「やっぱり親のいない女と結婚させたのが、間違いだったのね。」
土星を上げた瞬間、義母が力任せに私の体を突き飛ばした。そして、点灯した私のお腹を蹴り上げる。あまりの痛みに、うめくことしかできなかった。薄れゆく意識の中、義母は私を見下ろして鼻で笑った。
「たまたまだろ。泣くな。」
次に目を覚ました時、医師から流産したと告げられた。流産したのは義母のせいだ。私は絶対に彼女を許さないと心に決めた。
翌日、退院後に自宅へ戻った私は、義両親と夫・正にスマホの画面を見せた。
「こちらはすでに、ある映像を警察に提出しているんですが。」
口をポカンと開けて固まる義母。警察という言葉に、正も肩を震わせる。映像が進むうちに、だんだんと義母の顔は真っ青になっていった。
「私の人生、めちゃくちゃにするつもりなの?」
そう叫んだ途端、彼女は床に突っ伏して号泣し始めた。私はただ静かに、義母を見下ろす。
私は北山千歳、三十歳。ある銀行で働く銀行員だ。正は私の同期で、三年前の異動を機に同じ支店で勤務するようになった。それまではさほど接点がなかったのだが、一緒に働くうちに、徐々に距離を縮めていった。
「前田さんって、仕事が丁寧だよね。俺も見習わないと。」
「そうかな。むしろ北山君の方がすごいと思う。接客対応が上手だし。」
正は社交的で、上司や同僚だけでなく、お客様にも好かれるタイプだった。私はそんな彼を密かに尊敬していたからこそ、褒められると嬉しくなった。
そんなある日、彼から食事に誘われ、交際を申し込まれた。
「前田さんの真面目で頑張りやなところが好きなんだ。だから、俺と付き合ってほしい。」
まさかの告白に驚いたが、私自身も一生懸命な彼に惹かれていた。正となら、きっと幸せになれるに違いない。
「私も北山君が好きだったの。よろしくお願いします。」
交際を始めて一年後、私たちは結婚を決めた。付き合い出してからも優しく、いつだって私を気遣う正。彼からプロポーズを受けた時は、本当に嬉しかった。
「今度、妹にも挨拶に行かないとな。」
結婚の話を進める中、ふと正が真剣な顔で言った。
「実は、俺の両親は五年ほど前に亡くなっていて、家族は妹の莉緒だけなんだ。彼女は俺の四歳下で、自分で言うのもなんだが、仲のいい姉妹だと思う。大人になってからも定期的に会って、婚約したことも話していた。」
私も、正を莉緒に紹介したいと思っていた。
「莉緒も正斗と会いたいって言ってたの。三人で食事にでも行こうか。」
「ありがとう。俺の妹だから、きっといい人なんだろうな。」
彼は莉緒に会えるのを楽しみにしていた。それから二週間後、三人で食事に出かけた。
「初めまして。姉がお世話になっております。」
「こちらこそ、会えて嬉しいよ。」
莉緒と正は初対面ながらもすぐに打ち解けて、話を弾ませた。私は二人の和やかな雰囲気にほっとした。だが、話をするうちに莉緒の表情が曇っていく。彼女は時折、私に視線を移して顔色をうかがっているようだった。そして、正が席を外した瞬間、莉緒が真剣な顔をこちらに向けた。
「ねえ、お姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫って、何が? 正と、何かおかしいことでも言った?」
莉緒は表情を暗くして、少し歯切れの悪い様子で事情を説明した。実は、私が席を外している間、正の態度に引っかかる点があったという。彼が私を見下しているように感じる発言があったそうだ。
「『真面目だけど要領が悪い』とか『しっかりしてるくせに家事は下手』とか、そんなこと言うのおかしくない?」
「正がそんなこと……彼は私を褒めてくれるのに。」
「身内である私の前で謙遜する理由はないと思うし、お姉ちゃんが悪く言われて、正直不快だった。」
莉緒は不満げな顔で、こちらをまっすぐ見つめる。彼女が嘘をつくとは思えない。ただ、普段の正は優しいため、彼が私の愚痴をこぼすのは予想外だった。
「もちろん、お姉ちゃんが選んだ人だから、私が結婚に反対するつもりはない。以前聞いた話からして、正斗さんはいつもはいい人なんでしょ。家事も協力してくれるし、穏やかで優しくて、私にはもったいないくらいのいい人だと思ってる。」
「わかった。あとはお姉ちゃんに任せるよ。結婚するなら、心から祝福しようとは思ってるから。」
莉緒は複雑な表情を浮かべながらも、私の気持ちを優先するよう告げた。その後、正が戻ってくると、彼女は笑顔を見せる。
「正斗さん、お姉ちゃんのこと、大切にしてくださいね。」
言動に気をつけるように伝えたいのだろう。だが、正は理解しておらず、のんきに微笑んだ。
「もちろん大切にするよ。というか、二人は本当に仲がいいんだね。俺、一人っ子だから羨ましいよ。」
「そうね。莉緒は私にとって唯一の家族だから。」
「私もそう思ってる。だから、お姉ちゃんには絶対に幸せになってほしい。」
自分がいない間、何が起きていたのか知らないため、正は莉緒に気に入ってもらえたと思ったようだ。結局、解散するまで正は楽しそうに話していた。私は内心、莉緒の言葉が気になり、集中できなかった。
「千歳、どうしたの?」
「うん。なんでもない。」
食事を終えて店を出た途端、正が首をかしげる。私は適当にはぐらかしたものの、やはりモヤモヤは消えない。そこで意を決して口を開いた。
「ねえ正、私に対して不満があるの?」
「え、どうしたんだよ、いきなり。」
「私のこと、要領が悪いって思ってるんだよね。家事も下手で、ごめんなさい。」
「ちょっと待って。」
彼は慌てた様子で言葉を遮った。正が私の発言の真意を理解できないようなので、莉緒から聞いた話を伝えた。
「妹に愚痴をこぼすくらいなら、私に直接言ってほしい。莉緒も、あまりいい気がしなかったみたいだし。」
「ごめん。俺は不満があったわけじゃないんだ。夫らしく振る舞いたくて。」
彼は申し訳なさそうな顔でうなだれた。どうやら、妻となる私を人前で褒めそやすのは恥ずかしく、つい謙遜してしまったのだそうだ。
「莉緒さんとは長い付き合いになるから、俺は頼りがいのある人と結婚したと思ってほしくてさ。でも、君を否定するような言い方になったことは謝る。」
「じゃあ、伝え方を間違えただけってこと。できれば衝突したくないから、不満があったら言ってほしいんだけど。」
「不満なんてないよ。俺は君に感謝してる。こんな素敵な女性と、なかなか巡り合えないと思ってて。だから本当にごめん。今後は気をつけるから。」
何度も頭を下げて謝罪する正。彼の様子を見るに、心から反省しているようだ。家族を褒めるのは気恥ずかしいという正の気持ちも分かるので、私はそれ以上問い詰めなかった。
ただ、莉緒には後日電話を入れて、一部始終を報告した。
「というわけで、正は悪気があったわけじゃないみたい。」
「そっか。お姉ちゃんが納得してるなら、問題ないと思う。正斗さんも反省してるんだよね。」
「うん。もう私の愚痴を第三者に言わないって、約束してくれたから。」
「じゃあ大丈夫だね。お姉ちゃん、幸せになって。でも、何かあったらいつでも頼ってほしい。」
彼女はまだ腑に落ちない様子だったが、私の気持ちを尊重してくれた。結婚を祝福してくれて、ほっと胸を撫で下ろした。
そして後日、私は正の両親に挨拶をするために、義実家へと向かった。
「あなたが千歳さんね。初めまして。」
義実家の玄関を開けた瞬間、義母が顔をほころばせる。彼女の背後に立つ義父も、穏やかな笑顔を見せた。
「いらっしゃい。さ、どうぞ上がって。」
「お邪魔します。」
緊張していたけれど、二人の様子にふと安堵した。義両親は正から話を聞いており、私の両親が亡くなっていることを把握していた。
「早くに両親を亡くして、苦労してるんじゃない? これからは私たちのことを家族だと思って、頼ってね。」
そう話す義母の言葉に、思わず目頭が熱くなる。彼女は正に似て、優しい人だった。
「息子のこと、よろしくお願いします。正斗、千歳さんと二人で支えていきなさい。」
「もちろん。父さん、母さん、ありがとう。」
正は照れ臭そうに笑い、私に視線を送る。彼らとなら、結婚後も仲良くやっていけるだろう。そう確信した。
すると突然、義母が意外な提案をしてくる。
「そういえば、いつこの家に引っ越してくるの? 入籍後、予定を決めるのかしら?」
「え?」
呆然とする私を見た瞬間、彼女は正に問いかけた。
「結婚後、同居する予定だったわよね。てっきり千歳さんも了承してると思ったんだけど。」
「あ、ごめん。君に言ってなかったっけ?」
彼は義母に詰め寄られ、頭をかき始めた。どうやら正の話によると、義母が結婚するなら同居したいと希望したそうだ。彼も義両親が安心するならと、同居を承諾した。ただ、私は何も知らされていない。
「どうして教えてくれなかったの? そもそも、夫婦二人で暮らす家を相談して決めようって言ってたじゃない。」
現在、私たちは互いに一人暮らしをしている。そこで結婚後に引っ越して、夫婦生活を始める予定だった。私はそのつもりで部屋探しをしていたのだが、正は義実家に引っ越すからと、何もしていなかったらしい。言われてみれば、候補の物件を見せても、彼の反応はいつも薄かった。
「私に黙って、同居の話を進めてたってこと? それとも、言いづらい理由があったの?」
「違うよ。父さんたちに挨拶してから、同居を相談するつもりだったんだ。というか、プロポーズの後、ちらっと言わなかったっけ?」
「聞いてないよ。新居を探すことで、話がまとまったと思う。」
「ごめん。じゃあ、俺の勘違いだ。驚かせたよね。」
正は事前に同居のことを私に伝えたと思い込んでいたようだ。こちらに向かって頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返すかと思えば、彼はゆっくり顔を上げて笑みを見せた。
「というわけで、結婚後はここに引っ越そう。もう家を探さなくていいから。」
「でも、突然同居を提案されても、すぐに受け入れられるわけがない。今の今まで、夫婦二人で生活すると思っていたのだから。」
しかし、義両親がいる手前、きっぱり断るのも違うだろう。私は返答に困り、言葉が出てこなかった。その様子を見て、義母が口を開く。
「千歳さん、不安に思う気持ちも分かるわ。急に私たちと同居なんて、戸惑うわよね。いいのよ。心の準備ができていなくて。でもね、私は二人の力になりたいだけなの。正斗たちは共働きでしょう。今後、困ることも増えると思って。」
結婚後も、私は銀行員の仕事を続ける予定だ。正の給料だけでやりくりするのは難しく、それに私たちは子供を望んでいる。将来のことを考えたら、共働きの方が安心だ。義母はその話を正から聞いているらしい。
「仕事をしながら家事までこなすなんて、大変よ。その点、私は専業主婦だから、家のことは任せてほしい。だから、同居するメリットはあると思うの。」
「でも、それだとお母さんに負担をかけることになってしまいますよね。」
「私なら平気よ。むしろ、二人と一緒に暮らせるなら、何だって手伝うわ。それくらい、同居したい。もちろん、無理にとは言わないけど。」
そう告げると、彼女は寂しそうに笑った。義母の表情に胸が締めつけられ、さらに断りづらくなる。
「ほら、母さんもこう言ってることだしね。」
正も義母と同居したいようだ。彼は私の顔を見つめながら口を開く。
「父さんがほとんど家にいないから、今、母さんは基本一人で生活してる。何かあった時、俺たちがそばにいた方が、母さんも安心するんだよ。」
「それもそうだな。俺としても、同居には賛成だ。」
義父は現在、単身赴任中なのだ。二年ほど前に県外へ異動となり、定期的に自宅に戻っているものの、義母はほとんど一人暮らし。正が彼女の様子を確認するため、月に一度実家に顔を出しているのも知っている。その実情を踏まえ、私は迷いながらも同居を受け入れることにした。
「ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします。」
不安はあるものの、優しい義母とならうまくやっていけるはずだ。正もいるし、特に問題は起きないだろう。私の返事を聞くや、義母が満面の笑みを見せる。
「千歳さん、本当にありがとう。これから家族としてよろしくね。」
「じゃあ、引っ越し準備を進めなくちゃな。」
正と義父も目を細めて安心していた。それから二ヶ月後、私たちは入籍と同時に義実家へと引っ越した。
「家事は私がやるから、気にしないでね。正と千歳さんは、仕事に集中してちょうだい。」
義母は同居してすぐ、自ら家事を買って出てくれた。全てを任せるのは申し訳なくて、私なりに手伝おうとするも、彼女は毎回笑顔で断る。
「千歳さんは、今帰ってきたばかりで疲れてるでしょ。大丈夫だから、座って待ってて。」
「でも、私も何か……」
義母が夕食の支度をする中、何もしないなんて無理だ。私は少しでも力になりたいと思っていた。ただ、正はそんな私を止める。
「千歳が手伝ったりしたら、母さんのペースが崩れるだろう。変に手を出すのは、やめておいた方がいいと思う。」
「正斗の言う通りよ。私、料理は得意だから、安心して。むしろ、下手な人が近くにいると、気が散っちゃうから。」
義母の発言に、思わずたじろいだ。今の口ぶりだと、まるで私が料理下手で邪魔者のような言い方だ。優しい彼女のことだから、そんな悪意はないはずだ。そう思うものの、もう手伝うとは言えない雰囲気だった。
「じゃあ、何かあったら声をかけてください。」
「分かったわ。ありがとうね。」
義母がにっこりと微笑む。だが、その目は笑っていなかった。この頃から、私は徐々に違和感を抱くようになった。家事を手伝おうとするたびに、義母が嫌みを言っていることに気がついたのだ。
「朝はあまり時間がないからのんびりしてる人に家事を任せると、千歳さんだけでなく、正まで遅刻しちゃうわ。私が全部やるから、気にしないで。」
「分かりました。お願いします。」
朝早起きしてキッチンに向かうも、彼女は毎回一人で朝食を作る。義母の言う「のんびりしてる人」とは、私のことだ。悪意がないと思いたいのに、彼女の言葉で傷ついてしまう自分がいる。義母との接し方に悩み、頭を抱える日々が続いた。
そして、決定的な出来事が起こったのは、一ヶ月ほど経ったある休日の朝。義母はその日、洗濯物を干していた。私は何を言われても手伝おうと、義母の元へと駆け寄る。その瞬間、洗濯物を手にしたまま、義母が呟いた。
「適当にハンガーをかければ終わりだと思ってる人に、洗濯なんて任せられないわ。私がやるから、気にしないでちょうだい。」
私が「手伝います」と声をかける前だ。思わずひるんだものの、すぐさま口を開いた。
「お母さんにも、こだわりがあるのは分かります。教えていただければ、私も気をつけますので。」
「わざわざ教えるくらいなら、私一人でやった方が早いのよ。せっかくの休日なんだし、千歳さんはゆっくりしていたら。」
普段、義母は穏やかな表情で嫌みを言う。だが、その日はいつもよりも険しい顔をしていた。
「仕事が休みだからこそ、今日くらいはお手伝いさせてください。」
私は負けじと反論し、洗濯物に手を伸ばそうとした。しかし、義母は眉をひそめる。
「余計なことしないで。どうせ、私が干し直さなくちゃいけなくなるんだから。」
「私は、お母さんたちの服を洗濯したことはありません。どうして、見たこともないのに、できないと決めつけるんですか?」
同居を始めて以降、彼女に阻止されて、私は一切家事をしていない。だから、なぜ嫌味を言われるのか不明だった。
「私の家事で気になる点があるなら、アドバイスをください。家族として共に暮らす以上、お母さんに頼りきりは嫌なんです。」
私は家族として助け合いたいと思っている。その気持ちを伝えたら、義母も分かってくれると信じていた。ただ、彼女は鼻で笑うだけ。
「見なくても分かるわよ。どうせ早くに親を亡くして、家事は自己流でしょ。そんな千歳さんに、いちいちアドバイスしていたら、家事が進まないわ。」
私は言葉を失った。すると、義母は声を潜めて続けた。
「あのね、私はただ、正斗と暮らすために同居したかっただけ。千歳さんとの結婚に反対なんてしたら、あの子に嫌われるかもしれないじゃない。だから、しぶしぶあなたを受け入れたの。」
義母は不愉快だと言わんばかりに顔を歪める。あんなにも優しかった彼女の口から出た発言だとは思えず、私は絶句した。義母は、両親のいない私を温かく迎え入れてくれた。そう考えていたが、実際は本心ではなかったらしい。
「親のいない千歳さんとの結婚、本当は嫌だったのよ。親の教育が行き届いている女性の方が、ふさわしいに決まってるんだから。だけどね、正斗があなたを選んだなら、仕方ないと思って。」
「そんなことを、思ってたんですね。でも、じゃあ、なんで家事をやってくれるんですか?」
「優しいふりをしていたのだって、だから。全部、正のためよ。あなたは正の妻なんだから、綺麗な服を着て健康的な女性じゃないと困るの。」
語気を強め、私に冷ややかな視線を送る義母。彼女は、正のことしか頭にないらしい。挨拶の際、「家族だと思って頼って」という言葉に感動した私は、バカだった。この時初めて気がついた。
「これからも家事はやってあげるし、正の前では優しく振る舞うわ。だけど、二人きりの時は、もう話しかけてこないで。正直言って、あんたと関わりたくないから。」
「分かりました。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。」
義母の本心を知り、私は同居を続けられないと悟った。すぐに正へ事情を報告し、同居の解消を提案した。
「母さんが、そんなこと……」
話を聞くなり、彼は目を丸くした。今までの言動からして、義母が私を嫌っているとは思っていなかったようだ。
「正との結婚をよく思ってないのに、家事をやってくれてたの。」
「そうみたい。正のことが大切だからって。妻である私にも、優しいふりをしていたそうよ。」
「なるほどな。」
母親のことを悪く言われて怒るかと思いきや、意外にも彼は私の話を素直に信じた。
「千歳が、そんなくだらない嘘をつくとは思えない。そもそも母さんは、少し過保護なところがあるから、俺と同居したくて、しぶしぶ千歳を受け入れるしかなかったんだな。」
義母に同調するかのような発言に引っかかるも、正が信用してくれただけで十分だ。そう思い、私は話を進めた。
「同居を希望するお母さんの気持ちも分かる。だけど、お互いのためにも、私たちは離れて暮らすべきよ。嫌な人間が家にいるって、相当なストレスだと思うから。」
「一人で暮らす義母が心配なら、近所に住んで、時々様子を見に行けばいい。少なくとも同居を続けるのは、私にとっても義母にとっても良くないだろう。」
そう伝えた途端、正は考え込むような素振りを見せる。
「本当に、離れて暮らすべきなのかな?」
「何言ってるの? 当然でしょう。お母さんは多分、私の顔なんて見たくないんだろうし。」
「母さんが、そう言ってたの?」
彼は不思議そうに首をかしげた。
「今のは、あくまでも私の考えだ。母さんは、俺たちとの同居を望んでるんだよね。だから、千歳の家事まで、いやいややってたんでしょ。」
「お母さんは、正と一緒に暮らしたいだけだから、わざわざ我慢して家事をやってくれてる。」
「でも、お母さんだって今の生活はストレスだろうし、このまま同居を続けるなんて、無理よ。」
「なんで? 母さんが我慢してるなら、千歳も我慢すればいいんじゃないの?」
「本気で言ってる?」
正は、なんとこのまま義母との同居を続ける気だった。おそらく、家事を全てやってくれる義母を手放したくないのだろう。義実家を出るとなれば、今後は夫婦二人で家事を分担することとなる。
「母さんがどう思っていようが、家事をやってくれてるのは事実だ。千歳に嫌がらせをしているわけでもない。それなら、同居を解消する必要はないと思うけど。」
正は、私の気持ちなどどうでもいいらしい。そんな彼の対応に、思わず語気が強くなる。
「お母さんは、『関わりたくない』って、直接私に伝えてきたのよ。嫌味を言われることだってある。それって、嫌がらせじゃないの?」
「イライラしてたら、誰だって口を聞かない時はある。嫌みだって、母さんに悪気はないかもしれない。」
「正は、私よりもお母さんの気持ちを優先するってこと?」
「そうじゃない。家に置いてもらってるんだし、少しは目をつぶるべきだって言ってるんだ。千歳が、こんなにも心が狭い人だとは思わなかったよ。」
正が義母を大切にする気持ちも分かるが、妻である私をここまでないがしろにするなんて。深い絶望に襲われる私を見て、彼は肩を落とした。
「家事をやってもらっておいて、わがままを言うのはやめなよ。同居を解消したら、千歳は一人で家事をやってくれるの?」
「私も働いてるのに、正は手伝う気、ないってこと?」
「俺は同居を解消したくないもん。千歳一人で家事をこなす自信がないなら、このまま生活を続けたら、それがお互いのためだって。」
義母に家事を頼んでいる手前、私は文句を言える立場ではないのかもしれない。正の意見に反論できない自分がいた。義母も我慢して、私の家事をやってくれているのだから、こちらも我慢すべきだろうか。
熟考した上で、私は最終的に同居を続けることを受け入れた。ただ、義母は正から話を聞いたのか、翌日以降、一気に当たりが強くなる。
「ああ、なんで、よその人の使った食器を、私が洗わなくちゃいけないのかしら。」
朝食後、急いで出社の準備をしていると、義母が嫌みを口にした。先ほど、彼女が「後で洗うから置いておいて」と言ったはずなのに。私は時計を確認して、キッチンに向かった。
「まだ時間があるので、自分で洗います。」
「え、千歳さん、洗えるの? どうせ、私がもう一度洗うはめになるのよね。」
「そうならないよう、気をつけますので。」
大学に進学して結婚するまで、私はずっと一人暮らしをしていた。だから、食器くらいは洗える。そう思っていたのだが、義母は洗い終えた食器を見て、苛立ちをあらわにした。
「何よこれ。私に再度洗わせるために、雑にやったの?」
彼女は食器を手にして、声を荒げる。私には全く見えないが、汚れが残っているらしい。
「千歳さんって、不器用ね。あなたに任せていたら、家中のお皿が汚くなるわ。」
「すみません。汚れとは、一体どこのことを言っているのでしょうか?」
「説明するのもめんどくさい。もういい。私がやるから。」
そう言うと、義母は私を押しのけてスポンジを奪い取る。
「早く家を出ていきなさいよ。ここにいられても、邪魔なだけなんだから。」
「分かりました。よろしくお願いします。」
彼女の言う洗い残しがどこか分からないものの、そろそろ銀行に向かわないといけない。私は義母に一礼して、家を出た。
結婚後、私と正はそれぞれ別の支店へ異動になった。そのため、彼とは出勤時間が異なる。朝、正が先に家を出るので、私は毎日義母に嫌みを言われていた。ただ、仕事を終えて帰宅すると、義母の機嫌はすっかり治っている。
「正斗、お帰りなさい。千歳さんもお疲れ様。夕食できてるから、早く食べましょう。」
正がいる限り、彼女が私を責めることはない。冷たい態度を取られるのは、あくまでも正が不在の時だけだ。義母の言動に悩むも、働いている以上、彼女と二人になることは避けられない。休日、正が外出している時だけ我慢すれば大丈夫だと、この時の私はまだ楽観視していた。
しかし、事態が一変する出来事が起こる。私の妊娠が判明したのだ。
「千歳、ありがとう。俺、父親になるんだな。」
報告した途端、正が目を潤ませる。彼は子供を望んでいたからこそ、私の妊娠がよほど嬉しいようだ。最近、正に失望することが増えていたものの、これを機に彼も態度を改めてくれるかもしれない。喜ぶ正を見て、頬が緩んだ。
そして一ヶ月後、義父が久々に帰宅したタイミングで、義両親にも妊娠を報告した。正は義母に早く伝えたがっていたが、もうすぐ義父が帰ってくると聞いていたため、やめた。実際、二人揃ってから報告して正解だったと思う。
「あら、妊娠していたの。おめでとう。孫ができるなんて、嬉しいわ。」
義母は義父の前だと、普段とは違って穏やかなのだ。私に対して高圧的な態度を取っていることは、義父には知られたくないのだろう。ニコニコと笑いながら、私のお腹に視線を送る。
「妊婦で大変でしょう。これからも、私のことを頼ってね。」
「千歳さん、無理はしないように。何かあったら、母さんと正に助けてもらいなさい。」
「やっぱり同居してよかったな。母さんがいると心強いよ。」
正も一緒になって目を細める。私は、愛想笑いを浮かべることしかできなかった。本当なら、この日、義母のことを義父に相談したいと思っていた。正は彼女の味方なので、助けを求められるのは義父しかいない。そう思っていたものの、私の考えは義母にバレているようだ。
「ほら、千歳さん、ゆっくり座ってて。家事は全部、私がやるから。」
義父に声をかけようとした瞬間、彼女はやんわりと間に入る。結局、相談できずに翌日を迎え、義父は自宅を出て赴任先へと戻ってしまった。
「お父さんに、余計なことを言わないでちょうだい。」
義父が出発し、正も出勤するや、義母が目を吊り上げる。
「余計なこととは、何でしょう? 何か言われたらまずいことを、お母さんはしているんですか?」
「知らばっくれないで。私のことを話すつもりだったのよね。そうはさせないから。私は家事をしてあげてるんだから、影口はやめて。」
やはり、自分の言動を義父には知られたくないらしい。義母はにらみつける。
「分かりました。」
言い返したい気持ちはあったものの、今後、彼女には迷惑をかけることも増えるだろう。私は反論はせず、ただ静かに頷いた。
当時、私は義母の態度が改善されるかもしれない、という期待を抱いていた。彼女も孫ができるのを楽しみにしている。わざわざ妊娠中の私にストレスを与えるようなことは、しないはずだ。そう考えていたのだが、私の考えが甘かったと思い知ることとなる。
「あら、やけに早いじゃない。なんで帰ってきたの?」
「つわりで、気持ち悪くて。」
妊娠後、私はつわりで仕事を休んだり、早退したりすることが増えていった。上司には報告しており、仕事の調整もしてある。そのため同僚は理解してくれているものの、義母は私の帰宅に立腹しているようだった。
「こっちは家事をしているのに、あんたが気が散るわ。妊婦だからって、偉そうな態度を取らないで。」
寝室で横になっていると、部屋の外から彼女の怒声が聞こえてくる。私は起き上がれず、言い返す気力もなかった。しばらく無視を決め込んでいると、ドアが開き、しかめっ面の義母が入ってくる。
「何、ぐうたら寝てるつもりなの? 家に帰ってきたなら、家事を手伝いなさいよ。」
「で、ですが、私が手伝うと、邪魔なんじゃ……」
「そうやって、ずっと私に押し付ける気なの? どうせ、産休・育休中は家にいるのよね。じゃあ、家事の練習くらいしてもらわないと困るの。」
彼女は義父の前では、「家事は全部やる」と供述していた。だが、私が何もせずに休んでいるのは気に食わないらしい。
「母親になるんだから、家事ができるようにならないといけないでしょ。ちょうどいいじゃない。休んでる日は、手伝って。」
ふと鼻を鳴らし、私の腕を掴みにかかる義母。反抗しようとするも、気持ち悪くて体が動かない。
「すみません。調子がいい時は、手伝います。今日は、さすがに厳しくて。」
「甘えないで。私は妊娠中も、家事を全部やってたの。時間はあるんだから。ほら、早く動いてちょうだい。」
結局、私は寝室から引っ張り出され、掃除を命じられた。しかし、掃除機を動かしている間も、時折、吐き気を催してしまう。私は定期的にトイレに向かい、フラフラになりながらも掃除を続けた。義母はその様子を、厳しい目つきで見つめ続ける。
「部屋の隅もちゃんと掃除して。手を抜こうとしても、無駄だからね。」
「すみません。でも、もう限界で……」
「私は毎日やってることよ。そんな簡単なことすら、できないなんて。」
「掃除が終わったら、次は夕食の支度をしなくちゃいけないの。さっさと終わらせなさい。」
恐る恐る問いかけると、彼女は笑みを浮かべた。
「夕食も、ですか? 明日はお母さんが作るんじゃ……」
「私がわざわざ教えてあげるんだから、感謝しなさい。」
もちろん、拒否することなどできない。掃除後、私は言われるがままキッチンに立った。しかし、料理の匂いを嗅いだ瞬間、また吐き気に襲われる。
「ちょっとトイレに行ってきます。」
私は義母に声をかけ、その場を離れようとした。だが、彼女は腕を掴んで、無理やり止める。
「何言ってるの? 正が帰ってくるまでに、作り終えなきゃいけないのよ。トイレに行ってる暇なんて、ないの。」
「お願いします。行かせてください。気持ち悪いんです。」
涙目で訴えるも、義母は声を荒げる。
「本当に不器用な嫁ね。そんなんで、母親になれるの?」
「戻ってきたら、急いで作るので。すぐに帰ってきます。」
「すぐに帰ってきなさい。」
私が懇願すると、ようやく彼女が手を離した。すぐさまトイレに行くも、ゆっくりする時間はない。つわりで苦しいのに、どうして家事を無理強いさせられるのだろうか。私は気持ち悪さと悔しさで、涙が止まらなかった。
「ちょっと遅いわよ。早く出てきなさい。」
トイレの外から、義母が大声でわめき散らす。私は慌ててキッチンに戻り、食事作りを再開した。だが、作り終える前に正が帰宅する。
「ただいま。あれ? 千歳が夕食作ってるの?」
キッチンに立つ私を見て、彼は目を丸くした。つわりで早退したことはメッセージで伝えてあるにも関わらず、家事をしているのが不思議なのだろう。私は義母に命じられたのだと説明しようとした。しかし、先に口を開いたのは義母。
「千歳さん、意外と元気みたい。家事を手伝いたいって言ってくれたの。」
「なんだよ、それ。じゃあ、仕事もできたんじゃん。あんまり同僚に迷惑かけるなよ。」
「違うの。私は……」
「正が帰ってきたことだし。あとは私がやるわ。千歳さんはゆっくりしてなさい。」
彼女はそう言うと、私をキッチンから追い出した。正はそれ以上気に留めず、スマホを触り始める。
「正、相談したいことが。」
「今じゃないとだめ? 俺、仕事で疲れてるから、後にしてほしい。」
言葉を遮られ、会話ができる雰囲気ではない。私は何も言えず、ソファーで横になった。正直、夕食も食べる気にはならない。
「これは、明日の朝食べるので。」
楽しそうに取り分ける義母と正の隣で、私は箸を置いて寝室へ向かった。
その後も、休んだり早退したりするたびに、義母は家事を命じてくる。
「今日も帰ってきたの? じゃあ、洗濯物を畳んでちょうだい。あと、アイロンもよろしくね。その後、夕食を作るから。」
あろうことか、強制的に押し付けられるので、私は気持ち悪さと戦いながら、どうにか家事をこなした。だが、このままだと産休や育休に入った時に、大変なことになる。義母はきっと、私に家事を全てやらせようとするだろう。さすがに黙っていられず、ある夜、私は正に相談した。
「実は、お母さんが……」
彼は面倒そうな表情を浮かべながらも、話だけは聞いてくれた。
「なるほど。千歳が自発的に家事をやってるわけじゃなくて、母さんから言われて仕方なく手伝ってるってことね。」
「仕方なくというか、私もつわりできつい時があるの。それをお母さんに分かってほしくて。」
語尾が曖昧になる私に、正はため息をついた。
「千歳は、母さんに甘すぎなんだよ。」
「え?」
思いもよらない発言に、耳を疑う。そんな私を気にも留めず、彼は話し続けた。
「母さんは、千歳のために厳しく指導してくれてるんだろう。このまま家事のできない母親になったら、子供がかわいそうだからって。」
「だとしても、今は妊娠中なの。私だって、体調がいい時は、家事を手伝いたいと思ってるし。」
「いやいや、子供が生まれたら、体調は言い訳にならないよ。母親になるんだから、どれだけしんどくても、我慢しないと。」
まるで他人事のような口ぶりに、呆然とする。
「私が母親になるのは事実だけど、正だって父親になるのよ。あなたは、体調が悪くても子供の面倒を見てくれるってこと?」
「可能な限り見るけど、育児を主にやるのは母親だよね。俺は仕事があるから、千歳と母さんの二人で頑張ってほしいかな。」
正は、義母に頼ればいいと思っているらしい。無責任な態度に怒りを覚え、私は拳を握りしめた。
「私と正の子供なのに、お母さん頼みなの? 正は、父親になる自覚ある?」
「もちろんあるよ。でも、仕事が……」
「私だって、育休が明けたら職場復帰することになる。それからは、どうするの? 正はずっと、私とお母さんに育児を任せっきりにするつもり?」
「いや、俺も少しは手伝うって。」
正は、家のことも子供についても、自分はサポートするだけだと考えているようだ。このままだと、義母からは家事を、正からは育児を押し付けられる。私は意を決して、声をあげた。
「正の考えは、分かった。できれば、もうお母さんたちとは離れて暮らしたい。」
「正気か? 千歳は、一人で子供を育てるつもり?」
「一人じゃない。正がいるでしょ。」
「だけど、俺には仕事がある。ここにいれば、母さんが手伝ってくれるんだぞ。」
確かに、義母は子供の面倒くらいは見てくれるかもしれない。だが、その代わりに出産後、私に家事を命じるに決まっている。今の彼女の態度からして、配慮をしてくれるとは思えなかった。ならば、義母のいない家で育児をしたい。
「同居を続けたら、正はお母さんに甘え続ける。それは、あなたのためにも良くないと思うの。近所に引っ越せば会いに行けるし、一緒に住む必要は、やっぱりないんじゃないかな。」
正に父親の自覚を持ってもらえれば、夫婦二人でも、なんとかやっていけるはずだ。ただ、私の意見を聞くと、正は呆れたように笑った。
「俺は、甘えてるんじゃなくて、親のために同居してるんだ。そもそも、千歳は分かってる? 育児を手伝ってくれる人、身内にはいないんだよ。両親がいない以上、俺の母親に頼るしかないんだってば。」
「お母さんに頼れないから、家を出たいって言ってるの。私がお母さんに嫌われてること、何度も伝えてるよね。」
「だとしても、とりあえず一度頭を冷やしたら。どうせ妊娠で情緒不安定になって、俺たちに当たってるんだろ。同居を解消したら、困るのは千歳なんだからな。」
そう言って、彼は無理やり話を終わらせて浴室へ向かった。確かに、私自身イライラすることが増えた気がする。だが、同居の解消は衝動的に思い立ったわけではない。義母の態度に耐えかねて出した答えなのだ。それを、正は分かってくれなかった。
「あんた、また同居解消を正に持ちかけたそうじゃない。私が家事を教えてあげてるのに、なんでそんな態度なの?」
彼は義母に報告したのだろう。翌日、彼女は私への当たりを一層強くした。家事をするたびに、厳しく叱責しては私を馬鹿にする。
「正斗は良き父親になれるだろうけど、あんたは無理ね。千歳さんみたいな母親に育てられるなんて、子供がかわいそうだわ。」
「口を動かすよりも、手を動かしなさいよ。このゴミ、捨ててきて。」
つわりが落ち着いて安定期に入ってからも、義母は家事を押し付けてきた。仕事が終わって帰宅するや、夕食を作るようせかされる毎日。私は精神的に限界を迎え、莉緒に相談することにした。
「今度、一緒に食事に行かない?」
妊娠は報告していたものの、義母や正の態度については、彼女に話していない。迷惑をかけたくなくて、ずっと黙っていたのだ。けれど、私が今頼れるのは莉緒だけ。彼女は私の様子で、何やら事情があると察したのだろう。
「もちろん。じゃあ、週末にでも行こうか。」
彼女はすぐに承諾してくれた。そして迎えた週末、カフェで義母からの仕打ちと正の反応を打ち明けた。それを聞いた瞬間、莉緒が目の色を変える。
「何それ? 正斗さんは、お姉ちゃんを守ってくれなかったの?」
「お母さんのことが大事なんだと思う。同居を解消した話も、お母さんが心配だったからだし。」
「ありえない。ずっと辛かったよね。」
彼女は私に優しく寄り添ってくれた。話を聞いてもらえただけでも嬉しく、思わず視界がぼやける。妊娠していることもあり、やはり情緒不安定なのだろうか。涙する私を見て、莉緒はさらに怒りをあらわにした。
「このままじゃ、だめだよ。同居の解消が無理なら、離婚も考えた方がいいんじゃない。」
「でも、この子が生まれた時に、父親がいないとなると、寂しい思いをさせるんじゃないかと思って。」
しかも、頼れる人すらいないため、離婚すれば未婚の母として、一人で子供を育てることとなる。子供に苦労をかける可能性も高い。それゆえに、なかなか離婚する勇気が出なかった。私の気持ちが分かるのか、莉緒は悔しそうに唇を噛みしめる。
「お姉ちゃんが妊娠中だから、お母さんも正斗さんも、上から目線なのかもね。『離婚だけは絶対にない』と思ってるのかも。」
「やっぱり、別れた方がいいのかな。」
今後、正が態度を改めるとは思えない。子供が生まれても、きっと彼は義母の味方をする。それならば、決断は早い方がいいのかもしれない。すると、莉緒が真剣な顔をした。
「一度、正斗さんと話したい。」
「だめ。莉緒が、夫婦間の問題に介入すべきじゃないって、分かってる。だけど、お姉ちゃんが言っても、正斗さんは聞かないんでしょ。」
彼女は、私が苦しむのを黙って見ていることはできないという。
「私たちに両親がいないから、正斗さんたちは舐めてるんだと思う。お姉ちゃんを傷つけるなんて、家族として許せないよ。」
「莉緒の気持ちは嬉しいけど、これ以上迷惑はかけられないわ。だから、私なら大丈夫。」
「もちろん、正斗さんを変に刺激しないようには気をつけるし、一旦、私に任せてみてほしい。」
莉緒がここまで考えてくれているなら、頼ってもいいのかもしれない。私は迷いながらも、一度、彼女と正を合わせることにした。幸い、義母が友人らと出かける予定が入っていたため、その日に莉緒を自宅に呼んだ。
「莉緒ちゃん、いらっしゃい。久しぶりだね。」
正は莉緒がなぜ来たのか知らないので、笑顔で彼女を迎える。私は内心ヒヤヒヤしながらも、お茶を出して席に着いた。その瞬間、莉緒がゆっくりと口を開く。
「正斗さん、お姉ちゃんが妊娠してから、特に問題はないですか?」
「問題なんて、全くないよ。母さんが千歳を支えてくれてるんだ。今のところ、お腹の子も順調に大きくなってるしね。」
「お母さんが、お姉ちゃんを嫌ってるっていうのは、本当ですか?」
直球の質問に、正の顔が曇る。そして、彼は私を鋭い目つきで睨みつけてきた。莉緒に余計な話をしたことに苛立っているのだろう。
「莉緒ちゃんが千歳の味方をするのは分かる。だけど、千歳の話だけを信じるのは、やめてほしいかな。」
「どういうことですか?」
「母さんは確かに、千歳のことが苦手みたいだけど、それでもうまくやっていこうと努力してるんだ。家事だって、教えるくらいには千歳を可愛がってるんだよ。」
貼り付けたような笑みを莉緒に向ける正。彼は、この状況でも義母の味方のようだ。
「千歳は家事があまり得意じゃなくて、母さんに普段は任せっきりでさ。だけど、母親になるからには、このままじゃだめだろ。それで教わり出したくせに、莉緒ちゃんに愚痴ってたとはな。」
「私は、教わりたくて教わってるわけじゃない。そもそも、お母さんは私に家事を強要してるだけ。そう、何度も説明してるのに。」
「お姉ちゃんは、今、妊娠中なんですよ。本来なら、体調を気遣って、正さんが家事を手伝うべきだと思います。仕事で忙しいのは分かりますが、せめてお姉ちゃんを守ってください。」
莉緒は顔をしかめ、畳みかけるように言った。彼女は妊婦がどんなに大変かを説明し、正を説得にかかった。すると、彼の声が途端に弱々しくなる。
「そうか。俺は、千歳のこと、全然気づかなかったんだな。」
「え、急にどうしたの?」
「いや、妊娠しているって知ってたはずなのに。俺、千歳は努力家だから大丈夫だと過信してたんだ。まさか、妊婦さんがそんなにも苦労しているとは思わなくて。」
態度を一変させ、正は私に頭を下げた。
「ごめん。俺、母さんのことを優先するあまり、君に冷たかったよな。実は、千歳から家事を教えてくれと頼まれたって、母さんから聞かされててさ。だから、どれだけ辛くても頑張るべきだと思って。」
「私は、体調が悪いのに無理やりさせられたって、話したよね。どうして、お母さんの話だけ信じるの?」
「いや、千歳の話も嘘だと思ってたわけじゃないんだ。お互い、何か勘違いしてるのかなって。とにかく、つわりも大したことないだろうし、家事くらいやればいいのにと思ってたんだ。すまない。」
沈痛な面持ちで謝る正に、私は呆然とした。彼は今まで、面倒な顔をするだけで、こちらの話をろくに聞いてくれなかったのだ。急に反省しているような素振りを見せられても、信用するのは難しい。莉緒も困惑して黙り込み、私に視線を向ける。
「本当に、申し訳なく思ってる。俺は、自分が情けないんだ。千歳が望むなら、同居を解消しても構わない。」
「本気で言ってるの? お母さんに、納得してもらえる?」
「何が何でも説得するから、千歳には安心してほしい。それに、俺はもう君を責めたりしない。家事や育児もやるって、約束する。」
彼にここまでの誠意は見られなかった。そもそも、正の口から同居の解消を提案されること自体、予想外だ。私だけでなく、莉緒にも注意されて、自分が間違っていることに気づいてくれたのだろうか。
「お姉ちゃん。」
「莉緒、ありがとう。私、もう一度だけ、正を信じてみようと思う。」
「本当か?」
「でも、勘違いしないで。また同じようなことがあったら、次はないから。」
目を輝かせて、正が私の手を握る。莉緒は何か言いたげだったものの、口を閉ざした。ただ、帰宅する直前、そっと私に耳打ちする。
「また何かあったら、いつでも相談してね。」
莉緒が来てくれなければ、正は反省しなかったかもしれない。彼女には心から感謝していた。すると、莉緒の帰宅後、正がおずおずと私に近づく。
「千歳、『次はない』って言ってたけど、それってもしかして、離婚を考えてるってこと?」
「そうよ。可能性はあるわ。」
私はそう伝えて、話を終わらせた。とにかく、義母が帰ってきてからの正の態度によって、今後のことを決めたい。
「同居の解消、母さんに伝えてみてね。」
「分かったよ。」
彼の声には覇気がなく、正直不安ではあったものの、しばらく様子を見ることにした。
「母さん、今後、一緒に住むことはできないかもしれない。」
義母が帰宅すると、正はすぐ様、彼女に声をかけた。当然、義母は状況を飲み込めず、呆然とする。
「いきなり、何を言い出すの? 正斗、千歳さんから何かされた?」
「俺は、千歳と離婚したくない。母さんのことも心配だけど、それだけは譲れないんだ。」
「どうして? 同居は絶対に続けるって、言ってくれてたじゃない。」
彼女は地団駄を踏み、正にしがみつく。そして、私をきっと睨みつけた。
「あなたが、離婚を切り出したの? この子がどんな思いで同居を受け入れてくれたか、分かってる? 私を捨てるなんて、許さないから。」
何が何でも正と離れるのが嫌なのだろう。義母はわめき散らして、同居解消を拒んだ。その姿はあまりにも異様で、恐怖すら感じる。正は彼女をなだめながら、事情を説明した。
「俺たち、母さんに甘えすぎてたことに気づいてさ。自分たちのためにも、家を出ようと思ったんだ。これからも様子を見に来るし、孫にも合わせるつもりだから、安心してほしい。」
「甘えてくれていいのよ。私は、正のためなら、家事は全部するもの。」
「そういうわけには、いかないよ。子供も生まれるし、俺も父親として、しっかりしようと。」
「やっぱり、親のいない女と結婚させたのが、間違いだったのね。自分には両親がいないからって、私と正を引き離して……」
唇を噛みしめ、恐ろしい形相で呟く義母。彼女の耳に、正の声は入っていないようだ。すると、義母は血走った目でこちらを見つめ、勢いよく迫ってくる。
「子供を盾にして、正に同居の解消を求めたんでしょう。私がそんなにも嫌い? 家事を教えてあげているのに。」
一瞬ひるんだものの、私は彼女を睨み返した。
「つわりでしんどい中、家事を押し付けられて、悲しかったです。お母さんこそ、私がいたらストレスでしょうし、お互いのためなんですよ。」
「うるさい。」
声を上げた瞬間、義母が力任せに私の体を突き飛ばす。とっさにお腹をかばったものの、思わず転倒してしまった。
「千歳、大丈夫か? 母さん、やりすぎだ。」
「そんなことをしたら、子供が……この女は、私たちを舐めてるのだから、ちゃんと教育しないと。横になってないで、今すぐ私に謝罪しなさい。」
起き上がるよう求められるも、恐怖で体が動かない。私は身の危険を感じ、這いつくばるようにして義母から離れた。だが、その時。
「この、嫁のくせに、私に従いなさいよ。」
義母が叫び声をあげながら、私のお腹を蹴り上げる。あまりの痛みに、うめくことしかできなかった。
「千歳、おい、千歳ってば。」
正が懸命に私に呼びかける。しかし、彼の声は聞こえるのに、口が動かない。その間にも、義母は私を蹴り続ける。
「母さん、やめろ。落ち着いてくれ。」
薄れゆく意識の中、倒れ込む私を見下ろして、義母は鼻で笑った。
「たまたまだろ。泣くな。」
たまたまではない。義母はわざと私を転倒させて、お腹を蹴っているのだ。そう叫びたいのに、やはり声は出ない。とにかく、救急車を呼ばないと。動揺しながらもスマホを手に取る正。ただ、あろうことか、彼は私ではなく義母に寄り添った。
「母さん、今回のことは、事故だった。そういうことにしよう。」
「たまたまだったって、今言ったよね。つまり、偶然足が当たっただけでしょ。」
「正斗、やっぱり、あなたは私を大切にしてくれるのね。」
「そりゃ、俺だって母さんを犯罪者にしたくないし、千歳が不注意で転んだだけだって、俺が証言するから。」
「ありがとう。安心したわ。」
正は、すでに私が気を失っていると思っているようだ。意識を手放す直前、嫌な予感が胸をよぎる。お腹の子は、どうなってしまうのか。激痛と戦う中、いつしか私の視界は真っ暗になっていた。
そして、次に目を覚ました時、医師から衝撃の事実を告げられる。
「流産しました。残念ですが、お腹の赤ちゃんは……」
事実が受け入れられず、目の前が真っ暗になった。私はあの後、救急搬送されたものの、強い衝撃で胎盤がはがれ、病院に着いた時には、もう赤ちゃんは助からない状態だったそうだ。医師から話を聞いた途端、赤ちゃんを守ることができなかった後悔で、涙が止めどなく溢れる。流産したのは、義母のせいだ。それをかばおうとした正にも、強い怒りを覚える。私は、絶対に二人を許さないと心に決めた。
すると病室のドアが開き、義母と正が入ってくる。彼らは心配そうな表情で、私に近寄ってきた。
「千歳、大丈夫か? 先生から聞いたよ。実は、赤ちゃんはもういないんだ。」
「まさか……転倒した時にお腹をぶつけるなんて。残念だけど、千歳さんが無事で、良かったわ。」
誰のせいでこうなったか、分かってますか? 搬送されるまでの出来事が、なかったかのように話す二人。そんな演技で、私が騙されるとでも思っているのだろうか。彼らの態度に、ふつふつと怒りが込み上げる。ただ、語気を強めても、二人はとぼけた。
「どうしたんだよ。俺たちのせいだって言いたいのか? 千歳の不注意で転んだのに、責任転嫁するのはやめてくれ。」
「嘘をつかないで。正も見てたでしょ。私がお母さんに押されて、お腹を何度も蹴られたの。」
「ひどい。私は、そんなことしないわ。千歳さんたら、ショックで混乱してるのね。まだ、状況が飲み込めていないんでしょ。」
あくまでも、彼らは白を切るつもりのようだ。私は拳を強く握りしめ、冷静を装った。
「あの時、私が意識を失ってると思ってたんでしょう。でも、二人の会話、聞いてるの。互いに口裏を合わせて、『事故』ってことにしようとしてるのよね。」
畳みかけると、正が目を泳がせる。私に聞かれていたとは、思っていなかったようだ。だが、義母はそれでもまだ首をかしげる。
「千歳さん、落ち着いてちょうだい。私たちが、そんなことするはずがないでしょう。私は、千歳さんの夫の義理の母親よ。」
「今までの私への振る舞いまで、否定する気ですか? お母さんの立場で、散々嫌みを言っていたくせに。私のこと、本当に舐めていますね。」
「分かったわ。千歳さんは自分のせいで流産したと思いたくないのね。千歳さんが楽になれるなら、私のせいにすればいいわ。私は、今の千歳さんを責める気にはなれない。事実を受け入れられない気持ちも、分かるから。」
義母は、何があろうと自分の罪を認めるつもりはないらしい。そんな彼女をかばうために、正も声をあげる。
「いい加減、母さんの優しさに甘えるのはやめろ。俺は、千歳がかわいそうだから、責めないようにしてたのに。」
「そうやって、また私を悪者にするのね。あなたが、お母さんの暴走を止められなかったから、こうなったのに。」
「お前、いい加減にしろよ。心配して救急車を呼んで、損した。もういい。母さん、帰るぞ。」
彼は怒ったのか、義母の腕を掴んで病室を出ていこうとする。
「私は、今日一日、様子を見るために入院する予定だ。帰るのは、明日でしょう。」
「帰宅する時間になったら、また連絡するから。」
「勝手にしろ。俺は、もう知らない。明日までには、機嫌を直しておけ。」
こちらを見もせず、正は去っていった。義母は私を一瞥して、強気な笑みを浮かべる。彼女は、うまくごまかせたと思っているようだ。私はただ静かに、次の来客を待った。
それから十分後、慌てた様子で莉緒が病室にやってくる。
「お姉ちゃん!」
彼女は私の顔を見た瞬間、目を潤ませた。連絡を受けて、心配してくれていたのだろう。莉緒の隣には、顔馴染みの男性が立っていた。
「ああ、莉緒、涼介君も来てくれたのね。仕事、忙しいのに、ごめんなさい。」
「いえ、今日は休みだったので、大丈夫です。それに、莉緒がパニックに陥ってたので、早く来ないとって。」
不安げな顔で、彼女に視線を送る涼介。彼は、莉緒の彼氏だ。私が病院に搬送されたと聞いた時、彼女と一緒にいたそうだ。
「お姉ちゃんに、何かあったらって、不安で。赤ちゃんのことも、話、聞いたよ。ごめんなさい。二人とも、迷惑かけちゃったわね。」
「残念だけど、莉緒の言う通りみたい。」
そう口にした途端、涙が込み上げてくる。正と義母がいなくなったことで、強がる必要もなくなり、気が緩んだようだ。莉緒は、そんな私の背中をそっとさすった。
「私が、もっと慎重に動けばよかったよね。」
「今回のこと、正斗さんたちが、絡んでるんでしょ。」
この段階ではまだ事情を伝えていなかったものの、彼女は薄々勘づいていた。莉緒が家を去った後、義母の暴走が起こったのだ。察するのも、理解できる。私は隠す必要もないと思い、先ほどまでの出来事を一部始終語った。すると、莉緒は涼介と顔を見合わせて、目を吊り上げる。
「妊娠してるお姉ちゃんのお腹を蹴ったの? そんなの、犯罪じゃん。許せない。」
「旦那さんも、母親の犯罪を隠すために、嘘をついたんですね。自分たちは、何も悪くないと。」
「うん。口裏を合わせている会話は、この耳でしっかりと聞いた。正は多分、身内から犯罪者を出したくなかったんだと思う。だけど、ここまでされても、お母さんをかばうとはね。」
正は、私よりも義母を大切にしている。その事実を突きつけられて、動揺が隠せない。
「私が注意した時、お姉ちゃんに謝罪してたのも、全部嘘だったんだ。正斗さんは、反省してなかったってこと。」
私に対して何度も謝る正を見ていたからこそ、莉緒は愕然とした。彼女が驚くのも無理はない。私だって、少しは期待していたのだから。
「彼が反省するなんて、ありえないことだったのよ。騙された私が、バカだった。」
「そんなこと、ない。お姉ちゃんは、何も悪くないんだから。これから、どうするの? 当然、正斗さんとは離婚するよね。」
私の手を取り、まっすぐに視線を向ける莉緒。彼女の言う通り、正とはもう夫婦生活を続けられないと思っている。そもそも、暴力を振るってきた義母のいる家で暮らすなんて、無理だ。
「なかなか決められなかったけど、もう限界。さすがに、離婚するよ。」
「よかった。お姉ちゃんなら、きっと大丈夫だよ。」
莉緒の言葉もあり、ようやく私は離婚の決意を固めた。ただ、やるべきことは山積みだ。
「明日、退院したら、即刻動くから、莉緒にも涼介君にも、力を借りたい。どうか、協力してください。」
私は二人に向かって、頭を下げた。彼らは目を細めて、すぐに口を開く。
「もちろん、頼まれなくても協力するよ。そのつもりで、今日来たんだから。」
「俺たちに任せてください。千歳さんのために、頑張ります。」
「ありがとう。」
こんなにも心強い味方がいるのだから、きっと大丈夫。私は絶対に、正と義母を地獄に叩き落とそうと決めた。
そして、入念に計画を練り、迎えた翌日。
「タクシーで帰るから、迎えには来なくていい。」
私は正に、病院には来ないよう連絡を入れた。
「こっちは心配してやってるのに、まだ俺たちが悪いと思ってるんだな。もういい。勝手にすれば。」
彼は声を荒げ、こちらの話など聞かずに一方的に電話を切る。ただ、タクシーで帰るというのは真っ赤な嘘だ。私は莉緒に迎えに来てもらい、彼女の車で病院を出発した。その後、銀行で用事を済ませ、いよいよ義母たちの待つ自宅へと帰る。
「お帰り……え?」
玄関のインターフォンを押すと、正が顔を出した。だが、彼は面食らって言葉を失う。
「ただいま。家に入れてくれる?」
「待てよ。なんで、莉緒ちゃんも一緒なの? それに、後ろにいるのは誰だ?」
実は、私は莉緒と涼介を連れて、三人で帰宅したのだ。事前に涼介にも来てほしいと伝えていた。だから、彼も莉緒の車に乗っていたのだ。正はもちろん、そんなことを知らないので、困惑を隠せていない。
「余計な人まで連れてきて、何をしたいの? 事情をまず、教えてくれ。」
驚きながらも行手を阻もうとする彼を押しのけて、家に入った。莉緒と涼介も、私の後に続く。
「ちょっと、千歳、莉緒ちゃんを巻き込んで、また俺たちを悪者に仕立て上げるつもり? 昨日も説明したよな。事故は、あくまでも千歳の不注意だって。」
「正は、そう言うでしょうね。でも、私は納得してない。それを証明するためにも、莉緒と涼介君に、いてもらわなくちゃいけないのよ。」
「一体、何があったんだ?」
義母も、リビングに入ってきた私たちを見て、目を丸くする。てっきり、一人で帰ってくると思い込んでいたようだ。ちなみに、義母の隣には、義父が座っていた。
「お父さんも、帰ってきていたんですね。」
「昨日、病院に駆けつけられなくて、すまない。正斗と母さんから、事情は聞いている。その後、辛かっただろう。」
「お父さんも、今は正たちの話を信じてるんですよね。私が、自分で転んでお腹を打ったと。」
「違うのか?」
彼は私の発言を受けて、首をかしげる。義母は一瞬、鋭い目つきでこちらを見たものの、わざとらしく悲しげな顔をした。
「千歳さんたら、私たちを恨んでも、しょうがないでしょ。お父さん、実は昨日、色々あってね……」
「お母さんは、また無実だと言い張るんですか? こちらは、すでにある映像を警察に提出してるんですが。」
彼女は口をポカンと開けて、固まった。正も、警察という言葉にひるんだのか、肩をビクっと揺らす。だが、すぐ様苦笑いを見せた。
「映像って、何の話? 千歳、さっきから、おかしくなったのか? 一旦、冷静になった方がいいぞ。家族に当たり散らすなんて、最低だ。」
「そうやって馬鹿にしていればいいわ。でも、映像を確認しても、白を切り続けられるかしらね。」
私はスマホを手に取り、とある動画を再生させる。そして、画面を正と義両親に見せた。
「何よ、これ。」
映像が進むうちに、だんだんと義母の顔が真っ青になっていく。正も、言葉が出てこないのか、立ち尽くしていた。そんな中、義父が目を凝らす。
「これは、リビングの映像か。母さんと正斗と千歳さんが、言い争っている。」
「やめて!」
反論しようにも、義父に見られたら都合が悪いものでも映っているのだろう。義母は、私のスマホに手を伸ばそうとした。しかし、義父は彼女を静止した。
「落ち着きなさい。なんで、そんなに焦ってるんだ? 千歳さんが確認してほしいというのだから、最後まで見てみようじゃないか。」
「こんなもの、見たところで、何の意味もないのだから。」
「意味がないかどうかは、俺が判断する。とにかく、静かにしてろ。」
義母がうろたえている間にも、動画は進む。私は音量を大きくした。その時、聞こえてきたのは義母の怒声。
「うるさい。」
画面の中の彼女は、勢いよく私を突き飛ばした。倒れた私のお腹を蹴り上げ、さらに叫び続ける。義父は愕然としたまま、スマホに目をやっていた。実は、今再生しているのは、昨日、私が義母に蹴られた瞬間だった。
「母さん、今回のことは、事故だった。そういうことにしよう。」
義母の叫びだけでなく、正の冷酷な言葉も聞こえてくる。義父の表情が、一瞬で凍りつく。
「今のは、正斗が言ったのか。」
義父が疑うのも無理はない。妻と息子が、画面の中で信じられない言動を繰り返しているのだから。映像の中の彼らの足元には、私が横たわっている。
「お父さん、騙されないで。これは偽物よ。千歳さんは、私たちを嵌めるために、こんな動画を作ったの。」
義母は震える声で、義父に無実を訴えた。しかし、義父は鋭い目で彼女を見る。
「これが、偽物だというのか。いくらなんでも、おかしいだろう。母さんと正が映っていて、しかも声も同じだ。」
「それにしても、ここまで俺たちが気に食わないのか。父さん、落ち着いて話を聞いて。千歳は、昨日の事故を俺たちのせいにしようとしてるんだ。」
正は焦りながら、言い訳を繰り返した。それでも、義父は二人を疑っているようだ。
「お前らの話を信じることはできない。この映像は、どこからどう見ても、本物だろう。」
「お父さん、驚かせてごめんなさい。説明するよりも、見てもらった方が早いと思ったんです。」
「千歳さん、この映像は、昨日のものか。どうやって撮影したんだ? 教えてほしい。」
「あれです。」
私は、リビングの棚を指さした。そこにあるのは、小型の防犯カメラだ。義母と正が気づいたのか、一瞬で凍りつく。
「なんで、家にカメラがあるの?」
このカメラは、正と義母がいない間に、私が設置したものだ。実は、莉緒に二人のことを相談した日、彼女に提案された。
「話を聞く限り、今の家にはお姉ちゃんの味方はいないし、二人がどんな行動に出るかも分からない。だから、念のため、隠しておいた方がいいと思う。」
「隠すって、例えば?」
「会話を録音したり、二人の行動を映像として記録しておくとかかな。何かあった時、証拠になるでしょ。」
私の身を案じていた莉緒のアドバイス通り、キッチンとリビング、そして玄関などにカメラを置いた。もちろん、活躍するなんて考えていなかったが、設置してよかったと思う。
「俺、ちゃんと千歳に謝罪したよな。それなのに、疑ってたってこと? 家族を隠し撮りするなんて、最低だ。」
先ほどまで絶望していた正が、怒りをあらわにして声を張り上げる。私は思わずため息をついた。
「これまでの言動を振り返った結果、正がそう簡単に謝るとは思えなかったの。実際、反省していなかったから、お母さんと口裏を合わせようとしたのよね。」
「あれは……俺は、あんなこと言ってない。どうせ、千歳が音声を編集したんだろう。俺は、倒れた千歳を本気で心配していたのに。」
「お母さんが蹴ってる間、どんな気持ちだったの? 無理やりにでも、止めるべきだったのに。ただ慌ててうろたえるだけ。自分の妻と子供の命が危険にさらされていても、動いてくれなかった。」
今更、動画が偽物だと言っても無駄だ。実際、義父は疑いの目で、正と義母を見ている。それに、正自身が気づいているのだろう。悔しそうに顔をしかめて、黙り込む。
「証拠映像が撮れて、よかったわ。お父さん、これで、私の話を信じてくれますか?」
私は義父に声をかけた。彼は、言葉が出てこないのか、静かに目を泳がせる。
「お母さんと正が、こんなことをするはずがないと思う気持ちも、分かります。だけど、確固たる証拠があるんです。分かってください。」
「そうだな。あの時、ちゃんと千歳さんの話を聞くべきだった。」
「あの時っていつ? どういうこと?」
義母は、今にも泣きそうな顔で義父に問いかけた。実は、私は事前に、義母のことを義父に相談していたのだ。あれは今から一ヶ月前のこと。
「お父さん、お忙しいところすみません。少し、お時間いただけないでしょうか?」
遠方に住む義父を頼るのは申し訳ないものの、助けを求められるのは、彼しかいない。私は電話をかけて、義母の振る舞いと正の態度を伝えていた。しかし、義父は最初、私の誤解だと考えて、まともに取り合ってくれなかった。
「母さんは、千歳さんに頑張ってほしいから、少し口調がきつくなってるんだと思う。あいつは、嫁いびりをするような人間じゃない。」
「ですが、実際に、言われてるんです。正に相談しても、彼はお母さんをかばってばかりで……」
「親子だから、複雑なんだろう。あまり、息子を苦しめないでやってほしい。また、そちらに帰った時にでも、改めて話を聞くよ。」
声色からして、面倒だと思っているのが手に取るように分かった。だが、自宅に戻ってきたタイミングで相談するにしても、義母に邪魔されるに決まっている。以前と同様に、義父とゆっくり話す時間などないだろう。そう思った私は、なんとか義母と正の言動を証拠として残したかった。だから、莉緒の助言に従って、カメラを設置したのだ。
「ここまでひどい仕打ちは初めてでしたが、お父さんは、この映像を見ても、お母さんたちをかばいますか?」
義父に視線を送ると、彼は顔を真っ赤にする。
「千歳さん、俺の妻と息子が、迷惑をかけて、申し訳なかった。今回のことは、全部、二人が悪い。千歳さんの話は、本当だったんだな。」
「父さん、なんで、この女の言うことを信じるの? 私たちは、やってないって言ってるじゃない。」
「いい加減にしないか。千歳さんを蹴ってるのは、どう見ても、お前だろう。お前のせいで、孫が死んだ。千歳さんは、怪我をしたのに。」
さすがに証拠があったからか、義父は態度を一変させ、怯える義母に声を荒げる。そんな彼を止めるべく、正が声をあげた。
「父さん、落ち着いて。千歳は、俺たち家族が仲違いするのが、狙いなんだ。この映像は、父さんを騙すために作られてる。」
「正斗、なぜ、千歳さんを守らなかった? 母さんをかばうなんて、おかしいだろ。」
「だって、母さんも、悪気があったわけじゃないし。」
「お前は、妻が蹴られても、何とも思わないのか。」
激しく怒る義父を見て、正は涙目になる。ここまで怒り狂う父親を見たことがないのだろう。正と義母は、それでも言い逃れしようと話を続ける。
「蹴ったのは、転んだからよ。千歳さんが転んだから、起き上がらせようとして。その時、私まで足を滑らせちゃって、当たっただけで。」
「母さんは、内心では自分を責めてるんだよ。千歳に怪我をさせたことも、後悔してて。だから、これ以上、言わないでやってくれ。」
「昨日、二人は病院で、私の不注意だと言い切ったわよね。自分を責めてるなら、謝罪くらいするべきじゃない?」
「何言ってるの? 私は昨日、ちゃんと謝ったじゃない。」
家には防犯カメラがあるものの、病院での会話は、記録に残っていない。だからか、義母は自信ありげに告げた。しかし、病院の会話も、ちゃんと録音してある。私はボイスレコーダーを、ポケットから取り出した。
「これに、昨日のお母さんたちの言葉、録ってあります。『流産したのは私のせいだ』って、断言した音声。聞きますか?」
「病院でも、録音していたの……てっきり、家族だと思ってたのは、私たちだけだったのね。」
義母は取り乱して、泣き真似を始める。正はそんな彼女の肩に手を置き、こちらを睨みつけた。
「俺と母さんを苦しめて、満足か。どうせ、警察に提出したとか、全部はったりだろ。俺たちを、そこまで嫌ってるとは思わなかったよ。」
絶望した表情の彼に、私は微笑みを向けた。
「なぜ、はったりだと思うの? 映像は、被害届けと共に、提出済みよ。」
「退院して、その足で、もう警察に行ったのか。嘘をつくなら、もっと上手くやれよ。」
「だから、迎えを断ったのよ。タクシーで帰ると言って、警察署に直行したの。」
「本当なのか?」
驚きのあまり、硬直する正。その隣で、義母は目を白黒させる。私は先ほど、莉緒と涼介と共に警察署に行き、被害届を出してきたのだ。証拠として映像を提出しているため、きっと捜査してくれるだろう。
「本来は、接触を控えるべきかもしれないけど、せめて荷物くらいは持って出ていこうと思って、わざわざ帰ってきたの。」
「ふざけないで。ちょっと怪我しただけで、警察だなんて。余計なことばっかりして。」
義母は、すぐさま私の手元からスマホを奪おうとした。すかさずかわすと、次は防犯カメラを壊そうと、棚に手を伸ばす。
「こんなもの、今すぐ捨ててやる。」
「捨てるのは結構ですが、映像は全てパソコンに保存しています。そもそも、警察に提出しているので、壊しても意味ないですよ。」
「私の人生、めちゃくちゃにするつもりなの?」
そう叫んだ途端、義母は床に突っ伏して号泣し始めた。顔を覆って泣き崩れるくせしておいて、警察沙汰だけは嫌だったようだ。
「私は、自分の子を、あなたに奪われたんです。人生がめちゃくちゃになるのは、全て自業自得ですよね。」
「自分の子って言ったって、まだ生まれてなかったでしょう。こっちは、大切な一人息子も、奪われたんだから。」
涙ながらに語る義母だが、彼女の考えには、何一つ共感できなかった。義母はどうも、同居の解消を提案された際、私に「息子」を奪われる気がしたらしい。
「正斗がここまで立派に成長したのは、私のおかげ。私がいなければ、あんたは正と結婚だって、できなかった。それなのに、私から正を取り上げるなんて、おかしいじゃない。」
だから、義母は私にも、子供を奪われる悲しさを味わせたかったという。彼女のそんなわがままで、私は生まれてくるはずだった我が子を失った。怒りから、頭に血が登るのを感じる。
「あんたのせいで、私の子供は死んだの。自分が何をやったか、まだ理解してないのね。」
思わず語気を強めると、義父も重々しく口を開いた。
「母さんが、そこまで最低な人間だとは、思っていなかった。そもそも、腹の中にいた子は、千歳さんと正斗の子なんだぞ。正斗だって、悲しむことになる。」
「お前は、それでも良かったのか?」
「こんな女との間に生まれる子なんて、正には必要ない。もっとふさわしい女性と結婚して、新しい子を産めばいいでしょ。私は、間違ったことしてないから。」
義母は「全部私が悪い」と告げると、わんわんと泣き続ける。正は、これ以上言い訳をしても無駄だと感じたのか、黙って義両親を見つめていた。そんな中、義母は正の手を取る。
「正斗、私の味方をしてくれるわよね。あの女に、今すぐ言い返して。『お前との子供なんていらない』って。」
彼女は泣き叫んで、助けを求めた。だが、正は義母から目をそらす。私たちのやり取りを、しばらくの間見守っていた莉緒と涼介。そこで、涼介が一歩前に出た。
「千歳さんに怪我を負わせたことも問題ですが、正斗さんたちは、他にも犯罪を犯していますよね。」
「なんだよ、いきなり。よそ者は、黙ってろ。今、俺たちは家族間で話し合ってるんだ。」
突然話し出した彼に驚いたのか、正が目を丸くする。
「俺は、千歳さんに頼まれて、ここに来てるんです。」
淡々と告げる涼介に、正は言葉をつまらせた。彼が何者か分からず、返答に困っているようだ。私は、そんな正に、別の動画を見せた。
「正とお母さん、私の通帳と印鑑とキャッシュカード、盗んだよね。」
「何を言って……」
「千歳さん、それは本当か?」
戸惑う義父に、再度スマホを向ける。そこに映っていたのは、リビングのテーブルに座る正と義母。二人は機嫌がいいのか、楽しそうに談笑していた。正の手には、見覚えのある通帳が握られている。
「最近、二人とも、懐が良くなって、違和感を覚えてたの。正は給料が増えたわけではないし、お母さんは専業主婦。貯金を使ったにしては、妙に不思議だったから、理由を探ったの。」
ちょうどその頃、本格的に離婚を考え始めていた私は、正にバレない範囲で荷物をまとめようとした。しかし、貴重品を保管していた場所から、通帳と印鑑とカードが消えていることに気づく。
「防犯カメラを設置して、よかったわ。まさか、二人が私の通帳を持ってるとは思わなかったから。」
画面内の正と義母は、満面の笑みでお金の使い道を話していた。どうやら、正は怪しげな投資にお金をつぎ込んでいるようで、義母は高級ブランド品を購入する予定らしい。
「千歳の金を好き勝手に使えるなんて、結婚してよかったよ。」
「これからも、彼女と夫婦を続けないとね。盗んだことが、くれぐれもばれないようにしてちょうだい。」
「当たり前だろ。ちゃんと俺が保管しておくから、安心して。」
二人の会話を聞くうちに、義父の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。家族が泥棒だったなんて事実を知ったら、誰だって絶望するだろう。ちなみに、二人が持っていた通帳は、両親の遺産が入っている口座のものだった。
「このお金は、私のお父さんとお母さんが、残してくれたもの。正たちが使っていいお金じゃないのよ。私たちの両親が、どんな思いで託してくれたか、分かる? いつか私たちが困った時に使えるようにって、コツコツ貯めたお金なんだから。」
私は顔を歪め、正と義母に怒声を浴びせた。映像を確認して分かったが、正が私との離婚を拒んだのは、おそらくお金のためだ。自由に使えるお金がなくなるのが嫌で、しぶしぶ謝罪までして、夫婦生活を続けようとしていた。
「同居を解消しても、正がこっそり盗めばバレないとでも思ってたのよね。ただ、離れて暮らすとなると、お母さんはお金を盗めなくなる。だから、同居の解消を嫌がったんですか?」
「そうじゃないわ。私は、正と離れたくなかっただけ。千歳さんのお金のことなんて、私は知らないもの。」
「そうだ。この映像で俺が持ってるのは、あくまでも俺の通帳だって。」
「私の名前を口にしてるのに、さすがにその言い訳は無理があると思うけど。」
私がそう告げた途端、二人は顔を見合わせて黙り込む。義父は、もう完全に憔悴しきっていた。
「千歳さん、本当に申し訳ございませんでした。」
「いいんです。お父さんは、何も知らなかったんですし、今回のことは、全部、正とお母さんの犯罪ですから。ただ、もっと早く気づくべきだった。」
私はすでに、銀行に通帳やカードの紛失を伝えてある。無事に通帳とカードを再発行し、印鑑も変更した。だから、今後は正がお金を引き出すことはできない。だが、私は彼らの犯罪を知った瞬間、後悔した。私が二人にバレないよう、管理すべきだった。まさか、正が貴重品のありかを知っていたなんて。
両親の遺産があることは、結婚時に正に告げていた。将来、子供が生まれたり、老後を迎えたりした際に、役立つかもしれない。その時が来るまでは、大切に保管したいと伝えてあったのだ。正は、私の気持ちを理解し、遺産を取っておくことに賛成した。それゆえ、安心しきっていた。だけど、裏切られるなんてね。自分の私利私欲のために、お金を使うとは思っても見なかったわ。
「だから、俺は盗んでないってば。千歳が、俺に貸してくれたんだろ。夫だからって。」
喚くかと思いきや、急に正がニタニタと笑い出す。この場を切り抜けるアイデアを思いついたようだ。
「この家にあるものは、俺たち家族のものだ。千歳は、親族相盗例なんて、知らないよな。俺は配偶者だから、免除されるんだぞ。」
どうやら彼は、自分が窃盗罪に問われないことに気づいたらしい。饒舌になったかと思えば、得意げに語り出す。だが、私だって当然、そのことを知っている。
「あなたが配偶者だから、言い逃れすることくらい、容易に想像できてたわ。だから、弁護士に相談した。」
「弁護士だと?」
「民事訴訟を起こして、損害賠償請求をするつもりなの。私から奪ったお金、返してもらうから。」
二人が通帳を盗んだと知った時、私はすぐさまお金を取り返そうと動いた。今回のお金は、両親の遺産だ。盗まれたままだと、天国にいる両親に顔向けができない。そう思い、私は今日、相談した弁護士を連れてきたのだ。しかし、私の発言に正はプッと吹き出す。
「弁護士に相談なんて、どうせ脅しだろ。そこまで千歳がするとは、思えない。手間だってかかるし、費用もかかるし。」
「だから、実際に弁護士をお連れしてるんだってば。」
「は? じゃあ、その弁護士も、この場に呼んでこいよ。」
彼は、何も分かっていないらしい。すると、涼介が声をあげる。
「弁護士は、私ですが。」
「あ、お前が?」
リオの彼氏が弁護士というのは、想定外だったらしい。正は目を丸くして、涼介を凝視した。義母は、民事訴訟という言葉を聞いた瞬間から、固まっている。
「そうか。千歳さんは、そこまで準備していたんですね。」
義父は、もう正と義母をかばう気などないようだ。ただ、私の口から語られる事実を聞いて、頷くだけだ。だが、正は納得いっていないようだった。
「この男が、弁護士なんて嘘だ。俺たちを騙そうたって、無駄だぞ。」
正は涼介を疑い、弁護士を語っていると決めつける。そこで涼介は、弁護士バッジを見せた。
「これでも信じられないなら、登録番号でも調べてください。俺は、こちらの県の弁護士ですから。」
私も、莉緒の彼氏が弁護士だと知った時は、驚いたものだ。しかし、こういった時に力を貸してくれるのは、ありがたい。証拠を次々と出されて、認めざるを得なくなった正は、悔しそうにうなる。
「どうして、弁護士に依頼するんだよ。俺たちに、直接聞くべきだ。」
「盗んだかどうか尋ねても、知らばっくれるくせに。私は、確実な方法で、あなたたちからお金を取り返したかったのよ。」
「だからって、赤の他人に頼りやがって。」
「もうやめろ。千歳さんは、本気でお前らに怒っているんだ。安請け合いしたところで、無駄だぞ。」
義父にたしなめられると、正は顔をそむけた。そんな彼に、私は淡々と告げる。
「とにかく、盗んだお金は全て返してもらうから。正とは離婚するし、慰謝料も請求する。」
「は? 盗んだ金を返すのは、まだいい。でも、慰謝料って何だよ。それに、俺は離婚なんて、認めないからな。」
私が宣言した瞬間、正は眉を潜めた。彼は、お金を奪われることが、どうしても嫌なのだろう。ただ、こちらは二人のせいで怪我を負い、流産までしたのだ。慰謝料を請求してから別れないと、気が済まない。
「正の考えは、もう私には関係ないことなの。何より、お金を盗むような夫と、夫婦生活を続けられると思う?」
「だから、盗んだ金は返すって言ってるだろう。この上、追加で請求されるのが、おかしいんだって。」
「正は、まだ自分が何をしでかしたのか、理解してないんだな。」
義父は頭を抱えた。今回は、私に証拠があるので、正がいくら反論しようと無駄だ。義母はだらりと項垂れる。だが、慰謝料を請求されると知った途端、ガクッと震えた。
「どうして、こんなことになるの? 正が、言ったんじゃない。『千歳さんは、通帳がなくても気づかない』って。」
「私のこと、相当舐めてたんですね。通帳がなくなれば、誰だって気づくとは思うんですけど。」
「だって、千歳は子供のために使うんだろう。つまり、子供が生まれるまでは、手つかずのままだ。わざわざ確認しないと思ったんだよ。」
私が「将来まで取っておく」と話したため、しばらく放置するお金だと思っていたらしい。だから、正は出産までがチャンスだと考えていた。彼らが引き出したのは、総額五百万ほどだった。
「口座に入れて動かさないのは、もったいない。俺が投資に使って、増やしてやろうと考えたんだ。これでも、千歳は俺を攻めるのか?」
「投資で増やしたいなら、自身のお金を使うべきよ。結構前からある、両親の遺産は、私のものなんだから。そもそも、投資で増えたんですか? 慰謝料請求を頑なに拒んでいるということは、今、金銭的に厳しいんですよね。」
莉緒の問いかけに、正が肩を揺らす。彼は何かを言いかけて、口ごもった。
「今後は、不当利得返還請求だけでなく、慰謝料請求と離婚の手続きを進めますので。今、こうして話している内容も、録音しているし、映像もあるから。素直に支払ってちょうだいね。」
「千歳が、そこまで冷たい人だとは、思わなかったよ。」
正は、ここに及んで反省していないのか。義父が激怒するも、正はふてくされたようにため息をつく。そして、冷めた目で私を見た。
「両親がいないと聞いて、ちょうどいいと思ったんだけどな。」
「ちょうどいいって?」
「だって、俺以外に頼れる人がいないだろう。味方がいないから、うまくこき使えると思ったんだ。遺産がある上に、家事だって押し付けたら、やってくれる。だから、結婚を決めたのに、期待はずれだよ。」
「お姉ちゃんを侮辱するのは、やめて。」
私が反論するよりも先に、莉緒が声をあげた。彼女は目を吊り上げて、正を睨む。
「お姉ちゃんは、正斗さんのために、一生懸命頑張ってたのよ。同居だって、お母さんが喜ぶからって、受け入れて。それなのに、裏切ったあなたたちを、私は絶対に許さないから。」
「妹の彼氏が弁護士なら、先に教えてもらいたかった。それなら、こっちだって、対応を変えたのに。」
もういい。正は、反省する気などないことが分かった。
「お前は、俺の息子ではない。」
義父が声を低くする。彼は正が反省してくれるのではないかと、期待していたようだ。だが、どれだけ怒っても、正には響かない。とうとう諦めたのだろう。
「正斗との縁は切る。この家から、出ていきなさい。」
義父は悲しげな表情を浮かべた。
「それって、絶縁するってこと? 俺、一人息子だよ。俺がいなくなって困るのは、父さんだけど、それでもいいの?」
「構わない。お前みたいな息子がいる方が、不快だからな。」
「いやいや、俺は父さんには、何もしてないじゃないか。なんで、そこまでして千歳の肩を持つんだよ。」
さすがに絶縁されるとは思っていなかったのか、正が焦り出す。それでも、義父は顔をしかめたままだ。
「息子だからこそ、厳しくしているんだ。これ以上、甘やかせば、正はさらに苦労することになる。千歳さん、本当にすまなかった。」
義父は私の方を向くかと思うと、深々と頭を下げた。そして、奪ったお金は全額返還し、慰謝料も必ず支払わせると約束してくれた。
「千歳さんに、これ以上、迷惑をかけないよう、気をつけます。」
「お父さん、今まで、ありがとうございました。」
「何、勝手に話を進めてるんだ。俺は、慰謝料なんて支払わない。母さんにも、悪いところはあったんだから。」
「いや、悪いのは全て、母さんと正だ。千歳さんは、被害者なんだよ。構成するチャンスをもらえて、よかったな。」
その後、涼介が正と義両親と話し合う中、私は莉緒と共に荷造りを始めた。
「お姉ちゃん、無理しないでね。しんどいなら、私がやるから。」
「うん、大丈夫。むしろ、手伝わせてごめん。」
「気にしないで。少しでも協力できて、嬉しいよ。」
正は、私のことを全然理解していなかった。確かに、両親はこの世にいない。だが、私にも頼れる人がいる。莉緒という大切な家族が、いつだってそばにいたのだ。彼女がいるから、赤ちゃんを失った悲しみも、どうにか耐えられている。本当に、莉緒には頭が上がらない。
一通り荷造りを終えた頃、正が私たちの元へとやって来る。
「家族である母さんを、警察に突き出すなんて、千歳は恩知らずだな。どれだけ母さんに支えてもらっていたか、分からないの?」
彼は義母を犯罪者にされて、怒りが収まらないらしい。
「母さんがかわいそうだとは、思わない。千歳のことが嫌いなのに、それでも家事をやってくれてたんだよ。蹴ったのはダメかもしれないけど、被害届を出すほどのことじゃない。」
大声を張り上げて、私を攻め立てる正。彼は、どうも義母だけが犯罪者になると思っているようだ。
「正は誤解してる。あなたも、きっと共犯。もしくは、保護責任者遺棄罪に問われるから。正が逮捕される可能性が高い。」
そう伝えた瞬間、正は顔を真っ青にした。
「なんで、俺が捕まるの? 俺は、千歳を蹴ってないだろう。逮捕されるのは、母さんだけだよな。」
「さっき、映像見せたでしょ? 正が嘘をついて、お母さんをかばってる、決定的な証拠があるの。それに、私が蹴られている間、助けに入らなかった。自分は無関係だと思わない方がいいわよ。」
最後の忠告を終え、私は荷物を玄関へと持っていこうとした。だが、正は慌てて、私の腕を掴む。
「俺まで捕まるなんて、ありえない。嘘だと言ってくれ。」
「お姉ちゃんから、離れてください。」
「だめだ。何でもかんでも、勝手に話を進めやがって。今すぐ、俺に謝れよ。」
「千歳さん、大丈夫か?」
義父が間に割って入り、正を止める。莉緒も、私をかばうように前に立った。
「お姉ちゃんを苦しめるのは、もうやめて。」
「千歳さんを、解放してあげてくれ。お前と一緒にいても、千歳さんには、いいことなんてないんだから。」
「だめだ。離婚は認めない。子供は、また産めばいいだろ。だから……」
「あなたの気持ちは、分かった。やっぱり、正とはやっていけない。」
次の子供のことなんて、まだ考えられる状況ではない。そんなことも理解していない正と、共に暮らしていくのは無理だ。私は改めて、離婚の意思を固めた。その間、義母は抜け殻のようになっていた。彼女はただ、呆然と立ち尽くしている。逮捕されることに、怯えているに違いない。でも、それは全て自業自得だ。
私は義母を一瞥して、自宅を出ようとした。しかし、次の瞬間、彼女がまた泣き叫ぶ。
「お願い、被害届は取り下げて。私が間違ってた。あなたにしたこと、謝るから。」
突如、狂ったように床を叩き始めた義母。土下座してすがりつこうとする姿には、かつての威厳など微塵も感じられなかった。
「謝らなくても結構です。少なくとも、被害届を取り下げるつもりはないので。」
「ごめんなさい。本当に反省してるの。千歳さんがちょっと困るだけで、良かった。やりすぎたって、自覚してるのよ。」
義母は、見苦しく顔を歪めて、私の足元でへこむ。だが、私は彼女を静かに見下ろした。
「謝ったところで、赤ちゃんは帰ってこないんです。あの子は、もうここにはいない。」
ついお腹をさすってしまう。その姿を見て、彼女は息を飲んだ。
「私だって、そんなつもりじゃなかったの。まさか、ここまでのことになるなんて。」
「母さん、もうやめろ。」
正の前に立ちはだかっていた義父が、義母に視線を送る。
「千歳さんのことを思うなら、それ以上、騒ぐな。お前に会うだけで、千歳さんは、昨日の出来事を思い出すことになるんだから。」
「でも、許してほしいの。ちゃんと謝罪をさせて。」
「何度も言ってますが、謝られても、私の気持ちは変わりません。お母さんのことは、一生許せないんです。」
「お姉ちゃんに、近づかないで。」
莉緒の怒声に、義母が一瞬ひるむ。私はもう、義母と言葉を交わすことさえ疎ましかった。その時、正が義母の手を振り切る。
「おい、正斗。」
正は義父の呼び止めを無視して、私の正面に立つかと思えば、勢いよく床に頭を擦りつけた。
「千歳、この通りだ。謝るから、俺と母さんを許してほしい。」
彼は私に向かって土下座をして、謝罪の言葉を絞り出す。
「千歳を都合よく使って、ごめん。お前は優しいから、怒らないと思い込んでた。だから、母さんの機嫌だけ取れれば、いいと考えてたんだよ。」
「つまり、私のことなんて、どうでもいいんでしょ。もういいから、離れてくれる?」
「頼む。謝罪させてくれ。被害届を取り下げてほしいんだ。」
「お母さんだけでなく、正まで、そんなことを言うの? 呆れた。」
二人が謝っているのは、何も反省したからではない。逮捕されるのが嫌だから、頭を下げているだけだ。彼らは、どこまで行っても自分本位な人間なのだろう。すると、正は義母をかばい始めた。
「母さんも、つい足が出たんだよ。千歳との生活で、ストレスを抱えてたんだと思う。そのせいで、精神的に参ってて、正常な判断ができなかっただけだ。」
彼は声を震わせながら、必死に許しを乞う。そんなしょうもない嘘をついてまで、事態を収束させようとするとは思わなかった。言葉の端々からは、自分たちの保身ばかり考えていることが伝わってくる。
「お願いです。示談にしてください。」
「無理よ。私の決断は、変わらないから。」
「そんなこと、言わないでくれ。母さんは、寂しかったんだよ。父さんが仕事でずっと家を開けていて、俺だけが心の支えだった。だから、千歳を受け入れられなかっただけで……」
「そうだろう。」
突然、正に話しかけられて、義母が目を見開いた。
「正斗の言う通りよ。私は、息子のことばかり優先していたから、千歳さんとの関わり方が分からなかっただけなの。だけど、反省したから。二度と同じようなことはしない。」
「その話を、信じられると思いますか? 私がいくら反論しても、お母さんは態度を変えなかった。それなのに、今更反省しただなんて、虫が良すぎます。」
「今回ばかりは、本当よ。お願いします。示談にしてください。」
正の隣で、義母まで土下座する。二人の目には、涙が光っていた。追い詰められて、途方に暮れているのだろうか。そう思えば、正がぽつりと呟いた。
「俺、今、借金があるんだ。これで逮捕されたりしたら、仕事がなくなる。返済が遅れるだけじゃなく、慰謝料も支払えなくなるんだよ。」
「え? そんなこと、聞いてないけど。」
衝撃的な事実を知らされて、愕然とする。しかし、正は開き直った。
「言えるわけないだろう。そもそも、千歳の遺産から、少しずつお金を借りて、返済するつもりだったんだ。だから、バレないと思って。」
「人のお金を、何だと思ってるの?」
「怒らないでくれ。そりゃ、千歳には悪いことをしたと思う。だけど、俺はお前の夫なんだ。妻の金を、ちょっと借りただけなんだよ。」
「それで、一体、なぜ借金なんてしたの?」
そう言いかけると、彼は気まずそうな顔をする。
「新しく始めた投資で、失敗したんだよ。」
正は、失敗を取り返そうと、あちこちからお金を借りたらしい。そして、さらなる投資をした結果、失敗したという。今にも倒れそうなほど、正は顔色が悪い。かなり、まずい状況のようだ。
「千歳は、俺が路頭に迷うことになっても、いいの? 父さんと絶縁したら、もう頼れる人もいない。母さんだって、専業主婦で、まとまった貯金もないし。逮捕されたら、前科もつく。今後、まともな仕事に就ける可能性も低くなるのよ。千歳さんは、正が苦しんでも、平気なの?」
「今更、私が正を助けると思いますか? 自分たちが悪いくせに、追い詰められた時だけ、私を頼るんですね。」
「千歳さんは、優しいから、私たちのことを許すでしょう。見捨てたりなんか、しないわよね。」
あまりに身勝手な主張に、笑みが漏れた。彼らの醜態を目の当たりにし、自然と気持ちが強くなる。
「二人がどうなろうと、私には関係ないから。見捨てられるようなことをしたのは、あなたたちのくせに。」
「なんだよ、それ。俺は、お前の夫なのに。」
悔しげに顔をしかめる正。一方で、義母は涙を流しながら、哀れっぽい表情を作った。
「私たちを、家族だと思わないの? お金なら払うって言ってるの。警察沙汰にしないでほしいだけなのよ。」
釣られて、正も口を開く。
「悪いことは言わない。母さんもこう言ってることだし、示談にしようよ。俺は、あくまでも千歳のためを思って言ってるんだ。」
「無理よ。あなたたちには、ちゃんと罪を償ってもらわないと。」
「どうして!」
口をパクパクとさせて叫ぶ義母。私がここまで頑なだとは、思っていなかったようだ。
「お金で解決すれば、いいじゃない。こっちは借金があるのに、譲歩してやってるのよ。法にこだわる必要、ないでしょう。」
「子供のためにも、二人には心から反省してもらいたいんです。だからこそ、警察沙汰にするしかない。口だけなら、何とでも言える。彼らは、反省していなくとも、謝罪できる人だ。そんな二人は、逮捕されない限り、自分たちの過ちを悔んだりしないだろう。」
今回、私は莉緒と涼介に相談した上で、被害届の提出を決めた。もちろん、慰謝料だけ請求して離婚する案もあった。だが、それでは正たちは反省しない。私は悩みながらも、莉緒と涼介に背中を押され、撮影した動画もまとめて提出したのだ。今は、その選択が正しかったことが分かる。
「正、これからは、お母さんと二人で、仲良くしてね。邪魔者である私は、家からも出ていくし、二度と会わないから。」
私は改めて、正に離婚することを伝えた。今までは、お腹にいる子供のためにも耐えるべきだと思っていた。不遇な環境でも、両親が揃っている方がいいと信じていたのだ。けれど、私が決断できなかったがゆえに、子供を失ってしまうなんて。家事も育児も他人任せであろう正が、父親になっても、子供は不幸なだけ。それに、もっと早く気づくべきだった。
「俺は、ちゃんと父親になろうと思ってたよ。借りた金は、すぐに返すつもりだったし。千歳が苦労しないように、母さんと同居もしたんだから。」
「あの時、私を守ってくれなかった人が、何を言ってるの? 子供が生まれるって時に、借金をこさえてること自体、おかしいのに。子供を守れるのは、きっと私だけだったのね。」
自分が弱かったせいで、守れるはずの命を守れなかった。自責の念に駆られ、涙が滲んでいく。
「お姉ちゃん、あまり自分を責めないで。」
莉緒が目を潤ませながら、口を開いた。彼女は、私の手を優しく握る。
「お姉ちゃんは、子供のことを色々と考えてたんでしょ。離婚に踏み切れなかったのだって、子供のためだった。悪いのは、正斗さんだよ。」
「莉緒、ありがとう。」
「妹さんの言う通りだ。千歳さんは、何も悪くない。今回のことは、全て母さんと正斗に責任がある。」
義父は、思い足取りで正と義母の前に立つと、厳しい目で睨みつけた。
「千歳さんが被害届を提出したことは、当然だ。それなのに、彼女を避難するなんて、何を考えてるんだ?」
「違うの。私は、千歳さんなら、話せば分かると思っていて。俺が、家のことを全部、お前に任せていたのが、間違いだったのかもな。正斗のことも、母さんに一任するべきじゃなかった。」
「どうして! 私は、ちゃんと立派に正斗を育てたでしょう。お父さんは、外で稼いでくれれば、それでいいって言ったじゃない。」
拳を握りしめて、声を張り上げる義母。正も、義父の言葉を否定する。
「母さんは、家事も完璧だし、何の問題もないよ。今回のことは、確かにダメだったかもしれない。だけど、母さんなりに頑張ってたのは、事実だ。」
「俺が、子育てを妻任せにしてきたせいで、母さんは正に執着しているんだろう。力を入れて子育てをした結果、正を手放せなくなったんだよな。それは、俺が寂しい思いをさせたのも一因だろう。すまなかった。とはいえ、今回のことは許せない。今後について、話し合おう。」
義父は、正と縁を切るだけでなく、義母との今後の関係についても悩んでいるようだ。もしかしたら、離婚するつもりなのかもしれない。ただ、義両親のことに、私が口を出すのは違うだろう。
正は、それでも諦められない様子だった。いきなり立ち上がったかと思うと、義父をまっすぐ見つめる。
「父さん、助けてくれよ。俺たちじゃ、もう無理だ。父さんから、千歳を説得してくれ。示談にしてほしいって。」
「いい加減にしろ。お前の反省していない姿を見るのは、もう限界だ。離婚も慰謝料も、そして逮捕も、全て受け入れろ。」
「嫌だ。俺は悪くない。逮捕されたくないんだ。息子が犯罪者になっても、いいのかよ。」
「さっきも言っただろ。正斗は、もう俺の息子ではない。捕まろうがどうだろうが、関係ないんだよ。」
正は最後まで開き直ろうとしたが、義父の剣幕に押されて、黙り込む。そして、情けなく震えながら、崩れ落ちるように座り込んだ。
「これから先、一生、後悔して生きてね。あと、今後については、全て弁護士を通して手続きをするから、私との接触を試みるのは、やめてください。」
「千歳さん、本当に、家を出ていくの?」
必要な荷物を全て車に詰め終えた途端、義母が恐る恐る問いかけてきた。
「当たり前です。ずっと、出て行きたかったんですから。」
私は彼女を一瞥した後、恨めしい義実家を離れた。今日は莉緒の家に宿泊する予定だが、新居は急いで探すつもりだ。出発してすぐ、後ろを確認すると、玄関を飛び出して私たちに向かって叫ぶ、正と義母の姿が目に入る。声は聞こえないものの、表情からして、どうにか呼び止めようとしているらしい。私は返答せず、窓の外の景色だけを見つめた。
それから三日後、私は亡くなった子供を供養するために、墓場を訪れた。骨壺に収まるほど成長していなかった、小さな命。それでも、私のお腹の中で生きていた、愛しい存在だ。小さな白い箱を抱えた時、こらえていた涙が溢れ出る。
「また、いつか私の元に戻ってきてね。会える日を、楽しみにしてるよ。」
供養を終えた後、莉緒が不安げにこちらを見つめた。
「お姉ちゃん、お疲れ様。大丈夫?」
「ええ、なんとか。私が落ち込み続けていたら、赤ちゃんも泣いちゃうわ。どうにか、前を向かないと。」
「赤ちゃんは、きっと空から見守ってくれてるよ。だから、頑張らないとね。」
莉緒がいなければ、私は今頃、どうなっていただろうか。彼女の優しさが、胸にしみる。家族という絆の深さを、私は人生で最も辛い時期に、再確認することになった。でも、私の人生はまだ終わっていない。これから先、新しい生活が待っているはずだ。
後日、義母は傷害罪と暴行罪で、正も共犯、保護責任者遺棄罪で、逮捕されたとの一報を受けた。刑事罰とは別に、私は二人に対して、慰謝料と奪われたお金の返還を請求した。義父のサポートもあり、二人とも一括で支払ってくれ、無事に正との離婚も成立。正は逮捕されたことで、銀行を首になった。同僚らは、元妻の私を腫れ物のように扱う。そんな態度に違和感を覚えるも、仲のいい同僚に励まされ、なんとか踏ん張れている。
そして、義父から話を聞いたが、義実家周辺では、正と義母のことが噂になっているらしい。あることないことささやかれ、真偽不明のまま、噂が広まっているそうだ。義父は「もう住むことはない」と、義実家を売り払い、今も先の県外で働いているという。義母とは離婚し、正とも縁を切ったので、義父も二人に会いに行く気はないそうだ。家も家族も仕事も、そしてお金も失った正と義母。今頃は獄中だが、出所してからも、地獄が続くだろう。
あの事件から一年の月日が流れた。私は今も、銀行員の仕事を続けている。先日、異動があり、また新たな支店で働き始めた。同僚たちはいい人ばかりで、うまくやっている。ちなみに、先日、莉緒から嬉しい報告を受けた。涼介と結婚するらしい。
「親族と友人を呼んで、結婚式をあげようと思ってる。だから、お姉ちゃん、バージンロード、一緒に歩いてもらえるかな?」
「もちろんよ。莉緒、おめでとうね。涼介君も、莉緒のことを、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。今後も、仲良くしてください。」
二人がいてくれたから、私の心の傷も癒えていった。彼らには、本当に感謝している。だからこそ、今後も家族として、仲良くしていきたい。私は二人の幸せを願いつつ、自分自身の人生を歩んでいる。空の上にいる両親と、我が子に安心してもらいたいからだ。
「また、会える時まで、待っててね。」
墓前で手を合わせ、そっと空を見上げる。雲一つない晴天の中、私の足取りは、いつの間にか軽くなっていた。
