着工日の朝、現場に立ったのに誰もいない。電話を何度かけても、呼び出し音だけが虚しく響く。日付も場所も間違っていない。なのに、業者の姿も、工事の気配も、一切なかった。頭の中が真っ白になった。まさか、自分が何かしてしまったのか。この業界で折り合いがつかずトラブルになる話は聞いたことがある。でも俺は、相手が不快になるようなことは絶対にしないと心がけてきたつもりだった。それなのに、誰も出ない。これは…

着工日の朝、現場に立ったのに誰もいない。電話を何度かけても、呼び出し音だけが虚しく響く。日付も場所も間違っていない。なのに、業者の姿も、工事の気配も、一切なかった。頭の中が真っ白になった。まさか、自分が何かしてしまったのか。この業界で折り合いがつかずトラブルになる話は聞いたことがある。でも俺は、相手が不快になるようなことは絶対にしないと心がけてきたつもりだった。それなのに、誰も出ない。これは...

着工日なのに、電話が一本も繋がらない。明は現場の前に立ち尽くし、何度もスマートフォンの画面を見直した。間違えていない。日付も場所も、間違いようがない。なのに、誰もいない。工事の気配すらない。

もしも事故なら、近くの誰かが気づくはずだ。電話の電源を切っているなら、コールすら鳴らない。しかし明の耳に届くのは、虚しい呼び出し音ばかり。つまりこれは、意思を持って出ないということだ。この業界で、折り合いがつかずにトラブルが起こる話はよく聞く。だが明は、相手が不快になるような振る舞いを絶対にしないと心がけてきたつもりだった。気づかないうちに、何かやってしまったのか。

頭では分かっていたつもりだった。この業界に蔓延る悪しき風習は、自分たちで意識して変えていかなければならないと、社長からも教えられていた。それなのに、自分は分かった気になっていただけだった。

だめだ。まずは何が気に触ったのかを把握して、改善する姿勢を示さなければ。明はそう思い、虎ラ星建設の事務所へ直接向かうことにした。きちんと謝罪しようと思ったのだ。

ところが、事務所の外で信じられない会話が聞こえてきた。中の声は、明の取引先である吉水たちのものだった。「これで向こうが困れば、何も言わなくても条件を提示し直してくるからな」「いつもこっちが黙ってやってくれると思っているのが、そもそも間違いなんすよ」「いいっすね、勉強になります」「今で言ったらキャンセル界隈だな。きちんと罠にかかったキャンセルだけどな」「それで上乗せ契約が向こうから来るって、ちょろいっすね」

つまり、特に不満もなければ、意見をぶつけ合いたかったわけでもない。ただ自分たちの欲を満たすために、周りに迷惑をかけたのだ。そんなことが通用するわけがない。明は絶対に許さないと心に決めた。このまま乗り込んでも、もやもやするだけで、こちらの立場が確定してしまうだけだ。明はその場をそっと離れ、すぐに社長へ電話をした。

「申し訳ありません。本日から着工開始なのに、初日から何も始まっていません」「分かった。大丈夫だ。後のことは私に任せて、君はすぐにこっちに電話をしてくれるか?」

明は社長の指示通りに動くことにした。そして、その日の出来事から教訓を得た。さて、そろそろ向こうから折れて連絡が来る頃だろう。いや、もしかしたら直接現れるかもしれない。そんなことを考えていると、案の定、虎ラ星建設の社長から電話がかかってきた。

「もしもし、どうされました?」

「ああ、ようやく電話に出られるようになったんだね。いつもうちの社員たちが世話になっているよ。バストラリッチの社長をしている軍事だ」

「昨日はうちから依頼したマンション建設の着工日。見事に何もしなかったようだね」

「いやいや、あ、そうですね。こちらとしては…」

「何を平然と答えているんだ?つまり君たちは、契約内容を踏まえた上で、そのようなことをしたと?」

「あの、そちらの明さんは…」

「彼なら、昨日のうちに新しく契約を結んだ別の会社と、今日からの工事について現場で打ち合わせをしているよ。だから、君たちの意思はよく分かった。契約内容に乗っ取り、お宅との契約は終了だ。そして今後とも取引はしない方向で固めさせてもらった」

「ええ?いやいや、待ってください。何を…」

「昨日の着工日に、そちらがあのような意思を示したということは、つまり今の取引ではお宅は割に合っていないという結論になったということでしょう?私の会社としては、常に最大限のものをお取引の材料として提示しておりました。それでも割に合わなかったと受け取りました。そうまでしてそちらの意思を示されたのであれば、素直にご意向を受け取った上で、こちらはこれ以上出せませんという判断を下したまでです」

「待ってください。それってつまり…」

「つまりも何も、今後は別の建設会社にお取引をお願いすることになりました。お宅との縁は、これにてなくなるということです」

「そんな、ありえない!」

「そちらこそ何を言っているんですか?着工日が昨日だったんですよ。その初日にこれだけのことをされたんですから、こちらとしても迅速に動かなくてはいけなかっただけです」

「待て待て待て。まだこっちは頷いてなんか…」

「頷くも何も、発端はそちらでしょう。こちらは、そちらの意思表示に対しての答えを迅速に出したまでです。色々やり取りをしていたのはそちらの明さんなんだから、せめて言葉を返しくらいは…。私は昨日、そちらの取引相手が着工日に何もしなかった分の遅れを取り戻すために、新たな会社と打ち合わせをしなければいけませんので、手が回りません」

「だ、だからそれは…」

「まさか、金銭が発生しているビジネスの場において、欲を満たすためだけの駄々みたいな振る舞いをして、何か起きると思っていなかったんですか?これは大人のマナーが問われているだけです。全て自分に帰ってきたと思って、身の振り方を改める機会ですよ」

そう言い放って、軍事社長は電話を切った。虎ラ星建設の社長は、呆然とした。そして、怒りが沸き上がってきた。

「ふざけんな!」

「どうしたんすか?」

「どうもこうもない。交渉失敗どころか、切られたよ」

「え?どうするんすか?ありえねえ。なんで?」

「あいつだ。明が証言したんだよ。俺らの昨日のことを対応するでもなく、社長に泣きついて丸投げしたんだ」

「はあ。じゃあ俺らの要求が間違って伝わったってことか?」

「くそ、行くぞ」

「どこに?」

「決まってんだろ。現場だよ。そこにあいつがいるんだ。あそこで新しい会社と工事を始めるんだとよ。ありえねえ。俺らの仕事だろ。なんでこうやって、向こうの都合だけでこっちが振り回されなくちゃいけないんだ。許さねえ。そうやってやるから、こっちは毎度意を出さなくちゃいけなくなるんだ」

吉水たちは現場に乗り込んだ。そこには、明と新しい建設会社の担当者がいた。

「何をしているんだ?」

「え?え?」

「ここは俺たちの管轄だろ?ここに建設するマンション、俺たちが担当して、俺たちが築き上げるんだろう?」

「誰なんです?」

「ああ、申し訳ありません。こちら…」

「ふざけるのもいい加減にしてくれ。俺たちはそこの下さんのとこから仕事を受注してきた担当者だ。つまり俺たちが正式な契約者だよ」

「契約が切れていなかったんですか?」

「いえ、正式に…」

「そんなのは認められない。俺たちは一方的に悪いなんてされないって言ってるんだ。何もまだ始まっちゃいねえだろ。いつこっちが納得したんだよ」

「失礼ですが、何をおっしゃっているんですか?」

「だから、俺たちはあんたんとこからの一方的な打ち切りには応じないと」

「誰が一方的にやったんです?」

「は?」

「はっきり言いますが、僕はそもそも契約内容通りにしただけですよ」

「は?何を言って…?」

「やはり、きちんと把握されていなかったんですね」

「どういうことだよ」

「ですから、お宅と結んでいた契約内容ですよ。そもそも契約内容には、予定通りに行かない事態が発生した場合は、迅速に連絡を入れることと明記してあります。無断で工事が一日行われなかったら、違約金が発生するとも明記されていますよ」

「ああ、そうか。そんなの当たり前だろ」

「この業界では、自分たちの意見を通そうとする際に、相手が困ることをして要求を示すやり方をされると、後々に問題が出て、関わっている全ての人に迷惑が発生してしまいます。だからこそ、相手に注意を促す意味も込めて、この契約内容にしているんです。僕の会社は、そんなどちらかが高圧的で好き勝手にできる構図がはびこっている今の業界のままだと、確実に廃れてしまうと思っています。だからこそ、常に対等でいられるようにしているんです。だからこそ、この契約内容だったのに」

「は?言ってることおかしくね?だってあんた今言ったじゃん。無断で工事が一日行われなかったら違約金が発生するって。おかしいだろ。対等でいられるようにするのであれば、意見をするためのあえての何もしないという選択をした時になんで違約金を支払わせるんだ?」

「確かに対等って言っておきながら、こっちが意見しようものならお金を払って、なんて理屈として間違ってる」

「だから、そのための『予定通りに行かない事態が発生した場合は迅速に連絡を入れること』となっているんでしょう?わざわざそんな周りに迷惑をかける行為をしなくても、いつでもそちらの困ったことがあれば、その段階ですぐに教えてくださいね、という意味を込めて、迅速に連絡を、と言っているんです。逆に、困ったことがあるのにそれを黙って、結果的に工期に支障が出るようなことが起こってしまったら、その時は違約金が発生してしまいますよ、という意味だと、毎回依頼をする時に説明しておりましたが」

「いや、そういうのは慣れてるじゃん」

「何ですか?毎度請け負う時に、そちらは『どうせいつも通りでしょう』と業務内容を聞き流していたということですか?」

「そうじゃねえよ。ああ言えばこう言うのをやめた方がいいと思うぜ」

「それをやっているのは、あなたたちでしょう。とにかくバストラリッチとしては、そういったこの業界に蔓延っている風習を自分たちから変えていくという方針のもと、契約内容も作成しているんです。そして、その内容を踏まえた上で、どちらかの合意が得られなくなった段階で、契約は工事の途中でも終了することができる、となっています。今回もそれに同意いただけたから、依頼したんですよ」

「だからって、都合が悪くなったからって、勝手にそっちから縁を切ってもいいぞ、ってことか?」

「はい」

「契約内容については、確かにこっちにも確認不足だったという部分があるかもしれない。だけどな、それによってそちらが一方的に判断を下したことについて、俺ら側の意見も聞かずに終わりにするってのは、虫が良すぎる」

「ですから先ほど申し上げた通り、誰がいつ一方的にやったんです?」

「ああ、やってんじゃねえかよ。今まさにお前が」

「え?もしやですけど、そちらは、ご自身の悪いことは記憶から消去できるプランにでも加入されているんですか?昨日から、片方の合意が得られなくなってしまったんですよ」

「そうだな。でも、お前だ」

「いいえ、違います。片方の同意を得られなくなったというのは、あなた方のことです。だってそうでしょう?そちらがまず初めに、工事の着工日から手をつけないという形で、合意できなくなったと意思表示したんじゃないですか。その上で、丸一日連絡がつかず、初日から工事に遅れが出た。だからこそ、こちらはそちらの意思表示を踏まえた上で、契約内容に乗っ取り、終了という形の結論を出したまでです。発端はあなたたちであり、合意を得ていないと意思表示をし始めたのも、あなたたちだ。そして、あなたたちの行動を考慮した上で、話し合いをしようにも、昨日の雲隠れの一件で、対等に意見交換をすれば関係を築ける相手ではなかったと結論付けました。つまり、こちらは一方的にことを起こしたのではなく、あなた方の行動によって最終判断を下したまでです。始まってもいないのではなく、終わったんですよ。完全に。分かりやすく言うのであれば、今回の件を踏まえて、こちらはもうあなたたちの欲に振り回されたくないです。どうぞご自由に羽を伸ばしてください」

新しく契約した建設会社の担当者が、口を挟んだ。

「そうですね。まさにうちもその一つです。というか、話を聞いてて思いましたけど、あんたら随分と自己都合が良すぎません?バストラリッチさんと言ったら、超優良の依頼側であるって、この業界ではめっちゃ有名なんですよ。だからこそ、少しでもご縁ができればって、どこの会社もわずかな望みをかけて、毎度アポを取っているくらいだっていうのに。まさかその会社の依頼を受ける側が、こんな奴らだったなんてな」

「おいおいおい。今、それは言うことか?」

「そうだよ。すぐに別の会社を見つけましたよ、あんたらみたいに尻尾を振り振りしてまでやるって。あ、ついでに言うと、俺んところ以外の会社も、今の君のアポを取り始めましたよ。だって、長年良くしてもらっていた会社と、この度契約が終了になったため、新たな取引先を探そうと思ってましたって、バストラリッチさんの社長がいろんな会社に言い始めてますからね」

「ちょ、待て待て。嘘だろ」

「いや、普通に考えて。信頼がなくなったのであれば、新たな信頼先を会社側としては見つけなければいけないでしょう。要するに、お宅が連絡取れなくなった段階で、バストラリッチさんは次の一手と進まざるを得なくなったってことですよ。うちとあなた方は、もう終わったんです。じゃ、ここの工事は、新たに契約させていただいたこちらの方と進めます」

「俺たちは…」

「昨日の着工日に、丸一日何もしなかったのが答えですよね?」

「そうやって決めつけるのが、良くないと思います。つまり、口では対等とか言っておきながら、あんたのところも俺らのことを、すぐに変えられるピン切りだって思っていた証拠じゃないか」

「ですから、何度もお伝えしますが…」

「ああああ、めんどくせえ。いい加減にしろ!」

吉水が声を荒げると、明は静かに言った。

「いいですか、言っておきますが、赤石さんのところは、俺たちに対してそんな扱い絶対にしない。現に、あんたらが起こした昨日のトラブルの件だって、赤石さんは一言だって俺たちにあんたらを悪く言ってないんですよ。ドガさんはな、ただ『明さん側の依頼内容で、相手を不快にさせてしまったトラブルが起こってしまい、急な依頼になってしまった』とだけ、俺らに伝えていたんだ。あくまで日があったのは自分たち側って。あんたらのことなんて、一ミリも悪く言ってなんかいないぞ。なのにな?昨日の着工日は、俺らがばっくれたことも、一日あんたからのコールが鳴っても反応しなかったことも、言ってないんだ」

「昨日のあれは、やはり集団での意思表示だったんですね。連絡も、ちゃんとやったのかよ。どんどん墓穴掘ってくな」

吉水たちは顔色を変えた。明は、本当に申し訳なさそうに、新しい会社の担当者に頭を下げた。

「本当に申し訳ありません。トラブルに巻き込んでしまって」

「いやいや、赤石さんは完全に何も悪くないでしょう。着工日がどれほど大切な日か、同じ業界で働いているなら誰でも分かるっていうのに、そこを狙って、こんな幼稚なことを…。実は、昨日連絡が取れなかったので、直接この方々の事務所まで行ったのですが、そうしたら中から『うちとの取引内容に不満があるから』と言っているのを聞いてしまいまして」

「義、それ聞いてたの?」

「はい。だからこそ、そういう意向であればと、うちの会社も迅速に判断を下したまでです」

「もう、なんか色々察しますわ。では改めて、工事の解消…」

「ちょ、待て!それは違う!もういい加減にしてくれません?」

「いいや。する。謝るから。要するに、俺らが非を認めれば、これで終わりになるわけだろ?そうだよ。悪かった。今回は俺ら側の落ち度ってことで。あ、今からきちんとやる。昨日の分も取り戻して、ちゃんとやるから」

「お断りします」

「は?」

「そもそも、契約内容も理解していなかったお宅に、再度の取引は無理です。せめて筋を通したいのであれば、契約内容に乗っ取って、無断で工事が一日行われなかったから違約金が発生するという内容を、きちんとうちの社長と話し合って、けりをつけてからにしてください」

「その契約内容も、すっぽ抜けてた。ごめんなさい。自己都合だけで通そうとして、悪かったです」

こうして、今回の件で吉水たち虎ラ星建設は、契約内容に基づく違約金をバストラリッチに支払うことになった。軍事社長は、今回のことが教訓になるようにと、限度額一杯分までを請求した。ただ欲を満たすためにあんなことをしなければ、今頃は信頼関係を築けていたかもしれない。信頼は、どれだけ築くのに時間がかかっても、一瞬の行動で崩れる。責任がなかったから、こんなことを平気でやってしまったのだ。

虎ラ星建設は、他の会社からの受注金で違約金を支払おうと試みたらしい。しかし、「虎ラ星建設はこんなトラブルを引き起こすところだ」と噂が広まってしまったために、どこも依頼を拒否した。仕事が入らなければ、違約金どころか会社すらも存続できない。虎ラ星建設は、あっさり倒産することになった。今頃、かつての素晴らしい待遇だった頃を嘆きながら、違約金支払いのために抱えた借金を、どこかで強制的に返済しているそうだ。

一方の明は、学んだことを胸に新たな現場へと向かう。自分たちだけが美味しい思いをするために、周りに迷惑なやり方で訴えるのではなく、正当なやり方できちんと伝えるのが一番の近道だ。そのためには、日頃からの接し方、常に気を配ること。お互いにとって、それが大切なのだと。

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