空港のロビーで、高校時代に俺を何度も見下していた九条綾乃と十年ぶりに再会した。黒いスーツ姿の彼女は、昔と変わらない冷たい視線を俺に向けて言い放った。「相変わらずね、その安っぽいスーツ。社会人ならもう少しマシなの着なさいよ」。俺は母の病気で大学を諦め、新聞配達と居酒屋のバイトで必死に生きてきた。なのに彼女は、俺の人生をまるでゲームのように嘲笑う。さらに、携帯を取り出して「溶けたら社長にしてあげ…

空港のロビーで、高校時代に俺を何度も見下していた九条綾乃と十年ぶりに再会した。黒いスーツ姿の彼女は、昔と変わらない冷たい視線を俺に向けて言い放った。「相変わらずね、その安っぽいスーツ。社会人ならもう少しマシなの着なさいよ」。俺は母の病気で大学を諦め、新聞配達と居酒屋のバイトで必死に生きてきた。なのに彼女は、俺の人生をまるでゲームのように嘲笑う。さらに、携帯を取り出して「溶けたら社長にしてあげ...

高校時代、九条綾乃はいつもそうだった。廊下ですれ違うたびに、意地悪な笑みを浮かべて問題を投げかけてくる。俺が解けずにいると、彼女は決まってこう言った。「やっぱり無理。この程度も解けないの? 初めから私とあなたじゃレベルが違うってことね」

優等生だった彼女が、俺にだけ見せるあの表情。周りのクラスメートは気まずそうに目をそらした。俺はいつも黙って耐えるしかなかった。母の病気で大学進学を諦め、朝は新聞配達、放課後は居酒屋で働く日々。そんな俺を見下すように、彼女は言った。「どうせあなたは私に追いつけない。でも頑張って追いかけてきてね。そうじゃないと面白くないもの」

あれから十年。俺、赤羽守はシンガポールのアジアパートナーズという会社でリテイル業界専門のコンサルタントとして働いていた。アジア進出を目指す企業の市場調査から、既存店舗の収益改善、新規出展戦略の立案まで、数多くのクライアントの課題解決に携わってきた。高校時代、担任の中村先生からもらった英語の参考書は、今でも大切に持っている。「人は必ず変われる」という先生の言葉が、俺の心の支えだった。

ある日、健康診断で精密検査が必要だと言われた。日本の大学病院で再検査を受けることになり、羽田空港に降り立った。診察室で医師は深刻な表情で告げた。「精密検査のため、一週間ほど入院していただく必要があります」

不安な気持ちのまま待合室に向かうと、向こうから見覚えのある女性が歩いてくる。黒のスーツに身を包み、凛とした佇まい。あの特徴的な切れ長の瞳。十年経っても間違えるはずがない。「九条……綾乃か」

彼女も俺に気づき、足を止めた。「あら、赤羽じゃない。懐かしいわね」淡々とした口調だが、かなりの驚きが滲んでいた。彼女は俺を上から下まで見渡すと、少し顎をあげた。高校時代と同じ仕草だった。「相変わらずね、その安っぽいスーツ。社会人ならもう少しマシなの着なさいよ」

昔と同じ冷やかな視線。言葉に含まれる嘲笑。俺の返答に、彼女は愉快そうに小さく笑った。「でも私は進歩してるわ。父の会社で重要なプロジェクトを任されてるの。あなたには想像もつかないような大きなお仕事」

そう言うと、彼女は携帯を取り出して何かを調べ始めた。「そうだ。久々に私が問題でも出してあげようか。溶けたら……そうね、うちの会社の社長にしてあげるわ。嬉しいでしょ。だってそんな安っぽいスーツ着てるんですもの。じゃあこれ、去年の12月期の為替レートと、今年のアジア市場における業界のM&A総額から、今後半年の成長率を予測してみなさいよ」

俺は彼女の言葉を遮って即答した。「アジア市場における業界の成長率予測のことだよね。為替の変動と昨年のM&A総額から推測すると、今後半年は7. 8%。ただし、インドネシアを除外すれば6. 2%まで下がる。なぜなら、現地の規制緩和と日系企業の投資意欲の高まりを加味すれば……去年から続く現地通貨安も想定の範囲内だし」

九条の目が見開かれた。「え、どういうこと? あの赤羽が……ただの勘? いや、それにしては的確だし……」ぶつぶつと呟いている。この状況に理解が及ばないのだろう。

その時、廊下の向こうから急ぎ足の音が聞こえてきた。「社長、検査の結果どうでした?」スーツ姿の女性が心配そうに尋ねる。秘書の山田さんだ。一緒に帰国し、朝から日本支社に寄った後、病院まで来てくれたらしい。「うん。一週間の検査入院だって」「そうですか。では今後のスケジュールは入院の予定と調整します」

九条が山田さんと俺の間に割って入るように歩み寄る。「あら、なんだか仲がいいわね。秘書さんみたいにしちゃって。失礼ですが、あなたは?」「私は少心照明、赤羽社長の秘書の山田と申します」

九条は愉快そうに笑う。だが、その笑顔は長くは続かなかった。「あらあら、社長と秘書さんごっこかましいわね。彼がどなたか本当にご存知ないのですか? アジアパートナーズの社長ですよ」

山田さんが無表情で告げると、ようやく事態が飲み込めたらしい。九条も真顔になる。まるで時が止まったかのように、その場に立ち尽くす。「え、本当なの?」「はい」「だってアジアパートナーズってシンガポールの会社よね。アジア最大のリテールコンサルティング企業じゃない?」

山田さんは名刺を差し出す。九条の手は震えながらそれを受け取った。まさか、と彼女の顔から血の気が引いていく。「冗談でしょ? あなたが、あのアジアパートナーズの……」「冗談じゃないよ、九条。俺は淡々と告げた。「嘘。そんな……私の方が上だったはず。あなたなんかより」

彼女のプライドがズタズタになったのだろう。思わず少し申し訳ない気持ちになった。かつての傲慢な態度は影も形もなく、声は制御を失ったように上擦っていく。「こんなの認めない。絶対に認めないから」九条は踵を返すとかかとを鳴らして去っていった。その背中には明らかな敗北感が滲んでいた。

検査三日目。病院の庭で一人、ため息をついていた。結果はまだ出ていない。医師からは「もう少し検査が必要です」と言われただけだ。ベンチに腰かけ、シンガポールのオフィスからのメールを確認していると、またしても九条が通りかかった。「あら、またあなた。具合でも悪いの?」「ああ、検査入院中でね」「へえ。君も何かあったの?」「余計なお世話よ」

強がってはいるものの、どこか元気がない。そんな九条に、突然中年の男性が話しかけてきた。「おや、九条君。こんなところで会うとは」高級そうなスーツに金の腕時計。表情は穏やかで親しげなのに、安心できる空気が全く感じられない。「大久保……部長」

男性は軽い調子で話しかけてくる。「僕は検査でね。会社の定期検診の一環さ。おや、こちらの方は?」「アジアパートナーズの赤羽です」俺が自己紹介すると、大久保の目が見開かれた。「まさか、あの赤羽社長。これは失礼しました」「九条君、知り合いだったのかい?」「高校の同級生です」「へえ、そうだったんだ。これはまた素晴らしいご縁だ」

ニヤニヤと笑う表情には、明らかな悪意が込められていた。「社長と知り合いだったなら早く言ってよ。この前の案件、もっと有利に進められたかもしれないのに。そういえば九条君、ここにいるということは病気かい? しばらく休んでいたもんね。確か重要なプロジェクトを任されてたはずだよね。でも最近あまり成果が出てないって話で。まあ、何かあってもプロジェクトのことは心配しないでくれ。私が引き継ぐから」

その言葉に九条が声を張り上げた。「私なら……私ならできます!」「そうですか。でも、上からも色々と声が上がってきてますからね」九条の顔がみるみる蒼白になっていく。大久保は九条の弱みを握って精神的に追い込むタイプの人間だった。「すみませんが、九条さんとの話の途中でしたので、そろそろ」俺が九条の前に立つと、大久保は一瞬表情をこわばらせたが、すぐに完璧な笑顔を取り戻して去っていった。

しばらくの沈黙。九条は俯いたまま肩を震わせている。その姿がどこか頼りなく見えた。「赤羽……この前は偉そうなこと言ってごめんなさい。こんな私なんかが社長にしてあげるなんて、笑っちゃうわよね。部長からは馬鹿にされて……私、このままじゃ会社にいられなくなるかもしれなくて」

その時、九条が咳込み始めた。聞いたことのないほど大きな咳で、心配になる。「大丈夫か?」「平気よ。これくらい、いつものことだから」そう言いながら、彼女は片手で胸を押さえた。少し苦しそうな表情を浮かべている。「君もこの病院の患者なんだろう」「……気づいてたの?」「さっきの会話で察したよ。それに、この呼吸器科の建物に来ていた理由も」

九条は苦笑を浮かべた。「ええ、持病よ。しかも再発性の。去年から時々胸が痛くなることがあったの。でも仕事が忙しくて……気づいた時には悪化してて。でも、そんな長期の休暇なんて取れない。このタイミングで休んだら、プロジェクトは……」

「九条。私ね、実はすごく怖いの」「怖い?」「うん。手術のことも、これからのことも、全部。昨日の夜も眠れなかった。もし手術が失敗したら。もし二度と仕事に戻れなかったらって考えると、息が詰まりそうで」九条はベンチの背もたれに寄りかかり、青空を見上げた。「父の期待も、社員の信頼も、私が全部裏切ることになるの」

涙がこぼれ落ちる。いつもの凛とした九条の姿はどこにもない。そこにいたのはただの、弱い女の子だった。「でも、もう無理。このままじゃ、私、諦めるな」「諦めるな。俺は強く言った。「今ちゃんと治療するべきだ。このまま放っておいたら、また再発するかもしれない」

「違うの!」突然、九条が叫んだ。ベンチから立ち上がり、俺に向き直る。「違うのよ、赤羽。あなたに私の気持ちなんて分かるはずないじゃない。あなたは順調でしょう。社長になって、誰からも信頼されて。私みたいに、こんな……こんな惨めな思い……」感情が爆発したように言葉が溢れ出す。「九条、黙って。なんでもいいから、まずは落ち着け」

九条は数歩後ずさったが、よろめいて膝をつく。俺が支えようとすると、手を振り払われた。「触らないで。放っておいて。でも、お願い……放っておいて」声が枯れていく。その時、また咳が始まった。今度はさらに激しい発作だった。「九条! いいの?」「これくらい……」「看護師を呼んでくる。大丈夫だから」「いい加減にしろ!」

思わず声を荒げてしまった。病院の庭にその声が響く。「なんでそこまで強がるんだ?」「私が、私が弱いから。私の性格も、この病気も、全部私の弱さなの」「何を言ってるんだ。病気と性格は関係ないだろう」「細かいことなんてどうでもいいわ。現実を見なさいよ。私はもう……」自分の殻に閉じこもって逃げているのは、君の方じゃないか。そう言うと、九条の目が見開かれる。「何よ。あなたに何がわかるって言うの?」「分かるさ。君は昔から自分の殻に閉じこもってた。なんでもない顔して、強がって。本当は誰よりも優しいのに」

「君は強いよ。だからこそ、時には弱さを吐いていい。それを受け止めてくれる人がいるんだから。昔の君を知ってるよ。クラスメートの悩みを聞いてあげて、こっそり励ました君を。困ってる後輩の面倒を見てた君を」九条の目が少しずつ潤んでいく。「覚えてたの?」「ああ。意地悪な問題ばっかり出してくる優等生様が、実は優しい子だって」

そっと九条の背中をさする。すると、彼女の目から大粒の涙が溢れ出した。「ごめんなさい。ごめんなさい」声をあげて泣く九条を、俺は強く抱きしめた。「怖いの? すごく怖いの」「分かってる」「私、生きたい。まだやりたいことがたくさんあるの。手術も怖いし、これからのことも不安で。でも、諦めたくない」

「諦める必要はないよ。俺は静かに告げた。「君は昔、俺にこう言ったじゃないか。どうせ追いつけないでしょ。でも頑張って追いかけてきてねって。あの言葉が俺を強くした。諦めずに頑張れた。今の俺があるのは、君のおかげだ」「私が、あなたを……」「ああ。だから今度は俺が君の力になる。手術が終わって復帰するまで、サポートする。だから、治療に専念してくれ」

九条は泣きながら小さく頷いた。「ありがとう……」その言葉には、昔のような棘がなかった。代わりに、温かみのある柔らかな響きが感じられた。

それから俺は九条の病室に足しげく通った。俺の検査結果はただの過労で、深刻な問題はなかった。九条の手術は来週に予定されている。「本当に毎日来てくれなくても……」九条は病室のベッドで照れ臭そうに笑った。「気にするな。それより、プロジェクトの資料見せてもらえるか」「本当にいいの?」「ああ、約束したじゃないか」

九条は枕元の資料を取り出した。「実はこの再開発案件、私なりの構想があって」その目が輝きを取り戻していく。「私、絶対にこれを成功させたいの」「何か理由がありそうだな」「このエリア、私の祖母が住んでた場所なの。再開発で立ち退きになった人たちの新しい受け皿を作りたくて」

なるほど。だから九条はこのプロジェクトに執着していたのか。山田さんは腕を組んだまま、明らかな警戒の色を浮かべていた。九条は山田さんに頭を下げた。「私、本当に申し訳ありませんでした。あの時は自分の弱さに気づけなくて、強がること以外で自分を守れなかったんです。でも、このプロジェクトだけは、どうかお力添えいただきたいんです」

九条は資料を開き、一枚一枚丁寧に説明し始めた。「ここに住む方々の声を、一件一件聞いて回ったんです。祖母の思い出の場所だから。誰一人取り残さない再開発を。高齢者の方が多い地域なので、バリアフリー設計を徹底して。あと、地域のコミュニティを守るために集会所も。こちらに独りで寂しい人が出ないように」

語る九条の声は熱を帯びていた。資料をめくる手は小刻みに震えているのに、目は強い意思に満ちていた。「私、このプロジェクトだけは絶対に成功させたいんです。どうか、どうか力を貸してください」再び頭を下げる九条。山田さんはその姿をじっと見つめていた。「……わかりました」ため息混じりの返事でも、その口調は先ほどより柔らかかった。「ありがとうございます」九条の笑顔には、もう傲慢さのかけらもなかった。

手術前日の夕方。九条が俺を呼び止めた。病室の窓からは沈みかける夕日が差し込んでいる。「これを受け取って欲しいの」九条は枕元から分厚いファイルを取り出した。「もし私に何かあったら、これを世に出してほしい」「何かあったらなんて、不吉なこと言うなよ」「でも……このプロジェクトには、私の全てを込めたから」

ファイルを受け取ると、その重みに驚いた。単なる企画書ではない。これは彼女の思いの結晶なのだ。「実は、赤羽に話しておきたいことがあって」九条の声が少し震えていた。「高校時代のことなんだけど……」彼女は言葉を探すように一度目を閉じた。「本当は、あなたともっと普通に話がしたかったの」「え?」「でも、うまく話しかけられなくて。だから、ああやって問題を出したり、意地悪することでしか……」九条の頬が薄く染まっていく。「私、周りに友達と呼べる人がいなかったでしょ。他人との接し方が分からなかったの。完璧な令嬢でいなきゃいけなかった。でも、それは本当の私じゃなくて」

彼女の目にうっすらと涙が浮かぶ。「でも、赤羽は私の出す問題に一生懸命答えてくれた。それがすごく嬉しかった」「君の問題は難しかったよ」「でしょ。私、毎晩一生懸命考えてたの。明日はどんな問題を出そうかって。夜更かししながら考えたくらいなのよ」懐かしい記憶が蘇ってくる。「私ね、赤羽が解けなかった問題を全部覚えてるの」「へえ」「だって、その問題を出した日のあなたの表情も一緒に覚えてるから」九条の声がだんだん小さくなっていく。「赤羽が真剣に考えてくれる姿が好きで。でも、そんな気持ちを素直に言えなくて……」

その時、タイミングよく看護師が入ってきた。「九条さん、お薬の時間です」「あ、はい」九条は表情を取り繕う。「また明日、話しましょう」「ああ」

俺は立ち上がった。明日、彼女の手術が終わったら。そうしたら、ちゃんと向き合おう。お互いの気持ちに。振り返ると、九条が微笑んでいた。その笑顔は、高校時代には見たことのない柔らかな温かみに満ちていた。俺は十年前、一生懸命勉強した。いつか彼女の問題に完璧に答えられたら。そうしたらきっと、振り向いてもらえるんじゃないかと。そして今、俺たちは再開した。まるで運命のいたずらのように。

「明日はまた来るから」俺はそう告げると、夕暮れに染まる廊下を歩き始めた。明日という日が、今から待ち遠しかった。

手術の翌日。昼間に手術は成功したものの、まだ完全な回復には時間がかかるという連絡があった。俺は会社の業務を終え、病院に向かう車の中で運転席の山田さんに尋ねた。「九条さんの様子は?」「はい、順調です。あとは静養を……」その時、俺は声をあげた。車内のテレビに映ったニュースで、こんな知らせが流れてきた。「九条建設、画期的な再開発プロジェクトを発表。大久保部長が陣頭指揮」

画面には得意げな表情で記者会見をする大久保の姿があった。「このプロジェクトは私が主導してきた案件です。補助的な役割を社長令嬢である九条氏に……」まるで自分が中心人物であるかのように語っていく。病室に駆け込むと、九条はタブレットを握りしめ、蒼白な顔をしていた。「私のパソコンが……会社のデータが全部、大久保部長に……」震える声。九条の目には大粒の涙が浮かんでいる。

大久保は九条が入院している間に、彼女のパソコンから企画書のデータを抜き取り、自分の手柄として発表したのだ。「九条建設、次期社長候補に大久保氏が浮上」「九条・綾野氏、SNSでの不適切投稿が発覚」「九条建設の株価下落、市場に動揺広がる」次々と追い打ちをかけるようなネガティブなニュースが表示される。全て手の込んだタイミングで、複数のメディアから同時に発信されている。心当たりのないSNSの投稿まで出てくる。これも大久保の周到な準備の一環だろう。病院のベッドで動けない九条を完璧に追い詰める策略。手術の日という最も行動ができないタイミングを狙っていたのだ。

「どうして……どうして私はもっと用心しておけばよかったの……」自分を責めるように、九条はベッドのシーツを強く握りしめた。その指先が真っ白になるほどの力で。

そんな中、山田さんだけはにこやかに微笑んでいた。不思議に思っていると、彼女はタブレットの画面を俺たちに向ける。「そろそろですね。あ、あった。お二人とも見てください。これを」そこには「特別リポート。闘いながら未来を描く九条建設、九条・綾野氏の挑戦」という文字。全国ネットの看板番組が放映する特集だった。画面が切り替わり、病室のベッドで企画書を見つめる九条の横顔が映る。白い病衣に身を包んだ姿は華奢に見えるのに、その目は強い光を宿していた。痛みに耐えながらもタブレットを操作し、オンラインで建築家と議論を重ねる様子。手術後の痛みと戦いながら図面に向かう彼女の真摯な表情。

「九条氏が目指すのは、人に優しい街づくり。それは彼女自身の体験に裏打ちされている」インタビューに答える九条の映像が流れる。顔色は悪いものの、その目は強い意志に満ちていた。「この土地は私の祖母の家がありました。多くの方々の思い出が詰まった場所なんです。だからこそ、ここに暮らす一人一人の声にしっかりと耳を傾けたい」カメラは九条の手元を映し出す。そこには一枚一枚、丁寧に書き込まれた住民たちとの対話記録。建築家、都市計画の専門家、投資家。各分野の権威が次々と九条のプロジェクトを絶賛する。「これぞ新時代の街づくりのあり方」

「九条さんの思いを、このまま消させるわけにはいきませんから」山田さんが誇らしげに告げる。「実は、私が準備してたんです。九条さんの企画を別ルートでメディアにリリースしました。大久保部長が卑怯な手で何か仕掛けてくることもお見通しでしたから。だから手を打っておきました」

すると、別の動画も流れ始める。まるで密着取材のように撮影された映像には、大久保の言動が匿名で記録されていた。「このプロジェクトは私が担当したことにしよう」「九条君はまだしばらく病院の中だ。彼女が戻ってくる前に記者会見を開けばいい」「SNSには偽のアカウントを作っておけ。九条の不適切発言として拡散する」「株価操作も同時に仕掛ける。手術後の彼女が反論できるはずがない。この機に、次期社長の座をいただくとしよう」

「映像の中で不適に笑う大久保を指差しながら、山田さんはにやりと笑った。「大久保部長の圧力も脅しも、それにSNSの投稿も、全て捏造だったことも証明済みです。もう逃げ場はありませんよ」その言葉を聞きながら、九条の目に涙が浮かぶ。そこには安堵の色が滲んでいた。「山田さん、それよりこれを見てください。九条建設の株価が急上昇しています」スマートフォンの画面に、株価の上昇を示すグラフが表示される。「九条建設株価が一時ストップ高まで急伸」「次期社長候補の手腕に期待感」メディアは次々と九条を賞賛する記事を配信していく。

その時、九条のスマートフォンが鳴り響いた。画面には大久保部長の文字。九条が震える手で受話器を取ろうとした時、俺は静かにそれを受け取った。「俺が出るよ」スピーカーモードにして電話に出る。すぐさま大久保の怒号が響いた。いつもの紳士的な仮面は完全に剥がれ落ち、生々しい怒りが溢れている。「はい、代理の赤羽です」「何をしやがった! 私のキャリアを台無しにして!」「何のことでしょう?」俺は意図的に冷静さを保ち、穏やかな声で返す。「とぼけるな! 貴様、全部仕組んでいたな。九条と組んで!」「仕組んだのは、どちらでしょうか? 企画の盗用、SNSの捏造、株価操作。証拠は全て揃っています。書面でも録画でもね」「ぐっ……」「そうそう。この会話も録音させていただいていますよ。先ほどの記者会見も、虚偽を報じたとして追求されるでしょうね」

「待て! 話し合いで……そうだ、なんとか話し合いで。金なら!」最後は哀願まで持ち出すほど、大久保は取り乱していた。「もう遅いです。それでは。あ、もうすぐそちらに警察が向かうと思いますので、くれぐれも逃亡なさらないように」警察に任せるべきだ。そう思い、通話を切ると病室に静寂が戻る。

「ありがとう。これで正義は勝つってことですね」山田さんがにっこりと笑った。「それにしても山田さん、まさかこんなことまで考えていたなんて」俺は複雑な表情を浮かべた。「社長はこういうやり方はお嫌いですよね」山田さんが申し訳なさそうに微笑む。「でも、何が起こるかわからない。だから九条さんに相談させていただいたんです」「そうだったのか」九条が静かに語り始めた。「私の闘病生活を記録したい。それをこのプロジェクトの一部として残したい。そして、何かあった時に広く報道したいって。最初は驚きました。でも、山田さんなら信じられると思ったの。だって、赤羽が信頼している人だから」

「それに、このプロジェクトは私の全てだから。たとえ弱い自分をさらけ出すことになっても、守りたかった」九条の瞳が強い意思を帯びる。「病室での私の姿も、辛い治療の様子も、全て記録に残すって決めたの。私のプロジェクトにかける思いを、この苦しみと一緒に伝えられれば、きっと誰かの心に届くはずだって」

俺は深いため息をついた。確かに、俺はこういうやり方は好きじゃない。だが、今回は違う。彼女の強さを見せることにもなった。「二人の思いは、しっかり受け取ったよ。山田さん、本当にありがとう」「いえ、そんな」山田さんが慌てて手を振る。「これは、その……自社の株価にも影響がねない案件でしたから。純粋にビジネス的な判断です」言葉とは裏腹に、山田さんの目が潤んでくる。「それに、社長には恩がありますから。三年前、私がテレビ局を辞めて途方に暮れていた時、社長が声をかけてくださって」「あの時か」俺は懐かしく思い出す。面接で山田さんは異様に緊張していた。でも、その目はまっすぐで、誠実さが伝わってきた。「君の目を見て、この人なら信頼できると思ったんだ」「ありがとうございます。私、本当に感謝しているんです」山田さんの頬を大粒の涙が伝う。そして突然、山田さんが九条に向かって人差し指を突きつけた。「このプロジェクト、ちゃんと成功させてくださいよ。さもないと……私が社長を奪っちゃいますからね」「え?」「記者時代に『都内デートスポット完全制覇』って特集を担当してたんです。おすすめの隠れ家レストランとか、夜景スポットとか、全部知ってるんですよ」

「ちょ、山田さん!」九条が慌てて声をかける。「あら、困りました。週末に社長と二人きりでデート取材、計画しちゃおうかな」意地悪な笑みを浮かべる山田さん。顔を真っ赤にする九条を見ながら、俺は思わず吹き出してしまった。こんな風に素直になれない人たちに囲まれているのも、悪くないな。

翌日の新聞は、大久保の末路を大々的に報じていた。「九条建設・元部長、窃盗容疑で逮捕」「企画盗用に加え、機密情報売却も発覚」山田さんの完璧な証拠収集により、大久保のやってきた悪事が次々と明るみに出る。企画の盗用だけでなく、会社の機密情報を競合他社に売り渡していた事実。さらには過去の再開発案件で住民たちに違法な圧力をかけていたことまで発覚した。「これは陰謀だ! 九条めが!」必死に言い逃れをする大久保だったが、彼の携帯からは削除したはずのメールが次々と復元されていく。山田さんの元記者という経歴が、ここで大きな威力を発揮した。「懲役八年の実刑判決。悪質な盗用行為、深い反省なし」

一方、九条建設は急速に業績を回復していく。「九条建設の株価が最高値を更新」「再開発エリアの住民から絶賛の声」そして九条の評価も日に日に高まっていった。「九条・綾野氏、次期社長候補に浮上」「試練を乗り越え、新時代の経営者像を示す」退院後、最初の役員会。九条は凛とした表情で自身の構想を語ったという。「私たちは利益だけを追求する企業であってはなりません。人々の暮らしに寄り添い、共に成長する企業を目指す。それがこれからの九条建設の進むべき道です」

半年後。アジアパートナーズと九条建設の業務提携の記者会見で、俺と九条は並んで座っていた。「アジア最大手コンサル会社と建設大手の包括提携」記者たちのフラッシュを浴びながら、俺たちは新しい未来について語る。会見後、控え室で声をかけると、彼女は資料を片付けながら顔をあげた。「九条さん」「なあに?」高層ビルから見える都会の景色が、ガラスに映る彼女の横顔と重なる。「ずっと言えていなかったんだけど」言葉を紡ぎ出すのに、少し勇気が必要だった。十年以上も胸の奥にしまっていた思いを、どう伝えればいいのか。「高校時代、君の出す問題を一生懸命解いていたのは、君に追いつきたかったからじゃない」

九条の手が資料を整理する動きを止める。その瞳が、ゆっくりと俺を見つめ返した。「赤羽……」か細い声で俺の名を呼ぶ。その声には、高校時代の意地悪な調子は微塵もない。「待ってた。ずっと、ずっと待ってた」感情が溢れ出すように、九条が言葉を紡ぐ。「高校の時から、気づいて欲しかった。でも、素直になれなくて。意地悪な問題ばかり出して。本当は、ただ話がしたかっただけなのに」

止まらない涙。けれど、その表情には幸せな笑顔が浮かんでいる。「俺と、付き合ってください」シンプルな言葉に、全てを込めた。九条の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。「は、い」その一言が、胸に染みた。

俺と九条との関係が変わってから数日後。俺と九条、そして山田さんの三人でレストランにいた。「え、山田さん、来週デートなの?」「はい。今度のデート相手、超イケメンなんですよ」山田さんは得意げに携帯の画面を見せていた。どうやらマッチングアプリで恋人探しに夢中なようだ。「いいんじゃないか。俺は笑いながら告げた。「だって山田さんのおかげで、俺たちは幸せになれたんだから。今度は山田さんの番だよ」「社長、お父さんみたいです」その言葉に、三人で笑い合った。

人は誰でも完璧じゃない。時には傷つき、時にはつまずく。でも、だからこそ強くなれる。高校時代、九条は自分の殻に閉じこもっていた。俺は夢を諦めかけていた。山田さんは新しい一歩を踏み出せずにいた。それでも、俺たちは変わった。誰かを信じ、誰かに信じられることで、人は必ず変われる。窓の外では、新しい季節を告げる風が吹いていた。俺たちの物語は、まだ始まったばかり。でも、きっとこれからも互いを信じながら歩いていける。そう確信できる、穏やかな午後だった。

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