夕食後の静かなリビングで、裕介が突然立ち上がった。私をまっすぐ見据えたその目は、かつて母を慕っていた息子のものではなかった。
「母さん、はっきり言わせてもらうよ。もう限界なんだ。母親なんて、俺たちの生活には邪魔でしかない」
隣に座っていた嫁の綾乃も冷たい視線を向けてきた。
「お母さん、私からもお願いします。この家から出て行ってください。今すぐに」
「綾乃の言う通りだ。母さんがいると家族みんなが生き苦しいんだよ。分かってくれるよね」
女手一つで必死に育ててきた息子から、まさかこんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。しかし私は涙を流さず、取り乱しもしなかった。むしろ静かに微笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。
「そう、分かったわ。あなたたちがそこまで言うなら」
私の意外な反応に、息子夫婦は一瞬戸惑いの表情を見せた。でもそれはほんの一瞬のことだった。私には、彼らがまだ知らない切り札があった。明日の朝、彼らは自分たちの愚かさを思い知ることになるだろう。
頭の中に、これまでの人生が走馬灯のように蘇ってきた。
三十八年前、夫が交通事故で突然この世を去った時、裕介はまだ生まれたばかりだった。生命保険はあったが、それだけでは将来が不安で、私は必死に働いた。小学校の教師として朝から晩まで働き、帰宅後は裕介の世話と家事に追われる毎日。それでも息子には不自由をさせたくないという一心で、大学までの教育費として総額二千万円を貯めた。就職が決まった時の裕介の笑顔は、今でも忘れられない。
五年前、裕介が綾乃と結婚する際には、貯金を取り崩して五百万円を結婚資金として渡した。「母さん、本当にありがとう」と言ってくれた息子の言葉が、今となっては虚しく響く。
三年前、私が定年退職すると同時に、息子夫婦から同居を持ちかけられた。「母さん一人じゃ心配だから」という優しい言葉に感動し、私は二つ返事で承諾した。現在、私は毎朝五時に起きて朝食の準備から始まり、掃除、洗濯、夕食の支度まで家事全般を一手に引き受けている。月十五万円の年金からは、毎月八万円を家計に入れている。残りの七万円で自分の生活費を賄い、さらに孫のお小遣いも捻出してきた。
これだけ尽くしてきたのに、邪魔者扱いされるとは。
でも実は、私には彼らが知らない秘密があった。夫の生命保険金を元手にコツコツと投資を続けてきた結果、今では三億円もの資産を築いていたのだ。
思い返せば、息子夫婦の態度が変わり始めたのは約三ヶ月前のことだった。
最初は些細なことから始まった。
「お母さん、この味噌汁、また同じ具ですね。もう少しバリエーションを考えていただけませんか?」
「あら、ごめんなさい。裕介が好きだと言っていたから」
「それは昔の話でしょう。今は私の好みも考慮してください」
その日から、綾乃の要求は日に日にエスカレートしていった。料理の味付けから始まり、掃除の仕方、洗濯物の畳み方まで、全てにケチをつけるようになった。
「お母さん、この服の畳み方違いますよ。私のやり方を覚えてくださいって何度も言ってますよね」
「申し訳ありません。気をつけます」
「本当に大丈夫ですか? 最近物忘れがひどくないですか? もしかして認知症の始まりじゃないですか?」
綾乃の言葉に私は言葉を失った。六十五歳という年齢は確かに若くはないが、認知症になる兆候は全くない。しかし裕介は妻の肩を持つばかりだった。
「母さん、綾乃の言うことも一理あるよ。最近同じ話を繰り返すことが多いし」
「裕介、私はまだボケてなんかいませんよ」
「でも年のため、病院で検査を受けた方がいいんじゃない?」
息子の言葉に深い失望を感じた。私が彼らの生活を支えているという現実を、二人は全く理解していないようだった。
さらに状況は悪化していった。二ヶ月前、孫の誕生日会での出来事。私が心を込めて作ったケーキを見て、綾乃は露骨に嫌な顔をした。
「お母さん、こんな古臭いデコレーション、今時流行りませんよ。子供が恥ずかしい思いをするじゃないですか」
「でも去年は喜んでくれたから」
「去年は去年です。時代についていけないなら手を出さないでください」
その言葉を聞いて、五歳の孫までが言った。
「おばあちゃんのケーキ、ダサい」
子供の無邪気な言葉ほど残酷なものはない。私は台所に逃げ込み、涙をこらえた。
一ヶ月前には、綾乃が信じられない要求をしてきた。
「お母さん、申し上げにくいんですけど、体臭が気になるんです。もっと頻繁にお風呂に入っていただけませんか?」
「毎日入っていますけど」
「それでも匂うんです。加齢臭というやつでしょうか? 孫にも悪影響です」
このような屈辱的な言葉を、毎日のように浴びせられた。食べ方の音がうるさい、孫の教育に良くない、と。裕介も完全に妻の味方だった。
「母さん、綾乃が言うことは正しいよ。もう少し気を配ってくれる?」
「裕介、私は何か悪いことをしましたか? 朝から晩まで家事をして、お金も入れて」
「それは感謝してるよ。でも時代が違うんだ。母さんの価値観は古すぎる」
先週、ついに綾乃が決定的な一言を放った。私が孫と遊んでいると、「ちょっと汚い手で触らないでください」と言ったのだ。
「汚い手は洗っていますよ」
「でもお母さんの手はなんか不潔な感じがするんです。バイ菌とか心配で」
そして昨日、裕介が私に告げた。
「母さん、実は綾乃がストレスで体調を崩してるんだ。医者にもストレスの原因を取り除かないとまずいって言われた」
「ストレスの原因って……」
「母さんだよ。母さんがいることが綾乃にとって大きなストレスなんだ。だから別居を考えて欲しい。母さんのためでもあるんだ」
「私のため?」
「そう。母さんも一人の方が気楽でしょう」
裕介の言葉は、まるで他人事のように冷たく響いた。息子は完全に私を家から追い出すつもりなのだと悟った。
今朝になって、綾乃が最後通告を突きつけてきた。
「お母さん、はっきり言います。私たち家族の幸せのために出て行ってください」
「家族……私は家族じゃないということですか?」
「血は繋がってても、一緒に暮らすのは無理なんです。分かってください」
そして今夜、ついに息子が「母親なんて邪魔なだけ」という言葉を口にしたのだ。
三ヶ月かけてじわじわと私の居場所を奪い、最後は息子自身が引導を渡す。何という残酷な仕打ちだろうか。
でも私は微笑みを浮かべた。なぜなら、この瞬間を待っていたからだ。彼らが私を完全に拒絶したその瞬間、私も遠慮なく行動できる。もう母親としての情けは必要ない。
私は深く息を吸い込み、最後の確認をした。
「裕介、綾乃さん、もう一度だけ聞きます。本当に私を家族から切り離すのですね」
「何度も言わせないでください。はい、そうです」
「分かりました。あなたたちの望み通りにしましょう」
私の落ち着いた返答に、二人は戸惑いの表情を浮かべた。きっと私が泣き叫んだり、すがったりすると思っていたのだろう。でも私の心は、不思議なほど穏やかだった。なぜならこの瞬間、私の中で何かが完全に吹っ切れたからだ。
「ところで、一つだけ聞きたいことがあるの」私は二人の顔を交互に見つめた。「この家、誰の名義か知っていますか?」
裕介が眉をひそめた。
「は? 何を今更。俺の家に決まってるだろ? 俺が住宅ローンを払ってるんだから」
「あなたが払っているのは住宅ローンの一部だけよ。月々八万円でしたっけ?」
「それがどうした?」
「この家の購入価格は六千万円。あなたたちが組んだローンは二千万円。残りの四千万円は誰が払ったか覚えていますか?」
綾乃の顔色が少し変わった。
「それは……お母さんが援助してくれたって」
「援助? 違いますよ。私が購入したんです。つまりこの家の三分の二は私の所有物。権利書を確認してみてください」
「何を言ってるんだ? この家は俺たちのものだ」
「法的には、私が三分の二の所有権を持っています。しかも土地は百パーセント私の名義です」
「嘘だ!」
「嘘だと思うなら、明日法務局で確認してください。いえ、その必要もありませんね。明日の朝、私の弁護士から正式な書類が届きますから」
二人の顔が青ざめていくのが分かった。
「弁護士? 何の話だ?」
「実は前から準備していたんです。あなたたちの態度が変わった時から、いつかこの日が来ると思っていました」
私はバッグから一枚の名刺を取り出した。
「不動産関係に強い弁護士さんです。すでに相談は済んでいます」
「何をするつもりですか?」綾乃が枯れ声で聞いた。
「簡単なことです。私の所有物を、私の自由にするだけです」
「まさか……家を売るとか?」
「それも選択肢の一つですね。共有物分割請求という方法もあります。私の持ち分だけを売却することもできますし、あなたたちに買い取ってもらうこともできます」
「待てよ! そんなお金ないよ」裕介が必死に言った。
「でしょうね。でもそれは私の知ったことではありません。だって私はもう家族じゃないんでしょう?」
二人は絶句した。
「それから、もう一つお知らせがあります」私は別の封筒を取り出した。「これは私の預金通帳のコピーです。残高を見てください」
裕介が震える手で封筒を開き、中を見た瞬間、目を見開いた。
「三億……三億円!?」
「はい。お父さんの生命保険金を元手に、三十八年間投資を続けた結果です」
「そんな……聞いてない」
「聞かれなかったから言わなかっただけです。それに、あなたたちには関係のないお金ですし」
「関係ない? 母さん、俺は息子だぞ!」裕介が叫んだ。
「さっき自分で言ったじゃないですか。もう家族じゃないって。家族じゃない人に財産の話をする必要はありませんよね」
「それは……その時は……」
「それから、遺言書も書き換えました。全て事前団体に寄付することにしています。あなたには一円も残しません」
裕介の顔が真っ青になった。
「母さん、冗談だろ?」
「冗談に聞こえますか?」
私は立ち上がり、部屋を出ようとした。
「待って! 話し合おう!」綾乃が慌てて呼び止めた。
「話し合う? もう遅いです。あなたたちが決めたことです。私を邪魔者扱いし、家から追い出すと決めたのはあなたたちです」
私は最後に振り返り、意味深な笑みを浮かべた。
「今夜はぐっすり眠れるといいですね。明日からは、眠れない日々が続くでしょうから」
そう言い残して、私は自分の部屋へ向かった。背後から息子夫婦の慌てふためく声が聞こえてきたが、もう私には関係のないことだった。
翌朝八時、インターホンが鳴り響いた。私はすでに身支度を整え、リビングでコーヒーを飲んでいた。息子夫婦は一睡もできなかったようで、疲弊した顔で玄関に向かった。
「柴山法律事務所のものです。成瀬裕介様、綾乃様に書類をお届けに参りました」
裕介が震える手で書類を受け取り、リビングに戻ってきた。封筒には「重要書類在中」という赤い判が押されていた。
「開けてみなさいよ」綾乃が催促し、裕介は恐る恐る封筒を切った。
中から出てきたのは、数枚の正式な法的文書だった。最初の書類は不動産明け渡し請求書。
「当該不動産の三分の二の所有権及び土地の所有権は成瀬より子に帰属しており、同氏の意向により三十日以内の明け渡しを求めるもの」
裕介の顔から完全に血の気が引いた。
「三十日以内……」
次の書類は共有物分割請求予告書。
「明け渡しに応じない場合、民法第二百五十八条に基づく共有物分割請求訴訟を提起する予定です。その場合、競売となる可能性が高く、現住居は強制退去となります」
綾乃が泣き崩れた。
「競売って……家が売りに出されるってこと? そんな、ローンもまだ残ってるのに」
さらに衝撃的な書類が続いた。金銭消費貸借契約の解除通知。
「成瀬より子より成瀬裕介氏に対して行われた金銭貸与、総額二千八百万円について、契約違反により即時返済を求めます」
「二千八百万円? 何のことだ?」裕介が叫んだ。
私は静かに説明した。
「あなたの大学の学費、就職時の援助、結婚資金、この家の頭金。全て贈与ではなく、貸与として契約書を作っていたのよ。あなた、覚えていないの? サインしたでしょう」
「そんな昔のことなんて……」
「契約の更新手続きは定期的に行っています。弁護士さんが完璧に処理してくれていますから」
綾乃が泣き声で聞いた。
「お母さん、本気なんですか?」
「本気も何も、これが現実です。あなたたちが私を家族から切り離すと決めた以上、私も相応の対応をするまでです」
そして最後の書類が、私たちの関係に完全な終止符を打った。相続権排除申立予告書。
「民法第八百九十二条に基づき、著しい非行を理由として成瀬裕介氏の相続権の排除を家庭裁判所に申し立てる予定です」
「相続権の排除!?」裕介が絶叫した。「そんなことができるのか!」
「高齢の母親を精神的に虐待し、家から追い出そうとした。これは十分な排除理由になります。証拠も全て揃っています」
「証拠?」
私はスマートフォンを取り出した。
「この三ヶ月間の会話は全て録音してあります。『母親なんて邪魔なだけ』『消えてくれ』『存在することが罪』……裁判所に提出するには十分すぎる証拠です」
綾乃が土下座する勢いで頭を下げた。
「お母さん、お願いします! 謝ります! 全部私が悪かったんです!」
「今更何を言っているんですか? 昨日あれほど邪魔者扱いしたくせに」
「違うんです! 本心じゃなかったんです!」
裕介も膝をついて懇願した。
「母さん、お願いだ。話し合おう。俺が間違ってた」
「話し合い? 昨日、話し合いを拒否したのは誰でしたっけ?」
私は立ち上がり、窓の外を見た。引っ越し業者のトラックが到着していた。
「あら、もう来たのね。では私はこれで」
「待って、母さん!」裕介が私の腕を掴もうとしたが、私は冷たく振り払った。
「触らないでください。あなたは言いましたよね。血が繋がっていても関係ないって」
「あれは……綾乃に言わされて」
「違います! 裕介さんも同意してたじゃない!」
「お前が全部悪いんだろ!」
責任のなすり付け合いが始まった。
「とにかく、お母さん。このままじゃ私たち、住む場所がなくなります」
「アパートでも借りればいいじゃないですか。でも、二千八百万円の返済があるから難しいかもしれませんね。そんなお金、どこにもないでしょう?」
「だから、この家を売却して返済に当てることになるでしょうね」
「家を売っても……ローンが残る」
「そうですね。差し引きすると、あなたたちには約一千万円の借金が残る計算です」
「母さん、そんな……鬼だ! 悪魔だ!」
私は振り返り、息子の目をまっすぐ見つめた。
「鬼? 悪魔? それを言う資格があなたにありますか? 母親を邪魔者扱いした息子に」
「でも……親子じゃないか」
「親子? 昨日あなたは何と言いました? 『もう家族じゃない』と言ったのはあなたです」
綾乃が泣きながら訴えた。
「お母さん、私……妊娠してるんです」
「あら、そう。おめでとうございます。でもそれが何か?」
「子供に罪はないでしょう!」
「もちろんです。だからあなたたちが頑張って育ててください。私には関係ありませんから」
引っ越し業者が部屋に入ってきた。
「成瀬様、お荷物を運び出してもよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします。私物は全てまとめてあります」
荷物が次々と運び出されていく中、息子夫婦は呆然と立ち尽くしていた。私は最後に二人に向かって言った。
「ああ、言い忘れていましたが、私の新しい住所は教えません。弁護士を通してしか連絡は取れません」
「母さん……本当にこれでいいの?」
「ええ、とてもすっきりしています。これからは誰にも邪魔されることなく、自由に生きていきます」
「三億円もあるなら、少しくらい……」
「一円もあげません。だって私は邪魔者でしょう? 邪魔者からお金をもらうなんて、プライドが許さないでしょう」
私は玄関に向かった。最後に振り返ると、息子夫婦は床に崩れ落ちていた。
「さようなら。二度と会うことはないでしょう」
「母さん! 母さん!」という息子の叫び声を背に、私は家を出た。
外には高級なハイヤーが待っていた。新しいマンションに到着すると、コンシェルジュが笑顔で迎えてくれた。
「お待ちしておりました。最上階のお部屋の準備が整っております」
エレベーターで最上階に上がると、東京の町が一望できる素晴らしい景色が広がっていた。もう誰にも邪魔されることのない、私だけの城だ。
新しいマンションでの生活が始まって一ヶ月が経った。最上階のペントハウスから見える朝日は、まるで私の新しい人生を祝福しているかのようだった。リビングのソファに座り、優雅にコーヒーを飲みながら、私は心から自由を満喫していた。もう誰かの顔色を伺う必要もない。
週三回の絵画教室は、今の私の生き甲斐の一つだ。以前から憧れていた油絵を、ようやく本格的に学べるようになった。教室では同年代の友人たちが温かく迎えてくれた。
「より子さん、今日も素敵ね。なんだか最近どんどん若返っているみたい」
「本当よ。表情が生き生きしているわ」
友人たちの言葉に、私は心から嬉しくなった。確かに鏡を見ると、以前とは別人のような表情をしている。あの家で感じていた重圧から解放されて、本来の自分を取り戻したのだろう。
午後は新しく始めた慈善活動のミーティングがあった。三億円の一部を使って、シングルマザーを支援する基金を立ち上げたのだ。夫を亡くして苦労した経験があるからこそ、同じ境遇の女性たちを助けたいという思いが強くあった。息子には一円も残さないと決めた財産だが、本当に必要としている人たちのために使うことができて、心が満たされる。
夕方、弁護士の柴山先生から連絡があった。
「より子さん、例の件ですが、息子さん夫婦が家を明け渡しました。競売にかけられ、予想通りローン残債と合わせて約一千万円の借金が残ったようです」
「そうですか。自業自得ですね」
「それから、興味深い情報があります。奥様の綾野さんは実家に戻られたそうです。どうやら財産がないと分かった途端、離婚を切り出したようです」
「綾乃が裕介を捨てたんですか?」
「どうやらそのようです。裕介さんは今、安アパートで一人暮らしをしているようです。仕事もストレスから体調を崩して休職中とか」
私は複雑な気持ちになった。息子への愛情が完全に消えたわけではない。でも、あの仕打ちを許すことはできない。
「それから、息子さんから何度も面会の申し込みがありますが」
「お断りします。もう関係ありませんから」
その夜、私は日記をつけた。新しい生活を始めてから、毎日の出来事を記録するようになったのだ。
「今日もまた充実した一日だった。絵画教室では新しい技法を学び、慈善活動では多くの人の笑顔を見ることができた。これが本当の人生なのだと、今更ながら実感している」
ペンを置き、窓の外を眺めると、東京の夜景が宝石のように輝いていた。
翌週、私の元に一通の手紙が届いた。差出人は裕介だった。弁護士を通じて転送されてきたものだ。
「母さん、本当にごめんなさい。今更謝っても許してもらえないことは分かっています。でも、どうしても伝えたくて。母さんにあんなひどいことを言った自分が許せません。毎日後悔しています。せめて一度だけでも会って、謝らせてください」
手紙を読み終えた私は、少し考えてからそれをシュレッダーにかけた。同情する気持ちが全くないわけではない。でも、一度断ち切った縁を元に戻すつもりはない。
「あなたが言った通り、もう家族ではないのよ」私は独り言をつぶやいた。
数日後、絵画教室の発表会があった。私の作品「新しい朝」という油絵が、なんと最優秀を受賞したのだ。
「素晴らしい作品です。苦しみから解放されて新しい人生を歩み始めた人の心情が表現されているようです」
審査員の言葉に、私は涙が込み上げてきた。まさにこの絵は、私自身の心情を描いたものだったからだ。
表彰式の後、若い記者から取材を受けた。
「新しい人生を始められたそうですね」
「ええ、遅すぎることはないと学びました」
「何がきっかけだったんですか?」
私は少し考えてから答えた。
「自分の人生を生きる勇気を持てたことです。誰かのために生きるのではなく、自分のために生きる。それがこんなにも素晴らしいことだと知りました」
インタビューが終わり、会場を後にする時、偶然昔の同僚に会った。
「より子さん、お久しぶり。聞いたわよ。息子さんと別居されたって」
「ええ、色々ありまして。でも、今のより子さん、本当に輝いているわ。きっと正しい選択だったのね」
「そう言っていただけると嬉しいです」
私たちは近くのカフェでお茶をすることにした。
「実は私も、息子夫婦との同居で悩んでいるの」友人の告白に、私は自分の経験を話した。全てを話し終えると、友人は感嘆の声をあげた。
「すごい。より子さん、本当に勇気があるわ」
「勇気というより、限界だったんです。でも、あの時決断して本当に良かった」
「私にもできるかしら?」
「できますよ。自分の人生は自分で決めることができるんです」
友人と別れた後、私は高級レストランでディナーを楽しんだ。食事を終えて帰宅すると、コンシェルジュから伝言があった。
「成瀬さんと名乗る方が、今日も尋ねて来られました」
「そうですか。今後は敷地内に入れないようにしてください」
「承知いたしました」
裕介は今頃、どんな気持ちでいるのだろうか。でも、それを考えるのはもう私の役目ではない。
ふと三十八年前のことを思い出した。夫が亡くなった時、まだ赤ん坊だった裕介を抱きしめて、この子のために生きようと決意したあの日のことを。でも今は違う。今の私は、自分のために生きている。
母親を邪魔者扱いした息子への、これが私の答えだ。私は邪魔者ではない。私は一人の人間として、尊厳を持って生きる権利がある。そして今、その権利を完全に取り戻したのだ。
