体決まっているから、当日は銀行がいつも以上に混雑する。番号札を取った時も、待ち時間は二十分から三十分と表示されていた。着替えていたら間に合わなかったかもしれない。胸を撫で下ろしていると、自分の番号が呼ばれた。
「五十二番の番号札でお待ちのお客様」
板倉の声だった。俺は憂鬱なため息をついたが、並び直すのも時間の無駄だと思い、仕方なく彼の窓口へ向かった。
「汚ねえ服」
俺が窓口に立つと、板倉は顔をしかめながら言った。俺はその言葉を聞き流し、用意しておいた振り込み用紙を差し出した。だが、板倉は俺の服装をじろじろと眺めるだけで、用紙を見ようともしない。
さすがに客に向かってその態度はないだろう。俺が言い返そうと口を開くと、板倉はため息をつきながら話し始めた。
「そんなボロボロの薄汚れた服で銀行に来て、恥ずかしいとは思わないんですか」
「すみません、朝から仕事があったもので」
確かに、今の作業服はくたびれているし、現場帰りで汚れてはいた。だが、それをわざわざ指摘する必要があるのだろうか。イラっとしながらも、俺は彼の言葉を軽く流した。すると、その態度が気に食わなかったのか、彼はさらに言い寄ってきた。
「あなたは知らないかもしれませんけど、この銀行は結構大手なんですよ。そんな恰好の人が出入りしてるってなったら、銀行のイメージが悪くなるんですよ」
「銀行を利用するのに、服装なんて決められてないですよね。それはあなたの勝手な意見じゃないんですか」
「いやいや、銀行来る前にせめて着替えてこれますよね。そんな汚い格好で銀行に行こうなんて、普通考えなくないですか」
「今日は時間がなくて急いでいたから、着替える暇なんてなかったんですよ。早く振り込みを受け取ってくれませんか」
俺が苛立ちながら促すと、彼はやれやれといった様子で話し続けた。
「わからない人だなあ。遠回しに早く出て行けって言ってるのが伝わりませんか。忙しいんだから、迷惑なんですよ」
「自分で言うのもなんですが、客に向かってその態度はないんじゃないですか。服装がよくないと銀行を利用してはいけないんですか」
俺の言葉に、板倉は見下したような笑みを浮かべながら答えた。
「そもそもいつも少額なのに窓口まで来られて、普段から迷惑してたんですよ。あなたのこと、客だなんて思ったことありませんから」
彼のあまりの発言に、俺は怒りを通り越して呆れてしまった。よくこんな態度で銀行員が勤まるものだ。きっと客を選んで対応を変えているのだろう。ここでいつまでも言い合っていても、時間の無駄でしかない。待っている人も少なくなっていたため、俺は板倉にお願いするのを諦めて、並び直すことにした。
「そうですか。わかりました」
俺が振り込み用紙を回収してその場を去ろうとすると、板倉は嘲笑うように手を振りながら言い放った。
「貧乏人はタンス預金でもしとけ」
俺は振り返って文句を言おうと思ったが、彼とやり合っても何の意味もない。ただ時間を無駄にするだけだ。俺は拳を握って耐え、新しい番号札を取って椅子に座った。今まで長年この銀行を利用してきたが、こんな見下された対応を受けたことはない。俺の我慢にも限界がある。
新しい番号が、板倉とは違う窓口から呼ばれた。そこではスムーズに振り込みを終えることができた。俺は銀行を後にしながら、板倉一人のために嫌な思いをし続けるのはもう嫌だと思った。不便にはなるが、駅前の銀行に口座を移そうか。そう考えながら会社に戻り、息子に相談してみることにした。
そこで俺は、今はどこにいてもネットで振り込みができるということを知った。息子からやり方を教わると、最初は悪戦苦闘したが、何回かパソコンをいじってみると、なんとかできそうな気がしてきた。分からなくなったら息子に聞きながらやればいい。いちいち銀行まで足を運んだり、用紙に記入したりしなくていいのは、とても便利だ。
俺は次の休みに駅前の銀行へ行き、新しい口座を開いてネットの登録も済ませた。そしてその次の日、今まで利用していた銀行を訪れた。今日はそれほど混雑しておらず、俺の番号はすぐに呼ばれた。
「本日はどのようなご要件でしょうか」
「口座内のお金を全て、別の口座に移したいのですが」
俺から通帳を受け取り、中を確認した女性行員は、焦ったように質問してきた。
「えっと、失礼ですが、口座内の全額をですか」
「はい、五千万全てです」
「最近は振り込め詐欺などの被害も増えておりますが、その心配はございませんか」
「はい。新しい口座を作ったので、お金を移してこちらを解約しようと思いまして」
「少々お待ちください」
そう言うと、女性行員は俺を個室のブースへ案内し、慌ただしく奥へと戻っていった。しばらく待つと、名札に「店長」と書かれた山田という男性が現れた。
「柏木様、お待たせいたしました。私、店長の山田と申します。私が柏木様のご対応をさせていただきます」
そう言って頭を下げると、店長は冷や汗を流しながら俺に質問してきた。
「今回は、口座内の五千万円全額を別の口座に移したいとのことで、お間違いでしょうか」
俺が頷き、駅前にあるこの銀行のライバル銀行の名前を出すと、店長はさらに焦った様子で話し始めた。
「駅前だと、柏木様のご登録されている会社から少し遠くなりますよね。こちらの方が近くて便利だと思うのですが」
その後も、店長はなんとか解約を回避しようと、あれやこれやと案を出してきた。だが、俺はもう決めたことだと突っぱねた。今までお世話になったことには感謝しているし、この支店を含め、ほとんどの行員に不満はない。ただ、板倉の顔をもう見たくないし、関わりたくもないのだ。
「かしこまりました。最後に、解約を決められた理由を差し支えなければお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
「この支店に、板倉という男性がいますよね。彼に『貧乏人はタンス預金でもしとけ』と言われましたので」
俺が言うと、店長は顔面蒼白になり、信じられないといった顔になった。
「えっ、板倉がそんなことを……」
「今、彼を呼んできますので、少々お待ちください」
そう言って慌てて奥へと引き返すと、店長は板倉を連れてきた。店長に引きずられるように現れた板倉は、一体何事かといった様子で眉をひそめている。
「君は、この方にとても失礼なことを言ったらしいじゃないか。謝罪しなさい」
「えー、やですよ。俺、間違ったこと言ってないですから」
どうやら彼は本当に、自分がしたことは間違っていないと思っているようだ。平然と言ってのける。
「この人が毎回毎回、忙しいのに少額のくせに窓口に来るから迷惑だって言っただけですよ」
「なんてことを言うんだ。金額の大小でお客様への対応を変えるなんて、教えたつもりはないぞ」
「なんか言ったらわかるんですか。しかもこの人、こないだなんてボロボロの汚ったない作業服で来たんですよ。ありえないじゃないですか」
店長と板倉のやり取りを聞いて、俺は彼が今までにも俺と同じような対応をしたことがあると理解した。そのことで店長から注意されていたにも関わらず、懲りずに俺へも見下した態度を取っていたようだ。彼の様子を見るに、反省などしておらず、ただ怒られたことが気に食わないといった感じだろう。
「そうだとしても、お客様にもそれぞれ事情があるんだ。私たちがどうこう言うことが間違ってるんだ。いいから、早く謝罪しなさい」
「店長、なんでこんな貧乏人のことをそんなに気にするんですか」
店長は怒りを懸命に抑えているようで、わなわなと震えていた。だが、深い息をして、板倉に話して聞かせた。
「柏木様は貧乏人なんかじゃない。会社の経営者なんだ。今だって、この銀行の口座を解約して、中にある五千万円を違う銀行の口座に移したいとおっしゃっているんだ」
「はあ? 五千万?」
「だって、いつも少額だったじゃないですか」
「それは法人口座ではなく、俺のプライベートの口座の方だよ」
実は俺は、この銀行に法人用と個人用の二つの口座を持っていたのだ。普段のやり取りはほとんど個人用の方を使っていて、会社関連のものは法人口座を使っていた。先日の給料の振り込みの際も、法人口座を使うつもりだったのだが、板倉は振り込み用紙すら見ようとしなかった。彼が知らなかったのも無理はない。
「そんな知ってたら、俺だってちゃんと対応しましたよ」
「だから、そうやって人によって対応を変えることが、そもそも間違ってると言ってるんだ」
「この度は申し訳ございませんでした。どうか解約は撤回してもらえませんか」
板倉が急に態度を変えて頭を下げてきたが、俺はその謝罪を突っぱねた。
「反省していないのに謝られても、何の意味もないので。謝らなくて結構ですよ」
「反省してます。今後は気をつけますから」
「これまでも店長さんから何度も注意されていたようじゃないか。それでも治らないということは、反省していないからじゃないのかい」
俺の言葉に、板倉はきっと俺を睨みつけてきた。
「人が下に出てるからって調子に乗るなよ。そもそも、そっちが紛らわしい格好してたり、少額で窓口使ってるから、俺が勘違いしたんじゃないか」
やはり、反省はしていないらしい。
「店長さん、すみませんが、彼と話していても拉致が開かないので、解約の手続きを進めたいのですが」
「彼の失礼な言動、本当に申し訳ございません。私が責任を持って対応させていただきます」
そう言って店長は再度頭を下げ、板倉に向き直った。
「君には今回の責任をしっかり取ってもらうから、そのつもりでいなさい。私が呼ぶまで、自分の席にいるように」
「ああ? なんで俺が責任取らないといけないんですか」
「君のせいで、五千万円の大口顧客を失うことになったんだ。当然だろう」
店長が怒鳴りつけると、板倉はさすがに押し黙り、自分の席へと戻っていった。結局彼は、自分の言動が間違っているとは理解できないようだ。俺の会社にいる若い従業員たちが、板倉のようでなくて本当に良かったと思う。今までにも似たようなことがあったであろう店長の苦労を思うと、気の毒に感じた。
その後、店長はスムーズに口座の移動と解約の手続きを進めてくれた。全て終わり、俺が礼を言って銀行を出ようとすると、店長は出口まで案内してくれた。
「長らくご利用いただき、ありがとうございました。今後も何かございましたら、いつでもお立ち寄りください」
店長には悪いが、俺がこの銀行を利用することは今後ないだろう。
それから、風の噂で聞いたところによると、板倉は今回の責任を取らされ、地方の支店へ飛ばされることになったらしい。しかし彼はそれを受け入れず、拒否して自ら辞めてしまったようだ。店長の最後の温情を無にした彼は、今はなかなか就職先が決まらず、アルバイトで食いつないでいるとのことだ。小さな町だから、こういった噂はすぐに耳に入ってくる。彼のあの人を見下す言動を反省して改めなければ、就職は難しいだろう。
俺はと言うと、ネットを活用することにもだいぶ慣れてきた。やり始めると、なぜもっと早く試してみなかったのかと思えるほど重宝している。今回のことを教訓にして、新しいことにも挑戦しながら、今後も仕事に邁進していこうと思っている。
