「女将、足を引きずってないで、さっさと酒を持ってこいよ」
その一言で、ささやかな宴会場の空気が芯から凍りついた。
声の主は地元の不動産会社社長、黒田だった。彼は酔いに任せて、あんた顔で足を引きずりながらお盆を運ぶ私を見下している。畳に染み込んだ潮のように、彼の存在そのものが、このささやかな宿の品格を汚しているかのようだった。
「申し訳ございません。黒田様、ただいまお持ちいたします」
私は深く頭を下げ、唇を噛みしめた。悔しさで目の奥がじわりと熱くなる。だが、ここで感情を表に出せば、この男の思う壺だ。
十七年前、海の事故で最愛の夫、拓也を失ってから、私は女手一つでこの古びた海辺の温泉旅館、潮騒の宿を守り抜いてきた。その間、このような屈辱は数えきれないほど味わってきた。
しかし、今日の黒田はいつにも増して尊大だった。彼はわざとらしく大きなため息をつくと、周りに聞こえよがしにこう言い放ったのだ。
「こんな寂れた宿、いつまで続けるつもりなんだ? あんた一人じゃ、どうせもう限界だろ。さっさと俺に土地を売って、楽になったらどうだ?」
その言葉に、仲居の初さんが息を飲むのが分かった。他の席で静かに飲んでいた常連客たちも、気まずそうに顔を伏せている。誰もが黒田の威に靡を潜めているが、地元の有力者である彼に逆らえる者など、ここにはいなかった。
私はただ黙って頭を下げ続けるしかなかった。悔し涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死でこらえる。
だが、この時、誰も気づいていなかった。宴会場の入り口に、一人の紳士が静かに立っていたことを。
豪華な仕立てのスーツに身を包み、鋭いながらもどこか哀れみを帯びた瞳で、じっとこの光景を見つめている男の存在に。
そして、数分後、あの傲慢な黒田が人生で一番の屈辱と後悔を味わうことになるとは。その引き金を引くのが、その謎の紳士だということも、まだ誰も知るよしもなかったのである。
「黒田様、お言葉が過ぎます。この宿は亡き主人が命をかけて守ってきた、大切な場所でございます。どなたにも売り渡すつもりはございません」
私は震える声を必死で押さえつけ、毅然とした態度でそう言い返した。これが今の私にできる精一杯の抵抗だった。
潮騒の宿は、決して立派な旅館ではない。築五十年以上が経ち、柱や廊下は至るところできしみ、潮風にさらされた外壁は色褪せている。それでも、私と夫の拓也が、二人三脚で心を込めて磨き上げ、お客様を迎えてきた、掛け替えのない思い出の詰まった場所なのだ。
十七年前のあの日、地元を襲った記録的な嵐の中、拓也は沖に出たままの小さな漁船を助けるために、自分の船を出した。無謀だと誰もが止める中、彼は「目の前に助けを求めている人がいるんだ」と言って、荒れ狂う海へと消えていった。結果的に漁船の乗組員は救助されたが、彼の船は高波に飲まれて転覆。彼は帰らぬ人となった。
私も彼を止めようと波にさらわれ、岩場で足を強く打った。幸い命は助かったが、この足には今もあの日の痛みと悲しみが深く刻み込まれている。
以来、私はこの宿を一人で守り抜いてきた。拓也が愛したこの場所を、彼が生きた証を、絶すわけにはいかなかったからだ。経営は常に火の車で、融資を頼みに行った銀行からは何度も門前払いを食らった。それでも、ベテランの初さんや昔からの常連客の方々に支えられ、なんとか今日までやってこられたのだ。
黒田がこの宿の土地を狙い始めたのは、数年前からだ。この当たり一体を買い占め、巨大なリゾートホテルを建設する計画を立てているらしい。彼は金にものを言わせて周囲の土地を次々と手に入れていき、最後まで抵抗しているのが、私のこの小さな宿だった。
「命をかけて守ってきただと? 笑わせるな。死んだ亭主の思い出にすがって、時代遅れのボロ宿を続けているだけじゃないか。あんたのその足と同じで、この宿ももうお払い箱なんだよ」
黒田は唾を飛ばしながら、下品な言葉を浴びせてくる。彼の言葉は鋭い刃物のように、私の心を突き刺した。拓也のことまで侮辱され、悔しさで唇から血が滲む。ぎゅっと拳を握りしめ、俯く私の肩を、そっと初さんが支えてくれた。
「社長、もうそのくらいに…」
初さんがか細い声で静止しようとするが、黒田の耳には届かない。
「はっ、どうせ金が目当てなんだろう。今なら、いい値で買ってやるぞ。そうすれば、あんたもこんな三文にもならない格好で、客にへこへこ頭を下げなくても、一生楽に暮らせるんだぜ」
金、金、金。この男の頭の中には、それしかないのだろうか。私たちが大切にしてきた時間も、思い出も、誇りも、全てを踏みにじるその言葉に、体中の血が逆流するような感覚に陥った。
私はもう何も言い返せなかった。ただ奥歯を噛みしめ、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかったのだ。
その時だった。宴会場の入り口で、この一部始終を静かに見ていたあの紳士が、ゆっくりとこちらへ一歩足を踏み出した。革靴が床を鳴らす乾いた音だけが、夜の静けさにクリアに響き渡った。彼のその静かな動きが、これから起こる嵐の前の静けさであることを、この場にいる誰もがまだ知らなかった。
「随分と声が大きいですが。静かに波の音を楽しみたい客の邪魔になりますよ」
低く、しかしよく響く落ち着いた声が、張り詰めた宴会場に響き渡った。黒田が振り返ると、そこには先ほど入り口に立っていた紳士が、静かな足取りでこちらへ近づいてくるところだった。
仕立ての良いダークなスーツに、磨き上げられた革靴。白髪交じりの髪は整えられ、その立ち振る舞いには隠しきれない気品と威厳が漂っている。
「ああ? なんだ、お前は」
黒田は突然の闖入者に顔を真っ赤にして凄んだ。しかし、紳士は全く怯む様子を見せず、ただ冷ややかな視線を黒田に向けた。
「ただの宿泊客です。ですが、先ほどからのあなたの言葉は、あまりにも目に余る。この美しい宿の空気を、これ以上汚すのはやめていただきたい」
「空気を汚すだと? ふざけるな。俺は黒田不動産の社長、黒田だぞ。この辺りの土地は、間もなく全部俺のものになるんだ。お前みたいなよそ者が、偉そうに口出しするんじゃねえ」
黒田は唾を飛ばし、紳士の胸倉をつかまんばかりの勢いで怒鳴り散らした。その見苦しい姿に、周囲の客たちはさらに息を潜める。私も慌てて二人の間に割って入ろうとしたが、足が思うように動かず、もどかしさに唇を噛んだ。
「お前も、この足の悪い女将に騙されてるんだろ。死んだ亭主を出汁にして、客の同情を引いてるだけの哀れな女だ。どうせ首が回らなくなって、最後は俺に泣きついてくるに決まってるんだよ」
またしても投げつけられた侮辱の言葉。私は何も言い返せず、ただ俯いて沈黙するしかなかった。胸の奥がギリギリと締めつけられる。夫の拓也が命をかけて守ったこの宿を、そして私自身を、これほどまでに汚い言葉で踏みにじられることが、何よりも悔しかった。
だが、紳士はそんな黒田の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「哀れですか? 私には、あなたの方がよっぽど哀れに見えますがね」
「なんだと?」
「金で人の心や思い出が変えられると、本気で信じている。礼儀も知らず、弱い立場の人間にしか言えない。そんな人間がトップに立つ会社が、果たしてどれだけ持つでしょうか」
紳士の言葉は決して声高ではない。しかし、一つ一つの言葉が鋭い刃となって、黒田のプライドを的確にえぐっていくようだった。
「てめえ、言わせておけば調子に乗りやがって。おい、誰かこいつをつまみ出せ!」
黒田が、取り巻きの部下たちに向かって叫ぶ。しかし、部下たちは紳士から放たれる圧倒的なオーラに気圧され、誰一人として動こうとしない。
その時、私は紳士の横顔を近くで見て、胸の奥が奇妙にざわつくのを感じた。この人、どこかで…。初めて会うはずの客だ。年齢は五十代半ばから六十代といったところか。顔つきも体格も、私の記憶にある誰とも一致しない。それなのに、彼が醸し出す気配、そして私を庇うように立つその後ろ姿に、なぜかどうしようもない懐かしさと安心感を覚えてしまったのだ。
「あの、お客様、もうお気になさらないでください。私が至らないばかりに、ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
私が震える声でそう告げると、紳士はゆっくりとこちらを振り返った。彼と視線が絡み合う。その瞳の奥には、黒田に向けていた冷たさとは対極にある、信じられないほど深く優しい光が宿っていた。
「女将さん、あなたが頭を下げる必要は、どこにもありませんよ。どうかご安心を」
その一言を聞いた瞬間、私の目から不意に一粒の涙がこぼれ落ちた。なぜ自分が泣いているのか、自分でも分からない。ただ、心の奥底に張り詰めていた糸が、ふっと緩んでいくのを感じたのだ。
「おい、無視してんじゃねえ。俺に逆らって、ただで済むと思うなよ」
激昂した黒田が、ついに紳士の胸倉を掴もうと手を伸ばした。だが、その手が紳士に触れる直前、紳士の口から発せられたある言葉が、黒田の動きを完全に凍りつかせたのだ。
「西海岸リゾート開発の件ですがね。メインバンクである帝都銀行からの追加融資は、昨日付で完全に凍結されたはずですよ。こんなところで油を売っていて、よろしいのですか?」
紳士の口から発せられたその静かな一言に、黒田の動きはぴたりと止まった。振り上げようとしていた拳が、空中で震える。赤黒く膨れていた彼の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「な、なぜ、お前がそれを…」
それは黒田不動産が社運をかけて進めている巨大プロジェクトのはずだった。融資が止まったとなれば、会社にとって致命傷になりかねない。その極秘情報を、なぜ目の前の見知らぬ男が知っているのか。
しかし、持ち前の傲慢さが、黒田の心に芽生えた恐怖を無理やり書き消したようだった。
「はっ、どこでそんな出鱈目な噂を拾ってきたかは知らねえが、ハッタリでこの俺をビビらせようって魂胆か。笑わせるな」
黒田はそう叫んで、紳士から距離を取ると、その矛先を再び立場の弱い私へと向けてきた。己の優位性を誇示し、自らの不安を誤魔化すための、典型的な八つ当たりだった。
「おい、足引きずりの女将。こんな得体の知れない詐欺師みたいなじじいに庇われて、いい気になってんじゃねえぞ」
黒田は私を指差し、宴会場中に響き渡る声で怒鳴り散らした。
「大体な、お前のその不自由な足も、死んだ亭主も、全部自業自得なんだよ。嵐の海に飛び込むなんて、ただのバカのやることだ。身のほど知らずに英雄ぶって犬死にしたせいで、お前は一生足を引きずって、こんなボロボロの宿で借金まみれの惨めな人生を送るはめになったんだ。感謝どころか、あの世のバカ亭主を恨むんだな」
心臓が嫌な音を立てた。私の足のことは何を言われてもいい。けれど、あの時、自分の命を投げ打ってでも、見知らぬ人たちを助けようとした勇気を、犬死にと笑われたことだけは、どうしても許せなかった。
「社長、いくら何でもひどすぎます!」
初さんが声を荒げたが、黒田はせせら笑うだけだ。私はギリッと奥歯を噛みしめた。反論したい。怒鳴りつけてやりたい。だが、私がここで声を荒げれば、この宿の品格まで汚してしまう気がした。拓也が愛したこの場所の品格を守るため、私はただじっと沈黙を貫くしかなかった。
拓也、ごめんね。ごめんなさい。俯いた私の膝の上に、ぽたぽたと悔し涙がこぼれ落ちる。
私が完全に沈黙したのを見て、黒田は勝利を確信したように歪んだ笑みを浮かべた。
「黙りかよ。図星を突かれて反論もできねえか。まあいい。今日は、お前に現実ってやつを突きつけるために、わざわざ特別な客を呼んであるんだ。入れ」
黒田が傲慢に声をかけると、宴会場の戸が静かに開いた。そこに立っていた人物の姿を見た瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
「白石…店長…」
思わず漏れた声。現れたのは、地元の信用金庫の支店長である白石さんだった。亡き夫の代から付き合いがあり、宿の経営が苦しい時も、親身になって相談に乗り、融資の返済期限を何度も伸ばしてくれた、恩人とも呼べる存在だ。
しかし、白石さんはひどく青ざめた顔で、私と目を合わせようとはしなかった。
「申し訳ありません。湊さん。実は、潮騒の宿の全ての債権を、当庫から黒田社長に譲渡いたしました」
「え…?」
私は自分の耳を疑った。債権が譲渡された? つまり、私の借金の相手は、信用金庫から黒田に変わったということだ。
「はははは。そういうことだ」
黒田が見苦しい高笑いをあげる。
「今日から、俺がお前の借金の取立て人だ。明日の昼までに、残債五千万円を全額一括で、現金で返済しろ。できなければ、この宿は即刻差し押さえだ」
明日の昼までに、五千万円。そんな大金、今の私に用意できるはずがない。黒田は最初から、この宿を合法的に奪い取るために、裏で手を回していたのだ。目の前が真っ暗になり、立っていることすらできず、私はその場にへたり込んでしまった。
ああ、これで終わりだ。拓也との思い出の場所が、全て奪われてしまう。絶望に支配された宴会場。だが、そんな中、ただ一人あの紳士だけは、全く動揺する様子もなく、静かに自分のスマートフォンを取り出していた。
「なるほど。そういう強引な手に出ますか。ならば、こちらも少し予定を早めるとしましょう」
紳士は誰にともなくそう呟くと、画面をタップし、どこかへと電話をかけ始めた。
「ああ、私だ。計画を前倒しにする。準備はできているな」
静かな、しかし言葉を赦さぬ威厳に満ちたその声は、絶望の縁にいた私の耳に、なぜか微かな希望の響きとして届いたのである。
「明日の昼までに五千万。払えなければ、この宿は即刻差し押さえだ」
黒田の怒鳴り声が、外の波の音さえも掻き消すように宴会場に響き渡った。へたり込んだ私は、すがるような思いで白石支店長を見上げた。
「白石さん、嘘ですよね。あんなに拓也の仏壇に手を合わせて、『この宿は地元の宝だ。私たちが支えますから』と言ってくださったじゃないですか」
私の絞り出すような声に、白石支店長は苦渋に満ちた顔で、首を横に振った。
「申し訳ない、湊さん。黒田社長は、当金庫の他の大口客の債権までも買い占めようと、圧力をかけてきたんです。もし潮騒の宿の債権を譲渡しなければ、金庫ごと潰すと。私の力では、どうすることもできなかった」
信じていた恩人からの、あまりにも無情な宣告。私は目の前が真っ暗になり、言葉を失った。白石さんもまた、黒田の卑劣な脅迫の被害者だったのだ。しかし、結果として私は唯一の味方を失い、完全に退路を断たれてしまった。
黒田は下劣な笑い声をあげ、私を見下ろした。
「ほーら、見ろよ、この無様な姿を。頼みの銀行員にも見捨てられ、地べたに這いつくばる惨めな女将。おい、足を引きずって、俺の靴でも舐めてみるか? そうすれば、一晩くらいは考える時間を伸ばしてやってもいいぞ」
「社長、いくらなんでも…」
初さんが悲鳴のような声をあげるが、黒田はそれを軽く払いのけた。
「うるせえ。ババアは引っ込んでろ。大体な、お前の亭主が死んだのも、リスク計算もできない馬鹿だったからだ。身の知らぬ他人のために自分の命を捨てるなんて、ただの自己満足の偽善者じゃねえか。その偽善者のせいで、お前は一生足を引きずりながら、このボロ宿で借金まみれの惨めな人生を送ってるんだ」
心臓が嫌な音を立てた。拓也の純粋な勇気を、偽善者と笑われた。それが、何よりも許せなかった。言い返したい。怒鳴りつけてやりたい。しかし、喉が塞がったように声が出ない。私がここで取り乱して、泣き喚き散らせば、それこそこの男と同じになってしまう。
私は固く唇を噛みしめ、じっと俯き、深い沈黙を貫くしかなかった。
宴会場は水を打ったように静まり返り、ただ窓の外から聞こえる冷たい波の音だけが、私の圧倒的な孤独と絶望を際立たせていた。畳の目一つ一つは、拓也が雑巾がけをしてピカピカに磨き上げた証だ。それが今、この下劣な男の靴底で無惨に汚されている。
「さあ、この土地売買契約書に、今すぐ拇印を押せ。嫌なら、明日の朝一番でショベルカーを手配して、このゴミみたいなボロ宿を跡形もなくぶっ壊してやるからな」
黒田が畳の上に乱暴に投げ出した契約書。絶望の縁で、私が震える手でその紙切れに手を伸ばそうとした、その時だった。
「押す必要はありませんよ、女将さん」
静かだが、決して逆らうことのできない、力強い声。先ほど電話を終えたばかりのあの紳士が、私の前に歩み寄り、契約書を踏みつけようとした黒田の靴を、ぴたりと静止したのだ。
「ああ? じじい、お前まだいたのか。いい加減にしろ。営業妨害で警察を呼ぶぞ」
黒田が顔を真っ赤にして凄む。しかし、紳士は冷ややかな瞳で黒田を見据えたまま、平然と言い放った。
「明日の昼までに五千万円、と言いましたね。結構。ならば、明日の正午、私がその全額を現金で、端数を揃えてお支払いしよう」
「はあ?」
黒田だけでなく、白石支店長も、初さんも、そして私も、その場にいた全員が息を飲んだ。
「お前みたいな、薄汚いじじいが、五千万なんて大金を持ってるわけねえだろ。口から出任せ言ってんじゃねえぞ」
黒田が嘲笑うが、紳士の表情は微動だにしない。
「払えなかった時は、好きにすればいい。だが…」
紳士はそこで言葉を区切り、黒田を一瞥してから、下劣なまでに静かな声で告げた。
「もし私が五千万円を用意できた暁には、黒田社長、あなたには、持っているもの全てを失ってもらいますよ」
その圧倒的な気迫と、底知れぬ威厳に、黒田は一瞬言葉を失い、後ずさった。
紳士は私に向き直ると、静かに膝を折り、私の目とちょうど同じ高さで視線を合わせた。そして、信じられないほど優しい声で、こう囁いたのだ。
「女将さん、どうか明日の昼まで、私の帰りを待っていてくれませんか?」
帰り。その言葉の響きに、私は吸い寄せられるように顔を上げた。初めて会うはずの客が、なぜ「帰りを待ってて」なんて言うのだろう。その響きは、十七年前に「必ず帰るから」と言って嵐の海へ出ていった、拓也の言葉と、なぜか強烈に重なって聞こえたのだ。
しかし、その言葉の意味を問いただす前に、宴会場の戸がまたもや勢いよく開いた。
「社長! 大変です!」
またしても予期せぬ人物が、息を切らせて駆け込んできた。その人物の顔を見た瞬間、黒田の顔色が見る見るうちに土気色に変わっていった。
「社長! 大変です!」
息を切らせて宴会場に転がり込んできたのは、黒田の右腕である黒田不動産の専務、木下だった。普段は黒田の威光を笠に着て、居丈高にふんぞり返っている男が、今はネクタイを振り乱し、顔面を蒼白にしている。
「木下! なんだ、その無様な格好は。俺は今、取り立ての最中だぞ」
「そ、それが…帝都銀行だけじゃありません。うちのメインの取引先である建設会社三社から、たった今、一斉に取引停止の通告が来たんです!」
「なんだと?」
黒田の声が裏返った。
「ど、どういうことだ? つい昨日まで、リゾート開発の接待で、一緒にいい酒を飲んでいたじゃないか!」
「分かりません。ただ、どの会社も『上層部からの指示だ。これ以上、御社とは関われない』とだけ…。このままでは、今月末の支払いは確実に…」
「バカな! 誰の差し金だ? 俺が一体、何をしたって言うんだ!」
パニックに陥り、頭を抱える黒田。その醜態を、紳士は冷ややかに見下ろしていた。まるで、足元で蟻が蠢いているのを眺めるかのような、絶対的な支配者の気配だった。
「ふざけるな。こんなじいさんのハッタリのせいじゃねえ!」
黒田は無理やり自分を奮い立たせるように叫び、血走った目で私を睨みつけた。
「おい、足引きずりの女将。今日はこの辺りにしておいてやるが、明日の昼だ。明日の正午までに五千万円。きっちり用意しておけ。そのじじいが逃げたら、お前のこのボロ宿、容赦なくショベルカーで粉々にしてやるからな!」
黒田は震える手で、木下の胸倉を掴み、「会社に戻るぞ!」と怒鳴りながら、逃げるように宴会場から去っていった。白石支店長も、居たたまれない表情で深く頭を下げ、そそくさとその後を追った。
嵐が去った後の宴会場には、静寂だけが取り残された。私はその場にへたり込んだまま、呆然と紳士を見上げた。
「あの…お客様。どうして、そんな約束を…。五千万円なんて、ご冗談ですよね。私を庇ってくださったのは、本当に感謝いたします。でも、これ以上お客様を巻き込むわけには…」
私が震える声で尋ねると、紳士は静かに首を振った。
「冗談ではありませんよ。…湊さん」
「え…? なぜ、私の名前を…」
宿の帳簿を見たから、知っているのだろうか。しかし、その優しい響きに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「少々、所用ができました。明日の正午、約束通り必ず戻ります。ですから、どうか私の帰りを待っていてください」
紳士はそう言い残すと、夜の闇に包まれた宿の外へと歩み去っていった。窓からそっと外を覗くと、いつの間にか黒い高級車が停まっており、彼を乗せて静かに走り去っていくのが見えた。
初さんが私に寄り添い、背中をさすってくれる。
「女将さん…どうなっちまうんですかね。あの紳士の方…」
私は無言のまま、自分の不自由な右足をそっと撫でた。私には、この十七年間、誰にも言えずに胸の奥に隠し続けてきた秘密があった。
十七年前の嵐の夜。拓也は「目の前に助けを求めている人がいるんだ」と言って、静止する私の手を振りほどき、荒れ狂う海へとボートを出した。私も彼を追って海に飛び込もうとし、岩場に叩きつけられて、右足に一生残る傷を負った。
実は、あの時、拓也の遺体は上がらなかったのだ。警察も海上保安庁も必死に捜索してくれたが、何一つ手がかりは見つからなかった。数年後、法律上の手続きを経て、拓也は「死亡」という扱いになった。常連客も、黒田でさえも、彼を「死んだ亭主」と呼ぶ。私自身も、女将として表向きは未亡人として振る舞ってきた。
けれど、私の心の中だけは違った。遺体を見ていないから。だから、どこかの島に流れついて、記憶を失って生きているかもしれない。いつか、ひょっこりと「ただいま」と言って帰ってくるかもしれない。
私は、死んだ夫の思い出のために、この宿を守ってきたのではない。いつか帰ってくる夫の居場所を、なくさないために。この宿を守り抜いてきたのだ。それが私を突き動かしてきた唯一の希望であり、誰にも言えない秘密だった。
だからこそ、あの紳士の「帰りを待っていてくれませんか」という言葉が、私の心の最も柔らかい部分を、激しく揺さぶっていた。あの人の背中、声のトーン、私を見つめるあの優しい眼差し…。ありえない。そんなはずはない。年齢も顔も違うのに、どうしてこんなにも、拓也の面影を感じてしまうのだろう。
その夜、私は一睡もできなかった。古いアルバムを開き、若かりし頃の拓也の写真を見つめながら、静かに涙を流した。
そして、運命の翌日。午前十一時五十分、約束の時間の十分前。
「おい! 時間だぞ! 出てこい!」
宿の外から、地響きのような轟音と、黒田の怒鳴り声が聞こえた。私が足を引きずりながら玄関を出ると、そこには信じられない光景が広がっていた。黒田と数人の屈強な作業員。そしてその後ろには、この小さな宿を一瞬のうちに粉砕し尽くすほど巨大な、黄色いショベルカーが、エンジンを唸らせて立ちはだかっていたのだ。
「おら! さっさとそこをどけ! 約束の時間はもうすぐだぞ!」
鼓膜を破らんばかりの重機のエンジン音が、潮騒の音を完全に書き消していた。排気ガスのツンとした匂いが潮風に混ざり、私と初さんの鼻をつく。見上げれば、太陽の光を遮るように、ショベルカーの巨大な鉄の腕が、私たちの頭上のに黒々とした影を落としていた。
「黒田社長! 約束は正午のはずです! まだ十分あります!」
私は足の痛みを堪えながら、必死に声を張り上げた。しかし、黒田の顔には異常なまでの焦りと狂気が浮かんでいた。昨晩、彼の会社が取引先から一斉に取引停止を食らったというあの騒ぎが、彼を極限まで追い詰めているのは明らかだった。この土地を何が何でも急いで手に入れ、どこかへ転売して当座の資金を作らなければ、彼の会社は完全に倒産してしまうのだろう。
「うるせえ! 十分待ったところで、何が変わるって言うんだ! どうせあのはったりじじいは、怖気づいて逃げたに決まってるだろうが!」
黒田は血走った目で私を睨みつけ、見苦しく顔を歪めた。
「お前も、本当に救いのない馬鹿だな。あんないの知れない詐欺師の言葉を信じて、のこのこ待ってるなんてよ。お前のその無様な足と同じで、頭の中までお花畑か。死んだ亭主も、草の影で泣いてるぜ。こんな頭の悪い未亡人を残しちまってな」
またしても投げつけられた、吐き気を催すような侮辱の言葉。怒りで体が小刻みに震えた。だが、私はあえて言葉を返さなかった。ここで私が彼と同じように声を荒げ、罵り合えば、拓也が愛したこの宿の空気を、自ら汚すことになる。
私はただ固く唇を噛みしめ、まっすぐに黒田を見据えて、沈黙を貫いた。私のその毅然とした態度が、逆に黒田の神経を逆撫でたらしい。彼は苛立ち紛れに地面を蹴り上げ、作業員に向かって喚き散らした。
「おい、もういい! やっちまえ! まずは、あの薄汚い入り口の門から、ぶっ壊せ!」
「社長! いくらなんでも、まだ人が…!」
「構うか! 俺の言う通りにしろ! こいつらは、不法占拠してるだけだ! やれと言ったらやれ!」
黒田の狂気に満ちた怒号に押され、作業員が渋々ショベルカーのレバーを引いた。轟音と共に、巨大な鉄の爪がゆっくりと持ち上がり、創業以来五十年、数えきれないほどのお客様を迎えてきた木造の門標へと、狙いを定めた。
「やめて! お願い、やめてください!」
初さんが悲鳴をあげ、その場にへたり込む。私は無我夢中で前に飛び出した。不自由な右足がもつれ、砂利道に膝をつきそうになったが、なんとか堪えて門の前に両手を広げて立ちはだかった。
「ここを壊すなら、私を轢いてからにしてください!」
「女将さん! 危ない! 逃げて!」
初さんの叫び声が響く。ショベルカーの運転席で、作業員がぎょっとした表情でブレーキを踏むのが見えた。しかし、黒田は完全に理性を失っていた。
「上等だ! 轢き殺してでも、そこをどかせ! どうせその足じゃ、逃げられんだろうが。やれ!」
エンジンが唸りを上げ、鉄の塊がじりじりと私に迫ってくる。怖くないといえば、嘘になる。足はガクガクと震え、額からは脂汗が流れ落ちていた。けれど、私は目をそらさなかった。ここで逃げてしまったら、あの優しい眼差しで「待っていてくれませんか」と言ってくれた、あの紳士との約束を破ることになる。そして何より、いつか帰ってくるかもしれない、拓也の居場所がなくなってしまう。
「拓也…助けて…」
私は心の中で、亡き夫の名前を叫び、ぎゅっと目を閉じた。巨大なショベルカーの影が、私の全身を覆い尽くす。金属が軋む不気味な音が、耳元まで迫ってきた。
もう、だめだ。そう覚悟した、その瞬間だった。
キキキーッ!
突然、耳を劈くような激しいブレーキ音が、静かな海辺の空気を切り裂いた。驚いて目を開けると、いつの間にか宿の前の細い道に、三台の真っ黒な高級車が猛スピードで乗り付け、ショベルカーを取り囲むように急停車していたのだ。
「な、なんだ? 誰だ、お前ら?」
黒田が慌てて叫ぶ。先頭の黒塗りの車のドアが、バンッと開き、中から一人の男が降りてきた。仕立ての良いスーツを着こなした、その男は、あの紳士ではなかった。しかし、その顔を見た瞬間、黒田だけでなく、ショベルカーに乗っていた作業員までもが、信じられないものを見るように目を見開いた。
「えっ…嘘だろ。なんで、あんたが、こんなところに…」
黒田の声は恐怖で完全にひっくり返っていた。車から降りてきたその人物は、冷ややかな視線で黒田を一瞥すると、手にしたジュラルミンケースを提げ、私の方へとまっすぐに歩み寄ってきたのである。
「…支店長?」
私が呆然と呟くと、銀縁の眼鏡をかけた、隙のない仕立てのスーツに身を包んだ五十代半ばの鋭い目つきの男は、顔面を蒼白にして震える黒田を一瞥もせず、まっすぐに私の元へ歩み寄ってきた。そして、不自由な足で砂利道に膝をつきそうになっている私を見るなり、はっと表情を改めた。
「湊…みさき様、ですね。恐ろしい思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」
そう言うと、日本の金融界を牛耳るメガバンクの支店長が、なんと私に向かって、深々と九十度の礼をしたのだ。
「え、ええっ? あの…」
私が戸惑っていると、支店長は冷徹な視線をショベルカーの運転席に向け、血の滴るような低い声で言い放った。
「そこにいる作業員。その重機を、あと一ミリでも動かしてみろ。帝都銀行の総力を挙げて、君の務める建設会社ごと、社会的に抹殺し、数十億円の損害賠償を個人に請求することになるが、それでも、やるかね?」
作業員は短い悲鳴を上げると、慌てて重機のエンジンを切り、運転席から逃げるように転げ落ちていった。轟音が消え、再び静かな波の音だけが戻ってくる。
「じ、支店長! お待ちください! 一体、どういうことですか? なぜ、メガバンクの支店長が、こんな足引きずりの女に、頭を下げているんですか!」
黒田がパニックに陥りながら叫ぶ。支店長は、持っていたジュラルミンケースを、私の前の石畳の上にそっと置くと、カチャリと重厚なロックを外した。
「帝都銀行の頭取からのご依頼です。『正午までに、必ずこの方にお届けしろ』と」
開かれたケースの中を見て、私は思わず息を飲んだ。そこには、真新しい一万円札の帯封が、隙間なくぎっしりと敷き詰められていた。
「お約束通り、五千万円。全額、現金でご用意いたしました。これで、潮騒の宿の債権は、全て清算されたことになります」
五千万円。本当にあの紳士の言葉は、ハッタリでも冗談でもなかったのだ。彼は本当に約束を守ってくれた。
しかし、その現実を受け入れられない者が、一人いた。黒田だ。彼は髪を振り乱し、血走った目でケースの中の札束と私を交互に睨みつけると、狂ったように喚き散らし始めた。
「ふざけるな! なんで、こんなドブネズミみたいな女に、帝都銀行が五千万もポンと出すんだ! ああ、なるほど。さては、あの詐欺師のじじいに、その見苦しい体でも売って、泣きついたんだな! 死んだバカな亭主に残されたのが、このゴミ溜めみたいな宿と借金だけだったからって。メガバンクのトップを巻き込んで枕営業とは、恐れ入ったぜ!」
「社長! いい加減にしてください!」
初さんが涙声で抗議するが、黒田の口からはドロドロとした侮辱が止まらない。
「うるせえ! 片足を引きずった惨めな醜女が、大金持ちに媚びへつらって生き延びようってのが、気に入らねえんだよ! どうせあのじじいも、お前の色仕掛けに騙されてるだけだ。この薄汚い女!」
あまりの屈辱的な言葉の連続に、胸の奥が焼けるように熱くなった。反論の言葉は喉まで出かかっていた。だが、私はぎゅっと両手を握りしめ、目を閉じて、ただひたすらに沈黙を貫いた。ここで私が感情的になって負けてしまえば、あの紳士の行為まで汚してしまう。五千万円という大金を用意してくれた彼の誠意に報いるためにも、私はこの宿の女将として、最後まで毅然とした態度を崩してはならない。それが、私のせめてもの誇りだった。
私のその沈黙を見て、黒田は「言い返せねえのか!」と勝ち誇ったように笑った。だが、その見苦しい笑い声は、支店長の氷のように冷たい一言によって、一瞬にして断ち切られた。
「言葉を慎みなさい、黒田社長。あなたが今、口汚く罵ったこの女性は、我々帝都銀行の最大の支援者が、命よりも大切に思っているお方だぞ」
「は、はあ? 最大の支援者?」
黒田の顔から、再びすっと血の気が引いた。
「お前は、自分が誰に喧嘩を売ったのか、まだ理解していないようだな。昨日、なぜ君の会社への融資が凍結され、取引先が一斉に手を引いたか。それは全て、あのお方の一存によるものだ」
「な、なんだと…? ただのハッタリじじいじゃなかったのかよ。あいつは一体、何者なんだ…」
黒田は恐怖でガチガチと歯の根を鳴らしながら、後ずさった。支店長は、哀れな虫を見るような目で黒田を見下ろし、冷酷な事実を告げた。
「ハッタリ? 笑わせるな。あの方こそ、海外の投資市場を一頭の狼のように制覇し、総資産百億ドルを個人で動かす、伝説の投資家。そして、巨大企業、オーシャン・ホールディングスの絶対的トップだ」
百億ドル。その途方もない数字に、黒田だけでなく、私と初さんも完全に言葉を失った。
「そして、黒田君。君の会社の不正経理と、違法な仕上げ行為について、すでに警察と国税局が動いている。今頃、君の本社は強制捜査の真っ最中だ。君の人生は、ここで完全に終了だ」
「あ、ああ…」
黒田はその場に崩れ落ち、頭を抱えて絶望の叫びをあげた。その時だった。背後に停まっていた三台目の、最も大きな高級車のドアが、ゆっくりと静かに開いた。
「随分と騒がしいですね」
懐かしく、そして深く響く、あの声。車からゆっくりと降りてきたのは、紛れもないあの紳士だった。しかし、昨日とはまとっている空気が全く違う。その立ち姿は、百億ドルを動かす絶対的な支配者としての威厳と、言葉を赦さぬ圧倒的なオーラに満ち溢れていた。
紳士は、黒田には目もくれず、まっすぐに私の元へ歩み寄ってくる。そして、へたり込む私の前にそっとしゃがみ込むと、信じられない行動に出たのである。
百億ドルを動かす絶対的な支配者であるはずの紳士は、砂利道の上に静かに膝をついた。高級なスーツのズボンが泥で汚れるのも厭わず、私の不自由な右足にそっと手を伸ばす。
「女将さん、怪我はありませんか? 約束の時間ぎりぎりになってしまい、申し訳なかった」
その手は大きく、そしてひどく暖かかった。触れられた瞬間、全身の血が逆流するようなどうしようもない懐かしさが、胸に込み上げてくる。私は驚きのあまり、声も出ない。ただ、小さく首を横に振ることしかできなかった。
「お、お待ちください! オーシャン・ホールディングスの会長様!」
その時、沈黙を破って黒田の絶叫が響いた。彼は這いつくばるようにして砂利道を進み、紳士の足元に無様にすがりついたのだ。先ほどまでショベルカーを操っていた傲岸不遜な態度は、かけらもない。顔は油汗にまみれ、ガタガタと全身を痙攣のように震わせている。
「は、私が悪うございました! あなた様のような世界的な大物が、こんな田舎の宿にいらっしゃるとは知らず…。どうか、どうか、取引停止だけは解除してください! 国税の強制捜査も、あなた様のお力で、なんとかしていただけないでしょうか!」
黒田は土下座し、必死に命乞いを始めた。
「そうだ! この辺りの土地の権利書も、全て差し上げます! だから、会社だけは! 私の命だけは、助けてください!」
つい数分前まで、私を重機で轢き殺そうとしていた男の、あまりにも惨めな姿。それが、堕落の極地だった。
しかし、紳士はすがりつく黒田の手を、汚いゴミでも見るかのように、冷たく振り払った。
「君の汚れた土地など、私には微塵も興味はない。私がここへ来たのは、ただ一つ。この潮騒の宿を、悪意から守り抜くためだけだ。そう、そろそろ君の会社は終わりだ、黒田。この宿、そして女将を、長年に渡り苦しめ続けた罪。君は、持っている全てを持って、償ってもらう」
紳士から放たれた、氷のような宣告。黒田の顔が、絶望で見苦しく引きつった。しかし、極限の焦りと恐怖は、やがて彼の中で理性的思考を失わせ、狂気じみた怒りへと変わっていった。
「な、なんでだ? なんで、あんたほどの男が、こんなボロ宿にこだわるんだよ!」
黒田は血走った目で私を指さして、喚き散らした。
「百億も持ってるなら、海外でいくらでも豪華なリゾートホテルを立てられるだろうが! よりによって、死んだバカ亭主にすがって足を引きずってる、こんな惨めな醜女のために、メガバンクまで動かすなんて、狂ってる! どうせこの女に同情を惹かれて、色仕掛けで騙されてるんだ! 目を覚ませ!」
またしても、拓也を。そして私を汚す言葉の数々。胸が張り裂けそうだった。悔しさで奥歯を噛みしめると、口の中が血の味でいっぱいになる。だが、私はやはり言い返すことはしなかった。百億もの大金でこの宿を救ってくれた、目の前の恩人の前で、汚い言葉で罵り合うような真似は、絶対にしたくなかったからだ。
私はただ深く俯き、痛む右足をそっと抱えながら、沈黙の盾でその侮辱に耐えしのいだ。拓也が愛したこの宿の女将としての品格だけは、何があっても守り抜きたかった。
私のその無言の抵抗を見て、紳士の瞳の奥に、凄まじい怒りの炎が灯った。
「色仕掛け…?」
血の滴るような紳士の低い声に、空気がビリッと震えた。
「君のその薄汚い口で、彼女を語るな」
紳士がパチンと指を鳴らすと、控えていた帝都銀行の支店長が静かに進み出た。
「黒田社長。すでに、あなたの個人資産も、全て凍結の手続きが完了しました。あなたには、もう逃げ道はどこにもありません。警察が到着するまで、大人しくしていただきましょう」
「あ、ああ…嘘だ…。俺の金が…、俺の会社が…」
白目を向き、その場に崩れ落ちる黒田。先ほどまでの威勢は完全に消えうせ、彼はただ絶望の淵でうめき声を繰り返すだけの、空っぽの抜け殻となった。
邪魔者が完全に排除された静寂の中、波の音だけが優しく響き渡る。紳士は再び私に向き直ると、先ほどの冷酷な表情から一転し、信じられないほど穏やかな微笑みを浮かべた。
「騒がせてしまって、申し訳ありませんでしたね。もう、大丈夫ですよ」
私は震える手で地面に手をつき、女将としてせめてもの礼を尽くそうと、深く頭を下げた。
「ど、どのような御礼を申し上げて良いか…。五千万円もの大金、私には到底お返しすることができません。せめて、奉公に出て働き、少しずつでも…」
すると、紳士はゆっくりと首を横に振った。
「お金を返していただく必要は、ありません。私はただ、この宿に長期滞在したいだけなのです。いえ…これから先、ずっとこの潮騒の宿で、あなたと共に過ごさせてはくれませんか?」
その言葉の意味が分からず、私は呆然と紳士の顔を見上げた。しかし、紳士からのせめてもの願いだ。私はまだ、目の前の男の正体に、全く気づいていなかった。ただの変わり者の大富豪が、私を不憫に思って助けてくれたのだと、そう思い込んでいた。
だからこそ、私は震える膝に手を当て、最高のお辞儀の姿勢を取り、心からの感謝を込めて、こう言ったのだ。
「ありがとうございます。当家のような古い宿でよろしければ、ごゆっくりどうぞ」
「ごゆっくりどうぞ」。十七年間、数えきれないほどのお客様に向けてきた、女将としてのいつもの挨拶。
しかし、その一言を聞いた瞬間、紳士の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちたのである。
「ああ…長かった。本当に、長かった…」
紳士はそう震える声で呟くと、スーツの内ポケットにゆっくりと手を伸ばした。そして、彼がそこから取り出したある古いものを見た瞬間、私の心臓は文字通りドクンと大きく跳ね上がり、呼吸すら完全に忘れてしまうことになったのだ。
彼が震える手で取り出したもの。それを見た瞬間、私の時間は完全に止まった。
彼の手のひらに乗っていたのは、ひどく色褪せ、塩水でカチカチに固まった小さな青い布袋だった。いや、布切れではない。それは、丁寧な刺繍で「安全祈願」と縫われた、手作りのお守り袋だった。裏側には、青い糸で「K & M」という二人のイニシャルが、不器用な形で縫い込まれている。
「…拓…也?」
嘘のような声が漏れた。間違いない。それは、十七年前の嵐の夜、見知らぬ人を助けに行こうとする夫の手に、私が泣きながら無理やり握らせたお守りだった。裁縫が苦手な私が、拓也の海の安全を祈って、何日も徹夜して作ったものだ。
「どうして…あなたが…それを…」
私が震える声で尋ねようとした、その時だった。
「ぎゃははは! なんだ、その薄汚ねえゴミ切れは!」
地面に這いつくばっていた黒田が、狂ったような嘲笑を上げた。絶望のあまり、完全に正気を失ったようだった。支店長の部下たちに両腕を抑えつけられながらも、黒田は血走った目で紳士と私を交互に睨みつけ、毒を吐き散らした。
「六百億も持ってる大富豪が、そんな泥水まみれのゴミを、大事そうに抱えて泣いてるのか! 笑わせるな! おい、足引きずりの惨めな醜女! お前、一体どんな甘い言葉を使って、このボケじじいを洗脳したんだ! 死んだ亭主の思い出の品か何か知らねえが、そんなガラクタで同情を買って、五千万の借金をチャラにしてもらったんだな! 本当に、どこまでもヘドが出る女だぜ!」
黒田の耳障りな声が、波の音を切り裂いて響き渡る。私の心の中で大切にしてきた思い出を「ただのゴミ」と呼び、私を這いずり回る虫ケラのように侮辱する言葉の数々。しかし、私は一切言い返さなかった。誇りや悔しさよりも、目の前の信じられない現実に思考が追いつかず、ただ沈黙するしかなかったのだ。いや、それ以上に、黒田の罵声など、今の私の耳には全く届いていなかった。私の視線は、あのお守りを慈しむように見つめる紳士の、深く優しい瞳に完全に釘付けになっていた。
紳士は、黒田の狂気じみた声を完全に無視し、私だけを見つめて、静かに、そしてゆっくりと語り始めた。
「十七年前の嵐の夜、私の乗っていた小さな船は、高波に飲まれて完全に転覆しました」
私の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ねた。
「海に投げ出された私は、鋭い岩場に顔を激しく打ち付け、意識を失いました。そのまま暗い海の底へ沈んでいく中で、私の右手に強く握りしめられていたのが、このお守りでした。これだけは絶対に手放してはいけない。その執念だけで、私は海を漂流していました」
「え…?」
「奇跡的に通かかった外国の大型貨物船に救助されました。しかし、岩に叩きつけられた私の顔は、原型を留めないほど潰れ、同時に全ての記憶を失っていたのです。自分が誰なのか、どこから来たのか、何もわからないまま、私は外国の病院で、何度も何度も顔の再建手術を受けました」
だから、顔が違うのか。年齢を重ねたからだけではない。私が知っている拓也の顔とは、骨格から何から、全てが変わってしまっていたのだ。
紳士の目から、再び大粒の涙がこぼれ落ちた。
「記憶がないまま、私は異国の地で必死に生き抜きました。投資の世界に飛び込み、無我夢中で会社を大きくしました。ただ、一つ肌身離さず持っていたこの青いお守り袋を見るたびに、胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。誰かが、私を待っている。その温かい感覚だけが、私を突き動かしてきたのです」
「それじゃあ、あなたは…」
「数ヶ月前です。私が乗っていたクルーザーが、嵐に巻き込まれました。猛烈な波の揺れと、海の匂い。その瞬間、十七年間の空白が、雷に打たれたように全て蘇ったのです。自分が何者であるか。そして、私が命よりも大切に愛した女性が、一人でずっとこの海辺の宿を守ってくれている、ということも」
紳士は…いや、彼は砂利道に膝をついたまま、不自由な私の右足を両手で優しく、大切に包み込んだ。
「ごめん…ごめんな…湊。俺のせいで、こんなに痛い思いをさせて。こんなに辛い思いをさせて。十七年も待たせて、本当にごめんなさい」
「拓也…? 本当に、拓也なの?」
顔は違う。声も少し低くなった。けれど、私の足を包み込む、その手のぬくもり。私を「湊」と呼ぶ、その不器用で優しい響き。それは紛れもなく、十七年前に「必ず帰る」と言って嵐の海へ出ていった、私の最愛の夫だった。
「ただいま、湊。約束通り、帰ってきたよ」
その瞬間、私の中で張り詰めていた十七年分の糸が、プツンと音を立てて切れた。
「ああ…、ああ…!」
私は拓也の胸に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣きじゃくった。拓也もまた、泥だらけになるのも構わず、私を力強く抱きしめ、撫でてくれた。十七年の孤独と悲しみが、二人の涙と共に、春の雪のように溶けていくのを感じた。
しかし、その感動の再会を、恐怖で顔を引き攣らせて見つめている男がいた。黒田だった。
「拓…拓也? 死んだ亭主だと!? ば、バカな! そんなことあり得るわけがねえ! 十七年前に死んだ、貧乏宿の亭主が、総資産百億のメガ企業のトップになって帰ってきたっていうのか!? ふ、ふざけるな! そんなの、嘘だ!」
黒田の震える声に、拓也は私を抱きしめたまま、ゆっくりと冷酷な視線を黒田へと向けた。先ほどの優しい夫の顔から、再び絶対的な支配者の顔へと変わっていた。
「嘘ではないさ、黒田。そして、お前は私の妻を侮辱しただけでなく、企業人としても、絶対に手を出してはいけない領域に足を踏み入れたな」
「な、なんだと?」
拓也は冷ややかな声で、信じられない事実を黒田に突きつけた。
「お前は、この当たり一体の土地を買い占め、巨大リゾートを建設すると息巻いていたが。だが、お前が裏金を使ってまで手に入れた、その広大な土地の本来の主が誰なのか、調べたことはあるか?」
黒田の顔色が、一瞬にして土気色に変わる。拓也は静かに、しかし圧倒的な存在感を持って、こう言い放ったのだ。
「その土地の、真のオーナー権限を持っているのは、他でもない。お前が『足引きずりの惨めな女』と呼び、重機で轢き殺そうとした、私の妻、湊だ」
その一言が、黒田を完全に発狂させる引き金となることを、この時の私はまだ知らなかったのである。
「は、はあ!? お前、今なんて言った!?」
黒田は間抜けな声を漏らし、引きつった顔で、拓也と私を交互に見比べた。無理もない。彼が何年もの歳月と莫大な裏金を注ぎ込み、仕上げてきたこの周辺の土地。その真のオーナーが、たった今轢き殺そうとしていた惨めな女将だと言われたのだから。
「で、出鱈目を言うな! 俺はこの辺りの土地の権利書を、全部持ってるんだ! 俺が金を出して買ったんだぞ!」
血走った目で喚き散らす黒田。その見苦しい姿を、拓也はただ冷徹に見下ろしていた。代わりに一歩前に出たのは、帝都銀行の支店長だった。彼はメガネのブリッジを中指で押し上げると、残酷な事実を突きつけた。
「黒田社長。あなたがここ数年で買い漁った土地の、元々の持ち主たち。なぜ、彼らが急にあなたへ土地を売る気になったのか、疑問に思いませんでしたか?」
「な、なんだと?」
「数ヶ月前、記憶を取り戻したオーシャン・ホールディングスの会長、つまりこちらの拓也様は、すぐさま莫大な個人資産を投じて、この潮騒の宿を守るための財団を密かに設立したのです。そして、地元の地主たちから、適正価格の三倍で土地を買い上げ、その全ての所有権を、妻である湊様の名義に書き換えました」
「え…、私の名義に…?」
私は驚いて拓也を見上げた。拓也は泥だらけの私の肩を優しく抱き寄せ、「ああ、お前のものだ」と微笑んだ。
「そ、そんなバカな! じゃあ、俺がダミー会社から買った、あの権利書は…!?」
「ええ。あなたが購入したのは、湊様が所有する土地の、一時的な借地権に過ぎません。しかも、契約書には極小の文字で、こう記されているはずです。『潮騒の宿及びその関係者に対して不利益な行為を行った場合、借地権は即座に無効となり、支払われた金銭は一切返還されない』とね」
「あ、ああ…」
黒田の顔から、完全に表情が抜け落ちた。自分が何十億円もかけて手に入れたと思っていたリゾート開発の土地は、全て私の手のひらの上で転がされていた、ただの幻だったのだ。投じた資金は底をつき、土地の権利もなく、ただ莫大な借金だけが残されたのである。
しかし、黒田の肥大化したプライドは、まだその現実を受け入れることを拒絶していた。
「嘘だ! 俺が何十億も注ぎ込んだ土地だぞ! こんな足引きずりの貧乏女将が地主だなんて、そんな出鱈目が通用するわけねえだろ! この詐欺師どもが! おい、足引きずり女! お前も何か言え! 俺を騙しやがって、この淫乱な醜女が!」
黒田は狂ったように地面を掻き毟り、再び私に向かって口汚い暴言を浴びせ始めた。だが、今の私には、彼のその言葉は全く刺さらなかった。私は拓也の胸の中にいた。十七年ぶりの、確かで少し不器用で、ひどく温かい拓也のぬくもり。彼が放つ絶対的な安心感が、私を完全に包み込んでいた。
私は黒田の罵倒に対して、一言も発しなかった。言い返す必要など、もうどこにもなかった。ただ静かに目を伏せ、このぬくもりが夢ではないことを確かめるように、拓也の背中にそっと腕を回して、沈黙を貫いた。
私のその穏やかな沈黙が、逆に黒田を狂気のどん底へと追い詰めていく。
「答えろ! 俺をバカにしやがって! 俺は黒田だぞ! この町で一番偉いんだ!」
黒田の絶叫を打ち砕くように、遠くからけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。それはまたたく間に近づき、数台のパトカーが猛スピードで宿の前に乗り付けてきたのだ。
「な、なんで…」
黒田がパニックに陥り、後ずさる。パトカーから降りてきた警察官たちに混じって、一人の見覚えのある男が、ふらふらと歩み出てきた。先ほど、取引先から一斉に取引停止を食らったと報告に来て、逃げるように去っていった、黒田の右腕。専務の木下だった。
「木下! お前、なんで警察と…!」
「社長…もう、ダメです。おしまいです…」
木下は涙声で項垂れた。
「さっき、会社に国税局と警察の強制捜査が入りました。私は、全部話しました。あなたがリゾート開発のために、裏社会の人間を使って仕上げ屋の脅迫をしていたことも、政治家への裏金工作も、全部…。私、逮捕されます…。あなたも…」
「お、お前…! 俺を裏切ったのか!?」
黒田は絶叫し、木下に飛びかかろうとした。しかし、即座に数人の警察官に取り押さえられ、冷たい砂利道に顔を押し付けられた。
「なせえ! 俺は黒田だぞ! 俺には金がある! こんなボロ宿の亭主なんかに、負けるはずがねえんだ! 放せ!」
無様に手錠をかけられながら、黒田は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫び続けた。十七年間、この宿を、そして私を執拗に苦しめ続けてきた男の、あまりにもあっけない、惨めな最後だった。
警察官が「黒田、大人しくしろ!」と、彼を引きずり起こそうとした、その時だ。ずっと私を抱きしめていた拓也が、静かに黒田の元へ歩み寄った。
「黒田。連行される前に、一つだけ教えてやろう」
「な、なんだよ…! もう俺の負けだ! これ以上、何を奪うって言うんだ!」
拓也は顔を歪める黒田を冷ややかに見下ろし、地獄の底から響くような声で、こう告げた。
「お前は先ほど、私のことを『他人のために命を捨てる偽善者のバカ亭主』と笑ったな。私が十七年前の嵐の夜、なぜ我が身の危険も顧みず、あんな無茶な海へ飛び込んでいったか。記憶を取り戻した今なら、はっきりと分かる」
拓也は黒田の耳元に顔を近づけ、周囲の空気ごと凍りつかせるような言葉を放ったのだ。
「故障でエンジンが止まり、沈みかけていた、あの豪華なクルーザー。あれに乗って、泣き叫びながら助けを求めていた若者は、他でもない。お前だったな」
その瞬間、黒田の全身がビクンと跳ね上がり、彼の両目が見開かれたまま、完全に焦点が合わなくなったのである。
「わ、あ…。な、何を…」
黒田の口から、間の抜けた声が漏れた。先ほどまで狂ったように喚き散らしていた男の顔面から、最後の一滴まで血の気が引いていくのが分かった。
「忘れたとは言わせないぞ、黒田。十七年前のあの記録的な嵐の夜。暴風警報が出ているにも関わらず、親の金で買った白いクルーザー『シーガル』に乗って、女友達とバカ騒ぎをし、案の定エンジンを壊して遭難したのは、どこのかわい子ちゃんだったかな?」
黒田の喉から、ヒューヒューと空気が漏れるような音が鳴った。
「遭難者からの無線で泣き叫ぶ声を聞いて、私は船を出した。荒れ狂う波の中、今にも沈みそうなクルーザーに、へばりついていた若者。『死にたくない! 助けてくれ!』と、鼻水を垂らして命乞いをしていた、あの若者。それが、お前だ」
「う、嘘だ…! あの時の漁師は、波に飲まれて死んだはずだ!」
その言葉に、パトカーから降りて黒田を取り囲んでいた警察官の一人、白髪混じりの年配の警部が、はっと息を飲み、進み出てきた。
「やっぱり、お前だったのか。田中警部です。十七年前、私はまだ配属されたばかりの若手だったが、あの夜のことは、一生忘れない。救助された若者たちは、命の恩人が海に消えたというのに、親の権力を使って事情聴取もそこそこに、病院から逃げるように姿を消した。あの時の身勝手な若者が、黒田…お前だったとは」
意外な人物からの証言。かつて事件を担当した警察官の証言が、拓也の言葉が紛れもない真実であることを、裏付けたのだ。
黒田はガタガタと激しく震え出した。自分が先ほどまで「偽善者のバカ亭主」「犬畜生」と嘲笑い、唾を吐きかけていた相手。それは、他でもない自分の命を救ってくれた恩人だったのだ。
拓也は、砂利に這いつくばる黒田を見下ろし、私の不自由な右足を指さした。
「お前が遊び半分で海に出なければ、私は船を出すことはなかった。そして、私の妻が私を止めようとして海に飛び込み、岩に叩きつけられて、一生の傷を負うことも、なかったんだ」
ドクンと、私の中で何かが激しく弾けた。そうだったのか。十七年間、私と拓也から全てを奪い、私にこの足の痛みと孤独を強いてきた元凶は、目の前で見苦しく震えている、この黒田という男だったのだ。この男のために、拓也は記憶を失い、私は一人で泣きながら宿を守り続けてきた。それなのに、この男は恩人の妻である私を「足引きずり女」「惨めな醜女」と罵り、この宿を重機で潰そうとしていたのだ。あまりの理不尽さに、目の前が真っ赤に染まった。
黒田は完全にパニックに陥り、狂ったように首を振りながら、最後の卑劣な言葉を吐き捨てた。
「ち、違う! 俺は頼んでねえ! 俺は『助けてくれ』なんて言ってねえ! 勝手に助けに来て、勝手に死んだお前が悪いんだろうが! 大体、こんな足の曲がった、役立たずの女! さっさと見捨てて、俺に土地を渡せばよかったんだ! お前ら夫婦は、揃いも揃って底抜けのバカなんだよ!」
それは、己の罪から逃れるための、あまりにも見苦しい、人間の底辺のような侮辱だった。
「貴様…!」
怒りで拳を握りしめ、黒田を殴り飛ばそうと、一歩前へ出る拓也。だが、私はその腕をそっと掴み、静かに首を横に振った。そして、泥だらけの砂利道の上に凛と立ち、まっすぐに黒田を見据えた。言い返したい言葉は山ほどあった。殴りかかってやりたいほどの憎しみもあった。しかし、私は一切の言葉を発しなかった。ただ、道端の石ころでも見るかのような、絶対的な哀れみの視線で、黒田を見下ろした。
私が沈黙を貫いたこと。それは、黒田という存在そのものを完全に否定し、「あなたはもう、言葉を交わす価値すらない」という、究極の意思表示だった。私のその冷ややかな沈黙に、黒田は言葉による反撃の機会すら奪われ、短い悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。己の矮小さと卑劣さが、私の無言の態度によって鏡のように映し出され、彼の薄っぺらいプライドは、完全に粉々に砕け散ったのである。
「連行しろ」
田中警部が冷たく言い放ち、警察官たちが黒田の腕を乱暴に引っ張り上げた。
「や、やめろ! 俺は悪くない! 俺は…!」
無様に泣き叫びながら、パトカーへと引きずられていく黒田。だが、その時だ。拓也が冷たい声で、パトカーに乗せられようとしている黒田の背中に向けて、最後の一言を放った。
「黒田。警察に捕まって、それで終わりだとは思うなよ」
「え…?」
黒田が恐怖に引きつった顔で振り返る。拓也は、百億ドルを動かす絶対的支配者の顔で、身の毛もよだつような宣告をしたのだ。
「お前がこれから落ちる地獄は、こんなものではない。明日、お前の身にあることが起きる。せいぜい、震えて待っていなさい」
その言葉を聞いた瞬間、極限の恐怖に耐えきれなくなった黒田は、ついに白目を向き、口から泡を吹いて、完全に意識を失い、その場に崩れ落ちたのである。
翌朝。警察署の殺風景な取調室の中で、黒田は目を覚ました。コンクリートの壁に囲まれた個室。昨日の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡り、黒田はギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「あの、薄汚い足引きずり女め…。死んだはずの底辺の漁師が、メガのトップになったからって、いい気になりやがって…」
黒田は血走った目で虚空を睨みつけ、誰にともなく侮辱の言葉を吐き捨てた。逮捕され、会社に強制捜査が入ったのは事実だ。だが、彼にはまだ奥の手があった。長年の仕上げと裏金工作で溜め込んだ、数十億円という巨額の裏金。それを、海外のタックスヘイブンにある隠し口座に移してあったのだ。
「俺は黒田だぞ。日本有数のエリート弁護士を雇って、すぐに保釈されてやる。あのボロ宿ごと、必ず地獄を見せてやるからな」
そう意気込んでいた時だった。
「黒田。面会だ」
看守の声に、黒田はニヤリと見苦しい笑みを浮かべた。
「来たか。俺の優秀な顧問弁護士が、助けに来たに違いない」
息巻いて面会室へ向かった黒田。だが、分厚いアクリル板の向こう側に座っていた人物を見た瞬間、彼の笑みはピタリと凍りついた。そこに座っていたのは、確かに顧問弁護士だった。しかし、その隣には、もう一人。黒田にとって全く予想外の、意外な人物が座っていたのである。
全身を高級ブランドで固めた、派手な顔立ちの女。黒田の妻である伶奈だった。
「れ、伶奈! お前、どうしてここに。心配して、来てくれたのか?」
黒田がすがるような声を出すと、伶奈はサングラスをゆっくりと外し、ゴミでも見るような冷ややかな視線を夫に向けた。そして、持っていた高級バッグから一枚の書類を取り出すと、アクリル板の隙間から滑り込ませた。
「さっさと、これにサインして。離婚届よ」
「は、はあ!? 冗談じゃないわよ! リゾート開発で大儲けできるって言うから、あんな田舎の土地を買うのにも付き合ってやったのに! 蓋を開けたら、会社は倒産、社長は逮捕。私まで犯罪者の妻として後ろ指を刺されるなんて、絶対に御免よ!」
伶奈の口から放たれたのは、あまりにも自己中心的で、冷徹な言葉だった。
「ま、待てよ! 俺には、まだ海外の隠し口座に数十億の金があるんだ! 有能な弁護士を雇えば、すぐにここから…!」
黒田が叫ぶと、隣に座っていた顧問弁護士が、深々と頭を下げながら、冷徹な事実を告げた。
「黒田社長。その件で、お伝えしなければならないことがあります。昨日、あなたの海外口座の資金が、全てゼロになりました。オーシャン・ホールディングスの圧倒的な国際金融ネットワークによって、あなたのマネーロンダリングの経路は完全に特定されました。全ての証拠が国際警察と国税局に提出され、口座は完全凍結。資金は、被害者への賠償金として、即座に差し押さえられたのです」
黒田の顔面から、最後の一滴まで血の気が引いていく。
「さらに、彼らはあなたがダミー会社で買い漁った土地の違法性も、全て洗い出しました。あなたに残されたのは、一円の財産もないという現実と、およそ百億円という天文学的な負債だけです。私はこれを持って、あなたの弁護を辞任いたします。報酬すら払えない犯罪者を弁護する義理はありませんので。それでは…」
「ま、待ってくれ! 伶奈! 俺を見捨てるな!」
「触らないでよ、貧乏人! これからは刑務所の中で、せいぜい時給数十円の作業でもして、一生かけて百億の借金を返しなさいよ! さようなら!」
伶奈と弁護士は、アクリル板にすがりついて泣き叫ぶ黒田を一瞥もせず、冷徹に面会室を去っていった。全てを失った。地位も、金も、家族も。黒田が、本当の意味で地獄の底へと突き落とされた瞬間だった。
「ああ…、ああ…!」
黒田が面会室の床に崩れ落ち、獣のような絶望の叫びを上げた、その時だった。面会室の扉が再び開き、静かな足音が近づいてきた。自分の欲望のために他人を踏みにじり続けた男の、哀れな最期。その深く冷ややかな声に、黒田は吸い寄せられるように顔を上げた。
アクリル板の向こうに立っていたのは、百億ドルを動かす絶対的支配者である拓也と、彼に寄り添うように立つ私だった。被害者として、警察の特別な許可を得て、黒田の最後の姿を確認しに来たのだ。
全てを失い、完全に狂気に飲まれた黒田は、立ち上がってアクリル板をドンドンと激しく叩き始めた。
「お前ら! お前らのせいだ! 俺の金! 俺の人生! 全部返しやがれ!」
黒田は顔を真っ赤にして唾を飛ばし、私に向かって狂ったように怒鳴り散らした。
「おい、足引きずり女! お前、昨日から一言も喋らねえで、薄気味悪いんだよ! 本当は、俺が転落するのを見て、腹の底でゲラゲラ笑ってんだろ! この陰険な女! 目! お前のその薄汚い足を見るだけで、ヘドが出るんだよ! 何か言え! 返してみろよ!」
彼に残されたのは、もう私を口汚く罵ることしかできなかった。己の惨めさを慰めるための、空っぽの侮辱。しかし、私はやはり彼に対して一言も発しなかった。怒りすら、なかった。ただ、人間の欲望と傲慢さがどこまで人を見苦しくするのかを目の当たりにし、底知れぬ哀れみだけが胸に広がっていた。
私は、アクリル板の向こうで喚き散らす黒田を、氷のように冷たく、ただ静かに見つめ下ろした。一切の感情を排したその沈黙は、黒田の存在そのものを、価値のないものとして完全に否定する、女将としての最後の抵抗だった。
「な、なんで黙ってんだよ! 何か言えよ! 俺をバカにしてるのか!」
ああ、私のその絶対的な沈黙の前に、黒田はついに完全に心が折れた。彼はアクリル板にずるずると崩れ落ち、両手で顔を覆いながら、赤ん坊のように大声で泣き喚き始めた。十七年間の因縁の元凶は、こうして完全に、社会から抹消されたのである。
「これ以上、この男の醜態を見る必要はない」
拓也が私の肩を優しく抱き、面会室に背を向けた。警察署の外に出ると、春の温かい潮風が私たちの頬を優しく撫でた。昨日までの重苦しい空気は完全に消え去り、抜けるような青空が広がっていた。
「拓也…。本当に、これで全部終わったのね」
私がそっと呟くと、拓也は少しだけ立ち止まり、真剣な眼差しで私を見つめ返した。
「ああ。君を苦しめていた悪意は、全て排除した。だが、湊。…潮騒の宿に戻ろう。君にどうしても見せなければならないものがあるんだ。俺がこの数ヶ月間、君のために密かに準備してきた、最後の仕上げ」
ね、の言葉に、私の胸がドクンと高鳴った。復讐は終わったはずなのに、彼は一体、何を準備していたというのだろう。
拓也が手配した黒塗りの車に乗り、宿へと向かう道中、私はまだ知らなかった。この後、潮騒の宿の前に到着した私が、これまでの人生で最も美しい、信じられない光景を目の当たりにし、再び大粒の涙を流すことになろうとは。
車は青い海を左手に見ながら、およそ三十分ほど海岸線を走り続けた。警察署からの帰り道、車窓から見える穏やかな海の景色は、昨日までの緊迫が嘘のように、すがすがしい。私は隣で運転する拓也の横顔を、何度もそっと盗み見た。十七年間、会いたくて会いたくてたまらなかった人が、今、隣にいる。まるで夢を見ているようだった。
「もうすぐだ」
拓也がそう呟き、ハンドルを切った。車のフロントガラスいっぱいに、見慣れた潮騒の宿の看板が見えてきた。しかし、その瞬間、私の目は信じられない光景に釘付けになった。
「え…?」
そこには、私が知っている潮騒の宿は、もうどこにもなかったのだ。古びて色褪せていたはずの外壁は、深い紺色と白を基調とした、清潔感溢れるモダンなデザインに生まれ変わっていた。朽ちかけていた門標は、丈夫な木材でできた新しい引き戸に変わり、その上には新しい看板が掲げられている。達筆な筆文字で書かれた「潮騒の宿」の文字はそのままに、その下には、どこか異国の高級リゾートホテルのような、洗練された英語のロゴが添えられていた。建物全体を覆っていた潮風による痛みや古さは影を潜め、まるで時間が巻き戻されたかのような、新築の輝きを放っている。屋根瓦は一枚一枚丁寧に葺き替えられ、窓枠はま新しい木枠に交換されていた。敷地内には手入れの行き届いた芝生が広がり、色とりどりの花が咲き誇っている。
そして、何よりも目を奪われたのは、宿の入り口の横に新しく作られた、緩やかな木製のスロープだった。私が足を引きずっていることを気遣って、作ってくれたに違いない。そのささやかな心遣いに、私の目から早くも熱いものが込み上げてきた。
「これは、一体…」
車を降りた私は、その場に立ち尽くし、ただ呆然と生まれ変わった我が家を見つめることしかできなかった。
「驚いたか、湊」
拓也が私の隣に立ち、優しい声でそう言った。
「私が記憶を取り戻してから、帝都銀行の支店長と密かに協力して進めてきたプロジェクトだ。お前は一人でこの宿を守り抜いてきた。だから、今度はお前が安心して、この宿をさらに大きく羽ばたかせる番だと思ってな」
拓也は私の肩を抱き寄せ、優しく微笑んだ。
「お前は、この宿がボロ宿だと黒田に侮辱されても、決して言い返さなかったな。だが、見てみろ。お前が愛し、私が愛したこの宿は、誰にも決して『ボロだ』などとは言わせない。最高の宿として、生まれ変わったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で張り詰めていた最後の糸が、プツンと切れた。
「拓也…!」
私は拓也の胸に飛び込み、子供のように声を上げて泣きじゃくった。十七年分の涙が、止まることなく溢れ出してくる。拓也もまた、力強く私を抱きしめ返し、私の頭を優しく撫でてくれた。
「ただいま…。本当に、よく頑張ったな」
彼の腕の中で、私は十七年分の苦労と悲しみが一気に溶けていくのを感じた。これが、私が夢にまで見た光景だ。黒田の束縛から解放され、拓也が帰ってきただけでなく、私たちが愛した宿が、こんなにも美しく生まれ変わった。
「女将さん! 旦那様!」
その時、宿の入口から、顔いっぱいに涙を浮かべた初さんが駆け寄ってきた。彼女の目には、生まれ変わった宿への驚きと、私と拓也への心からの喜びが満ちていた。
「初さん! 見てください、この宿!」
私は初さんと抱き合い、共に喜びを分かち合った。宿の前に集まっていた、近所の常連客や、噂を聞きつけた人々も、皆、満面の笑顔で私たちを見守っている。拓也はそんな私たちを温かい眼差しで見つめると、宿の新しい引き戸に手を置いた。
「さあ、湊。新しい潮騒の宿へ。そして、これから二人で、この宿を世界一の宿にしていこうじゃないか」
彼の言葉に、私は力強く頷いた。不自由な足で歩き出そうとする私を気遣うように、拓也がそっと手を差し伸べてくれる。私はその手をしっかりと握り、拓也と共に、生まれ変わった潮騒の宿の門をくぐった。
しかし、その瞬間だった。宿の玄関の、拓也が何十年も前に植えた一本の大きな松の木に、見慣れないものが吊るされているのが、私の目に入った。風に揺れる、それは古く色褪せた小さな青い布袋だった。拓也が十七年間、肌身離さず持っていた、あの守り袋。なぜ、こんなところに。
拓也は私の視線に気づくと、そっと微笑んだ。そして、その守り袋の紐の先に結び付けられた、一枚の小さな札に手を伸ばした。拓也がその札を私に見せた瞬間、私は全身を貫くような衝撃を受け、言葉を失った。そこに書かれていたのは、たった一言。
「満願成就」
「拓也…。あなた、ずっとこの日のために、生きて、そして戦ってきてくれたのね」
私の目から、再び大粒の涙が止めどなく溢れ出した。「満願成就」。拓也が差し出した札に書かれた、その四文字を見た瞬間、私の胸は激しく締め付けられた。拓也が海に消えてから十七年間、私が心の奥底で祈り続けてきたこと。そして、自身が記憶を失いながらも、無意識のうちに求め続けてきたこと。その全てを表す言葉だった。
「この守り袋は、私が記憶を取り戻した時に、真っ先にここへ戻って、この松の木に結びつけたんだ」
拓也は私の肩に手を添え、優しく言った。
「その時、俺は誓ったんだ。お前とこの宿が、悪意から完全に解放され、心から安らげる日が来た時、この札に『満願成就』と記して、お前と再会しよう、と」
私は再び、拓也の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした。拓也は、記憶を失い、顔まで変わってしまっても、私との約束を忘れてはなかった。そして、私と同じように、いや、それ以上に、この宿を守り、私を苦しめる悪意を排除するために、水面下で戦い続けていたのだ。
「拓也…。私、本当に一人じゃなかったのね」
「ああ、一人じゃなかったさ。俺も、お前がいてくれたからこそ、異国の地で生き抜くことができた。この袋と、お前が帰りを待ってくれているという確信だけが、俺を突き動かす唯一の光だった」
私たちの周りには、初さんを始め、駆けつけた地元の常連客たちが、皆、涙を流しながら私たちを見守ってくれていた。彼らもまた、この宿を愛し、私を支えてきてくれた、大切な家族だ。
「さあ、湊。いつまでもこんなところで立ち話もなんだ。新しい潮騒の宿へ、ご案内しよう」
拓也がそっと私の手を握り、新しく生まれ変わった宿へと促した。新しい木製のスロープを、拓也は私のペースに合わせてゆっくりと登っていく。私にとって、このスロープは単なる設備ではなく、拓也の私への深い愛情と、これからの未来への優しさが形になったもののように感じられた。新しい引き戸を拓也が開けると、中から檜の木の香りがふわりと漂ってきた。玄関は以前よりも明るく、広々とした空間に変わっていた。古い木材が持つ温かみはそのままに、随所に現代的な感性が込められている。拓也が、何億もの資金を投じて、この数ヶ月間、密かに大規模な改修工事を進めていたのだ。
「うわあ…」
思わず感嘆の声が漏れた。廊下の床はピカピカに磨き上げられ、壁には地元の作家が描いた海の絵が飾られている。客室は全て最新の設備が整えられ、展望風呂からはどこまでも続く水平線が一望できる。
「これなら、きっとお客様にも喜んでいただけますね」
私がそう言うと、拓也は私の目をまっすぐに見つめた。
「ああ。これからは、お前が女将として心ゆくまでお客様をお迎えできる。もう、無理をして足を引きずりながら、理不尽な客の侮辱に耐える必要は、ないんだ」
その言葉に、また涙が溢れた。拓也は、私が長年背負ってきた重荷を、全て取り除いてくれたのだ。
その日、私たちは生まれ変わった潮騒の宿で、二人きりのささやかな再会の宴を開いた。初さんが心を込めて作ってくれた料理を前に、拓也は十七年間、異国の地でどう生きてきたのかを、ゆっくりと語ってくれた。記憶を失った絶望。それでも心の奥底で帰るべき場所を求め続けた苦しみ。そして、荒波の中で記憶が蘇った時の衝撃と歓喜。私は拓也の手を握りしめ、彼の言葉の一つ一つに頷いた。そして、私の十七年間も、拓也に全て語った。彼の帰りを待ち続け、この宿を守り抜いた日々。黒田からの執拗な嫌がらせ。そして、何度も挫けそうになりながらも、拓也がいつか帰ってくるという希望だけを胸に、今日まで生きてきたこと。語り合うほどに、十七年間の空白は埋まり、二人の絆は一層深まっていった。
「あの時は、本当に辛かったな」
「いいえ。でも、拓也が帰ってきてくれたから、もう何もかも報われたわ」
夜が更け、二人で宿の展望風呂に浸かった。窓の外には満点の星空が広がり、遠くから聞こえる波の音が、私たちの再会を祝福しているかのようだった。
「湊」
拓也がそっと私の手を握った。
「これからは、俺がこの宿を守る。お前が望むように、好きなようにこの宿を運営してくれ。そして、もう足のことは気にせず、安心して俺に頼ってくれ」
その言葉の響きは、十七年前に、嵐の海へ出ていく前に、私に残した拓也の、あの不器用な優しさと、寸分も変わらなかった。私は拓也の肩にそっと頭を乗せ、夜空に輝く星を見上げた。
「拓也、ありがとう。本当に、ありがとう」
拓也は私の頭を優しく抱き寄せ、そして、私の右足に刻まれた古傷に、そっと口づけた。十七年間の痛みと悲しみ、そして希望の全てが、その温かいキスと共に、癒されていくのを感じた。
翌朝。私たちは新しい潮騒の宿の入り口に立った。朝日に照らされ、美しく輝く宿。その前には、拓也が記憶を取り戻した時に結びつけた、「満願成就」の守り袋が、風に揺れている。
拓也は私の方を振り返り、満面の笑みで言った。
「さあ、女将さん。新しい一日が始まるぞ。これから、二人でこの宿に、そしてこの海に、たくさんの笑顔と新しい歴史を刻んでいこう」
私は微笑み、拓也の手をしっかりと握りしめた。十七年間、私は一人で、足を引きずりながら荒波の中を歩んできた。しかし、これからは違う。愛する夫と共に、この新しい宿を、そして私たちの未来を、二人で手を取り合って、希望に満ちた海へと漕ぎ出していくのだ。遠くに見える水平線に、太陽の光がキラキラと反射している。それは、私たちの未来を祝福するかのようだった。
