昼休みの社員食堂で、出向してきた人事部長が俺のトレーの前に座るなり言った。「高卒なのに課長だなんて、大したものです。高卒なのにね」。その言葉に込められた侮辱を、俺は前のブラック企業で嫌というほど味わってきた。俺は37歳、業務サポート課の課長で、高卒だ。部下たちの努力を踏みにじるその態度に耐えられず、俺は反論した。まさかこの一言が、数日後の「ボーナス0か左遷か」という理不尽な選択を招くとは思わ…

昼休みの社員食堂で、出向してきた人事部長が俺のトレーの前に座るなり言った。「高卒なのに課長だなんて、大したものです。高卒なのにね」。その言葉に込められた侮辱を、俺は前のブラック企業で嫌というほど味わってきた。俺は37歳、業務サポート課の課長で、高卒だ。部下たちの努力を踏みにじるその態度に耐えられず、俺は反論した。まさかこの一言が、数日後の「ボーナス0か左遷か」という理不尽な選択を招くとは思わ...

「俺は優しいからな。ちゃんと選択肢をやるよ」

親会社から出向してきた部長が、そう言って俺に告げた。学歴主義の意見に真っ向から反論した結果、ボーナス0か左遷かを選べというのだ。むちゃくちゃすぎて呆れてしまう。選ぶまでもない。俺は部長が想像もしない言葉を口にした。

俺の名前は水野。37歳の会社員だ。今はある中小企業の業務サポート課で働いている。ありがたいことに仕事を認めてもらっている。俺の年で課長と聞くと驚かれるかもしれないが、業務サポート課は比較的新しい課であり、俺が立ち上げに強く関わっているため、周囲の人間は俺が課長をしても納得だという認識だ。数年前までは別の会社にいたのだが、結婚と同時に退職した。前の会社はいわゆるブラック企業で、しかも俺は高卒ということで周囲に見くびられていた。前の会社で働いていた頃は、一生このまま心身を削っていくのだろうと諦めていたが、仕事関係で妻と出会ってから人生が変わった。

「あなたみたいに真面目で優秀な人が、このままじゃいけないわ」

妻はそう言って、俺の転職のためにあれこれと力を貸してくれたのだ。業務サポート課では様々な部署の手助けをしている。各部署の事務処理や社内システムのトラブル対応、書類作成などの定型業務、時には社員教育の支援も行う。新事業部や総務部とも似ているが、サポートの範囲はそれ以上に幅広い。様々な部署に協力する独立した課である。華やかな仕事とは決して言えないが、俺たちの仕事が様々な仕事をスムーズにしているのだ。結果的に社員の精神にも余裕が生まれるに違いない。

そんなある日のことだ。部下との雑談の最中、親会社からある人物が出向してくると聞いた。

「その人、うちの人事部長として働くそうですよ」

「人事部ねえ」

俺は顎をさする。出向してきた人物が部長職につくことは、そう珍しくないだろう。親会社としては、子会社であるうちの人事制度を強化、あるいは方針を統一したいのかもしれない。部下との会話から数日が経った昼休憩の時、俺は社員食堂に来ていた。食事の乗ったトレーを適当なテーブルに置くと、

「ここ、一緒にいいかな」

と声をかけられる。とっさにどうぞと返事をした。

「今朝の朝礼でも挨拶しましたが、その節はどうも。よろしくお願いします。確か業務サポート課の水野課長ですよね」

目の前の人物こそ、先日部下との会話に上がった人事部長だ。他にも席が開いているのに、なぜ俺のそばに。俺は一瞬疑問に思ったが、何気ないふりをしてその節は言った。

「着任してから、特に管理職の人間はすぐに顔と名前を覚えたんです。その中でも水野課長はなかなか興味深かったので、思わず声をかけてしまいました」

「そうなのですか」

口調も表情も柔らかいのに、妙な嫌な予感を感じる。

「だって水野課長は高卒でしょ。しかもお若いですよね。比較的新しい課とはいえ、いや、高卒なのに大したものです。高卒なのにね」

ああ、そうか、と納得がいった。この感じ、ブラック企業で嫌というほど感じたものだ。その節の口から出る高卒という言葉には、明らかな侮辱が混じっていた。一瞬で胸が重くなったが、いきなり波風を起こすわけにもいかない。さっさと食事を済ませて戻ろう。俺はなるべく早いペースで食事を食べていく。

そんな俺の様子を察したのか、その節は「そうそう」と再び切り出した。

「私は常々、学歴こそ最も重視すべき指標だと考えています。実際、私も国立の中でも上位の大学を出ているんですよ。高卒の君とは見ている風景が違うから、ちょっと理解できない話かもしれませんが」

どうやらその節は学歴至上主義というタイプの人間らしい。その節は俺が黙っているのをいいことに、気分良さそうに言葉を続けていく。

「私が人事部長に着いたからには、色々と改革していこうと思っているんですよ。まず、君のような高卒社員は率直に言って整理していきたい。君の課には高卒の部下も多く所属していますよね」

俺はさすがに眉を潜めた。俺たちのテーブルから出ている空気感が、周りにいた社員たちにも伝わったらしい。周りの人間が俺たちに視線を向けて、ひそひそと話しているのがかすかに伝わってくる。

「やばい、部長に告げ口されてない?」

「あれ、親会社の人間だからっていきなりこれかよ」

周囲の声などお構いなしと言った風に、その節の表情は穏やかだ。

「正直言って、高卒に任せられる仕事は限られています。それに、努力して学歴を手に入れた人間と、そうでない人間を同列に扱うのは不公平です。そうでしょ?」

この言葉に俺は耐えられなくなった。

「お言葉ですが、その節部長がおっしゃることは間違っていると思います。私の部下の何人かは高卒ですが、努力して結果を出していますよ。会社が正当な評価をしているのです。それを高卒というだけでどうにかできると思っているのなら、傲慢では」

強い口調で言い返すと、一瞬だけその節はひるんだように見えた。まさか俺が言い返してくるとは思っていなかったのだろう。俺自身、さっきまでは御託を並べずに済まそうと思っていた。しかし、部下たちや他の高卒の社員たちまで関わるなら話は別だ。俺は最後に残った味噌汁を飲み干すと、トレーを持って立ち上がる。そしてその節に冷ややかな視線を向けた。

「学歴が高いことは素晴らしいことだと思います。決して否定はしませんよ。でも、学歴だけで切り捨てるような会社を魅力的には感じません。その節部長の改革は、会社を成長させるどころか衰退させる可能性がある。少なくとも私はそう思います」

俺が言い終わると、注意から拍手が起きる。どうやら聞き耳を立てていた社員たちがやっているらしい。

「じゃ、じゃあ私はこれで」

俺は一気に恥ずかしくなり、そそくさとトレーを返却しに向かう。その背後で、顔を真っ赤にして睨みつけるその節に気づくことなく。

食堂の一件から数日後のこと。俺は空き会議室に呼び出されていた。呼び出した人物はその節である。一応人事における必要な面談と聞いているが、食堂での出来事もあり俺は気まずいと感じていた。反してその節はニコニコした表情だ。

「水野課長、お疲れ様です。どうぞお掛けになって」

「はい。失礼いたします」

俺はその節と向かい合うようにして座る。その節は机の上で手を組み、本題を切り出した。

「食堂での君とのやり取りで、私は改めて高卒という存在について考えたんですよ」

いきなり何だ、と不思議に思ったが、その節はつらつらと続けていく。

「親会社から出向してきた私に対し、意見するだけでなく恥をかかせた、このままにしていていいものかとね。これは部下から聞いたのだが、俺とその節のやり取りは噂となり、その節としてはかなり仕事がやりづらくなったようだ。ここまで言われればある程度は予想できる。おそらくその節は、先日の食堂の仕返しのために呼び出したのだ」

察した次の瞬間、その節は思いもよらない言葉を口にした。

「一応君は課長という立場の人間だ。首にするには相当な理由が必要だろうな。だけど賞与やボーナスをなしにする。窓際部署や他の子会社へ左遷くらいならどうだ?人事部長の権限を駆使すれば、それくらいは簡単にできるだろうさ」

そこまで言ってその節は得意げにふんと鼻を鳴らす。

「そういうわけだから、高卒の中途社員はボーナス0円か左遷か、どっちか選べ。俺は優しいからな。ちゃんと選択肢をやるよ」

いくら親会社の人間で人事部の部長とはいえ、そこまで無茶が通ると本当に思っているのだろうか。人事部長として提案や評価に関する権限を持っていても、度を過ぎた発言であり乱用と言えるだろう。俺は拳を握りしめた。ふざけているとしか言いようがない。俺は落ち着くために深く息を吐く。それからニコリと笑って見せた。

「そうですか。わかりました。じゃあやめます。第3の選択肢を取らせていただきますね」

まさか俺がやめると言ってくるとは想定外だったのだろう。その節は一瞬ポカンとして、それから吹き出した。

「おいおい、まさか自分からやめてくれるなんてな。ボーナスゼロか左遷で地獄を見せてから首に追い込んでやろうと思っていたのに、はた迷惑もいいとこだ」

そんな魂胆だったのか。俺は呆れたが、ここであることを教えてやることにした。出向してきたばかりのその節は、おそらくこの事実を知らないだろう。

「ところで、私がやめたら、今まで無償で提供していた在庫管理システムは使用できなくなりますが、その点は大丈夫なんですか?」

「え?」

案の定、何の話だと言わんばかりにその節は面食らっている。俺はやれやれと首を横に振った。会社ではあらゆる部署でとある在庫システムが使用されている。在庫システムと言っても単に物の数を数えるだけではない。仕入れタイミング、出荷の指示や経営判断にまで関わってくる。現場の動きと数字をつなぎ、会社全体の流れを可視化しているのだ。このシステムは俺が開発したもので、ブラック企業をやめてから今の企業に再就職するまでの時間で作り上げたものだった。こんな風にできたらいいなという仕事への思いをシステムに表したのだ。入社直後にシステムを紹介したところ、ぜひ使いたいという話になった。最初はうちの会社だけで使われていたのだが、今ではうちの親会社でも使用しているくらい利便性の高いシステムとして評価されている。そこまで説明しつつ俺は続けた。

「他でもない義父の頼みということで、うちの子会社と、その部長の親会社には無償でライセンス契約していたんですよ。でも、こうなった以上は仕方がありませんよね」

「義父?」

整理ができないようで、その節は目をしばたかせる。

「あ、これはごく一部の人間しか知らないことですが、私は弊社の社長の娘の夫という立場でして。と言っても、私自身は普通の社員ですが」

そう、俺は一応子会社社長の義理の息子という立場になる。社長の後継ぎ候補にはすでに妻の兄がいるので、俺自身に何かあるということもないが。その節が驚愕のあまり呆然としている間に、俺は立ち上がる。

「ではこれで失礼しますね」

そうと会議室を出ると、慌てたその節が追いかけてきたが、途中で足がもつれて転けたのが見えた。今更もう遅い。俺は心の中でつぶやいた。

こうして最終的に俺が退職すると同時に、親会社に無償でライセンスしていた在庫システムは契約破棄という形になった。

それから何やかんやとあったが、俺は会社をやめた。妻は今回の件でかなり会社やその節に対して、まるで自分のことのように怒っているようだ。

「親会社に言われたからって出向してくる社員がどんな人物か、ろくに調べもしなかった父さんもどうかしてるわ」

事情を知った義父、社長が俺に頭を下げる。

「出向直後に何かトラブルがあったとは聞いていたんだが、些細なことだと思って調べなかった私の落ち度だ。まさかその部長がそんな人物だったなんて、本当に申し訳ない」

妻は断じて許すなと言わんばかりの勢いだったが、俺は苦笑して社長に頭を上げてくれるよう頼んだ。

「この際だから予定を早めようと思ったんです。勝手に決めてしまったのは申し訳ないのですが。実を言うと、俺は数年以内に独立することを妻や義父にも相談していたんです」

「いや、私がしっかりしていれば今回のことは防げたはずだ。君のやりたいようにやってくれ。ああ、もちろん今後はきちんとライセンス料は支払うよ。今まで甘えてしまっていて申し訳ない」

こうして俺はコンサル系の会社を起業すると決めた。起業直後で従業員は妻だけの予定だったが、俺の元部下たちが何人か合流してくれて非常に心強い。業務内容としては、在庫システムの開発経験を生かし、業務フローの見直しやそれに合わせたシステムの設計、導入を支援する。そして現場の声に耳を傾け、無理のない効率化をするといった感じだ。俺が最初の会社や前職場で感じた仕事上のモヤモヤは、どんな会社にもあるものだと思う。それを少しでも減らす手助けがしたい。業務の流れを整え、必要な仕組みができれば、現場がスムーズに動くだけじゃなく、働く人間の気持ちにも余裕が出てくるはずだ。

会社をやめて早くも数ヶ月が経とうという頃、俺の事務所にある人物が訪ねてきた。

「それで、本日はどのようなご要件でしょうか?」

俺はその人物と向かい合う。食堂、会議室、そして俺の事務所。今回で3度目の対面となる。目の前の人物、この節は無精ひげを生やした顔で、出されたお茶をすすっていた。その節は最後にあった時と比べてみすぼらしく、なんというかやさぐれた雰囲気だ。

「笑いたければ笑え」

「いや、要件を」

ツッコミを入れたい衝動に駆られた。正直、もう2度と会うことはないと思っていたし、会いたくもなかった人物だ。用がないならとっとと帰ってほしい。事務所で仕事をしている妻や元部下たちも同じ思いなのだろう。チラチラとその節を見ては眉を潜めていた。その節は震える手で湯のみをテーブルに置き、語り始めた。

「あんたがやめた後、俺はすぐに問題視されて出向解除となったんだ。そりゃそうだよな。あんたの義理の父親が正式にクレームも入れたそうだし」

乾いた笑いがその節の口から漏れる。

「そっからが地獄だ。社内評価は失墜し、出向先でしくじった愚か者として後ろ指を刺される毎日だ。今じゃ俺が左遷だよ。ったっても、左遷先でも笑われるのに嫌気がさして、ちょっと軽く上司に手をあげたらこのざまだ」

言葉は濁していたが、おそらく暴力行為に及んで職を失ったのだろう。

「私の事務所のことは誰から?」

俺が尋ねると、その節はトントンとスマホを指さす。

「独立したってのは噂で知ってたから、あんたの名前を検索したんだよ。そしたらすぐに分かった」

口コミでも見たのだろうか。

「お前の事務所、なかなか儲かってるっぽいな」

その節がニタリと笑う。嫌な予感がした瞬間、その節は俺に言い放った。

「俺がこんな目に会っているのは、お前のせいでもある。ま、気持ち程度でいい。慰謝料でも払うのが筋なんじゃないのか」

あまりの非常識さに愕然としてしまう。どこまでも落ちたものだと、嫌悪の感情が湧いてくる。

「お言葉ですが、全て自業自得でしょう」

その節はペッと吐き捨てるように笑った。

「強気だな。いいのか?俺はお前の事務所にたどり着いた。そこにいるのはお前の奥さんか?社員の顔も覚えたぞ」

不穏な言葉に、俺はその節を睨みつける。

「脅迫しているんですか?」

あえて尋ねると、その節は鼻を鳴らした。

「こっちもやぶれかぶれなんだよ。ほら、いいから金をよこせ」

その節が俺の胸ぐらを掴んだところで、俺は天井のある部分を指さした。

「全て録画されていますよ。いいんですか?」

俺の指の先には防犯カメラがあった。一気にその節の目が見開かれる。やぶれかぶれとだけあって、防犯カメラがあるかどうかなんて頭になかったようだ。

「警察にも通報しましたから」

その位置から見えにくい位置にいる社員が、スマホを片手に声を張り上げた。一気にその節の顔から余裕が消え、どんどん青くなっていく。

「くそ」

その節は急いで事務所を出ていったが、外から「うわあ」と叫ぶ声が聞こえてくる。窓の外を覗くと、駆けつけた警察官に取り押さえられているのが見える。

「警察が近所にあって助かったわね」

妻が震えた声でつぶやき、俺は妻の肩を寄せた。その後、俺は警察に被害届を出し、その節とはそれ以来会っていない。その節がどうしているかなんて興味はないが、あの調子ではその節は一生変わらないだろう。

それから2年、俺は仕事も家庭も順調だ。息子が生まれ、仲良く暮らしている。息子の教育について今後妻と話し合うことも多いだろう。その時のことを想像すると、息子には学歴に囚われず、広い視野を持ってほしいと願わずにはいられない。

「なんて負け組みが、上司をバカにしないで欲しいものです」

以前から俺を見下していた部下たち24名が、次々と退職届を提出してくる。どうやらこの行動により、俺を上司の座から引きずり下ろそうという魂胆らしい。俺は味方である課長と顔を見合わせた。

「そうか。ならばどうぞご自由に」

俺の名前は前川、37歳だ。日本生まれの日本人だが、わけあって少し前まではアメリカで暮らしていた。結婚に伴い日本に帰ることになり、先日正式な職が決まったばかりだ。前職での功績などを評価してもらえて、その企業の社長で技術開発部の部長としてぜひ働いて欲しいと言ってもらえた。本当にありがたい限りだ。なぜアメリカで暮らしていたかと言うと、きっかけは母が交通事故で亡くなったことにある。まだ俺が高校1年生の頃だった。母が亡くなったその日の朝、笑顔で「行ってらっしゃい」と言っていたのに。うちは母子家庭だったから、唯一の家族を突然失ったことに絶望した。そんな俺に手を差し伸べてくれたのが、アメリカ在住の叔父だ。母の兄で、昔から日本に来るたびに可愛がってくれた人である。俺はそんな叔父を頼ってアメリカへ渡った。勉強はもちろんだが、最初は英会話から文化の違いに慣れるまで相当苦労したものだ。結婚が決まった時は叔父は泣いて喜んでくれた。

「亡くなったお前の母さんも喜んでるよ。住むところは変わっても、お前は私の家族で息子だ。何かあればいつでも言いなさい」

最後にハグをして、俺は日本に帰国したのだ。

就職先の社長は、どうやら新設されたばかりらしい。日本の部長としては自分が比較的若い部類なのは分かっていたが、部下たちも同じように若い人間が多かった。30名ほどの部下と課長が俺の下につくのだが、課長と数名を除けば大体が20代後半から30代前半くらいだ。有能な人材を多く採用した結果なのだろう。最初は問題なく仕事ができていた。日本の企業とアメリカの企業でやり方が違う点も多く困惑することも多かったが、課長のサポートもあったおかげで随分早く慣れたように思う。課長は40代前半の男性で穏やかな人だ。どことなく叔父と雰囲気が似ており、自然と親しみが湧いた。

「それにしても前川さんはお若いのに本当にすごいですね。いきなり社長の開発部の部長とは。失礼ですが、ご経歴は」

ある日の休憩中、課長にそう話しかけられた。俺は苦笑しながら首を横に振る。

「いいえ。私は高校を中退して」

俺は課長に簡単に経緯を説明した。俺は滅多に自分の生い立ちを話さない。人によっては同情されたり、「お涙頂戴だ」とひねくれた受け取り方をされることもある。だから信頼関係を築けた相手にしか話さないのだ。この時、課長に生い立ちを話したのは、叔父に似ている点だけでなく、信頼できる人だと感じていたことが大きいだろう。しかしその時は思いもしなかった。何気なくしたこの会話が波紋を呼ぶなんて。

まず変わったのは若い部下たち24名の態度だ。飯島という若い男性社員を筆頭に、俺の陰口や、指示したことを無視したりするようになった。

「前川部長ってさ、中卒らしいぜ。高校中退とか言ってるのを聞いたけど、それって中卒をちょっと言い換えただけじゃんか。コネ入社なんじゃないのか」

ちょうどこんな風に。飯島が他の部下に陰口を行っている場面に遭遇したことがある。その時の飯島は慌てるどころか、俺を睨みつけてきた。高校中退という単語を聞いてピンと来たのは、課長との会話だ。そもそも俺は社内でその話を社長と課長にしかしていない。課長と話していた時、飯島が聞き耳を立てていたのだろう。しかもおそらく、そこから先のことは聞いていなかったに違いない。俺と課長の会話にはまだ続きがあったのだから。

ある日の休憩時間中、課長にそう話しかけられた。そもそも仮に本当に最終学歴が中学だったとしても、それだけで見下していい理由にはならない。困ったものだと俺は内心ため息をつく。飯島は有名大学を卒業し、本社で働いていた優秀な人材だ。その飯島に憧れている部下も多い。プライドが高い飯島としては、俺を自分より学歴が低いと思い込み、反感を覚えたに違いない。最初は多めに見ていたが、日数が経つにつれ飯島たちの行動は悪化していった。俺も課長も散々注意しているのだが。

「それって部長命令ですか?パワハラですよ」

「ああ、中卒だからそういうの分からないですか」

「僕らって意外と学歴高いんですよ。なのに上司が中卒ってありえないですよね」

と他の者と声を合わせて反抗してくるのだ。それだけではない。決められた時間外に勝手に休憩を取ったり、勝手に指示内容を変更したりとめちゃくちゃだ。

「前川部長は君たちが思っているような人物ではない。いい加減にするんだ」

課長が強く言ってくれたのだが、それさえも飯島たちは「課長は忠実な部長に媚びている」と一笑する。課長が俺の詳しい事情を明言しなかったのは、俺が自分の過去や経歴を広めて欲しくないという気持ちを酌んでくれたからだ。部署内の空気は悪化していき、俺は最後の手段として動くことにした。このままでは部署として立ち行かなくなる。飯島たちが好き放題する分、俺に反感を持っていない数少ない部下たちにもしわ寄せが増えているのも放っておけなかった。

「課長たちにこれ以上迷惑はかけられません」

俺は課長にそう宣言し、社長に報告することにした。飯島たちの態度が悪化し始めておよそ1ヶ月のことだ。

「24名もの部下がそんな行動を?君が日本の高校を中退していると聞いて」

社長はには信じられないといった様子だった。それは俺としても同感だ。数人ならともかく、24人もの大人が幼稚ないじめで周りに迷惑をかけているのだから。

「私たちも何とかしようと尽力しましたが、申し訳ございません」

俺はことの経緯を話し、頭を下げる。問題行動の記録、課長や他の部署の人間といった第三者が目撃した具体的な事例もまとめて提出した。社長は眉を潜め、静かに頷く。

「分かった。こちらでも対策を練ろう」

その後、社長は念のため本社にも報告を挙げたと連絡を受けた。本社社長は俺の採用時から目をかけてくれた人物だ。その分、ご迷惑をかけるかもと思うと心苦しいが、少しほっとしたのも事実だ。それから俺はいつも通り日常をこなした。飯島は相変わらず他の若者を扇動して、俺の陰口や指示無視などを徹底している。一体どうしたら飯島は満足するのだろうか。感情を表に出すことはしなかったが、このまま何かが起きるかもしれないという予感だけは常に胸の内にあった。

それからさらに半月が経った頃のことだ。

「前川部長、少しよろしいですか?」

出社すると飯島が声をかけてきた。自分から声をかけてくるなんて珍しい、と思い顔を上げた時に気がついた。飯島の後ろにはゾロゾロと他の部下たちが立っている。いつもの問題メンバー24人だ。

「何だろうか」

俺が短く訪ねると、飯島たちは薄ら笑いを浮かべている。もうこの時点で嫌な予感しかしない。

「実は僕たちからお願いがあります。あ、いえ、意思表明と言った方が正しいでしょうね」

「意思表明?」

俺が眉を潜めると、課長がやってくる。どうやら今出社してきて、俺の周りに人だかりができていることに気がついたらしい。

「一体これは何事ですか?」

課長は困惑した様子だ。飯島たちは課長を無視し、それぞれ何か封筒を取り出した。そしてそれらを各々、適当に俺のデスクの上に置いていく。最後に飯島が置いた封筒には、大きく「退職届」と記載されていた。

「これは」

課長が驚愕したように頬を引きつらせている。俺は黙って封筒をまとめ、机の上で揃えた。数えるとやはりきっちり24枚。飯島側のメンバー全員分があった。

「これが君たちの意思表明だと。どういうことか説明してくれるかな?」

俺の静かな問いに対し、飯島が得意げに口を開く。

「前から思ってたんですが、あなたは部長として僕らに指示を出す資格があるとは思えません。中卒なんて負け組みが、上司をバカにしないで欲しいものです。中卒の指示では動けません。今までずっとそれを訴えてきたつもりなんですけど」

今までずっと、俺は感情的にならないように努めてきた。どれほど腹立たしく不快であっても、部長としてやるべきことはやってきたのだ。だが、ここまでされては。

「私が不服だというのは、態度や言葉で十分に伝わっていた。しかし飯島君たちがやったことは、ただ幼稚に行動し、周りに迷惑をかけただけだ。それを訴えてきたとは言わない。前に部長の言う通りだ。飯島君、それから他の君たちも、社会人として考えを改めるべきだ」

俺の発言に課長が同調する。

「うちの部署は彼ら24人の他にも数名の部下がいる。彼らにもどれだけ迷惑をかけてきたか」

俺がそう付け加えると、飯島は声を張り上げた。おそらく「幼稚」「社会人」という単語が飯島の神経を逆撫でしたのだろう。

「とにかくこれを受け取ってもらえますか?そうすれば前川部長、あなたに問題があったということで、上も動かざるを得ないはずです」

バンと乱暴に俺のデスクを叩き、飯島が言い放つ。他の23人の中からも「そうだそうだ」「もっとまともな学歴の上司こそ俺たちにふさわしい」とガヤが続いた。

なるほど、と俺は心の中でつぶやく。飯島たちはこの退職届がそのまま受理されるとは思っていないのだろう。あくまで俺の問題性を訴えるための切り札的な扱いとして、退職届を出したに過ぎない。確かに24人が一斉に退職届を出したとなれば、部長である俺の責任問題になる可能性は高い。そう踏んでいるのが透けて見える。退職届という形をした脅しである。

俺がちらりと課長を見ると、完全に呆気にとられた表情の課長と目が合う。課長が静かに頷くのを見て、俺も覚悟を決めた。正直ここまでするか、という思いはあったが、同時に妙な清々しさも感じていた。これ以上飯島たちに費やす時間はない。この部署を本当に守るべき人たちのために、取り戻す時だ。

「分かった。ではどうぞご自由に」

俺がそう言って退職届の束を引き出しに入れると、飯島たちは固まった。

「え?」

間の抜けた声を出し、困惑する飯島たちを見て、俺は首をかしげて見せる。

「どうかしたのかな?」

俺は表情を変えない。いや、変える必要がないのだ。退職の意思を示すというのだから、それを受け入れるまで。飯島たちはおそらく、退職届と退職願を同じものだと思っているのだろう。退職願はやめたいという申し出に過ぎず、会社側が断ることも本人が撤回することも可能だ。ただ退職届は違う。退職の意思を一方的に通告する書類であり、提出した以上、会社の同意なしに撤回することはできない。飯島たちはそれを脅しの道具のつもりで出した。それがどれほど愚かな判断だったか、今はまだ分からないだろう。

「い、いいんですか?俺たちが一斉に退職したら、部署は」

1人がそう食ってかかるが、俺は首を横に振る。

「別に困らないよ。君たちは揃いも揃って好き放題してきた。その間、私と課長、それから数人が回していたんだ。今更何を困ることが?」

じろりと見ると、言った者はさっと飯島の影に隠れる。

「ふ、強がりは。中卒のあなたと、僕ら24人。天秤にかけるまでもないでしょう」

飯島はそう声を張り上げたが、若干声が上ずっていた。やはり俺が退職届をすんなり受け入れたことに、少なからず動揺したようだ。

「まだ飯島たちは何か言っていたが」

「さ、退職届を出したのだから、後は好きにしなさい。もうすぐ就業時間だ。私たちも忙しいのでね」

俺は念のため、退職届をしまったデスクに鍵をかける。それを見た飯島が苛立たしげに舌打ちした。

「後悔するのは、あなたですからね」

そうセリフを吐き捨てて、飯島たちは部署を出ていった。

飯島たちが退職届を出した翌日、飯島たちはいつも通り出社してきた。と言っても、当然に仕事をしていないところは相変わらずだ。自分たちの主張が通らない限り、態度を改めるつもりはないのだろう。しかし多少の変化はあった。それは飯島についていたメンバーの数人の態度だ。どこかソワソワしていて落ち着かない。知らない顔をしながら観察してみると、どうやらその数人は課長に探りを入れているようだった。

「課長、あの退職届って受理されないですよね。もしかして、俺たちやめることになりますか?」

課長は呆れ返った表情で、「私は知らないよ。君たちが考えてした行動なのだから、どうであれ責任を持ちなさい」と答えているのが聞こえてきた。飯島も気になってはいるのか、少し離れたところからその様子を見ている。俺はそ知らぬふりをしながら、やれやれとため息をついた。

飯島たちが退職届を出してから10日後、社長から俺と飯島たちに招集がかかった。この頃になると飯島を含め24人の顔色はかなり悪い。自分たちから退職届を出したというのに、なんてざまだ。会議室に入ると社長が出迎えた。

「単刀直入に言おう。飯島君を筆頭に提出された退職届だが、本社と協議した上で退職日を設定し、全員分を正式に受理することになった」

飯島たち全員が息を飲む。特に飯島は顔が真っ青だ。飯島たちが何かを言う前に、俺が補足する。

「そもそも退職届は退職願とは違う。撤回を前提とした書類ではないんだよ。提出した以上、それだけの意思が尊重されたと見なされても仕方がないだろう」

「お、俺たちは本気で」「飯島さんがそうすべきだって言うから、僕らは」

などとどうしようもない発言が聞こえてきたが、納得する者などいるはずもない。

「本気でないなら、なぜ届けを出した?飯島君に言われたからなどという声も聞こえたが、君たちはそれでも社会人か?」

社長の冷たい声に、飯島を含め誰も反論できなかった。しばらく沈黙が続き、飯島が口を開く。

「こんなのはおかしい。そっか。そうだったんだ。前川部長、社長にコネでもあったんでしょう。だから中卒のくせに入社できたし、今も社長が味方を」

言葉は悪く、飯島がそう言った瞬間、俺の堪忍袋の緒は完全に切れた。

「黙りなさい。今の言葉は社長に対しても侮辱だぞ。飯島君、分かっているのか?」

初めて俺が怒鳴りつけたことに驚いたのだろう。飯島だけでなく、他の者もびくっと肩を震わせた。

「ああ、前に前川部長から報告を受けた時はまさかと思ったが、本当にここまでとは」

「え?」

驚きの声を漏らした飯島に、社長は説明する。俺が以前から飯島たちの問題を報告しており、その段階で社長がさらに本社にも報告していたことを。だからこそ、今回君たち24人が退職届を一斉に提出しても、スムーズに物事が決まったんだよ、と。前川部長に問題がなかったのは、課長や他の人間からも証言が取れているし、と社長は続け、俺に視線を向ける。

「ただ、唯一前川部長に問題があったとすれば、それはちゃんと自分の経歴を伝えなかったことかな。辛い思い出も一緒に思い出さねばならないし。話す話さないは、本来前川君の自由ではあるんだけどね」

「はい」

俺は深く頭を下げる。すると飯島たちの中から「経歴って何だよ」とざわめきが起こる。俺は小さくため息をつき、話すことにした。

「これは社長と課長しか知らないことだが、私は日本の高校を中退した後、アメリカの叔父の元へ渡り、現地の高校に編入。そのまま大学まで進み、エンジニアとしてアメリカの企業に就職した。コネなど何1つない。私に言えることがあるとすれば、ただ懸命に働いてきたという事実だけだ」

全てを話し終わると、ざわめきはますます強くなった。

「なんだよそれ。話が違う。飯島さん、はっきり中卒だって」

もう1つ補足を加えるため、俺は飯島に向き直る。

「これは推測だが、飯島君は私と課長の会話を聞いていたんじゃないのかい。そして、その話は最後まで聞いていない。違うかな?」

社長、俺、そして本来仲間だった23人の視線に晒され、飯島は口ごもる。沈黙を肯定と受け取ったのだろう。

「なんだよそれ。早とちりでもいいとこだ」

と吐き捨てるような声が部屋から上がった。それが合図となり、一斉に23人が飯島を攻め始める。互いに責任をなすり付け合う、見苦しい光景が目の前で広がっていた。

「やめなさい」

俺が再び鋭く言うと、ようやく静けさが戻ってくる。

「とにかく、前川部長はコネも不正もしていない。アメリカでの実績と成果を本社社長が直接評価し、自らオファーを出したほど、前川部長に期待していたんだよ。君たち24人も期待されてここへ移動してきたはずなんだがね」

社長がそう言った瞬間、飯島はその場に崩れ落ちた。俺は何も言わなかった。ただ静かに視線を外す。それだけで全てが終わった気がした。他の23名もその場に膝をつき、各々謝罪を始める。それは本心なのか保身のためなのか分からない。1つ確かなのは、自らの手で守るはずだった未来に終わりを告げたという事実だけだ。その後、飯島たち24人の退職は正式に処理された。飯島は本社への復帰を打診したようだが、今回の経緯が共有されていたこともあり、受け入れられなかったそうだ。

課長と残された数名の部下に頭を下げると、課長たちは「謝らないで欲しい」と言ってくれた。新しい人間が入ってくるまでは今まで以上に忙しくなるかもしれないが、本社も急ぐと言ってくれている。今のメンバーで前向きに歩いていこうと思う。

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