義母が私の顔を平手打ちした瞬間、座敷の空気が止まった。誕生日祝いの席で、突然「そのカード、今ここで渡しなさい」と言われた。会社の経費カードを、義弟の結婚祝いの家電を買うために差し出せと。夫は黙って見ていた。「母さんに謝れば、今日はそれで終わる」――その一言で、私は五年間の結婚が終わる音を聞いた。私はスマホを取り出し、店の防犯カメラの映像保存を店長に頼んだ。義母の顔色が変わった。「家族のことで…

義母が私の顔を平手打ちした瞬間、座敷の空気が止まった。誕生日祝いの席で、突然「そのカード、今ここで渡しなさい」と言われた。会社の経費カードを、義弟の結婚祝いの家電を買うために差し出せと。夫は黙って見ていた。「母さんに謝れば、今日はそれで終わる」――その一言で、私は五年間の結婚が終わる音を聞いた。私はスマホを取り出し、店の防犯カメラの映像保存を店長に頼んだ。義母の顔色が変わった。「家族のことで...

「そのカード、今ここで渡しなさい」

義母のかず子さんがそう言った瞬間、座敷の空気がぴたりと止まった。目の前にはお祝いの席に並ぶ鯛の塩焼き、季節の天ぷら、赤いちゃんちゃんこまで用意したかず子さんの完璧な祝いの席だった。私は箸を置き、差し出された手を見つめた。

「何のカードですか?」

分かっていたけれど、あえて聞き返した。かず子さんは眉をひそめた。

「会社のカードよ。さっきから言ってるでしょう」

隣に座る義姉の美香さんが呆れたように笑った。

「さやさん、意地悪しないの。り介の結婚祝いなんだから」

向かい側では義弟のり介が婚約者の隣で腕を組んでいた。来月には新居へ引っ越すらしい。その新居に入れる家電一式を私に用意させるつもりだった。冷蔵庫、エアコン、食洗機、それに高級なオーブン。全部合わせれば百万円では済まない。私が務める会社の取引先には業務用機器の大手メーカーがある。だから彼らは私なら安く手に入れられると勝手に思い込んでいた。

「取引先に頼めばいいじゃない。返礼品扱いにしてもらうとか」

美香さんがワインを揺らした。

「さやさん、契約を管理する立場なんでしょう。そのくらい通るでしょう」

私は首を横に振った。

「できません」

り介の顔から笑みが消えた。

「できないって何だよ。社員向けの値引きくらいあるだろう」

「社員向けの制度と、取引先への依頼は別です」

「じゃあカードで払ってよ」

あまりに自然に言われたので、聞き間違えたかと思った。

「何ですって?」

「会社のカード。一旦会社で払って、後から経費を合わせればいい。兄貴もそれで行けるって」

私はゆっくり夫を見た。高瀬直人と結婚して五年になる夫は、視線を合わせようとしなかった。

「直人、あなたがそう言ったの?」

「言い方が悪いんだよ」

直人は小さくため息をついた。

「別に不正しろなんて誰も言ってないだろう。会社の支払いを弟の新居に使う話をしてるのよ」

「だからさ」

直人の声に苛立ちが混じった。

「さやの会社は大きいんだから、何か制度があるだろうって話だよ」

私はり介を見た。

「会社のお金は私のお金じゃありません」

そして直人を見た。

「できないんじゃない。やらないの? それは会社のお金だから」

その一言で座敷の温度が変わった。親戚たちが顔を見合わせ、誰かが小さく「融通が効かない」と呟いた。かず子さんが湯飲みを置いた。

「さやさん」

低い声だった。

「今日は私の誕生日祝いよ。だったら家族を困らせるようなこと言わないでちょうだい」

「困らせているつもりはありません」

「じゃあカードを渡しなさい」

私はかず子さんを見た。

「渡せません」

今度ははっきりと言った。り介が鼻で笑った。

「たかが家電だろう」

「金額の問題じゃないわ」

「じゃあ何なんだよ」

「していいことか、してはいけないことか。それだけよ」

り介がテーブルを叩いた。器が小さく音を立てた。

「家族に説教するなよ」

婚約者が袖を引いたが、り介は振り払った。

「お前、一度でも義兄さんに何か頼んだことあったか?」

何度もあった。引っ越し代、旅行のキャンセル料、車検代が足りないという相談。返ってこなかった金額を、私は頭の中で数えるのをやめた。それでも私は言わなかった。今日ここで問題なのは過去の貸し惜しみではない。会社のお金だった。直人が私の腕に触れた。

「さや、家族なのにそこまで線を引く必要ある?」

その言葉だけは妙にはっきり耳に残った。私は直人の手を外した。

「あるわ」

「何?」

「家族だからこそ、超えさせちゃいけない線がある」

美香さんが笑った。

「大げさね」

その声には露骨な軽蔑が混じっていた。

「会社でちょっと役職ついたら、急に偉くなっちゃって」

「美香」

直人が止めるふりをした。でも本気ではなかった。美香さんは続けた。

「だってそうでしょう。このお祝いだって、結局ほとんどさやさん持ちよね」

それは事実だった。店の予約も私、かず子さんの着物代も私、今日の食事代も私。でも美香さんは感謝するために来たのではない。

「それだけ出せる人が、弟の結婚祝いだけ渋るなんて普通思わないじゃない」

親戚の一人が頷いた。別の一人も「まあ家族だからね」と続いた。いつの間にか、私一人が非常識になっていた。かず子さんが口を開いた。

「私ね、前から思ってたの」

嫌な予感がした。

「さやさんは稼いでるでしょう。でもお金の管理が自由すぎる」

「私の収入ですから」

「そういうところよ」

かず子さんは即座に返した。

「結婚したら、自分だけのお金じゃないの」

私は直人を見た。彼は黙っていた。かず子さんはさらに続けた。

「これからは私が家のお金を見た方がいいわ」

一瞬意味が分からなかった。

「どういう意味ですか?」

「給与が入る口座も私が管理するの」

座敷が静かになった。私は直人を見た。今度は彼もさすがに気まずそうだった。それでも否定しなかった。

「毎月、必要な分だけあなたに渡せばいいでしょう」

かず子さんは家計簿の相談でもするように平然と言った。

「無駄遣いも減るし、り介たちも助けられる。私のお金で、家族のお金でしょう」

初めて声を荒げた。店員が襖の向こうで足を止めた気配がした。私は静かに息を吐いた。

「お断りします」

かず子さんの顔が固まった。

「今、何て言ったの?」

「口座も渡しません。会社のカードも渡しません。り介君の家電も買いません」

り介が立ち上がった。

「ふざけんなよ」

「座って」

「誰に命令してんだ?」

直人も私を睨んだ。

「さや、もういいだろう。母さんの誕生日なんだぞ」

「だから?」

「だから今日くらい気持ちよく終わらせろよ」

「私は何をすれば気持ちよく終わるの?」

直人は答えなかった。答えは分かっていた。カードを差し出す。金を出す。謝る。そして笑って何もなかったことにする。それがこの家で言う円満だった。私はバッグを手に取った。

「食事は払ってあります」

「待ちなさい」

かず子さんが立ち上がった。

「話は終わってないわよ」

「私は終わりました」

「さや」

直人の声を背中で聞きながら、私は襖を開けた。廊下に出たところで腕を掴まれた。美香さんだった。

「ちょっと、本当に帰るつもり? 話してください」

「誕生日祝いを途中で抜けるなんて、どういう神経してるの?」

「話して」

私が手を振り払うと、後ろから親戚たちも出てきた。狭い廊下が人でいっぱいになった。店員たちが困った顔をしている。私はそれが恥ずかしかった。怒られていることより、こんな場所に店の人まで巻き込んでいることが。直人が追いついてきた。

「さや、戻れ」

「戻らない」

「いい加減にしろよ」

「それは私のセリフよ」

直人の表情が変わった。

「俺の家族をバカにしてるのか?」

私は思わず笑いそうになった。ここまで話して、彼が気にしているのはまだそこなのだ。

「あなたの家族」

「そうだよ」

「じゃあ私は?」

直人が黙った。ほんの二秒ほどだったと思うけれど、その二秒で十分だった。かず子さんが人を押し分けて私の前まで来た。

「直人を困らせないで」

「困らせているのは私じゃありません」

「まだ言うの」

かず子さんの右手が上がった。次の瞬間、乾いた音が廊下に響いた。頬が熱くなった。頭が横へ振られ、耳の奥で音が遠くなった。誰も動かなかった。店員が息を飲む音だけがした。私はゆっくり顔を戻した。かず子さん自身も一瞬だけ驚いた顔をしていたけれど、すぐに胸を張った。

「目上の人にあんな口を聞くからよ」

私は何も言わなかった。直人を見た。彼も私を見ていた。私の方を見て、かず子さんを見て、また私に視線を戻した。私は待った。たった一言でよかった。「母さん、何してるんだ」。それだけでよかった。でも直人は言った。

「母さんに謝れば、今日はそれで終わる」

その瞬間だった。頬の痛みが急にどうでも良くなった。私はバッグからスマートフォンを出した。かず子さんが身構えた。

「何よ? 警察でも呼ぶつもり?」

私は答えず、少し離れた場所にいた店の責任者へ頭を下げた。

「すみません。今の廊下の映像、残っていますか?」

責任者が戸惑いながら天井のカメラを見上げた。

「はい。防犯カメラでしたら」

「保存をお願いします。必要なら正式に依頼します」

かず子さんの顔色が変わった。

「ちょっと待ちなさい。家族のことでしょう」

私は初めて彼女を見た。

「今、家族だから殴ったんですか?」

かず子さんが口を閉じた。直人が私の肩を掴もうとした。私は一歩下がった。

「触らないで」

「さや」

「触らないで」

二度目は直人の手が止まった。私は責任者にもう一度謝り、そのまま玄関へ向かった。外へ出ると夜の空気が刺さった。痛かった。でも涙は出なかった。スマートフォンが震えた。直人だった。出なかった。また震えた。今度はかず子さんだった。「どこに行くんだ?」続けて届いた。「母さんも興奮してただけだ」。さらに一通。「明日ちゃんと謝ればいい」。私は画面を見つめた。誰が誰に謝るのか。それすら書かれていなかった。必要がなかったのだろう。直人の中では答えが決まっているから。着信拒否にはしなかった。代わりに通知だけを切った。そして一人に電話をかけた。

「レナ、今話せる?」

森川レナとは以前仕事で知り合った。今は弁護士をしている。

「さや、どうしたの?」

「相談したいことがある」

「仕事?」

「違う」

私は頬に指を触れた。まだ熱を持っていた。

「離婚したい」

レナは何も聞き返さなかった。数秒して、落ち着いた声が返ってきた。

「今、安全な場所?」

「うん」

「怪我は?」

私は少しだけ黙った。

「顔を叩かれた」

レナの声が変わった。

「誰に?」

「義母から。直人が見てた」

私は夜道を見た。それだけでレナには伝わったらしい。

「分かった。まず記録を残そう。今夜は家に戻らないで、泊まれる場所を探すから」

私はタクシーを止めた。ドアが開いた。乗り込む直前、もう一度だけ店を振り返った。五年間、私はあの家族の中に自分の居場所を作ろうとした。誕生日には贈り物をした。困ったと言われれば金を貸した。直人の顔を立てて、言いたいことも何度も飲み込んだ。それを私は家族になる努力だと思っていた。でも違った。境界線を一つ消すたび、彼らは次の線まで入ってきた。そして今日、最後に残っていた線まで超えようとした。

「どちらまでですか?」

運転手に聞かれた。私はレナから届いた住所を見た。

「このクリニックまでお願いします」

車が走り出した。スマートフォンは膝の上で何度も光った。直人、かず子さん、美香さん、り介。私は一通も開かなかった。診察を終えた頃には日付が変わりかけていた。レナが合流してくれた。私の顔を見るなり眉間にしわを寄せた。

「これはひどいね。思ったより晴れてる。冷やした? 痛むでしょう」

私は診断書の入った封筒をレナに見せた。

「店にも連絡した。映像は消さずに保存してくれるって」

レナが頷いた。

「それでいい。被害届を出すかどうかは、今決めなくてもいい」

「分かってる」

「今夜はうちに来る? それとも」

「ホテルを取った」

レナは少し考えてから、私の隣に座った。

「じゃあ聞くけど、離婚したいっていうのは、今、腹が立ったから?」

私は首を横に振った。

「違う」

答えはすぐに出た。

「叩かれたからでもない」

レナは黙って聞いていた。

「直人が私に謝れって言ったの。――それよりも、その言葉の方が痛かった。義母さんが私を叩いたのに、私が謝れば終わるって。多分あの人の中ではずっとそうだったんだと思う。私が我慢すれば全部うまくいくってこと」

レナはしばらく黙っていた。やがて静かに聞いた。

「財産関係は?」

仕事の顔になった。私は答えた。

「家が一件ある。共有?」

「違う。結婚する二年前に買った」

レナがこちらを見る。

「名義は私だけ。ローンはもうない。直人から購入費の負担はゼロ」

レナは小さく息を吐いた。

「資料は残ってる?」

「全部」

私は契約を管理する仕事をしている。証拠のコピー癖だけは昔から徹底していた。購入時の契約書、送金記録、登記関係の書類、リフォーム代の領収書、家具の購入履歴。レナが言った。

「なら明日、一度全部確認しよう」

私は頷いた。その時、あるメールを思い出した。半年前に届いたものだった。近隣の土地をまとめて取得している不動産会社からの買い取り相談。条件は悪くなかった。むしろ当時の相場より少し良かった。私は断った。直人があの家を気に入っていたから。駅から近いのもある。将来子供ができても住める。そう言った直人を見て、私は売る理由がないと思った。でも今は違う。

「家を売る場合も相談に乗ってくれる?」

レナが私を見た。

「もう買い手がいるの?」

「前に一度、買いたいって言われた会社がある」

「ほう。半年前、断った理由は?」

私は少しだけ笑った。

「夫が住みたがったから」

レナは何も言わなかった。私はスマートフォンを開いた。半年前のメールを検索した。まだ残っていた。

「明日の朝、ここに連絡する」

「急いで売る必要はないよ」

「分かってる。安売りするつもりもない。嫌がらせで売るつもりもない」

「じゃあどうして?」

「もうあの家を守る理由がないから」

レナが私を見た。私は診断書をバッグにしまった。

「先に、私のものを私の手に戻したい」

翌朝、私はホテルの窓際で一本の電話をかけた。半年前断ったはずの相手に。呼び出し音は三回だった。

「はい、東浜都市開発でございます」

私は名乗った。

「以前頂いた土地の買い取りのお話ですが。――まだ有効でしょうか?」

電話の向こうが少しだけ静かになった。

「高瀬様ですね」

担当者は私の名前を覚えていた。

「もちろん、条件を再確認した上でですが、お話は可能です」

「今日伺えますか?」

「本日ですか?」

「はい。書類を持っていきます」

担当者は少し驚いたようだったが、すぐに時間を調整してくれた。一時間後、私たちは不動産会社の応接室にいた。担当者の佐木さんは半年前と同じ資料を出した。ただし金額だけは少し変わっていた。

「周辺の取得状況が進んだので、前回より条件を上げられます」

提示された金額は私の予想より高かった。私はすぐには返事をせず、資料を一枚ずつ確認した。契約条件、引き渡し時期、残地物の扱い、登記手続き、違約条項。レナも横から目を通した。

「急いで出るからって、雑に決める必要はないよ」

小声で言われた。私は頷いた。

「分かってる」

佐木さんにも伝えた。

「一つだけ条件があります」

「はい」

「引き渡しまでの間に、私物を搬出します」

「問題ありません」

「今、住んでいる人がいます」

佐木さんの表情が変わった。

「ご家族ですか?」

「夫です」

「売却についてはお話し済みでしょうか?」

私は少し間を置いた。

「まだです」

佐木さんはすぐに契約書へ視線を戻した。

「所有者は高瀬様お一人ですね」

「はい」

「購入時期はご結婚前」

「はい」

「念のため、登記簿と取得経緯はこちらでも確認します」

レナが口を挟んだ。

「そこはお願いします。法的な整理を優先してください」

私は佐木さんを見た。

「無理があるなら、今日は進めなくて大丈夫です」

「承知しました」

私は復讐のために家を投げ売りしたいわけではない。直人を困らせるために損をしたいわけでもない。ただ自分の資産を自分で決めたかった。それだけだった。確認には二時間ほどかかった。最終的に会社側から問題なしと伝えられた。条件も悪くない。私は契約書を見つめた。半年前、同じような資料を前にして私は断った。直人が嫌がったから。あの時の私はそれを夫婦の相談だと思っていた。でも今になって思う。私は相談したのではない。許可を求めていた。自分の家なのに。

「高瀬様」

佐木さんの声で意識が戻った。

「いかがなさいますか?」

私はペンを取った。

「お願いします」

署名をした。手は震えなかった。

午後二時、家の前に小型トラックが二台。作業員がダンボールを運び込む。私は玄関を開けた。久しぶりでもないのに、妙に遠い場所に感じた。リビング、ダイニング。二人で選んだソファ。結婚した年に買った照明。壁際に置いた観葉植物。どれも昨日まで私の日常だった。

「搬出するものはこちらであっていますか?」

作業員に確認され、私はリストを渡した。

「この一覧のものだけお願いします」

大型の家具はほとんど置いていくことにした。ソファもダイニングテーブルも、直人と選んだものに、もう執着はなかった。持っていくのは私が結婚前から使っていた家具、仕事用のデスク、本、衣類、書類、アクセサリー、自分で買った家電の一部。それだけだった。寝室のクローゼットを開けた。半分は直人の服、半分は私の服。いつも見ていた景色なのに、もう他人の荷物に見えた。私は自分の服だけを箱に詰めていった。棚の上には結婚式の写真があった。直人が笑っている。私も笑っていた。少しだけ迷った。でも写真を伏せた。置いていく。レナは何も言わなかった。書斎へ入った時だった。机の上に見覚えのある封筒があった。中には取引先の会社名が書かれた請求関係の資料が入っていた。私はそれを見て、三ヶ月前のメールを思い出した。直人が珍しく仕事の資料を送ってきた。仕入れ先との数字が合わないから見てほしいと言われたのだ。私は当時、簡単なチェックだけした。でも一箇所だけ気になる項目があった。通常の値引きとは別に、説明のつかないコードがあった。直人に聞くとこう答えた。「業界では普通だよ」。私はそれ以上追求しなかった。夫の会社のことだったから。でも今、目の前の封筒にも同じ会社名があった。

「レナ。前に直人から仕事のデータを送られたことがある」

「どんなデータ?」

「仕入れ先との照合表」

「まだ持ってる?」

「メールに残ってると思う」

私は封筒を元の場所に戻した。

「これは持っていかない」

レナが頷く。私は自分のメールを検索した。数秒後、該当のメールが出てきた。送信者は直人。添付ファイルも残っている。

「本人があなた宛てに送ったものを、そのまま使うだけでしょ。加工とかしない」

「問題はないと思う。ただ、まずそのまま保存しておこう」

私は頷いた。私が違和感を持ったからと言って、直人が不正をしたとは限らない。ただ、もし本当に問題があるなら、私はもう目を閉じる理由がなかった。その夜、レナから連絡が来た。

「メールの件、少し確認したい」

「何か分かった?」

「断定はできない。ただ、普通の値引き処理には見えない」

「やっぱり」

「でも、私たちが決めることじゃない」

私は頷いた。

「適切な窓口に情報提供する方法はある」

少し黙った。

「どうする?」

レナが聞いた。少し前までなら、私は迷ったと思う。直人が困る。夫の仕事に影響する。家族に迷惑がかかる。そんなことを考えたはずだ。でも今は別の問いが浮かんだ。もし本当に会社のお金を動かしていたら、私は知りながらまた黙るのか。

「正しい手続きで確認してもらいたい」

「分かった。私が持ってるものだけ。もちろん、勝手に何か取ったりはしない」

「それでいい」

私は必要な情報だけを整理した。メールの送信日時、添付された元データ、直人本人から確認を頼まれた経緯、当時返した内容。余計な推測は一切入れなかった。復讐している気分は、不思議なくらいなかった。ただ、今まで私がしていたことをやめているだけだった。見なかったことにする。代わりに払う。代わりに謝る。家族だからと飲み込む。その全部を。午後になって、直人から電話が来た。今度は出た。

「もしもし」

「さや、ようやく出たな」

私はスマートフォンを耳から少し離した。

「何?」

「何だよ、どういうつもりだよ」

「私の荷物を出しただけ」

「なんで勝手に?」

「私の荷物だから」

直人は息を荒くした。

「母さんも怒ってるぞ」

「そう」

「そうじゃないだろう」

しばらく直人の怒鳴り声が続いた。最後に彼が言った。

「今夜戻ってこい」

「戻らない」

「いつまで意地張るつもりだよ」

「意地じゃない」

「じゃあ何なんだ?」

私は静かに答えた。

「終わらせる準備」

電話の向こうが一瞬静かになった。

「何を?」

私は答えなかった。直人が声を低くする。

「離婚とか、くだらないこと考えてないよな」

私は少しだけ驚いた。くだらないこと。彼にとってそういう位置付けなのだ。

「一つだけ聞く」

「何?」

「私が叩かれたこと、どう思ってる?」

沈黙。長くはなかった。でも十分だった。

「母さんだって、感情的になっただけだろう」

私は目を閉じた。

「分かった」

「何が」

「もういい」

電話を切った。その夜、直人の実家では家族会議が開かれていたらしい。後になって、り介の婚約者から聞いた。かず子さんはこう言ったという。「どうせ数日で戻るわよ」。美香さんも笑った。「さやさんって結局直人に甘いから」。り介はもっと軽く。「家に戻れば話せるだろう」。誰一人、私がもう戻るつもりがないことを理解していなかった。

三日目、直人は仕事へ行く前に、かず子さんへ鍵を渡した。

「さやが帰ってくるまで、母さんここにいたら」

かず子さんはその提案を気に入った。り介の新居準備もある。荷物を置く場所も欲しい。美香さんまで何箱か運ぶと言い出した。彼らはまだ、あの家を自分たちが使える場所だと信じていた。その日の午前十時、佐木さんから連絡が入った。

「高瀬様、登記の確認、全て整いました」

私は息を吸った。

「分かりました。予定通り引き渡しの準備に入ります」

「お願いします」

同じ頃、かず子さんたちは家の前に立っていた。鍵は何の抵抗もなく回った。かず子さんは当然のように中へ入った。

「ほら、やっぱり開くじゃない」

後ろからり介が大きなダンボールを運び込む。

「母さん、これどこ?」

「二階でいいんじゃない?」

美香さんも神棚の箱を抱えて続いた。

「さやさんのもの、本当に減ってるね」

リビングを見回して、かず子さんが鼻を鳴らす。

「子供みたいに荷物まで持ち出して。そのうち戻るだろう」

り介が笑った。

「兄貴が迎えに行けば終わりだって」

鍵が開いた。それだけで彼らには十分だった。

一方、私はレナと一緒に引き渡し書類を確認していた。佐木さんから最終確認の連絡が入った。

「本日午後、現地確認に伺います」

「分かりました」

「現在、室内にはどなたかいらっしゃいますか?」

私は少し考えた。

「夫の荷物は残っています。ご本人は勤務中のはずです」

「承知しました」

電話を切った後、レナが私を見る。

「管理会社にも伝えておこう」

私は連絡した。すると担当者が言いにくそうに答えた。

「実は今朝、何か出入りしていまして。何名か、ご親族でしょうか。荷物を運び込んでいました」

私は一瞬言葉を失った。でも驚きは長く続かなかった。

「今日、取得者側の確認が入ります。現状を見てもらってください」

「承知しました」

電話を切った。レナが言う。

「行く? 行かない?」

私は即答した。

「行かない。自分で説明する必要はない。契約書がある。登記がある。管理会社がいる。取得者側もいる。私が玄関で怒鳴り合う必要はなかった」

午後二時過ぎ、佐木さんから再び電話が来た。

「高瀬様、現地にご親族の方がいらっしゃいます」

「聞いています」

「荷物も、かなり増えています」

「夫本人は?」

「今のところいらっしゃいません」

「分かりました。こちらから事情を説明してもよろしいですか?」

「お願いします。所有権の移転と引き渡しについて」

「はい」

私は一つだけ加えた。

「感情的な話には付き合わなくて大丈夫です」

その頃、玄関前には佐木さんと管理会社の担当者が立っていた。かず子さんが不機嫌に出てきた。

「何ですか?」

佐木さんは名刺を差し出した。

「東浜都市開発の佐木です」

「不動産?」

「はい。こちら、うちは売る予定なんてありませんけど」

佐木さんは表情を変えなかった。

「こちらの物件ですが、本日、引き渡し確認の予定です」

かず子さんは意味が分からない顔をした。

「誰に?」

「弊社にです」

「あ?」

美香さんが後ろから出てきた。

「ちょっと待って。何の話ですか?」

佐木さんは書類を確認した。

「所有者である高瀬さや様と、売買契約を締結しております」

数秒、誰も話さなかった。最初に声を出したのはり介だった。

「嘘だろ」

かず子さんが佐木さんの書類を見ようとした。

「そんなわけないわ。ここは直人の家よ」

佐木さんは落ち着いた声で返した。

「登記上の所有者は、高瀬直人様ではありません」

かず子さんの顔がみるみる赤くなった。

「でも夫婦でしょう」

「はい」

「なら勝手に売れるわけないじゃない」

美香さんが割って入った。

「さやさんに電話します」

すぐに私のスマートフォンが震えた。出なかった。かず子さんから、り介から、続けて直人から。全部そのままにした。家では佐木さんが説明を続けた。

「取得時期も確認済みです」

「だから何よ」

「ご結婚前の取得です」

かず子さんが黙った。美香さんはすぐ直人に電話をかけた。

「直人、あんた何してるの?」

その頃、直人は会社にいた。

「何だよ」

「家、売られてるんだけど」

「は?」

「さやさんが家を売ったって」

直人は最初、笑ったらしい。

「何言ってんだよ」

「不動産屋が来てるの」

「そんなの、勝手にできるわけないだろう」

「できてるから、ここにいるんでしょう」

直人の声が消えた。

「登記もさやさんだけだって」

長い沈黙。

「待ってろ。今から行く」

直人は電話を切った。だが会社を出る前に内線が鳴った。

「高瀬さん、少し会議室まで来てください」

「今ですか?」

「はい。すぐお願いします」

「家でちょっと用事が」

「申し訳ありません。部長も待っています」

その言葉で直人は足を止めた。会議室には部長、人事担当、内部監査の担当者、そして見慣れない男性が一人いた。

「高瀬君、いくつか確認したい」

一枚の資料が机の上に置かれた。注番号、納品日、取引先。直人の表情がわずかに変わった。

「この案件、覚えてるな」

「はい」

「この金額差は?」

「値引きです。通常の調整です」

内部監査の担当者が別の書類を出した。

「では、このコードは何ですか?」

直人は黙った。そこには私が三ヶ月前に違和感を持った記号があった。

「これも値引きですか?」

「そうだと思います」

「思います? 細かい処理は経理に聞いてください」

「経理にも確認済みです」

部屋が静かになった。

「正式な値引きコードではありませんでした」

直人は椅子に深く座り直した。

「取引先側の入力ミスでしょう」

担当者はさらに資料を置いた。

「同じ処理が一件ではありません」

一枚、二枚、三枚。資料が並んでいく。

「複数の案件で、同じ形式が使われています」

「俺がやったって証拠があるんですか?」

「まだ確認中です」

「じゃあ犯罪者みたいに言うなよ」

部長が眉をひそめた。

「誰も犯罪者とは言ってない」

「だったら帰っていいですか?」

「まだだ」

直人の手が止まった。

「もう一人、確認している人間がいる」

「誰ですか?」

「高瀬良介君だ」

直人の顔色が変わった。

「り介君の弟だね」

家ではかず子さんがまだ抵抗していた。

「私は出ませんから」

玄関先で声を張り上げる。

「直人が来るまで、絶対に動きません」

佐木さんは同じ説明を繰り返した。

「本日の確認ができない場合、記録を残します」

「勝手にしなさい」

「ただし、このまま荷物を増やすのはお控えください」

り介が前へ出た。

「何だよそれ。所有権が変わるためです。俺たちは家族なんだよ」

「はい」

「じゃあ住む権利があるだろう」

佐木さんは一度だけ息を吐いた。

「その点については、私から判断できません」

「逃げんなよ」

「逃げてはいません」

「じゃあさやを呼べよ」

「高瀬様にその義務はありません」

り介が佐木さんの前へ詰め寄った。美香さんが止める。

「り介、やめなさい」

「こいつらが勝手なこと言うからだろ」

「録画されていますよ」

管理会社の担当者が静かに言った。り介が止まった。玄関近くの共用部分には防犯カメラがある。その存在に今更気づいたらしい。かず子さんが口を挟んだ。結局、管理会社と取得者側が引き渡し妨害の経緯を記録し、必要な対応を進めることになった。直人の許可を盾にしていた家族は、直人自身に所有権がないと分かると、ようやく荷物を運び出した。帰り際までかず子さんは言い続けた。「さやさんが悪いのよ」。でもその声に同意する人はもうなかった。

会社の確認は一時間を超えていた。担当者が言った。

「この取引先から、別口の入金があります」

直人の目が動いた。

「何のことですか?」

「君ではありません」

直人はほんの少しだけ安心した。だが、次の言葉で顔が固まった。

「良介君にです」

「なんでそれを」

「聞いています」

「俺に聞かれても知りませんよ」

「本当に?」

「知りません」

直人は即答した。人事担当が入り、部長に何か伝えた。部長の表情がさらに険しくなる。

「高瀬君、今日は通常業務に戻らないでくれ」

「は?」

「社用端末を預かる」

直人が立ち上がった。

「ちょっと待ってください」

「調査が終わるまでだ」

「なんで俺が」

「確認が必要だからだ」

「家に用事があるんです」

部長は直人を見た。

「今はこちらも用事だ」

直人は言葉を失った。会社を出た時には、もう暗くなっていた。玄関前で待っていたのはかず子さんだった。

「直人、大変なのよ」

「分かってる」

「さやさん、本当に家を売ったのよ」

「聞いた」

「なんで止めなかったの?」

直人は黙った。美香さんも少し離れたところにいた。り介は地面を蹴っている。

「兄貴、何だよ。会社どうなってんだよ」

その声で直人の顔つきが変わった。

「お前こそ何したんだ?」

「は?」

「取引先から金が入ってるって言われたぞ」

り介の目が泳いだ。

「知らねえよ」

「知らないで、口座に金が入るのかよ」

「紹介料みたいなもんだよ」

「紹介料が普通だろう」

直人はり介の胸ぐらを掴んだ。

「普通なわけあるか」

「兄貴だって知ってただろ」

かず子さんが叫ぶ。

「やめなさい」

美香さんも割って入った。

「こんなところで何してるの?」

り介は直人の手を振り払った。

「兄貴が言ったんだろう。何を? 業界では普通だって」

その言葉、直人はどこかで聞いた覚えがあった。自分が言ったのだ。私に。「業界では普通だよ」。自分を納得させるために何度も使った言葉。それが今、弟の口からそのまま帰ってきた。

「俺はそこまでやれとは言ってない」

「じゃあ、どこまでなら良かったんだよ」

直人は答えられなかった。かず子さんが二人の間に入った。

「今はそんな話より家でしょう」

直人が顔を上げた。

「会社で俺ら二人とも止められてんだぞ」

「だからって、住むところなくなったらどうするのよ」

直人は何も言わなかった。自分の母親を理解できないような顔で見た。それは私が五年間、何度も見てきた顔だった。今、その順番が直人自身に向いただけだった。

「さやに電話する」

直人が言った。

「そうよ。ちゃんと叱りなさい」

直人はその言葉に反応しなかった。私に電話をかけた。一回目、出ない。二回目、出ない。三回目、それでも出ない。直人はメッセージを送った。「頼む。一度だけ話したい」。かず子さんが言った。

「何で頼んでるの?」

直人が母親を見る。

「今は黙っててくれ」

かず子さんの顔が固まった。

「直人」

多分それが初めてだった。直人が母親にはっきり「黙れ」と言ったのは。でも遅すぎた。

翌日、私はレナの事務所で離婚に必要な資料を確認した。財産関係、生活費、保険、住所、今後の連絡方法。その時、美香さんからメッセージが届いた。「いい加減にして」「続けて、あなた会社にも何かしたでしょう」「直人とり介が仕事できなくなってる」「家庭内の喧嘩に会社まで巻き込むなんて最低」。私は画面を見て、短く返した。「家庭内の問題と会社の確認は別です」。すぐ既読になった。数秒後、電話が鳴った。私は出た。

「もしもし」

「何、その言い方?」

美香さんは最初から怒っていた。

「直人がどれだけ困ってるか分かってるの?」

「会社が何を確認しているか、私は知りません」

「嘘つかないで」

「嘘じゃありません」

「じゃあなんでこんなタイミングなのよ」

「資料を確認したのは会社です」

「あなたが出したんでしょう」

「私が持っていたものを、正しい手順で渡しました」

美香さんの声がさらに高くなった。

「夫婦喧嘩で旦那の仕事を潰すなんて」

「潰したかどうかはまだ分かりません。問題がなければ、確認されて終わります」

美香さんが一瞬黙った。

「問題があったなら、それは私が作った問題じゃない」

電話の向こうで息を吸う音がした。

「調子に乗らない方がいいよ」

私は黙って聞いた。

「こっちだって黙ってないから」

「何をするんですか?」

「会社に行く。あなたの会社に行って、全部話す」

「何を?」

「家庭を壊して夫を落とし入れたって」

「そうですか」

「地元にも行く。あなたのお母さんにも話してやる」

そこで私の中の何かが完全に冷えた。この人は今も、脅せば私が怖がると思っている。

「美香さん、その前に一つ確認していいですか?」

「何?」

「ご主人の会社、青葉ロジスティクスですよね」

電話の向こうが静かになった。

「そうだけど」

「取引先に、北関設備販売という会社がありますか?」

今度は沈黙が長かった。

「なんでその名前知ってるの?」

「直人から送られた資料に記載がありました」

「それが何よ」

「同じ請求の流れの中に、会社名が出ています」

「だから何?」

「私には判断できません」

「じゃあ黙ってなさいよ」

「はい。だから判断するところに渡しました」

美香さんの息が止まった。

「何を?」

「必要な確認をするところです」

「ふざけないで。うちの会社は関係ない」

「それも私には分かりません」

「あんたが巻き込んだのよ」

私はゆっくり言った。

「私が巻き込んだんじゃない。同じ請求書に名前があっただけです」

沈黙。今度は美香さんから何も返ってこなかった。

「脅す前に、ご主人に確認した方がいいと思います」

電話が切れた。その日の夕方、美香さんは帰宅した夫を問い詰めた。

「北関設備販売って知ってる?」

夫の顔が変わった。ほんの一瞬でも、夫婦には分かる。

「なんで知ってる?」

「取引先の一つだよ」

「直人たちの会社とも取引あるの?」

「あるんじゃないか」

「なんでうちの会社の名前が、向こうの請求に出るの?」

夫は黙った。

「え? 答えて」

「経理のことなんか俺に聞くなよ」

「社長でしょ」

「全部俺が見るわけないだろう」

夫は声を荒げた。美香さんはそこで初めて怖くなった。自分の夫の会社は家族の中で一番安定している。そう信じていた。だから誰にでも上から物を言えた。でも、その土台にひびが入った。翌朝、青葉ロジスティクスに取引確認の連絡が入った。請求書、業務委託費、外注費。それらの支払いについて、資料提出を求められた。まだ何も確定していない。それでも美香さんには十分だった。昼前、今度は彼女から私にメッセージが届いた。「話したい」。昨日までの「許さない」でも「会社に行く」でもない。たった一言だった。私は返信しなかった。午後、直人からも連絡が来た。「さや、一度ちゃんと話す」。私はレナに確認した。

「会ってもいいかな?」

「目的は?」

「終わらせるため」

「二人きりはやめよう」

「うん。場所はこちらで決める」

「お願い」

翌日、レナの事務所近くの小さな会議室を借りた。先に来たのは直人だった。扉を開けた瞬間、少し驚いた。たった数日なのに、顔が変わっていた。髪は乱れ、目の下には濃い影がある。直人は私を見るなり立ち上がった。

「さや」

私は向かい側に座った。レナは少し離れた席にいる。

「話って何?」

直人はすぐには答えなかった。

「――家、本当に売ったのか?」

「売った」

「何で相談しなかった?」

「私の家だから」

「夫婦だろう」

「もうすぐ違う」

直人の顔がわずかに歪んだ。

「そんな簡単に言うなよ」

「簡単じゃなかった。五年かかった」

直人が黙る。私はバッグから離婚届と書面を出した。直人はそれを見ただけで顔を背けた。

「今すぐは無理だ」

「何が?」

「離婚」

「理由は?」

「状況が悪すぎる」

「状況?」

「会社のこともある。家もない。母さんも混乱してる」

「だから」

「今、離婚まで重なったら困る」

私は何も言えなくなった。「離婚したくない」ではない。「愛している」でもない。「やり直したい」ですらない。「困る」。ただそれだけだった。

「署名して」

直人は動かなかった。

「今は待ってくれ」

「いつまで?」

「会社の件が落ち着くまで」

「どれくらい?」

「分からない」

私は頷いた。

「じゃあ、待たない」

「さや」

直人の声が大きくなる。レナがすぐに口を開いた。

「高瀬さん、ここは怒鳴る場所ではありません」

直人は歯を食い縛った。そして急に声を落とした。

「さや」

「何?」

「金、少し貸してくれないか?」

私は聞き間違えたと思った。

「何て?」

「会社に返さないといけない金が出るかもしれない」

「かもしれない?」

「調査中なんだ」

「じゃあ、まだ決まってないでしょう」

「でもり介が変なことしてる」

「良介君が」

「俺まで巻き込まれてる」

私は黙った。直人は続ける。

「家の売却金、入るんだろう」

その言葉で全部が分かった。だから今、離婚したくないのだ。

「いくら必要なの?」

「今すぐじゃない」

「金額は?」

「まだ分からない」

「じゃあ、なんで私に貸してって言うの?」

「備えだよ」

直人の声に少しだけ昔の調子が戻った。

「夫婦なんだから、こういう時は助け合うだろう」

誕生日祝いの夜、彼は私に言った。「家族なのにそこまで線を引く必要ある?」。今、同じ言葉を形を変えてまた使っている。私は答えた。

「貸さない」

直人の顔が固まった。

「一円も出さない」

「俺がどうなってもいいのか?」

「あなたがしたことの結果なら、私が払うものじゃない」

「まだ俺がやったって決まってない」

「だったら、なおさら私のお金は必要ないでしょう」

直人が黙る。私は書類を彼の前へ押した。

「私ができるのは、これだけ」

直人の目が離婚届に落ちた。その時、会議室の外から激しい足音が聞こえた。扉が開く。立っていたのは美香さんだった。顔色は真っ青だった。

「さやさん」

昨日まで私を脅していた人とは思えない声だった。

「お願い。これ以上、何もしないで」

直人が顔を上げる。

「姉ちゃん」

「あなたは黙ってて」

美香さんの声が震えた。

「主人の会社に確認が入ったの」

「そうですか」

「取引を全部、停止って」

私は静かに答えた。

「必要なら、確認されると思います」

「あなたがやめれば終わるんでしょう」

「終わりません」

美香さんが固まった。

「私は調査する立場じゃありません。でも資料を出したのはあなたでしょう」

「私が持っていたものを、確認できる場所に渡しました」

「じゃあ取り下げてよ」

「できません」

レナが口を開いた。

「一度提出された情報を、都合が悪くなったから消すという話ではありません」

美香さんは反論できなかった。私は彼女を見る。

「私には、あなたたちの会社を守る権限もありません」

少し間を置く。

「守る義務も」

美香さんはゆっくり椅子に座った。直人が私を見ていた。その顔には、怒りよりも恐怖が浮かんでいた。

「さや」

「何?」

「本当に何もしないつもりなのか?」

「何を?」

「俺たちのために」

私はしばらく彼を見た。

「今まで、十分したよ」

直人が黙る。

「お金を出した。困った時は代わりに払った。嫌なことも何度も飲み込んだ。あなたのお母さんに何を言われても、家族だからって我慢した。あなたが私を守らなくても」

直人は目をそらした。私はもう攻める気にもならなかった。

「でも、終わったの」

書類をもう一度彼の前へ置いた。

「署名して」

直人は動かなかった。美香さんが小さく言った。

「直人、もういいんじゃない?」

直人の目が見開かれた。

「姉ちゃんまで、何言ってんだよ」

「今、それどころじゃないの?」

昨日まで全員で私を囲んでいた。今は誰も直人の味方をしていない。家族。彼らが何度も使った言葉。でも、都合が悪くなると一番先に崩れたのも、その家族だった。直人は長い間黙っていた。やがてペンを取った。手が震えていた。

「さや」

私は返事をしなかった。

「これで本当に終わりなのか?」

「うん」

「五年だぞ」

「知ってる」

「何とも思わないのか?」

私は少し考えた。

「思うよ」

直人の目がわずかに動いた。

「だから終わらせるの」

ペン先が書類に触れた。名前を書き終えた瞬間、胸の奥にあった何かが静かに落ちるのを感じた。嬉しくはなかった。悲しくもなかった。ただ、終わった。それだけだった。

その後、会社の調査はさらに進んだ。直人とり介については、複数の取引と入金が確認され、会社側は必要な手続きを取った。二人は処分を受け、外部への通報も行われた。直人は最後まで「兄貴も知ってた」と言い、り介は「直人が勝手にやった」と主張した。二人が守ったのは、最後まで互いではなく、自分だった。美香さんの夫の会社も取引内容を細かく確認された。それまで当然だった金の流れが、一つずつ説明を求められた。取引先の見直しが相次ぎ、経営は急速に傾いた。数日後、会社から私に追加確認が入った。私が提出したデータについて、取得経緯を確かめたいという。私は送られてきた元メールと当時の返信だけを示した。

「ご主人から確認を頼まれたんですね」

「はい」

「その後、社内システムへアクセスしたことは?」

「ありません」

「資料を持ち出したことは?」

「ありません」

質問はそれで終わった。帰り道、私は少しだけ安心した。正しいことをする時ほど、手順を雑にしてはいけない。仕事で何度も言ってきたことを、今度は自分が守っていた。美香さんから私に連絡が来ることはなくなった。り介の結婚話も消えた。婚約者は借金と仕事の問題を知って、離れていった。かず子さんは最初のうちは親戚中に電話していたらしい。「嫁に家を取られた」「息子を落とし入れられた」。そう話していた。でも、事情を知る人が増えるほど、電話に出る人は減った。自分の家を手放してまで、息子たちの支払いを肩代わりしようとして、生活は一気に苦しくなった。最後には、美香さんの家にも、り介のところにも、以前のようには頼れなくなった。私のところには一度だけ手紙が届いた。封筒を見ただけで誰からか分かった。開けなかった。レナに確認してもらい、必要がないと分かると、そのまま処分した。離婚届が受理された後、直人から直接連絡が来たのは一度だけだった。「少しだけ話せないか」。短いメッセージだった。私は返信しなかった。以前なら、理由を説明しようとしたと思う。どうして傷ついたのか、何が間違っていたのか。何度でも言葉にした。でも、もう必要なかった。伝わらなかったのではない。聞こうとしなかったのだ。その違いを、私はようやく理解していた。連絡先を整理し、必要な窓口だけ残した。それで十分だった。私は旧姓の水野に戻った。水野さや。その名前を新しい住民票で見た時、不思議なくらい静かな気持ちになった。

季節が変わる頃、私は横浜の小さな賃貸マンションに移った。以前の家より狭い。庭もない。駅からも少し歩く。でも、玄関を開けるたび、妙に安心した。ここにあるものは、全部私が選んだものだった。ある休日、朝から雨が降っていた。私は窓を少し開けた。濡れた道路の音が静かに聞こえる。テーブルの上には、新しい家の鍵と自分の財布。それだけだった。誰かに渡せと言われるカードはない。誰かの機嫌を取るために使うお金もない。電話もならない。私はコーヒーを入れた。湯気が上がる。それを見ながら、誕生日祝いの夜を思い出した。あの時、かず子さんは私にカードを渡せと言った。私は断った。でも今なら分かる。私が取り戻したのは、カードでも家でもお金でもなかった。自分で決める権利だった。窓の外で雨が少し弱くなった。私はカップを持ち、玄関に置いた鍵を見る。もう誰かの家に入るための鍵を持ち続ける必要はない。これから開ける扉は、自分で選べばいい。私は静かにコーヒーを飲んだ。人生はようやく、私のものになった。

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