部長面談の席で、山下部長はニヤニヤと笑いながら一枚の書類を差し出した。俺の査定シートだ。そこに記載されたボーナス額は「8181円」。意味が分からずにいると、部長は「バイバイ」とだけ言って、また笑った。
俺は今まで、部長の仕事も、部長の娘の仕事まで、全部片付けてきた。仕事量は倍以上になったのに、営業成績は上げ続けてきた。俺の成果がどれほどのものか、部長が一番よく分かっているはずだ。それなのに、この仕打ち。さすがに我慢の限界だった。
体の弱い父親を楽にさせたい。その一心で必死に働いてきた。でも、これだけ不当な評価を受けるなら、ここにいても未来はない。「やめさせていただきます」と告げると、部長は大喜びしていた。笑っていられるのも今のうちだ。俺がいなくなった時、この職場はどうなるのか。想像するだけで愉快だった。
俺の名前は高橋正。四十三歳。大手メーカーの営業として働いてきた。誰よりも必死に仕事に打ち込んできたのには、ちゃんと理由がある。
俺の母親は幼い頃に病気で亡くなった。それからは父親が男手一つで育ててくれた。しかし、父は体が弱く、長時間働くことができない。無理をするとすぐに体調を崩してしまうため、仕事も長続きしなかった。家はいつも貧乏で、給食費が払えず、父が学校に頭を下げに行くことも何度もあった。そんな父の背中を見て、俺は心に誓った。一日でも早く働いて、父を楽にさせると。
中学三年生になった時、少しでも早く働こうと就職を考えた。しかし担任の先生が、成績の良かった俺に特別待遇のある高校を紹介してくれた。
「せめて高校くらいは出なさい。父さん、もう頑張るから」
「分かったよ。でも、高校を出たら働くから」
父の強い願いを受け入れて、高校に進学した。そこでも真面目に勉強して上位の成績を取り、大学進学を勧められた。だが、これ以上父を頑張らせるわけにはいかない。大学進学は断念して、地元の工場に就職した。
工場での仕事自体は楽しかった。しかし給料が低すぎて、父に楽をさせるほどの余裕はなかった。そこで収入を増やすために転職を決意する。高卒で高収入を目指すのは厳しかったが、なんとか今の会社に就職することができた。選んだ理由はインセンティブの高さだ。営業が大変な仕事だということは十分承知していたし、実際にやってみてその通りだったが、契約を取れば取るほど給料にしっかり反映される。工場時代とは比べ物にならない金額が入ってくるようになった。
最初は慣れない仕事に苦戦したが、最初の上司になった君島さんがとても良い人で、営業を一から丁寧に教えてくれた。教え方が良かったのか、俺はどんどん契約を取れるようになった。仕事が楽しくなり、この仕事のために生まれてきたんじゃないかと思うほどだった。
そんなある日、君島さんが俺に相談を持ちかけてきた。
「業績の落ちている営業所があってな。高橋君にはそこを立て直してほしいんだ」
俺にそんな重要な任務が任されるとは。緊張した。だが、問題があった。その営業所は遠く、通うには引っ越しが必要になる。そうなれば、病弱な父を一人で残していくことになるのだ。
君島さんは俺が仕事を頑張る理由を知っていた。
「高橋君ならできると思ってお願いしているんだ。大変な仕事だが、その分給与も上がるよ」
そう言って給与アップを約束してくれた。君島さんが頭を下げて頼んでいる。無下にするわけにはいかない。
「やります。精一杯頑張ってみます」
不安はあったが、そう答えるしかなかった。
こうして俺は、業績が落ちている営業所で働き始めた。移動して早々、なぜ業績が伸びないのか、その理由が分かった。ここの社員はコネ入社が多く、業績が低くてもなんとかやっていけるから、やる気のない人間ばかりだった。その象徴ともいうべき存在が、山下部長とその娘のゆみさんだった。
部長は自分の仕事を人に押し付け、ほとんど働いていない。そんな父を見ているせいか、ゆみさんも仕事中にスマホをいじってばかり。二人揃って、まともに仕事をしていないのだ。上の人間がこれでは、部署全体の士気が上がるわけがない。とはいえ、山下部長は俺の上司だ。直接何か言うわけにもいかない。
しかし、ゆみさんは俺の部下だ。まずは彼女の勤務態度を改善させようと思った。
「ゆみさん、仕事が難しいのかな。いつも他の人に任せているようだけど、分からないことがあったら教えるから、いつでも聞いてね」
できるだけ優しくそう言った。しかし、他人に何か言われたのが気に食わなかったのだろう。ゆみさんはあからさまに不快そうな顔をした。
「はあ? 来て早々、何なの? 私の父親が誰だか分かってるの?」
俺が上司であることは理解しているはずなのに、言うことを聞く気がないらしい。
「俺は会社の上の人間から命令されて、この部署に来たんだ。だから、この部署を良い方向に導く義務があるんだよ」
「いや、そんなの知らないから。私に命令しないでくれる? 今日のことはお父さんに言いつけるから」
そう言い残して、ゆみさんはどこかへ行ってしまった。移動早々、山下部長と対立するのは避けたかったのに。この様子だと、ゆみさんから話を聞いた部長が何か言ってくるかもしれない。そう考えると頭が痛かった。
翌日、嫌な予感は的中した。山下部長が真っ赤な顔で俺のところへやってきた。
「おい、高橋。弓から聞いたぞ。ユミに命令したらしいな」
「いえ、命令ではなく、仕事で分からないことがあったら話を聞くと言っただけです。俺は偉そうに命令した記憶などありません」
おそらく、ゆみさんが話を盛って告げ口したのだ。しかし、山下部長は聞く耳を持たない。
「うるさい! ユミがそう言ってるんだから、お前の言い方が悪いんだ。ユミは俺の娘なんだぞ。お前ごときが命令できると思うな!」
言いたいことを言い捨てて、部長は去っていった。残された俺は、あまりにも理不尽な言いがかりに呆然とするしかなかった。
それでも、俺は君島さんに頼まれたことを果たさなければならない。ゆみさんを放置するわけにはいかないと、今度は仕事を任せてみることにした。
「ゆみさん、この仕事を任せたいんだけど」
またゆみさんは眉を潜める。
「はあ? 仕事? お父さんに言われたでしょ。私に命令しないで」
仕事を任されるのも嫌なようだ。
「まあ、とりあえずやってみてよ」
それだけ言って、俺はその場を去った。しかし、数十分後、山下部長が鬼のような形相で現れた。
「この前行ったはずだよな。ユミに命令をするなと」
さっき俺がゆみさんに渡した資料を手に持っている。
「命令ではなく、仕事をお願いしただけです」
「それが命令してるって言うんだよ。余計なことをするな!」
山下部長に仕事を突き返されてしまった。その後も隙を見て何度かゆみさんに仕事を任せてみたが、その度に告げ口され、山下部長に仕事を突き返された。何度か繰り返して、これは無駄だと理解した。俺は諦めて、自分の仕事と、ゆみさんがやるはずだった仕事を全部引き受けることにした。
そんな俺の姿を見て、山下部長とゆみさんは俺が二人に屈したと思ったらしい。日々忙しく働く俺のところへ、ニヤニヤ顔の部長がやってくる。
「おお、高橋。すごいな。これも片付けといて」
二人分の仕事で手一杯なのに、部長は自分の仕事まで押し付けてきた。もはや反論する気も起きなかった。言われるがまま、黙々と仕事を片付けた。
そんな状況でも、俺は営業所の業績を上げるための行動を続けた。隙を見ては営業に出かけ、新規契約をどんどん獲得した。今までも成績は良かったが、この営業所に来てからさらに業績が伸びた。俺は一人で一億の業績を上げた。入社以来、最高額だった。
しかし、素直に喜べなかった。インセンティブの金額に変化がなかったからだ。業績が上がっているのだから、もっと多くの額が入るはずなのに。疑問を抱えながら仕事をしていたが、その答えが分かる日が来た。
うちの会社では上半期と下半期に一回ずつ部長面談が行われる。業績や勤務態度を評価される重要な場だ。面談の時期が来て、俺は部長室へ足を運んだ。
「失礼します」
「うむ。くれ。お前の評価シートだ」
渡された評価シートを見て、すぐに違和感を覚えた。記載されている成績の金額が、明らかに実際の業績より少ないのだ。
「山下部長、こちらの金額がおかしいと思うのですが」
俺がそう言うと、部長はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた。
「ああ、気づいたか。お前は一人で業績を上げすぎなんだよ。俺とユミがお前の業績を少しもらってやってるんだ」
衝撃の事実だった。しかも、部長は全く悪びれていない。俺は業績を上げるために、少しでも時間があれば営業に出ていた。一方、山下部長とゆみさんは自分の仕事もせず遊んでばかりだったというのに。そんな二人に俺の手柄を奪われていたとは。
「ああ、そうだ。ちょっとボーナスの金額を見てみろよ」
言われるままボーナスの欄を見ると、「8181円」と記載されている。明らかに少なすぎる。
「8181円ってどういうことですか?」
強く抗議しても、部長の様子は変わらない。それどころか、何が面白いのか腹を抱えて笑い出した。
「お前のボーナスは8181円だ。意味分かるか? バイバイ」
やっと意味が分かった。8181は「バイバイ」と読む。つまり、俺はクビだということだ。
「俺はもう要らないということですか?」
「逆に、ここまで言わないと分からないのか? もう十分旨みは分けてもらったからな。お前みたいな反抗的な奴は、ここにはいらないんだよ」
言いたい放題言って、部長は高笑いした。俺は営業所をよくしようと、一人で頑張ってきた。最近はずっと、山下部長とゆみさんの仕事だって俺がやっていた。それなのに、この仕打ち。あまりにも理不尽で非常だ。
「分かりました。では、俺は会社をやめます」
絶望してそう告げた。しかし、部長は困るどころか、さらに嬉しそうな顔をした。
「おいおい、そんなに簡単に受け入れていいのかよ? ちょっとは抵抗しろよ」
「やめろと言ったのはあなたでしょう。それならやめてやりますよ」
「そんなでかい口叩いていいのか? どうせやめられないくせに」
部長は俺が本当にやめるとは思っていないようだったが、俺は本気だった。
面談を終えたその足で、俺は人事部へ向かい、退職届を提出した。受理されたが、それで終わりというわけにはいかない。今まで関わってきた取引先に挨拶をしなければならない。俺はこれまでお世話になった企業を回って、退職の挨拶をした。急な退職に、みんな驚いていた。理由を聞かれたが、社内の問題なので詳しく話すわけにはいかない。「一身上の都合です」とだけ答えた。
しかし、入社当初からずっとお世話になっていた君島さんにだけは、真実を伝えることにした。
「山下部長とゆみさんは、仕事を俺に押し付け、業績すら奪っていたんです。そして最後に、バイバイと書かれたボーナスでバカにされて。もうやっていけません」
そう話すと、君島さんは本当に申し訳なさそうな顔をした。
「すまない。あの営業所であの二人が問題の根源であることは分かっていたんだ。高橋君に任せたら状況も変わると思った。力になれず、本当に申し訳ない」
あの二人に問題があることを知っていたなら、事前に伝えて欲しかった。しかし、正直に伝えていたら俺が移動を了承しなかったかもしれない。そう考えれば、君島さんが言えなかったのも無理はない。それに、君島さんは俺ならできると思って任せてくれたのだ。期待に応えられなかったのは、申し訳ない。
「今まで俺もあの二人には再三注意してきたんだが、ここまで来たらあの二人を処分するしかないだろう。ちゃんと適切な処分を下す」
君島さんも怒りをあらわにしていた。きっと、あの二人は適切な処罰を受けるはずだ。俺は君島さんに感謝し、退職した。
君島さんは俺に詫びるように、新しい働き口として知り合いの会社を紹介してくれた。前の会社より規模は小さかったが、実際に足を運んでみると、働いている人の人柄も良く、気持ちよく仕事ができる職場だと感じた。魅力を感じた俺は、君島さんに感謝して新しい職場で働き始めた。
今までは山下部長やゆみさんの仕事まで片付けなければならず、なかなか営業に専念できなかった。しかし今は違う。自分に任された仕事と営業だけをこなせばいいので、営業にかけられる時間が圧倒的に多い。環境が変わったせいか、以前より伸び伸びと働くことができ、ついには十億円の契約を取りまとめることができた。
そんなある日、営業回りの最中にスマホが鳴った。相手は意外な人物だった。
山下部長からだった。
今更話すことなどない。しかし、何の用があるのか気になったので、電話に出てみることにした。
「はい、もしもし」
「た、高橋、助けてくれ」
電話口の山下部長は焦っているようだった。
「助けてくれって、どういうことですか?」
「お前が以前担当していた企業の丸山社長がいるだろ? ちょっと丸山社長に口を聞いてくれないか」
思わずため息が出た。久々に電話してきて、何とも自分勝手な要求だ。
丸山社長は俺が担当していた有名企業の社長だ。マナーに厳しく、人の好き嫌いがはっきりしている気難しい人物だが、俺のことは気に入ってくれていた。そのため、今までいくつもの商談を持ちかけてくれていたのだ。一方、山下部長は丸山社長のことをあまり理解しておらず、簡単に契約が取らせてくれる会社だと思っていたのだろう。俺の後任にゆみさんを送り込んだのだが、丸山社長はゆみさんの礼儀のなさに激怒したらしい。
俺は退職する前に丸山社長と大きな契約を結んでいたのだが、怒った丸山社長はその契約も白紙に戻すと言い出した。これによって、山下親子は前の職場の上層部から疑いの目を向けられるようになった。山下部長はその契約もゆみさんの業績にしていたらしい。元々ゆみさんが取ってきた契約なのに、ゆみさんが原因で契約が白紙になるのは筋が通らない。上層部がおかしいと判断するのも当然だった。
調査を受けることになった山下親子。すると、俺の売上をゆみさんや部長本人の業績に不正に計上し、インセンティブを多く受け取っていたことが発覚した。大問題となり、会社は最後の情けとして、契約の白紙をなくすことができれば解雇はしないと言ったらしい。山下部長は俺の力を借りて、どうにか解雇を免れようと考えているようだった。
山下部長は必死に説明してくれた。しかし、実を言うと、俺はその話を全部知っていた。山下部長の現状については、君島さんや丸山社長から連絡をもらっていたのだ。君島さんは後々二人の不正を止めるつもりだったようだが、君島さんが動くまでもなく、二人の悪事が露呈したと笑っていた。丸山社長は俺が前の会社をやめた後も心配して定期的に連絡をくれる。俺が新しい会社に務め始めたと知ると、また仕事がしたいと契約を持ちかけてくれた。転職したばかりの俺が十億という大きな契約を取れたのも、丸山社長のおかげだ。
ちなみに、山下部長は説明の中で隠していたが、俺のインセンティブを横取りした理由が、収入を増やしたかったからというだけではなく、愛人の女性に貢ぐためだったことも、俺は知っている。
そんな背景も知らずに、山下部長は必死で頼み込んでくる。
「山下部長、あなたたちが今まで俺にどんなことをしてきたか、分かってますか? そんな相手に手を貸すとでも?」
「もうそんなの過ぎたことじゃないか。俺がこんなに頼んでるんだから、どうにかしてくれよ」
過ぎたことだと? 俺は山下部長から一度も謝罪されたことはない。謝りもしないのに、俺の力を借りようなんて、どうかしている。
「無理です。もう俺は会社の人間じゃないですし、あなたに手を貸す意味もないんで」
俺の返事を聞いて、電話口で山下部長は呻いていたが、知ったことではない。きっぱりと断って、気持ちよく電話を切った。
二人のその後は、後日連絡をくれた君島さんから聞いた。
俺の力を借りることもできず、焦った山下親子は丸山社長に許しを乞うため、直接会社へ行ったらしい。しかし、丸山社長は二人と会う気などなかった。受付で取り次いでもらえず、社長が出てくるまでエントランスで待っていたという。そして、社長が出てきたタイミングで二人は土下座した。
あまりにも非常識な光景に、周囲は騒然とした。丸山社長はさらに激怒し、警備員に二人をつまみ出すよう指示。二人は会社の外に放り出され、挙句の果てには、丸山社長の会社が本社にクレームを入れたという。そんな状態で再契約してもらえるはずもなく、契約は白紙のまま。山下親子は二人とも解雇された。
ゆみさんはまだ二十代だから、探せば新しい働き口もあるだろう。しかし、五十代後半の山下部長に、仕事を選んでいる余裕はないだろう。全て自業自得だ。
解雇が決まった後、山下部長は再び俺に電話をかけてきた。
「お前のせいで、俺は……」
と恨み言を言ってきたが、俺には関係ない。
「俺は何もしてないですよ。山下部長の自業自得じゃないですか」
そう言うと、山下部長は反論できなくなったようで、黙り込んでそのまま電話を切った。
役職を盾に働かず、人の手柄を横取りしていた山下部長は、一気に転落していった。その姿を見て、俺は心に誓った。この先どれだけ上の立場になっても、あの二人のようにはならない、と。
