夫のスーツのポケットから、見覚えのない女性物の髪留めが出てきたのは半年前のこと。あの日を境に、私の人生は静かに、しかし確実に動き始めた。
最初は半信半疑だった。夫は最近、取引先との接待が続いていると言っていた。飲み会が多いのは事実だったし、普段から不精な夫が誰かの物を間違ってポケットに入れたままにしてしまうことも、なくはない。そう自分に言い聞かせて、私はその違和感を飲み込んだ。
けれど、疑わしい点は後を絶たなかった。香水の匂いのついたシャツ。襟元に付いたうっすらとした口紅の跡。そして、何よりも気になったのは、以前はソファに置きっぱなしにしていた携帯電話を、夫が肌身離さず持ち歩くようになったこと。
まさかね。そう思いたかった。しかし、昨年、私の友人が夫の不倫で離婚したこともあって、念には念を入れておこうと思った。夫が通勤で使っている車のドライブレコーダーを確認することにしたのだ。内外ともに録画機能がついていることは、以前から知っていた。
そこに映っていたのは、まさかの夫と、若い女性が車内で抱き合っている映像だった。証拠としては申し分のない、決定的なものだった。
一瞬、激しい怒りが湧き上がった。けれど、その感情は光の速さで引いていった。代わりにやってきたのは、夫への愛情が完全に消え去った後の、ひどく冷静な自分だった。息子たちはまだ手も金もかかる。ここで感情的になって何になる。私は静かに、二人への報復を考え始めた。
数日後、早速探偵事務所に浮気の証拠集めを依頼した。資料がまとまったところで、弁護士事務所へ相談に行く。それと同時に、息子たちにも一通り説明をすることにした。
「というわけで、あなたたちには申し訳ないけれど、お母さんはお父さんと離婚することにしました。もうすぐ新居も完成するし、別れた後はそっちに引っ越そうと思うのだけれど」
上の息子は、間髪入れずに言った。
「父さんもクズだよな。あんな親父のどこがモテるんだか。母さん、順調?」
下の息子も、特に反対する様子はない。二人とも、ひどくあっさりと受け入れてくれた。さすがは私の息子たちだ。いい子に育ってくれた。
その後、順調に離婚の準備が進んだ。そして今日、この荷物を送り出してしまえば、ほぼ最終段階となる。夫は一週間の出張だと称して、今は浮気相手と旅行中だ。明後日まで帰らない予定である。私も息子たちも、その不在を利用させてもらうことにした。
私は最後の一箱に送り状を貼り付けた。宛先は、浮気相手の彼女の実家。ちなみに彼女はご実家暮らしだそうだ。夫の荷物の宛先も、彼女の実家にした。何も知らないご両親のために、贈り主の私が誰で、なぜこんな荷物を送り付けたのか、丁寧なお手紙を添えておいた。不倫相手との楽しい旅行から帰って、両親に現実を引き戻されるなんて、私だったら耐えられないけれど。
夫の荷物だけ、一足先に送り出した。タイミング的にはちょうど良かった。そのうち、夫自身も段ボール箱に詰めて送り出してしまいたいところだ。
さあ、私たちも新居へ自分たちの荷物を運ばなくちゃ。気持ちを切り替えて、息子たちの全面協力のもと、夫が帰る前日には引っ越しも完了した。
翌日、帰ってきたであろう夫から、鬼電がかかってきた。帰宅したら、家はもぬけの殻なのだから、驚くのも無理はない。
「私たちはもうあなたと暮らせません。ここは引き払ったので、あなたも浮気相手さんのところへお引っ越ししてくださいね」
私がそう言うと、夫は怒鳴った。
「出張だって言ってるだろう! 彼女はただの部下だ!」
しかし、私は知っている。夫は営業部で、彼女は受付係だ。部署が違う上に、一週間の出張へ同伴する仕事なんて、非現実的だ。
「あなたが浮気をしていた証拠は、ばっちりなんです。あとは弁護士さんを通してのお話以外は、受け付けません」
きっぱりと言い切ると、夫は自分の分が悪いと悟ったのか、「この件に関しては、また後でしっかり話し合おう」と言って電話を切った。
現在43歳の私に対して、相手の彼女はなんと24歳。おいおい、そんなにこのおじさんが好きなのか。軽い遊びのつもりだったのかもしれないが、もう遅い。内容証明郵便も送付済みだ。これから払う代償は、かなり大きいものになるだろう。弁護士さんと作成した書類で、慰謝料は両者に請求。夫には養育費も毎月払ってもらうことにした。
慰謝料に関しては、浮気相手の方がごねたみたいだった。けれど、若いとはいえ社会人なのだから、やったことへの責任は取るべきだ。結局、彼女は貯金では足りず、ご両親に泣きついたそうだ。こっぴどく叱られたらしい。それは夫の携帯から番号を調べたのか、彼女自身がわざわざ電話で教えてくれた。
「月曜日、なんてことをしてくれたんだ!」
またも夫から電話があった。私は浮気証拠の写真のいくつかを、夫と彼女の勤める会社にも送っていたのだ。お金だけ払えば万事解決、なんてわけにはいかない。当然、会社でも大騒ぎになった。親戚の葬儀に合わせてまで取った一週間の長期休み中、仕事を代わってくれた同僚や上司の顔に泥を塗ったわけだから、みんなカンカンだった。後で聞いた話だが、どうやら車内でも一部の人には怪しまれていたそうだ。長期の有給が同じ期間なのだから、当然だ。爪が甘すぎる。
その後も、度々夫から連絡があった。
「俺が悪かった。今度だけは許してほしい」
泣きつかれても、私たち三人に夫への愛情は微塵も残っていない。
「新居に突撃されたら困るので。もし無理にでも私たちに近づこうとするなら、接近禁止命令を出してもらいますからね」
そう言うと、夫は悔しそうにしながら引き下がっていった。
その後、夫は浮気相手に振られたそうだ。彼女の方も目が覚めたのだろう。そして夫は会社でも白い目で見られ、昇進も取り消しになり、地方の支店の窓際部署へ左遷されたらしい。
それでも養育費だけは欠かさないのは、せめてもの父親の役割だろうか。自分で巻いた種だ。しっかり責任を取ってほしいものだ。
それにしても、なぜ夫は浮気をしたのか。上の息子がぽつりと呟いた。
「そんなに後悔するほど俺らのことが大切なら、ちゃんと大切にしておけばよかったんだよ」
結局、若い女に騙されて全部失うことになるなんて、情けなさすぎる。そう言って、彼は独りごちた。
妙に私への協力も引っ越しも乗り気だなと思っていたら、最近彼には同級生の彼女ができたらしい。
「実は兄ちゃん、最近家の前まで女の子と歩いて帰ってきてるんだぜ」
下の息子からの密告だ。幸いにも引っ越し先は同じ学区内なので、二人とも転校はせず、人間関係も変わらない。美しい恋愛だが、それでも好きな人のできた彼なりに、夫のことが許せなかったのだろう。息子たち二人が、夫のように女性を悲しませるような男にだけは育たないでほしい。母はそう祈っている。
さて、話は変わるが、私は今、目の前で言われた言葉に怒りが頂点に達しようとしている。
「資産なしの貧乏ババーは、観総裁以外関わるな」
弟はそう言って、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
これまでも弟夫婦、特に弟には常識のかけらもないと思っていたが、その疑惑は確信に変わった。目の前で、旦那の実母の遺産にたかる汚い弟嫁。独身で猫と暮らしている私には「貧乏ババー」だと、平気で下品な言葉を吐き、見下してくる。もうこの時から、私の怒りはピーク目前だった。大勢の人がいる前で私をののしったかと思うと、次はとんでもない行動に出たのだ。
さすがにこれは見過ごせない。
私の名前はし子。現在30代半ばで独身。彼氏もいない。仕事は医療事務関係で、大学を卒業してからずっと同じ病院に勤めている。同僚たちは三年勤めて退職金がもらえるタイミングで辞めたり、結婚して寿退社したりで、結局私だけがこの病院に残ってしまった。女なのに主任の話が出るほど給料はそこそこ、駅から徒歩20分の狭いアパートで、猫とひっそりと生活していた。
そんな私には、兄と弟がいる。兄は一つ年上なのだが、学生時代はヤンキーと言いますか、かなりやんちゃな人で、それで高校を卒業してからすぐ家を出て行方不明になった。以来、兄とは一度も顔を合わせていない。両親も兄とはよく喧嘩をして衝突が多かったせいか、年末年始や盆に帰省するかどうかの連絡すら取っていなかったようだ。
対して弟は、両親から可愛がられて育った。年が私たちよりかなり離れており、今は20代半ば。年の離れた末っ子というのは親にとって特別だったのか、とにかく可愛がられていた。そのせいか、弟はとてもわがままで、プライドが高い性格になってしまった。何をしても自分は許されると思っていて、自分の過ちを私のせいにしてくるのは日常茶飯事。例えば食事中にお茶をこぼしても、私の不注意だと罪をなすりつけてきた。両親も私がどんくさいのを知っているせいか、いつも私が怒られてばかりだった。
そういう特殊な環境で育ってきた私が、曲がらずに成長できたのは祖父母のおかげだ。母方の祖父母はすでに亡くなっている。しかし父方の祖父母はまだ存命で、とても元気。普段は農業をやって生計を立てているそうだ。私は祖父母の作る野菜が大好きで、毎週末祖父母の家に遊びに行っては農業の手伝いをしていた。時には裏の山に登って山菜を採ることもあった。ネットやゲームなどで遊ぶ子供たちが増えた中、私のように自然の中で育つ子供は珍しかったと思う。
さて、話を戻そう。私が30歳を迎えた直後、大好きな祖父が他界した。両親は20代前半で結婚して兄を産んだため、比較的長く祖父母と一緒にいられたのだが、その分、寂しさも大きい。祖父の葬儀は、祖父自身の遺言によって家族葬で取り行われた。その際にも兄は顔を出さず、両親も特に何も言わなかった。
そしてしばらく待っていると、派手な身なりをした二人組が入ってきた。弟の春明と、前年に結婚して私の義妹となった弟嫁の美佳さん。二人ともまだ20代前半とはいえ、葬儀に対する常識ぐらい頭に入っているものだと思っていたのだが、私の予想をはるかに超える格好をしていた。葬儀だというのに、結婚式で着るようなスーツを着ている弟。同じく、きらびやかなドレスをまとってネイルもばっちり決めた弟嫁。さすがに私はとん引きして何も言えずにいると、両親は気にせず「座れ」と指示した。
こっそり両親に「ねえ、さすがにあれはまずいよ」と指摘したが、「家族葬なんだから関係ない」と一蹴された。葬儀場のスタッフやお坊さんも、弟たちを見てひそひそと何か言っていたが、特に問題もなく通夜まで済ませられた。この時、私は弟たちが何かやらかすのではないかと、意味もなく不安を覚えていた。根拠はないし、何をやらかすのか占い師でもあるまいし分からない。けれど、その予想が的中してしまう事件が、後に起こることになる。
祖父の葬儀から数日が経ったある日、私は祖母の様子が気になって祖父母の家を訪問した。祖父が病に伏せてからは畑仕事もしていなかったようで、少し荒れた畑を見て、私は肩を落とす。後で綺麗にすればいいか。そんなことを思いながら家の中に入ると、中から言い争う声が聞こえてきた。
まさか、祖母が泥棒に襲われているのでは。そう思ったら一瞬足がすくんだが、祖母のことが気になって、私は無意識に足を進めていた。そして声が聞こえる部屋まで行くと、そこで祖母と弟嫁が何やら言い争っていることに気がつく。泥棒じゃなくて良かった。そう思うと同時に、何をして普段穏やかな祖母を怒らせたのだろうと疑問に思った。
「ちょっと、二人ともおばあちゃんに何してるの?」
私が間に入ると、三人は言い争うのをやめ、こちらを見てきた。祖母は私を見て、はぁと大きなため息をこぼす。弟は不機嫌になり、弟嫁はあからさまに嫌な顔をする。何があったのか聞いてみると、祖父の遺産をよこせと二人が急に言い出し、喧嘩になったのだとか。
何を言っているのだろう。祖父の遺産は、配偶者である祖母が半分を相続し、もう半分は父と叔父がさらに半分にして相続した。当然、孫である私たちに相続するような権利は、遺言でもない限り原則ない。だからそう伝えると、弟はうら笑いを浮かべて言った。
「分かってるわよ。でも、たくさん相続したなら孫に分けてもよくない? 第一、こんなおいぼれババーがお金持っても無駄無駄」
弟がそう言うならまだしも、跡取りでも何でもない弟嫁に、そんなことを言う権利は一切ない。
「うちの相続問題に口を出さないでくれる? 今回の件について、弟はもちろん、あなたにも一切関係ないの」
私が毅然とした態度で言うと、今度は弟が大笑いし始めた。何が面白いのか、手を叩いて、まるでタンバリンを叩く猿のおもちゃが狂ったかのような様子。私はぎょっとしてその場に立ち尽くしていると、弟は言った。
「ついでに聞いたけど、あんたも資産なしの貧乏ババーでしょ。そんな奴は観総裁以外関わってくるな。貧乏が映っちゃう」
なんて失礼なことを言ってきたのだ。さすがの私も頭に血が上って言い返そうとしたが、窓を開けたまま大騒ぎをしていたので、近所の人が心配して見に来てくれた。うちは田舎なので、こういう狭いコミュニティではよく関わり合いがある。事情を聞いた近所の人が、なんとか弟夫婦を帰してくれて、ことなきを得た。
それでも、ほとんど面識もない弟嫁から「貧乏ババー」と言われたことが頭から離れず、今もずっとモヤモヤしていた。けれど、祖母が私の大好きなスイカを持ってきてくれたので、少し気持ちが落ち着き、縁側で二人並んでスイカを食べた。
それから時は流れ、秋、十月にもなると、暑い日があるものの、少し肌寒く感じる日も多くなってきた。そして秋といえば食欲の秋。この地域にはたくさんの特産品があり、毎年収穫祭が行われるほどだ。うちも祖父母がご近所との付き合いが深いことや、畑をやっていることから、毎年十月に親戚やご近所を招いてちょっとした宴会をしていた。今年は祖父が亡くなったのもあり、より多くの人が祖父母の家に集まってくる。
日も暮れて、みんなで食卓を囲もうとしていた時、「お邪魔します」という高い声と共に、弟夫婦がやってきた。一応家族なので来るなとは言えない。両親がいる以上、弟夫婦がのけ者にされることもないだろう。あの時のこともあったし、私は二人を無視していた。関わって面倒になるのも嫌だった。そうやって私が気を遣っていたのに、弟嫁の方から話しかけてきた。
「あ、どうもどうも。貧乏ババーじゃない。お姉さん、なんでここにいるんですか?」
弟嫁の放ったその言葉で、周りの人たちは驚きからか、動きをぴたりと止めた。しかし何も気にしていない弟は、こう続けた。
「結婚もできてない独身の30代半ばって、女としても終わってますよね。実家にもちゃんと貢献できないようなおばさんは、早くご退場願います」
そう言って、二人はくすくす笑ってきた。義父にもそれは聞こえているはずだが、特に反応はせず、スマホゲームをしているだけ。そしてたまに料理を口にしては、またスマホと睨めっこ。それを見ていると、私の中の怒りは沸騰し始めた。でもここは大人として我慢しよう。そう思っていた、次の瞬間。
「やだ、手が滑っちゃった」
と言い、弟が私の頭からビールをかけてきたのだ。まさかの事態に、親戚たちはタオルを持ってきたり、弟を止めたりで大騒ぎ。私はこの瞬間、我慢して張り詰めていた糸が、プツンと切れた。
「ああ、そう。じゃあ、そこまで言うなら、あんたら家族とは絶縁で」
冷たく言い放つと、弟は「え、負け惜しみ? マジでそういうの無理。意味不明」と、むかつく口調で挑発してくる。大人な対応をしようと少しでも考えていた私が馬鹿だった。このような非常識な人に正論は通じない。こちらの気遣いだって、全て無駄になる。だからふっと一つため息をついた後、私は祖母にこう言った。
「おばあちゃん、見ての通り、私とこの人たちは縁を切って家族じゃないの。だから今日用意していた松茸、あの二人には振る舞わないで」
そう言うと、弟は急に立ち上がり、大激怒した。
「はあ? 何言ってんだよ。あれは爺さんの山で取れた松茸で、お前に勝手にできる権限なんてねえだろ!」
見ての通り、弟はうちの山で取れた松茸が大好物なのだ。幼い頃から食べ続けてきた味だが、それでも飽きないぐらい絶品なのだ。毎年、祖父母と親戚の一部で松茸狩りに行って、この時期みんなに宴会で振る舞っていた。もちろん私も参加したことがある。しかし、祖父の名義だった山は、今は祖父のものではない。
「あの松茸が取れる山、三つとも全部、私がおじいちゃんから相続したのよ。もちろん、おじいちゃんの正式な遺言書があったから正当な相続でね。今年は私も松茸狩りに行ったし、私が決めるってことでいいわよね」
にやりと笑うと、弟は驚いて、間抜けな顔をして固まった。弟も祖父が松茸の取れる山を三つ所有していたのは知っている。当然、祖母か両親が相続したものだと思い込んでいたようだが、実は私がもらっていたのだ。
というのも、祖母は最近腰が悪くて山に登れない。父も登山や山菜取りは下手だし、母は相続には関係ないが汚れ仕事が大嫌い。だから、祖父は自分が亡くなった後のことを考え、松茸狩りに来たことがある私を相続人として指定したのだろう。まあ、生前からそのような話を聞いていたので、改めて遺言書を見た時も、そこまで驚きはしなかった。
「うちの松茸、結構絶品なのはあんたが一番よく分かってるわよね。今年も豊作で、お得意様や市場に売りに出して、一山あたりざっと60万の収入よ」
わざと弟に聞こえるようにして言うと、弟は悔しそうに顔を歪めた。しかし弟は言った。
「あ、だから何? あんた、ただの事務で大した給料もないから、お小遣い程度にはなるけど、別に自慢できるようなことじゃないし」
きっと都会育ちのこのお嬢さんには、松茸がどれだけの価値を持っているのか想像もつかないのだろう。そして働いたことがないと聞いていたため、お金のありがたさも分かっていない様子だ。
「あなたにとってはただのものかもしれないけど、分からないならそれでいいわ。とにかく、『観総裁以外関わるな』って言ったのはそっちだし、帰ってくれない? 今日は観総裁じゃないし、私とおばあちゃんがこの宴会仕切ってるから」
そう言うと、周りがざわつき始めた。親戚の一人が、どうしてこんなにギスギスしているのかと聞いてきたため、私が話そうとすると、祖母がみんなに説明してくれた。祖父の葬儀での出来事や、葬儀から間もない時に遺産をよこせと言ってきたこと、そして私に対して放ったひどい言葉の数々。それを聞いた親戚たちは、みんなドン引きした顔で弟夫婦を見た。
さすがにこれには堪えたようで、弟は罰が悪そうに顔を赤らめる。しかし弟嫁だけはまだ懲りていなかったようで、私の方を見たかと思うと、大きく振りかぶって、頬を殴ってきた。あまりの衝撃によろけた私は、近くにいた人に助けてもらう。
「あ、すみません」
そう言って振り返ると、見覚えのある顔だったので驚いた。
「え、お兄ちゃん?」
なんとそこにいたのは、家を出て以来、一切顔を合わせていなかった兄なのだ。そしてその横には、ニコニコ笑っている上品な女性。どういうことなのかと思っていると、どうやら兄の婚約者だそうで、親戚への挨拶も兼ねて今日、寄越したそうだ。
私が驚いたのは、兄の見た目だ。出ていく時は金髪にピアスをじゃらじゃらつけて、ものすごく怖い風貌だったのだが、今は黒髪に清潔感のある髪型、そしてピアスはない。驚いていると、兄の横にいた婚約者の美鈴さんが、笑顔のまま弟嫁に近づき、
「殴るなら、殴られる覚悟も持ちな」
と言って、思いっきり平手打ちをかました。ものすごい盛大な音が響いたため、周りから「おお」という声が漏れる。すると弟は涙目になって大声で叫んだ。
「何よあんた! ババーのくせに、若い子殴って最低! 最終的には傷害罪で訴えてやるからな!」
自分から私を殴っておいて、やられたら訴えるだなんて、どれだけ脳内お花畑なのだろう。すると美鈴さんは表情一つ変えないまま、さも当たり前のように言い放った。
「ちょっと黙ってくれる? この場にそぐわない行動を慎むべきだし、騒ぐなら動物園に帰って。ここは秋の収穫を祝う場であって、あなたたちの独壇場じゃないのよ」
すると「動物園」という言葉が誰かのツボに入ってしまったのか、一人の笑いが伝染してみんなが大笑い。先ほど手を叩いて下品に笑っていた姿だって、野生の猿でもしない。私も少し想像した瞬間、笑いが込み上げてきた。すると弟嫁は真っ赤になり、「ひどい! 私の旦那なら私を守ってよ!」と泣きながら弟にすがりつく。しかし弟としても、この場で嫁を守ったところで自分の立場が悪くなると分かっているのか、「いや、美佳も言いすぎだよ。謝れば…」と泣くような声で言った。そして私の方にちらっと目をやると、「姉ちゃん、言いすぎた。ごめん」と、居心地悪そうに謝罪した。
弟は私のことをすごく見下していたが、兄のことは過去に悪さをした際、かなりきつく絞められて以来、かなり怖がっている。そんな兄がまさかこの場にいるものだから、余計に反論できないのだろう。情けなったらありゃしない。
すると完全に味方を失ってしまった弟は、「絶対許さない! ここにいる人たちを証人にして、あんたを訴えるんだから!」と、美鈴さんを指さして言った。何を言っているのか分からないが、この場で弟を擁護しようとする人なんていない。それに、訴えたいのはこちらの方だ。受け止めてくれた兄にお礼を言って、私は弟に近づいた。私の顔を見て、弟は「ひっ」と小さく漏らす。
「あなたの長いネイルのせいで、こんな傷ができたんですよ。ほら、血が出て。これこそ傷害だし、ちゃんと治療費出してくださいよ。もちろん、ビールをかけて汚したこの服のクリーニング代も」
私がそう言うと、弟は黙り込んだ。都合が悪くなると何も言わなくなるタイプか。とにかく、この状況は弟夫婦にとって四面楚歌だ。結局、居心地が悪くなったのか、弟は「わ、悪い。ちょっと用事が」と言って出ていき、弟嫁も慌てて追いかけて出ていった。
一瞬静まり返った宴会場だったが、「ほら、皆さん、せっかくのお料理が冷めてしまいますよ。松茸も今年のはより一層美味しいですし、食べましょう」と私が明るく言うと、みんな元通りの賑やかな空気に戻った。その後は美味しい料理を囲みつつ、美鈴さんに話を聞くことに。どうやら彼女は警察官をしていて、悪さをしていた兄を職務質問したことがきっかけで知り合ったらしい。通りで兄が突然丸くなったと思ったら、こういう背景があったとは。しばらくうちに顔を出さなかったのも、今まで散々迷惑をかけたこともあり気まずかったそうだ。しかも今回、美鈴さんと結婚することになり、祖父も亡くなってしまったこともあって、帰省を決意したそうだ。
みんな最初は兄の変わりように驚いていたが、「今の方がかっこいい」「兄さんはいいな」と、楽しそうに会話に花を咲かせている。気づいたら、みんな弟夫婦のことなんて忘れて、火が消えるまで楽しい時間を過ごした。
その後、私は弟嫁に怪我をさせられた件について、治療費と服のクリーニング代を請求した。不機嫌になった弟嫁は「美鈴さんに殴られたから訴える」とかなんとか言っていたらしいが、弟が「恥ずかしいからやめろ」と言って止め、何事もないまま終わったそうだ。美鈴さんも、自分が警察官という立場にあるにも関わらず、私の代わりにやり返してくれた。
「改めて、結婚式でお礼を言うね」
私がそう言うと、美鈴さんは笑って言った。
「いいのよ。私、あれぐらいしかできないし。それに、血を流すほどひどく殴られたのに何もなしじゃ、あなたが可哀想でしょ」
初対面から思っていたが、美鈴さんは人と打ち解けるのがとても早い。あの宴会の日も、全員が初対面だったはずなのに、まるで最初から家族だったかのような振る舞いをしていて、びっくりした。むしろ、兄が他人に見えたほどだ。そういう性格だからか、周りの人も正義感が強くて真っ直ぐな方が多い。兄にはもったいないお嫁さんだと思う。
そんな兄の結婚式で、列席していた美鈴さんの友人である消防士の方が、私に一目惚れしたと言って連絡先を交換してきた。今は結婚前提でお付き合いをし、近々婚約する予定だ。彼は消防士ということもあって忙しい人だが、私は一人の時間も欲しいタイプなので、今のところ順調に関係を続けている。もちろん、祖母や親戚一同とも仲は良好。兄とも関係を修復した。両親は弟のことを甘やかしすぎたと親戚一同からお叱りを受け、以前までしていた仕送りを打ち切ったとか。そのせいで弟夫婦は貧困に陥り、住んでいた高級マンションからボロボロのアパートに引っ越し、今は激安スーパーのタイムセールで戦いを繰り広げているらしい。その弟の姿を見ると、もう少し自分たちを見つめ直して反省してほしいと思った。
まあ、弟嫁が浮気をし、それが原因で喧嘩をして離婚協議中というのを聞いたので、二人の幸せもそう長くは続かないだろうが。家族を蔑ろにする人には、いいことなんて一つもない。そう思わされる出来事だった。
