静かの家の仏壇に手を合わせている時、嫁のあき子が「今時、仏壇なんて時代遅れです」と笑った。直後、息子の琢磨が「あの頑固親父、やっと死んでくれて正直ほっとしたよ」と言い放った。夫の葬儀からまだ三週間。四十五年間連れ添った夫を侮辱され、私はその場で震えながら立ち尽くした。彼らは毎晩、「ばあさんの寿命はあと十年」「遺産さえもらえばもう用はない」と話し合っていた。ある日、夫の書斎から見つけた小さなメ…

静かの家の仏壇に手を合わせている時、嫁のあき子が「今時、仏壇なんて時代遅れです」と笑った。直後、息子の琢磨が「あの頑固親父、やっと死んでくれて正直ほっとしたよ」と言い放った。夫の葬儀からまだ三週間。四十五年間連れ添った夫を侮辱され、私はその場で震えながら立ち尽くした。彼らは毎晩、「ばあさんの寿命はあと十年」「遺産さえもらえばもう用はない」と話し合っていた。ある日、夫の書斎から見つけた小さなメ...

「じゃあ俺たちが面倒見てやるよ」

息子のその言葉を聞いた時、私の胸の奥がひやりとした。夫の葬儀からわずか数日。まだ涙も乾かないうちに、四十二歳の息子・琢磨が静かの家の玄関に立っていた。隣には、いつもより丁寧に化粧を施した嫁のあき子。

「お母さん、一人じゃ大変でしょう。私たちがいますから、安心してください」

あき子の笑顔はどこか作り物めいていた。今まで年に一度、正月にしか顔を見せなかった二人が、なぜ急に。

「ありがとう。でも、まだ一人でも大丈夫よ」

静かがそう答えた翌日。琢磨は断りもなく、夫・義人の書斎に入り込んでいた。

「これ、生命保険の書類?」

ガサガサと引き出しを漁る音。

「ねえ、この家の評価額っていくらくらいなもんなの?」

あき子の目はメモにペンを走らせながら、真剣そのもの。

「株とかやってなかったの? お父さん」

二人の視線はもはや静かではなく、書類と通帳にばかり向けられていた。義人の遺影が悲しそうに二人を見下ろしている。静かの胸の奥で、小さな怒りの炎がちらりと燃え始めた。

静かは義人との思い出が詰まったアルバムを開いた。四十五年前、地方銀行の支店長だった義人と出会い、結婚した。真面目で誠実な人柄に引かれた。琢磨が生まれた時の写真。不妊治療の末、三十五歳でようやく授かった一人息子だった。この子のためなら何でもしてやろうと思った。私立中学の学費、年間百二十万円。高校、大学と教育費だけで総額三千万円。マイホーム購入時には頭金三百万円を援助した。

「母さん、本当にありがとう」

あの頃の琢磨の言葉が今も耳に残っている。しかしここ数年は、様子が変わっていた。あき子と結婚してから、年に一度の正月の挨拶だけ。

「忙しいから、今度必ず」

そんな言葉の繰り返し。義人は生前よく言っていた。

「琢磨も大人になったんだ。俺たちは静かに見守ろう」

その義人が三週間前に事故で急死した。あまりにも突然の別れ。葬儀の席で琢磨は涙を一つも見せなかった。それどころか、式の最中もあき子と何やらこそこそ話。今思えば、あの時から二人の態度はおかしかった。悲しみよりも、別の感情が見え隠れしていた。

静かはアルバムを閉じ、仏壇の遺影を見つめた。

「あなた、私たちの息子は、いつからこんな子になってしまったのかしら」

「母さん、貯金通帳見せてよ」

琢磨の要求は日に日にエスカレートしていった。

「どうして急に?」

「いや、ちゃんと管理できてるか心配でさ」

静かがしり込みすると、あき子が口を挟む。

「お母さん、私たちは家族でしょう。隠し事は良くないわ」

仕方なく通帳を見せると、二人の目が輝いた。

「へえ、結構あるじゃん。退職金と年金で毎月これだけ」

「不動産の評価額も知りたいな。固定資産税の通知書、どこ?」

書類を次々と要求する二人。まるで査定でもしているかのようだった。

数日後、突然の同居案が飛び出した。

「母さん、一人暮らしは危ないよ。俺たちと一緒に住もう」

「そうですよ。お母さんの安全が第一ですから」

あき子の笑顔は獲物を狙う猫のようだった。

「でも、この家には思い出が……」

「思い出じゃ食えないでしょう」

琢磨の言葉に静かは息を飲んだ。

「じゃあ俺たちがここに引っ越してくるよ。家賃も浮くし」

「素晴らしいアイデアね。お母さんも寂しくないでしょう」

反対する間もなく話はどんどん進められた。引っ越してきた翌日から、家の中の空気が変わった。

「お母さん、この部屋、私たちの寝室にしますね」

静かが大切にしていた和室が勝手に模様替えされる。

「ちょっと、そこは義人の……」

「死んだ人の部屋なんて、縁起悪いでしょう」

あき子の冷たい言葉に、静かは言葉を失った。

食事の時間もまるで他人行儀。

「母さん、料理はあき子に任せて。年寄りの味付けは薄くて物足りないから」

「そうそう。塩分控えめなのは分かるけど、私たちにはちょっと」

長年磨いてきた料理の腕をあっさりと否定された。

「あら、このお皿、随分古いのね。捨てましょうか?」

「待って。それは結婚祝いにいただいた……」

「こんな古いもの置いてても仕方ないでしょ。断捨離よ」

思い出の品々が次々とゴミ袋に放り込まれる。義人との新婚時代に揃えた食器セット。琢磨の成長記録を綴ったアルバム。全てが不要品として扱われた。

「お母さん、この着物も処分しましょう」

「それは私の母の形見なの」

「カビ臭いし、もう着ないでしょう。リサイクルショップに売れば少しはお金になるわ」

あき子は容赦なく静かの大切なものを奪っていく。

「財産管理も俺たちに任せなよ」

琢磨が切り出した。

「どうせ母さん、細かい計算とか苦手でしょう」

「私、ファイナンシャルプランナーの資格持ってますから。お母さんより上手に運用できますよ」

あき子が自信満々に言う。

「でも、自分のお金くらい自分で……」

「何言ってるの? 認知症になってからじゃ遅いのよ」

「私はまだしっかりしてる」

「今はね。でも、いつどうなるか分からないでしょう」

二人の圧力に、静かは追い詰められていく。

「それに、お母さん、最近同じ話を繰り返すこと多くないですか?」

あき子の指摘に琢磨も同調する。

「そういえば、この前も同じ話を三回もしてたような」

「やっぱり初期症状かもしれませんよ」

「違う」と叫びたかった。でも、最近もの忘れが増えたのも事実。不安が静かの心をじわじわと蝕む。

「じゃあ、とりあえず通帳と印鑑だけでも預からせて。キャッシュカードの暗証番号も教えてください。いざという時、私たちが動けないと困るでしょう」

拒否すればするほど、認知症扱いが激しくなる。

「お母さん、私たちを信用してないんですか? 家族なのに。悲しいです」

あき子の涙は明らかに演技だった。

夜になると、二人の本音が聞こえてくる。

「全く、頑固なばあさんだな」

「でも、もう少しよ。弱ってきてるから、早く財産全部管理したいな」

「焦らないの。じわじわ追い詰めればいいのよ」

ある夜、偶然聞いてしまった会話が決定的だった。

「あのばあさん、いつまで生きるつもりかな?」

「医者が言うには、あと十年は大丈夫らしいわよ」

「十年か。長いな。でも財産はたんまりあるから、うまくやれば老後は安泰ね」

「施設に入れるのは、もう少しボケてからでいいか」

「そうね。今なら拒否されるし。もっとよぼよぼになってからよ」

「年金と退職金合わせて三千万以上あるんだろ。土地と家を売ればもっとだ」

「父さんが残した株券もあるはずだし」

「へえ、株もやってたのか」

「銀行員だったから、堅実な投資をしてたみたい。配当金だけでも結構あるわよ」

静かは廊下で立ちすくんだ。自分は息子夫婦にとって、ただの金づるでしかなかった。愛情のかけらもない。冷たい計算だけがそこにあった。

静かが買い物から帰ると、琢磨が義人の書斎で何かを物色していた。

「琢磨、何してるの?」

「ああ、母さん。親父の遺品整理だよ」

振り返った息子の手には、義人が大切にしていた金の時計が握られていた。

「それ、お父さんが定年祝いに買った……」

「こんな古い時計、使わないだろ。質に入れればいい値段になるよ」

静かの心臓がドクンと大きくなった。

「やめて。それはお父さんの……!」

「死んだ人間のものに執着しても仕方ないだろ」

琢磨の言葉は刃物のように冷たかった。そこへあき子がやってきた。手には義人のアルバムと日記。

「お母さん、これ見つけたんですけど」

あき子が開いたページには、義人が静かに宛てた手紙が挟まれていた。

「静か君と過ごした四十五年は、私の人生の誇りだ」

「こんな恥ずかしいもの、捨てましょうね」

「待って」

静かが手を伸ばすと、あき子はさっと日記を引っ込めた。

「お母さん、過去に囚われすぎです。前を向かないと」

「そうだよ、母さん。親父だって、いつまでも悲しまれたくないはずだ」

二人の言葉に静かは震えた。夫への愛情を否定され、思い出まで奪われようとしている。

「あ、これ見て。お父さん、結構たくさん株を持ってたのね」

あき子が見つけた書類を琢磨が覗き込む。

「へえ。配当金だけで年間百万以上か。これ、俺たちが運用した方が」

「ちょっと、勝手に見ないで」

静かが書類を取り返そうとすると、琢磨が腕を掴んだ。

「母さん、隠し事は良くないって言ったよね」

その目はもはや息子のものではなかった。金に目がくらんだ、別の生き物のようだった。

「痛い……話して」

「大げさだな。ちょっと確認してるだけじゃん」

琢磨は母の腕を乱暴に振り払った。

夕食の席で、決定的な一言が飛び出した。

「なあ、母さん。遺言書、書いた?」

琢磨が何気ない口調で聞いてきた。

「どうして、そんなこと?」

「いや、ちゃんとしておいた方がいいかなって」

あき子が口を挟む。

「そうよ。急に何かあったら、相続で揉めるかもしれないし」

「私が死ぬのを待ってるの?」

静かの問いに、二人は慌てたように首を振った。

「そんなわけないじゃん。ただ、準備は大事だろう」

「そうそう。お母さんの意思をきちんと残しておくべきです。私たち以外に相続人もいないし、手続きは簡単ですよ」

あき子がにこやかに続けた。

「明日にでも公証役場に行きましょうか」

「そんなに急ぐ必要は……」

「お母さん、最近もの忘れも増えてるし。正常な判断ができるうちに」

その夜も聞いてしまった。

「遺言書、早く書かせないとな。全部俺たちに残すように仕向けないと」

「でも、他に身寄りもないし、当然私たちにね」

「念のため、公正証書にした方がいいか」

「そうね。後で文句言われたくないし。それより、生前贈与の方が税金安いんじゃない?」

「あ、それいいね。少しずつ名義変更していけば」

静かは布団の中で震えた。まだ生きているのに、財産の分配を考えている。

翌朝、とどめの出来事が起きた。静かが仏壇に手を合わせていると、琢磨がやってきた。

「母さん、そろそろ仏壇も片付けようか」

「何を言ってるの……」

「だって邪魔じゃん。リビング狭くなるし」

あき子も同調する。

「そうですよ。今時、仏壇なんて時代遅れです」

「お父さんの遺影があるのよ」

「遺影なんて、ただの木じゃん」

琢磨の言葉に、静かの中で何かがプツンと切れた。

「あの頑固親父、やっと死んでくれて、正直ほっとしたよ」

「財産だけ残して死ぬなんて、最後だけは役に立ったわね」

あき子の高笑いが静かの耳に突き刺さった。

「正直、葬式の時も悲しくなかったのよ。これでやっと遺産が手に入るって」

「俺も同じだよ。親父との思い出なんてどうでもいい。遺産さえもらえればもう用はない」

「お母さんも、早く……」

言いかけて、あき子は口を噤んだ。でも続きは明らかだった。

静かは仏壇の前で立ち尽くした。愛する夫を侮辱され、自分の死まで望まれている。こんな屈辱を受けるために息子を育てたのか。義人の遺影が静かに見下ろしている。

その瞳に、決意の光が宿った。静かは震える手で仏壇の引き出しを開けた。そこには義人が生前に残した小さなメモがあった。

「静か。もし君に何かあったら、藤原弁護士に連絡を。全て彼に託してある」

藤原新太郎。義人の幼馴染みで、信頼できる弁護士だった。静かはそっと携帯電話を取り出した。琢磨たちが買い物に出かけた隙を狙って、電話をかける。

「藤原先生、小寺静かです」

「静かさん、お久しぶりです。義人君のこと、本当に残念でした」

「実は、ご相談が……」

静かは息子夫婦の仕打ちを説明した。藤原は黙って聞いていたが、やがて重い口を開いた。

「実は義人君から聞いていました。もしもの時のために、と。詳しくは直接お会いしてお話しします。明日、事務所にいらっしゃれますか?」

「はい、必ず伺います」

電話を切った後、静かは決意を新たにした。夫が何か準備していたなら、それに答えなければ。

翌日、静かは「病院に行く」と嘘をついて藤原の事務所を訪れた。

「母さん、病院なら付きそうよ」

琢磨が言ったが、静かは首を振った。

「大丈夫よ。ただの定期検診だから」

「認知症の検査もした方がいいんじゃない」

あき子の嫌みに、静かは笑顔で答えた。

「ええ、考えておくわ」

藤原の事務所は駅前のビルにあった。

「静かさん、実は義人君がこんなものを残していました」

藤原が差し出したのは、封印された封筒だった。中には義人の遺言書ともう一通の手紙が入っていた。

「もし琢磨が金目当てで静かに近づいたら、この手紙を読んでください」

静かの目から涙がこぼれた。夫は全てを見通していたのだ。手紙には驚くべき事実が書かれていた。

「実は、私たちの本当の財産は表に出ているものだけではありません。義人は銀行員としての知識を生かし、株式投資で密かに資産を増やしていました。その額はなんと八千万円。この財産は静か名義の別口座に移してあります。琢磨はその存在を知りません。さらに、都心に小さな投資用マンションも所有していました。もし琢磨が君を粗末に扱うようなら、遠慮なく使ってください。君の老後は、君自身で守るべきです」

静かは手紙を何度も読み返した。

「君はきっと、息子を信じたいと思うだろう。でも、金は人を変える。私も銀行員として、そんな親子を何組も見てきた」

義人の言葉は、今の状況を完璧に言い当てていた。藤原が説明を続ける。

「この遺言書は正式な公正証書です。内容を変更することも可能ですが……」

「変更したいんです」

静かの声はもう震えていなかった。

「どのように?」

「息子への相続を最小限にしたい」

藤原は頷いた。

「法定相続分として、最低限の遺留分は残す必要があります。それ以外は静かさんの自由です」

「では、遺留分以外は全て寄付したいと思います」

「寄付ですか?」

「はい。夫が生前支援していた児童養護施設に」

静かは新しい遺言書の作成を依頼した。その帰り道、静かは銀行に立ち寄った。隠し口座の残高を確認すると、確かに八千万円が入っていた。さらに投資用マンションの賃料も、毎月三十万円振り込まれている。

「義人さん、あなたは本当に……」

夫の深い愛情と先見の明に、静かは胸が熱くなった。銀行員に手続きを依頼した。

「この口座からの出金は、本人確認を厳格にしてください。たとえ家族でも」

「承知いたしました」

家に帰ると、琢磨とあき子が待ち構えていた。

「母さん、どこ行ってたの? 病院じゃなかったでしょ?」

あき子が静かのバッグを見ながら言った。

「病院の後、銀行に寄ったのよ」

「銀行? 何しに?」

「通帳の記帳よ。年金が振り込まれているか確認しないと」

嘘ではない。ただ、確認したのは別の口座だったが。

「で、遺言書の件、考えてくれた?」

「ええ、考えたわ」

静かは二人をまっすぐ見据えた。

「私もきちんと準備しようと思います」

琢磨とあき子の顔がパッと明るくなった。

「さすが母さん!」

「お母さん、正しい判断です。来週、公証役場に予約を入れておきますね」

あき子が嬉しそうに言った。二人はまんまと騙されたことに気づいていない。

一週間後、静かは琢磨とあき子を連れて公証役場へ向かった。

「母さん、今日で全部すっきりするよ」

琢磨の声は弾んでいた。

「そうね。本当にすっきりするわ」

静かの言葉の意味を、二人は理解していなかった。

公証役場に着くと、藤原弁護士がすでに待っていた。

「誰? 弁護士なんて呼んでないけど」

琢磨が険しい顔をした。

「私がお願いしたのよ。大事なことだから、専門家に立ち合ってもらおうと思って」

「まあ、それもそうか」

会議室に入ると、公証人が書類を用意していた。

「では、遺言書の内容を確認させていただきます」

公証人が読み上げ始めた。

「遺言者、小寺静かは、次の通り遺言する。一、貯金について。銀行普通預金の全額を社会福祉法人、児童養護施設に遺贈する」

琢磨の顔色が変わった。

「二、不動産について。東京都新宿区の自宅は、息子、小寺琢磨に相続させる」

二人の表情が少し柔らいだ。

「ただし、同不動産には金融機関の抵当権が設定されており、債務残高は二千万円である」

「債務? どういうこと?」

あき子が声をあげた。

「三、その他の財産について。全て前期児童養護施設に遺贈する」

「ちょっと待てよ」

琢磨が立ち上がった。

「なんだよ、これ。俺には借金付きの家だけ?」

静かは落ち着いて答えた。

「あら、家があるだけでもありがたいと思わない?」

「母さん、正気か?」

「とても正気よ。あなたたちの本心を見せてもらったから」

藤原が口を開いた。

「なお、この遺言書は正式な手続きを経て作成されたもので、法的に有効です」

「でも、母さんの財産は他にもあるはずだ」

琢磨が詰め寄った。

「ああ、言い忘れていたわ」

静かはにっこりと笑った。

「実はお父さんが残してくれた財産が、他にもあるのよ」

琢磨とあき子の目が輝いた。

「でも、それは全て私名義なの。お父さんが生前贈与してくれていたから」

「なんだって?」

「株式が八千万円。投資用マンションが一軒。合わせて資産価値は一億二千万円ほどかしら」

二人は言葉を失った。

「嘘だ。そんな財産があるなんて、聞いてない」

「当たり前でしょう。あなたたちに教える必要なんてないもの」

静かは続けた。

「これらは私の財産だから、私の好きに使わせてもらうわ」

「ふざけるな。俺は息子だぞ」

「息子?」

静かの声が冷たくなった。

「お父さんを『頑固親父』と呼び、『死んでくれてほっとした』と言った息子」

琢磨の顔が青ざめた。

「私を認知症扱いし、『早く死ね』と願った息子」

「そ、そんなこと言ってない」

「あら、言ったわよ。ちゃんと録音してあるもの」

静かはスマートフォンを取り出した。

「あの頑固親父、やっと死んでくれて正直ほっとしたよ」

「遺産さえもらえれば、もう用はないのよ」

琢磨とあき子の声が会議室に響いた。

「これはまだあるわよ。『母さんの寿命なんてあと十年くらいだろ。早く施設に入れて。財産は俺たちが管理しよう』」

公証人も藤原も、厳しい表情で聞いていた。

「私はあなたたちにとって、ただの金づるだったのね」

「違う、母さん」

「これは違うわ」

「じゃあ、お父さんの遺品を質に入れて売ろうとしたのも違うの?」

静かは質屋の査定書を取り出した。

「お父さんの形見の時計、もう売っちゃったの」

琢磨は言葉に詰まった。

「ご安心なさい。私が買い戻しておいたわ」

静かは時計を取り出して見せた。

「この時計には、お父さんとの思い出が詰まっているの。お金なんかには変えられない」

あき子が口を挟んだ。

「で、でも、私たちはお母さんの面倒を見てきたんです」

「面倒?」

静かは鼻で笑った。

「たった二週間じゃない。その間、私の料理はまずい。私の大切な品はゴミ扱い。それに、家賃も食費も払ってないでしょう。むしろ、私の家に居候してただけ」

藤原が補足した。

「法的にも、二週間程度の同居では扶養の実績とは認められません」

琢磨は最後の手段に出た。

「母さん、考え直してくれ。俺たちは家族だろ」

「家族?」

静かの目に涙が浮かんだ。でも、それは悲しみの涙ではなかった。

「家族なら、どうして年に一度しか会いに来なかったの? 家族なら、どうしてお父さんの葬式で涙一つ流さなかったの? 家族なら、どうして私の死を待ち望むの?」

琢磨は何も答えられなかった。

「私にもやっと分かったわ。あなたはもう私の息子じゃない。ただの、よく深い他人よ」

静かは立ち上がった。

「藤原先生、手続きをお願いします」

「承知しました」

「待て。遺留分ってものがあるだろ」

琢磨が最後の抵抗を試みた。

「ええ、もちろん。遺留分として財産の四分の一は確保されています。ただし、それは債務も含めての計算です。つまり、家のローンも相続することになりますが、よろしいですね」

琢磨とあき子は完全に打ちのめされていた。静かは最後に一言付け加えた。

「ああ、そうそう。来週にはこの家を出て行ってもらえる?」

「えっ、でも……」

「だってもう家族じゃないんでしょう。他人を家に置いておく理由はないわ」

「じゃあ俺たちが面倒見てやるよ」

静かは、琢磨の言葉をそのまま返した。

「私は自分の面倒は自分で見られるから」

こうして形勢は完全に逆転した。老後の算盤を弾いていた息子夫婦は、何も得られずに終わった。

公証役場を出た後、琢磨とあき子は必死に食い下がった。

「母さん、本気なの? 考え直してよ」

「お母さん、私たちが悪かったです。謝りますから」

しかし、静かの決意は硬かった。

「謝る? 何に対して?」

「えっと、その……」

あき子は言葉に詰まった。

「お金がないと分かったから謝るの? それとも、本当に反省してるの?」

二人は顔を見合わせた。その表情が全てを物語っていた。

「母さん、俺たちを許してくれ。やり直そう」

琢磨が必死に訴えた。

「やり直す? どうやって?」

「これからは本当の親子として……」

「本当の親子?」

静かは悲しそうに首を振った。

「あなたはお父さんを『頑固親父』と言った。それが本当の息子の言葉?」

琢磨は俯いた。

「あれは……つい口が滑って」

「口が滑る? 本音が出ただけでしょう」

一週間後、琢磨とあき子は大きな荷物を抱えて家を出ていった。

「これからどうするんだよ」

「実家に帰るしかないでしょう」

「ローン、どうやって払うんだ?」

「知らないわよ。あなたが相続したんでしょう」

「お前、遺産目当てで結婚したからだろ」

「はあ? あなたこそ、お母さんの財産目当てだったじゃない」

二人のみっともない争いを、静かは二階の窓から見下ろしていた。

「因果応報ね」

呟いた言葉にもう怒りはなかった。ただ、哀れみだけがあった。

その後、琢磨から何度も電話があった。

「母さん、ローンが払えない。助けてくれ」

「あら、大変ね。でも、私には関係ないわ」

「母さん、実の息子を見捨てるのか?」

「見捨てる? あなたが私を見捨てたんでしょう」

電話の向こうで琢磨が黙り込んだ。

「お父さんの遺産、計画的に使えばよかったのに。あ、でも、遺産なんて大してなかったのよね」

静かの皮肉に、琢磨は何も言い返せなかった。

「母さん、せめて百万だけでも」

「あら、私のお金は全部施設への寄付に回すの。子供たちの未来のために使う方が、よっぽど意味があるでしょう」

電話が切れた。

三ヶ月後、夫婦は離婚した。金目当てで近づいたもの同士、お金がなくなれば関係も終わり。当然の結末だった。

「あの女、俺を騙してたんだ」

琢磨が珍しく実家を尋ねてきた時にこぼした。玄関先での話だった。

「騙した? 金があると思ってたから結婚したんだってさ」

静かは冷たい目で息子を見た。

「あなたも同じじゃない。私にお金があると思って近づいてきた」

当然のことだ。

「でも、一つだけ違うところがあるわ」

静かは琢磨の目を見つめた。

「私はあなたの母親だった。だから、裏切られた時の痛みは比べ物にならないくらい深かった」

琢磨は初めて、自分のしたことの重さを理解したようだった。

「母さん、俺、本当にすまなかった」

「もういいのよ。過ぎたことだから」

静かの声は穏やかだったが、もう息子を家に入れることはなかった。

「これからは自分の力で生きていきなさい。それがあなたのためよ」

琢磨はとぼとぼと帰っていった。その後ろ姿に、かつての優しい息子の面影はなかった。

一方、静かの生活は劇的に変わった。投資用マンションの家賃収入と株の配当金、合わせて月五十万円以上の不労所得があった。

「義人さん、あなたのおかげでこんなに豊かな生活ができるなんて」

仏壇に手を合わせながら、静かは亡き夫に感謝した。

「あなたは本当に全てを見通していたのね」

週に二、三回、近所のカルチャーセンターで書道を習い始めた。

「小寺さん、筆の運びが美しいですね」

先生に褒められるたび、静かの心は満たされた。

「ありがとうございます。夫に筆を買ってもらったのを思い出して」

若い頃、忙しくて諦めた趣味を、今になって楽しめる喜び。月に一度は友人たちと温泉旅行。

「静かさん、最近輝いてるんじゃない?」

「そう? 肌つやがいいって言われるの」

「何か秘訣でもあるの?」

友人たちの言葉に、静かは微笑んだ。

「ストレスがなくなったからかしら」

「あら、息子さんと同居始めたんじゃなかったの?」

「それが、もう出て行ってもらったのよ」

「え? どうして?」

静かはさらりと答えた。

「価値観が合わなかったのよ。お互いのために、別々に暮らした方がいいって」

事実、息子夫婦のいない生活は驚くほど平穏だった。朝は好きな時間に起き、好きなものを食べ、好きなことをする。誰にも気を使わず、自分のペースで生きられる幸せ。

ある日、児童養護施設から手紙が届いた。

「小寺様の温かいご支援のおかげで、子供たちの図書室を新設することができました」

写真には、本を手に笑顔を見せる子供たちの姿があった。

「義人さん、見て。あなたの遺産がこんなに役立っているのよ」

施設長からの手紙にはこう書かれていた。「子供たちは新しい本に夢中です。特に偉人伝が人気で、みんな将来の夢を語るようになりました」

静かの目に涙が浮かんだ。これこそが本当の意味での遺産の使い方だった。義人もきっと天国で喜んでいるだろう。

琢磨のことも時々思い出す。幼い頃、熱を出した時に一晩中看病したこと。運動会で一等賞を取った時の誇らしげな顔。大学合格を報告してくれた時の涙。初めて就職が決まった時の張り切った顔。あの優しかった息子は、どこで道を間違えたのだろう。きっと金の魔力に取り憑かれてしまったのだ。

でも、後悔はしていない。親としてできることは全てした。教育も愛情も惜しみなく与えた。それをああいう形で返されたのなら、もう親子の縁は切れたも同然。

「情けは人のためならず、か」

静かは呟いた。情けをかけるのは相手のためではなく、自分のためでもある。相手を哀れめば、自分が傷つくだけ。今回の件で静かは大切なことを学んだ。愛情は無条件に与えるものではない。相手がその愛情に値するかどうかを見極めることも必要だ。血のつながりがあっても、心が通わなければそれは他人と同じ。むしろ、期待が大きい分、裏切られた時の痛みは深い。

ある朝、静かは鏡を見て驚いた。そこには十年は若返ったような自分の顔があった。

「やっぱりストレスって怖いのね」

化粧の乗りも良く、肌にも艶が戻っていた。目の下のくまも消え、表情も明るくなっている。久しぶりに行きつけの美容院で髪を切った。

「小寺さん、何かいいことでもあったんですか? すごく輝いて見えます」

美容師の問いに、静かは微笑んだ。

「ええ、自由を手に入れたの」

「自由?」

「自分の人生を自分で決められる自由よ」

「素敵ですね。それが一番の幸せかもしれません」

帰り道、静かは花屋に立ち寄った。

「今日はひまわりをください。一番元気なやつを」

「お客様にぴったりですね。明るくて前向きな花ですから」

「そうね。私も前を向いて生きていくわ」

家に帰ると、ひまわりを仏壇に備えた。

「義人さん、私、幸せよ。あなたが残してくれたもののおかげで」

遺影の中の夫も、優しく微笑んでいるように見えた。もう誰にも振り回されない。自分の人生を、自分のために生きる。

夕方、散歩していると近所の人に声をかけられた。

「小寺さん、最近お元気そうで。何か張りの秘訣でもあるの?」

「おかげ様で。秘訣は、ストレスから解放されたことかしら」

「息子さんは?」

「それぞれの人生を歩んでいます」

静かの答えに相手は少し戸惑ったようだったが、それ以上は聞いてこなかった。

夜、静かは日記を書いた。

「今日も穏やかな一日でした。琢磨のことを恨む気持ちはもうありません。彼には彼の人生がある。私には私の人生がある。それぞれが自分の選んだ道を歩めばいい。ただ、親子の絆はお金では買えないということを、いつか理解してくれたら。でも、それも彼次第。私は義人が残してくれた財産と思い出を大切に、残りの人生を精一杯生きていきます」

六十八歳。まだまだこれからだ。

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