会議室の空気が凍りつく中、長嶋が隣に座る俺の後頭部をバシバシと叩きながら高笑いした。「年だけ食ってる役立たずはお荷物なんですよね。この人は俺より年上なんですけど、使えないんで俺のパシリにしてます。コーヒー一杯まともに入れられないとは。何の取り柄もないクズですよね。」大手菓子メーカーとの重要な商談の場だった。俺は中勇気、海外勤務から戻ったばかりの営業部員だ。3年前の活気ある会社は、今や数字だけ…

会議室の空気が凍りつく中、長嶋が隣に座る俺の後頭部をバシバシと叩きながら高笑いした。「年だけ食ってる役立たずはお荷物なんですよね。この人は俺より年上なんですけど、使えないんで俺のパシリにしてます。コーヒー一杯まともに入れられないとは。何の取り柄もないクズですよね。」大手菓子メーカーとの重要な商談の場だった。俺は中勇気、海外勤務から戻ったばかりの営業部員だ。3年前の活気ある会社は、今や数字だけ...

会議室の空気が凍りつく中、長嶋が隣に座る俺の後頭部をバシバシと叩きながら高笑いした。大手菓子メーカーとの重要な商談の場だ。彼は俺が海外から戻ってきた後に入社した後輩で、一流大学を出た優秀な社員ではあるが、自分より立場の弱い人間を見つけては徹底的に支配したがる性格だった。年だけ食ってる役立たずはお荷物なんですよね。この人は俺より年上なんですけど、使えないんで俺のパシリにしてます。コーヒー一杯まともに入れられないとは。何の取り柄もないクズですよね。長嶋が嫌みを言ったその時だった。突き通るような冷静な声が空気を一変させた。あの、それ以上の侮辱はやめてくださる。あなたに何の権限があってされているのか分かりませんが、見ていて非常に不愉快です。なぜなら彼は私の――え、嘘ですよね。同席していた神岡彩子が氷のような視線で俺たちを見つめていた。彼女の一言から、会社を巻き込む大事件が始まろうとしていた。

俺の名前は中勇気。入産金料の大手メーカーの営業部に勤めている。入社して一通りのことを学んだ後、海外の事業所へ転勤となり、希望通り3年の海外生活を送り、先月日本の営業部へ帰ってきたばかりだ。出勤時間の1時間前、俺は営業部の掃除を始めていた。清掃会社の方はもちろんいるが、この1ヶ月で察した部分をできるだけなくしておきたかったのだ。個人のゴミ箱のゴミを集め、ついでにデスクの隅にクリップなどが落ちて挟まっていないかを確認する。机の上には今月のノルマ未達の場合は即刻謝罪文提出、売上目標必達など赤字で書かれた紙が並ぶ。3年前なら考えられない光景だ。ゴミ箱には達成できなかった営業成績表や、諦めたように丸めた退職届の下書きまである。デスクの引き出しは胃薬や頭痛薬の空箱でいっぱいだ。この会社、随分変わっちまったな。昔はみんなで楽しく飲んでいたコーヒーも、今は1人黙々と机に向かいながら飲むだけ。笑顔も会話も少なくなった営業部は、ただ数字を追いかけるだけの場所に変わっていた。

ようやく掃除が終わり、自分のコーヒーを入れてデスクで朝食を取ろうとした頃、少しずつみんなが出勤してきた。疲れきった表情で机に向かう同僚たち。かつての活気はもうどこにも感じられない。中さん、おはようございます。今日もお早いですね。道すがらのパン屋にはまっちゃってまして。営業部のみんなは人当たりのいい人が多いが、ある事情で俺と深く関わることを避けている節がある。その理由は簡単なものだった。おはよう。月曜だるすぎるよな。眠い。中、コーヒー早くしてくれよ。俺は何も言わずに立ち上がり、コーヒーの準備をし、彼の元へ持っていった。「最近やっとパシリが身についてきたじゃん。おっさん。あ、でもさ、俺眠いって言ってんだから今日は濃いの入れてこいよな。使えね。あ、あの食べてないパン。俺腹も減っててさ。今から買ってきてくれよ。今から買いに行けば始業に間に合わないです。じゃあ下のコンビニでメロンパン。ほらほら、さっさと。」彼は小銭を俺に向かって投げつけ、顎でさっさと行けとジェスチャーした。こちらを見ている者と、視線をそらす者で分かれるオフィスを後に、俺はビルの下にあるコンビニへ向かった。

俺をパシリ扱いしている彼は長嶋君。俺が入社して1年目の終わり頃に新卒で入社してきた後輩だ。俺はちょうどその頃に海外転勤となり、彼のことはほとんど知らないまま3年が過ぎた。高学歴エリートコースを歩んできたせいか、プライドが高く、自分の下につくものがいないと気が済まない。若手社員で自分より下の立場の人間が見つからない中、たまたま海外から戻ってきた俺を見つけた。入社時期としては俺の方が1年先だが、長嶋君は自分の方がここでは長く働いているという意識なのか、俺を格好のターゲットにしたようだ。初めは小さな頼み事からだったが、だんだんと命令口調になり、そして彼は俺をパシリにしていったのだ。俺は急いでメロンパンを買い、オフィスへ戻った。彼のデスクへ置くと、奪い取るようにパンを取り、バクバクと食べ始めた。俺がデスクへ戻ろうとすると、長嶋君はそり返るように座り、俺を見下すように言った。「君じゃなくて『さ』だろ。中君。」オフィスの空気は完全に張り詰めてしまったが、課長が出勤してきたおかげで、みんなも長嶋君も何事もなかったかのように仕事へ戻っていった。俺もデスクへ戻った。冷めたコーヒーを一気飲みし、食べかけのパンは鞄の中へしまい、仕事を始めた。

きっと部署の中には、どうして俺が長嶋君に反発しないのかと思っている人も多いだろう。それは、俺がここで彼を拒否すれば、きっと長嶋君は次の標的を探すからだ。次の新入社員、中途採用や派遣社員にターゲットが移るかもしれない。俺は彼に会った時、彼の上に立ちたいという感情と、今立てていない環境へのイライラ感を感じていた。それでも彼はいずれ役職的にも上に立つようになるだろう。そうなるまでに、なんとか変わってくれる糸口を探しておきたかったのだ。この会社は小さな研究所から始まり、子供から大人までの健康を考えた人とのつながり、人への安心感を大切にしてきた会社なのだ。俺はその理念は外へ向けてだけではなく、中で働く人たちにとってもそうでなければいけないと強く感じている。時間はかかるかもしれないが、長嶋君とも少しでもそれを共有できるようになりたかったのだった。

長嶋君からのパシリ扱いが相変わらずの中、上司は知ってか知らずか、大手への営業を俺と長嶋君を指名してきた。営業と言ってもほぼ確約に近い状態にある案件だった。だからこそ最後で失敗はできない。楽勝すぎて準備もいらないじゃん。荷物運びと運転くらいはしろよ。ほら、車回してこいよ。そう言いながら、時間ギリギリに追加の資料を長嶋君はバサッと俺のデスクへ置き、自分は形だけの鞄を持って出て行ってしまった。俺も大急ぎで資料を鞄にしまい、駐車場へ向かった。この案件は少し特殊なものだった。相手は大手菓子メーカーで、うちとのコラボ商品をとの営業を進めていた。そしてようやく今日で契約できるかというところまで来ていた。こういったことはうちの会社では初の試みなので、成功すれば会社としての大きな問答が開くことになる。最後まで気は抜けなかった。応接室へ通され、相手が来るのを俺と長嶋君は待っていた。俺は大急ぎで突っ込んでしまった資料の整理をし、長嶋君はドア側からは見えないようにあくびをしていた。するとドアが開き、俺たちは急いで立ち上がった。何度も話をしてきた営業部長の横に、とある女性が立っていた。その女性に目を奪われてしまったのだ。片方だけ髪を耳にかけた、肩ほどの長さの黒髪をなびかせ、すっと上げた顔は整っている美人というだけでなく、仕事ができるオーラというものをまとっていた。「お待たせしました。ああ、こちらは会うのは初めてだね。神岡彩子と申します。本日はよろしくお願いいたします。神岡……長嶋君だったか。鋭いね。そう、彼女はうちの社長の一人娘さんだよ。」俺も長嶋君の鋭さには驚いてしまった。この商談相手は神岡さんだ。おそらく同じ苗字ということと、普通の社員とは違う雰囲気を感じ取ったのだろう。そこからは長嶋君の声のトーンが少し上がったような気がしていた。俺たちも挨拶と名刺交換をし、少し雑談をした後、本題の営業に入った。神岡さんのスタイルの良さに長嶋君は浮き足立っているように見えた。しかし直後にミスを犯してしまったのは俺の方だった。営業部長が渡した資料を見ながら首をかしげたのだ。「うん。これは前回と何か変わっているのかな? 確か最終段階の資料を用意してくれるという話だったと思うのですが。え、あ、申し訳ありません。お渡しする資料を間違えてしまったようで、すぐに最新のものを……」大急ぎで長嶋君から渡された資料を詰め込んだので、追加で渡された資料の方が新しいと思い込んでしまっていたのだ。急いで資料を準備し直している俺を見て、チャンスだと思ったのだろうか。長嶋君は神岡さんの方を決めた笑顔で見ながら言った。「申し訳ありません。本当に年だけ食ってる役立たずはパシリでもお荷物なんですよね。」一応は場の雰囲気を和らげようとしたのか、彼は隣に座る俺の後頭部をバシバシと叩き笑いながら言った。大切なパートナーになるかもしれない会社。そして何より社長令嬢でもある彼女への覚えをよくしたかったのかもしれない。しかし彼女は一切笑わず、じっと俺の方を見ていた。俺はその視線に気がついてはいたが、そちらを見ることはせず、自分の鞄から新しい資料を取り出してそっと配った。

俺は気にせず話を進めた。「実は海外勤務時代、現場の若者たちと話をする中で気づいたことがあります。日本初の商品は『可愛い』『楽しい』というイメージで受け入れられる一方で、健康機能性という要素も同時に求められているんです。この資料にまとめた通り、今回のコラボはまさにその両方を兼ね備えた商品になり得ると考えています。」部長が思わず声をあげた。「おお、これは面白い。」神岡さんも食い入るように資料を見つめながら言った。「若い世代の求める要素を両者の強みで実現できる。これなら自信を持って展開できます。」長嶋君は鼻で小ばかにしたように言ったが、もう誰も彼の反応に気づかない。部長は俺の肩を叩きながら「これだ。これが欲しかったんだ。」と声を弾ませ、神岡さんも満足に頷いている。長嶋君にとってはそれが気に食わなかったのだろう。空気の中心を自分にしようと、また俺の頭を叩きながら何か俺への嫌味を言おうとした。その時だった。冷静かつ透き通る声が応接室の空気を一変させてしまったのだった。「あの、それ以上の侮辱はやめてくださる。彼は私の夫ですよ。」

え、夫? 驚愕より混乱に近い状態の長嶋君の隣で、俺も思わず硬直してしまっていた。予想だにしない彼女の言葉に頭の中が真っ白になる。俺たちの動揺をよそに、資料を見ながら神岡さんは淡々と商談の話を進めていた。ツンツンと資料を揃えテーブルに置いた後、ようやく彼女はこちらを向いた。「ご提案ありがとうございます。我々といたしましても、是非この事業を御社と共に進めていきたいと思いますので。」みんな立ち上がり、長嶋君は部長と、俺は神岡さんと握手をした。契約は成立したのだ。しかしみんなが手を離した後、彼女は長嶋君の方を射抜くような目で見ていったのだ。「長嶋さん、ところで『パシリ』ってどういう意味なのですか? 」「え、いや、あ、コミュニケーションというかですね。」「御社はコミュニケーションとして人の頭を叩くのですか?

Thumbnail

あと年齢差はもう古い考えだと言われていますが、年上から学ぶ姿勢自体は良いものだと思っています。と言っても、確かお2人の年の差は2歳くらいですよね。では、あなたにとって私も役立たずですか? 」そうなると部長は髪をかく。「もういいからね。では後日、正式なプロジェクトとして進めていきましょう。」「ああ、部長。私は少し彼とお話したいので、彼には残っていただきます。長嶋さん、部長。本日はお疲れ様でした。」怒涛の彼女のペースにみんな巻き込まれ、部長はやれやれといった顔で出ていき、長嶋君は意味が分からないといった感じだったが、形式上の礼だけをし、俺から車の鍵を奪い取り出ていった。2人だけの空間は、広く感じるどころか窮屈に感じるほどだった。俺は出してもらっていたお茶を一気飲みした。「困った時とか気合入れる時、飲み物一気飲みする癖。そのままなのね。勇気さん。」「笑い事じゃないでしょ。彩子さん、何なんですか? 『夫』って。」

実は俺たちは1年前から婚約関係にあるのだ。元々親交のあった親族同士が決めたことだったが、社長令嬢が俺なんかと結婚するというわけないだろうと思い、俺は全てを親任せにしていた。母と2人、市営住宅で質素に暮らしてきた身としては、神岡物産という大企業の令嬢と釣り合うはずもないと思っていたからだ。俺も奨学金を借りて大学を出た。彼女とはオンライン通話で一度会ったが、それ以来何の話も聞かなかったので、破談になったのだと思っていた。そこに来ての『夫』発言だ。俺には彩子さんの気持ちが全くわからなかった。「勇気さん、今夜、ディナーどうかしら? 」「彩子さん、あなたからならこんな話、破談にできるでしょう。俺にかかってる時間なんて無駄なだけですよ。」「無駄?

無駄なわけないわ。私はまだあなたのことを知らないもの。知る時間は無駄じゃないでしょ。じゃあ決定ね。今夜、楽しみにしているわ。」綺麗な笑顔とお辞儀を残し、彼女は出ていってしまった。自分のペースに持っていってしまうのは彼女の特技なのかもしれない。

会社へ戻ると、課長から契約成立を喜ばれた。「おめでとう。聞いたよ。君の海外経験を生かした提案が向こうの心を掴んだって。さすがだな。」周りから次々と声がかかる。その声にフンと鼻を鳴らして席を立つ長嶋君の姿が見えたが、そのまま相対してしまった。正直、『夫』云々の話をされていたらと思っていたが、何も話していなかったようだった。今夜の彩子さんとの食事のことを考えると、俺も相対したい気分だった。

そんなこと考えているとあっという間に17時を回っていた。俺はとりあえず髪だけでも丁寧に整え、彩子さんから送られてきた店へ向かった。上品だが入りやすい雰囲気の、親子連れなどもいるレストランだった。奥の席に軽く手を振っている彩子さんを見つけ、俺は少し緊張しつつそちらへ向かった。「お待たせしてしまってすみません。」「私も今来たところよ。」「え? あ、会社帰りそのまま来たんで、おかしいですか? 」「違うの。髪型セットし直してきてくれてる。なんだか嬉しいなって。」少し顔を赤らめながら俯き、自分の髪を触る彼女を見て、俺もハッとなった。「あれ? 彩子さんも髪巻いてますね。」「今日デートだって言ったら、同期の子が巻いてくれたの。」「可愛い。あ、いや、雰囲気変わるもんですね。いいと思います。」思わず口をついて出た言葉に、自分でも赤面してしまった。なんとか話をずらそうと今日の契約の件の礼をしようと思い、話を振ろうとしたが、その途端、彼女はムッとした顔をしたのだ。「勇気さん、仕事の話はもう少し回数を重ねてからにしましょう。まずは恋人らしくデートしましょうよ。」「は、はあ。すみません。恋人……」俺の大声に周りの視線が向いたが、全く気にならなかった。『夫』発言より、なぜかな生々しく感じてしまい、それどころではなかったのだ。「知る時間を作りましょうって言ったでしょ。私、何かおかしいかしら。」頭をかしげる彩子さんを見ながら、俺はテーブルの水を一気飲みした。確かにまだ俺たちは婚約関係にある。その2人が外食をするのだから、恋人と言ってもおかしくないのかもしれない。俺は自分で自分を落ち着かせた。そうして俺たちは食事を楽しんだ。仕事の話は全くしなかった。好きな料理の話や毎朝見る猫の話。デザートはケーキにするかソルベにするか。そんな話であっという間に時間は過ぎてしまった。帰り、彼女の迎えを待っている時、俺はあることを思い出しスマホを出した。「彩子さん、映画って見ますか?

」「映画好きだけど、最近行けてないわ。」「これ友人から前売り券もらったんですけど、よければ差し上げますよ。」俺はスマホの画面を彼女に見せた。昔の名画で、映像が綺麗になったいわゆるリマスター版というやつだ。俺も好きな映画だ。「これ、私の大好きな映画。映画館で見られるのね。行きたいわ。」「よかった。じゃあネットチケットなんで送っておきますよ。」俺がそう言うと、彼女は黙って俺とスマホの画面を指さしながら交互に見ていた。「これ、所持チケット2枚になってるわ。」「え? あ、本当だ。そういえば誰かと行けって言われたような……」沈黙の中、ゆっくりと高級車が俺たちの前に止まった。お迎えの車がやってきたのだが、しばらく彼女は俺を見ていた。俺は何か言いたい気持ちでいっぱいだったが、何も持っていなかったので目一杯の笑顔をした。「今度、俺と一緒に見に行きませんか? 」するとまた彼女は最高の笑顔を残し、車へ乗り込み、見えなくなるまで手を振ってくれていた。見えなくなるとすぐに彼女からメールが来た。今日のことと映画が楽しみだということ。そして可愛い猫のスタンプが送られてきた。俺は何とも言えない気持ちで駅へ向かった。夜で誰にも見えないと分かりながらも、少しにやけてしまっている口元を隠しながらゆっくりと歩いた。

週間後の日曜、俺と彩子さんは待ち合わせをして駅から少し離れた映画館へ行った。私服の彩子さんはシンプルなワンピースに低めのヒールパンプスを履いていた。チラチラと周りの目を引きつける彼女を見て、駅前をやめてよかったとつくづく思った。映画が始まると、予想通り彼女は大号泣した。「ああ、ティッシュなくなった。」「ほら、上向いてください。失礼しますよ。」俺は全く泣き止まない彩子さんの涙をハンカチでトントンと拭いた。彼女は両手でコーヒーを持ち、ズビズビと鼻をすり、一向に泣きやまなかった。「うう……幸せになって欲しかったの……」「でも最後、気持ちは伝わってたでしょう。さ、コーヒー飲んでください。」コーヒーが減ってきたところで、まだ泣き止まない彩子さんの頭に、なんとなくポンと手を置いた。自分でもなぜだか分からないが、感情豊かで自分の前で大っぴらに泣いてくれる彼女を愛しく感じてしまったのだ。その日は彼女の泣き止むのを待ち、散歩しながらカフェで過ごした。いつの間にか俺たちは手を握りながら歩いていた。それからは俺たちは自然と時間を合わせ、食事へ行くようになった。たまには仕事で会うと外とのギャップに笑いそうになるが、そういった日の夜は「私は頑張ってるのよ」と怒られるのが恒例となっていた。

その日は俺がディナーの店を選んだ。高級ホテルの最上階レストランだ。彩子さんは初めてではあったが、何かを察したようだった。心臓は爆発しそうだったが、ここで俺は彼女に今の気持ちを伝えるつもりだったのだ。少し遅れてやってきた彼女は、高級ホテルにぴったりな衣装とヘアスタイルだった。忘れかけていたが、彼女は社長令嬢なのだ。食事はいつもより少し上品な雰囲気で進んでいった。せっかくの料理なのに、緊張のせいか味がよくわからなくなっていた。今までのデートではこんなところへは来なかった。しかし彼女の生きている世界というのは、本当はこういう場所なのだ。俺に合わせてこういう場所はやめてくれていたのかもしれない、などと今になって俺の中に身分違いという言葉が膨れ上がってきた。「勇気さん。」「え? あ、ごめんな。何?

」「勇気さんのこと、もっと聞きたいなって。」身分違いの事実に頭がいっぱいの状態で自分のことを彼女に話すのは、少し辛かった。

俺の祖父は会社を経営していた。祖母は産後の体調が悪く、父を産んでから亡くなったらしい。会社は今こそ全国区の大手企業となったが、祖父が始めた頃は地元密着の小さな研究所だった。祖父は毎日自転車で街中を回り、手売りで自分で開発した入酸金飲料を売って歩いていたという、いわゆる叩き上げの会社なのだ。俺は1人っ子なのだが、記憶にあるのは母親に怒鳴る祖父、そして写真の中の父親だった。父は俺が小学校へ上がる前に病気で亡くなった。祖父は会社を大きくするために父とは見合い結婚をさせるつもりだったらしい。だが父は営業先で出会った母と恋人となり、反対を押し切って結婚した。絶対に会社を大きくすると祖父に言い切って。だが父は会社を継ぐ前にいなくなってしまった。今でも祖父が母へ向かって何度も叫んでいた「お前のせいだ、疫病神が」の声が頭に張り付いている。母と俺は追い出されるように家を出た。母はジムのパートを掛け持ちして必死に働いてくれた。家賃の安い市営住宅で質素な生活だったが、母は俺の学費だけは何とか区面してくれた。でも親戚付き合いは自然と途絶えていった。母方の親戚でさえ、祖父の影響力を恐れてか、なるべく関わりを避けようとした。身分なんて今の世の中関係ないと思う人が多いだろうけれど、そんなことないということを俺は知っている。それは決して本人だけの問題じゃない。家族や親戚まで巻き込んで、長い時間をかけて人との繋がりを壊していくんだ。そして今、俺は両親と同じような立場にいるのだ。彩子さんには絶対にそんな思いをさせたくない。俺は気持ちを伝えるべきなのだろうか。もしお互いの気持ちが一緒だったとして、その先に待っているのが俺の頭に張り付いているような未来なら、どうするんだ? 「勇気さん。」彩子さんの声で俺の目の前はじわじわとピントが合っていった。目の前にはいつの間にかデザートが運ばれてきており、ジェラートは溶け切っていた。「話したくないなら、話さなくていいのよ。」「あ、いや、ほら、彩子さんと違って俺なんて普通の家だから、料理も彩子さんとじゃないと食べないし。やっぱり住む世界が違うんだなって。」「そんなの関係ないでしょ。私は勇気さんが好きなの。」その言葉に胸が高鳴るのを感じた。こんな俺を好きだと言ってくれる彼女の気持ちが温かく、でも怖かった。だからこそ余計に言わなければいけないんだ。「『関係ない』なんて。彩子さんはそんな経験ないから簡単に言えるんだよ。身分が違えば周りの目も親戚付き合いも全部変わってしまうんだ。そういうことを見てきた俺には……」「だから何なの? 私たちの気持ちが本物なら、そんな周りなんて関係ないじゃない。」「そんな簡単な話じゃないんだ。君は何も知らないから。」俺の言葉に彩子さんの表情が凍りついた。その瞳に悲しみと、何か悟ったような色が浮かんでいた。「そう。結局、あなたも他の人と同じなのね。私の立場を見て近づいてきただけ。私って、本当にバカ。」彩子さんの声は震えていた。今まで見たことのない深い失望と悲しみの色が彼女の表情を覆っていく。「違う。そんなつもりじゃ……」「じゃあ、身分が違うっていう私に、どうして近づいてきたの? ……それはもういいわ。」彩子さんは涙を目に溜めながら俺を睨んでいた。俺の言葉は全く届いていないようだった。「婚約をどうするかは、彩子さんにお任せします。破談でも何でも……傷つけるつもりはなかったんです。でも、結果そうなってしまってすみません。」俺が下を向きながらそう言うと、彼女はバタバタと鞄を持ち、店を出ていってしまった。気持ちを伝える前に、全てが終わってしまったのだ。それだけでなく、彼女も傷つけてしまった。もう何もかも最悪の状態で、俺は彩子さんを失うことになったのだった。

あの日から3日後、俺は虚ろな日々を送っていた。元々これが普通だったはずなのに、どこか空っぽだった。そんな時、珍しく祖父から連絡が来たのだ。あまり気乗りしなかったが、断ってしまっては母親の方にプレッシャーをかけてくるに違いないので、行かないわけにはいかなかった。祖父母の別荘に着くと、祖父がいた。「ゆき、座りなさい。」「いえ、このままでいいんで。話って何ですか?

」祖父はギロリと俺を睨むと、そのまま強い口調で話し出した。「お前、神岡との縁談はうまくいきそうなんだろうな。」「さあ。ああ、そういえば先日、破談にしてくれていいとはお伝えしましたよ。」俺がそう言うと、祖父は血管が切れんばかりの怒声を放った。「何をやってるんだ。今すぐ謝罪してこい。土下座してでも、何でもやってこい。」「お断りします。」「なんだと? 」「俺はじいちゃんの作った商品が好きだったし、会社の理念も理解できた。じいちゃんに散々言われてきた母さんも背中を押してくれたから、今の会社へ就職したんだ。俺を利用するのはいい。でも彩子さんを利用するのは許せない。彼女が嫌だと言えば、もうそれでいいんだ。」いよいよ祖父はテーブルを叩きながら立ち上がり、杖を俺の方へ突き刺すように向けてきた。「神岡との縁は、息子の春樹が残した唯一の使えるものだったんだぞ。お前の父さんは営業のエースとしてな、今の神岡の社長と2人で夢を語り合った仲だったんだ。両者の未来を担うはずだった。それを死んでしまってな。のにお前はその大切な縁まで無駄にする気か。底辺人間の血が入ると、我が孫でもここまで出来が悪くなるとは。あの女はやはり疫病神だ。」「なら、その疫病神に惚れた父さんは何なんだ? その親のあんたは何なんだよ。どこまでわがままなつもりなんだ。」俺はそう言い放つと、大急ぎで別荘を出た。祖父が何かを叫んでいたが、全て無視して駅に着いた。祖父は俺が今務めている会社の創業者であり、現社長なのだ。本来なら父が継ぐはずだった会社。それが父が亡くなったことによって後継者を失い、母を追い出した祖父は、今度は手のひらを返したように俺に白羽の矢を立ててきた。実は俺は自分で選んでこの会社に入社した。母は1度も祖父や会社の悪口は言わなかった。それどころか、父の話をよくしてくれた。「お父さんはね、この会社の商品は人と人をつなぐ架け橋なんだって、いつも言ってたの。疲れて帰ってきた日も、お客様から『美味しかった』って言ってもらえた話をする時は目を輝かせてたわ。」父の夢を俺が受け継ぎたいと思った。しかしこの会社を選んだことは、皮肉なことに祖父の思惑通りだったのかもしれない。一応は次期社長候補ということになる。そして今度は、彩子さんという優秀な美人令嬢まで利用して会社の安定を図ろうとしている。これが急に決まった俺と彩子さんとの婚約関係の真相だ。自分の野望のためなら家族も他人も平気で踏み台にする祖父。俺がいなくなれば彼の考えは全て水の泡なのだが、あの沸点の低さ、勢いで何を起こすかわからない。また誰かを不幸にするかもしれないという不安が頭をよぎる。

そして予想通り、祖父は勢いで行動に移していた。翌日出勤すると、俺は注目の的となっていた。「社長の孫だって」「だから長嶋のパシリなんかやってたのに、何も言わなかったのか」と小声で囁き合う声が聞こえる。業界紙には、創業者とその孫である社員との確執について書かれていた。大手菓子メーカーとの契約に関するトラブル。そしてその孫が突然の解雇。憶測記事とはいえ、かなり詳しい情報が載っている。これまで知られていなかった俺の立場とその失態劇に、オフィス中が静かな騒ぎに包まれていた。祖父が意図的に表に出したのだろう。自分の思い通りにならない孫への報復であり、同時に取引先への牽制でもあるはずだ。これで多くの取引先は二の足を踏むだろう。俺は部長と課長へ挨拶をし、デスクを片付け始めた。すると久々に長嶋君が声をかけてきたのだ。あの契約の日以来、パシリどころか声すらかけられることはなくなっていた。「ねえ、中君もバカだよね。使いやすいパシリ入社してこないかな。創業者様の親族をパシるの、笑えたんだけどな。」「知ってた。知ってたんですか? 」「まあね。なかなかに笑えたな。まあ、社長になって首切られても困るんで、そろそろ潮時かと思ってたけど、まさかこんなことになるなんて。あんた、空気読み下手すぎでしょう。」「空気読み下手でも、言いたいことが言えたので良しとします。お世話になりました、長嶋さん。」俺は会社を後にした。それから俺の転職活動が始まった。海外勤務の経験があることは大きなアピールポイントとなったが、俺が解雇になっているということは同業種にはすでに回っており、祖父の根回しも強く、なかなかうまくいかなかった。そう思い始めた時だった。突然スマホが鳴った。画面を見ると、意外な人物からだった。「もしもし……ゆきさん。」電話の相手はあの日以来の彩子さんだった。彼女はおずおずと話し出した。「あの、会社やめたって聞いて……新しい会社決まったのかなって。」「心配してくれてありがとう。同じ業種は厳しそうだけど、どうにかなるさ。」「ごめんなさい。」「え、なんで彩子さんが謝るんですか?

」「あ、仕事の方は他の社員に……そうじゃなくて、私、あの日のこと、早く謝らないとって思ってたのに、連絡できなくて怖くて。そしたらゆきさんが会社やめたって聞いて、私、勝手にひどいことを言ったわ。分かってたのに。あなたは肩書きじゃなくて、私を1人の女として接してくれてるんだって。」すすり泣く声で、最後の方は聞き取れなかったが、彩子さんは俺たちが会ったあの最後の日のこと、ずっと思い詰めてしまっていたようだった。「泣かないでください。ずるいかもしれないけど、せっかくの機会だ。あの日伝えられなかったこと、今言っていいですか? 」「何? 」俺はスマホを少し話し、テーブルに置いていたコーヒーを一気飲みした。勇気を振り絞って、俺は言った。「まだまだ知って欲しいことも、知りたいこともあるけど、もう俺の中で彩子さんは特別な存在でした。勝手に決まった婚約話だったけど、俺はあなたに出会えたことを感謝してます。」電話越しだと相手の表情が見えない分、緊張が倍に感じる。俺はじっと彼女の言葉を待った。何か音が遠くで聞こえる気がした。それが徐々に近づいてくると、何とも懐かしい気分になった。映画で大号泣していた彩子さんだ。「あ、あやう、嬉しい……私も、出会えてよかった。あんな形で終わりなんて嫌なの。ごめんなさい。ごめんなさい。」「俺も焦ってしまって、思ってもいないこと言ってごめんなさい。」お互いに謝り、少し沈黙が流れていたが、彩子さんの鼻をすする音が盛大に響いたことで俺たちは吹き出してしまった。少しゆっくり話した後、彩子さんが意を決したように言った。「ゆきさん、うちで働かないかしら? 」「え、神岡産業に?

」「別に私のコネとかじゃないわ。うちも海外進出はしているけど、少し弱いの。より力を入れるために、ゆきさんなら絶対に必要な人材だわ。」思っても見なかった誘いに一瞬祖父の顔が浮かんでしまったが、これは俺という1人の男を見て、彩子さんがくれたチャンスなのだ。悩む必要などなかった。「お世話になります。」こうして俺の新しい日々が始まることとなった。

神岡物産海外事業部。新しい職場に移ってからもう2ヶ月が経とうとしていた。彩子さんから話をもらってから早々に人事部との面談が行われた。俺はもう解雇の理由を隠すのはやめようと決めていた。祖父である社長と意見が合わなかったと正直に伝えたのだ。おそらく祖父のワンマンさは一部では有名だったのだろう。人事部の顔を見ていると「ああ」といった反応だったからだ。海外での経験を生かし、まずは各国の菓子市場を徹底的に分析した。日本では知名度の高い神岡の商品も、海外ではまだまだ無名だ。現地スタッフの意見を積極的に取り入れ、各国の味覚に合わせた商品開発の提案も進めた。その成果は少しずつ形になってきていた。来週からはヨーロッパへの出張も控えている。どうやら俺は本当に仕事が好きなようだと改めて感じていた。ある日、オフィスで彩子さんが話しかけてきた。「中さん、調子いいみたいね。あ、もう誰もいないし……ゆき君でいいかな。」「俺も彩子さんの方が呼びやすいです。」この会社に来て良かったと思う大きな理由の1つは、この笑顔にいつでも出会えることかもしれないと、少しにやけてしまった。そんな時、スマホを見ると祖父から連絡が来ていた。いつかは何かあるかと思っていたが、まさか「明日来い」と言われるとは思っていなかった。翌日、俺は指定の時間にまたあの別荘に来ていた。俺を呼び出したのは祖父だった。しかし、以前と違いどうも機嫌が良さそうだった。「勇気、お前、やっとわしの考えを理解したようだな。まさか神岡に転職するとはな。令嬢の娘を絶対に逃すなよ。しかし、これなら計画も早く進みそうだな。」「何の話ですか? 勝手に婚約を決めたのは、自分の会社の安泰のためでしょ。」俺がそう言うと、祖父はニヤリとした顔で肘をつき、俺に言った。「よく分かっているじゃないか。お前が神岡側にいれば、経営統合もやりやすくなる。そうすれば、お前を社長にする。ほれ見ろ。我が社は安泰だ。」「経営統合? 何言ってんだよ、じいちゃん。神岡は全体的に見ればうちより規模がでかいんだぞ。」「は、規模が大きいからこそだ。今のうちは飲料1本だが、神岡は菓子から食品まで幅広い。その神岡のお嬢様と結婚して両者のパイプを作る。それからお前が会社の立場を利用して株を集める。最後は経営統合という名目で、うちの商品開発力と神岡の販売網を組み合わせれば、どちらもいい話だと説得できる。そうすれば実質的な支配権は我が家のものだ。これこそが経営者の考えることだ。」「俺は絶対にそんなことしないからな。」「勇気、なぜだ。」祖父を見ていると、腹立たしさを通り越して悲しさが溢れてきた。「じいちゃん、現実を見てくれよ。もう噂で回るレベル2までなってるんだよ。あそこの会社はノルマもきつさがさらにひどくなって、倒産してもおかしくないって。」「ノルマアップだと? わしはそんな話聞いておらんぞ。」「そうだろうな。俺が海外から帰ってきて1番驚いたのはそこなんだ。入社した頃の会社の雰囲気と全然違う。毎朝営業部のデスクに『今月の必達ノルマ』って紙が置かれてて、達成できなかった社員は夜遅くまで残って謝罪文を書かされる。若手は次々とやめていくのに、誰も声を上げられない。そんなバカな。自転車で売って歩いた頃のじいちゃんなら分かるはずだ。この会社は人との繋がり、人への安心感が1番大切だったんじゃないのか。なのに今は数字だけを追いかけて、社員の声は本当にじいちゃんの耳に届いてるのか?

現場で働く人たちの思いは。じいちゃんが守りたい会社って、こんな会社だったのか? 」祖父の表情が一瞬揺らいだ。「今回の無理な買収だって。そうだ、じいちゃんの周りには反対する人、1人もいないのか? 」俺は祖父に背を向けた。「だから現実を見てくれって言ってるんだよ。」そう言って俺は祖父の元を去った。俺は駅から彩子さんに連絡し、前に映画を見に行った駅で待ち合わせをすることにした。改札を出ると、夕日に照らされた彩子さんが待っていてくれていた。俺はフラフラと彼女の方へ向かっていくと、そのまま彼女を抱きしめていた。「ゆきさん……よしよし。」「ごめん。少しの間だけ……」と思いながら彼女に抱きしめられていると、俺の涙は止まらなかった。

それからまた何事もなく1ヶ月が過ぎた。以前関わっていたコラボ商品がいよいよ商品化へ向けて生産が動き出したのだ。神岡物産の人気商品のシャリシャリ食感ゼリーと、祖父の会社の入酸金飲料のコラボだ。車内でもすでに評判で、ネットやSNSでの広告もすでに打っている。販売前のイベントをすることになっていた。俺はすでにその案件からは離れているが、部長が気を利かせてくれ、そのイベントの手伝いに回してくれたのだ。久々に彩子さんとの仕事だったのも嬉しかった。しかしイベントの1週間前、それは起こった。「ちょ、ちょっと待ってください。今、中止だなんて困ります。すでに走り出してしまっているんですよ。うちだけではなく、そちらにも損害が……」オフィスに彩子さんの声が響いた。「どうかしたんですか? 」「急に話を白紙にしたいって。私、あちらへ行ってきます。」「待って、俺も行きます。」商品自体にはすでに向こうからもOKが出ている。それをこんな急に白紙にするだなんて、まずありえない。俺は嫌な予感がしていた。数ヶ月ぶりの本社だった。俺が車を止めている間、彩子さんが受付でアポを取ってくれていた。「神岡さん、どうでした?

」「中さん、あの、今、社長がいるから、社長が対応するって。」滅多に来ることのなかった社長室のドアをノックし、中へ入った。葉巻の煙が充満した部屋には、副社長と、奥には葉巻を吸っている祖父、社長がいた。彩子さんは席を譲りながら頭を下げた。「突然申し訳ありません。神岡物産の神岡彩子と申します。あの、突然事業の白紙にするとお電話をいただきまして、理由を伺うべく……」彼女がそこまで言うと、祖父は葉巻をグリグリと消し、威圧的な声を出した。「神岡さんね。そりゃあ、あんたの方のミスだからだよ。」「え、ミスですか? 」「オタクのポテトチップスだったか。あれ回収になったんだろう。そこで新商品なんて、こちらとしては関わることに何の利益もないだろう。もちろん損害は全てそちらに持ってもらうことになる。」祖父の言うポテトチップスの件は、実際にあったことだ。袋を開けたら焦げた部分がいつもより多かったというSNSへの投稿が拡散されたのだ。しかし、回収とはなっていない。機械の関係でどうしても稀にそういった商品が出てしまう場合があるのだ。実際、その投稿にはそういった場合の対応方法を送り、全て解決している。おそらくSNSに疎い祖父は、拡散された内容を誰かから聞き、経営統合しやすくするために神岡物産の株を下げるつもりなのだ。「その件に関しては、お客様へ誠心誠意の対応をさせていただきました。新商品発売に影響はありません。」「そう言われてもだね。何だったか、あれ。リスクマネジメントです、社長。」「そうだよ。神岡君、問題が起きてからではダメなんだよ。」そんな取り付く島もないと感じた彩子さんは、今にも倒れそうになっていた。俺は咄嗟に彼女を支え、少し後ろに立たせた。「こんなことしたくなかったですよ。」「何がだ、勇気。ちゃんと神岡がうちの傘下に入れば、お前を社長にすることは考えているからな。心配するな。」「さすが社長。この度胸と先見の明があったからこそ、ここまで会社は大きくできたんですよ。これも創業者だからできる決断です。今回の件も必ずや成功させましょう。」副社長の言葉に祖父は満足に頷いている。「あ、残念です。逆にうちがもらってあげますよ。ここはもうすぐ、社長不在の会社になりますからね。」俺の言葉の意味をあまり気にすることもないように祖父は笑い続けていたが、副社長の顔色が青くなっていることに気づいたようで、ようやく祖父は笑うのをやめ、俺に少し汗を滲ませながら問いかけてきた。「どういう意味だ? 」俺は用意してあったお茶を一気飲みし、グッと拳を握り、祖父を睨みつけた。「株主総会で、代表取締役の解任を要求します。」「株主総会だと……」「父さんは生きていた時、念のために会社の株式の3分の2を集めて、母さんと俺に分けていたんだよ。じいちゃんの沸点の低さは1番分かってたからね。保険のために。そして今、その保険が役に立った。」「社長、しっかりしてください! 」「今のが本当だったとしても、どうにでもなります。会社がなくなるわけではない。」「確かに会社はなくならない。でも、総辞職にはなるでしょうね。もう今でいいか。ちょっと失礼。」俺は部屋の端で電話をかけた。少しすると、沈黙した部屋にノックの音が響いた。「失礼します。わあ、社長室なんて初めてですよ。てか、予想以上に早かったな、中君。事情は知ってるでしょ?

長嶋さん。」俺が電話で呼び出したのは、あの長嶋君だったのだ。「まあ、俺もちょっと腹立ってるしいいけどさ。ああ、社長、副社長。私、営業部の長嶋と申します。今回、白紙にされました案件の担当をしておりました。」ニヤリとした笑顔を2人に向けると、長嶋君は分厚いファイルを数冊、ドンと中央のテーブルへ置いた。「これだけの量を見るのは大変だと思いますので、簡単に説明しますね。えー、ここ1年での各店舗販売のノルマの上昇グラフと達成率グラフですね。そして、ノルマ達成のため自腹を切った金額の平均。あ、自分で見ててもブラック企業ですね。で、本社社員の意見という名の愚痴一覧です。こんな状況ってご存知でしたか、社長? え、ちなみに副社長、お好きなお姉さんたちのいるお店で遊ぶだけ遊んで経費で落とすなんて、ずるいですよね。」「ど、どうしてそれを……」「あ、き、貴様! 」暴れ出した社長たちを横目に、長嶋君は持っていたファイルを淡々と直していた。実は俺が解雇された日、長嶋君は俺にある取引を持ちかけていたのだ。「ブラック情報。声が大きいよ。入社したての頃、このまま行ったらこの会社やばいなと思ってね、ちょこちょこ情報を集めてたんだよ。いつか何かに使えると思ってね。俺は賢く生きる派だからさ。」「それで俺に何の取引を? 」「この情報、君の好きに使っていい。その代わり、パシリにしていた件は水に流す?

」「は、意外に君も賢かったんだな。」「さて、俺、戻るよ。あの、神岡さん。」「は、はい。」「やっぱり2歳差は偉大ですね。俺にはまだここまで大胆に動く胆力はないですね。」では、俺の方を見てフッと笑うと、長嶋君は台風の後の風のように去っていった。祖父の方に目をやると、力なくソファーへ座っていた。副社長はいつの間にか横の扉から出ていったようだ。「じいちゃん。」「ゆき……本当にわしを解任させるのか? お前の母、あの女も了承しているということは、復讐か? 」「俺は母さんからじいちゃんの悪口なんて1回も聞いたことないよ。」「何? 」「俺が悪口ばっかり聞いてたら、さすがに就職しようなんて思わないだろ。母さんもきっと父さんも、じいちゃんの頑固さは分かってたけど、心は優しいって知ってたから。この会社は人との繋がりと安心を届ける会社だったはずだろ。」すると後ろから彩子さんがゆっくりと俺のそばへやってきた。「神岡物産も自社商品にかなりの自信を持っています。でも、ようやく新しいことに挑戦しようと思えたのは、御社とのコラボだったからです。たくさんの人が安心して飲んできた商品ですもの。」「そうでしたか。わしは、あまりにも現場から離れすぎていたな。会社の規模と維持ばかりに目が行って……」「父さんのためだろ。母さんが言ってたよ。あの会社は、息子のお父さんのためにおじいちゃんが必死になって頑張って作り上げたものなんだって。父さんを1人で育てながら、毎日自転車で商品を売って。だから父さんがいなくなった。今、あの会社を大きくすることがおじいちゃんの夢なんだって。」祖父の声が震えていた。妻を早くになくし、必死で息子を育て上げた。その息子も若くして死に、残された嫁を疫病神とののしり、追い出した。なのに、その母が自分の人生や思いをここまで理解していたと知り、言葉を失ったのだ。「ずっと父さんのために頑張ってきたんじゃないのか。母さんはおじいちゃんのその思いをちゃんと分かってたんだ。じいちゃん、やり直そう。そして、もう1人で突っ走らないでくれよ。俺も母さんも、それに今はたくさんの仲間がいるだろう。」俺の握り続けた拳に、彩子さんがそっと手を添えてくれた。それを見ていた祖父は何を思い出したのだろうか。目頭を抑え、震える声で言った。「この年で1からか。みんなに力を借りないといけないな。」「できるさ。じいちゃんはゼロからここまでやってきた、最高の人生の先輩なんだからさ。」「勇気……」「はい?

え? いや、気のせいだな。」俺と彩子さんは、まだグッタリと座っている祖父に駆け寄り、お互いにそっと手を取ったのだった。

2ヶ月後、今日はいよいよコラボ商品の全国発売日だ。午後にもなるとSNSは感想のつぶやきで溢れており、すでに会社としての売上アップは確実だった。美味しいとの声が多かったことが何より嬉しかった。祖父は株主総会を待たずに自ら社長の椅子を降りた。社長には、祖父が会社を始めた時、初めて雇用した人事部長が就任することになった。ちなみに副社長は、着服がどんどん明らかとなり、解雇となった。そのきっかけをくれた長嶋君は海外赴任を自ら志願し、今はアメリカにいる。「俺が唯一、中さんに負けてることがあるとすれば海外経験だけなんで」という、俺にとってはよくわからない理由だけ伝えて、あっさり日本を旅立ってしまったのだ。今は英語を完璧にするために、どんな仕事でも頑張っているそうだ。そして、俺と彩子さんは今、俺の実家で祖父と母を前にして座っている。俺の海外出張を前に、両家の親に挨拶をすることに2人で決めたのだ。祖父は社長を辞任した後、相談役として会社の色々な現場を回っていたのだが、そこでたまたま祖父の商品の販売員をしていた母に会ってしまったのだ。祖父はその場で泣き崩れてしまったらしい。何度も「申し訳なかった」と言いながら。そういった縁もあり、祖父と母の距離は少しずつ縮まっていたのだ。「あの、じいちゃん、母さん。改めて、こちらが神岡彩子さんです。結婚を前提にお付き合いさせていただいていて、結婚します。」元々勝手に決められていた婚約だったこともあり、どう挨拶すればいいのかまだ分からなかった。「神岡彩子と申します。勇気さんとは何とも不思議なご縁での出会いとなりましたが、彼と共にこれからの人生を歩んでいきたいと思っております。どうぞ、2日間ですがよろしくお願いいたします。」流れるように話し、頭を下げる彩子さんに俺がボーッとしていると、母から視線が飛んできた。俺も急いで頭を下げ、「お願いします! 」と叫んだ。「2人とも、頭をあげなさい。」祖父は俺たちにそう言った。顔をあげ祖父の表情を見ると、今にも泣きそうな顔をしていた。母にティッシュを渡され、涙と鼻水を必死に拭いている。「彩子さん、勇気は本当に父の春樹にどんどん似てきておる。親の言うことは聞かん頑固者なのに、心配だけはしてくる。いい嫁さんを連れてくる。可愛い孫をわしに合わせてくれた。唯一アホなのは、ここにおらんことだ。」「お父さん、すまん。勇気の手を彩子さんが握ってた時、思い出したんだよ。春樹がお前さんの手を取って家を出ていった時のことをな。だが、もう1つ思い出したんだ。まだ春樹が小さかった頃、研究室へ向かうわしの手をいつも握っとったんだ。」祖父はほんの少し笑いながら、寂しそうな顔をした。「父ちゃん、今日も博士の服着るの? 」「ああ。ちゃんがみんなを健康にするんだぞ。すごいだろ。」「かっけえ。だったら、もう母ちゃんがいないって子、いなくなるかな。」「春樹、やっぱり寂しいか?

」「うん。でも父ちゃんがいるから、半分だけだ。父ちゃん、早く行こう。」「そんなこと言っとったのに、自分が病気になるとはよ。すまん。関係のない話をしてしまったな。」祖父はもう一度鼻をすすると、俺たちを改めて見た。「謝罪しなければいけないことは山ほどあるが、今はまず君たち2人の幸せを全力で応援する。」「じいちゃん……」「ゆき、彩子さんをしっかり大切にするのよ。」「母さん。はい。」俺たちは家を後にし、少し歩くことにした。ふと空を見上げた彩子さんがポツリと言った。「私、ゆきさんのお父様に会いたいわ。」「そうだな。父さんにも報告しとかないと。」「私ね、全部お父様が縁をつないでくれた気がしてるの。ゆきさんはもちろんだけど、おじい様とゆきさん、そしておじい様とお母様。考えすぎだけど、そう考えた方が、なんだかお父様とも出会えた気持ちになれるわ。」「それ、あるかもしれないな。父さんって、どうもお人好しだったみたいだからさ。だから俺も、心配かけないように……」そこまで言うと俺は立ち止まり、彩子さんの手を取った。そして、右手の薬指にそっと指輪をはめた。「一生かけて、あなたを幸せにします。よろしく、彩子さん。」青空の下でワンワン泣く彩子さんと、それを照らす日の光。指輪と彼女の涙がキラキラと輝いていた。