現場の朝は、いつもと同じ音で始まった。鉄骨がぶつかる低い響き、無線の短いやり取り、そして自分のブーツを磨く布の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえた。普段なら何も感じないその音が、その日は妙に耳に残った。足元の擦り傷を指でなぞり、いつも通り十二分かけて磨き終えた時、スマートフォンが震えた。伊沢からの短い連絡だった。「今日、本社から人が来る。午前中、話があるそうだ」。たったそれだけの文面なのに、…

現場の朝は、いつもと同じ音で始まった。鉄骨がぶつかる低い響き、無線の短いやり取り、そして自分のブーツを磨く布の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえた。普段なら何も感じないその音が、その日は妙に耳に残った。足元の擦り傷を指でなぞり、いつも通り十二分かけて磨き終えた時、スマートフォンが震えた。伊沢からの短い連絡だった。「今日、本社から人が来る。午前中、話があるそうだ」。たったそれだけの文面なのに、...

黒川高典は毎朝、靴を磨くことから一日を始めた。六十五歳になった今も、その手つきは乱れなかった。左手で爪先を押さえ、右手の布で小さな円を描く。傷だらけのスチールブーツに、黒い光沢が滲んでいく。十二分。それが毎朝の決まった時間だった。この男の人生そのものが、そういう制度で成り立っていた。右の爪先にある長い擦り傷は、三年前に足場が崩れた時にできたもの。左の踵の凹みは、十八トンのプレキャストコンクリートが目と鼻の先に落ちてきたあの日の記憶だった。傷は消えなかった。消す必要もなかった。傷は記録だ。生きてきた証だ。

ガントリークレーンの操縦席は、地上三十八メートルの高さにあった。東京都心のど真ん中、再開発工事の現場。高典は毎朝、この席から現場全体を見下ろしていた。午前七時二十分、操縦席に腰を落ち着け、まず傷だらけの水筒を取り出した。自分で入れたブラックコーヒーを一口含む。熱が喉の奥から胸へと広がっていく。それが一日の始まりを告げる合図だった。コンソールに目を走らせる。ワイヤーの張力、ドラムの回転数、風速。高層部では地上より風が増す。前線が通過する予報がある。その時間帯、ケーブルにかかる横揺れがどう変化するか。高典は頭の中で自動的に計算していた。計算式があるわけではない。四十年間、体で覚えてきた感覚だ。どんなセンサーも持っていない精度だった。

八トンのH形鋼をゆっくりと吊り上げる。ドラムが巻き取られるにつれ、ワイヤーがピンと張り、唸りを上げる。高典の指が操縦桿に添えられる。触れているだけという感覚で動かす。力で動かすのではない。機械と対話するように、会話するように。吊り荷が二十メートルの高さに達した時、わずかに西からの風が入った。高典はレバーをほんの数ミリ傾け、風の流れに乗るようにして荷を安定させた。地上では作業員の一人が手信号を出した。左に少し。もう少し。止まれ。高典はその動きを肉眼で読み取り、ミリ単位で誘導した。鉄骨が所定の位置に収まった瞬間、金属音が響いた。地上の職長が短く親指を立てた。高典は無表情に確認し、コーヒーをもう一口飲んだ。どれだけ世の中が変わろうとも、あのピタリと収まる感触は、機械が自動でやることのできない何かを含んでいると信じていた。

昼の休憩、高典は操縦席を離れず、妻の作った弁当を膝の上で食べた。酒の塩焼きと卵焼き、茄子の煮浸し。何年経っても味付けが変わらない。黙々と口に運びながら正面の窓に東京の空を眺めていた。入道雲が遠くに見えた。その時、操縦席の下から声が上がってきた。溶接工の三田が、鉄骨工の上野と何か話している。三田は三十四歳で入社してまだ三年目だが、情報を拾ってくることにかけては現場で一番だった。上野が突然、手にしていた工具箱を足場の鉄板に強く置いた。その音が高いところまで反響した。高典はそれを横目に見ながら卵焼きを口に入れた。どうせ大したことのない噂だと思った。

午後二時過ぎ、現場監督の伊沢が珍しく無線を飛ばしてきた。午後の搬入スケジュールの変更を告げるだけの内容だった。変更自体は珍しくもない。高典は短く返し、作業を続けた。しかし三時の休憩で地上に降りると、現場の空気が変わっていることに気づいた。作業員たちがいつもより小さな声で話している。何人かが固まってスマートフォンの画面を覗き込んでいた。三田が高典の姿を見て、少し間を置いてから口を開いた。

「黒川さん、知ってますか」

「何を」

「今日の昼頃からネットで流れてるんですけど」

上野が代わりに続けた。

「うちの会社、買収されたみたいですよ。今日の取締役会で発表があったらしいです」

「どこの」

「シンガポールの投資系のグループらしいです」

三田がスマートフォンの画面を高典に向けた。経済ニュースのサイトに、企業名と「完全子会社」という文字が見えた。高典はそれを一秒ほど見てから視線を外した。感情はすぐには来なかった。代わりに、じわりと広がってきたのは既視感のようなものだった。こういう話は業界で何度も聞いてきた。ただし、それはいつもよその話だった。

「それだけか」

三田が言い淀み、画面を伏せた。高典は三田の顔を正面から見た。

「何かあるのか」

三田が深く息を吸った。

「新しい体制で、遠隔操作システムを全面導入する予定だって記事には書いてます。オペレーター不要になるって話で。遠隔操作」

高典はその言葉を頭の中で転がした。以前も聞いたことがある。仮想現実のモニターを見ながらクレーンを操作するなど、子供のゲームと変わらない。実際の現場では、風の変わり目の一瞬の判断が命取りになる。そういうものはセンサーでは測れない。データでは補えない。それは経験だ。体に染み込んだ判断だ。その考えは今も変わらなかった。高典は短く「そうか」と言って、ヘルメットを被り直した。

その日の仕事が終わった後、高典は中学時代からの友人、松崎秀明と居酒屋で会った。衛名は都内の中規模な金融系企業で管理職についていた。六十五歳になった今も、いつもきちんとアイロンのかかったシャツを着ていた。三年前に一度会って以来の再会だった。衛名がようやく口を開いた。

「会社の話、知ってるか」

「どこの会社の」

「うちの話だよ。先月、部署ごと人員整理があった」

衛名は続けた。AIを使った自動分析のシステムが本格稼働したら、人間が判断する部分がほとんどなくなる。俺みたいにデスクに座ってる人間は特に。データを見て判断する仕事は、機械の方が早くて正確でコストもかからない。それから衛名は高典を正面から見た。

「ただ、あんたは違う。あんたみたいに実際の現場で体を動かす人間は、これからも絶対に必要だ。機械は変われない。そういう職は守られてる」

衛名の言葉には、自分を慰めるような成分が混じっていた。それに高典は気づいたが、内容自体には反論しなかった。四十年間ワイヤーと向き合ってきた自分の仕事を、機械が完全に奪えるとは思っていなかった。機械にできることとできないことがある。それは高典の確信だった。

「そうかもしれんな」

衛名が少し軽くなった表情で頷いた。二人はそれから一時間ほど、昔の話をして飲んだ。店を出たのは夜九時を少し回った頃だった。家まで二十分ほどの道を、高典は自転車を押しながら歩いた。台所の電気がついたままになっていた。千鶴はもう寝ていた。テーブルの上に夕食がラップで蓋をされて置かれていた。隣に走り書きのメモがあった。「先に休みます」と書いてあった。高典は一人で黙々と食べながら、今日一日のことを頭の中でなぞった。全部どこかがいつもと違っていた。だが高典はその違和感に名前をつけなかった。名前をつけることで、それが実態を持ち始めるような気がしたからだ。

翌朝、高典は五時に目が覚めた。いつも通りだ。コーヒーを入れ、ブーツを磨き、百回の腕立て伏せをこなした。七時前に家を出て、現場まで自転車で四十分。今日は午前中に三本の柱鉄骨を吊る予定だ。現場の入り口に差しかかった時、いつもと違う車が入口の前に止まっているのが見えた。ダークグレーの外車だった。レンタカーのプレートが付いていた。高異室に入ると、いつもより人の数が少なかった。三田も上野もいた。ただ二人とも、高典を見た時、目を一瞬だけそらした。高典はロッカーを開け、社員証を取り出して入場ゲートのリーダーにかざした。ゲートは開かなかった。代わりに電子音が三度短く鳴り、赤いランプが点滅した。もう一度かざした。同じ音が鳴った。エラーコードが表示されていた。『読み取り不能』ではなく『アクセス制限』。そのコードは、高典が職場で一度も見たことのないものだった。

背後から声がした。

「黒川さん」

振り向くと、事務所から出てきた伊沢がいた。昨日とは違う顔をしていた。険しいのではなく、どこか申し訳なさそうで、それでいて何かを抑え込んでいるような顔だった。

「人事の方から話があるそうです」

人事の部屋は事務所の二階にあった。中に三人いた。一人は人事の担当者で顔は知っていた。もう一人は見知らぬ中年の男で、スーツの質が現場の誰とも違った。三人目は通訳らしき若い女性だった。最初に口を開いたのは見知らぬスーツの男だった。短い英語の文が続いた後、通訳が日本語に変えた。

「経営者の新しい運営体制への移行にあたり、一部のポジションについて役割の変更をお願いしております」

人事の担当者が一枚の紙を高典の前に置いた。配置転換。新しい職種は『清掃衛生管理監督補佐』。手当の数字が並んでいた。現在の月給を頭に思い浮かべ、その数字と比べた。約四割。つまり六割の削減だった。紙にはどこにも理由が書かれていなかった。高典は何も言わなかった。椅子から立ち上がった。立ち上がる時、足に力を込めた。膝が笑うことも、ふらつくこともなかった。この体だけは裏切らない。部屋を出た。廊下を歩きながら、胸の中に熱いものが広がっていくのを感じた。怒りというものとは少し違った。長い時間をかけて積み上げてきたものが、静かに問いかけてくるような感覚だった。

廊下の窓の向こうに現場が見えた。ガントリークレーンが朝の光を受けて鈍く光っていた。高典は立ち止まって見た。昨日まで自分が座っていた操縦席が、空っぽのまま空を背景にしていた。その時、ズボンのポケットの中で携帯電話が振動した。

「もしもし。黒川高典様でいらっしゃいますか?」

「そうだが」

「総合医療センターのものです。奥様の千鶴様についてご連絡しております。今朝の九時十分頃、お勤め先のご近所で倒れられまして、現在こちらで見ております」

高典の指が携帯電話を強く握りしめた。

「どんな具合だ」

「詳しくは来られてからお話ししたいのですが」

高典は電話を切った。頭の中で経路を組み立てた。自転車を出す。どの道を行くか。何分かかるか。考えることだけに集中した。今ここで崩れることはできない。崩れている時間がない。

病院の廊下というのは昼間でも暗い。壁も床も消毒液の匂いも、何かを押し付けようとしているようだった。高典は作業着のままその廊下を歩いていた。担当医は白井の胸に、坂本という名前の札をつけていた。四十代半ばの男で、眼鏡の奥の目が疲れていた。坂本が言葉を選ぶように少し間を置いた。

「本日奥様が倒れられた際、念のため精密検査を行いました。今日の検査だけで確定診断を出すことはできませんが、画像と血液の数値を見る限り、急を要するものがあります。肺の部に、気になる所見がございます」

高典は坂本の顔を見た。『気になる所見』という言葉の意味は分かった。四十年現場で生きてきた人間には、言葉の裏側を読む能力が自然と身についている。現場で親方が「ちょっと気になる」という時は、ほぼ確実に問題が起きている。

「千鶴はどこだ」

「病室にいらっしゃいます。ご意識はあります」

千鶴は六人部屋の一番奥のベッドで、背を起こして半分座った姿勢になっていた。高典が引き戸を開けた時、千鶴はすぐに気づいた。何も言わなかった。ただ高典の格好を見て「そのまま作業着だったのか」という顔をした。高典はベッドの脇の丸椅子を引いて座った。

「どこが痛いか」

千鶴は少し首を振った。

「痛みはそんなにない。ちょっと目まいがして、そしたら床に手をついてた。それだけだよ」

高典は千鶴の左手の甲に貼られた点滴のテープを見た。白いテープの端が少し浮いていた。高典は無言でそのテープの端を指でそっと抑えた。千鶴が手を引くようなそぶりをしたが、引かなかった。

「大したことないみたいよ」

高典は何も言わなかった。千鶴がしばらくしてから言った。

「あなたの方こそ、どうだったの、今日」

高典は視線を床に落とした。

「別に」

「あの子たちから連絡来てたよ。倒れる前に、配置が変わったって聞いたけど」

高典はそれを聞いて顎を引いた。今はそんな話をする時じゃない。

千鶴は窓の方を向いた。夕方の光が窓ガラスに斜めに差し込んでいた。高典はそこに一時間ほど座っていた。二人ともあまり話さなかった。それでよかった。話す必要はなかった。看護師が来て夕食の時間だと告げた。高典は立ち上がった。千鶴が言った。

「明日は来なくていいよ。仕事あるんだから」

「来る」

そう言って部屋を出た。帰り道、高典はコンビニに入り、カロリーメイトとブラックコーヒーの缶を買って、駐輪場の縁石に腰を下ろして食べた。食欲はなかったが、食べることにした。体を動かし続けるには燃料がいる。それだけのことだった。

三日後、精密検査の結果が出た。高典は千鶴と並んで坂本の診察室に座っていた。坂本はモニターに画像を出し、画面の一点を指で示した。

「肺に腫瘍があります。検査の結果、悪性と確認されました」

となりで千鶴が息を吸う音が聞こえた。

「ステージはどうだ」

「ステージ4です。診断の時点で、リンパ節への転移が確認されています」

「治療の方針は」

「標準的な化学療法のプロトコルに加えて、分子標的治療薬の適用が考えられます。ただしこの薬剤は、現行の保険診療の適用範囲外になります。相当の負担が生じることをあらかじめ申し上げておきます」

坂本は数字を言った。一クールあたりの薬剤費と処置費の概算。高典はその紙を受け取った。数字を見た。千鶴の横顔を見た。千鶴は坂本の方を向いていたが、その視線は坂本を見ていなかった。もっと遠くを見ていた。

「治療した場合の見通しはどうだ」

「奏効率は、標準治療と分子標的薬の組み合わせで、現時点で約四十パーセントとされています。完治ではなく、腫瘍の縮小、あるいは進行の抑制を目標とします」

四十パーセント。高典は心の中でその数字を転がした。現場の数字感覚で言えば、四十パーセントというのは薄い。だがゼロではない。ゼロではないということが、今は重要だった。

「分かった。治療を進めてくれ」

診察室を出ると、千鶴が低い声で言った。

「ごめんなさい」

「なぜ謝る」

「お金が……」

高典は千鶴の手の上に自分の手を重ねた。何も言わなかった。

「大丈夫だ」

高典は前を向いたまま言った。大丈夫だという言葉の根拠を今すぐ示すことはできなかった。だが、それ以外に言える言葉がこの男には一つもなかった。

翌日から高典は現場に戻った。戻ったという表現は正確ではない。戻ったのは同じ場所だが、そこに自分の居場所はもうなかった。渡された道具は、モップと塵取りと分別用のビニール袋だった。最初の日、高典は道具を手にして構内に立った。しばらく動けなかった。目の前に広がる現場は変わっていなかった。鉄骨の骨格が空へ向かって伸びていた。そして頭の上には、自分が四十年乗り続けたクレーンが今朝も静かにそこにいた。操縦席に人影はなかった。遠隔操作への切り替えはまだ準備中らしく、この日のクレーンは停止していた。高典はモップを持ったままクレーンを見上げた。操縦席まで何メートルあるか。あそこまでどのルートで登るか、時間がどれだけかかるか。体が自動的に計算した。四十年で体に染み込んだ回路が、まだそこに残っていた。後ろから声がした。

「黒川さん、今日はこっちから始めてください。資材置き場の周辺と、結束バンドが散らばってます」

振り向くと二十代の若い男がいた。新しく配置された清掃管理の担当者だった。名前を言ったが、高典はすぐには覚えられなかった。男は手元のタブレットに何かを書き込みながら、指示だけを出して行ってしまった。

一か月が経った頃、最初の化学療法のクールが始まった。高典は休日ごとに病院に行った。抗がん剤の副作用は、坂本が事前に説明した通りのものが出た。吐き気、食欲の低下、体のだるさ。千鶴はあまり口に出さなかったが、顔色が徐々に変わっていった。高典は毎回病院の帰りに一人で会計窓口に立ち寄った。今月分の支払いを済ませ、次回分の目安を確認する。貯蓄が底をついたのは、三回目の化学療法クールが終わる少し前だった。正確には底をついたわけではなかった。まだいくらかは残っていた。だが、それは次のクールの費用に消える分だった。四十年かけて二人で貯めてきた分が、三か月で溶けていく速度だった。

その夜、高典は台所のテーブルに通帳と計算用紙を並べて座っていた。数字を書いては消し、書いては消した。高額療養費制度という言葉を見つけたが、千鶴の薬剤費の大部分は保険適用外だった。その制度の恩恵はほとんど受けられなかった。衛名に連絡しようかという考えが浮かんだのは、その時だった。衛名に頼むということを、高典はこれまで考えたことがなかった。友人というのは頼るものではなく、飲むものだ。それが高典の中にある感覚だった。だが今は違う。千鶴の薬がある。治療がある。

翌日の夕方、高典は衛名に連絡した。三日後、二人は前回と同じ居酒屋で向かい合った。高典が千鶴のことと治療費のことを話した。衛名は途中で口を挟まずに聞いていた。

「大変だったな」

その言葉は薄っぺらくなかった。ただ重さがあった。高典は金を借りたいと言った。できれば多めに。衛名は少し間を置いた。

「俺が直接貸せる額には限りがあるが……実はちょうどいいタイミングで聞いたことがある。うちの会社の取引先に、資金融資の仲介をやってるグループがある。正規の金融機関じゃないが、会社が保証人になるから安心だ。手続きも早い。担保があれば、かなりの額が借りられる」

「担保」

衛名が頷いた。

「不動産なら通りやすい。あんたのところに家があるだろう」

高典は黙って考えた。あの家は千鶴と三十年かけてローンを払い終えた家だった。木造二階建て。特段の価値があるわけではないが、二人の生活が染み込んだ場所だった。衛名が続けた。

「保証はうちの会社が出るから、仮に返済が遅れても、普通の消費者金融みたいに一夜で金利が跳ね上がるようなことはない」

「金利はどのくらいだ」

「年利で七パーセントから十パーセントの間になるはずだ。ただ、契約書の細かい情報は直接担当者から説明を受けてくれ」

高典はその数字を飲み込んだ。高くはないと思った。銀行より高いが、緊急の状況での民間融資としては許容の範囲に見えた。

「わかった。話を進めてくれ」

衛名が少しだけ息を吐いた。安心したような息だった。高典はそれに気づいたが、特に意味は取らなかった。

手続きは思ったより早かった。担当者の名前は加藤と書いてあった。三日後に会うことになった。場所は都内のビルの一室。小綺麗なオフィスだった。加藤は四十代の男で、口調が丁寧だった。融資額、返済期間、金利の概要が淡々と説明された。衛名が言っていた内容と大筋で一致していた。高典は書類を受け取り、読み始めた。二ページ目まで進んだ時、加藤が柔らかい声で言った。

「基本的なご説明は以上の通りですので、署名のページまで進んでいただければ大丈夫です」

高典はページをめくった。本来なら全部読むべきだと思う部分があった。だが頭の中には千鶴の顔があった。次のクールまであと三週間しかない。薬剤費の支払い締め切りは来週だ。今ここで時間をかけている場合ではないという感覚があった。衛名の保証がある。衛名の会社が絡んでいる。それが一番の根拠だった。四十年知っている男だ。騙すような人間ではない。高典は署名のページを開き、名前を書いた。判子を押した。翌日、指定された口座に着金の通知が届いた。高典はすぐに病院の会計窓口に向かい、千鶴の次のクールの費用を前払いで入れた。領収書を受け取った時、初めて少し肩の力が抜けた。千鶴に伝えたのはその夜だった。千鶴は高典の顔を見た。

「どうしたの」

「知り合いから借りた」

千鶴の顔に何かが走った。

「いくら」

高典は金額を言った。千鶴は黙った。窓の外の夜空を少しの間見ていた。それから高典の方を向いた。

「ありがとう」

声が低かった。

その二週間後、高典の携帯電話に銀行からのメッセージが届いた。融資契約における第三者決済機関の処理エラーにより、返済スケジュールの変更が生じました。変更後の適用金利につきましては、改定後年利三百パーセントが適用されます。なお、この変更は契約書第十一条に基づくものです。

三百パーセント。高典はその数字を三度頭の中で繰り返した。七から十パーセントという言葉を衛名から聞いていた。三百パーセントというのは、桁が二つ違う。読み間違いではないかと思ったが、画面の数字は動かなかった。高典はすぐに衛名の番号を押した。発信音が鳴った。出なかった。もう一度かけた。今度は違う音が鳴った。

「この番号は現在使われておりません」

高典は衛名の職場に電話をした。自動応答に切り替わった。自転車を飛ばして衛名の職場のビルに向かった。エレベーターで七階に上がった。衛名の会社のドアの前に立った。ドアには黄色いテープが張ってあった。「立ち入り禁止」と書かれた紙。その横に別の紙があった。

「経済犯罪操作に関わる捜査」

日付は五日後だった。高典は一歩下がった。壁に背中を預けた。衛名の顔が浮かんだ。居酒屋のカウンターで、安心したように息を吐いたあの顔が。あの時、高典はその息に意味を見出さなかった。あれは何だったのか。加藤の顔も浮かんだ。書類の説明をする時の丁寧な口調。ページを全部読む前に署名を促した時の柔らかい声。契約書第十一条。高典は一度もそこを読んでいなかった。

外に出ると夜になっていた。自転車にまたがり、ペダルを踏んだ。家の方向ではなく、病院の方向に向けて。千鶴がそこにいる。千鶴の薬の次の費用はまだ必要だ。今夜は千鶴の顔を見ていく。ただそれだけが、今この男の全てだった。

病院に着いた時、千鶴は眠っていた。高典は椅子を引いて座り、千鶴の寝顔を見た。抗がん剤の副作用で少し痩せた頬。それでも呼吸は規則正しかった。高典はその音だけを聞いていた。この女には今夜のことを話すつもりはなかった。話しても何も変わらない。変わるとすれば、千鶴が心配して体に触ることだけだ。三十分ほど座ってから、高典は静かに病室を出た。

その夜、高典は家に帰らなかった。現場の近くの河川敷に自転車を止め、土手の草の上に腰を下ろした。夜中の一時を過ぎていた。東京の夜空は曇っていて、星は見えなかった。高典はそのまま夜明けまで考えた。考えた結果は一つだった。どんな手段でも、金を作る。

翌朝、高典は現場に出た。その日から、残業を申し出た。担当の若い清掃管理者の名前は橋本と言った。

「残業できるか」

橋本は少し驚いた顔をした。

「何時間でもですか」

「できるだけ」

「翌日から対応できます」

こうして高典の一週間は、月曜から土曜まで働き続けるものになった。清掃の仕事は体の負荷として軽すぎたが、それは贅沢な不満だと自分に言い聞かせた。軽くても動けば賃金が出る。賃金が出れば千鶴の薬に近づく。それだけだ。しかし、その賃金でも三百パーセントという金利の前では水の泡に等しかった。計算の度に、残りがマイナスになった。マイナスが膨らんでいくだけだった。

そういう数字を見続けていたある月曜日の夕方、現場を出ようとした高典に見知らぬ男が近づいてきた。三十代半ばに見えた。背が高く細身で、グレーのスーツをきちんと着ていた。表情は穏やかだった。しかし高典はその男を見た瞬間、何かを感じた。穏やかさと冷たさが同じ顔の中に同居しているような感覚だった。

「黒川高典さんですね」

男は名刺を一枚出した。担当の加藤から引き継いだものだと言った。

「何が言いたいんだ」

男が微かに笑った。現在の金利状況についてはご確認いただけましたでしょうか。返済が滞ると、さらに条件が厳しくなります。ただ、今月中にある程度の額をご入金いただければ、支払いを据え置くことも検討できます。

「今は持っていない」

男は頷いた。

「それはご存知の通りです。ですので、こちらからご提案があります」

男はスマートフォンを出し、画面を高典に向けた。病院の外観の写真があった。千鶴が入院している病院だった。高典の胸の中で何かが硬直した。

「奥様がご入院中とのことで……静かで落ち着いた環境というのは、療養にとって非常に重要ですね」

高典は動かなかった。体の奥で何かが湧き上がってくるのを、強い力で抑え込んでいた。この男を今すぐ地面に叩きつけることは、体の構造上できた。しかしそれをすれば、千鶴への影響が読めない。この男の背後に何人いるかも分からない。

「いつまでだ」

声が低くなった。

「今週の金曜日です。払える範囲で構いません。誠意を見せていただければ、私どもも対応します」

男は振り込み先の口座番号が書かれた紙を渡し、軽く頭を下げて立ち去った。高典はその背中が見えなくなるまで動かなかった。

その夜から、高典はさらに時間を伸ばして働いた。橋本に九時まで延長できないかと申し出たが、規定外なので難しいと言われた。現場の外での仕事を探した。深夜の倉庫作業、引っ越し業者の夜間補助、飲食店の厨房。いずれも応募した。しかし、六十五歳という数字は、今の採用の自動審査で最初に引かれた。それでも一軒だけ、連絡が来た。夜の土木補助作業だった。都内の地下工事で、夜間に資材の搬入と仮設工作物の組み立てを行う短期の仕事だった。担当者は年配の男で、声がぶっきらぼうだった。

「経験は」

「四十年だ。クレーンを」

担当者は少し間を置いてから言った。

「来週の月曜の夜、来てみなさい」

その夜から、高典の一日は二つに割れた。朝から夕方まで清掃。夜から深夜まで地下工事。家に帰るのは真夜中を過ぎた頃になった。地下の仕事は過酷だった。換気が悪く、湿度が高く、コンクリートの粉が空気に混じっていた。それでも体は動いた。鉄骨を担いだ。コンクリートブロックを積んだ。一緒に働く人間たちは口数が少なく、高典の過去を聞かなかった。それが良かった。話す必要のない場所だった。

こういう日々が二週間続いた頃、高典は昼の現場で妙なことに気づいた。見慣れない人間が現れるようになっていた。作業員でも管理者でもない。一人は現場の外の道路際に立って携帯電話を触っていた。もう一人は資材置き場の近くをうろついていた。高典が視線を向けると、二人ともそちらを向いた。目があったが、向こうはそらさなかった。あの男が送り込んだ人間だと、高典はすぐに悟った。

その日の夕方、病院からの着信があった。看護師の声だった。

「奥様が少し動揺されています。先ほど病室に見知らぬ方がいらっしゃいまして。奥様の名前をご存知の方で、ご様子を伺いたいとおっしゃっていたのですけど、規定として面会者に制限がございますのでお断りしたのですが、その後奥様が少し不安定になられまして」

「今すぐ行く」

高典は仕事を切り上げ、自転車を飛ばした。病院に着いた時、千鶴はベッドに起き上がっていた。顔色が悪かった。高典が入ってきたのを見て、千鶴は少し安堵したような顔をした。それからすぐに怖い顔になった。

「誰なの?」

高典は椅子に座った。

「どんな人間だった」

「スーツの人。若い。名前は言わなかった。『あなたのことを心配してきた』って言ってた。でも、目が……」

千鶴は途中で止まった。

「目が何だ」

「心配してる人の目じゃなかった」

静かな声だったが、その声の中に怯えがあった。高典はこの女が怯えた声を出すのを、四十年で初めて聞いた。

「もう来ない」

「何がそんなに……」

千鶴は言いかけて止まった。高典は千鶴の目を正面から見た。

「治療に集中しろ。余計なことは、俺が全部片付ける」

千鶴は何も言わなかった。しばらく高典の顔を見ていた。それから視線を落とした。その横顔に、何かを諦めたような、何かを委ねたような、両方が混じった表情があった。

その週の終わり、高典はスーツの男とビジネスホテルのロビーで会った。高典から待ち合わせの連絡をした。

「病院には近づくな」

最初にそれだけ言った。男は微かに眉を動かした。それが同意なのか否定なのか分からない動き方だった。

「ご要望は分かりました。ただ、こちらとしても結果を求めています。今週中のご入金の確認が取れていません」

「来月までに、区面する。今すぐは無理だ」

「来月というのは、具体的にいつですか」

「再来週の土曜日」

根拠はなかった。だが数字を言わなければならなかった。男はスマートフォンに何かを入力した。

「承知しました。その日までに誠意ある対応がなければ、私どもとしても次の段階に移ります。奥様のご療養中に余計なご心配をおかけしたくはありませんので、是非ご協力をお願いします」

その翌週の木曜日、台風が来た。午後から屋外作業は中止。警報が一段階上がった。撤収が指示された。高典が廃材の袋を担いで指定場所に向かっていた時、上空から音がした。金属が軋む音だった。低く、聞き慣れた音だった。高典は立ち止まり、音の方向を見た。クレーンのジブの先端から垂れ下がっているワイヤーが、風に煽られて大きく揺れていた。そのワイヤーの先に、三トン近い鉄骨の柱が吊られていた。吊り荷には、午前中にケレンを行った後、下ろすタイミングがないまま、宙吊りにされていた。遠隔操作システムへの移行準備中で、この日は無人運転ではなく一時的な停止状態だった。つまり、操縦する人間がいないまま、荷が吊られていた。ワイヤーが風に揺れるにつれ、吊り荷がゆっくりと弧を描き始めた。風が強くなるにつれ、振り幅が大きくなった。高典はその挙動を一秒で計算した。このまま揺れ続ければ、風速が増す度に振幅が拡大する。三トンの鉄骨が完全に制御を失えば、落下か、大きな事故か、どちらかだ。その真下には、作業員の休憩用のプレハブ小屋があった。

若いエンジニアの一人がノートパソコンを開いてシステムにアクセスしようとしていたが、手が震えているのが離れていても分かった。別の男が無線で怒鳴っていた。遠隔操縦のオペレーターに連絡を取ろうとしているらしかった。しかし遠隔のオペレーターは、どこかの国にいる。接続が確立されるまでに何分かかるか分からない。その間、三トンの荷は風の中で揺れ続ける。高典は担いでいた廃材の袋を地面に置いた。立ち入り禁止の赤いテープがクレーンの基部を囲んでいた。高典はそのテープを足で踏んで跨ぎ、タワーの柱に手をかけた。鉄のはしご段が縦に走っている。高典は両手と両足でそれを掴み、登り始めた。六十五歳の体が、風の中をはしごで登る。腕の力は衰えていなかった。むしろ毎朝の腕立て伏せと、二か月にわたる深夜労働が、この腕をさらに絞り込んでいた。地上十五メートルを過ぎた頃、雨が降り始めた。鉄が濡れた。高典は手の当て方を変えた。親指の位置を少しずらし、鉄の縁を引っかけるようにして登った。操縦室の扉に手が届いた。電子ロックがかかっていた。高典は一瞬迷い、扉の金属を掴み、体重と腕力を使って一気に引いた。金属が限界を超えた音を立て、扉が開いた。正確には、ロックの一部がちぎれた。操縦席に体を滑り込ませた。コンソールは変わっていた。遠隔操作対応の新しいシステムに換装されていた。しかし基本的な構造は変わらない。ドラムロック、テンションゲージ、巻き取りクラッチ。高典はコンソールを三秒見て、必要なレバーとスイッチを特定した。電源を手動で入れた。ドラムのテンション表示が跳ね上がっていた。高典は巻き取りクラッチを手前に引いた。ドラムがロックされ、ワイヤーの自由な伸びが止まった。次に緊急ブレーキレバーを押し込んだ。ジブの旋回が固定された。問題は縦方向の揺れだ。高典はゆっくりとドラムを巻き取り始めた。荷を少し上に引き上げることで、ワイヤーの実効長を縮め、揺れの周期を変える。揺れの周期を変えれば共振を防げる。これは教科書に書いてあることではなく、四十年間で高典が体で覚えたことだった。操縦室の窓に雨が叩きつけていた。高典の手はレバーとスイッチの上に静かに乗っていた。揺れを感じ、ワイヤーの音を聞き、吊り荷の動きを目で追った。三分ほどかけて、揺れの幅が半分以下になった。さらに二分で、柱はほぼ垂直に安定した。高典は最後に、吊り荷を地面に向けてゆっくりと降下させた。地上の安全区画に設定されている平坦なコンクリート面に向けて、一メートルずつ下げた。地上二メートルで一度完全に止め、揺れが収まるのを待ってから、最後の二メートルを下ろした。柱が地面に触れた。金属が着地する低い音がした。それだけだった。高典は手をレバーから離した。

下を見ると、作業員たちが柱の周りに集まり始めていた。数人が上を向いていた。誰かが拍手をしていた。高典は一度だけ深く息を吸い、吐いた。それから降り始めた。はしごを降りる間、高典は何も考えなかった。雨が体を濡らした。地面に足がついた時、周囲にいた作業員たちが声をかけてきた。三田がいた。ヘルメットを脱いだまま雨の中で高典を見ていた。

「黒川さん……」

それだけしか言えなかった。高典はヘルメットの縁から滴る雨水を手で払い、現場事務所の方へ歩こうとした。その時、声がした。

「黒川さん、ちょっと待ってください」

振り向くと橋本が立っていた。その後ろに見知らぬ男が二人いた。スーツだった。現場の人間ではなかった。橋本が通訳するように訳した。

「本社の安全管理部門の方です。クレーンへの無断侵入と、機械への無許可操作について、即刻対応が必要とのことで……」

眼鏡の男がファイルから一枚の紙を取り出した。橋本はそれを読み上げた。読んでいる途中で、橋本の声が少し揺れた。

「本日付けを持って、労働契約を終了するとのことです。理由は、安全規定の重大な違反、及び会社財産への無許可介入」

高典はその言葉を聞いた。周りで三田が何かを言いかけ、上野が小さく舌打ちした。その音が雨の中で聞こえた。高典は橋本から視線を外し、眼鏡の男を見た。男は書類ファイルを胸に抱え、高典の目を見ていた。その目に迷いはなかった。これは業務だという目だった。正しいか正しくないかは関係ない。定められた手順を踏んでいるという目だった。高典は何も言わなかった。紙を橋本から受け取り、一度だけ見て、作業着のポケットに入れた。それから現場事務所に歩いて行き、ロッカーから荷物を取り出した。水筒を袋に入れた。手袋を畳んで袋の横に置いた。ヘルメットはロッカーに戻した。自分のものではないからだ。外に出た。雨はまだ降っていた。三田が傘を差してついてきて、「黒川さん」と声をかけた。高典は歩きながら「いい」と言った。三田は止まった。高典は自転車にまたがり、ペダルを踏んだ。現場の外に出た。頭の中で数字を並べた。昼の仕事がなくなった。夜の地下工事だけが残った。夜の地下工事の賃金だけでは、返済には遠く及ばない。しかし、それよりも先に今夜の問題があった。スーツの男が言った再来週の土曜日まで、あと十日もなかった。高典は雨の中を走り続けた。

ブラックリストというのは見えない壁だ。高典はその感覚を、現場を失った翌日から毎日味わっていた。求人に応募しても、自動返信が届き、その後連絡が来ない。あるいは一日も経たずに「ご縁がなかった」という返信が届く。年齢と、違反記録。その二つが、高典の名前の前に透明な壁を作っていた。夜中の十二時を過ぎた頃、高典はスマートフォンで別の検索をした。これまでとは違う言葉で調べた。「夜間解体」「現場即日払い」。出てきた結果は、表向きのものではなかった。掲示板のような形式のページに、仕事内容は書いてなく、連絡先だけがあった。高典はその中の一つに短いメッセージを送った。経験四十年。今夜でも動ける。それだけ書いた。返信は十五分できた。

翌日の深夜一時、高典は都内の外れにある廃工場の前に立っていた。空地にトラックが二台と、待っていた。車のそばに男が三人いた。全員高典より若かった。四十前後の男が近づいてきて、「黒川さんか」と低い声で言った。

「そうだ」

男は高典を一度だけ上から下まで見て、頷いた。

「岸本だ。今夜の仕事の中身は聞いてるか」

「要領は聞いた」

岸本がトラックの荷台を開けた。中に道具が詰まっていた。ハンマー、バール、電動カッター、養生シート、それと防護マスクが袋に入っていた。ホームセンターで売っているような規格のものだった。高典はそれを黙って受け取った。建物の中に入った。かつては小さな工場だったらしく、天井が高く、コンクリートの床に機械を据えていたと思われる穴の跡が残っていた。岸本が指示を出した。

「この壁を今夜中に落とす。向こうの鉄骨を切る。ガラは全部トラックに積む」

高典はハンマーを持った。岸本の指示した壁に向かって、最初の一撃を加えた。コンクリートが崩れた。粉が舞った。壁の内側に、古い断熱材が使われていた。灰色の繊維質の素材で、かつての建物に多く使われていたアスベスト含有材に見えた。高典はそれを確認したが、止まらなかった。今夜ここで止まれば、明日の選択肢がさらに減る。ハンマーを振り続けた。腕が動くたびに粉が体の周りに広がった。マスクの内側が白くなっていった。三時間で壁の一面が崩れた。廃材を袋に詰め、トラックに積んだ。次は鉄骨の切断。バールを鉄骨の隙間に差し込み、全体重をかけて引いた。金属が悲鳴を上げるような音を立て、鉄骨が剥がれた。夜明け近くに作業が終わった。岸本が高典に近づき、現金を数えて渡した。枚数を確認した。口頭で聞いた金額より少し多かった。

「今夜の分だ。また来られるか」

高典は頷いた。その夜から、高典の生活はさらに変わった。週に三回から四回、岸本の仕事に加わった。場所は毎回違った。空きビル、古いマンション、工場の一角。正規の解体許可が降りていない建物か、手続きを無視した工事か、どちらかだった。高典はその区別を考えなかった。考える余裕がなかったというより、考えても今夜の選択は変わらないと分かっていた。体への負荷は、清掃の仕事とは比べ物にならなかった。粉塵の中で重い道具を振り続ける作業は、時間が経つにつれて呼吸に引っかかりを作っていった。高典はほとんど何も考えなかった。ハンマーを持つことで頭の中が空白になる感覚があった。衛名の顔も、加藤の顔も、スーツの男の顔も、ハンマーを振っている間は出てこなかった。ただ目の前のコンクリートだけがあった。崩すべきものが壁だけになる時間が、今の高典には必要だった。

スーツの男への支払い期限が三日後に迫った夜、病院から着信があった。番号を見た瞬間、高典の指が止まった。病院からの着信は、良い知らせで来ることはないということを、この数か月で体が覚えていた。看護師の声だった。

「奥様が今夜、少し状態が不安定で。検査の数値に変動があって、担当医が確認したいことがあるので」

「今から行く」

岸本の現場は今夜も予定があった。高典はメッセージを送った。今夜は行けない。岸本からすぐに返信が来た。「分かった。次は明後日に連絡する」と書いてあった。病院に着いた時、千鶴はベッドに横になっていた。顔色が昨日より白かった。目を開けて、高典が入ってきたのに気づいた。

「来なくていいのに」

声が細かった。高典は椅子を引いて座った。

「どこが悪い」

「別に。少し熱があるだけ」

高典は千鶴の額の近くに手の甲を当てた。微熱があった。千鶴がそっと高典の手を払った。払い方が弱かった。その弱さが、今の千鶴の全体だった。しばらく黙っていた。千鶴が低い声で言った。

「あなた、ちゃんと寝てる」

「寝てる」

「目の下が……」

高典は千鶴を見た。

「寝てる」

今度は少しはっきりと言った。千鶴は何も言わなかった。視線を天井に戻した。しばらくしてから言った。

「お父さんに似てきた」

高典は何も答えなかった。千鶴の目が閉じ始めた。高典はそのまま隣にいた。千鶴の呼吸が深くなり眠りに落ちたのを確認してから、椅子を静かに後ろに引いた。病院を出たのは、夜中の十二時近くだった。

翌日の夕方、スーツの男から電話が来た。

「明日が期限日ですが、ご準備はいかがでしょうか」

「一部は準備できた。全額ではない」

男が少し間を置いた。

「どの程度でしょうか」

高典は用意できた額を言った。全額の八割ほどだった。男はまた間を置いた。今回は少し長かった。

「承知しました。今回はその額でご対応をいただき、残りは来月の期日に合算させていただきます。ただし残額には、金利加算が発生します。詳細は書面でお送りします」

「分かった」

電話が切れた。また数字が増える。増えた数字をまた夜で埋める。その繰り返しがいつまで続くのか、終わりの形が見えなかった。

その週の土曜日の夜、岸本から連絡が来た。今夜は別の現場だと。都内の古い商業ビルだった。地下一階、地上四階建て。すでに閉鎖されて数年が経っているらしく、一階の窓はベニヤ板で塞がれていた。作業の指示を岸本が出した。

「今夜は地下一階の天井部分の配管と設備を撤去する。金属類は全部まとめる」

地下は特に空気が悪かった。換気が全くなかった。天井の配管は古く、塗料が剥がれて黒い錆が浮いていた。高典はバールを差し込み、固定金具を一つずつ外していった。二時間ほど経った頃、岸本が地上から降りてきて、もう一つの区画に移れと指示した。新しい区画の天井は最初の場所より低かった。腰を少し曲げて作業する姿勢になった。その姿勢で一時間以上、バールを振り続けた。腰が痛くなるはずだと誰かに言われたら、高典は笑うだろう。痛くならなかった。この体は、それくらいでは反応しなかった。夜明けが近い頃、撤去した金属部材を袋に詰めて地上に運んだ。外に出ると、早朝の冷気が顔に当たった。岸本が現金を渡した。

「今月分だ。次は、来週か。場所は追って連絡する」

高典は頷いた。自転車に乗ろうとした時、今夜初めて加わった男の一人が声をかけてきた。三十代に見えた方が痩せていた。

「黒川さんですか」

そうだがと高典は答えた。男が少し口ごもってから言った。

「うちの親父と同じ年代で」

それだけ言って、残りを飲み込んだ。高典はその男を一度だけ見た。

「仕事だ」

そう短く言い、自転車のペダルを踏んだ。

それから十日後の朝、病院から着信があった。今度は看護師ではなく、坂本医師の声だった。坂本が自分で電話をかけてくることは、これまでなかった。

「黒川さん、今日来ていただけますか」

「何かあったか」

「今週の検査結果について、お話ししたいことがあります」

午後一時、高典は病院に着いた。坂本の診察室に通された。千鶴は一緒ではなかった。坂本が一人で待っていた。坂本がモニターに画像を出した。以前見た断面図よりも、今度の画像は広い範囲が映っていた。

「今回の治療サイクルにおける腫瘍の反応を確認しました。残念ながら、分子標的薬への奏効が当初の想定より低く、腫瘍の一部に耐性が生じている可能性があります。また、前回の検査では確認されていなかった部位に、新たな影が見られます。脳への転移の可能性を否定できない状態です。現在の治療薬では対応が限界に近づいています。次のステップとして、治療薬の変更と脳への精密検査が必要です。ただし、新しい治療も保険適用外のものになります。費用については、今の薬よりさらに高額になります」

高典は坂本を見た。

「千鶴には話したか」

「まだです。ご家族にまずお伝えしたいと思って」

「今日は俺から話す」

高典は立ち上がった。病室に向かった。千鶴は起きていた。高典が入ってくると、本を閉じた。高典は椅子に座り、しばらく何も言わなかった。千鶴が高典の顔を見た。

「何」

「検査の結果が出た。薬を変える必要がある。今の薬じゃ、追いつかなくなってきた。新しい薬に変える。坂本先生が対応してくれる」

千鶴がゆっくりと息を吸った。それから、言った。

「……脳に行ったの」

高典は一秒だけ間を置いた。

「可能性がある」

千鶴は窓の方を向いた。雲が低かった。千鶴はその空を見ていた。どのくらい見ていたか、高典には分からなかった。

「お金……」

「俺が何とかする」

千鶴がゆっくりと高典の方を向いた。その目が何かを問いかけていた。高典は千鶴から目をそらさなかった。

「俺が何とかする」

もう一度言った。今度は少し低い声で。千鶴の目に薄く光が浮かんだ。だが、それは涙になる前に引いた。千鶴は顎を引き、窓の方を向いた。

その夜、高典は岸本の現場に向かう前に、スーツの男からまたメッセージが届いていることに気づいた。今月分の加算額が記載されていた。先週に比べてさらに増えていた。高典はメッセージを閉じた。返信はしなかった。岸本の現場で、無心に働いた。翌日も、その次の夜も、また次の夜も働いた。昼は仕事を探し続けた。三日間、ほとんど眠らなかった。体は動いた。食事は最低限にした。コンビニのおにぎりと缶コーヒーだけで動き続けた。六十五歳という年齢が、この体には何も意味していなかった。それだけが今の高典に残された唯一の資産だった。七十二時間が経った頃、封筒に積み上がった現金を数えた。千鶴の薬剤費の次のクール分には届いた。届いたが、あまりがなかった。スーツの男への支払いは、後回しになった。高典は封筒を上着の内ポケットに入れた。外に出ると、初雪が降り始めていた。白いものが空から舞い落ちてきた。アスファルトに触れるとすぐに消えた。それでも続けて降っていた。病院の会計窓口で、次のクールの費用を前払いしたいと言った。担当の女性がパソコンの画面を見た。それから少し表情が変わった。高典はそれを見逃さなかった。

「今月の治療継続について、治療計画の変更が入力されています」

高典は女性を見た。

「どういう意味だ」

高典は会計窓口を離れ、病室に向かった。廊下を早足で歩いた。病室の前でナースステーションから看護師が出てきた。

「担当医が、少しお話ししたいそうで」

高典は脇を避けて病室のドアを開けた。カーテンが閉まっていた。いつもは昼間、カーテンは開いていた。千鶴は窓の光が好きだった。高典はカーテンを引いた。ベッドに千鶴がいた。目を閉じていた。呼吸は浅く早かった。額に汗が浮いていた。その横に坂本が立っていた。

「何が起きた」

坂本が低い声で言った。

「意識が不安定になっています。昨日の検査で懸念していた脳への転移の影響が、予想より早く出ています。進行が確認されました。現在の薬剤投与では、対応が難しい段階に入っています」

高典は千鶴のベッドの横の椅子に座った。封筒を膝の上に置いた。千鶴の手を取った。点滴のテープが貼られたまま、冷たかった。坂本が何かを言おうとした気配があった。高典は坂本の方を向かなかった。坂本はしばらくその場にいてから、静かに病室を出ていった。高典は千鶴の手を両手で包んだ。三日間ハンマーを握り続けた手だった。粉塵で荒れた手のひらが、千鶴の細い指を包んでいた。

「来たぞ」

低い声だった。

「今度も、払いに来た」

千鶴は動かなかった。目は閉じたままだった。高典は封筒を膝の上に置いたまま、千鶴の顔を見た。初雪が病室の窓の外で静かに降り続けていた。白いものが降りてきて、窓ガラスに触れて消えた。降っては消え、降っては消えた。高典は何も言わなかった。千鶴の手を離さなかった。封筒の中の金は膝の上にあった。間に合わなかった。その言葉が頭の中に浮かんだが、声には出なかった。出す必要もなかった。ただ千鶴の呼吸の音が、この部屋の中で続いていた。続いている間は、まだここにいる。それだけを確かめていた。

千鶴が最後に息を吸ったのは、夜明けの少し前だった。呼吸のリズムが変わり、一度深く吸った。それから止まった。高典はその瞬間、千鶴の手を握っていた。冷たくなっていた手が、その一瞬だけ少し温かくなったような気がした。気がしたというだけで、実際にそうだったかどうかは分からない。分からなくていいと思った。葬儀は三日後に行った。式場は病院の近くの小さな斎場だった。参列者は少なかった。千鶴が働いていた定食屋の女将と同僚の女性が一人。それと、近所に住む顔見知りの老夫婦。合わせて五人もいなかった。祭壇に白い菊が数本。それだけだった。千鶴の遺影は、数年前に二人で近所の公園に行った時に撮った写真を使った。スマートフォンで撮った写真だったから、画質はあまり良くなかった。だが千鶴がそこに写っていた。葉が落ちかけた秋の公園で、少し困ったような顔で笑っていた。その表情が、高典には一番らしく思えた。骨を拾う時、高典は箸を持った。小さな骨片を一つずつ拾い、骨壺に入れていった。骨はどこまでも白かった。この白さの中に、三十年以上の生活が入っているとは思えないほど軽かった。その軽さが、胸の中で何かを押した。押したが、表には出なかった。

葬儀の翌日、スーツの男が家に来た。玄関のドアを開けると、あの男が立っていた。先日と同じ穏やかな表情だった。その後ろにもう一人男がいた。こちらは初めて見る顔だった。

「この度はご愁傷様でした」

高典は男の顔を見た。何も言わなかった。

「単刀直入にお伝えします。本日は、抵当権の実行についてご説明に上がりました。返済が滞っている状況ですので、担保の処分手続きに入らせていただきます。法的な手順に従い、来月中にご退去いただく必要があります」

高典はドアの枠に手をかけたまま男を見ていた。三十年かけてローンを払い終えた家がなくなる。千鶴との三十年分の生活が詰まった場所が、この男の書類一枚で他人のものになる。抵抗する気力はもうなかった。正確には、抵抗することの意味が見えなかった。抵抗して何かを守れるとすれば、それが千鶴のためになる時だ。千鶴はもういない。守る対象が変わった。いや、なくなった。

「分かった」

男が少し驚いたような顔をした。男たちが帰った後、高典は家の中を見回した。台所のテーブル、千鶴が使っていた椅子、流しの横に干してある布巾、冷蔵庫の扉に貼られた何年も前に二人で行った旅行の写真、食器棚の中の割れた茶碗を布テープで補修したもの。こういうものの一つ一つに、千鶴の手が触れていた時間があった。高典は押入れから古いバックパックを出した。キャンバス地の、くたびれた緑色のバックパックだった。三十年以上前に買ったもので、一度も捨てずにいた。作業着を一式、下着を三枚、靴下を二足。それから水筒、コーヒー豆、小さな手鏡、財布、スマートフォンと充電器。台所の引き出しを開けた。千鶴の残していった小さなメモ帳があった。買い物の記録が書いてあった。最後のページに、「豆腐、ネギ、油揚げ」と走り書きがあった。高典はそのメモ帳をしばらく見てから、バックパックに入れた。最後に骨壺を取った。布で包んで、バックパックの中の一番奥、揺れても安定する場所に収めた。ファスナーを閉めた。肩に担いだ。重くはなかった。これだけのものに、この男の六十五年が収まった。収まらなかった分は、全部この家に残していく。それでいいと思った。玄関を出る前に、高典はもう一度だけ家の中を見た。廊下の突き当たりに小さな窓があって、そこから午後の光が差し込んでいた。光が床に長い四角形を作っていた。その光の中に、埃が浮いて漂っていた。高典はそれを見てからドアを閉めた。鍵をかけた。それからポストに鍵を入れた。入れるともう戻れない。それでいいと思った。自転車に乗った。行き先は決めていなかった。決める必要もなかった。東の方へ向かった。理由はなかった。ただ、朝に太陽が昇る方角に向かって走るのが、なんとなく正しい気がした。

夕方になって、高典は昔の現場の近くを通った。意図したわけではなかった。見覚えのある交差点に出た。角を曲がると、工事用のフェンスが見えた。高典は速度を落とし、フェンスの前で止まった。フェンスの隙間越しに現場が見えた。建物は随分高くなっていた。足場が新しくなっていた。クレーンは二基に増えていた。どちらも動いていた。ジブが旋回し、ワイヤーが張り、荷が上がった。操縦席には誰もいなかった。遠隔操作システムが本格稼働しているのだろう。荷の動きは滑らかだった。風に対する補正も、ほぼ瞬時に入っていた。確信が間違っていたのかと高典は思った。しばらく考えて、違うと思った。確信は正しかった。機械には足せないものは確かにあった。ただ、その確信は時代の速度に追いつかなかった。正しいものが守られる社会と、早いものが勝つ社会は別物だった。高典が生きてきたのは、前者だった。それだけのことだ。フェンスから手を離した。ペダルを踏んだ。現場のフェンスが後ろに遠ざかった。

夜になって、高典は川沿いの道を走っていた。東京の外れに近い場所で、この辺りは街灯が少なかった。川の水面が、遠くのネオンの反射を受けて微かに光っていた。橋があった。古い鉄橋で、車が通るには狭すぎる幅だった。歩行者と自転車だけが渡れた。高典は橋の上で自転車を止め、欄干に手をかけた。川の下を見た。水は黒く、ゆっくり流れていた。川に映る街の光が、水の流れと共に揺れていた。水筒を取り出した。蓋を開けた。コーヒーを一口飲んだ。朝に入れてきたものだったから、もう冷えていた。冷えたコーヒーを、高典は構わず飲んだ。苦かった。この苦さが好きだった。この苦さだけは、四十年間変わらなかった。バックパックの中の骨壺のことを考えた。千鶴がそこにいる。形を変えて、高典の背中にいる。川の向こう岸に、低い建物が並んでいた。廃工場のような建物と、古いアパートと、作業小屋のようなものが混在していた。明かりがついている窓もあった。こういう場所で暮らす人間がいる。高典は今夜から、そちら側に入っていく。橋を渡った先に、工事用のフェンスで囲まれた空き地があった。フェンスの一部が歪んでいて、人一人分ほどの隙間が開いていた。高典は自転車を押して、その隙間から入った。空き地の奥に、古いプレハブ小屋があった。窓は割れ、ドアは半分外れていた。中に入ると、誰かが以前使っていた形跡があった。ダンボールが重ねてあった。空き缶がいくつか転がっていた。今は誰もいなかった。高典はダンボールを一枚広げ、床に敷いた。バックパックを下ろし、その上に腰を下ろした。外からの風が、壊れたドアの隙間から入ってきた。冬の風は冷たかった。高典は作業着の上に予備の上着を羽織った。それだけで冷たさはある程度しのげた。この体の体温調節の能力は、こういう時に役立った。バックパックから骨壺を取り出し、膝の上に置いた。布を少しだけ緩めて、蓋の部分を指で触った。白い陶器の、ひんやりとした感触だった。仕事がなくなった。家もなくなった。友人に裏切られた。千鶴がいなくなった。全部なくなった。それでも体だけは動く。この体だけはまだ動く。どこへ向かうのかは分からなかった。岸本の仕事が続くかもしれなかった。続かなければ、別の仕事を探す。体が動く限り、何かはできる。この時代が高典から奪ったものは数え上げれば限りがない。だが、体だけは奪えなかった。そこだけが残った。東京の夜は明るかった。プレハブの割れた窓から、遠くのビルの光が差し込んできた。オレンジ色と白が混じった町の光だった。その光の中に浮かんだ埃が、ゆっくりと舞っていた。朝の家の廊下で見た光と同じだった。埃はどこにでも舞っている。光があれば見える。光がなければ見えないだけで、舞い続けている。高典はプレハブの硬い床に横になった。骨壺をバックパックの中に戻し、バックパックを枕代わりに頭の下に置いた。目を閉じた。衛名の声が頭の中に浮かんだ。「あんたは違う。実際の現場で体を動かす人間は絶対に必要だ」。その言葉が今の高典の耳に届いた時、もう怒りにはならなかった。ただ遠くに聞こえた。高い場所から来た声のように、あの頃の居酒屋の煙と酒の匂いと一緒に、遠くに消えていった。高典は目を閉じたまま、千鶴の声を探した。記憶の中にある千鶴の声。「先に休みます」と走り書きをした夜の声。「大したことないよ」と言った病室での声。「ありがとう」と小さく言った声。それらが重なりながら、薄くなっていった。薄くなっても、消えなかった。消えないものが一つだけ残る。それで十分だと思った。外から音がした。遠くを走る車の音。どこかで犬が一度だけ吠えた。それから静かになった。高典は目を閉じたまま、朝を待った。

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