昼休み、食堂に本社の役員がぞろりと並んだ。何かあるなと思っていたら、経営企画部長の大木が壇上でこう言い放った。「本日をもって設備保全部を廃止します」。最新のAI予知保全システムを入れれば年間八千万円削減できるという。俺はこの工場に来て三年、機械の異音を誰より早く聞き分け、たった十五分の調整でラインを一度も止めずにきた。だが大木は俺を見下すように言った。「何もしてない無能に給料は払えないんです…

昼休み、食堂に本社の役員がぞろりと並んだ。何かあるなと思っていたら、経営企画部長の大木が壇上でこう言い放った。「本日をもって設備保全部を廃止します」。最新のAI予知保全システムを入れれば年間八千万円削減できるという。俺はこの工場に来て三年、機械の異音を誰より早く聞き分け、たった十五分の調整でラインを一度も止めずにきた。だが大木は俺を見下すように言った。「何もしてない無能に給料は払えないんです...

「何もしていない無能に給料は払えないんですよ。」

本社から来た部長はそう言って、俺の部署を潰した。最新のAI予知保全システムを導入すれば、年間八千万円の人件費と維持費を削減できるという。だが、それは机上の空論だ。現場を知らない者の絵空事だ。そして半年後、この会社はとんでもない金額を失うことになる。

俺の名前は森。五十五歳。この会社に勤めて三十五年になる。若い頃は本社の工場や他の生産拠点を渡り歩き、様々な設備を見てきた。だが三年前、会社が創業した当時からあるこの最も古い工場への移動を命じられた。設備保全部の主任という立場だ。この工場は創業者が最後まで目をかけていた工場らしい。古くて気難しい機械が多いため、俺の修理の腕を買われたのだと自負している。

俺が担当してきた三年間、この工場の機械は一度も止まっていない。今日もとある機械の音が変わったことに気づき、ベアリングを調整した。異音というほどのものではない。俺にとっては長年の勘だ。作業時間はたったの十五分だが、大切な十五分だ。他の誰も気づいていない。これで今日もこの機械たちは問題なく動き、俺は今日も何事もなく仕事を終えるはずだった。

その日の昼、俺たちは食堂に集められた。本社の役員たちも並んでいる。俺は無意識に自分が知っている役員の顔を探したが、見当たらなかった。ざわめいているうちに、壇上に立ったのは経営企画部長の大木だ。この男は俺より年下の四十代。大手コンサル会社から引き抜かれ、在庫回転率も調達単価も半年で改善させた。次の執行役員候補の筆頭とささやかれている。

そんな大木が言い放ったのは、本日をもって設備保全部を廃止します、というとんでもない言葉だった。最新のAI予知保全システムを導入し、センサーで振動と温度を常時監視する。年間で八千万円の人件費と維持費を削減できるという。

「数字に出ない仕事はコストでしかないんですよ」

大木はそう言いきった。数字だけ見れば、完璧なコストカット案だ。だが、俺は主任として発言をする。

「設備保全部の廃止というのは無理があります」

大木は俺を見ると鼻で笑った。

「人の話聞いてました?最新のシステムを導入するんですよ。人間の当てにならない技術だの、勘だの、そういうので仕事されちゃ困るんでね。もう一度言いますね。AI入れるから首。分かりましたか?」

そう言って馬鹿にする。周りの役員は、誰一人その言葉に反対することはせず、一緒になって笑いを浮かべているだけだ。ああ、この会社は終わったな。俺はため息をつく。

「森さん、あなた午前中何もしてないですよね。モニターを見て、ぽけーっとしてるだけの仕事なんてないんですよ。何もしてない無能に給料は払えないってことです」

言葉こそ丁寧だが、完全に俺を馬鹿にしている。俺は「起きたことじゃなく、起きなかったことを数えないと、この工場は止まります」と告げたが、案の定、大木は笑い飛ばす。

「起きなかったことを数える?随分と効率が悪いですね。あなたには、我々にはない能力がないようだ」

これ以上何を言っても無駄だ。だが、部下は守らないといけない。

「わかりました。私は首で構いません。ただ、他の部下のことはきちんと考えてください」

そう言うと、では部署移動を検討しましょうと答えたので、俺は少し安心する。だが、大木はそれで済ませておけばいいものを、一言だけ余計だった。

「まあ、あなたは首ですけどね」

釘を刺すように言う。俺はもう一度ため息をつき、最後の忠告をした。

「どうなっても知りませんよ」

夜、機械が止まったあの詰所で、俺はいつも通りノートに記録をつける。書き込むのは二つ。今日やったことと、今日起きなかったことだ。さっき食堂で大木に言った言葉は、元経理部長で現常勤監査役の川端さんから受け継いだもの。川端さんは昔、ある人に教わったとしか言わなかった。

翌朝、退職までの残された時間を、俺はいつも通り歩いて回る。他の誰にも聞こえていない、わずかな機械の悲鳴を神経を尖らせて感じ取るのだ。そこへ声をかけてきたのは、俺の一番弟子とも言える三沢。

「森さん、俺たちこれからどうなるんですかね?」

不安そうな顔で聞いてくる。とはいえ、首になったのは俺だけで、部下たちは他の部署に移動できるのだ。

「三沢、今までありがとうな。他の部署でも頑張れよ」

そう声をかけ、三沢の肩を叩く。俺は巡回を続けた。正面玄関に掲げられた社是を見上げる。予防は最大の生産なり。大木を始め、誰も読んでいない文字だ。

そんな大木は、俺の手にあるノートを見て嘲笑う。

「日記ですか?無能なりに最後の思い出作りですかね」

これのどこが日記に見えるのか。引き継ぎ期間は大木の一存で、わずか一週間に縮められた。三年分のノウハウをたった一週間で渡せという無茶ぶりに、黙って対応している俺を見ても、大木は何も感じないらしい。ノートに書いてあるのは、あくまでいつ、どこを、どう触ったかという記録でしかない。だが、本当に伝えなければならないのは、あの一瞬の音の違い。指先に伝わる微妙な振動の変化だ。それは隣に三沢を立たせて、一緒に機械の前に立ち、同じ音を同じだけの回数聞かせてやらなければ身につかないものだった。三年間かけて俺の耳と指が覚えたことを、たった一週間の文書で引き継げるはずがない。

なんとか引き継ぎをしている最中に、ちょうど創業者の命日が来た。後輩の三沢が「森さん、奥様が見えましたよ」と知らせてくれた。奥様というのは俺の妻ではなく、創業者のご夫人のことだ。創業者の命日には機械を止めて挨拶する習慣があるのだ。俺は作業の手を止め、機械を一度停止させて、深く頭を下げる。川端さんに教えられて以来、ずっと続けてきた習慣だ。

ご夫人は俺の前まで歩み寄ると、静かに口を開いた。

「設備保全部がなくなるそうですね。主人の言葉を守ってくださる方が、もういなくなるのですね」

俺は何も言えなかった。

「今年で最後にします」

そう告げると、静かに会釈を返して去っていった。

俺は三年分の記録を全てひっくり返し、資料にまとめた。未然に防いだ結果、発生しなかった損害は十二億円。根拠も明記した。ラインが停止した時に発生する損失に基づいた、正確な数字だ。一番上にはあの言葉を書いた。大木はこれを読みはしないだろう。だが、記録さえ残しておけば、いつか誰かが読む。そう思って、俺はそれを大木のデスクへ持っていく。だが、目も通さずに丸めてゴミ箱に投げ捨てたのだ。

「三年も何も事故がなかったなら、そもそもいらない部署でしたね」

俺に向かって放たれるのは、そんな嫌味な言葉だけだった。俺は無言で席に戻り、全く同じ内容を、規定通りの業務引き継ぎ報告書として提出し、総務で受領印をもらう。これで記録は必ず会社のどこかに残る。

そして迎えた最終出社日。三沢が辞令を持ってやってきた。今月の移動・退職欄に俺の名前が載っていない。

「これ、自己都合扱いにされてます。俺たちをかばってくれたのに」

怒りで声を震わせている。

「いいんだ、三沢。お前は新しい部署で頑張れよ」

そう声をかけ、総務での退職手続きを終えた。

「持ち株会の株はどうされますか?」

「そのままで」

それだけの会話を交わし、俺は三十五年通った工場を後にする。退職後、自宅に離職票が届く。離職理由はやはり自己都合退職になっていた。部署が廃止されたのだから会社都合のはずで、退職金も全く違う。記載金額は大きなものだった。三十五年間、無断欠勤一つせず、この工場のラインを一度も止めなかった。その結果がこれか。込み上げる怒りを、俺は声にはしなかった。声を荒げたところで、あの男には届かない。ただ静かに、その紙を折りたたんだ。

退職から二ヶ月。株主である俺の家に、四半期報告が届く。数字しか書いていないが、俺には分かる。数字の歪みの向こうで、どの設備のベアリングが焼きつこうとしているのかが。妻は何も聞かず、ただ茶を入れてくれた。

退職から三ヶ月が経った頃、俺のスマホが鳴った。画面には、移動先でAI予知保全システムの窓口を押し付けられている三沢の名前が表示されている。

「森さん、突然すみません。一つだけ教えていただけないでしょうか?」

愚痴すら言わなかった三沢の声が、痛々しいほど切迫していた。

「AKの三番ライン。前はどのくらいの感覚でベアリングを見ていましたか?AIは正常って表示してるのに、現場からは微小な振動と異音が止まらないって悲鳴が上がっているんです」

AKの三番ライン。こいつは少し厄介なやつで、表から見れば正常なのである。俺はいつもこいつの小さな悲鳴を聞き分け、調整をしていた。たった十五分の作業が、こいつには重要なのだ。

「三沢、AIってのはな、正常な振動データの周波数解析結果を教師データとして学習して、そこから外れた異常を検知する仕組みなんだ。だが、うちのラインは三年間、一度も異常な故障データが出ていない。つまり、AIにとっては異常を判定するための教師データそのものが存在しないんだよ。どんなに微小な振動が出ていても、AIの中ではまだ正常の範囲内としか処理できない。異常数値が出る前に、手で触って音を聞かないと、そのラインは近いうちに壊れるぞ」

三沢は困った声ながらも「やっぱりそうですよね。ありがとうございます」と言って電話を切る。

退職から四ヶ月目。三沢が真っ青な顔で、俺の自宅近くの喫茶店に駆け込んできた。

「森さん、大変なことになりました」

三沢の話によると、ラインの微停止が多発。焦った大木が、AIベンダーの若手技術者を「なぜ予知保全できないのか」と問い詰めたらしい。その回答は「学習させるための過去の故障データがデータベースに一件も存在しない。これでは予測モデルが作れない」だったそうです。そりゃそうだ。AIは実際に起きた故障しか学習できない。俺が三年間、一度も機械を止めずに完璧な予防保全を行い続けたせいで、AIに食わせる故障データが存在しなかったのだ。

「大木部長はデータを出さない前任者が悪いって、あちこちで言い散らかしてたんで、思わず森さんは完璧な仕事をしていました、って逆らっちゃいました」

三沢はそう言って力なく笑う。それ以来、三沢には人の少ない夜勤ばかりが割り振られ、評価面談の日程も理由なく何度も延期されているという。おそらく大木に逆らったことで、三沢もいじめられるようになったのだろう。

俺は静かにコーヒーカップを置いた。

「起きなかったことの記録なら、俺が退職の時に提出した引き継ぎ報告書だ。本社の文書保管庫にあると思う」

「わかりました。探してみます」

三沢は目を見開き、店を飛び出していった。

数日後、三沢は文書保管庫の奥からあの報告書を掘り出し、大木のデスクへ直接持っていった。連日のライン停止で現場が限界を迎えていたため、当然の判断だ。だが、という男のプライドは、どこまでも愚かだった。大木は表紙のタイトルを一瞥するなり、「あの無能の妄想作だ、役にも立たん」と言い捨て、報告書を引き出しの奥へ押し込んだという。そして取締役会には「初期トラブルにつき原因調査中」と嘘の報告を行い、自身の失敗を隠蔽するために独断でベンダーへ追加発注をかけ、無謀な再稼働を進めさせた。自分の成功事例と執行役員への出世道を、まだ守れると過信していたのだ。

退職から五ヶ月目。騙し騙し動かしていた設備が、ついに決定的な大クラッシュを起こした。AK系のメインラインでベアリングが完全に焼きつき、歯車受けが破断。連鎖的に隣接する三つのラインが巻き込まれ、工場は完全停止した。予備部品のストックもなく、復旧は絶望的。その煽りを受けたのは、納品先である大手自動車メーカーだった。自動車メーカーの組み立てラインがストップし、納期遅延の違約金が発生。会社は通期業績の大幅な下方修正を発表し、株価は暴落した。そして、俺の自宅に臨時株主総会招集通知が届く。株主たちの怒りの申し立てによって開かれる緊急総会のお知らせだった。

退職から半年。俺は一人の株主として、総会場の末席に座っていた。前方の事務局には、顔を強張らせた大木が座っている。今回の失敗の説明責任者として、そこに座らされているのだ。大木は後ろを振り返らない。俺がこの場にいることなど、知るよしもなかった。

会場内は怒号と罵声が飛び交う紛糾した状況だった。

「どうしてこんな大赤字を出したんだ?説明しろ、経営陣!」

議長が汗だくでなだめようとする中、壇上の横から一人の人物が静かにマイクの前に立った。元経理部長で現常勤監査役の川端さんだ。

「株主の皆様、今回の大障害及び損害につきまして、監査役として調査結果を報告いたします」

川端さんが掲げたのは、あの日大木がゴミ箱に投げ捨てた俺の業務引き継ぎ報告書だった。

「本報告書は、半年前まで設備保全部の主任を務めていた森氏が作成したものです。そこには、森氏が予防保全によって未然に防いだ損害額として十二億円と記載されています」

会場の株主から失笑と罵声が飛ぶ。

「十二億?なんだそのたらればの数字は。字が自慢の作文じゃないか」

大木もまた、事務局で背を向けて笑うように肩を揺らしていた。川端さんの凛とした声が響く。

「続いて、この半年間に当社が実際に被った損失額を発表します。設備の破損修繕費、ライン停止による売上消失、そして納品先への損害賠償及び違約金、合わせて百八十億円です」

一瞬で会場が静まり返った。あまりにも途方もない金額の損失だからだ。川端さんが静かに続けた。

「算定根拠は、当社の停止損失単価と納品先との保証契約に基づいています。森氏の算定は、自社の停止損失のみを計算したものであり、納品先への賠償金を含めていませんでした。森氏の十二億円という見積もりは、むしろ極めて控えめな数字だったのです」

そこで、株主の一人が身を乗り出して叫ぶ。

「監査役は!取締役会で誰も止めなかったのか!」

川端さんは答えた。

「先の取締役会において、保全部の廃止に唯一反対し、意義を唱えた記録が残っております。反対したのは私一人でした」

そうだったのか。俺はずっと、川端さんに裏切られた気持ちでいたのだが、川端さんは取締役会でただ一人、俺たちの部署を守ろうと戦ってくれていたのだ。一度もそんな素振りを見せなかったのに。

川端さんが報告書の一行目を静かに朗読した。

「起きたことを数えるな。起きなかったことを数えろ。これは我が社の創業者の言葉です。私はかつて創業者ご本人から直接賜わりました。毎年創業者の命日にお越しになるご遺族へ、作業を止めて経緯を表していたのは、社内において森氏ただ一人でした」

俺ははっと息を飲んだ。議長が蒼白な顔で訪ねる。

「森氏は、本日ご出席されておられますか?」

俺は最前列からゆっくりと立ち上がり、右手を上げた。

「ここにいます」

大木が弾かれたように振り返った。俺と目が合うと、大木の顔は一瞬で血の気が引いていく色へと変わっていく。

「俺は三年間、何も起きませんでした。それが私の仕事の結果です。八千万円を削るために、百八十億円を払いましたね」

会場の怒号は全て大木へと向けられた。大木はガタガタと膝を震わせながらも、なおも言い訳を絞り出す。

「な、何を根拠に。そもそも私は正規の手続きに従っただけだ。コンサルとして最善の判断をしたまでで、責任は現場の報告不足にある!」

だが、その言葉は川端さんに冷たく遮られた。

「その報告書は二度、あなたの手に渡っています。一度目は提出時。二度目は先日、三沢氏が保管庫から届けた時です。二度とも、読まずに放置したのはあなた自身だ。報告不足ではなく、確認不足。責任の所在は明白です」

会場から大きな歓声と怒号が巻き起こった。

さらに川端さんが続ける。

「当社は大木部長に対し、善管注意義務違反として損害賠償請求を行う方針です。合わせて、自己都合とされていた森氏の退職理由を会社都合に訂正し、差額の割増退職金を本日支給いたします」

壇上の社長がマイクの前に進み出て、深々と頭を下げた。

「株主の皆様、誠に申し訳ございませんでした。本日をもって、大木経営企画部長を解任いたします。AI予知保全計画を全面撤回し、設備保全部を再設置いたします」

全株主の視線が集中する中、大木はその場に崩れ落ちるように、深く頭を下げ続けた。俺に「首」と言い放った時の大木を見つめる。一切の感情を交えず、ただ静かにその哀れな姿を見つめた。

その後、俺は再設置された設備保全部の技術顧問として、再び工場に通っている。詰所のデスクにあるノートには、今も二つの欄が存在する。先日、創業者のご夫人から一通の手紙が届いた。

「設備保全部が戻ったと伺いました。来年の明日は、また工場に伺わせていただきます」

たった数行の手紙だったが、俺には十分だった。三沢がコーヒーを二つ持って、俺の横に並んだ。

「森さん、そのノート、やっぱり書き続けるんですね」

俺はペンを置き、静かに笑った。

「ああ。昔、ある人に教わったんだ」

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