「ゆ香さんって、引きこもりのニートなんですか?」…

「ゆ香さんって、引きこもりのニートなんですか?」...

「ゆ香さんって、引きこもりのニートなんですか?」

四年前、兄嫁のルミさんが結婚の挨拶に我が家へ来た日、私と両親、そして弟はみんな天を仰いだ。私が在宅の仕事をしていると話した途端、兄嫁の口からそんな失礼な言葉が飛び出したからだ。

「いえ、収入もありますし、家事もしていますので、違いますよ」

私が困惑しながらそう答えると、兄嫁はにっこり笑って言った。

「分かります。でも、いつまでも現実逃避をするのは良くないですよ」

分かるって、何が。私が乾いた笑みを浮かべると、兄はようやく渋々といった様子で嫁を叱った。

「いや、それは言い過ぎだろう」

兄嫁は若くて見た目も可愛らしい。兄はデレデレと締まりのない顔をしている。その場にいた全員が、兄の結婚に不安を覚えた瞬間だった。

私の名前はゆ香。三十五歳。実家で両親と同居しながら在宅の仕事をしている。兄と弟はそれぞれ結婚して家庭を持っている。私もそろそろ結婚したいなと思いつつ、仕事の合間に家事を手伝いながら、充実した毎日を送っていた。

ある日の晩、両親と夕飯を食べていると、母が私に聞いてきた。

「兄さんの新居祝い、いつ行くことになったの?」

兄は実家からさほど遠くない場所に土地を買い、家を建てていた。先日、その家がようやく完成したのだ。

「ああ、来週の月曜日ですね」

私が答えると、父が不服そうな顔で味噌汁をすった。数週間前、兄と兄嫁から新築完成のお祝いに久しぶりに家族みんなで会おうと連絡を受けた。しかし、最近になって兄嫁が急に「やっぱり大勢の相手はだるい」と言い出したのだ。確かに、うちの両親、私、弟夫婦が一度にお邪魔すると大変なのは分かる。だけど、そっちが言い出したのに、と私も両親も困惑した。

「ごめん。ルミがどうしてもって聞かないんだ」

結局、人数を分けてそれぞれ別の日に行くという話にまとまった。私は弟嫁と一緒に来週の月曜日に行くことに。曜日も兄嫁の希望だ。とはいえ、弟は平日は仕事なので、弟嫁と二人での訪問になるだろう。父は未だに納得できていない。というより、兄嫁の言いなりになっている兄への不満が大きいようだ。

「全く、何を考えているんだか。月曜日じゃ、兄貴はもう仕事でおらんだろう。我が息子ながら、嫁の尻に敷かれて情けない」

父は味噌汁の椀を置いて、ため息と一緒に不満を漏らした。父の言っていることも一理ある。せめて家を建てた兄が新居にいられる日を選ぶべきではないのか。

「そうね。でも、もう仕方ないわよ」

母がフォローするが、父が文句を言い続けるので、私も曖昧に頷くしかなかった。

兄嫁は私より年下の二十八歳。結婚してしばらくして仕事を辞め、今は専業主婦だ。兄の希望のようだが、本当かは分からない。私から見ても可愛らしい容姿だが、中身は問題だらけ。わがままで自己中心的。他人の気持ちを思いやれない兄嫁の、一体どこに兄は惹かれたのだろう。

今日も自宅警備お疲れ様。新築祝い、めちゃめちゃ楽しみにしてるから。あ、ニートだからお金かけられないか。

少なくとも、収入に問題がなければ、こうして私を馬鹿にした内容のメッセージを送ってくることもないはずだ。スマホの通知を見て、私はため息をつく。以前は「ニートじゃないし、やめて欲しい」と抗議していたが、今はもう面倒で適当に流している。本当はブロックしたいところだが、兄嫁の性格上、逆に面倒を起こしかねない。

兄嫁は「長男の嫁イコール偉い」という認識のようで、私と弟嫁を完全に見下した認定をしている。正直、新築祝いに行くのは気が重い。何事もないといいけど。

仕事部屋に戻った私は、残った仕事を片付けるためにパソコンに電源を入れた。

新築祝いへ行く当日。私は弟嫁の亜紀子さんと待ち合わせていた。弟嫁はおっとりした性格で、私とも仲良くしてくれる優しい人だ。目的地に到着すると、私と弟嫁は立派な外観の新築に思わずため息を漏らした。

「はあ、すごく立派ですね」

弟嫁の言葉に私は頷く。チャイムを鳴らすと、化粧をした兄嫁がすぐに出迎えた。直接会うのは私も弟嫁も久しぶりだ。というか、会うのが嫌で極力避けていただけなんだけど。

「ご新築おめでとうございます」

私と弟嫁が挨拶すると、兄嫁は機嫌良さそうに笑った。

「まあ、どうぞ。入って」

そのまま流れで、兄嫁の新築ツアーが始まった。こだわりの場所ごとに立ち止まって長々と説明するので、私も弟嫁も大変だった。兄がいたら、こんなに長々と自慢できなかっただろう。だから、兄が仕事でいない月曜日を指定してきたのかもしれない。現に兄嫁は自慢話によってかなり気分が良さそうだ。

高級な内装に驚いてばかりだったが、特に兄嫁のクローゼットには驚かされた。ブランドのバッグや小物、服がたくさん収納されていたからだ。家のこだわりと言い、兄嫁はかなりの高級志向の持ち主だと、今更ながら初めて知った。

「すごい数ですね。もしかして、ルミさんが今着ているワンピースもブランドのですか?」

兄嫁が「当然よ」と笑う。

「でも、こんなの普段着だし。ああ、ニートのゆ香さんには無縁のもので、びっくりさせちゃったかな」

一言多いんだよ。私が乾いた笑顔を浮かべると、弟嫁が口を挟んだ。

「そろそろお祝いの品も渡したいので、移動しませんか?」

弟嫁の提案で、私たちはリビングへと移動することに。弟嫁が私に小さく耳打ちした。

「怒っちゃだめですよ」

リビングに通され、私たちはソファに座る。弟嫁がお祝いを渡し、私も続いた。

「気に入っていただけるといいんですけど」

私からの包みを開いた兄嫁が言った。

「え、何これ? エプロン? このキャラクターはよく見かけるけど」

エプロンの刺繍を指でなぞり、兄嫁は顔をしかめている。

「それは私が作ったんです」

説明しようと私は口を開いたが、すぐに兄嫁が遮った。

「はあ? 今時、手作り? ゆ香さんがエプロンに刺繍したとか。ニートとはいえ、もう少しマシなものを持ってくると思ったわ。ゴミじゃないか、こんなもの」

なんと兄嫁はエプロンを床に投げ捨てた。呆然とする私の前で、弟嫁がさっとエプロンを拾い上げ、兄嫁に抗議する。いつも温厚な弟嫁が眉を吊り上げて怒るのを、私は初めて見た。

「ルミさん、あんまりです!」

「じゃあ、亜紀子さんがもらえば?」

兄嫁の言葉に「えっ」と驚き、弟嫁の視線が私に向く。

「亜紀子さんさえよければ、もらってくれる?」

困惑した私の言葉に、兄嫁が爆笑する。

「バカじゃないの? 亜紀子さんだって、いらないに決まってるわよ」

しかし、弟嫁の反応は違った。

「いいんですか? こんな高級ブランドのエプロン。ゆ香さんのイラスト、私大好きです。家事をするのが楽しくなりそうです。宝物にしますね」

思いもよらない弟嫁の反応に、兄嫁は固まる。

「え、高級ブランドに、ゆ香さんのイラスト?」

疑問符をぽんぽん浮かべている兄嫁に、弟嫁が笑顔で説明した。

「最近、ゆ香さんの描いたキャラクターが高級ブランドとコラボしたんですよ」

私の職業は、いわゆるイラストレーターだ。勤めていた会社を辞めてから、ずっとこの仕事をしている。最初の頃こそとても苦労していたが、ここ数年で努力が実り、ネットに載せていたキャラクターがヒット。徐々に仕事が増えていく中で、高級ブランドとのコラボが実現したのだ。職人の手で丁寧に作られており、ひとつずつ異なるデザインの一点物。数量が限定されているため、希少価値も高い。コラボ先の雰囲気に合うようにそれぞれデザイン案を出すのには、かなり苦労した。

私が作ったキャラクターと高級ブランドのコラボ品ですと言いたかったのに、兄嫁は私の最初の言葉だけを捉えて、手作りの品だと勘違いしたのだ。

「ゆ香さんはニートでしょ」

相変わらずの言葉を、私は否定する。

「あの、違うって、今まで何度も言いましたよね」

「確かに、前にイラストレーターとか何とか言ってたけど、嘘だと思ってた」

兄嫁の発言に、私は肩をすくめた。どれだけ思い込みが強いんだろう。

「何よ、その目。ちゃんと分かるように説明しないのが悪いのよ。ていうか、私がもらったエプロンよ。返して」

呆れ顔の私と弟嫁に腹を立て、兄嫁が手を伸ばした。私はとっさに弟嫁をかばい、兄嫁を睨む。

「分かるように言ってました。それに、もうエプロンは亜紀子さんのものです」

兄嫁はわなわなと震え、私を強く突き飛ばした。

「もう最悪。帰って」

私と弟嫁が「落ち着いて」と声をかけるが、聞く耳を持たない。まるでイライラをこじらせた子供みたいだ。私と弟嫁は仕方なく帰ることにした。

帰り道、弟嫁はすっかり元気をなくしていた。

「出しゃばってしまってごめんなさい。ゆ香さんの努力をゴミ扱いされて、つい」

弟嫁は、私が苦労していた頃からのファンの一人だ。以前、兄嫁とは別のコラボ品を送った時も、弟嫁は喜んでくれていた。「私の努力の結果だと知って欲しかった」と、エプロンを私に返そうとした弟嫁の手を、私はやんわりと押し返す。

「謝らないで。亜紀子さんが怒ってくれて、私、本当に嬉しかった。だから気にせずに受け取って」

ようやくいつもの笑顔が弟嫁に戻ってきて、私はほっと胸を撫で下ろした。

その日の晩、兄が実家を訪れた。

「どうしたの? こんな時間に。ルミさんは?」

母の質問に、兄が歯切れの悪い言い方で答える。

「いや、ちょっと色々あって。ルミにはコンビニに行くって言って出てきたんだ」

兄の髪は乱れ、頬には引っかき傷や痣が目立っていた。シャツは誰かと格闘したかのようにヨレヨレだ。

「お前、そんなボロボロの見た目で、何が『ちょっと』だ?」

父の指摘で、兄は力なく兄嫁と喧嘩したのだと白状した。母が兄の顔の手当てを始める。

「ルミが不愉快な思いをさせて、本当にごめん」

兄は私に向かって深く頭を下げて謝罪した。父と母にはまだ話していなかったので、私は簡単に昼間の兄嫁との出来事を説明した。兄が言うには、兄の帰宅と同時に兄嫁が詰め寄ってきたそうだ。

「なんでゆ香さんが人気イラストレーターだって教えてくれなかったのよ。知ってたら、あの高級ブランドのエプロンは私のものだったのに」

昼間の出来事を兄嫁から聞き、兄は私と弟嫁への謝罪をさせようと説得した。今までも、兄嫁が問題を起こすたび、影で叱ったりはしていたそうだ。

「ゆ香の仕事は前にちゃんと説明しただろう。人気かどうかは、俺たち夫婦には関係ないことだよ。それよりも、ちゃんとゆ香や亜紀子さんに謝ろうな」

「なんで私の味方をしないのよ。あのエプロンがあれば、きっと自慢できたのに」

自業自得だというのに、怒りを爆発させた兄嫁は物を投げたり喚いたりと暴れ、手がつけられなくなった。兄の傷は、兄嫁を止めようとした時にできたようだ。

私や両親は知らなかったのだが、兄嫁は以前から感情が爆発すると暴れて喚くことも多かったらしい。ネットで自慢をすることに執着して、家事もほとんどしていなかったのだとか。

「根気よく接すればいつか改善すると思ってた。でも、全部俺がルミを甘やかしたのが原因だ」

兄が語り終えると、両親は「あの結婚を許すべきじゃなかった」と肩を落としていた。なんと声をかけたらいいのか考えていると、私のスマホが鳴る。

「ルミさんからだわ」

私は兄嫁からだと周りに告げて電話に出た。スピーカーモードにしたので、私以外にも兄嫁の声は聞こえる。

「例のエプロン、あと五着用意して」

挨拶どころか謝罪もなく命令する兄嫁に、私はとぼけて見せた。

「え、どのエプロンですか?」

「あんたが今日持ってきたブランドのエプロンに決まってるでしょ?」

兄嫁はいつも以上に尖った口調で、精神的に余裕がなくなっていると分かる。

「手元にありませんし、お渡しする理由もありません。必要なら、ルミさんがご自分で購入してください。そもそも、あのエプロンは数量限定です。今から手に入れようとして購入できるかも分かりませんが」

「あんた、キャラクターの作者なんだから、少しは融通を聞かせなさいよ。友達に話したら、みんなも欲しいって言ってるのよ。私もネットで自慢したいし」

兄嫁が自分勝手な言葉を続けていく。話の中には弟嫁のこともあった。弟嫁にもエプロンを返せと電話したが、そばで聞いていた弟に怒鳴られてそのままブロックされたのだとか。

「何度言われても無理です。ルミさんに用意したものも、私が自費で購入したものですしね。ゴミ扱いしたことをまだお怒りなら、ちゃんと謝りますから」

私が態度を崩さないので、兄嫁は猫なで声で態度を一変させた。これでは拉致が開かない。私ははっきり言ってやることにした。

「いい加減にしてください。仮にエプロンが本当に手作りだったとしても、床に投げ捨てるなんて、人としてどうかと思います。高級品だから自慢するために欲しいなんて、恥ずかしい人ですね」

兄嫁が「ああ、もう」と声を上げる。私も家族もぎくっとする。

「ぐちぐち言わずに、五人分用意しなさいよ。本当にあんたも、全然役に立たないんだから」

私の両親と兄が聞いているとも知らずに、兄嫁は喚く。

「兄は高収入だから結婚してやったのに、他が全然ダメなんだから。せめて私の機嫌取りくらいちゃんとしろって言ってるの」

兄が顔を上げる。顔面は蒼白で、怒りとも悲しみとも分からない表情だ。兄嫁の暴言は続いた。

「これに、お父さんやお母さんも。若くて綺麗な嫁が長男の元に来たっていうのに、全然ちやほやしてくれない。しかも、ニートだと思ってたあんたが実は人気イラストレーターだったなんて。なら、もっと周りに自慢できたはずよ」

さっきから何回「自慢」って言ってるんだろう。兄嫁の本心だとしたら、正気の沙汰とは思えない。家族は、兄嫁を飾るアクセサリーじゃないのに。

ちらりと見ると、父は怒りに震え、母は口元を手で押さえてドン引き状態だ。

「不満だらけなら、なんで兄と一緒にいるんですか?」

私の質問に、兄嫁が鼻で笑う。

「兄は私に夢中で何でも言うことを聞いてくれるし、収入も高いしね。お情けで一緒にいてあげてるのよ」

「その言葉、私が兄に伝えたらどうします?」

私がさらに挑発すると、兄嫁は吹き出した。

「あんたが告げ口したところで、私がちょっと泣いてみせれば、絶対私の味方してくれるわよ。なんなら言ってみれば?」

兄嫁が答えたところで、先ほどまで黙っていた兄が突然横から口を出した。

「ルミ、離婚しよう」

「え、な、なんで?」

突然の兄の登場で、兄嫁は慌てふためいた。しかし、私に謝罪に来ていたと知ると、兄嫁は兄を罵倒する。

「わざわざ謝りに行くとか、キモいんだけど」

兄は、今まで兄嫁にデレデレしていたのが嘘のように無表情だ。

「君は今までどれだけ注意しても、俺や家族に対してひどい言動を繰り返してきた。勝手に仕事を辞めて専業主婦を選んだのに、家事もろくにしない。やるのはネットや友達相手に自慢をするだけ。見ているのは俺じゃなくてスマホばかり。もう無理だよ」

「いやよ。絶対に離婚しない」

今までの兄とは違う。錯乱した兄嫁は離婚を拒否したが、兄は首を振った。

「俺の貯金の使い込みや、暴力、暴言の証拠もきちんとある。君に殴られて医者にかかったこともあったし。だから、ルミの有責は認められると思う」

淡々とした兄の言葉に、兄嫁は言葉を失う。ずっと黙っていた両親が口を開き、兄の行動を後押しした。

「私たちも、息子の意思を尊重します。もっと結婚に強く反対すればよかったよ。息子たちに、二度と近寄るな」

兄だけでなく両親までもが聞いていたと知り、兄嫁はいよいよ泣き出した。

「なんなのよ……」

私は再び口を開く。

「新居で家事を頑張って欲しいと思ったから、エプロンをお祝いに選んだんですけど、離婚するなら必要なくなりましたね。自分を正して思いやりを持たなければ、ルミさんはこの先ずっと一人ぼっちだと思いますよ」

悔しそうな兄嫁の沈黙を最後に、私は通話を切った。

後日、兄は無事に兄嫁と離婚。兄嫁は使い込みや暴力、暴言の慰謝料を分割で支払っていくことに。その上、兄嫁はエプロンの件で嘘つきと言われて友達も失ったらしいが、まさに自業自得だ。兄は離婚から二年経った今でも大きな家で一人で暮らし続けている。兄嫁の件で随分反省し、「もう結婚はしない方がいいのかも」とかなり弱気だ。

私はと言うと、弁護士の夫と出会い結婚して、実家を出た。兄嫁に対し、イラストレーターとしての私の個人情報を漏らさないよう対策した時に依頼したのが、出会いのきっかけだ。お互いに自立していて、いい関係を築けている。

「解約ってどういうことですか?」

職場で昼休みに電話をかけているのに、大きな声を出してしまい、私は慌てて声を潜めた。

「私、そんな手続きしてません。なんで?」

頭が真っ白だった。保険会社の女性社員は、私とは対照的に冷静そのもの。

「記録によりますと、お客様から解約の申し出があり、すでにお手続きは完了しております」

私が加入していたのは貯蓄型の生命保険。義姉の律子さんが保険の外交員で「ノルマが厳しい」と頼み込まれ、相場よりも高めの保険に入っていた。

私はゆみ。四十歳の会社員だ。夫と娘と三人でアパートに暮らしている。今日は朝から大変だった。夫は起きてから泊まりの出張だと言い出し、身支度を始め、娘は算数の教科書がないと騒ぎ出した。娘の香織はまだ小学一年生だし、手がかかるのは仕方がない。でも、夫まで旅行バッグがないとか、新しい靴下はどこだとか手間がかかるのは、本当に勘弁してほしい。ここ一年、夫とあまりうまくいっていなくて、ずっと離婚を考えている分、余計にイライラした。

「二人とも、なんで前の日から準備しておかないの?」

呆れて言葉に出してしまうと、娘は素直に「ごめんね、ママ。次から気をつける」と言うから、私も「うんうん。ママも昨日一緒に確認してあげられなくてごめんね」と答えることができる。ところが、夫は違う。

「香織はまだ小さいんだ。お前が全部準備してやれば、こんなことにならなかっただろう。それに、俺の出張だって、お前が気を利かせて新しい靴下を買っておけばよかったんだ」

なんて憎まれ口を叩くから腹が立つ。

「あなたの出張の予定なんて、全然知りませんでしたけど。選択した靴下ならタンスに入ってますし」

「それじゃダメだ。俺は出張の時は新品がいいんだよ」

何その変なこだわり? そう思ったけど、私は口には出さなかった。夫の泊まりの出張なんて数ヶ月に一回あるかどうか。夫が言い出さなかっただけで、夫の会社では前もって決まっているはずだ。新しい靴下が必要なら、自分の小遣いで買うか、もっと前もって言って欲しいのに。

娘が泣きそうな顔をして言った。

「パパ、ママ、喧嘩はやめてよ」

私は娘に向き直った。

「香織、ごめんね。大丈夫よ。ほら、早く探しましょう」

夫も無言で自分の準備を再開し、私は娘とランドセルを確認する。ちらっと夫を横目で見ると、仕事の出張という割に、よれよれのYシャツや、休日に着るような服ばかり詰めていた。これはまた浮気かな。なんか怪しいぞとピンと来た。

夫はこれまで二回浮気をしていて、一回目は娘が生まれる直前だった。離婚を考えたけど、夫は泣きながら土下座で謝罪。さらに私を説得するよう義両親に助けを求めた。義父は私に「息子と離婚しないで欲しい」と懇願し、義母も「お兄ちゃんを見捨てないであげて」と騒ぐから、離婚は思いとどまった。

でも去年、夫は二回目の浮気をしたのだ。最初の時と同じ、出会い系サイトで知り合った女の子と関係を持った。夫は思ったことを何でもズバズバ言ってしまう性格で、行動もかなり分かりやすい。夫はバレていないつもりだけど、私からすれば「逆に隠す気があるのか」と言いたいくらいだ。あっという間に私にバレて、また泣きながら土下座。普段は偉そうにしているくせに、鼻水を垂らして泣く姿が、あまりに情けない。

「次、問題を起こしたら絶対に別れる」

と夫に宣言し、離婚届に記入させ、夫婦の貯金の全部を私の口座に移し、夫を許したものの、愛情なんてすっかり失せてしまった。夫は自分のことが最優先。娘の世話をしたり遊んであげたりしないところも許せないけど、娘がもう少し大きくなるまでは離婚を我慢しようと思っている。

結局、算数の教科書はランドセルの中からあっさり発見。娘は大喜びで元気に出かけていったけど、私は朝からどっと疲れた。お弁当を作る時間がなかったから、私はお昼休みに会社の近くのコンビニまで買いに出た。そこでたまたま保険会社の広告が目に入り、ふと「私の保険は一定期間経つとお祝い金がもらえるタイプだった」と思い出したのだ。確か、そろそろ入金されるはず。せっかく毎月高い掛け金を払っているんだし、こういう楽しみがなければやっていられない。お金が入ったら何に使おうかな。娘に新しいお洋服でも買ってあげてもいい。私は気分がウキウキしてきた。

足取りも軽く銀行へ寄って通帳を見てみたら、お祝い金どころか、今月の保険料も引き落とされていないと気づいた。

「あれ、変だな。お祝い金がもらえる月って、引き落としもないんだっけ?」

最初は単純に不思議に思ったけど、朝の夫の荷造りの光景を思い出し、なんだか嫌な予感がして、私は保険会社へ電話をかけた。すると、義姉の律子さんは本日お休み。代わりの女性が色々答えてくれて、なんと私の保険がすでに解約されていることが発覚した。すでに解約金も支払い済みだというが、私の口座にそんな入金はない。

電話の女性は「きちんと書類が揃っていて、保険会社として正しい手続きをした」と何度も繰り返す。本人の同意なく勝手に解約したとあっては大問題だし、保険会社に責任はないと言いたいのだろう。

「もう一度はっきり言っておきますが、私は解約するつもりは全くありませんでした。担当の律子さんと夫に私からも確認してみますが、そちらの保険会社としてもしっかり律子さんに確認してくださいね」

私は特大の釘を刺して電話を切った。気づけば昼休みが終わる直前で、コンビニで買ってきたお弁当を食べる時間はなくなっていた。でも、食欲はもうなくなっていたし、他にやることがたくさんできてしまった。

私は上司に今日は早退したいと申し出ると、残った仕事をテキパキと片付ける。いつもより早めに会社を出て、すぐに夫のスマホへ電話をかけた。本当に出張中で仕事をしていて電話に出られなければ、それはそれで仕方がない。

「ゆみ? なんで電話なんかしてきたんだ。俺は仕事中だぞ」

三コールで夫は電話に出て、不機嫌な声でそう言った。仕事中だという割に、夫の後ろでは明るく陽気な音楽が流れていた。なぜ夫はバレないと思っているのか、ちゃんとおかしい。

「それは悪かったわね。ねえ、私の生命保険が勝手に解約されて、解約金もないんだけど、何か知ってる? 変な詐欺に巻き込まれたのかもしれないし、警察に相談しようと思っているんだけど」

「はあ? 警察? 何考えてるんだよ、お前」

私は夫と律子さんの仕業に違いないと思っていたから、わざと大げさに警察と言ってみると、夫はぎょっとしてすぐに自分だと暴露した。私は「やっぱり」と思いつつ、怒りが燃え上がる。

「え、あなただったのね。じゃあ、解約金は?」

「それは俺が母さんに援助した」

「援助? お母さん、どうかしたの? 急にお金が必要になったの?」

「いや、たまには家族で温泉旅行でも行きたいって言うから」

「は? 旅行? 予想外の言葉に私は驚いた。そんなことのために私の生命保険を勝手に解約したの? 旅行費用にしたってこと? 出張は嘘?」

「ああ、俺が受取人だし、文句ないだろ。家族みんなで一流ホテルに泊まるんだぜ。今ロビーにいるんだけど、すげえシャンデリアがあるんだ」

バレたからもういいと思ったのだろうか。夫は興奮気味に自慢してきた。

「何それ? 文句あるわよ。ありまくりよ。なんで勝手に解約するわけ? 私が自分の給料から掛け金を払っているのよ。旅行費用なんて、自分たちで出せばいいでしょ」

「ああ、もううるせえな。だって、お前に万が一のことがあった時、俺がもらうお金じゃねえか。じゃあ俺の金だろ。お前、別に健康だし、当分くたばっちまうことないじゃん。これからまた掛ければいいだろう」

夫の言い分が全然理解できない。

「でも、若い時とは条件が変わってくるから、保険の掛け金だって高くなるのに、本当に分かっていないの?」

「だって俺が払うんじゃないし」

夫の無責任な言葉に、私は頭痛がした。

「それ、お母さんたちも知ってるの? 私の生命保険を勝手に解約したこと」

「お父さんは何も言ってない。あ、律子さんはもちろん共犯よね。あなたと律子さんで勝手に脱退して犯行したってことでしょ」

「まあな。母さんも父さんも、いいアイディアだって喜んでくれたぜ。そもそも、お前がうちの金を全部握ってるから悪いんだろ。俺だってたまにはパッと生き抜きしたいんだ。いいじゃん、別に。家族旅行に来て、みんな喜んでるんだから」

「その家族って、お父さんとお母さんと律子さんなんでしょ? なんで私と香織が入ってないの? あなたにとって家族って、私と香織じゃないの? 保険って、もしものためのお金だし、使わないままの方がずっと幸せだと思うけど。勝手に解約しないで、旅行資金を援助したいって一言相談するのが先じゃない?」

「だって、お前、絶対ダメって言うだろ。お前と香織は普段一緒にいるし、たまには本当の家族と一緒にいてもいいだろ。それにさ、律子がまた新規でお前に生命保険に入って欲しいって言うから、一石二鳥だと思ってさ」

「あなたたちにとってはでしょ。信じられない。ダメだって言われるから言わなかったなんて、小学生みたいな言い訳して恥ずかしくないの?」

「そうやって怒るから言いたくなかったんだ。めんどくせえな。これ以上ぐだぐだ言うなら、離婚してやってもいいぞ。どうせできないだろ」

観光地で気が大きくなっているんだろうか。夫はいつもより強気だ。

「分かった」

私は電話を切った。覚悟しておけよ。徹底的に、義家族と夫に復讐してやる。私は心の中で呟いた。私の我慢の限界も、もう切れた。

今まで「離婚する」と言いつつ結局許していたから、夫は私を甘く見たのだ。義両親のことは、今まで普通の人たちだと思っていたし、律子さんも高い生命保険を押し付けてきたけど悪い人じゃないと信じていた。でも、常識がある普通の人たちなら、嫁の生命保険を勝手に解約して使い込んだりしない。この夫にして、この義家族あり。全員まとめて縁を切ろう。

私はすぐに市役所へ向かった。夫の記入済みの離婚届は、お守り代わりにいつもバッグに入れてある。私は離婚届を即日提出すると、娘を学童に迎えに行き、帰り道に娘へ夫と離婚したことを話した。娘は驚いていたけど、丁寧に説明したら納得してくれた。

家に帰ると、娘が聞いてくる。

「じゃあ、パパってもう帰ってこないの?」

「今日の夜はお泊まりだから帰ってこないわね。離婚したから、別々に暮らすことになるけど、まだこれから準備するのよ」

私は娘の質問の意図が分からず、慎重に答える。

「じゃあ、今すぐお片付けしよう。早く」

「え、ど、どうしたの?」

「だってパパと別れたんでしょ? ママ、もう泣かないでいいじゃない。私、パパのこと怒ってばっかりだから嫌い」

もしかして、香織はママが悲しむからずっと喧嘩しないでって言ったの?

「当たり前だよ」

私は娘のために離婚しないつもりだったけど、娘は娘でずっと我慢していたようだ。娘が喧嘩の仲裁をした理由は、ただ私のことが心配だったから。

「パパは休みの日だって全然遊んでくれないし。私が話しかけても『うるさい。あっち行け』って言うでしょ。今朝みたいにママにひどいこと言う時だけ、私のことを使うし。ずっと悲しかったの。私はママが大好きだから」

そう言って、娘はニコッと笑う。私はその笑顔が胸に刺さった。夫が自己中で、娘よりも自分が優先なのを、娘からもすっかり見抜かれているし、娘も夫に愛想をつかしていたなんて。こんな風に娘の本音を知ったことが悲しくて、涙が出そうだ。

「そっか。ごめんね。香織にも辛い思いをさせちゃったね。これからはママと香織の二人だけど、ママが香織を大切に育てるからね。ママもあなたのことが本当に大好きだよ」

「やった」

私は絶対に、これ以上娘に悲しい思いをさせないと心に誓った。私は娘が宿題をする隣で、弁護士に依頼したり、ネットで不動産屋や引っ越し屋を探したり、忙しく動いた。それから実家へ連絡。事情を話すと、両親も「すぐに帰ってきなさい」と言ってくれた。小学校も転校しないで済む。しかも、明日の午前中なら父が知り合いからトラックを借りて荷物を運んでくれるという。

大家さんや小学校の同じ登校班の家にも「これから実家から通う」と連絡し、軽く事情を説明しておく。小学校への細かい書類の手続きは追々やっていくことにし、会社にも電話をして明日は有給を取ることにした。夫が帰ってくるまでに、大体のことは終わらせたい。

翌日、両親が来てくれ、私たちはどんどん荷物を実家へと運んだ。夫が帰る前に全て終了し、アパートには夫の荷物だけが残してある状態になった。私は「離婚しました。もうあなたたちとは他人です」と置き手紙をし、アパートを後にする。帰ってきた夫が私たちがいないことに気づいたら、きっと愕然とするだろう。ざまあみろ。私はその様子を思い浮かべ、胸がすっとした。

今回、こんなにスムーズに離婚の準備が進んだのは、前回の浮気の時に必要な手続きや準備を調べていたから。あの時は「問答無用で離婚するからね」と言っておいたし、親権も私が持つことや、夫婦の共有財産も全て私がもらうことで話がついている。こうして、私と娘は実家での新生活をスタートした。

後日、慌てた様子の義母から私に電話があった。夫のスマホは着信拒否してあるから、義母が代わりに連絡をしてきたのだろう。夫は偉そうな割にすぐ泣く。弱っちい男だから、メソメソ泣いているのかもしれない。

「ちょっと、あなた、何考えているの? 息子が浮気してないのに離婚なんて」

耳がキーンとなるほど大声で叫ばれ、私は思わずスマホを耳から遠ざけた。

「ねえ、ゆみさん。今からでも遅くないから、早く息子に謝りなさい。息子が傷ついてずっと泣いているのよ。こんなことぐらいで大騒ぎして恥ずかしくないの?」

「は? 謝る? 私が? なんで」

義母の言葉が理解不能すぎて、私は思わず「あんた誰?」と言ってしまった。

「え? 何言ってるのよ。私よ、私。あなたのお母さんよ。もう、ゆみさん、どうしたのよ。まさかボケたんじゃないでしょ。あなた、まだ若いんだから」

「いいえ。私の母は一人しかいません。名前を名乗らないなんて、もしかして新手の詐欺ですか?」

私はさっきの自分の発言に乗っかることにした。離婚してもう赤の他人なんだし。勝手に生命保険を解約するような人たちと、まともに話しても仕方がないと思ったからだ。

「う、ふざけないでよ、ゆみさん。あなたがそんな態度を取るなら、こっちだって考えがありますからね」

案の定、義母は激怒したが、そんなことは構わない。

「考えって、一体何ですか? あなたに何かできるとでも? 次に何か問題を起こしたら即離婚することは、あの人と話がまとまっていましたし、電話であの人から離婚すると言われたんですよ」

私の言葉に、義母はぐっと詰まった。私はここぞとばかり追撃する。

「旅行に行きたいなら、相談してくれたらよかったんですよ。なんでわざわざ罪を犯すんですか? まさか、一家で刑務所にでも入りたいんですか? 生命保険を勝手に解約って、有印私文書偽造罪になると思うんですよね。三年以上五年以下の懲役になるので、徹底的に戦わせてもらいますからね」

義実家に貯金がないとか貧乏だという話は聞かないから、夫たちはただ軽い気持ちでやったことかもしれない。でも、だからこそ許せないのだ。

「え、なにそれ? ちょっと待って。犯罪者なんて困るわ。ねえ、ごめんなさい。話を聞いて」

義母は「懲役」という言葉に驚いたのか、さっきと打って変わって下手に出てきたが、もう遅い。私は電話を切って、義実家の電話も着信拒否した。

その後、夫は私から離婚されたことがショックで、会社を自主退職して引きこもりになったそうだ。生命保険については、金融ADR制度という裁判外で保険関係のトラブルを解決する制度を使い、無事に和解。律子さんは保険会社を懲戒解雇になって、ちょっとしたニュースにもなった。そのせいで義実家はご近所から噂の的にされ、親戚から「常識がない」「恥を知れ」などと攻められ、肩身の狭い思いをしているようだ。夫も、義母からの援助がなくなったため、かなり困窮しているらしい。

私は娘と一緒に実家でのびのび暮らしている。娘に苦労をかけた分、たっぷり愛情をかけて育てていきたい。

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