秋の夜、ATMの画面を見た瞬間、全身の血が引くのを感じた。残高は一万二千円。老後のために三十年かけて貯めてきた八百万円以上が、跡形もなく消えていた。夫はソファで新聞を読んでいた。私が「ただいま」と言っても、目を上げもしない。毎朝五時半に起き、お茶を淹れ、梅干しを小皿に置く。それを三十年間続けてきた妻が、今、口座の前に立っている。「お前、何をそんなにうろたえてるんや」夫の声が聞こえた気がしたが…

秋の夜、ATMの画面を見た瞬間、全身の血が引くのを感じた。残高は一万二千円。老後のために三十年かけて貯めてきた八百万円以上が、跡形もなく消えていた。夫はソファで新聞を読んでいた。私が「ただいま」と言っても、目を上げもしない。毎朝五時半に起き、お茶を淹れ、梅干しを小皿に置く。それを三十年間続けてきた妻が、今、口座の前に立っている。「お前、何をそんなにうろたえてるんや」夫の声が聞こえた気がしたが...

秋の夜、ATMの画面に映し出された数字を見た瞬間、三十年間積み上げてきた信念が音もなく崩れ落ちた。残高は一万二千円。老後のために二人で貯めてきた八百万円以上が、消えていた。

大阪府の外れにある古い団地、三号棟三〇四号室。月千は六十六歳。夫の広信と二人で暮らしていた。毎朝五時半に起き、夜間用水を入れ、布巾でテーブルを拭く。それを三十年間、一度も欠かしたことはなかった。それが出来た妻というものだと信じていたからだ。

夫は七時頃まで起きてこない。退職して二年、生活のリズムは緩やかに遅くなる一方だった。それでも千は夫より先に起き、緑茶を淹れ、小皿に梅干しを一粒置いておく。誰かに強いられているわけでもない。ただ、そういうものだと思ってきた。

千は区役所で非常勤として働いていた。高齢者のマイナンバーカード申請や行政手続きのデジタル化を補助する仕事だ。自分自身も高齢者と呼ばれる年齢に差しかかっているのに、さらに年上の人たちに画面のタップの仕方を教える毎日だった。

その日もいつも通り仕事を終え、駅前のATMに立ち寄った。今月の生活費を引き出すためだ。夫の厚生年金口座から、生活費として月五万円を引き出す。それが二人の取り決めだった。食費、光熱費、日用品。すべてその五万円でやりくりし、残りは老後の蓄えとして手をつけない。千はそれを厳守してきた。

カードを挿入し、暗証番号を押し、金額を入力した。機械の内部でローラーが動く音がした。しかし紙幣は出てこなかった。代わりに画面に赤い文字が浮かんだ。

「残高不足」

何かの間違いだと思った。操作をやり直しても、同じ結果だった。三度目の試みの後、残高照会を選んだ。一万二千円と表示された。後ろには人が並んでいた。千はカードを抜き、ATMコーナーを出た。

老後の貯蓄は八百万円以上あるはずだった。結婚してから三十年、千はずっと働き続けてきた。子どもはいなかった。それについては広信は何も言わなかったが、食卓で会話が自然に途切れる瞬間、彼の視線に漂う諦めのようなものを、千はずっと感じていた。だから余計に、自分の存在価値を証明するように働いてきた。

帰宅すると、広信はソファで新聞を読んでいた。テレビは低い音量でニュースを流している。千が「ただいま」と言っても、彼は目を上げなかった。それが普通の家だった。

台所に立ち、夕食の準備を始めた。残り少ない大根と半端な豆腐、先週買った油揚げ。味噌汁と煮物で十分だと思った。包丁を入れるたび、まな板に乾いた音が響く。いつもより力が入っていた。頭の中では、あの赤い文字がちらついていた。

今月、自治会の積立金が三万円必要だ。それすら払えるか分からない。自分のパート収入は月七万円弱。そこから保険料と交通費を引けば五万五千円ほど。今まではそれに夫の口座から引き出す五万円を加えてやりくりしてきた。しかし、もうその五万円はない。食費だけで月三万円は超える。光熱費が一万五千円。すべてを足せば、五万五千円など一瞬で消える。

味噌汁の豆腐を鍋に落としながら、昼間に窓口へ来た老人のことを思い出した。生活保護の申請書類の書き方を教えてほしいと、声を絞り出すように言ってきた男。手は震えていた。書類を受け取る時、彼は「すみません、本当にすみません」と何度も言った。今、台所で味噌汁をかき混ぜながら、あの男の目と自分の目が重なるような気がして、思わず手を止めた。

夕食の間、二人は黙っていた。箸の音とテレビの音だけが部屋に響く。千はどのタイミングで金のことを切り出すべきか考えていた。しかし、考えるほど言葉が出てこなかった。三十年間、家のお金のことで夫に直接尋ねたことはほとんどなかった。広信が管理していた。それが当然だと思っていた。

夜の九時を過ぎ、広信が風呂に入り、十時には寝室の電気が消えた。すぐに規則正しい鼾が聞こえてきた。千はダイニングの椅子に座ったまま、ただそこにいた。三十年間のことが断片的に浮かんでは消えた。

義父が倒れた時、千は仕事をやめて三年間介護した。義母が施設に入った時、手続きのすべてを取り仕切ったのも千だった。広信には仕事があった。仕方ないことだと思った。二人が亡くなった後、広信は「ご苦労だった」と一言だけ言った。千はその言葉を十分だと受け止めた。

十一時を回った。廊下の向こうから、まだ鼾が聞こえていた。千は立ち上がった。足音を立てないように廊下を歩き、広信の書斎のドアの前に立った。この部屋に入ることはほとんどなかった。暗黙の領分だった。一瞬躊躇してから、ゆっくりとノブを回した。

机の一番下の引き出しに、古い葉巻きの箱があった。広信は若い頃、たまに吸っていた。引退してからはやめたと言っていた。その箱の中には葉巻きはなく、代わりに折りたたまれた紙が何枚も重なっていた。銀行の振込明細書だった。差出人は広信。受取人は「広直樹」とあった。金額は十五万円。日付は二年前の八月。もう一枚広げた。十二万円。さらに一枚。二十万円。全部で十七枚。最も古いもので二年八か月前、最も新しいもので四か月前。合計は八百四十万円を超えていた。

老後のために二人で積み上げてきた貯蓄は、すべてこの紙切れの束の中に消えていた。

広直樹。その名前を最後に聞いたのは何年前だったか。広信が最初の結婚で生まれた息子だという話は、付き合い始めた頃に一度だけ聞いた。離婚後、息子は母親に引き取られ、その後は音信不通になったと広信は言っていた。千と結婚してからの三十年間、直樹が家を訪ねてきたことは一度もなかった。電話すら、なかった。そういう男に、二年間で八百万以上が送られていた。

千は明細書を元通りに箱に戻した。引き出しを閉め、電気を消し、ドアを静かに引いた。廊下に出ると足が動かなかった。壁に手をついて、しばらくそこに立っていた。怒りが来ると思っていた。しかし来たのは怒りではなかった。もっと静かで重いもの。三十年という時間の重さが、急に体の芯に響いてきた感覚だった。

リビングに戻り、千は小さな手帳を取り出した。毎月の支出を記録している手帳。最初のページを開き、ペンを持った。しかし何も書けなかった。書くべき数字が、もう意味を持たなかった。

翌朝、千は五時半に目を覚ました。昨夜のことを夢に見たのか、起き抜けには分からなかった。隣で広信がいつも通りの規則正しい呼吸を立てている。千はそっと起き上がり、台所へ行った。夜間用水を入れ、ガスに火をつけた。布巾でテーブルを拭いた。橋から橋まで丁寧に。体が動きを覚えていた。そういうものに頼るしかない朝だった。

自分の分の茶は入れなかった。食欲がなかった。水を一杯だけ飲んで、着替えを始めた。頭の中に浮かぶのは、昨夜の明細書に印字された数字の羅列だった。十五万円、十二万円、二十万円。振込手数料百五十四円。八百四十万円。その数字は、千が三十年間どれほど節約してきたかを知る者にとって、計り知れない重みを持っていた。夏でも冷房は二十八度に設定し、シャンプーは詰め替えを必ず買い、スーパーの広告を比べて二件回ることもあった。貧しいからではなく、老後が怖かったからだ。その積み上げが、今はない。

朝のニュースが流れる中、広信が新聞をめくる。二人の間に会話はなかった。いつものことだった。しかし今朝、その沈黙は千の耳に違う音として届いた。何も気づいていない人間の、空虚な沈黙だった。

区役所に着き、窓口に座る。午前十一時過ぎ、少し来客が途切れた時間帯に、隣の席の田中さんが封筒を差し出してきた。「書類担当の方から預かりました。これ、月さん宛てで」

封筒には大阪市税務局の印が押してあった。千は封筒を膝に置いたまま、しばらく開けることをためらった。税務局からの知らせは、大抵いい話ではない。切れ目を切り開き、折りたたまれた紙を広げた。

市民税未納に関するお知らせ。広信の住民税が昨年度分から滞納しているという内容だった。督促が複数回送られているが応答がないため、同一世帯の構成員として千の名前が連帯通知対象に含まれている。このまま納入がない場合、財産の差し押さえを含む処分に移行する可能性があると書いてあった。

顔から血が引いていくのを感じた。広信は年金の貯蓄だけでなく、住民税まで払わずにいたのだ。そのお金もまた、どこかへ消えていた。

帰宅したのは午後三時過ぎ。広信はソファで横になり、テレビを見ていた。千が入ってきても顔も向けない。夕方五時を過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。自治会の組長を務める谷口さんだった。今月の積立金の集金に来たのだ。

千は「今週末にご用意してお持ちします」と言った。谷口さんは「それではよろしくお願いします」と帰りかけて、ふと振り返った。「そういえば、お向かいの松岡さんが引っ越されたの、聞きました?」「もう家賃が払えなくなったみたいで。ご主人が病気になられてから、なかなか大変だったみたいですよ」千は「そうでしたか」と相槌を打つことしかできなかった。

リビングに戻ると、広信はテレビを見ながら煎餅を食べていた。千はバッグから封筒を取り出し、机の上に置いた。広信の視界に入るように。「なんだそれ」と広信は言った。「市民税の未納についてのお知らせです。私の名前まで記されていました」

広信は「ああ」とだけ言った。千は続けた。「どういうことか、説明してもらえますか?」広信はテレビの音量を少し上げた。「難しいことになってる。整理してるとこや」視線はテレビに戻っていた。千の口から出かけた言葉があった。昨夜見つけた明細書のこと。直樹という名前のこと。八百万円が消えていたこと。しかしそれらはすべて唇の内側で止まった。言ってしまえば、もう引き返せなくなる。

夜九時を少し過ぎた頃、固定電話が鳴った。広信が出た。「ああ、そうか」と一言。少し間が空き、「分かった」と言って受話器を置いた。それから足音が廊下を移動し、玄関の方へ向かった。「ちょっと出てくる」と広信は言った。「今からですか」「用事がある」

ドアが閉まる音がした。千はしばらく手帳の前に座っていた。それから立ち上がり、コートを手に取った。自分でもなぜそうしようとしているのか、言葉にはできなかった。ただ体が動いていた。

夜のアーケードを抜け、広信は駅前のコンビニエンスストアの前に立った。ATMがあった。広信は財布からカードを取り出し、機械を操作した。千は十メートルほど後ろで、コンビニの壁際に立っていた。操作の時間は短かった。広信は紙幣を受け取り、財布に入れた。レシートをコートのポケットにしまい、スマートフォンを取り出した。短い通話をして、電話を切った。

千はとっさにコンビニの出入り口の影に隠れた。広信が通り過ぎていく。コートの襟を立てた後ろ姿。足取りが、来た時よりわずかに軽い気がした。背中が遠ざかり、アーケードの中へ消えていく。

千はATMの前に立った。機械には、広信が操作した痕跡など何も残っていなかった。千は先週、広信に「銀行の手数料が変わったか確認してやる」と言われ、自分のカードを預けたことを思い出した。そのカードはまだ返ってきていなかった。さっき広信が操作していたカードは、千が抱えている自分のカードのものと同じだった。財布の中を確認した。やはり、ない。

翌朝、千は自分の通帳を手にATMへ向かった。通帳を機械に差し込み、記帳を開始した。最後の記帳から三週間。その間の履歴が細かい字で並んでいた。光熱費の引き落とし、通信費の引き落とし。そして、十日前の日付で振り込みの記録があった。引き出しではなく、振り込み。金額は二十八万円。受取人名は印字されていなかった。千の口座に残っていたのは、本来三十二万円ほど。それが今、四万三千円になっていた。

二十八万円。千が春から少しずつ積み立ててきたお金だった。パートの収入から毎月二万円ずつ、出に備えて取っておいたものだった。広信に見ておいてやると言われて預けたカードで、千名義の口座から二十八万円が振り込まれていた。誰へとは書いていない。しかし千には分かった。広直樹だ。

その日、夕食の席で千は切り出した。「今日、通帳を記帳してきました」「十日前に私の口座から二十八万円の振り込みが出ていました」広信の箸が止まった。「生活費や。ちょっと色々いる医療やったんや」口元が歪んだ。「生活費にしては多すぎます。それに私は生活費を自分で管理しています」「細かいことは後で話す」視線は魚の皿に落ちていた。「カードを返してください」「どこに置いたか忘れた。明日探す」「明日ではなく、今日の話をしています」

広信がゆっくりと顔を上げた。食事の最中に千の顔を見ることは、普段ほとんどなかった。その目に千が何を期待していたのか。謝罪か、説明か、あるいはこれだけの年月を一緒に生きてきた人間としての誠実さか。広信の目には何もなかった。困惑でも怒りでもなく、ただ面倒くさそうな、投げやりな色があった。「うるさいな。飯の時に金の話をするな」

千は言葉が出なかった。翌日から、千は値引きシールが貼られる夜の時間帯にスーパーへ行くようになった。閉店二時間前、売れ残りの惣菜や弁当に半額のシールが貼られる。千はその時間帯に並ぶ老人たちの中に、自分が混じっていることに気づかないふりをした。ある夜、半額の弁当に手を伸ばした時、隣に立っていた白髪の女性と手が触れた。「ごめんなさいね」と相手は言い、弁当を手に取った。申し訳なさそうな顔をしていた。千は「どうぞ」とだけ言い、その場を離れた。目に何か熱いものが込み上げてきた。こんな場所で泣くわけにはいかなかった。

数日後、千は区役所の仕事が終わった後、求人掲示板の前に立った。清掃スタッフ、週三日から、時給九百五十円から。千は電話番号をメモした。面接の日、千は紺色のブラウスを着て、家から四つ先の駅のそばにある老人保健施設を訪れた。担当者は四十代の男性で、「ご家族の理解は得られていますか? 夜間の勤務になりますので」と聞いた。千はほんの一瞬だけ間を置いて、「問題ありません」と答えた。

翌週から千の二重生活が始まった。区役所で午前中から働き、家に戻って夕食を作り、広信と無言のまま食べ、夜八時から十一時まで施設で清掃をする。区民センターで市民講座に通っていることにした。広信は「また作道か」と一度だけ言った。千は「ええ」と答えた。それだけだった。

夜の施設は静かだった。利用者の多くは寝ており、廊下には静寂が満ちていた。トイレの清掃は最初から難しかった。洗剤で手が荒れ、右手の人差し指と中指の付け根が赤くなった。百円ショップでゴム手袋を買った。少し高いものを選んだ。それだけでも変わった。

三週間が経った。清掃の仕事にも慣れてきた。中村班長が「だいぶ早くなりましたね」と言った。帰りの電車で千は今月の収入を計算した。区役所のパートと清掃を合わせて、八万五千円ほどになる見込みだった。そこから税金と交通費を引いても六万円以上が手元に残る。自治会費の三万円を払っても、まだ残る。来月の光熱費の引き落としにも、どうにか間に合う。足りない。しかし、一か月前よりはましだった。

ある夜、仕事を終えて施設を出ると、雨が降っていた。傘を持っていなかった。玄関の庇の下でしばらく雨を見ていた。十月の終わりの雨は冷たかった。体はもう十分に疲れていた。今夜は走る気力もなかった。こういう時間が一番、いろんなことを考えてしまう。広信は今夜、何をしていたのだろう。千が夜に出かけるようになってから、彼は一度も何時に帰るとも、何を習っているのかとも聞かなかった。それが当然だった。広信にとって千の行動は、関心の外にあった。

翌朝、自治会費の集金の日だった。千は三万円を封筒に入れて用意していた。清掃の仕事の初給料の一部を、そこに当てた。谷口さんは受け取り、「ありがとうございます。大変な時期に申し訳ありませんね」と言った。千は一瞬、固まった。「いえ、そんなことは」谷口さんは続けた。「この団地も高齢化が進んで、皆さん年金だけじゃしんどいと言ってますから。月さんも何かとご苦労がおありでしょうに」千は笑顔を作った。「なんとかやっています」

その週の土曜日、広信が外出から帰ってきて、千の名前を呼んだ。珍しいことだった。スーパーの袋を机の上に置いた。缶ビールと乾き物の入った袋だった。「買うてきた」と言う。広信は少し照れたような、しかし素直に照れを見せないような、そういう顔をしていた。あの夜の言葉が蘇った。子どもを産めなかった。感謝こそすれ。缶ビールと乾き物が、それらの言葉のすべてに対する返答なのだとしたら、この男はそれがどういうものかを分かっていない。分かっていないから、何事もなかったかのように缶ビールを買って帰ってきて、少し機嫌よく座っていられる。千は「ありがとうございます」と言った。感情のない声だったかもしれない。しかし、それ以外の言葉が出てこなかった。

その次の日曜日、雨が一日中降り続いた。千は朝から、広信と二人きりでこの部屋にいなければならなかった。朝、梅干しを小皿に置こうとして、やめた。別に理由があったわけではなかった。ただ、今日は置きになれなかった。それだけだった。昼前、広信がソファで昼寝をしている間に、千は自分の寝室の引き出しを開けた。奥の方に小さな封筒があった。二週間前から用意していたものだった。離婚届の用紙が一枚、入っていた。勤務先の区役所の書類コーナーから持ち帰ったものだ。自分の名前の欄には、すでに記入してあった。先週の夜、広信が眠った後に書いた。手は震えなかった。そのことに、書きながら少し驚いた。

雨が続く午後、千は夕食の支度をしながら、今夜こそ話をしようと思った。もう一度だけ、最後に。お金のことではなく、これからどうするかを、はっきりと言葉にしよう。

夕食の途中、千は箸を置いた。「広信さん」「少し話を聞いてください」広信は豆腐を口に入れながら、顔を少し上げた。「先日言われたことについて、ずっと考えていました。私が無子であること。子どもを産めなかったこと。広信さんの家族と私は違うこと。それは、その通りだと思います」広信は黙っていた。「ただ、私はこの三十年間、自分なりに誠実にやってきたつもりでした。生活のことも、ご両親のことも、お金のことも。それが広信さんの目にどう映っていたかは分かりません。でも、今はそれを確認する必要もないと思っています。私自身の生活と、私自身のこれからについては、私が決める必要があると思います」

広信は箸を置いた。「何が言いたいんや」声は低かった。怒りではなく、何かを測っているような声だった。千は立ち上がり、自分の寝室へ歩いた。引き出しから封筒を取り出し、リビングへ戻った。テーブルの上に封筒を置いた。広信の正面に向き直った。「離婚届です。私の分は記入してあります」広信は封筒を持ち上げ、中を開いた。一度ざっと見て、また千を見た。「本気か」「はい」

広信は紙をテーブルに戻し、椅子に深く座り直した。腕を組んだ。「お前、今更そんなことを言うて、どこへ行くつもりや。この年で、一人でどうするんや」「それは自分で考えます」「金もないのやろ。わしの口座も厳しいのを知っとるやろ。そんな状態でどうやって一人で生きていくんや」その言葉の中に、心配とは別のものが混ざっているのが聞こえた。お前には無理だという意味。だからここにいるしかないだろうという意味。「それは私の問題です」「お前が出ていって、わしの飯はどうするんや」

千は一瞬、沈黙した。三十年間の記憶が、一本の糸のように引き出された。義父の介護。義母の施設への手続き。毎朝の茶と梅干し。広信の誕生日に必ず作った煮物。退職の記念に二人で出かけた温泉。帰りの電車で広信が珍しく「今日は良かった」と言ったこと。そのすべてが、今、「わしの飯はどうするんや」という一言に収斂していた。「ご自分で考えてください」声が少し揺れた。揺れたが、続けた。「三十年間、ありがとうございました」

それだけ言って、千はリビングを出た。自分の寝室に入り、クローゼットを開けた。以前から少しずつ用意していたものがあった。着替えが三枚、下着が数組、通帳と印鑑、健康保険証、区役所の身分証。現金は清掃の仕事の給料が入った封筒から、必要最低限だけ抜いておいた。それを布にまとめて、バッグに入れた。厚手のコートに着替えた。廊下に出て、リビングを通ると、広信はまだ椅子に座っていた。テーブルの上に、離婚届が広げてあった。千は立ち止まった。広信が顔を上げた。二人は少しの間、黙って向かい合っていた。広信の顔に、これまで見たことのない表情があった。怒りでも軽蔑でもなかった。何かを言おうとして、言葉が出てこないような顔だった。「バカなことはやめろ。どこへ行く気や」千は広信に向かって、ゆっくりと体を折った。九十度の礼だった。区役所の窓口で初めて来る市民にする時と同じ、丁寧で完全に形式的な礼。「これまでお世話になりました。どうぞお元気で」

顔を上げた。広信は椅子から立ちかかっていた。「おい、千ず」「千ず」千は玄関へ向かった。靴を履いた。「おい、待て。いつ帰ってくるんや」千はドアを開けた。振り返らなかった。「帰りません」ドアを閉めた。閉まる音は小さかった。力を込めたわけではなかった。ただ手を離しただけだった。静かな、しかし確実な音だった。

廊下に出ると、冷たい空気が顔に当たった。雨の匂いがした。廊下の蛍光灯が一本切れていた。薄暗い廊下の端に、千は一人で立っていた。エレベーターのボタンを押し、壁に背をつけて待った。ドアの向こうから広信が何かを言う声が聞こえた気がした。しかしはっきりとは聞こえなかった。エレベーターが来た。乗り込み、一階のボタンを押した。自動ドアを抜けると、外は本格的な雨だった。傘を持ってこなかったことに気づいたが、戻る気にはなれなかった。千は雨の中を歩き始めた。コートの肩が濡れた。髪が額に張り付いた。それでも歩いた。急ぐことも、小走りになることもなかった。団地の門を出た。振り返らなかった。

商店街のアーケードまで来ると、雨はしのげた。アーケードの屋根に雨が当たる音が、金属的に響いていた。千はアーケードの中を歩きながら、今夜どこへ行くかを考えた。カプセルホテルが一番安かった。区役所の近くに一軒あるのを、仕事の帰りに看板で見て知っていた。女性専用のフロアがあると書いてあった。一泊三千円弱。財布の中の現金で数日はもつ。その後のことはその後に考える。今夜一晩の場所があれば、それで十分だった。

駅のホームに立つと、風が吹き込んでいた。雨の夜の駅は、どこか別の場所のようだった。ベンチには誰もいなかった。遠くで電車の音がした。千は布のバッグを胸の前で両手で抱え、線路を見ていた。六十六年間を振り返るつもりはなかった。そういう気分ではなかった。ただ、今夜の空気を体で感じていた。冷たい風。雨の匂い。濡れた肩。これが今の自分の正直な状態だった。区役所のパートは続けられる。清掃の仕事も続けられる。住む場所はしばらくカプセルホテルを使い、市営住宅の空きを探す。収入は月八万五千円前後。住居費を出せばかなり厳しいが、暮らせないではない。年金分割の請求もできるかもしれない。すべてがうまくいくとは思っていなかった。しかし、今夜ここを出たことは正しかったと思った。

電車が来た。ドアが開き、千は乗り込んだ。車内はガランとしていた。窓際の席に座った。ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き始めた。窓の外に、団地のある方角の町が流れていった。五階建ての古い建物が、雨の中にぼんやりと灯りをともしていた。どの部屋かはもう分からなかった。ただ、そこに何十年も人が暮らしてきた場所があると、それだけは分かった。千は窓から視線を外した。膝の上の布バッグを、両手で抱えていた。今夜自分がどこへ向かうかは決まっていた。しかし明日は決まっていなかった。来月も、来年も、決まっていなかった。六十六歳で、老後の蓄えもなく、夫もなく、子もなく、小さな布一つで電車に乗っている。おかしな状況だった。しかし不思議と、胸の中の空気はこの秋で一番軽かった。恐ろしいことはたくさんあった。お金のこと。住む場所のこと。体がいつまで続くかということ。それらはどこかへ消えたわけではなかった。まだそこにあった。それでも今夜は、それらが少し遠くにあるように感じられた。

電車が駅に止まった。ホームに降り、改札を出ると、雨はまだ降っていた。屋根のある通路を歩きながら、カプセルホテルの看板を探した。看板が見えた。雨の中を少しだけ早く歩いた。ビルの一階にフロントがあった。明るい照明と温かい空気があった。受付に若い男性のスタッフがいた。「一泊お願いします」女性専用フロアで、と伝えると、スタッフは手続きを始めた。案内された部屋はカプセル型の小さなスペースだった。幅一メートルほどの寝台と照明と小さな棚があるだけだった。千は布のバッグを棚の上に置き、濡れたコートを備え付けのハンガーにかけた。寝台に腰かけた。狭い空間だった。天井が低かった。しかし清潔で静かだった。

今夜初めて、自分一人の夜を過ごす。広信の鼾が聞こえない夜。梅干しを置くかどうかを考えなくていい夜。壁一枚の向こうに誰もいない夜。怖くなかった。怖くなかった、と言うと嘘になるかもしれない。ただ、怖さよりも別の何かの方が大きかった。千はバッグから通帳を取り出し、今の残高を確認した。清掃の給料が入った封筒の中身も確認した。今月使えるお金がいくらあるか。数字を頭の中で並べた。厳しかった。厳しいが、数字は確かにそこにあった。誰かに奪われる前の数字が。通帳をバッグに戻し、天井を見た。カプセルの天井は低く、白い板があるだけだった。千はそこに何かを見ようとはしなかった。ただ白い天井があった。それだけだった。

目を閉じた。電車の揺れの感覚がまだ体に残っていた。雨の音はここまでは聞こえなかった。隣のカプセルの誰かが寝返りを打つ音が、薄い壁を通して伝わってきた。千は息を一つ吐いた。長い息だった。肺の中に溜まっていたものが、少しだけ外へ出た気がした。三十年間の話はまだ終わっていなかった。お金のこと、住民税のこと、離婚の手続きのこと、何一つ解決していなかった。すべてが宙に浮いたまま、今夜が終わろうとしていた。しかし千はそのことを今夜は考えなかった。今夜だけは考えなかった。体が重くなっていくのを感じた。この秋で初めて、体が眠ることを許してくれているような気がした。雨の音は聞こえなかった。広信の鼾も聞こえなかった。誰も何も要求しない夜だった。千はそのまま眠った。

途中で一度目が覚めた。時計を確認すると午前三時だった。カプセルの中は暗く静かだった。天井が白かった。もう一度目を閉じた。今度はすぐに眠れた。

一方、三〇四号室では、広信は千が出ていった後、しばらく椅子に座っていた。テーブルの上に離婚届が置いてあった。千の名前と印鑑が、きれいな字で記されていた。広は紙を持ち上げてもう一度見て、それからテーブルに戻した。台所を見ると、夕食の皿がそのままになっていた。広は立ち上がり、台所へ歩いた。蛇口をひねり、皿を手に取った。どうすればいいか、すぐには分からなかった。洗剤がどこにあるか知らなかった。棚を開けると、洗剤の瓶があった。スポンジがシンクの脇にあった。広は皿を洗った。うまくはできなかった。洗剤をつけすぎて泡だらけになった。水で流すのに時間がかかった。千がいつも一分もかからずに終わらせていることが、随分手間だった。皿を棚に戻した。台所の電気を消した。リビングに戻ると、テレビがまだついていた。広は電源を切った。部屋が静かになった。テーブルの上に離婚届があった。広はそれを見た。千はもう帰ってこないと言った。そのことの意味を、広は少しずつ理解しようとしていた。ただ、それは簡単ではなかった。三十年間、千がいた。それが今夜、ない。明日の朝どうするか。コンビニが近くにある。そこで買えばいい。それだけのことだった。広は寝室へ歩き、布団を引いて横になった。千の布団は、そのままになっていた。広はそちらを見ないようにして目を閉じた。眠れなかった。暗い天井に向かって、しばらく目を開けていた。直樹はもう何週間も連絡がなかった。金を送るたびに「ありがとう」と短いメッセージが来て、それだけだった。広はそれでも待つつもりだった。血のつながった息子だから。その一点だけが、広の中で変わらないものとしてあった。しかし今夜初めて、その一点だけでは足りないものが何かあると、広はぼんやりと感じた。何が足りないのかは言葉にならなかった。ただ、部屋が静かすぎた。いつもなら隣の布団から千の寝息が聞こえていた。今夜は何も聞こえなかった。広はそのしじまの中で目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。

カプセルホテルの小さな部屋では、千が眠っていた。穏やかな寝息だった。窓のない部屋に朝が来ても、光は差し込まなかった。しかし千の体は、朝になれば自然に目を覚ます。それはこの先も変わらないだろう。目が覚めた時、今日の最初にすることは何か、まだ決まっていなかった。夜間用水に火をつけることではないかもしれない。誰かの湯のみに茶を注ぐことではないかもしれない。ただ、起き上がること。それだけが今夜の千に確かなことだった。雨がまだ降り続いていた。

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