入り口で出席者名簿に名前を書いていると、聞き覚えのある声が耳を打った。
「誰が田舎の底辺に参加していいと言った?帰れ。」
顔を上げると、そこにはほんの少し前まで会っていたばかりの男が、上気した顔でワイングラスを片手に立っている。相沢広。まさかこの男が、業界最大手の東京モーターの時期営業部長だったとは。
「おいおい、誰があんたらをこの会場に呼んだんだ?」
酔いに任せて好き放題言う広に、周囲の視線が一斉に俺と秘書の腹口に集まる。
「帰ります。」
俺は大声で素っ気なくそう言い、その場で背を向けた。
俺の名前は須藤。三十五歳だ。東京二十三区から少し離れた場所にある、祖父が立ち上げた須道部品という会社で、未熟ながら社長を務めている。業績は良くも悪くもなく、黒字と赤字を繰り返す日々。このままだと会社の存続すら危うい。社長としてしっかり踏ん張らなければならない。
俺は社長でありながら座っての仕事がどうも苦手で、日々現場で作業をしている。書類関係は、社長秘書として修行中の腹口に任せきりだ。
「社長、もうすぐお時間です。」
工場の中で出来上がったネジの検品をしていると、スーツ姿の腹口が迎えに来た。時計を見れば、もうすぐ午前十時になる。
「今日のアポ、何件あるんだっけ?」
汗を拭いながら聞くと、腹口は胸ポケットから小さな手帳を取り出し、ぺらぺらとページをめくった。この腹口という男、俺より五歳年下なのに、とんでもなく落ち着きがある。秘書としても優秀で、見た目もいい。身長が高く、足が長く、涼やかな目元でイケメンオーラを漂わせている。事務所の女性社員の間では、彼に彼女がいるのかどうかが噂になっているらしい。
「今日のアポは三件です。十時に一件、次が十時三十分、そして十一時となっております。」
三件もあるのか。俺は首の骨を鳴らしつつ、事務所の自分のデスクに落ち着いてパソコンを起動させた。予定は全て腹口が決めている。スケジュールソフトを立ち上げ、今日誰と会うのかを確認する。
「社長、お召し替えを。」
腹口に促され、俺は慌てて立ち上がり、オイルまみれの作業服を脱いで、椅子の背もたれにかけてある汚れていない方の作業服を着た。腹口曰く、せめて上半身だけでも着替えておいた方が、先方の好感度も上がるだろうということだった。
時計を見ればもう十時を過ぎている。どこの取引先も約束の時間前に到着することはあれど、遅れることはまずない。
「珍しいな。渋滞にでも巻き込まれたのかな?」
「先方に電話で確認してみます。少々お待ちください。」
腹口は自席に戻り、名刺ホルダーから先方の名刺を取り出して電話をかけた。
「携帯に電話が繋がりません。」
腹口が困惑したようにそう言った。その後も相手の会社の内線に電話をしても繋がらず、俺と腹口は思い切り遅刻している先方を案じるのだった。
それから十分経っても先方は来ない。事務所の外に車が到着するたびに窓の外を確認するが、アポの相手ではない。
「腹口君、今日のあとの二つのアポ、今からでもリスケできるか?」
無茶ぶりだと承知の上で、俺は腹口にリスケを依頼した。とにかく最初のアポが今日の予定の中で一番大事なのだ。相手を待たせるわけにはいかない。今日のアポの相手は、須道部品のメインの取引先なのだ。
業界一の大手と言われる東京モーターの相沢という営業部長が来たのは、それから三十分が経過した頃だった。その間、腹口は今日こなすはずだったアポ二件を別の日にリスケし、道中何かあったのではないかとネットで交通情報などを調べていた。
「須藤社長、遅れて大変申し訳ございません。」
「頭を上げてください。相沢部長、今日はどうしたんですか?」
俺の問いに応じたのは相沢ではなく、隣にいた別の若い男性だった。
「しょうがないだろ。僕が急にお腹空いたんだから。」
俺は首をかしげる。アポの時刻に間に合わなかったことと、この若い社員の空腹との間に、どんな関係があるというのだろう。
「本当にすみません。道中、息子がお腹が空いたというので、少しファミレスに寄り道していたのです。改めてご紹介します。私の息子の相沢広と言います。」
「え、息子さんですか?」
相沢の父の方はとてもスリムな体型だが、息子の広の方はその対局にある体型をしており、顔も全く似ていない。
「本当に親子なんですか?」
俺は信じられずに無粋な質問を投げてしまったが、相沢は気にする様子もなく、苦笑しながら頷いた。
立ち話もなんだからと、俺は二人に応接のソファーを勧め、自分と腹口も向かい側に落ち着いた。
「実は、今息子を取引先に同行させて挨拶をさせていただいているのです。」
相沢は隣に座る広に名刺交換をしなさいと話しかける。すると広は本当に面倒くさそうに立ち上がり、ポケットから名刺入れを取り出した。
「あれ、名刺がないや。あれほど昨日補充しろと言ったのに、まだやっていなかったのか。」
相沢は脂汗を浮かべ始めており、しきりにハンカチで額を拭っていた。
「心配いらないよ、父さん。だって僕、この人たちに名刺渡したくないし。」
「どうしてそんな風に思うんだ?」
俺が親子の会話に割って入ると、広は面白くなさそうな様子で、しかもとても面倒そうに答えた。
「この工場、今にも潰れそうなくらいボロくない?こんな吹けば飛ぶような工場を相手に渡す名刺なんてないよ。」
どれ、と広は続ける。どうやら広は俺の服装が気に入らないらしい。客を作業服で持てなす社長なんて非常識にも程があるとか、オイル臭いとか、散々ケチをつけられた。
「それにあんたみたいな社長に秘書なんて必要なの?どうせ腰を据えてるだけで、大した仕事はしてないんじゃないの?」
広はなぜか得意げにそう言うと、原口の顔を見て薄く笑った。
「うちの会社は日本一の自動車メーカーなんだ。こんな下請けへの仕事なんてすぐにストップさせてやるよ。」
「広、いい加減にしないか!すみません、須藤社長。息子の無礼をどうかお許しください。」
俺は必死に詫びる相沢と、脇でスマホをいじり出す息子の広を交互に見つめながら、盛大なため息を一つついた。
ところで、と相沢は改めて広のことを頼むと言ってきた。
「私、近々取締役になることになりまして。現場に出る機会が減るかと思うんです。それで、私の後任に広を推薦している次第でございます。」
「それは素晴らしい。おめでとうございます。それで、広さんはおいくつなんですか?」
聞けば広はまだ二十五歳だという。
「大学を卒業してまだ三年しか経過していないのか。」
俺が言えば、相沢はそれは違うと否定してきた。
「広は大学に入るのに浪人していましてね。この春卒業したばかりなのです。」
それからほどなくして相沢親子は帰ることになり、俺と腹口は手配したタクシーのそばまで見送りに出た。
「あ、しまった。忘れるところだった。ああ、須藤社長。」
相沢は先に広を車に乗せると、足早にこちらに近づいてきた。
「今日の夜、お時間はありますか?」
俺が腹口の方に視線を送ると、彼は首を小さく横に振っている。予定は特にないという合図だった。
「ええ、まあ。」
「でしたら、是非ご招待したいお席がございます。ああ、秘書の方もご一緒にどうぞ。詳細は後ほどメールいたします。」
相沢親子は俺たちに強烈な印象を与えて、須道部品を後にした。
「腹口君、息子が空腹でファミレスに寄ったっていうのが、遅刻の言い訳になるのかな?」
「いえ、ならないと思います。」
相沢からのメールが届いたのは夕方になってからのことだった。俺が工場で作業していると、腹口がメールをプリントアウトして持ってきてくれた。
「社長、相沢様からのメールです。ご覧ください。」
俺はオイル缶を傍らに置き、軍手を外して相沢からのメールを読む。そこには「懇親会へのお誘い」というタイトルで、都心の一流ホテルのホールを借り切って東京モーターの取引先を招いた懇親会が行われるという内容が書かれていた。
なるほど。相沢はこのパーティーに俺と腹口を招待してくれたのか。昼間の広の態度には不愉快な思いをさせられたが、東京モーターの懇親会となれば、行く以外の選択肢はない。
「腹口君、君の今夜の予定はどうだ?」
「本当に、私のような秘書見習いがご同行させていただいてもよろしいのですか?」
なんとも謙虚な問いかけだ。さっきの広に聞かせてやりたいほどだ。
「何も問題はない。俺は一旦帰宅してスーツに着替えてくるよ。」
さすがに懇親会に行くのに、オイルまみれの作業着姿は失礼だろう。それに汗をかいていたので、軽くシャワーも浴びておきたい。俺は時計に目を移し、今が午後四時であることを確認した。まだ仕事の途中ではあるが、今日はもう帰らせてもらい、身だしなみを整えた方がよさそうだ。
俺は工場長に事情を伝え、車で五分ほどの自宅へと急いだ。
それから俺と腹口はハイヤーで懇親会場へと向かった。節約に節約を重ねているというのにハイヤーを使うなど贅沢だと怒られてしまいそうだが、電車よりかなり快適なのは正直嬉しい。車が都心部へ出ると所々で渋滞に引っかかるが、なんとか十八時ジャストにホテルの車寄せに滑り込んだ。
俺と腹口は、シャンデリアが輝く豪華なロビーを突っ切り、六階の懇親会場へと急ぐ。
「誰が田舎の底辺が参加していいと言った。帰れ。」
会場入り口で出席者名簿に名前を記入していた俺と腹口は、聞いたことのある声が耳を打つなり、声の方向へと顔を向けた。なんと視線の先には、ワイングラスを片手に大声で俺たちを嘲る広の姿があるではないか。何が面白いのか、顎を上に向けて大笑いしながら歩み寄ってくる。
「おいおい、誰があんたらをこの会場に呼んだんだ?」
近づくにつれて、彼が真っ赤な顔をしているのが分かった。開始早々、随分な飲みっぷりだと感心してしまう。
それから俺は周囲を見回した。なるほど。相沢が取締役になっていただけのことはあって、業界の大物たちが集結している。そして誰もが、酔っ払った広と、大声でけなされた俺と腹口に注目していた。
「帰ります。」
俺は短く、そして少し大きな声でそう言うと、広が呆けたように頷き、腹口は俺に続いて会場へ背を向けた。
そしてエレベーターホールへ出たところで、「お待ちください!」というものすごい大声が響き、俺も腹口もびっくりして声の方向へ視線を移した。俺たちを追ってきたのは、広の父親である相沢だった。
「待ってください、須藤社長!あなたに帰られたら、私が叱られるんです。」
結局、俺と腹口は相沢部長の必死の懇願によって会場へと連れ戻された。
「社長、よろしいのですか?お帰りにならないと、相沢様のご足労が厄介ですよ。」
俺たちを広の視界に入らない場所に隠した相沢は、「私に会って欲しい人がいるんだ」と言って会場に紛れ込んでいった。
「仕方ないだろう。相沢部長の顔も立てておかないとな。」
俺は近くに来たウェイターから白ワインと赤ワインのグラスをもらうと、腹口にどっちがいいか聞いてみた。
「私に酒を飲ませるなんて、社長も趣味が悪いですね。」
「君は普段かっちりしすぎなんだ。酒を飲んで、人並みといったところだよ。」
腹口は白ワインを選び、俺は赤ワインを手にし、小さくグラスを触れ合わせて乾杯した。
そうして酒を飲んでいると、相沢が俺の祖父を連れて戻ってきた。祖父の名前は須藤恵。今年で七十歳を迎えているが、今も現役でエネルギッシュに働いている。
「あ、どっかの底辺発見。さっき帰るって言ってたのに、まだいたのかよ。」
先ほどよりも顔が赤い広が、足取りもおぼつかずこちらへ向かってくる。すると、すっと俺の前に腹口が立ちはだかった。
「社長秘書ごときが、俺の前に立ちはだかるとか。バカなの?」
「広、やめなさい。その方は……」
しかし相沢の言葉が広の耳に届くよりも、腹口が広の体を軽々と放り投げ、広が床に背中を強かに打ちつける方が早かった。本当にやっちゃったよ。
「お前、酒を飲ませると面白いのな。」
そう。腹口は酒を口にすると人格が変わる。普通に話すこともできるのだが、連れが誰かに絡まれると、誰か構わず投げ飛ばすという悪癖の持ち主なのだ。
広は何が起こったのかという顔で、しばし床の上で大の字になっていたが、自分が注目されていると理解するなり、すっと起き上がった。
「何をするんだ!秘書の分際で、僕を投げるなんて。」
腹口と広の間に一触即発の緊張感が走ると、パンパンと手を叩く乾いた音が会場中に響き渡った。見れば、祖父が笑いながら手を叩いている。
「いいじゃないか、腹口君。それでこそ、次期社長だ。」
実は腹口は、須道部品で社長秘書業務をこなす傍ら、東京モーターの社長の座を継ぐべく帝王学の勉強中なのだ。東京モーターの社長は今病気療養中だが、社長業に復帰できる望みは薄く、息子である腹口に後を継がせようとしている。
その話がにわかには信じられないのか、広は俺と腹口を交互に指差して、口をぱくぱくさせている。
「相沢君、そこの子は君の息子なんだな。」
「はい。広と言います。私の営業部長の座を渡すつもりでいまして……」
「広君には三年間、須道部品で働いてもらう。そのふざけた根性を、一から鍛え直してきなさい。」
広はつらそうな瞳をぱちぱちさせ、こう聞いてきた。
「そこのおじいさん、誰?僕、見たことないけど。」
「相沢君、君の息子の人事移動の件、わしから人事へ話しておく。恵、お前は徹底的に広君を鍛えなさい。」
祖父の言葉は広には刺激が強すぎたらしく、先ほどまでの大笑いはどこへやら、一転して泣き顔を浮かべている。
「おじいさん、僕は営業部長になるんだよ。須道部品になんて、行きたくないよ。」
「営業部長になりたい。それは、将来の夢か何かか。」
祖父と広の間で、相沢が慌ててしまっている。
「違うよ。父さんが取締役になるから、僕に営業部長をって言ってくれたんだ。」
祖父はその言葉を受け、先ほどから挙動不審な相沢に視線を移した。
「相沢君、この広君、これまでどこで何の仕事をしていた?」
相沢は痛いところを突かれたらしく、とっさに顔を伏せた。
「それが、その……浪人して大学を出て、その間、アルバイトなどの経験もなく……」
つまり、広には社会経験が一切ないということになる。俺は驚いて、腹口と顔を見合わせた。二十五歳になるのに、バイト一つしたことのない人間がいるのか。心から驚いた。
「ばかにしてる。須道部品で働きなさい。期間は三年から五年に変更。以上。」
「嫌だよ。あんな汚い工場なんて。父さんからも何か言ってよ。っていうか、このおじいさん何なの?僕の人事を勝手に決めて。父さんよりも偉い人なの?」
「広、この方はね、うちの会長、つまり社長なんだよ。私などよりも、もっともっと偉い人なんだ。だから、会長の命令には従わなければならないんだよ。」
「嫌だよ。須道部品なんて嫌だよ。父さん、助けてよ。」
「広、私の立場は会長には逆らえないんだ。会長のおっしゃる通り、須道部品で経験を積みなさい。」
「嫌だよ。断じて嫌だ。絶対に嫌だからね。」
広は頑として須道部品での勤務を認めようとしなかったが、それが通用しないと理解するなり、大声で泣き始めるのだった。
広が須道部品での勤務を命じられた初日、彼が俺の会社に顔を出すことはなかった。代わりに車で訪れたのは、父親の相沢だ。取締役になってから初めて社用車を使って訪れたのだと、少し照れくさそうにしている。俺は取締役となった相沢に、簡単ではあるが祝辞を述べた。
俺が事務所の応接で相沢と向き合っていると、腹口がコーヒーを入れて持ってきてくれた。
「あなたがうちの次期社長になられるんですね。お若いですね。」
「まだまだです。私ごときが社長につくわけにはいきません。須藤社長から学びませんと。」
ところで、と相沢は切り出す。
「広は……どうしたんでしょう?」
相沢は一瞬、居心地悪そうな表情を浮かべたが、やがて覚悟を決めたように、「退職」と書かれた封筒を俺の方へと差し出した。
「いや、退職も何も、広君はまだうちの社員ではないですよ。」
相沢も戸惑うだろうが、俺も戸惑う。当然、腹口もどういうことかという表情を見せている。
「広の幼稚さには、お気づきでしょう。」
これには迂闊に「そうですね」とも言えず、俺と腹口はつい顔を見合わせた。
「あの子を甘く育ててしまいまして。実は、カナダに留学させたのです。」
「じゃあ、広君は本当にうちに入社しないんですね。」
「そういうことです。」
相沢は頷いた。俺は封筒を開き、中から退職届を取り出してみた。しかしそこに書かれていたのは、「一身上の都合により退職いたします」といったありきたりな文面ではなく、「田舎の底辺では働きません」という、何とも広らしい一言だった。
「広がカナダに行ったことで、何かしら常識を身につけて帰ってきてくれることを、心から祈ってるんですよ。」
相沢の言葉からは、父親としての苦悩がひしひしと感じ取れた。
広騒動が落ち着いてから一ヶ月が経過しようとしている。あれから須道部品には格別の変化もなく、皆が普通に仕事をしている。
そんな中、腹口の身辺に少しだけ動きがあった。
「社長、父の退院が決まりました。」
「お、じゃあ、ついに社長秘書とはおさらばか?」
「いえ、父はもう少し社長業をやるそうです。私はまだ父の後を継ぐには早いですので、引き続きここに置いてください。」
腹口は、退院が決まった父に対し、まだ秘書として未熟だから、もうしばらく須道部品で修行をすると宣言したのだという。
俺は助かるけど、本当にそれでいいのか。俺がそう思っていると、原口は静かに続けた。
「あちらの会社に行く時は、どうか私とご一緒に。」
須道部品で定年まで働こうと考えていた俺の前に、新たな道が作られた気がした。
