結婚して三年が過ぎた頃だった。朝、工房で土を練っていると、胸の奥が不意にむかむかとした。最初は軽い吐き気だと思った。座っていれば収まる日もあった。けれどそのうち腹が痛み、喉に違和感まで現れた。薬を飲んでも治らない。
夫の和真は決めつけた。
「やっぱり工房のせいじゃないか。粉も舞うし、薬液も使うし、体にいいわけないだろう」
私は対策をしてきた。削りの工程ではマスクをし、換気も回す。薬液を扱う時は手袋を使う。それでも和真は言う。
「そこまでして続ける意味はある?」
峠芸をやめるつもりはなかった。仕事はようやく軌道に乗り始めたばかりだ。展示の依頼も増え、常連の店からも定期的に注文が入るようになっていた。和真は私が工房にこもるたび、機嫌を悪くした。冷たく仕事を責めたかと思うと、翌日には急に優しくなる。
「昨日は悪かった。ごめん。これ食べて」
差し出されたのは弁当だった。卵焼きに焼いた肉、それに小さな容器に入ったサラダまでついている。別の日には果物を潰したジュースを持ってきたこともあった。体にいいから、と言って。彼の優しさは私の機嫌を取るための表面的なものにしか見えなかったが、もらえる日もあれば、机の端に置いたまま仕事に戻る日もあった。
ある日、工房で広代を削っている最中に吐き気が強くなった。腹が差し込むように痛み、その場に座り込んだ。さすがに病院へ行かなければならない。スマホで近くの内科を探していると、和真が横から画面を覗き込んできた。
「そこじゃなくてこっちにしなよ。駅前のクリニック。評判もいいし、会社の人も褒めてた。明日の朝、一緒に行こう」
体調が悪くて強く断る気力もなく、私は言われるがまま予約を取った。
翌朝、診察室に入ると山羊沼誠一という名札をつけた医師がいた。四十手前くらいの細身の男で、白い襟元までしっかりと整えている。横には看護師が一人控えていた。二階堂舞。私と同世代に見えた。
私が丸椅子に腰かけた途端、和真が口を開いた。
「生活リズムがかなり不規則なんです」
質問を待たずに話し出す和真に、医師はわずかに驚いているようだった。
「和真、私が自分で話すから」
「毎日工房に長くこもっていて、粉塵を吸い込んでいるせいだと思います。薬液を使う作業もありますから」
「だから扱いには気をつけてるって」
「でも妻は制作に入ると無理をするんです。多分仕事をやめれば落ち着くと思うんですけど」
山羊沼はちらりと和真を見て、それから私に向き直った。
「いつ頃からですか」
「多分、三か月くらい前からです。吐き気はここ数週間で頻度が増えて、昨日は特にひどかったので」
「工房にいる時が多いですか」
「はい。長時間作業した日の方が症状が重いですね」
「毎回じゃないよ。午前中は平気だし」
和真が横から口を挟む。私は無視して自分の言葉で答えた。そのやり取りの途中で、山羊沼が不意に顔を上げた。
「何か食べ物のアレルギーはありますか」
「アレルギーですか」
意外な単語に私は記憶を探った。しばらくして、子供の頃に母から強く食べるなと言われていた果物を思い出す。
「あ、そうだ。キウイです。口の中が荒れて喉も変になるので」
「キウイですか。でもそんなの最近食べてないだろ」
「うん。そもそも味が嫌いだから避けてる」
看護師の二階堂が手に持っていたバインダーを床に落としたのはその時だった。乾いた音が診察室に響く。
「失礼しました」
彼女が散らばった書類を拾い上げる。山羊沼は表情を変えず、落ち着いた声で言った。
「ジュースや加工品も含めて、キウイを口にした可能性はないと思います。家でも出してませんよ」
和真の返事の後、山羊沼はしばらく黙った。視線が私から和真、それから看護師へ移る。
「ご主人は一旦外に出てもらえますか」
「え、なんでですか」
「ご本人に確認したいことがあります。二階堂さんも外してください」
看護師はほとんど何も言わずに立ち去った。和真は納得のいかない顔をしていたが、山羊沼に促されてしぶしぶ出ていった。扉が閉まる。直後、山羊沼は内側から鍵をかけた。
「あの、先生」
「驚かせてすみません」
山羊沼は私のすぐ耳元に近づいて、こう言った。
「すぐ、家を出てください」
私はポカンと口を開けて固まった。何を言われたのかすぐには理解できなかった。彼の顔には切迫した緊張感が浮かんでいる。頭の中で激しく鐘が鳴り始めた。
「あの、先生。それってどういうことですか」
「これから私が話すことを、落ち着いて聞いてください。まだ断定はできませんが、あなたの症状について気づいた点があります」
「吐き気、腹痛、喉の違和感。この組み合わせは食物アレルギーでも起こり得ます」
「でも私、キウイは食べていません」
「だからこそです。避けているはずのものに体が反応している。そうなると、本人が気づかない形で摂取している可能性を考えます」
その説明を聞いた瞬間、背筋が冷えた。頭に浮かんだのは、和真が工房に持ってきた弁当とジュース。体にいいから、と渡してきたもの。今思えば、具合が悪くなるのは決まって差し入れを口にした後だった気がする。
「まさか」
「ご主人が最初から症状の原因を工房に寄せようとしていたのが気になりました。患者本人の訴えを遮って、明らかに話を誘導していた。だから席を外してもらったんです」
「でも、それで犯人だと決めつけるのは」
「そうですね。でも私がご主人を疑う理由は他にもあります。実は看護師の二階堂さんについても気になる点がありまして」
さらに声を落とした山羊沼。彼が本題に入ろうとしている。
「あの看護師さんが」
「はい」
「彼女はご主人と付き合っています。私は街中で二人を見かけて、偶然その事実を知りました。今日会うまでは、まさか既婚者だとは思いませんでしたが」
「そんな」
「彼女も診察中の反応が不自然でした。ご主人と共犯である可能性もあります」
頭の中でバラバラだったものが一気に繋がった。和真がこの病院を強く勧めたのは、二階堂が勤めているからだ。私が話そうとするたび先回りして口を挟んだこと。アレルギーの話題が出た瞬間、バインダーを落とすほど動揺した看護師の姿。それらが示す真実は一つだ。
「先生、警察には」
「現時点では証拠が足りません。私の推測で通報しても、動けない可能性が高いです」
「じゃあ、私はどうしたら」
「まず家を出る準備をしてください。食べ物と飲み物は自分で管理すること。すぐに動けない事情があっても、警戒は絶対に解かないでください」
山羊沼は引き出しからメモを取り出し、手早く何かを書いた。差し出された紙には病院の番号ではなく、個人の連絡先らしい数字が並んでいる。
「これは私の連絡先です。何かあったらすぐ連絡してください。できる限り協力します」
「どうしてそこまでしてくれるんですか」
「患者を守るのも仕事ですから」
紙を受け取った指先がわずかに震えていた。
家に帰る道すがら、私はいつも通りの自分を装い続けた。和真は機嫌よく歩いている。
「本当に大事にならなくて良かったな」
「そうだね」
「やっぱり無理してたんだよ。少し休めば戻るって」
「うん」
短く返事をするたび、心臓が早鐘を打つ。隣を歩く相手が、もしかしたら私にアレルゲンを口にさせていたかもしれない。そう思うと首元が締め付けられる感覚になった。
家に着くと和真は先にシャワーを浴びると言って浴室へ入った。扉が閉まり、水音が響き始めた瞬間、私は寝室へ向かった。展示会の記録用に買った小型カメラが引き出しの奥にしまってあったはずだ。箱を引っ張り出し、充電が残っていることを確かめる。指先が震えて、最初はうまく操作できなかった。
カメラを棚の隅に置き、キッチンが映る角度にそっと向けた。自分の家をこんな風に隠し撮りする日が来るなんて思っても見なかった。
その夜、和真は妙に優しかった。
「今日はもう何もしなくていいよ。明日工房も休めば」
「うーん。少し様子見てみる」
「無理するなよ。朝、消化にいいもの作っとくから」
翌朝、和真が出勤すると私はすぐカメラを回収して工房へ向かった。ノートパソコンを開き、再生ボタンを押す。映像の最初は何の変哲もない調理風景だった。和真が冷蔵庫を開け、野菜を取り出し、まな板に並べる。けれど途中で、見覚えのある緑色が画面に映った。キウイだ。
嘘でしょ。
和真はキウイを半分に切り、スプーンで果肉をくり抜き、迷いなくミキサーへ入れた。妙に手慣れている。他の果物や野菜と少量の水を注ぎ、蓋を閉め、スイッチを押す。私はそこで映像を止め、椅子の背に深く凭れた。山羊沼の推測は正しかったのだ。
昼を過ぎた頃、工房の戸が開いた。振り向くと和真が紙袋を下げて立っている。
「具合どう」
「まだ少しだるい」
「だから言っただろう。食べやすいものを持ってきたぞ」
紙袋の中にはサラダと、中身の見えないボトルに入った手作りジュースが入っていた。
「野菜なら入るかなと思って。ちゃんと食べて。昨日もあんまり口にしてなかったし」
「ありがとう」
私は疑いを悟られないように頷きながらも、蓋を開けなかった。中身を見たら最後、不審な顔をしてしまうに決まっている。
「ごめんね。今ちょっと気持ち悪くて。後でいいから食べてね」
和真が帰った後、私は紙袋を見下ろしたまましばらく動けなかった。意を決して蓋を開けると、サラダにもジュースにも、キウイらしきものが入っていた。どうして今まで気がつかなかったのだろう。
その日のうちに、私は実家へ戻ることを決めた。両親とゆっくりしたい、と和真にメールを送ると、彼は「その方が安心かもな。落ち着いたら戻っておいで」と返してきた。いかにも優しい文面を見た時、吐き気とは別の気持ち悪さが込み上げた。この後に及んで、和真は良き夫を演じている。
実家に戻って一週間後、体調は目に見えて落ち着いていた。吐き気はほとんど消え、腹の鈍い痛みも喉の違和感も消えている。食卓に並ぶものを疑わなくていい。その当たり前が、どれほど大きかったのか。
そして母が、かが工房へ持ってきたサラダとジュースを検査に出していた。結果が届いたのだ。
「そう。サラダにもジュースにも、キウイ由来の成分が出てる」
「両方とも」
「ええ。偶然で片付けられる量じゃないわ」
私はしばらく何も言えなかった。映像を見た時点でもう覚悟はしていたはずだったけれど、文字で突きつけられると重みが違う。
さらに探偵事務所からの報告書も届いた。和真と二階堂が二人で会っている写真。食事をして、その後ホテルへ入り、時間を置いて出てくる。一度や二度ではない。何度も同じような記録が並んでいた。
私は山羊沼に電話をかけた。
「夫からの差し入れを検査したら、キウイ由来成分が出たんです。それと探偵の調査で、夫と二階堂さんの関係も確認できました。二人は男女関係にあるようです」
「そうですか。やはりご主人が」
「私はずっと騙されていたみたいです」
「二階堂の関与についてはこちらでも調べます。病院に迷惑がかかるかもしれませんが、できる範囲で確認します」
一週間後、離婚届と内容証明が届いたのだろう。和真が慌てた様子で実家までやってきた。通知の内容は不貞行為とアレルゲン摂取による損害賠償請求だ。母と父にも同席してもらい、私はリビングで向かい合った。
「なあ咲子、こんなのいくらなんでもやりすぎだろう」
「それはこっちのセリフだよ。自分が何したか分かってるの」
「ここに書いてあるのは全部事実無根だよ。本当誤解だって」
そこで母が口を挟んだ。穏やかな口調の中に怒りが滲んでいる。
「では、その誤解とやらを順番に聞きましょうか」
「不貞なんてしてません。二階堂さんとはただの知り合いです」
「ただの知り合いが、何度もホテルに出入りするのか」
「仕事の相談もあったし、食事の流れで休憩したんです。やましいことは何もありません」
私はテーブルの上に置いてあった封筒を開き、探偵の報告書を和真の前へ滑らせた。
「証拠がこれだけ揃ってるんだ」
「写真だけじゃ何も分からないだろう」
「あなたが差し入れたサラダとジュースから、キウイ由来成分が出た」
「それは俺が自分で飲むつもりだったんだよ。家で作ってただけで、咲子に食べさせたわけじゃない」
早口になる和真。状況が不利になっていると自分でも分かっているのだろう。私はノートパソコンを開き、保存しておいた動画を再生した。映ったのは自宅のキッチン。和真が冷蔵庫からキウイを取り出し、慣れた手つきで皮を剥き、ミキサーに入れる。完成した液体を、あの中身の見えないボトルへ注いでいる。
続けてもう一本の映像を流した。工房に設置していた防犯カメラの映像。和真が紙袋を下げて入ってきて、私にサラダとボトルを差し出している。時刻は先ほどのキッチンの映像と同じ日だ。
「あなたが差し入れを持ってきた日だよ。キウイジュースを入れたのと同じボトルだね。自分で飲むつもりだったんじゃないの? キウイ入りの飲み物を、アレルギーのある妻に差し入れたの。わざとアレルゲンを摂取させるなんて、やってることは毒を盛るのと同じだぞ」
見る見るうちに青ざめていく和真。言い訳が止まり、唇がわずかに震える。
「違う。これは」
「何が違うの」
「あなたがやったんだね」
和真は答えなかった。映像と私の顔の間を落ち着きなく往復している。
「だから、わざととは限らないだろう。俺、咲子のアレルギーのこと、分かってなかったんだよ。別に悪意があったわけじゃない」
「あなたは知ってたはずだよ」
「聞いたことはあったかもしれないけど、そこまで重大だとは思ってなかった」
「結婚式のコース決めた時、話したよね。その時私、キウイは避けてくださいって言った」
そこで母が静かに口を挟んだ。和真がわずかに体を強張らせる。
「それも知っていたはずよ。数か月前、あなたから私に連絡があったわね。咲子のアレルギーについて。どの程度で症状が出るのか、加熱してもダメか、昔はどんな出方をしたか、随分細かく聞いてきたでしょう」
母はスマホを操作し、画面を和真の方へ向けた。彼からの文面には、私の症状について具体的な質問が並んでいる。
「この通り履歴にも残っているわ。知らなかったはもう通らないな」
和真は口を開きかけた状態で固まった。そしてようやく、絞り出すような声で言った。もはや逃げ道がないと分かったのだろう。
「咲子に、峠芸をやめさせたかったんだ」
「は? 何?」
「咲子が工房のことばっかり考えてるのが嫌になったんだ。家より作品、俺より師匠や仲間の方が大事みたいで」
「だから私の体を傷つけたの」
「そこまで大事になるとは思ってなかった」
「二階堂のことはどう説明するつもり」
「情報が欲しかっただけだ」
「情報って。アレルギーのこと? どのくらいの量なら命に関わらないかとか、どんな症状が出るかとか」
そのセリフが放たれた瞬間、部屋の空気が凍った気がした。和真本人は、ひどいことを言っている自覚すら薄いのか、ひょう然とした顔をしている。
「本気で付き合ってたわけじゃない。愛情なんてゼロだ」
「最低ね」
「どうして。本当に好きなのは咲子だけなのに」
「今更何を言ってるの。あなたを信じる理由がどこにあるの」
「帰って。私はあなたと同じ家に戻る気はない」
その日のうちに、私は和真に別れを告げた。
翌日、二階堂が実家に現れた。目元に青い隈があり、口元が引きつっている。慰謝料請求の通知書を握っていた。
「昨日、和真さんに別れ話をされました。あなたのせいですよ」
「私のせいだって?」
「急に手のひら返して、全部終わりにするとか普通じゃない」
彼女は浮気の事実を認めながらも、開き直って私を責め始めた。私が家でちゃんと和真を相手にしないから、外へ向いたのだと。私は一歩前に出た。
「じゃあ今度はこっちから聞くけど、私のアレルギーのこと、どこまで知ってた?」
「は?」
「和真から聞いてたの? どんな症状が出るか。あなたは看護師だから、詳しいわよね」
「知りません。本当に知らないって言ってるじゃないですか」
「病院で私がキウイアレルギーだって話した時、あなた一瞬動揺してたよね」
「偶然です。勝手に決めつけないでください」
彼女の声が途中でわずかに裏返る。動揺しているのだ。その瞬間、二階堂の苛立ちが頂点に達した。封筒を握ったまま、こちらに踏み込んでくる。母が割って入り、彼女を押し返した。
「やめなさい。帰れ」
「私をこんな風に追い詰めるから悪いんでしょ。自業自得です。私は悪くない」
「もう来ないで。次に来たら警察を呼ぶわ」
彼女は唇を震わせ、最後に私をきつく睨みつけてから踵を返した。
その数日後、母に呼ばれてリビングへ降りると、テーブルにパソコンとスマホが並べられていた。私のSNSに、見知らぬアカウントから大量のコメントが流れ込んでいたのだ。作品写真の下には「被害者ぶって」「人の人生を壊したくせに」といった言葉が並び、匿名の投稿には私の名前と共に「盗作」「師匠の真似」「品行不良で破門された」と書かれている。
「誰かが煽ってる可能性が高いわ」
「これからどうすればいい」
「とりあえず問題のある投稿は全部保存した。削除依頼も出して、発信源の開示請求も進める」
その時、スマホが鳴った。表示された名前を見て、思わず背筋を伸ばした。師匠の文字正成だ。
「聞いたぞ。インターネットで話題になってるそうだな」
「すみません」
「謝るな。あんなもん、まともに相手する必要はねえ」
「でも、噂が広がってて」
「だから俺が手伝うって言ってる。なんとかするから安心しろ」
私は一瞬言葉を失った。正成は昔から、誰に対しても必要以上に優しい人ではない。その人が迷わず私を助けると宣言したのだ。
夕方、正成は工房帰りの格好のまま実家へ来た。土の匂いが残る作業着で、いつも通り不機嫌そうな顔をしていたが、目つきはいつも以上に鋭い。
「信用は黙って待ってても戻らん。失ったものは作品で取り返すのが芸化だ」
「はい」
「そしてお前は制作を止めないこと。それでいいわ。情けない顔を見せるな。堂々としていろ」
「はい」
母は動画を撮ることにした。私の制作風景を記録し、作品が本物であることを証明するために。数日後、私は母と一緒に工房にいた。朝の光が土の棚の間へ細く差し込んでいる。母がカメラの位置を確かめながら言った。
「飾らなくていいわ。いつも通りやって」
「うん」
「自分をよく見せようとするな。普段のお前でやれ。それで十分足りる」
私は小さく頷き、土の前に座った。土を切り分け、水を含ませ、手のひらで押して空気を抜く。指先の力を少しずつ変えながら、器の形を立ち上げていく。途中でどうしても輪郭が気に入らず、私はそれを潰して最初からやり直した。その場面も母は止めずにそのまま撮り続けた。
「ここも残すからね」
「失敗してるのに」
「そこを切ったら意味がないもの。綺麗にできたところだけ見せても伝わらないわ」
午前中いっぱい使って整形を取り、乾き具合を見て削りの工程も撮る。動画の最後に正成がカメラの前へ座った。彼がこうして正面から何かを語るのは珍しい。正成はまっすぐカメラを見て口を開いた。
「咲子は心身ともに俺の弟子だ。手を抜くような人間なら、とっくに工房から追い出してる。この目であいつの腕を見た上で独り立ちを許した。盗作だの破門だの、くだらん与太話に付き合うつもりはない。咲子は自分自身の力でここまで来た。あいつの力量は俺が保証する」
その言葉を聞いた瞬間、涙で視界が滲んだ。正成は決して人を持ち上げるようなことを言う人ではない。いつも事実のみを口にする彼が、ためらいなく私を評価してくれた。
動画を公開すると、最初に反応したのは大学時代の同級生たちだった。「制作品を知らない人ほど好き勝手言ってる」「在学中から一貫してた」と、擁護の声が次々に流れた。やがて作家仲間や展示で関わった人たちも便乗していく。正成が動画に出たことが大きかったのだろう。噂を面白がっていた側の空気が、目に見えて変わっていった。
数日もすると、あれほど勢いよく広がっていた不名誉な噂は力を失っていった。私を擁護する声の方が強くなったのだ。
さらに一か月後、母と並んで私は法律事務所の応接室に座っていた。向かいには和真と二階堂がいる。机の上には離婚協議と損害賠償に関する書類が整然と並べられている。私はまっすぐ前を見た。
「離婚の意思は変わりません。和真には不貞行為と、私にアレルゲンを摂取させた件で損害賠償を請求します。二階堂さんにはSNSでの誹謗中傷についても請求する予定です」
「咲子さんには関係ありません」
二階堂はすぐに身を乗り出した。
「浮気の件は認めます。でもアレルギーの話まで一緒にされるのは迷惑です。SNSだって私がやったっていう証拠はないでしょ」
「開示請求の結果も含めて証拠は揃ってる」
「それでもまだ関係ないっていうの」
「そうです。勝手に話を進めないでください」
その時、扉が開いた。入ってきたのは山羊沼だった。二階堂は明らかに動揺した。
「失礼します」
「なぜ先生がここに」
「私がお願いしました。必要だと判断したので来ました。まずこれを見てください」
山羊沼は落ち着いた様子で端末を机の上へ置いた。再生された動画には、病院の駐車場の隅で向かい合う和真と二階堂が映っている。音量は小さいが、会話の内容ははっきり聞き取れた。
「咲子にバレた。どうしてくれるんだ」
「少量なら気づかれないって言ったじゃないか」
「私はちゃんと命に別状のない量を教えたわよ。喉の違和感と腹痛くらいなら、すぐにはアレルギーだなんて思わないでしょ」
映像が止まると、部屋の空気が一瞬で冷え切った。二階堂の顔が蒼白くなり、和真は机に視線を落としたまま動かない。
「勝手に撮ったんですか」
「二人の様子に不審な点があったので、院長には経緯を報告済みです。処分については病院側の判断になりますが、勤務継続は難しいと思います」
悔しそうに唇を噛みしめ、二階堂は隣の和真を見た。助けを求めるような目だったが、和真は答えなかった。しばらくして、彼は書類へ手を伸ばした。
「もういい。俺、サインするよ」
「ちょっと、なんでよ」
「舞、もう無理だ。諦めよう」
「いや、私はこんなの認めないから」
次の瞬間、二階堂が立ち上がり、和真が手にしていた書類をひったくった。そしてそのまま力任せに引き裂く。乾いた音が応接室に鋭く響く。
「やめなさい。全部お前のせいよ」
母の制止も届かず、二階堂は私を指差し、机の上のペン立てを掴んでこちらへ投げ付けようとした。私はとっさに身を引いた。騒ぎに気づいたらしい警備員が駆け込んでくる。それでも二階堂は叫び続けたが、すぐに取り押さえられた。数分後に到着した警官に事情を聞かれ、そのまま連れて行かれる。扉の向こうへ消える最後の瞬間まで、彼女は叫んでいた。
「これで終わると思わないで」
応接室に静けさが戻ると、和真が魂が抜けたように立ち尽くしている。破られた書類の切れ端が机の上に散らばっている。やがて彼は顔を上げた。
「咲子、時間をくれ」
「だめよ」
「俺は言われた通りサインする。だから少し話をさせてくれ」
「もうあなたと直接やり取りするつもりはない。残りの手続きは全て弁護士にお願いします」
「咲子、本当にこれで終わりにするのか」
「終わらせるために来たの」
「頼む。少しでいいから」
「さようなら」
私は踵を返した。背後で和真が何か言っていた気がしたが、振り返らずに母と並んで応接室を出た。外の空気を吸い込んだ瞬間、胸の奥に長く塞がっていたものがやっと取れた。ここから先は自由だと、はっきりと確信できた。
二か月後、離婚は正式に成立。不貞行為とアレルゲン摂取に関する損害賠償額は一括で振り込まれた。二階堂からも指定した金額が支払われた。彼女は病院を解雇され、警察沙汰も相まって転職先は見つからなかった。失職後も和真に執着し、最後には彼の会社にまで押しかけて騒ぎを起こした。その件で彼女はまた警察に連れて行かれた。和真は自主退職に追い込まれ、彼女から逃げるように県外へ移ったという。かつて社会を知る自分こそ正しいのだと信じていた男は、今や影もない。
離婚から半年ほど経った頃、私は実家の近くに新しい工房を構えた。仕事はありがたいことに順調で、例の動画をきっかけに作品を知ってくれた人も増えた。正成とは共同で展示会を開催し、今でも定期的に工房を行き来して作品を見せ合っている。山羊沼とは何度か食事をした。ほんのお礼のつもりだったが、彼と話していると不思議と肩の力が抜けた。彼は必要以上に踏み込んでくることはなく、黙って返事を待っていてくれる。今のところ恋愛をしようとは思っていないけれど、一緒にいても息がつまらない相手がいるということは、とても大事なことだ。
土を練り、形を探り、焼き上がりを待つ。私はその日々を、前よりずっと穏やかな気持ちで繰り返している。結婚生活で多くのものを失い、何度も傷つけられた。けれど今はまた自分の手で土に触れ、自らの足で工房に立っている。これから先の未来も、私は自分の手で選び、積み重ねていくのだ。
